楽園不在

阿波野治

第1話

 校舎の中は迷宮と化していた。

 まず、面積が何十倍にも拡大されている。高さ、幅、奥行き、そのすべてが。それに伴って必然に、廊下は長くなり、教室や階段の数は増えた。

 次に、廊下に分かれ道と行き止まりがやけに多い。一言でいえば、内部構造が複雑化している。迷宮という表現を使った理由はそれだ。

 第三に、体育館の半分くらいの床面積がありそうなサイズのホール、飲食店のテラス席のように椅子とテーブルが並べられたスペース、天井の高さの本棚が両サイドに設置された廊下など、どこか既視感のある、それでいて学校には存在しなかった場所がいくつか出現している。

 僕が知っているS高等学校とはもはや別物だ。

 それでいて、ところどころ原型をとどめた場所、面影を残した場所などもあって、様変わりしてしまったけどS高等学校ではあるのだな、と分かる。

 そのS高等学校の、僕が所属するクラスが入っているはずの校舎の中を、さ迷い歩きはじめてどれくらいの時間が経ったのだろう。

 肉体的な疲れはない。でも正直、精神的にはかなりしんどい。

 僕は今日、これから行われる授業に出席できないと、留年してしまう。

 だから、なにがなんでも教室に行かなければいけない。それなのに、教室がどこにもない。見つけられない。ゆえの、しんどさ。

 十回、校舎を一階から最上階まで見て回った。

 百回、行き止まりに突き当たって引き返した。

 千回、通りかかった教室の中を覗き込み、自分の教室かどうかを確認した。

 それでもまだ、目的地にたどり着けない。

 何度足を緩め、立ち止まり、ため息をついたか分からない。自分を突き動かす原動力は使命感、あるいは危機感と呼ぶべきものだと考えていたけど、実は惰性なんじゃないかという気がしてきた。

 長い直線廊下を抜け、吹き抜けになった広間に入る。空間内には僕と同じ制服を着た男女がたくさんいて、大小のグループを作って立ち話をしている。僕が通ってきた道の他に、九つの別の道への入口が等間隔を置いて壁に穿たれている。

 僕の教室がどこにあるか、彼らに訊いてみようか?

 何度もそう考えた。でも本心では、実行に移すつもりなどさらさらない。どうせ誰も知らないと思ったからだ。みながみなグループを作っているから、話しかけづらいというのもあるけど、それが一番の要因ではなくて。

 けっきょく、誰にも話しかけないまま、歩いてきた廊下の延長線上にある廊下に入っていく。

 僕はさっきの広間をすでに七・八回は横切っている。あれだけの人がいるんだから、僕を何度も見かけることに気がついている生徒も何人かいるはずだ。

 なにか困っていることがあるんじゃないかと考えて、話しかけてくる人が一人。そうしたら、悩みを打ち明けるハードルもぐっと下がるんだけど。

 そうもどかしく思う一方で、仕方がないことだと諦めてもいる。

 校舎の中が複雑極まりなくなったように、他の学生も僕に無関心になってしまったんだ、と。

 ようするに、自力で見つけ出すしかない。

『お前はどうして、駄目元で尋ねてみないんだ?』

 もう一人の自分がそう疑問を呈してくる。その理由を、僕はすでに悟っている。

 本当は、教室になんて行きたくないからだ。

 あと一回でも授業に出席しなかったら、留年。それはつまり、他の生徒と比べて、圧倒的に出席日数が少ないことを意味している。

 僕は学校にはほとんど行っていない。

 嫌だからだ。クラスメイトも、授業も、教師も、学校という場それ自体も、なにもかもが。

 だから、教室には行きたくない。たとえ、行かなければ留年する瀬戸際に追い込まれているのだとしても。

 ……でも。

 でも、留年してしまえば、一年余分に高校生をやらなければいけなくなる。

 なぜかは分からないけど、退学という選択肢は用意されていないらしいのだ。

 だからといって、留年しないように学校に行き続けるのは苦行に等しい。

 まだ高校一年生。少なくとも、丸二年以上。学校に行くのが死ぬほど苦痛に感じている人間にとって、二年という歳月は永遠も同然だ。永遠の拷問に耐えられる人間なんて、いるはずがない。少なくとも、僕には絶対に無理だ。

 まさに進退両難。進むことも退くこともできなくて、浮遊霊のように校舎内と延々とさ迷い歩いている。

「……誰か」

 誰か、僕を救ってくれ。

 自ら命を絶つ、以外のとっておきの方法があるなら、それをぜひ僕に教えてくれ。

 苦しみながら歩き続けろだなんて、死ぬまで苦しみ続けろだなんて、僕は、僕は、僕は――。


 汗びっしょりで目を覚ました。

 弾かれたように掛け布団を蹴飛ばして上体を起こし、見開いた目で虚空を睨みながら荒い呼吸をくり返す――そんなマンガ的なリアクションじゃない。仰向けに寝そべったまま目を覚まし、悪夢の余韻に鼓動を高鳴らせながら、ただただぐったりしている。人間は眠っているだけでカロリーを消費するそうだけど、夢を見た場合は割増で消費するものなのかもしれない。

 ……悪夢を見た。

 十代のころからよく見ている、悪夢中の悪夢を。

 眠気はまったくないけど、とても起床する気分じゃない。枕元のスマホを確認すると、早朝五時を回ったばかりという中途半端な時間帯。

 悪夢を見た理由が分かった。

 今日は水曜日、すなわち末永祐之介が家に来る日だ。

「終わらない悪夢、か。……なるほどね」

 笑みがこぼれる。ただし、苦々しい気持ちでこぼした笑みだ。鏡を見れば、疲れたような、諦めたような、人をどことなくいらつかせる陰気な笑顔が見返してくるに違いない。

 六時までは横になっていることに決め、寝返りを打つ。ニートだから時間は、時間だけはあり余っている。長い、長い、なにもすることがない時間。

 手を伸ばせば指先が届く床には本が落ちている。でも、読む気にはなれない。ルイス・キャロルの『ふしぎな国のアリス』もモーリス・メーテルリンクの『青い鳥』も。二冊とも、この戸建ての賃貸に越してくるさいに実家から持ってきたものだ。

 荷物は極力少なくしたかった。マンガならアプリで読めるから、持っていくなら小説。二冊とも児童向けの読み物になったのは、面白さと読みやすさ、二つの意味でくり返し読んでも飽きないと考えたからだったのだけど、今になって思えばミスチョイスでしかない。ハッピーエンドで終わる子ども向けのファンタジー小説なんて、救いようのない環境を生きている、大人になりきれていない大人が読んでも心が苦しくなるだけだ。

 寝返りを打つと、おのずとため息が出た。


 実家で暮らしていたころはテレビをよく観た。家族が一堂に会することが多かったので、もっぱら毒にも薬にもならないホームドラマやバラエティ番組を。

 テレビドラマで描かれる家族は、よく一家揃ってテレビを観ていた。古びているがよく磨かれた卓袱台と、小さいが明るい豆電球と、質素だが皿数の多い和食中心の献立がつきものだった。

 それらの品々を見るたびに、僕は自動的に「家庭」を連想する。温かくて笑い声が絶えない、絵に描いたような幸せな家庭を。

 だから、卓袱台を挟んで敵と向かい合うという状況は、何度経験しても違和感が拭えない。

「体がだるい日が続いて、まだ咳も出るんです」

 僕は口元を掌で覆って二度三度と咳払いをした。緊張のせいで口腔が乾燥していたので、演技としてはそう不自然ではなかったはずだけど、それでも冷や汗が止まらない。今回に限らず、この男の面前で小細工を弄するたびにその症状に見舞われる。

「主治医から言われていることも、ここ最近はずっと同じ、『服薬を続けながら根気強く治療に取り組みましょう』で、代り映えしなくて。だから、いつも同じ報告ばかりになって心苦しいですが」

「それはよくないですね。マニュアルにのっとった場合、私がかける言葉も前回までと同じなので、不毛な堂々巡りに陥ってしまう」

 卓袱台を挟んで相対している、紺のスーツに身を包んだ二十代後半くらいの男は、七三に分けた前髪を指先で軽く整える。

 その指で、卓上の大福餅をおもむろに掴み上げると、大きくかじった。くちゃ、くちゃ、と生々しい咀嚼音を二度立てたあとは、ぴたりと唇を閉ざして口の中のものを噛む。男の口腔の中で、餅とあんこと唾液がぐちゃぐちゃになり、徐々に食道を下っていく様を僕は想像する。

 不愉快なわけじゃない。僕も食べたい、ということでもない。この男――末永祐之介が食事している姿を見ると、自動的にそんな映像が脳裏に浮かぶのだ。

 末永は咀嚼を終えると、残すところあと一口となった大福餅を、敷物代わりの透明な包装紙の上に戻し、僕を見据える。

 鋭く吊り上がった眉、切れ長の細い目。理知的で、いざというときは平然と他者を斬り捨てそうな、酷薄な雰囲気が漂う顔貌。冷ややかさと冷静さ、二重の冷気を黒目からほのかに立ち昇らせながらの凝視だ。

 持参した和菓子を頬張るという、訪問時のふてぶてしいお約束。それとは好対照な、冷たい雰囲気。慣れるにしたがって、前者が減退して後者が存在感を高めているものの、僕は初顔合わせからずっとその二つに圧倒されている。

「それでは困りますよ、醍醐さん。風邪かなにか知りませんが、日常生活を支障なくこなせている人間に、本来拒む権利はありません。通達に従って『飛行場』まで行っていただかないと」

 淡々としていて平板な、機械音声に申し訳程度の人間味を加えてみましたというような声音、ならびにしゃべり方。決して乱暴な言葉づかいはしない男だけど、一言かけられるごとに心身がかたく縮こまる。息苦しいような圧迫感から逃れられない。

『改善課』職員である末永祐との付き合いは、かれこれ半年になろうとしているけど、僕はいまだに気後れせずに彼の顔を直視できない。偶然視線が重なったときは、しゃべっているにもかかわらず口をつぐんでしまうこともある。

 この生き地獄から早く解放されたい。

 なんとかして嘘をつき通さないと。

 二つの痛切な思いが胸中でひしめき合って、気が休まる時間が一瞬たりとも巡ってこない。

「こなせているけど、無理なんです。屁理屈に聞こえるかもしれないけど、無理した結果の『日常生活を支障なくこなせている』なので、それ以上のことを要求されるのは、ちょっと……」

「私には、醍醐さんに病気を治したい意志があるようには思えませんけどね。『飛行場』行きを拒絶する大義名分として通院を続けているのではないかという疑いが、どうしても消せないんですよ」

「病気が自分の思いどおりになるんだったら、病気になった瞬間に治れと命じていますよ。自分ではコントロールできないからこそ、病気なんです。疑われても仕方がないと僕自身も思っています。でも事実として、現実として、とてもではないけど『飛行場』になんかに行ける体調・体力ではないんです。信じてくださいよ」

「私としてもそうしたい気持ちはありますが、醍醐さん。くり返しお伝えしていることですが、私たちが定めた基準と照らし合わせると、そもそも醍醐さんの現状は『飛行場』行きを免除するに値しないんです。それにもかかわらず免除してほしいという要求は、ルール違反を見逃してほしいと言っているも同然なわけですから、私としては引き下がることはできません」

「でも、無理なものは無理です。ルールではそうなっているのかもしれないけど、無理なものは仕方ないでしょう。他人であるあなたにはそうは見えないかもしれないけど――」

 いつものように、意見のぶつかり合いは不毛な言葉の応酬に発展した。

 末永は僕の意見を遮るような真似はしない。逆に僕が口を挟んできた場合もそれを許す。口数は必然に僕のほうが多くなるので、こちらが有利に話し合いを進めているように感じることもあるけど、しょせんは錯覚。とにかく防壁を破壊されないように、後先考えずに手数を打って敵の進軍を阻んでいるだけで、こちらが敵陣に攻め込んでいるわけではない。

「十八歳から三十四歳までの成人男性は、政府から召集の通達が送致された場合、速やかに『飛行場』に行かなければならない」

 そのルールを、僕は明確に違反している。

 だからこそ、末永は僕を執拗に説得する。

 だからといって、馬鹿正直に通達に従いたくない。

 だからこそ、僕は末永と週に一回、毎回半時間きっかり、僕の自宅の居間で言葉を戦わせている。

 末永相手にしゃべっていると、なにもかも見透かされている気がする。

 僕が仮病を使っていることなんて、とっくの昔に見抜いているに違いない。

 膝を屈するのは時間の問題だ。苦しい思いをして、綱渡りのような紙一重の瞬間を重ねて、その瞬間が訪れるのを粘り強く先延ばしにしているから、まだその時が訪れていないだけで。

 そんな絶望を、ここ最近ずっと、末永と膝を突き合わせるたびに味わわされている。

「そろそろ時間なので、今日のところは引き上げます」

 自身の左腕の腕時計の文字盤を一瞥し、大福餅を口に運びながらの末永の発言だ。

 彼が担当している『飛行場』忌避者は僕一人じゃない。だから、一定の時間が過ぎ去れば辞去する。僕にとってささやかな慰めではあるけど、救いと呼べるかと問われれば首をかしげざるを得ない。

 末永はどこかもったいぶるように咀嚼し、口腔が空になってから語を継いだ。

「今日も前回までと同じようなやりとりのくり返しになってしまいましたが、次回こそは、私の想いが醍醐さんに届けば幸いです」

 言葉を切り、食い入るように見つめてくる。

 僕は恐怖と紙一重の圧力を感じながらも、眼差しを真正面から受け止める。そして、逸らさない。せめてもの意地というやつだ。

 僕の反抗に、末永は気圧されるどころか、逆にある種の満足感を覚えたらしく、小さく一つうなずいて穏やかに起立する。そして、冷ややかな無表情で僕を見下ろす。

「嘘はいずれ綻びが生じます。『飛行場』に行っても命に別状はないのだから、早く楽になったほうがいいと私は思いますけどね」

 僕は言い返せなかった。それどころか、心の中で負け惜しみを吐くことさえも。


 この国の十八歳から三十四歳までの成人男性は、政府から召集の通達が送付された場合、速やかに『飛行場』に行かなければならない。

 政府の公式な発表によると、僕みたいな心身ともに健全で、なおかつ「国家に多大なる貢献をする仕事」に就いていない人間は、優先的に召集されるという。

 情報統制が行われていて国民の目や耳に入らないだけで、日本は現在極秘裏に他国と戦争を行っていて、「兵士になるための訓練場に行く」の隠語が「『飛行場』へ行く」なのではないか――そう多くの国民は噂している。

 物価高騰と、その支援策としての配給の開始は、戦争の影響に他ならないのではないか、と考えている人間も少なくない。

『飛行場』について、僕たち一般市民が把握している絶対確実な情報は皆無に等しい。日本のような民主主義国家には本来あるまじきことなのだけど、政府から召集関連の決定事項が一方的に発表され、実際に何回か召集が実施されたものの、詳しい説明はいっさいないままだ。

 ネット上には『飛行場』関連のさまざまな情報であふれ返っているけど、右を見れば悪意たっぷりのデマ、左を見れば無責任で荒唐無稽な妄想といった感じで、混沌極まる様相を呈している。

 真実を隠蔽する目的で政府が意図的に偽情報を流し、混乱状態を生み出したとも噂されている。僕も召集を食らってから慌てて情報収集をしたけど、真実を救い出すことなんて不可能だと秒で悟って諦めた。

 軍事関係施設説が有力視されている根拠は、さまざまある。配給制度が太平洋戦争時を連想させるとか、中東情勢の緊迫化や米中関係の急激な悪化とか、戦争への参加も可能と解釈できるように憲法が改正されたとか。政治や経済にうとい僕には判断できない部分もあるけど、それぞれの意見はもっともらしいとは思う。

 もっとも重要な根拠の一つとされているのが、召集された人間が戻ってきていないこと。最初の召集が、たしか今から二年近く前だったはずだけど、誰一人として「復員」していないのはまぎれもない事実だ。家族のもとに、本人自筆とされる手紙は不定期に届いているそうだけど、文体はぎこちなく、当たり障りのない記述に終始していて、別人が書いたのではないかと強く疑われているらしい。

 真実は誰も知らない。もしかすると、日本国政府だって把握していないかもしれない。

 日本は戦争に参加していて、日本国籍を持つ若い成人男性は兵士としての訓練を受けるために、選ばれた者から順に『飛行場』に召集されている――それが僕を含む多くの国民の共通認識となっている。突き詰めて考えれば、疑問点や矛盾点も数多く出てくるのだけど、それが真実にもっとも近い解釈なのではないか、と言われている。

 一部の酔狂な人間を除く大多数の国民と同じく、僕は戦争に参加したくない。兵士として戦地に赴くなんて、もってのほか。殺すのも、殺されるのも嫌だ。

 日本は恒久的に不戦を誓った国なのだから、戦争をするのはおかしい。だからこれは、卑怯な逃げじゃない。正義の逃走だ。

 でも、ルールはルールだから、それを破っている罪悪感はある。

 そして、気がついてもいる。

 僕はある意味、戦地に派兵されて殺し殺されることと同じくらい、恐れている。

 軍隊、スパルタ、弱肉強食、精神論根性論、体育会系、上下関係、いじめ――。

 ひとたび召集されたが最後、そんな生活を、もしかしたら死ぬまで続けなければいけない、かもしれない。

 そんなのは嫌だ、怖い、逃げたい……。


 時間に律儀な人だ、という印象は子どものころからずっとある。

「一輝、来たよー」

 今日も午後五時半きっかりに姉の杏寿が訪問した。

 白のサマーセーターにデニムのスカートという出で立ち。白地にスカイブルーの水玉模様のトートバッグを肩にかけている。栗色の髪の毛は今日もポニーテールだ。

 玄関で約二十四時間ぶりに顔を合わせた瞬間、羽毛を連想させる柔和な微笑みが姉の顔に浮かんだのを見て、僕は今日あった嫌な体験をすべてきれいに忘れた。

 うちに来た姉が真っ先に着手する作業は、僕のために買ってきた商品を冷蔵庫にしまうこと。それに続いて、台所の隅での着替え。

 僕は居間の畳の上にあぐらをかいてその様子を見守る。「恥ずかしいから、あまりじろじろ見ないでよね」とは言われているけど、本当に見られるのが嫌なら、扉に鍵をかけられる脱衣所の中でするはずだ。つまり、見られてもいいということなんだろう。そう自分に都合のいいように解釈して、剥き出しのみずみずしい白い肌を、服を脱いだり来たりする四肢の動きを、じっくりと観賞する。

「じゃじゃーん」

 着替え終わった姉は、居間と台所の境界線まで進み出て、少し恥ずかしそうに小さく両手を広げた。

 今日のコスチュームはスクール水着だ。サイズが小さめらしく、服の縁が肌に食い込んでいる。胸のゼッケンにサインペンで記された「醍醐」の二文字は今にも消えそうだ。

「今日は水着。暑くなってきたけどまだ着てなかったと思って、着てみることにしました。……どうかな?」

「うん、似合うよ。むちゃくちゃ似合う」

 シンプルな言葉での即答に、姉は白い歯をこぼして前髪をいじった。その手で胸をさり気なく隠し、すぐに下ろす。

「それ、もしかして、子どものころに着ていたもの?」

「そう、中学生のとき以来。さすがにきつかったけど、でも着られるサイズではあって、成長してないんだなぁって苦笑いしちゃった。……二十八でスク水は厳しいかな?」

「ううん、いいと思う。姉さん、体つきも顔も幼いところあるし」

「あー、変態。出るべきところが出てないってすぐ馬鹿にするくせに、変なところばかり見てるな」

「ち、違うよ。ゼッケンの字、十年以上もよく消えずに残っているなって思って、見てただけ」

「そう? さ、仕事、仕事っと」

 姉は表情を仕事モードへと切り替え、ぱたぱたと脱衣所まで駆けていく。洗濯物を洗うためだ。

 姉さんは僕の家で家事をこなす小一時間、わざわざ着る必要のない、男心をくすぐるようなコスチュームに身を包む。僕の家まで家事をしに来るようになって何か月か後にはじめた習慣だ。

 僕が見たいとわがままを言ったんじゃなくて、提案者は彼女。生真面目でふしだらなころを見せない姉さんが、そんなことを言い出すなんて思ってもみなくて、僕は困惑を禁じ得なかった。

 弟と置かれている状況が悲惨だから、励まそうとしてくれているのだろうか? 過去に真意を問い質したことがあったけど、

『ちょっとした気晴らしだよ。実はわたし、たまに学生時代に着ていた制服とか、大人になってから着なくなったかわいい系の私服とか、引っ張り出してきて姿見の前で一人ファッションショー、みたいなことをやっているんだ。気晴らしにはなるけど、でも一人でやるのは虚しくもあって。赤の他人の前でするのは恥ずかしいけど、弟の前ならいろんな意味で安全だし、恥ずかしさにも耐えられる。一輝だって、普段とは少し違うお姉ちゃんを見られて新鮮な気持ちになれると思うし。どうかな?』

 姉自身が望んでいるというのなら、こちらとしても異論はない。こうして家事中のコスプレは習慣化したのだった。

 洗濯機が回る音が脱衣所から聞こえてきて、スクール水着姿の杏寿が台所に戻ってきた。米をとぎ、炊飯器にセットしたあとは、炊いている時間を利用しておかず作りだ。姉は和洋中、家庭料理ならだいたいなんでも作れる。本人いわく、心がけているのは、皿数は少なくとも栄養バランスとボリュームを確保することだそうだ。

「配給日は明日だよね。食料、買ってこなくてよかった?」

 話を振るのはたいてい杏寿からだ。

「大丈夫。配給品の質はだんだん悪くなっているけど、今のところ量は減らされていないし。姉さんは明日も代行?」

「もちろん。平日はいつも朝から仕事があるから」

 配給が行われる時間は、対象者の多くが勤務中の時間帯だ。職場側がなんらかの配慮をする場合もあるけど、そうでなければ杏寿のように隣人や知人に頼るしかない。こんなご時世だから、たとえ親しいとしても、隣人に重要な役割を受け持たせるのに抵抗感を持つ人間は多いみたいだけど、姉は今のところなんのトラブルにも巻き込まれていないようだ。ひとえに彼女の善良な性格のたまものだろう。

「質が悪くなった、か。たしかに一輝の言うとおりだよね。この前入っていたバナナだって、まずくはなかったけど冴えない味だったし。わざと品質が悪いものを配給に回している可能性はあるかもね」

「あるかもっていうか、たぶんそうでしょ。すべてはお国のためだから」

「お国のため」の一言に僕は薬味程度の憎悪を込めた。幼稚な真似だなっていつも思うけど、姉さんが相手だとついやってしまう。

「別に擁護するわけじゃないけど、配給制度のおかげで助かっている人間も多いから。最近フルーツがちょっと高いから、配給されるもの以外食べない人もたくさんいると思うし。質をとるか味をとるか、選びがたい二択だよね」

「ところで、今日の夕飯は?」

「豚肉のしょうが焼き。使いかけのたまねぎが冷蔵庫に残っていたから、今日はそれもいっしょに炒めようかな。あまり火を通さなかったときのシャキシャキした食感、わたし好きなんだよね」

 杏寿は僕が『飛行場』行きを拒み続けていることをもちろん知っている。そして、それが僕の目下のところ最大の悩みだということも。

 だから、自分からは決してその話題は口にしない。試したことはないけど、僕から話を振ったとしてもはぐらかすと思う。

 弟の心情を汲んで、余計なことは言わずに必要な作業だけをこなす。僕は姉のそんなところが好きだし、ありがたいとも思う。母親面をしてお節介を焼き、僕がいくら不快感を示したとしても「一輝のため」と称して説教をしてくるような人間じゃなくて、本当によかった。

 肩肘張らない無駄話をしているうちに、食欲をそそる甘辛いタレのにおいが漂ってきた。

 普通なら気持ちが盛り上がるところなんだろうけど、僕の心はさびしくなる。どうしても、終わりを意識してしまうから。

 調理がすめば姉の仕事もあと少しだ。皿に盛りつけて配膳する。洗濯物を干す。明日の食事のリクエストがあればそれをメモして、僕の家を辞す。

 夕食をいっしょに食べることもあるけど、一か月に一度あるかないか。杏寿には杏寿の人生があり、生活があるからだ。

 そう、生活が。

 姉さんは忙しい。家の用事をしなくちゃいけない。用事がないのだとしても、早く家に帰って人心地つきたいだろう。僕にそれを邪魔する権利はないし、文句をつける資格もない。

 わざわざ家に来てくれて、半分は自分のためとはいえコスプレで僕の目を楽しませてくれて、さらには家事までしてくれる。しかも、週に六回も。

 それで充分だ。

 充分すぎるんだけど――でも、やっぱりさびしい。

「じゃあ、お姉ちゃんは帰るね。冷めないうちに食べるんだよ。物騒だから戸締りはしっかりね」

 着替えをすませた姉を玄関まで見送り、僕たちは別れる。

 玄関ドアを閉めると、おのずとため息が出る。

「……姉さん、やっぱり、仕方なしにやっているんだろうなぁ。食事を作ったらすぐに帰るって、そういうことだよな、きっと。だって、いっしょに食べたほうが絶対に手間かからないもんなぁ……」

 ぶつぶつとつぶやきながら食卓につき、箸を手にする。

 しょうが焼きはもちろんおいしかったし、ボリュームたっぷりの献立は空腹を解消してくれたけど、気分は快晴とは言いがたかった。


 鉄と油のにおいが淡く充満している。

 前後左右を軍服姿の屈強な男に囲まれて、僕は有無を言わさずに建物の中を歩かされている。

 音の響き方から推察したかぎり、縦横奥行き、いずれも広い空間らしい。黎明のような薄暗さの中、機械の数々が通路の左右に置かれているのがうっすらと見える。ベルトコンベア、プレス機、回転式の巨大な刃。どれもこれも禍々しい風体で、現在地がどこかも、この場所に連れてこられた理由も呑み込めていない僕の不安と恐怖心をこれでもかと煽る。

 僕の不利益になるようなことをさせられようとしているのだと、本能的に理解している。もちろん、できるなら今すぐにでも逃げたい。だから隙をうかがっているのだけど、四人の男たちが壁になっていて、体を包囲網の外に出せるだけの隙間がない。運よくなにかの弾みで綻びが生じ、それに乗じて逃げ出したとしても、たちまち捕えられてしまうだろう。

 彼らに従うしか選択肢はないのだ。そして、連行されるのが絞首台や断頭台ではないことを祈るしかない。

 客観視すればするほど過酷な状況だ。脚が震えないのは、発汗が平常の範囲内にとどまっているのは、死刑宣告されたうえでの連行ではないからだろう。ただ、当然、刑場に到着してからの宣告もあり得る。表向きは平常心を保てている真の理由は、逃げ出すチャンスが到来したときのために、肉体的な不調を極力抑え込んでおきたいからなのかもしれない。

 ひときわ高く靴音が鳴り、一行の歩みが止まる。

 先頭の男が僕の前から退いたことで、前方に巨大ななにかがうずくまっているのが見えた。暗がりになかば溶け込んでいて、姿もサイズも把握しきれないけど、とにかく大きな物体だということだけは理解できる。

 突然、照明が灯った。

 急激な明るさの前に目がくらみ、五秒足らずで適応する。

 飛行機だ。ボディ全体が艶やかに黒い、飛行機。

 僕は飛行機全般に関する知識は皆無だけど、戦闘機と呼びたくなる。機体は無駄がそぎ落とされていて細身で、さらには獰猛さも感じられ、さながら猛禽類だ。子どものころに「乗り物図鑑」で見た戦闘機にどことなく似ている。さらには、少年時代にロボットアニメで見た戦闘機に通じるものがある。素人目には、高速で飛行する能力に秀でていて、ミサイルを発射したり爆弾を投下したりする機能を有しているように見える。

「お前にはこれからこの機体に搭乗し、敵地まで飛行して任務を遂行してもらう」

 そこはかとなく人工的な、それでいて威厳ある男性の声に、僕ははっとして振り向く。さっき僕の前から退いた軍人で、壁際まで行って明かりを点けたのは彼らしい。

 ぞっとした。

 男性は照明に照らされていて、帽子やヘルメットなどを被っているわけではないのに、顔一面が黒い絵の具で塗りつぶされたみたいに真っ暗なのだ。

「搭乗って、僕が? なんの訓練もしていないのに? それに、任務って?」

「お前に拒否権はない。さっさと乗り込め」

 シャッターがゆっくりと持ち上げられるような音がした。戦闘機のコックピットに通じる、おおよそ戦闘機に乗り込むための扉らしくない引き戸が開くと同時に、幅の狭い金属製の梯子がコックピットから下りてきた音だ。

「乗り込むって、そんな――」

 腕を力強く掴まれる感触に言葉が途切れる。僕の両側に待機している軍人だ。さらには、後ろにいた一名が僕の前まで来て、両脚を脇に抱え込むようにしてがっちりと掴み、下半身を高く持ち上げた。のたうち回るようにして抗ったものの、びくともしない。戦闘機へと運ばれ、さらには梯子を上り、束縛が緩んだと思ったときには、僕はコックピット内の座席に仰向けに転がっていた。

 視線の先で、引き戸が無慈悲に閉ざされた。

 汗と焦りが噴き出した。大慌てで体勢を立て直して気がついたのは、戸の内側には引手がついていないこと。こじ開けようとしても、拳で思いきり叩いても、びくともしない。

 窓越しに外の様子を確認したけど、誰もいない。

 座席の前方からは、操作パネルとモニターが合体した金属製の板が膝元まで斜めにせり出してきていて、大量のボタンが付属し、数字が表示されている。シンプルな情報に僕の頭は混乱する。どこに注目しなにを読み取ればいいのか、なにをどんな順番で押せばいいのか、なに一つ分からない。

 出し抜けに、甲高く威圧的なブザー音が響いた。それに続いて、轟音。かすかな振動が座席ごと僕を揺さぶる。

 なにが起きたのか、パニックになりかけながらもモニターとパネルに視線を走らせたけど、異変が起きたのは機外だった。

 戦闘機の前に立ちはだかる壁が徐々に持ち上がっていき、光が射し込んでくる。なにかがなにかにはめ込まれたような音がして、壁の上昇が止まった。というよりも、壁自体が消えた。代わりに前方を満たしたのは、目もくらむばかりの青。雲一つない蒼穹。

 衝撃が冷めやらぬうちに、緑色の光が目を刺した。操作パネルにあるボタンの一つが、青信号を思わせる艶やかな緑色に光っているのだ。

 突然、重力が真正面から吹きつけ、体が背中から座席に押しつけられる。痛いくらいの、怖いくらいの圧力。

 機体が動き出した。戦闘機の両サイドの壁が動き、蒼穹が近づいてくるという視覚的な変化からそれが分かった。

 離陸しようとしているのだ。飛び立とうとしているのだ。僕を閉じ込めた、僕からの干渉をいっさい受けつけない、この狭苦しく無機質な監獄は。

 全開になった口から絶叫がほとばしり出た。それを合図に、機体は加速する。とてつもない圧力のせいでもはや声も出せない。両サイドから壁が消え、青のまばゆさに視力が失われ――。


 汗だくになって目が覚めた。

「……夢か」

 呼吸が落ち着いたあと、そんなつぶやきが唇からこぼれた。

 フィクションの世界の登場人物みたいなリアクションだな、と思った。でも、笑えなかった。

 時計を確認して、夢を見た理由が掴めた。今日は週に一度の配給日だったのだ。

 今、僕はきっと苦笑いを浮かべているのだろう。

 もともと乗り物に乗る夢はよく見ていた。乗っている船が徐々に浸水していくとか、家族で乗っている車の制御がきかなくなってぐんぐん加速するとか、そういった我が身が死の危機にさらされる類の夢を。

 ストレートに解釈するなら、僕が乗り物嫌いだからだろう。一度乗ったら、次の停留所なり駅なりに着くまで下りられない。束縛される。このことが、普段はなんともないのだけど、精神状態が不安定なときは耐えがたくなる。高校の通学にはバスを使っていたけど、それも不登校になった有力な原因の一つなんじゃないか、と僕は考えている。

 でも、若年の成人男性が『飛行場』に召集されるようになってからは、路線バスでも自家用車でもフェリーでもなく、飛行機ばかりが夢に登場するようになった。

 乗り物に対する不安と、戦地に赴く不安とが結びついて、強制的に戦闘機に乗せられて強制的に離陸させられる夢になったわけだ。

 死ぬのも怖い、見習い兵士としての集団生活も怖い、コックピットから出られないのも怖い。

 広い意味での「逃げられないこと」への恐怖。

 でも、外に出られたら出られたで、怖い。

「配給日、か」

 自意識過剰に勝手に苦しんでいるだけなら、どんなによかっただろう。


 一陣の強風が未舗装の路面を鋭く走り抜け、白い砂埃を濛々と立ち昇らせる。長蛇の列を構成する市民たちの絶え間ないおしゃべりも、このときばかりは中断を余儀なくされる。

 視界がまだうっすらと霞んでいるうちから、行列の大半の人間が口を開く。砂埃に対する愚痴から入って、以後の対応は真っ二つだ。一方は、中断していた会話を続きからはじめる。もう一方は、愚痴るという行為に刺激されて、日常生活に対する不平不満を口頭で列挙する。

「……うんざりだ」

 僕は小さく声に出してつぶやく。

「うんざりなんだよ。もう、なにもかもうんざりだ……」

 配給がはじまる午前十時からすでに半時間が経ったけど、行列はいまだに長蛇の様相を呈している。僕が並んだのは十時を過ぎてから。先頭よりも最後尾のほうが圧倒的に近い。

 配給の列にはいつも、早めに並ぶ者がたくさんいる。だから、そうとう早く並ばないかぎり待たされる。どうせ待つなら同じだと思って、僕はいつも遅めに並んでいるけど、待つのが苦痛なのは他の人たちと変わらない。

 待つのが退屈だからじゃない。並んだ人間の無駄話を聞かなければいけないのが苦痛なんだ。

「うちのお隣のサトウさん、とうとう息子さんに『飛行場』行きの通達が来たんだって。昨日の夜に」

「ああ、そうだったの。サトウさんの息子さん、もう十八を過ぎていたんだ」

 ほら、はじめた。僕のすぐ目の前に並んでいる中年女性二人組が、ぺちゃくちゃと。

「そうなの。つい先月十八になったところだって。『飛行場』行きになる年齢が引き下げられたばかりで、同級生の中に通達が来た子はいなかったから、かなりびっくりしたみたい」

「私も周りにはまだいないわね、二十歳以下で『飛行場』に行った子は。可能性もありますから覚悟だけはしておいてねってことじゃなくて、本当に通達が来るのね」

「ネットで調べてみると、実際に来ましたっていう報告はわりと見かけるけど、身近なところで現実になるとやっぱり驚きよね。家が近所なだけの私がショックを受けるくらいだから、サトウさんのショックはかなり大きかったみたいで。特に奥さんが」

「そりゃそうよ。手塩にかけて育てた息子が行っちゃうことになったんだもん。サトウさんはたしかお子さんは一人だったよね」

「そう、一人息子。奥さん、今はちょっと外に出られる精神状態じゃないみたいで――」

 どいつもこいつも、なんで『飛行場』についてばかり話すんだ。毎回毎回、飽きもせずに。僕への当てつけかよ。

『飛行場』関連の話題は、食料品の価格の高騰と並んで、配給の列に並ぶ人たちのあいだで上りやすい話題だ。

 どちらも自らや自らの家族の生活、あるいは生命の維持に直結する大問題だから、よく話されるのは当たり前。そんな単純な理屈も分からないほど僕は馬鹿じゃない。

 でも、理屈じゃないんだ。

 理屈は解していても、『飛行場』の話題を出されるたびに不快感を抱いてしまうし、ひとたび抱いてしまったが最後、その話題が幕を下ろし、ほとぼりが冷めるまで、心はずっと不愉快なまま。

 毎日毎日、執拗に当てつけるような真似をして、そんなに僕が憎いのかよ? そんなに僕が悪いのかよ?

 いや、悪くない。

 悪いのは国だ。政府だ。

 なぜ、人を殺すための訓練を受けなければいけないんだ? なぜ、人に殺されるために訓練を受けなければいけないんだ?

 相手が近所の人間だろうが外国の兵士だろうが、人殺しは日本の刑法や国際法に明記された罪。その罪を犯さないため、犯させないための拒絶なのだから、『飛行場』行きを拒んでも犯罪には該当しない。

 それなのに、なんで犯罪者を見るような目で見られなければいけないんだ? 陰口を叩かれなければいけないんだ?

 ふと気がつくと、前に並んでいるのは中年女性二人組の片割れだけになっていた。

「次の方」

 年齢不詳の男性の声が告げ、中年女性が目の前から退く。僕は一歩前に進み出て、初老の男性係員に、ポケットから取り出した紙製の配給券を渡す。係員が引き換えに差し出したのは、ぱんぱんに膨らんだカフェオレ色の紙袋。

『成人男性の義務も果たさないくせに、配給品だけはしっかりと受け取るのか。この非国民め。さっさと戦地まで行って、敵兵に撃ち殺されてしまえ。まあ逃げ回るしか能がないお前のことだから、敵国の人間からも逃げ回って、ジャングルの奥地で野垂れ死ぬ確率のほうが高いだろうけどな』

 そんな声が聞こえてこないように、係員とは目を合わせないように心がける。その男性は、その僕の態度なんて気にもとめていない声で「次の方」と言う。

 両腕に配給品の質量と重みを感じながら、僕はほっとした気持ちだった。これで一週間は外に出なくてすむ。

 でも、気が緩みすぎてしまったせいで、石につまずいてしまった。

 咄嗟に踏み止まったものの、紙袋は腕から抜け落ちて地面へ。落下の衝撃で口をとめていたテープが破れ、中身が四散した。シーチキンの缶詰は落下地点から微動だにせず、調理油のペットボトルは横倒しになって琥珀色の中身をとくとくと吐き出し、カラフルなフルーツたちは緩やかな回転で僕から遠ざかっていく。

 穴があったら入りたいとはこのことだろう。

 手当たり次第に拾う。しかし焦っているせいか、品目材質を問わずまともに掴めない。

 行列を作る市民たちはみな僕に注目している。黙って、表情のない顔で。

 どいつもこいつも、薄情だ。

『飛行場』行き忌避者なんて、しょせんはこんな扱いなんだ。

 袋を落としたのは、僕がルール違反を犯している人間だからじゃなくて、たまたま足元の小石に気づかなかっただけなのに。

 ああ、逃げたい、帰りたい、消え去りたい――。

 ざりっ、という、地面が靴底で軽く踏みにじられた音。

 ほのかな柑橘系の香りが鼻孔をかすめた。

 顔を上げると、目の前に一人の少女が佇んでいた。

 光が顔に当たって白く塗りつぶされたようになっていて、表情は分からない。でも僕は、少女がにこやかな表情をしているように思えてならなかった。

「これ、どうぞ」と少女の唇が動いた気がした。

 差し出されたのは、一個の夏みかん。

 紙袋の中に入っていたものが、落とした拍子にどこかへ転がっていって、少女が拾ってくれたのだと理解する。

 受け取る。

 お礼が言いたいのに、なぜだろう、声が出ない。白くなって見えない顔を食い入るようにただ見つめている僕がいる。

 少女は僕に背を向け、去っていく。

 奥はその場に膝をついたまま、遠ざかる背中を追視する。彼女の姿は砂埃にまぎれてすぐに見えなくなった。

 通行人や行列に並ぶ市民たちが、地面に膝をついたまま動かない僕に次から次へと眼差しを投げかけてくる。

 でも僕の頭の中は、少女、少女、少女、少女……。


 帰宅後、さっそく夏みかんを剥いて食べてみた。

 酸っぱくて、でも甘くて、果肉がみずみずしかった。

 ひと房ひと房、ゆっくりと味わって食べ、完食した。

 皮をごみ箱に捨て、ティッシュで口元を拭きながら思う。

 このことは、姉さんにはきっと言うまい。


「肉類プラス根菜の組み合わせの主菜、個人的に好きなんだよね。だってほら、簡単に食べ応えが出せるでしょ。肉じゃがとかの煮込み系の料理はその典型だよね。お肉のソテーなんかでも、付け合わせ次第では、ただ焼いた肉にソースをかけるだけでもかなり満足感が出せるし」

 じゃがいもの皮を剥きながら、杏寿は滔々と自説を述べる。ピーラーを使う音が小気味いい。姉は誰かと会話しながらでも、調理に対して集中力を切らさないから、作業が滞らない。

 今日姉が着ているのは、セーラー服。カレンダーがもう七月だというのに紺色の冬服なのは、手持ちのコスチュームの総数が少ないから。季節外れの服もローテーションに加えて、同じ服が登場する間隔を長くすることで、飽きにくくさせているのだ。

 セーラー服は杏寿の中学生時代の制服だ。絶対にきついと思うんだけど、体の成長は高校生で止まっているから、多少きつい程度ですんでいるらしい。

『アラサーでセーラー服は、さすがに厳しくないかな。わたし、今年で二十九だから、だいたい半分の年齢のときに着ていた服だよ? まあ、かわいくて好きだし、一輝が笑わないなら着てもいいけど……』

 着る張本人はむしろそちらを気にしていたんだけど。

「ということは、もしかして、今日は肉じゃが?」

「ううん、ソテーのほう。牛肉とじゃがいもを炒めて、オイスターソースで味つけしようかなって。肉じゃがとかカレーって、じっくり煮込んだほうが絶対においしいから。一輝って、煮込む時間が短かったとしても気にしないタイプ?」

「どっちかって言うと、煮込んだほうが好きかな」

「まあ、そうだよね。お姉ちゃん、あまり煮込まなくてもおいしい煮物のレシピ、知らなくて。今度また調べておいて、上手に作れるようになったらお披露目するね」

「うん、楽しみにしてる。他のおかずは?」

「シーザーサラダと、味はちょっと迷い中だけど、スープを作ろうかなって。どんなのがいい?」

「特に希望はないかな。味が被らなかったらなんでもいいんじゃない?」

「それは助かる。卵をどこにも使っていないから、卵スープにしようかな。ちょっとだけ長ネギが残っているから、それと合わせて」

 普段はたいてい、僕がくだらないことをしゃべりまくり、姉が聞き役に回るという役割分担だ。なにせニートだから暇を持て余している。七分の六巡ってくるたった小一時間の機会を最大限活用したいという気持ちがあるし、姉に甘えたい気持ちももちろんある。

 といっても、ほぼ家にこもっているから、話したいと思うような話題は特にない。『飛行場』行きのこととか末永の件とか、話さなければいけない話題はあるんだけど、僕自身は話したくない話題なので話さない。役人がはじめてうちまで来たときは、パニックになって姉に泣きついたけど、もうそんなこともなくなった。

 姉さんも僕の心の中をきちっと誤解なく読み解き、彼女らしい慈愛の精神にもとづいて僕に配慮してくれている。姉のそういうところがありがたいと思うし、好きだ。

 でも、今日は役割が逆。姉さんがくだらない話をして、僕がそれを聞いている。料理の話をくだらないというのは失礼だけど、無理にしなくてもいい話題ではあると思う。

 いつもどおりを姉さんのほうから壊したということは、きっとなにかあるはず。

 会話が途切れ、炒める音。メインディッシュを作っているのだろう。スープもできているようだし、サラダもたぶん準備し終わっている。つまり、姉はもうすぐすべての作業を終えて帰ってしまう。

 謎が持ち越しになったら、嫌だな。『飛行場』行き以外の問題を抱えたくないし。

 不意に炒める音がやんだ。食器が控えめに何度か鳴って、手を洗う音。きゅっと音を立てて蛇口が閉まる。

 そこで彼女の動きは止まる。

 僕は思わず姉の背中を注視した。それが引き金になったとでもいうように、彼女はポニーテールの毛先を揺らすことなくゆっくりと振り向き、

「一輝、突然ごめんだけど」

「……なに?」

 杏寿は追及されてもいないのに釈明してみせるように白い歯をこぼした。しかしすぐに口の両端を引きしめ、

「一輝の家に家事をしに来る頻度、少し減らしてもいいかな? 今は週に一日だけ休みにしているけど、週休二日か三日に増やしたくて。だってほら、掃除や洗濯は何日かに一回、まとめてやれば問題ないでしょ。料理は、作りたてのほうが絶対においしいから申し訳ないけど、作り置きのおかずを活用すれば、満足度はなんとか維持できるんじゃないかって思ってる」

 僕はフリーズした。肉体も、思考も。

 杏寿はかすかに眉をひそめて、体ごとこちらに向き直る。なにか言いたそうなそぶりを見せているけど、唇が一瞬もどかしげに動いただけだ。

「なんでそんな提案を? 意味が分からないんだけど」

 自分のものとは思えない、ぞっとするような冷たい声が出た。

「分からないのはタイミングもそうだよ。なんで急に? 昨日来たときに、あるいは今日、なにかあったとか? いや、ないよね。だって、全然そんなそぶりは見せなかったもん。それなのにどうして、もう帰るときになって、急にそんなことを言い出したの?」

「うん、ごめん。唐突だったよね。実は少し前から、そうしたいなってずっと考えていたんだけど」

 ひそめられたままの眉。ところどころつかえるような話し方。自らの提案によって弟が不利益をこうむることになると理解しているし、そのことに対してしっかりと罪悪感を抱いていると、ちゃんと伝わってくる。

 杏寿が僕に不利になるような提案をしたのは、僕の感覚ではずいぶん久しぶりのことだ。驕り高ぶった表現をあえて使うなら、飼い犬に手を噛まれた心境。発言の真意や本質といったものへの理解が深まっていくにつれて、腹が立ってきた。

 姉は黙っている。僕の言葉を待っているのか、言いたいことがあるけど言えないのか。

「食事は週に六日は必ず作るって約束だったじゃないか。それなのに急にそんなこと言われても、困るんだけど。ていうか、むかつく」

 うじうじした態度が癪に障って、僕は語気を荒らげた。

「僕が事前に知らされないのに一方的に決められるのが嫌いなことくらい、姉さんは知っているよね。ていうか、事前に知らされてもだめだよ。無効だよ、そんな変更は。食事作りが大変なことくらい、僕にだって分かる。でも、だから毎日来なくてもいいことになっているんだし、大変かもしれないけど問題なくこなせるって姉ちゃんが言ったから、作りに来るのは週六日ってことになったんでしょ。それなのに急に『無理です、できません』って、そんなのはおかしいよ。身勝手だ」

 セーラー服姿の姉は依然として口をつぐみ、僕の言葉を耐え忍んでいる。身じろぎすらせず、まばたきすら慎んで。

 要約すれば「家事のための訪問頻度を週六日よりも減らすことには反対」という意思を伝えるためだけに、あまりにも長い時間を費やしすぎている自覚はあった。同じ趣旨の発言を、言い回しもろくに変えずにくり返しているだけだと気がついてもいた。

 それなのに、舌が止まらない。知らず知らずのうちに興奮状態に陥っている。しゃべり続けなければ負け、という歪んだ意識さえ頭の片隅にあった。

 ようやく打ち止めになったのは、口にする言葉が尽きたからじゃなくて、しゃべり続けたせいで息が切れたからだった。

「……分かった。一輝の意見が正しいと思う。お姉ちゃんが間違ってた」

 凪いだ水面に水滴を一滴そっと落とすように、杏寿が言った。罪悪感と諦めがない交ぜになった、かすかに震えているようにも聞こえる声。

「当分のあいだは、今までどおり週六日は維持するって約束する。でもわたしの都合もあるし、もしかしたら将来的に週五日とかになる可能性もある、ということは頭に入れておいて。一輝の気持ちは再確認できたし、なるべくそうはならないように努力する。でも、どうしてもっていうときもあると思うから、今後絶対に変わらないわけではない、ということだけはよろしくね」

 慎重に言葉を選びながらの姉の発言を聞きながら、僕は己を恥じた。たしかに受け入れがたい提案だった。でも、あんなにも熱くなる必要はなかったんじゃないか?

 ほどなく、フライパンでなにかを炒める音が居間まで流れてきた。においから、メインディッシュを温め直しているのだと分かった。

 そんなにも長時間、一方的にしゃべっていたのかと思うと、自己嫌悪と申し訳なさはさらに増した。

 僕は水着を着た姉の後ろ姿ではなく、自分の膝に目を落としながら、においを嗅ぎ、音を聞いていた。


 もはや日常となった一人きりでの夕食。家庭の象徴であるテレビは僕の家にはない。余分な情報に邪魔をされない環境下で、なかば機械的に箸を動かしながら、ずっと考えごとをしている。

「家事をしに来る頻度を週六日よりも減らす」という提案に抗議したあのときの自分は、必死だった。熱くなりすぎていた。リアルタイムでも薄々自覚していたけど、時間が経って完全に熱が冷めたことで、あれは恥ずべき態度だったと明確に認めた。

 それ以上に僕の注意を惹きつけたのは、「家事をしに来る頻度を週六日から減らす」理由について、杏寿がいっさい言及していないという発見。

「わたしの都合」という、におわせるような発言はあった。ただ、表現があいまいすぎてなにも語っていないに等しい。

 姉さんの身になにかあったのだろうか?

 姉の家事中のきょうだいの会話で、彼女のプライベートはよく話題に上る。滞在していられる時間が限られているのもあって、詳細に語ってくれるわけではない。とはいえ、本人にとって軽視できない出来事なりトラブルなりを体験したときは、ある程度尺を費やしてそれついて語った。

 杏寿は感情を内に秘めるのがそう得意ではない。彼女自身がなにか不幸な事態に巻き込まれた結果の提案ではなかった、と考えるのが妥当だ。

 じゃあ、なぜあんな提案を?

「……まさか」

 自分が楽をしたいからとか、身勝手な理由からじゃないよな。

 僕が抗議したのは、角度を変えれば姉ちゃんへのきょうだい愛を表明したようなものなのに、ずっと困ったような顔をしているって、よく考えたら感じ悪いな。

 いつからこのことを切り出そうと考えていたんだろう。僕たちはきょうだいなんだから、大切なことは包み隠さずにちゃんと伝えてほしいのに。

 ひとたび流れ出した黒い感情は歯止めがきかない。箸づかいは知らず知らずのうちに乱暴になる。シーザーサラダのキャベツが何本もテーブルにこぼれたけど、それを拾おうともせずに、早いペースで食器の中身を減らしていく。


 汗を滂沱と垂れ流しながら目を覚ました。

「また学校の夢、か……」

 自分が所属するクラスの教室を探して、迷宮と化した校舎内を延々とさ迷い歩くという、いつもの夢。何度も味わってきた、しかし何度味わっても慣れることのない、あの夢。

 そういえば今日は末永がうちに来る日だ。彼の訪問日に必ずその夢を見るわけではなのだけど、最近はほぼ確実に見ている。今日もまた末永と小一時間戦わなければならないし、自戒も悪夢にうなされなければならない――二重の意味で気が滅入って、目は冴えているのにベッドから出る気になれない。

 悪夢を見る根本的な理由ならとっくの昔に察している。

 学生時代に負ったトラウマのせいだ。

 僕は小学校五年生からはじまって、中学生、高校生と、クラスになじめず、クラスメイトからいじめに遭い、不登校、というルートを辿ってきた。

 生来の引っ込み思案で臆病な性格が祟って、幼いころから周囲から孤立してきた。集団の輪に入りたくても、入れなかった。悔しい体験を積み重ねるうちに性格が捻くれていき、入りたくないから入らなくなった。

 他人からすれば僕は、なんとなくからかいたくなるような、軽んじてしまうような、そんなやつだったと思う。小学五年生までいじめらしいいじめに遭わなかったのは、むしろ奇跡なのかもしれない。

 姉の杏寿という、身近なところに味方はいる。しっかり者の頼りになる人なんだけど、強硬な手段も辞さずに問題解決に邁進するタイプではない。

 そもそも僕は、いじめられていると素直に告白するのは恥ずべきことだと考えている。自分から弱みをさらけ出したくない。だから、被害を誰にも打ち明けなかった。

 同じ学校に通っていれば、言わなくても気づいたのかもしれないけど、僕と姉は三つ年齢差がある。いじめ問題に関しては、残念ながら彼女の長所や美点が活かされたとは言いがたかった。

 悪口、暴力、仲間外れ、金銭の要求。いじめという言葉からイメージされる行為はひととおり受けた。人との繋がりは求めていないから、SNSなどはやっていなかったけど、知らないところでネットいじめの被害に遭っていた可能性はある。

 学校で過ごす時間は拷問だった。

 授業中休み時間を問わず、加害者の一挙手一投足を無意識に目で追う。

 呵々大笑に肩を跳ね上がらせ、含み笑いに疑心暗鬼になる。

 たった十分が半時間にも一時間にも感じられる、果てしなく長い休み時間。

 昼休み時間、食事はろくに喉を通らず、給食は腹持ちのいい主食と飲み物だけ口をつけ、弁当は帰ってから部屋で食べた。

 授業中、教師が板書するチョークの音だけが響く中、聞こえてくる僕を侮辱するささやき声に、黒板の字を書き写すどころではなくなる。

 苦痛を未然に防ぐために愛想笑いし、苦痛から早く解放されるためにも愛想笑いをする。

 捨てられた私物をごみ箱から助け出すさいの、惨めさ、洟をかんだティッシュの湿り気、「汚い」「くさい」とささやく声。

 すれ違うさい、堂々としていても、おどおどとしていても因縁をつけられるので、匙加減が難しかった。

 葬式を模して机に置かれた、季節の花を活けた花瓶が、なぜあんなにも重かったのだろう。本来の置き場所に戻すだけの短い道中が、なぜあんなにも長かったのだろう。

 鼻を殴られて噴き出した鼻血にカッターシャツが汚れ、家族にばれるのが嫌で、学校よりも遠い場所にあるコインランドリーまで自転車を走らせたこともあった。

 思い返すたびに、よくぞ耐えたものだと思う。苦痛を受ける時間に制限が設けられていたから? 死に至るほどの激しさではなかったから? 要因がなんにせよ、奇跡という大げさな言葉を使って過去の自分を褒めたくなる。

 肉体的精神的苦痛を受けるのももちろん嫌だったけど、なによりもつらかったのは、毎朝登校し、教室に入らなければならない、というルール。

 そして、本当は行きたくないのに、「学校に行かなければならない」という無言の圧力に、たいていの日は屈服してしまうこと。

 さらには、学校や教室でどんなに嫌な目に遭っても、よほど気力を振り絞らないかぎり途中下校できないこと。

 僕にとって学校という場は、不可思議な磁場を持った監獄だった。

 誘引され、囚われ、なぶり者にされたけど、人間には体力の限界があれば気力の限界もある。やがて不意に糸が切れ、僕は学校に行けなくなる。

 そして今度は、親や教師から急かされ、責められる日々がはじまるのだ。

 まさに地獄の青春時代だった。

 けっきょく、高校は一年ももたずに自主退学した。

 でも、まさか、その後も悪夢に悩まされることになるとは思いも寄らなかった。

 中退後に、姉を巧みに味方につけてわがままを押し通して、仕送りを受けながら一人暮らしをすることに決まったときは、僕の人生もようやく本当の春を迎えたかと思った。

 でも、まさか、世界のほうが変わって、現実世界が悪夢と化すとは思いも寄らなかった。

 ため息が出る。

 僕はあと何時間、ベッドで横になり続けるのだろう。


 いじめ、不登校、ひきこもり。

 弱くて、挫けて、逃げる。

 煎じ詰めれば、そのくり返しの人生を送ってきた。

『甘えるな』

『逃げるな』

『もっとがんばれ』

 精神論の信奉者である旧弊な父親や、夫に従順であることで己の無能から顔を背けてきた母親からの指摘の数々が、必ずしも正しいとは思わない。

 でも、部分的には正しい。

 親元から離れ、対立と衝突の日々から距離を置き、時間が経過したことで、僕は渋々ながらもそう認めた。……認めざるを得なかった。困難に直面すると安易に逃げを打つ自分の弱さも、十代のときに経験した数々のつまずきの見逃せない要因に他ならない、と。

 認めたことが状況の改善には繋がらなかった。このままではいけない、という思いが増しただけ。「このまま」を打破するための方法について本格的に、本当の意味で真剣に考えたことは一度もない。結果、「このまま」が継続している今がある。

 杏寿は回避的な行動をとりがちな僕の常に味方の側に立ち続けてくれた。

『一輝は学校で嫌な思いをしているの。本人はいろんなものに邪魔されて話せないだけで、嫌な目に遭ったのは事実。傷ついた心は今も癒えていない。こんな短時間で癒えるはずがない。それなのに、お父さんやお母さんまで一輝のことを責めたら、逃げ場がなくなっちゃうよ。今はそっとしておいてあげるべきだよ』

 僕が学校に行けなくて、親から頭ごなしに怒鳴られているときも。

『確かにわたしたちの負担は大きくなるかもしれないけど、一人前の社会人としてやっていくために必要だし、一人で生きていくための重要なステップなの。わたしもお金は出す。一輝のためにみんなで助け合おうよ。だってわたしたち家族でしょ?』

 僕が父親と大喧嘩をして、一人暮らしがしたい、そのために経済的な援助をしてほしいと駄々をこねたときも。

『これからは一輝のために食事を作りに来るよ。するのは料理だけじゃなくて、家事もかな。わたしにもわたしの生活があるから、ずっとかかりきりではいられないけど、週に五回か六回くらい、毎日一時間くらいなら時間をとれる。無理やり捻出しているんじゃなくて、自由に使える時間を活用しているだけだから、一輝は気に病まなくてもいいからね。食事がおいしいほうが絶対に毎日楽しいし』

 姉が不意打ちで家庭訪問し、生活の乱れが明るみになったときも。

 そのすべての機会で、姉さんは僕の味方になってくれた。部分的、条件つきで肩を持つんじゃなくて、全面的に、なおかつ無条件に。あらゆる形でのサポートを惜しまなかったし、弟の過失を絶対に責めなかった。父親のように人格を非難することはもちろん、母親のように行為の一つ一つを取り上げて「こうするべきだった」とあげつらうことも。

 すべてを柔らかく受け止め、包み込む。さらには優しく手を握りしめ、進むべき道を指し示し、「さあ、お姉ちゃんといっしょに行こう」と、にこやかに朗らかに呼びかける。それが醍醐杏寿という人だ。

 涙が出るほどありがたい。感謝してもしきれない。ありがたさが身に染みるからこそ、迷惑をかけて申し訳ないという気持ちも湧く。今のところ行動には結びついていないけど、「現状をなんとかしないと」という思いを腑分けすると、「姉のために」という思いが占める体積がもっとも大きいんじゃないかと思う。

 この世に生を享けてからの二十五年間、あえて大仰な表現を使うなら、僕は姉を女神かなにかのように崇拝してきた。

 不満がなかったわけじゃない。世界がまだ平和だったころ、体験や出来事や気分によって、その感情が一時的に膨らむことはあっても、目立つ大きさを維持して胸に居座り続けることは一度もなかった。

 でも、非現実が現実になったことでそれが崩れた。

 若年の成人男性は特殊な事情がないかぎり『飛行場』へ行かなければならない、という非現実が。

『飛行場』が兵士の訓練場の隠語で、『飛行場』に送られた者は訓練を受けたのちに戦地へ派兵されるという噂は、外界からの情報の摂取に積極的ではない僕の耳にもすぐに入ってきた。たちまち恐怖が僕を支配した。

『飛行場』に行きたくない。死にたくない。

 僕は通達には従わなかった。

 拒否した者への罰則はない。しかし、自宅まで『改善課』の職員が説得に来た。末永祐之介ではないけど、彼のように非人間的な印象が強い、初老の男性職員だった。

 火事場の馬鹿力というやつだったのだろう、彼との戦いを奇跡的に無傷で切り抜けた僕は、すぐさま姉に泣きついた。『飛行場』には行きたくない、死にたくない、姉ちゃんの力でなんとかしてよ、と。

『怖いのは分かるよ。男性だけの義務という意味では、気の毒だとも思う。でも、ルールそれ自体に問題があるのだとしても、ルールはルールなんだから、嫌でも従うしかないんじゃないかな。噂はあくまでも噂であって、本当に兵隊になる訓練をする施設なのかは分からないわけだし』

 杏寿は取り乱す僕を聖母のように抱きしめてくれていたんだけど、そう言われた瞬間、僕は突き放すように姉の体を遠ざけた。今にもこぼれ落ちそうだった涙さえも引っ込んだ。

 そのときやっと気づかされた。思い知った。

 姉さんはたしかに僕のことを想ってくれている。

 でも、必ずしも力になってくれるわけじゃない。

 振り返ってみれば、これまでにも多数、姉の無力さを実感する機会はあったはずだ。でも、たぶん、僕は見て見ぬふりをしてきたんだろう。その心がけがとうとう通用しなくなったはじめての瞬間、それがあのときだったんだ。

 幼いころから頼りきってきた、女神のような存在だった姉が、無力。

 そんな永久にでも箱の中に封印しておきたかった現実を、今日、改めて突きつけられた。

 個人に備わった資質は有限だから、「本当の意味で」僕の力になってくれないのはしょうがない。それは受け入れている。

 でも、「助けたいけど、助けられない」じゃなくて、「助けようと思えば助けられるけど、あえて助けない」のが真相だとしたら?

 姉ちゃんの愛情が僕から離れてしまったら?

 僕は、この世界でひとりぼっちになってしまう。

 そんなのは、嫌だ。耐えられない。

 ……どうして世界は僕をこうも苦しめるんだ。

 それを救うのが姉さんの役目なのに、力不足だなんて。

 のみならず、姉さんの愛情が僕から離れて、僕を救う意思すらも持たなくなってしまうかもしれないなんて。


「何度も言うように、僕は病気なんです」

 話し相手の目を見ながら、一言一言はっきり発音するように僕は言う。

「悪化もしていないけど、改善の兆しもない今の状況で『飛行場』へ行くなんて、とてもじゃないけど無理です」

「醍醐さん」

 末永は静かだが威厳のある声を発し、卓上のみたらし団子の串に手を伸ばす。わざわざ詰めてきたのか、もともとそれに入った状態で売られていたのか、使い捨ての透明なプラスティック容器に入っている団子の串は、あと一本。その串に刺さっている団子は、残すところあと二つ。

 パックの底にこびりついた甘辛いタレをできるだけ多く拭い取ろうとするような、粘り気のある手つきで団子を口の高さまで持ち上げる。真横からかぶりつき、串から抜けるぎりぎりまで移動させておいて、いったん前歯から解放。今度は深く食らいつき、完全に串から引き抜いて咀嚼する。

 末永はいつも食べはじめのひと噛みふた噛みだけ咀嚼音を立てる。わざとやっているのか、不可抗力的に音が出してしまうのか、僕はいまだに白黒つけられない。さすがに深読みだと思うけど、相手にあれこれ考えさせ、心理的に優位に立つための作戦じゃないか、なんて思うこともある。

 残り一個となった串を、口の中を空にしたあとでプラスティック容器に戻す。切れ長の目で僕を見据え、冷ややかに諭すような声音で語を継ぐ。

「くり返し申し上げているように、私たちの基準では、それだけの理由では『飛行場』行きは免除されないんですよ。病気だと医者から診断されただけでは特別扱いはされないと、これまでに何度も説明したはずですが。醍醐さんは毎回お忘れになるんですね」

 やりとりの内容は前回までと代わり映えしない。一言一句違わないやりとりさえ、過去に何回かあったんじゃないかと思う。

 上手く立ち回りさえすれば負けることはなない、という気休め程度の安心感はある。ただ、実際に戦っているあいだは一瞬たりとも気が抜けない。油断したが最後、ずるずると後退を余儀なくされ、気がついたときには挽回不可能な劣勢に追いやられている。そんなプレッシャーと絶えず戦っている。

 末永は絶対に諦めない。

 戦争は今日明日中には終わらないだろう。

 つまり、この苦行はまだまだ続く。

「そろそろ次の家に行かなければいけない時間ですね」

 左腕の腕時計に目を落として末永が言い、みたらし団子の串を掴む。張り詰めるような緊張感がふっと緩んだ。壁の掛け時計を見上げると、目の前にいる男がうちに来てちょうど半時間になろうとしている。

 僕は今日も末永に勝ったのだ。

 負けなかったという、高揚感のない勝利。

 半時間の戦いで得たものの虚しさを意識しないように、末永が団子を食べ終え、後片付けをする様子を無心で見守った。

「ああ、そうそう。醍醐さん」

 いつものように玄関で事務的な挨拶を交わして別れるかと思いきや、末永が肩越しに振り返って話しかけてきた。彼の両足はまだ戸の内側にあり、片手の指先が戸の引手にかかっている。

「先にお伝えするか、あとにするかで迷っていたのですが、迷いすぎて結果的にあとになりましたね。まあ、どちらであっても大差はないのですが」

「……なんでしょうか」

 問い質す声はかすれた。末永は僕に向き直り、能面のような表情で告げた。

「次回以降、もしかしたら私単独ではなく、『改善課』の上司と二人で訪問させてもらうかもしれません。上司のやり方は、私とは違ってあらゆる意味で情け容赦ないので、醍醐さんが今の立場を貫くのは極めて困難かと思われます。醍醐さんがもし詐病を使っているのなら、私一人で来ているうちに撤回なさることをおすすめしますよ。醍醐さんが罰を受けることは避けられませんが、報告書の書き方によっていくらでも挽回の余地はありますので。脅迫的な発言だと思われたかもしれませんが、そういう処置をとる用意をしているのは事実ですので、対応について真剣に考えていただけると幸いです」


 脅しではなく事実を言っているのだ、という趣旨のことを末永は言った。「上司が来るかもしれない」と警告したあとで付け加えた。

 そう言ったことこそが、警告がブラフである証拠だと僕は思う。

 末永は感情をめったに露わにしない。そういう人間は平然と嘘をつく。上司を連れてくるというのは、ブラフ。単なる脅し。だから僕は、新たなる強敵の出現に怯えなくてもいい。

 末永が帰ってから、居間に胡坐をかいての熟考で、僕はそう結論した。

 ほっとした。

 でも、素直に喜べなかった。上司の存在が嘘でも、これからもずっと末永と戦わなければいけない現実に変わりはないからだ。

 それに、万が一、末永がありのままを伝えたのだとしたら?

 今さらながら、今自分が置かれている状況がいかに絶望的かを思い知り、呆然自失してしまう。

 僕の目を覚まさせたのは、玄関の戸がノックされる音。

 両肩が跳ね、小さく悲鳴をもらしてしまった。

 壊れかけたロボットのようなぎこちない首の動きで玄関を振り向く。末永が上司を連れて訪問したのかと疑ったのだけど、

「こんばんはー」

 聞こえてきたのは、僕が人生でもっともたくさん聞いてきた女性の声。

 スマホを確認すると、ちょうど午後五時半だ。

 いつもなら嬉々として自室を飛び出すのだけど、今日は込み上げてくるものがなにもない。姉と顔を合わせるのは、正直気乗りがしない。

 というよりも、嫌だ。

『飛行場』行きを拒み続けるのはもう限界かもしれない。そんな状況下で、僕から距離を置こうとしている肉親となんて、顔を合わせたくない。

 自室の襖は施錠できないけど、つっかえ棒をすれば鍵をかけられる。この家の合鍵を持っている姉にも開ける手段のない錠だ。

 籠城しよう。

「一輝? なにしてるの?」

 案の定、杏寿が部屋までやってきて心配そうな声を発した。

「なにかやっているの? それとも、体調が悪いとか?」

「まあ、そうだね」

 沈黙で応えるべきか否か迷ったのだけど、混じり気のない気持ちで僕を案じる姉の声を聴いた瞬間、後者の選択肢は消えていた。

「体調っていうか、気分っていうか……。今は寝てる」

「そんなに重症なの?」

「いや、横になっているだけ。一人になりたいから、放っておいて」

「もしかして、病気? 病院に行かなくても平気なの?」

「平気じゃないんだったらすぐに姉さんに報告して、薬を買ってきてもらっているよ」

 まだ食い下がってくる気配を感じたので、「一人になりたいから、放っておいて」と、声に意識的にいら立ちを滲ませてくり返す。

「じゃあ、お姉ちゃんはごはん作るから」

 床板が鳴る音が遠ざかっていくのを聞きながら胸を撫で下ろす。

 襖越しに包丁の音が聞こえる。単調なBGMを聴きながらなら眠れるかもしれないと期待したけど、夢の世界は遠そうだ。

 いや、食事なんてカップ麺を食べればいいんだから、助けてくれよ。『飛行場』に行かなくてもすむ、冴えたアイディアを僕に教えてよ。

 そう心の中でつぶやいたものの、二重に虚しかった。第一に、その力が姉にないのは分かり切っている。第二に、助けを乞うた姉は、僕と距離を置きたくてここに来る頻度を減らしたいと言った張本人だ。

 だんだんいらいらしてきた。姉に対して、『飛行場』行きから逃れられない運命に対して、その両方の意味で。

 刻む音が唐突にやんだ。

 長く、長く、静寂は続く。

 引っかかるものを覚え、耳を澄ませてみたけど、音は止まったままだ。

 訝しく思ったけど、刃物を使わない工程なのだろうと推断し、寝返りを打つ。眠ってしまおうと思ったのだけど、眠れない。姉のことが、襖の向こうの世界のことが気がかりなせいで。

 姉さんは今、なにをしているんだろう。

 食材に下味をつけている? 合わせ調味料を混ぜ合わせている? オーブンレンジや魚焼きグリルなどで調理中?

 僕は料理はまったくできないけど、姉さんが調理に励む姿を毎日のように眺めているから、可能性は複数思い浮かぶ。ただ、こんなにも静かなのは今日がはじめてかもしれない。この部屋にいると、襖を閉めきっていたとしても、食材を刻んだりちぎったりする音が聞こえてくることもあるのに、無音なんて。

 僕はスプリングが軋む音を立てないように細心の注意を払いながらベッドから下り、襖に耳を宛がう。

 こんなことでキャッチできる音があるのかと、半信半疑だった。でも、聞こえてきた。音、ではなくて声が。

「うん、そう。今来ているところ。料理はさっき完成したばかりで――」

 まぎれもなく杏寿の声だ。

 ひとり言じゃない。明らかに、誰かと言葉を交わしている。僕が引っ込んでいるあいだに訪問者が来たわけではない。つまり、携帯電話での通話。

 心臓が早鐘を打ちはじめた。

 僕の聴覚は秒刻みに研ぎ澄まされていく。

 声はまだ続いている。

「そう、許してくれないの。わがままっていうか、強情っていうか。大変? 作業量はそれほどでもないんだけど、毎日となると日によっては、ね。当然だけど、仕事が終わったばかりだから疲れているし。うん、うん……」

 体温が急上昇し、蒸し暑い室内が相対的に冷たく感じられた。

 僕のことだ。姉は僕について誰かと話している。

 では、誰と?

 真っ先に末永の顔が浮かんだ。ただ、『改善課』に所属する職員と、彼が担当している人物の姉という関係性を考えると、口調が砕けすぎている。親密すぎる。

 次に両親の可能性を疑ったけど、これもしっくりこない。

 定職に就かない醍醐家の長男に対する家族のスタンスは、杏寿だけが肯定的で、両親は揃って否定的。勘当に相当する措置を下した僕に、今も献身的なサポートを続ける娘に、両親はあまりよい感情を持っていない。サポートが続いている以上は、杏寿に対する感情は好転していないはずだから、電話越しとはいえ会話する機会を持つとは考えにくい。

 僕が知らなかっただけで、極秘裏に連絡を取り合っていた可能性も考えられるけど、その場合でもやはり話し方が引っかかる。父親はいつ何時も高圧的だし、母親はすぐに感情的になる。だから二人を相手に会話するときは、彼らをみだりに刺激しないように、ていねいな口をきくのが普通なのに。

 姉は今、盛んに相槌を打っている。電話の相手がしゃべっているのだろう。相手の声を聞きとるのはさすがに無理だ。

 両親でも末永でもない。口調はフランクだから、上下関係はなく、対等。職場の同僚? 友だち? 両親、あるいは末永よりは近いと思うけど、でもやっぱりしっくりこない。

 だとすると、まさか――。

「違う、違う。わたしだっていっしょに過ごしたいんだから、そこだけは分かって。だってわたしたち、付き合っているんだよ?」

 ひときわ大きく心臓が拍動した。

「少しでも長い時間、恋人と過ごしたいと思うのは当たり前でしょ」

 もう一回、さっきよりもさらに大きな音が立つ。

 頭の中は真っ白だ。

 話し声はまったく聞こえなくなった。

 だんだん息苦しくなってくる。息を吐き、また吸う。新鮮な酸素が肺腑を満たし、思考能力が復活する。

 腑に落ちた。なぜ家事をしに来る頻度を減らしたいと提案したのか、その謎の答えが分かった。

 恋人だ。

 杏寿は恋人ができたのだ。

 杏寿は出来損ないの弟の世話に割いている時間を、恋人とともに過ごす時間に宛てたくて、この家に来る頻度を減らしたいと僕に提案したんだ。

 コスプレをするようになった動機もそれだろう。僕も大いに楽しんでいるから忘れがちだけど、その習慣をはじめたのは僕じゃなくて姉さん。おそらく、恋人の男の要望でコスプレをはじめて、家事をしに来る頻度を減らす埋め合わせに使えると考えて、僕の家でもするようになったんだ。

 話し相手の正体が判明したのを境に、なぜか会話内容がくっきりと聞こえるようになった。姉はさまざまなことを述べているけど、要約すると「恋人を愛している」と語っている。弟よりも恋人を優先させたいと主張している。

 僕への愛を否定したわけじゃない。恋人が弟を批判する言葉を吐いたらしいときには、間髪を入れずに僕の肩を持つ発言をした。愛する人と会話しているときでも、姉さんは弟の味方だ。

 しかし同時に、恋人を深く愛していて、弟よりも恋人を優先させたい意思を持っていることに疑いの余地はない。

 憤りがむらむらと湧いてくる。両手が震える。いつの間にか握り拳に変わっていて、それでもおさまらない怒りが小刻みに振動させている。震えはあっという間に全身に波及し、接した耳を通じて襖まで揺れはじめた。

 音にも振動にも気がつかないらしく、姉はしゃべり続けている。声は次第に大きくなる。僕はもはや細かな内容を聞き分けられず、ただ楽しげに会話している声として姉の声を認識している。

 大好きな恋人と話がしたくて、僕が部屋にこもると宣言したのをいいことに、欣喜雀躍して電話をかけたんだ。僕の家に用事をしに来ている最中なのに。僕の家で、友だちとか、僕とは無関係な人間と電話でやりとりすることなんて、今までなかったのに、恋人ができたとたんに例外を作った。姉さんはそんなにも、恋人のことが好きなんだ。大切なんだ。僕をほったらかしにしてもいい状況になるや否やそうしてしまうくらいに。僕よりもはるかに、格段に、比べ物にならないくらいに。

 限界だった。

 憤然と立ち上がって襖を開け放つ。流し台に寄りかかっていた杏寿が、手にしているブルーベリー色のスマホを取り落とした。驚愕に見開かれた双眸は、突如として現れた弟を捉えている。どこか間の抜けたその顔が、「一輝がなんでそんなに怒っているかが分からない」と空とぼけているようにも見えて、怒りのメーターが振り切れた。

「聞こえていたぞ。全部聞こえていた。恋人ができて、僕が邪魔になったから、見捨てようとしているんだろう。僕が邪魔で、恋人といちゃつく時間を確保できないのが嫌で、僕を見捨てようとしているんだろう。血の繋がった家族である僕を! 僕が一人前になるまで手助けするっていうあの日の約束を忘れて!」

 声が怒気に震える。毅然と姉の非を責めたいのに、僕自身が威厳を保てない。

 杏寿は泣き出しそうに眉根を寄せて俯く。自分は被害者ですと言わんばかりの態度が感情を煽る。涙の成分も混じった声で僕は叫ぶ。

「出て行け! 出て行けよ。もうお前の顔なんて見たくない。そんなに恋人のことが大事なら、そいつのもとで一生暮らせばいい。もう僕のところには来ないでくれ。――ぼさっとしてないで、帰れよ!」

 つかつかと歩み寄り、肩を突き飛ばす。杏寿は体を大きくふらつかせ、そのまま床に倒れた。

 僕ははっとして姉を凝視した。彼女はストレッチでもしているかのようなポーズをとっている。怪我は、していないようだ。

 姉の顔が持ち上がる。視線が重なる。僕は気圧されて思わず半歩後退する。姉の両の瞳には、今にもこぼれ落ちそうに涙がたまっている。

 ただそれだけなら、一瞬怯むくらいですんだ。でも姉は、泣きそうになりながらも唇をきゅっと引き結ぶ、眉を吊り上げている。

「ああ、そう。お姉ちゃんはもういらないんだ。つまり、これからは一輝が一人の力で生きていくということね? お姉ちゃんの助けなんて不要ということね? それはよかった。とても晴れやかな気分。だって姉として、扶養者としての役割をまっとうしたということなんだから」

 語尾が震えた。透明な雫がはらはらと断続的に頬を伝う。視線を少し逸らして涙を手の甲で拭い、改めて弟を見据える。黒目に宿る光が異様なまでにまばゆい。

「わたしはもう帰る。もう二度と、一輝のうちには来ないから。……ばいばい」

 スマホを拾い上げて立ち上がる。何度か洟をすすりながら指先で涙を拭い、速足で玄関から出て行く。戸が開き、閉ざされる。

 訪れたのは、完璧な静謐。

 まぎれもなく、僕は一人だった。


 間違いを犯してしまった。

 取り返しのつかないことをしてしまった。

 こんな展開、望んでいなかったのに。

 姉が弟から距離を置くかのような言動を見せたとき、僕は欠かさず、なんらかの形で怒りをぶつけてきた。でもそれは、自分には無条件に優しい姉が相手だからこそ。怒鳴ることはあっても暴力は振るわない、厳しい言葉を使っても人格否定はしないなど、礼を失するような発言はかたく慎んだ。

 対立や決別は望んでいなかった。

 姉の愛情、それだけが欲しかった。

 姉の愛情を取り戻すこと、それだけが目的だった。

 それなのに、まだ午後六時半になっていないというのに、僕の視野に醍醐杏寿の姿はない。

「二度と来ない」と涙ながらに、怒りながらに宣言し、出て行ってしまった。食事作りは途中で放棄して、干すべき衣類は洗濯機の中に置き去りにして。

 姉が玄関へと走り出した瞬間も、遠ざかる姿を視界に映しているあいだも、僕の体は動かなかった。姿が見えなくなったあとでも、追いかけるという選択肢は選択可能だったのに、行動を起こさなかった。

 三日もなにも胃の中に入れていないかのようにふらつきながら立ち上がり、スマホも財布も持たず、玄関ドアの施錠さえせずに家を出る。

 姉を追いかけるためではない。

 一人きりになれて、しかも心も体もやすらげる楽園を見つけ出して、今にも瓦解してしまいそうな醍醐一輝という人間を、束の間でも休ませてあげるために。


 日没を間近に控えた時間帯、大通りは通行人であふれ返っている。

 不要不急の外出はせず、するときでも人出が多い時間帯を避けてきた僕にとって、今のようにすぐには立ち直れないくらい沈んだ気分のときに、すれ違う人と肩がぶつかるくらいの人口密度の中を歩くのは、拷問に等しい。

 ただ多いだけならまだしも、本日の労働や学業から解放された彼らは、開放感に浸っている。躁病の気配さえ漂う陽気さは、僕の気を滅入らせるだけだ。

 わざと大声を出しているような話し声。誰かが悪意から立てているような物音。蒸し暑い空気に絡まって漂ってくる飲食物のにおい。

 そのすべてがうるさくて、わずらわしいけど、今の僕にははねのけるだけの気力も知恵もない。せめて遠ざかろうと、人気のないほう、人気のないほうへと進路をとる。

 声も、においも、そして気配も、存在感を緩やかにすり減らしながらも執拗に追いかけてくる。

 この世界には楽園など存在しない。

 突きつけられた現実が、歩数が累積するのに比例して鈍っていた足取りを、今にも止まりそうなくらいに減速させる。

 逆に肉体的な疲労感は加速する。いつの間にか芽生えていた、無益な逍遥をそろそろ終わらせたいという願いは、もはや無視できない存在感にまで成長していた。

 僕はとうとうその場に座り込む。

 まだ日没前なのに夜のように暗い、人通りのない路地裏。話し声や物音などの音量や聞こえ方から推察するに、人が行き交う通りはそう遠く離れていないはずなのに、僕がいる道に人が流れてくる気配がまったく感じられない。

 僕はそろそろ選ばなければいけない。

 すなわち、すごすごと帰宅するか。

 それとも、あくまでも楽園を求めて歩行を継続するか。

 ぶっちゃけ、どちらも魅力を感じない。

 どちらも選びがたいなら、選べないなら、僕は。

「……死のう」

 力が入らなくなった手の指の隙間から指頭大の小石が転がり落ちるように、その三文字が唇からこぼれ落ちた。

 目が覚めた思いだった。一人きりになってからずっと自らを責め苛んでいたものが、手品のように一瞬にして消失したような気さえした。

 死ぬ。自殺。

 僕はその方法を、問題の根本的な解決策として意識したことがあっただろうか?

「……なかった」

 と、思う。なぜかは分からないけど、一度もなかった。自分なりに本気で検討したけど却下したわけじゃなくて、ろくに検討もしなかった。それどころか、選択肢の一つとして頭を過ぎったことさえも。

 では。

 仮に自殺するとしたら、どこで? どんな方法がいい?

 尻から伝わってくるコンクリートの冷たさも忘れて、真剣に、高い集中力をもって思案した。

 やがて思い出したのは、僕が住んでいる地区の端に、巷では自殺の名所と見なされている岬の存在。

 現在地から岬までは、おそらく徒歩で十五分ほど。帰宅するよりも所要時間は短くすむ。

 自殺を受けて立ち入り禁止になっている、という話は聞いたことがない。現状どうなっているのかは知る由もないけど、

「とにかく、岬まで行ってみよう」


 喧騒が次第に遠のいていく。

 人声が途絶えたのに前後して、幽霊のように淡く儚く波音が聞こえてきた。

 僕が岬の近くにある砂浜に足を運んだのは、この地区に引っ越して間もないころ。対立していた親から離れられた開放感、新生活がはじまった高揚感に浮かれて、僕には珍しく不要不急の外出をしたのだ。

 平凡な海岸だった。海水浴シーズンではないのもあって、無人。高く盛り上がった岩場を彼方に見ながら、波打ち際を少しばかり歩いて、帰った。波の力で宝石のように摩耗したガラス片や、整った形の貝殻など、海からの贈り物は一つも拾うことなく。

 当時見た「高く盛り上がった岩場」が、一年ほど前に『飛行場』行き忌避者が飛び降りた岬だろう。

 テンションが高く、時間にも余裕があったにもかかわらず岬まで足を延ばさなかったのは、遠くから見た岩場が殺風景で、魅力が感じられなかったからだ。僕は基本出不精だから、そういうちょっとしたネガティブな要素を発見するだけで、たちまち気持ちが萎えて「もう帰ろう」になってしまう。

 その岩場、もとい岬に、最低最悪の気分の今、改めて足を運んでいる。しかも自殺するのが目的なのだと考えると、これ以上の皮肉はないなって思う。

 砂浜に通じる道を途中で曲がり、岩場へ向かう。案内表示はどこにもないけど、目印に設定した景色は着実に拡大されていくから、道は合っているのだと分かる。

 岩場ということで、岬の突き当たりまでの道のりは生易しいものじゃないと想像していたけど、木製の床板と手すりで構成された歩道が整備されていた。踏みしめるたびに床が大きく軋むものの、安全性には問題はなさそうだ。寄せては返す波音が次第に存在感を増していく。無人という状況に目的が絡み合って、だんだんさびしい気持ちになっていく。

 突き当たりはささやかな広場になっていた。手すりは成人男性の肩ほどの高さのフェンスへと変わり、空間を正方形に仕切っている。がらんとしていて実質よりも広く感じられる場に唯一置かれているのが、歩道の終点から見て真正面のフェンス際に立てられた看板。そばまで行って顔を近づけたけど、文字が薄れていて一文字も判読できなかった。

 看板のすぐ横のフェンスから軽く身を乗り出してみる。

 フェンスを縁取るように、奥行き三十センチばかりの岩場が広がっていて、その先は垂直に近い断崖になっている。崖の下は、尖った岩が寄り集まって構成されたささやかな陸地があるのを除けば、大部分が海。打ち寄せる波が断続的に岩にぶつかっては白く砕けている。目算は難しいけど、高低差は二十メートルは下らない。水深は浅そうで、その底や周囲の岩は尖った形状のものが多い。

「死ぬな」

 そんなひとり言が唇からこぼれた。

 そう、死ぬ。身を投げた者は、押し寄せ、引きずり込む水の力ではなく、岩石が有する殺傷能力に命を奪われる。おそらく、絶対に、と断言してしまってもいいくらいの高い確率で。

「……ん?」

 不意に、異様な光景を視界に捉えた。フェンスを握る両手に力を込めていっそう身を乗り出し、それを凝視する。

 崖のほぼ真下に、正円形の穴が穿たれていた。

 直径は二メートルほど。円の輪郭は非人工的にシャープだ。中はとてつもなく暗く、そして深く、底は見通せない。まるで真っ黒な気体でも詰め込まれているかのようだ。否応にも注目を惹きつけられる。体まで吸引されて、穴に向かって転げ落ちてしまいそうだ。自分からフェンスを乗り越えて崖から飛び降りれば、多少軌道がずれていたとしても、穴に吸い寄せられ、周囲の岩石に体が接触することなく中に落ちそうな気がする。

 自分でも非現実的だと思うけど、そんな非現実が当たり前のように現実と化すと信じてしまうような、不思議な雰囲気が穴からは感じられた。

 あの穴はなんなんだ?

 落ちた先にはなにがあるんだ?

 具体的なことはなにも分からない。だからこそ、僕は穴に強烈に惹かれている。疲れや憂鬱な気分からはいつの間にか解き放たれていた。心臓は恐怖ではなく高揚感に早鐘を打っている。

 僕は心の中ではっきりとつぶやく。

 穴の正体を確かめたい、と。

 下りられる場所はないだろうか? フェンスに沿って左右に移動しながら探したけど、階段や下り坂などはなさそうだ。

 だったら、飛び降りてしまえばいい。

 運試しのつもりで、思い切って飛び降りてしまおう。

 あの暗く黒い穴にホールインワンできれば、中がどんな様子なのか、どこに通じているのかを確かめられる。

 失敗すれば、頑丈で尖った岩に全身を打ちつけて即死する。

 今の僕には、どちらに転んだとしてもそう悪い未来じゃない。ためらう理由はどこにもない。

 気持ちが昂っているおかげか体も軽く、肩ほどの高さがあるフェンスを軽々と乗り越えられた。

地面がなくなるぎりぎりを立ち位置に定め、真っ暗な空洞を見下ろす。

 自分の体と穴を隔てるものは、もはやなにもない。飛び降りさえすれば、崖下まで行ける。穴にホールインワンできるかどうかは別として。

 どういうふうに飛び降りるか、三秒くらい迷って、盛大な水しぶきを立てるべく水たまりを踏みつける小学生のように、両足を揃えて跳んだ。

 靴底越しに大地を感じなくなった瞬間、跳んでしまった、と思った。

 ポーズを保って落下しながら、足元――自らが向かう先を見下ろす。視線の先には常に口を開けた大穴があり、それに吸い寄せられているように感じる。落ちながら直視した空洞は、あまりにも黒く、暗い。岩の上に落ちようが、穴の中に落ちようが、運命は同じなのかもしれない――そんな冷たい諦念が胸を過ぎった。

 瞼を閉じた、次の瞬間、肉体がつま先から急速に消えていくような感覚に襲われた。塗りつぶされるように、意識が現実から断絶した。


 眩しさを感じて目を覚ました。

 開いた双眸が捉えたのは、明るさに包まれた空間。

 頭はまだ半分しか起きていない。最初は無意識に、覚醒が不充分だと自覚してからは意識して、まばたきをくり返す。開閉がワンセット行われるたびに少しずつ雲が晴れていく。一歩ずつ着実に、世界のディティールを脳が掌握していく。

 眩しかったのは、僕の目の前の壁が全面ガラス張りになっていて、陽光がふんだんに射し込んでいるからだった。純白の床は光沢が出るくらいに磨き上げられていて、遠近で靴底が小気味のいい音を奏でている。奏者は、空間を行き交う数多の人々。

 おしゃべりをしながらどこかを目指して歩いている四人組の男性。窓際に佇んで一台のタブレット端末を覗き込んでいる男女。清潔な丸テーブルに向かい合って飲み物を飲んでいる女性同士のペア。

 みな二十歳前後で、カジュアルな服装だ。リラックスした表情をたたえていて、今この時を肩肘張らずに満喫しているように見える。

 太い柱を背にして、シンプルに『Cafe』とだけ記された看板を掲げた店が僕の正面に建っている。外観はショッピングモールなどのフードコートにある飲食店風だ。ロングヘアの女性がカウンターに肘をついて注文している。カウンターの真上から垂れ下がったパネルに商品の写真が掲載されているけど、サイズが小さくて僕がいる場所からははっきりと見えない。

 ロングヘアの女性が小さな紙箱と紙コップの乗ったトレイを受け取り、カウンター近くの空いた椅子に腰を下ろした。僕の右手、カフェの前方には二十セットほどのテーブルと椅子が置かれていて、空席は全体の約半分。飲食物を注文せずにテーブルに陣取って話に花を咲かせているグループもいる。

『Cafe』の店舗と、テーブルセットが整然と並べられた領域が『Cafe』に属すると仮定した場合、僕がいるのは隣接する別の領域との境界線上の床の上。両足を投げ出して座り込んでいる。

 空間は『Cafe』の背後の柱を中心として、正円形に展開している。大ホール、と便宜的に呼ぶことにした。大ホールの左手からは、幅が広い、微妙に左右に波打った廊下が、右手からは、幅が狭い、定規で引いたように直線的な廊下が、それぞれ奥に向かって伸びている。

 見覚えのない景色だ。

 ただ、現実離れした景色ではない。

 現在地の名称を報せるものは見当たらないけど、候補として真っ先に浮かんだのは、大学の構内。僕は高校卒業後に進学は考えなかったけど、入学案内のパンフレットは何校か取り寄せている。そこに掲載されていたキャンパスの写真に、現在地は雰囲気がどことなく似ている。目に入る人々の年齢もちょうど大学生くらいだ。

 ただ、僕にとって縁もゆかりもない場所である大学に、なぜいるのか。

 そもそも、僕は岬にいたのに。

「岬に――フェンスを乗り越えて――穴に向かって――」

 そう、僕は飛び降りた。

 岩だらけの崖下にあいた穴を目がけて、死んでもいいという気持ちで飛び降りた。

 たしか、穴に吸い込まれるような感覚を覚えて、そのまま両足からすっぽりと入ったはずだ。

「……まさか」

 真上に顔を向ける。床そっくりの真っ白な天井があり、穴はない。真上だけじゃなくて、視界に映る範囲内の天井のどこにも。

 つまり、穴がこの場所に通じていたわけではない。

 じゃあ、僕はどうやってここまで来たんだ?

 厳然たる現実として、ここは岬ではない。岬の近くに建っている施設の内部の可能性はあるとしても、少なくとも岬では。

 つまり、なんらかの力によって、岬からこの場所へと僕は移動した。そのあいだの記憶がないということは、僕は気を失っていた……?

 全身を目と手で確認する。服装は岬に行ったときのままで、汚れてもいないし破れてもいない。肉体に怪我や痛みもない。気分が悪いとかも、同じく。

 あの高さから岩だらけの地面に落ちて無傷だとは考えにくい。奇跡的に傷一つ負わなかったのだとしても、医務室などのベッドに寝かせられるんじゃなくて、大学の構内風の空間の床に放置されているのはなぜ?

 不可解なことはまだある。床に座り込んで呆然と周囲を見回している、明らかに普通ではない様子の僕に、心配して声をかける者どころか、注目する者さえ一人も現れない、というのがそれだ。

 いくらなにかに忙殺されていようと、困っている人物を見かければ、たいていの人間はその人物に注目するし、何割かは助けるための行動を起こすのが普通なのに。

 声をかけたり、注目したりするのをためらわせる要素を僕が持っているゆえの無視、でもないと思う。さっき確認したように、服装はいたって普通。汚れがあったりにおいがしたりするとかでもない。平凡な容姿だから、見た目が怖くて近づきがたいわけでもないはずだ。

 だとすれば、僕はなぜ無視されている? なにか大がかりな実験か行われていて、僕の存在を無視するように指示が下っているとでもいうのか?

 それともまさか、僕はすでに死んで、幽霊になって、生きている人間からは見えない体になってしまった……?

 激しく頭を振る。

 いくら理解不能な事態に巻き込まれているとはいえ、投げやりになってはだめだ。意味不明だからこそ、冷静さを保たないと。正気を維持しないと。

 冷静さを保つ。正気を維持する。この状況ではそれこそが大切だと気がつけた時点で、僕は正気だし、ある程度冷静ではあるのだろう。

 落ち着いて一つ一つ、考えるべきことから考えていこう。そうすれば、真相までの距離を着実に縮められるはずだ。

 岬ではない、大学の構内風の建物の中に僕はいる。たぶん、生きている。以上を踏まえて、どう行動すればいいのか。

 自分がここにいる理由を知りたい。

 一番の欲求としては、やはりそれだろうか。

 観察した結果のとおり、周りの人間はことごとく僕に無関心だ。彼らに僕関係の疑問質問をぶつけても、望むような答えが返ってくる期待はできそうにない。というかそもそも、話しかけても振り向いてくれるかも怪しい。

 信頼できる人がいないか探して、僕の身に起きたことを説明して、なにが起きたのかを解説してもらう。

 少し考えてみたかぎり、それが一番よさそうだ。

 大ホールと二本の廊下にいる人間は、みな学生に見える。二十五歳の僕から見て、二十歳前後の彼らはちょっと頼りない。話を聞くなら、もっと大人がいい。ここが大学なら教職員もいるだろう。この建物の中のどこかには。

「――移動しよう」


 僕は『Cafe』に背を向けて歩き出す。進路は、幅広の廊下。そちらを歩いたほうがより多くの人に出会えそうだからだ。

 すれ違う学生。追い抜いていく学生。みな至って普通の若者たちだ。

 ただ一点、僕に無関心であることを除けば。

 廊下まで十メートルを切ったところで、香水の芳香が鼻先をかすめた。たった今、僕を追い抜いた女性の体から漂ってきた香りだ。年齢は二十歳くらい。赤いフレームの眼鏡をかけた理知的な顔立ちで、歩きスマホをしている。他の人間と同じく、僕には見向きもしない。

 検証作業をしよう、と思い立つ。

 これをやったら相手の印象は最悪だろう。でも今は、他人にどう思われるかを気にしている場合じゃない。

 僕は少し足を速め、追い抜いたばかりの女性と横並びになる。そして、ふらついたふりをして彼女へと大胆に体を寄せた。

 ぶつかる寸前で踏ん張るつもりだったのだけど、勢い余って肩同士が軽く接触した。女性はヒールを高く鳴らしてその場に足を止めた。

 ……触れられた。

 フィードバックされたのは、人体でしか表現し得ない柔らかさ、血が通った肉体ならではのぬくもり。つまり、僕は飛び降りて岩に叩きつけられて死んだわけじゃないし、周りにいる人間も幽霊なんかじゃない。

 状況が呑み込めないだけで、僕は現実世界で人間として生きているんだ。

「あ……ごめんなさい」

 女性は軽く頭を下げて急ぎがちにスマホをハンドバッグにしまう。彼女はどうやら、スマホの画面を見ていて注意力が散漫だったせいで、誤って僕にぶつかってしまったと思い込んだらしい。

 もう一度小さくお辞儀し、女性は足早に僕から遠ざかっていく。

 謎はまだまだあるけど、分からなかったことが分かって少し安心した。短く息を吐き、再び歩き出す。

 大ホールと幅広の廊下との境界線に差しかかる。

 道は酔っ払いが引いた直線のように不規則に左右に波打っている。右手は鼠色の壁で、左手は大ホールから引き続き一面ガラス窓。

 大ホールにいたときよりも窓に近づいたことで、太陽光に白くぼやけた外の世界が見えた。地面を覆い尽くす灰色の石畳に、その上を歩いている複数の人影。目を惹くような人や物は特に見当たらない。

 外に行ってみたい気持ちあるけど、まずは中だ。

 廊下に入って一分ほどが経ったけど、今のところ教職員らしき人物の姿は見かけない。

 目にしていないのは、部屋に通じるドアや戸などもそうだ。

 もう少し進めば見かける? それとも、選り好みせずに学生に声をかけてみるべき?

 揺れる気持ちと向き合いながらも歩き続け、そして見つけた。

 廊下の右手に戸があったのだ。

 閉ざされている。灰色を基調とした、縦長の長方形。付属しているのはノブではなく引手で、スライド式だろうか。材質はスチール? アルミ? 僕が通っていた学校の教室の戸は、小中高いずれもそのタイプだった。

 戸があるのとは反対、窓ガラスの間際まで退き、改めて様子をうかがう。

 学生たちはみな問題の戸を素通りする。戸が開いて中から人が出てくることもない。単に用事がないだけなのかもしれないけど、どうしても深読みしてしまう。

 人々にとって災厄となるような邪悪を封じ込めた、開けることを禁じられた戸なのでは?

 僕は息を呑んだ。心の中で「開けることを禁じられた」と表現したばかりのそれの前で、足を止め、引手に指をかける者が現れたのだ。

 髪型をツーブロックにした、ぽっちゃり体型の若い男性。緊張からまばたきすらも忘れた僕とは対照的に、鼻歌でも歌い出しそうな横顔を見せている。

 男性は特にためらう様子もなく、左から右へと手を動かした。戸はレールの上を緩やかに滑り、八十パーセントほど開いた。

 戸の内側は真っ白だった。

 その白亜に、ぽっちゃり体型の男性は臆する様子もなく入っていき、全身が呑み込まれた。

 戸はひとりでに閉ざされた。……いや、入ったばかりの男性が中から閉めた。開くのと同じくらいの速度だったから、たぶんそうだ。白に包まれていたから閉めている姿が視認できなかっただけで。

 僕は唖然と立ち尽くす。視線を戸から外すことができない。

 そんな僕の目の前を、何人もの学生たちが通り過ぎる。僕のことなんて見向きもせずに通り過ぎていく。

 僕は穴を思い出していた。

 この場所に来るときに通ったはずの、海岸の崖下にぽっかりと穿たれていたあの穴のことを。

 穴は、異様な黒さだった。異常な暗さだった。

 そして、戸の先に広がっていた白。聖なる光をイメージさせる白。

 白と黒。色彩が対極に位置しているゆえに、戸は穴に通じるものを感じる。

 潜り抜ければ、人生が大きく変わる気がする。人生を一変させるものが待っていそうな気がする。戸を潜りさえすれば、自分の望んでいるものをもれなく手に入れられるような。あるいは、次のステージに進めるような。

 なんにせよ、自分にとって重要だ、看過して先に進むことなどできない、という感じはする。

 少し様子を見ることにした。戸についてもう少し考えたかったから。

 窓ガラスにもたれ、十分か十五分くらい待つあいだに、二人の学生が戸を潜った。一人目は男性、二人目女性。どちらも容姿や立ち振る舞いに特異なところのない普通の学生で、最初のぽっちゃり体型の男性のように平然と戸を開け、白い空間に入って戸を閉めた。一人目は少し勢いがついていて、二人目は穏やかと、利用者の個性が反映されたように感じられる閉まり方だったので、自動ではなくて手動で閉めているのがほぼ確定した。

 戸の向こうにどんな世界が広がっているのかは、自分の目で確かめてみるしかないらしい。

 僕は窓ガラスから背中を離し、戸へと歩み寄る。

 間近から、真正面に見て、学校の教室の戸だ、という印象を改めて抱いた。ゆっくりと右手を引手へと伸ばす。

 しかし、残り五センチまで来たところで急停止する。

 怖い、と思ったのだ。

 なんの変哲もない戸なのに、開けるのが怖い。

 静電気が走る代わりに、五指が付け根から切り飛ばされそうな予感、それに起因する恐怖だ。

 指をそろそろと戸から遠ざけ、右手を腰の横へと下ろす。

 廊下から入っていった三人は、ためらいなく戸を潜っていた。中には危険がないと信じきった人間の挙動だった。

 戸を潜る危険性はない。そう判断するのが妥当だ。

 でも、僕の本能は恐怖している。無視するのも無理やり抑え込むのも難しそうだ。

 危険性がないというのは、あくまでそう見えただけであって、確たる根拠があるわけじゃない。

 僕自身は潜らずに、危険かどうかを確かめられないだろうか?

 廊下から中へ、ではなく、中から廊下へと移動してくる人がいれば、判断材料になるかもしれないけど。

 僕はその手を引手にかけようとした。あれこれ考えずに、ひと思いに開けてしまおうと。

 しかし、右手は再び五センチ手前で止まる。

 その状態から、なんとか五センチの距離を埋めようと力を込めた瞬間、既視感のある感覚に襲われて全身に鳥肌が立った。触れた瞬間に指が切断されるという、あの感覚だ。

 気力が挫けかけたけど、ひと思いに開けよう、という意志はまだ萎えていない。

 再び、指に力を込めた。開き直りに近い思い切りを発揮して、僕はそれを決行した。

 しかし、右手は現在地よりも先に移動しない。まるで膜が立ち塞がっているかのようだ。

 壁、ではなくて、あくまでも膜。どうにかできないわけじゃない、という感じはする。ただし、押せば押すほど硬度を増していく、摩訶不思議な膜だ。

 ただ突破が困難なだけなら百回でも試みるけど、膜を押すたびに例の予感が寒気のように体を駆け上る。それが一度起きるごとに気力をごっそりと奪われる。

 何度も味わっているうちに、本当に切断されるわけじゃなくて、あくまでも予感が走るだけだとなんとなく分かってくる。でも、錯覚だとしても恐ろしいことに変わりはない。気力の消費量が減ったものの、挑戦するたびに失われている。

 恐怖と戦いながら、なんとか突き破ろうと格闘しているうちに、体調に異変が生じた。というよりも、遅まきながら異変に気がついたと言うべきか。

 発汗量がすさまじいのだ。

 現在地は空調がきいた屋内だ。気がつくと見知らぬ空間にいて、混乱の中懸命に状況の把握に努めていたときでさえ、一条も流れなかった。それなのに今は、炎天下で休みなく歩き回っているかのように滂沱と垂れ落ちている。

 それだけにとどまらず、指先が震えはじめた。加えて、動悸。いつからはじまったかは分からないけど、明らかに異常なテンポで心臓が拍動している。その二つの症状は、時間が経つごとに緩やかに悪化していく。

 限界だった。

 様子見していたさいに佇んでいた地点まで引き返し、背中を窓ガラスに預ける。左胸に右手を宛がう。掌越しに感じる鼓動の激しさに、シャツを握りしめた。頭を空にして、少し視線を上げて荒い呼吸をくり返す。

 そんな僕の前を、無関心に通り過ぎていく十人十色の学生たち。

 目頭が熱い。頭を空っぽにしてただ呼吸をくり返す。

 やっとのことで息が整った。手の甲で額の汗を拭い、数分ぶりに戸を見据える。平凡な外観。取るに足らない一介の無機物。

 どうして、あんな戸一枚開けられないんだ?

 馬鹿げている。なにかの間違いだ。

 そう心の中で吐き捨てたものの、再び挑戦する意欲と気力はもはや失われている。

「――帰ろう」

 小さく息を吐いて踵を返した。


『Cafe』の空席に腰を下ろすと、またため息があふれ出した。

 さっきから僕はため息をつきすぎている。

 でも、無理もないよな、とも思う。

 しばらく放心状態が続いた。なにも考えられないし、周囲からの情報のいっさいが脳に入ってこないし、椅子に腰かけた瞬間の姿勢から一ミリも動けない。

 やがて放心するのにも飽きると、左手を腰に当ててテーブルに右肘をついた。つくつもりのなかったため息が出た。

「……なんとかしないと」

 でも、なにをすればいいんだ?

 考えはじめたものの、集中力を保てない。周囲の雑音がひどいわけじゃない。意識を一点に集約できないせいで、むしろ自分とは無関係のささいな音まで拾ってしまっている。

 今聞こえているのは、僕の左隣のテーブルの女性の学生二人組の会話だ。落ち着いた雰囲気ながらも饒舌に言葉を交わしていて、内容は不明。二人分の声が交互に続いているから、ああ会話しているんだな、と分かるだけで。

 いつしか無意識に耳をそばだてていた。聞き取れるようで聞き取れない、もどかしい時間がしばし流れたのち、とうとう断片を掴んだ。

「でも、嫌なことから逃げられてラッキーだと思ったよ。結果オーライってやつ」

 聞き取れたのはその部分だけ。その前後は把握できなかったので、「嫌なこと」がなにを指しているのかは分からない。

 ただ、その発言には心を惹かれた。

 発言者は、逃げるという行為にポジティブな意味を見出している。

 僕はこれまで「逃げる」という選択肢を、基本的には、重要事項の決定の先送りする行為だと捉えてきた。だから自分が逃げたあとは、決まって自責の念に苛まれた。もしくは、しばらくのあいだ放心した。

 でも今回は、これまで自分が選んできた「逃げ」について振り返ってみる。

 不登校、就労拒否、『飛行場』行きの忌避……。

 こまかいものまで数えれば、ありすぎて手が何本あっても足りないけど、その最たるものは、穴に飛び込んだことで間違いない。

『飛行場』行きの強制、死の恐怖、末永の果てしない追求――。

 杏寿の気持ちが弟から離れていっていること、恋人の存在、幸福そうな通話の声――。

 四捨五入すれば三十になる年齢になっても働いていない自分、姉の脛をかじっている自分、社会の落伍者である自分――。

 そんな自分を見つめる市民の冷ややかな眼差し、僕の姿を見かけるたびに交わされる悪意のささやき、配給品を地面にぶちまけてもただ傍観するだけの態度――。

 世の中のすべてに嫌気が差して、なにもかもから逃げ出したくて、死のうと決意した。

 では、穴に落ちてからは?

 いくつか不愉快な体験もした。ただ、不愉快の定義を狭く絞り込めば、該当するのは、白亜の空間に繋がる戸と格闘したことくらい。まだ来たばかり、総走行距離もまだ短いのでなんとも言えないけど、僕に積極的に損害を与える事象が頻繁に発生する場ではないのかな、という印象は受けた。

 不愉快の定義を広げた場合、学生たちの無関心も入ってくる。これで合計二つになるから、少ないとは言えなくないか?

 そんな疑問が過ぎったけど、忘れかけていたことが一つある。僕は一人で気楽に過ごすほうが好きだ。あれこれ話しかけてこられて自分の時間を持てないよりは、ずっといい。だからメリットのほうにカウントしておくべきだ。

 彼らは基本的に僕に無関心だ。『飛行場』行き忌避者や、姉に経済的に寄生するニートとしては見ない。陰口を叩かないし、白眼視もしない。

 名もなき女性Aの言うとおりだ。

 不思議の国のアリスのように穴に落ちて僕がやってきたこの世界は、僕にとってそう悪いものじゃない。

 それどころか、元の世界でいたときは巡り合えなかった、楽園である可能性すらある。

 楽園だというのなら、僕がここに来た理由を、血相を変えて突き止めようとする必要はないんじゃないか。

 そしてもちろん、元の世界への帰り方を模索する必要だってない。

 今僕がするべきは、この世界を全身全霊で堪能することなんだ。

 心が楽になった。胸がわくわくしてきた。

「さて、なにをしようかな」

 僕らしからぬ軽やかでさわやかな声がそうひとりごちた。


 ジーンズのポケットを探ると財布があった。なにも持たずに家を発った気がするんだけど、間違いなく僕の財布だ。中には一万円札が二枚。

 僕は要最小限の買い物しかしないので、普段から必要最少額の金しか持ち歩かない。一万円に達することすら稀なのに、二万円なんて。

 明らかに不自然だけど、この世界がいかに非現実的なのかは身をもって知っている。動じることなく『Cafe』の注文カウンターへ歩を進め、商品のイラストと値段が記されたパネルを見上げる。

 メジャーなスイーツとドリンクがひととおり揃い、少しひねりをきかせた数品が脇を固めるというラインナップだ。この状況で平凡なのは、逆にほっとする。後続の客がいないのでたっぷりと迷って、アイスコーヒーとパイナップルのクレープを注文した。レジ係の女性は、営業スマイルとマニュアルにのっとった模範的な業務態度で、こちらも平凡という感じだ。

 パイナップルソースの甘酸っぱさを感じた瞬間、体が喜びに打ち震えた。ホイップクリームの控えめな甘さと調和していて、かなりうまい。贅沢はできない経済状況ゆえ、安物のチョコレート菓子くらいしか食べない生活を送ってきた影響もあるだろう。アイスコーヒーも、味に深みがあって美味しかったけど、甘い飲み物にしておけばよかったかな、なんて思った。

 あっという間に容器をすべて空にして、周囲を見回す。『Cafe』のテーブル席からは、にぎやかなおしゃべりに耽る集団は今や一組残らず消え、一人であるいは少人数で、なんらかの作業をしながら静かに飲食している者ばかり。

 そういえば今、何時だろう? もう一度あたりを見回したけど、時計はどこにも見当たらない。そういえば、通路を歩いていたときも見かけなかった。

 窓の外は明るい光にあふれている。戸を開けて出現した白亜とは似て非なる、太陽光がもたらした白。つまり、日中。

 穴に落ちたときは、夕方と夜のあいだの夜寄り、くらいの空の暗さだった。今のこの明るさは、一夜が明けたから? だとすれば、当時から十二時間、半日も経ったことになる。そのあいだ、僕はずっと意識を失っていたのだろうか。

 それとも、時間の流れがおかしくなっている? 僕の身に起きていることを考えれば、そちらの解釈のほうがむしろ自然に思える。

 席を立って窓に歩み寄り、指で触れてみる。冷たくてかたい感触。軽く息を吹きかけてみると、薄く白く曇り、すぐに元どおりになる。ごく普通の窓ガラスだ。

 ガラスに指を触れさせたまま観察して気がついたのは、錠がどこにもないこと。

 外に出てみたい、という欲求が胸の奥で小さく疼いている。

 窓ガラスを割る? 今はまだそこまで強い願望じゃない。でも、どこを通れば外に出られる、という情報は知っておいて損はないはずだ。

「また移動、かな」


 開けられなかった戸は素通りし、未踏の道を進む。

 左側が前面ガラス張り、右手が鼠色の壁という構造に変わりはない。道が微妙に左右にカーブをくり返しているのも同じだ。

 変化は戸を過ぎて一・二分ほどで現れた。左右の壁際に、風変わりな木彫りの鳥の置物が置かれているのだ。

 モチーフは、カラスやハトのような身近な鳥のこともあれば、非実在と思われる奇怪な姿の鳥のこともある。一貫しているのは、胴を極端に伸ばし、今まさに飛び立とうとしているかのように羽を左右に広げているデザイン。元からその姿勢で置かれているのか、不安定ゆえに倒れたのか、横倒しになっているものもちらほらあった。

 置物にはなんの意味があるのだろう。ただのインテリア? なにかを暗示している? すべて鳥である意味は? 大ホールを出てはじめての戸を過ぎてから出現したことにも意味があるのか?

 疑問符が頭の中で乱舞する。解消しようと試みたものの、なに一つはっきりした答えを出せない。この世界を知るには、やはり人に尋ねてみるしかないのだろうか?

 木彫りのクジャクの脇を通り過ぎた直後、はじめての分かれ道が目の前に現れた。

 今まで歩いてきた道の右側に、幅の狭い道が四十五度の角度で分岐し、一直線に奥へと続いている。窓ガラスがないからだろう、薄暗く、果ては闇に一体化している。通行人の姿も見かけるけど、そう多くはない。

 少し好奇心をそそられたけど、もうしばらく道なりに進むことにする。

 分かれ道を通り過ぎたのを境に、景色は混沌の度合いを増した。

 まず、木彫りの鳥の代わりに花瓶が置かれるようになった。骨董品としての価値がありそうなものから、百円均一ショップで売られていそうな安物までと、ピンキリ。花が活けられているものもあれば、いないものもある。活けられた花は多種多様で、色で統一したとか、季節の花で固めるといった、一目で分かるような法則性はない。挿しすぎたせいであふれ出したかのように花が周囲の床に散らばっていたり、意味深に三つ横並びに空の花瓶が置かれていたり、鮮やかに咲き誇る中に一本だけ萎れている花が活けられていたり。活けられ方は自由奔放で、場のカオスさを深めるのに一役買っている。

 さらには、いかにもここに物を置いてください、飾ってくださいと言わんばかりに、壁がところどころ輪郭線のきれいな立方体にくり抜かれている。天井から、長さの違う紐で吊るされた二十羽ほどの折り鶴の群れ。さながらカラフルな横断歩道のように、交互に床に敷かれたスカイブルーと砂色の帯状の絨毯。

 僕は最初、不可解なものを認めるたびに、そのものがその場所にその形で存在している意味や意図について考察していたけど、やがて深く考えるのをやめた。あまりにも法則性が掴めなさすぎて、意味不明で、真剣に向き合うと頭がパンクしそうだったから。

 夢みたいなものだ、と思う。カオスで、だから意味深で、興味深くて、でもたぶん深い意味なんてないから、考察するだけ時間の無駄。

「夢……」

 この世界は死後の世界なのではないかと考えたことがあるけど、その解釈は盲点だった。

 夢なのだとしたら、僕がいつもよく見る悪夢――校舎の中を延々とさ迷い歩く夢によく似ている。

 恐る恐る、自分の頬をつねってみた。しっかりと痛かった。

「……出口を探さないと」

 窓ガラスは延々と続いている。開閉するための錠、開くことで屋外と行き来できるドアや戸、どちらも見かけない。今の通路を歩きはじめて、たぶんもう十分くらいは経っているというのに。

 まさか、外に出ることは不可能?

 おぞましい可能性。でも、パニックに陥ることはない。広い意味での「出口」候補であれば、すでに見つけている。

 白亜の空間に通じる戸だ。

 この建物からなのか、「この世界」からなのかは定かではないけど、とにかく出口の一つなのは間違いないはず。

 やはり、僕はあの恐怖に立ち向かうしかないのだろうか。

 正直、気が滅入る。

 そうするべきだ、と自分でも認めざるを得ないからこそ。

 今すぐに引き返すべきなんだろうけど、僕はもう少しだけ進むことにする。あと三本、赤い花を活けた花瓶を見るまでは。

 そう心に決めてから十歩も歩かないうちに、壁に斜めにめり込んだ、真っ赤な薔薇を活けた、黒と白のストライプ模様の花瓶を見た。

 二本目は、そのわずか数十秒後に廊下の真ん中にあった。花弁が上方に向かって大きく跳ね上がった、今までに一度も見たことがない奇妙な花だった。

 さらに約一分後、廊下を歩きはじめてから二度目となる分かれ道の窓際に、ヒガンバナが活けられたガラス製の花瓶を見つけて、万事は窮した。

「……くそっ」

 窓ガラスに背中をこすりつけながらその場に座り込む。誰から怪訝な目で見られようが構うものか。そんな開き直りの心境だったのだけど、そういえば彼らは僕に無関心だったと思い出し、両肩に疲労感がのしかかってきた。項垂れ、大きくため息をつく。

「なにが楽園だよ……」

 楽しい園どころか、監獄だ。穴に落ちる前に暮らしていた世界とはまた違った意味で、僕を幽閉し、責め苛む監獄。

 体は疲れているし、心は萎えている。目標は見失っていないけど、この手に掴むのは困難だと感じる。

 それでも僕は立ち上がる。

 視線の先には、細い廊下が奥へと続いている。外への出口を探す活動をいったん休止させた、ヒガンバナの花瓶が置かれた分かれ道の、曲がった先の道。

 僕は最初の分かれ道をスルーし、道なりに進んだ。理由はいろいろあるけど、道が狭くて暗くて、なんとなく怖かったのが理由の一つだ。

 でも、よくよく考えると、戸を開ける恐怖と比べれば取るに足らない。

 戸と向き合うのはまだ怖い。だから、後回しにする。でも、出口探しは真剣に、優先して取り組む。折衷案というやつだ。

「――よしっ」

 小さく声を出して気合いを入れ、細いほうの通路を先へと進んでいく。

 分岐点から見たとおり薄暗い通路だ。定規で引いたようなきれいな一直線で、鳥の置物や花瓶はいっさい置かれていない。人が通っていないのと暗いのとが相俟って、不気味と紙一重のさびしい雰囲気。なにかが待ち受けているような予感がする。

 やがて三叉路に出た。真っ直ぐに進めば、歩いてきたのと同じような雰囲気の廊下。左手は上り階段で、右手はさびれた印象の廊下だ。

 フロアが変われば状況も変わるのでは、という期待感はある。ただ、階下から気配を探ったかぎり、階上から人気は感じられない。身の危険までは感じないけど不気味で、上に行くのは躊躇してしまう。

 上り下りする人間をしばらく待ってみたけど、どちらも現れない。

「引き返す」を含めれば選択肢は四つ。でも今はそんな気分じゃない。だから三。そこからさらに「階段を上がる」の一を引けば、二択。進むのは本道か、脇道か。

 僕は後者を選んだ。

 床は同じ見た目に見えるけど材質が変わったらしく、踏みしめるたびに木材のように軋む。音が持つ不気味さと、古さと暗さが混然一体となって、薄気味悪い雰囲気だ。無意識に少し慎重な足取りになる。

 なにもない。なにも起こらない。その中を進む。

 なにかあってほしい。起こってほしい。今の自分を取り巻く闇ごと吹き飛ばすような、光輝に満ちたなにかが。

 景色に変化があった。

 狭い廊下の幅とほぼ同じ幅の間口が進路に口を開けていた。開けられなかった戸の先にある白い空間を除けば、はじめて僕がたどり着いた別室。

 内部は真っ暗で、白っぽいものがいくつか浮かんでいる。目を凝らしてみて、たちどころに正体が掴めた。小便器だ。

 識別したのを境に、闇がゆっくりと濃度を薄めていき、ほどなく全容を把握できた。

 男子トイレだ。手前に洗面所があって、床はタイル張りで、小便器が三基横並びに整列していて、個室が二室ある。学校にあるような、駅舎内に設置されているような、ごく普通のトイレ。

 小さく息を吐き、中に足を踏み入れる。

 洗面台は清潔で、蛇口を捻ると普通に水が出た。続いて手前の個室を覗いてみる。

 床、壁ともにタイル張りだ。そつなく磨き上げられているにもかかわらず、薄汚いと感じる和式便器。残りが少なくなったホルダーのトイレットペーパーに、床に直に置かれたストックのトイレットペーパー。においをまったく発していないラベンダーの消臭剤。

 暗さという制約に縛られながらも、最大限注意深く観察してみたけど、普通も普通、ありふれたトイレでしかない。

 同時に、懐かしくもある。今は大半が洋式便器だと聞くけど、僕が通っていた小学校は和式だった。個室内の雰囲気は、僕が通っていた小学校のものをそっくりそのまま移設したと説明されれば、信じてしまうくらいに酷似している。

 ただし、いい意味での懐かしさじゃない。むしろ正反対。

 クラスメイトにいじめられ、逃げ込んだ避難先。教室で一人弁当を食べるのが恥ずかしくて、消去法で選んだ食事場所。幼稚だけど悪質で暴力的な集団いじめの現場。

 いい思い出なんて一つもない。学校のトイレにいい思い出を持つ人間なんてあまりいないだろうけど、僕よりもたくさん嫌な思い出を抱えている人間はめったにいないだろう。

 思い出したくない思い出ばかりを思い出してしまう。見る見る憂鬱な気分になっていく。

 向き合いたくない。

 逃げたい。

 今すぐにトイレを出てもよかった。でも僕は、今いる個室から出て、三つある小便器を端から順にチェックする。

 トイレに異状がないかをひととおり確認してから出れば、逃げたことにはならない。急がば回れで、自分の義務を果たしてからこの場から決別したほうが、精神的なダメージが少なくてすむと判断したのだ。

 小便器に異状がないのを確かめた直後、思い出した。そういえば、僕が通っていた学校のトイレには決まって、壁の高い位置に小窓が設けられていた。

 期待に胸を高鳴らせながら視線を走らせた。そんなものはどこにもなかった。

 正直、がっくりきた。

 やはり、この建物に出口はないのだろうか。外には出られないのだろうか。

 半分以上諦めの気持ちで、義務感に操られながら、最後の一つ、奥のほうの個室の中を覗き込んで、僕は凍りつく。

 穴。

 岬の崖下にあったのと同じ、直径約二メートルのとてつもなく暗い穴。和式便器やストックのトイレットペーパーなど、手前側の個室の中にあったもののいっさいが排除され、代わりに壁に穴が開いているのだ。

 入口と出口は、別。

 僕はこちらの世界に来たばかりのころ、穴を通過してこの場所に来たと悟ってすぐ、穴が天井にないのを訝しく思ったけど――なるほど、そういうことだったのだ。

 この建物の内から外に行き来する出入口は存在しない。でも、元の世界に戻るための出口ならある。それが、目の前にある穴。

 僕はこの建物の中への認識を、楽園から監獄へと改めはじめている。出たいのか、出たくないのかと問われれば、前者だと即答するだろう。

 ただ、ネックもいくつかある。

 確実に無事に元の世界に戻れる保証はあるのか? 戻れたとして、降り立つ場所は僕が暮らしている土地なのか?

 そもそも、元の世界に戻るのは僕にとって幸福な選択なのか? 自殺寸前にまで追い込まれるほどの目に遭った世界に戻って、生き直しても、後悔せずにいられるのか?

 葛藤の終わりは突然訪れた。時間の経過によって穴が消滅するのではないか、という懸念が忽然と芽生えたのだ。

 消滅へ向かうかのように穴が徐々に小さくなっていく、などの現象はいっさい観測できない。姉譲りの心配性が生んだ危惧の念に過ぎないのかもしれない。

 ただ、その可能性もあると仮定し、改めて二択問題について考えてみて、僕の心はすぐに決まった。

 もう二度と元の世界には戻れなくなって、一生この世界で暮らす? とんでもない! 一度は絶望した世界とはいえ、二度とあの地を踏めないのは嫌だ。戻ったことで、僕は死ぬほど嫌な思いをするかもしれない。だとしても、戻らないと絶対に後悔する。

 帰ろう。

 小便器にぶつかるぎりぎりまで後ろに下がり、助走をつけて飛び込む。

 意識が真っ黒に塗りつぶされた。


 目を覚ましたとき、僕は冷たい地面に大の字に倒れていた。

 上体を起こし、目と手で全身を確かめる。服装、乱れていない。怪我、していない。痛み、特になし。

 そう言えば、もう一つの世界に来たばかりのときも、同じ要領で確認作業をした。

 では、今いるここは?

 周囲に視線を走らせる。左右を背の低いビルや商店風の建物に挟まれた、狭い路地だ。人通りはない。はじめて見る景色だけど、似たような景色を見たことがある気がする。

 立ち上がり、尻を払いながら右を見て左を見る。左手は行き止まりになっていたので、進むのは右だ。

 一分も歩かないうちに人気を感じた。人声、物音、絶え間ない靴音。僕は足を速める。ほどなく、体を斜めにしないと通れないくらい狭い脇道を見つけた。そこをひたすら直進すると、視界が開けた。

 明かりを灯した商業施設の店舗。思い思いの速度で行き交う老若男女。七月の夜気と混じり合う、人間由来の独特の熱気。

 大通りだ。岬へ行く途中にも通った道。

 元の世界に戻ってきたのだ。

 安堵感が込み上げてきた。でも同時に、抱いたばかりの認識を疑ってもいる。

 本当にここは元の世界なのか? 本物そっくりに造られた偽物なのでは?

 自宅がある方角へと通りを進みながら、絶え間なく周囲に視線を走らせる。鳥を象った木彫りの工芸品がどこかに置かれていないか? ランダムな本数にさまざまな花が活けてある花瓶は? 前方への注意が散漫なせいで、すれ違う通行人とたびたび肩をぶつけた。

 かなり入念に探したけど、そんなものはどこにもない。

 僕は足を止める。目の前の信号が赤だから、ではない。というか、信号はそもそも存在しない。

 元の世界に戻ってきたんだ、という思いが確信に変わり、安堵のあまり立ち止まったのだ。

 中途半端な場所で佇む僕を、ある人は迷惑そうに横目に見ながら、ある人は軽く一瞥しただけで、またある人は見向きもせずに、前後左右を通り過ぎていく。

「あちらの世界」の住人はみんな僕を無視した。こちらから接触すれば応えてくれたけど、そうしないかぎりは完全に無視。

 一方のこちらの世界の住人は、十人十色の反応を見せる。

 通行の邪魔をしている僕が悪いとはいえ、睨まれると腹が立つ。嫌な気持ちになる。でも、そんな人間ばかりじゃない。ある人が眉をひそめた僕を見ても、なんとも思っていなさそうな顔の人間もいるし、無視する人間もいる。少し時間が経てば、心配して声をかけてくる人間も現れるだろうって、僕には想像がつく。

 楽園ではない、かもしれない。

 でも、そうそう悪いものじゃない。

 その考えを片時も手放さずにいられたのなら、あるいは――。

 小さく一つうなずき、僕は歩き出す。

 誰にもぶつからずに我が家に帰ることができた。


 施錠を解いて戸を開くと、まずにおいを感じた。懐かしさが込み上げてきた。鼻に快いとか不愉快とかじゃなくて、ただただ懐かしい。

 台所に入ると、調理中の食材と調理器具が放り出されていた。

 すべて思い出した。

 現実なのだ。

 杏寿が涙を流して「二度と一輝のところには来ない」と宣言して、去ったことは。

 つまり、何日かすれば、末永祐之介が僕の自宅を訪問し、冷然たる態度で『飛行場』へ行くように説得するのも、

 僕が働いていなくて、働く気もなくて、配給品を受け取るときくらいしか外に出ない、『飛行場』行き忌避者だということも、

 すべて、すべて、動かせない現実なんだ。

 怒りにも似た悲しみが襲った。感情に呑まれて、馬鹿げた行動をとらないようにするために、両の拳を握りしめてしばし耐えなければならなかった。

 なんとか鎮圧すると、気持ちを切り替えるように深く長く息を吐き、戸棚から大容量のごみ袋を取り出してごみの片づけをはじめた。それがすんだら、食器を洗う。家事には慣れていないけど、姉さんが手伝いに来てくれるようになるまでは自分一人でやっていた。これくらいなんともない。

 汚れてしまったものを洗い終わったら、今日はもう眠ろう。明日以降のことは考えない。悪い想像ばかりしてしまいそうだから、頭の中は空にしておく。

 そして、まっさらな朝を迎えるんだ。


 前向きな気持ちは長続きしなかった。

 帰還した翌日の夕方に、僕を悩ます二人の片割れである杏寿が家事をしにやって来て、さらにその次の日の昼下がりに、もう一人である末永が説得のために僕の自宅を訪問して、それでおしまいだった。

 杏寿は定刻の午後五時半ぴったりに到着した。レモン色の水玉模様のトートバッグを肩にかけているのもいつもと変わらない。

 ただ、姉さんは明らかに口数が少なかった。挨拶はしたし、昼食になにを食べたかの確認はとったけど、それ以外ではずっと黙っていた。無駄口は叩かないという方針のもとに振る舞っているのは明らかだ。もちろんコスプレもしなかった。

 僕から話しかければレスポンスを得られたかもしれないけど、できなかった。これまでの姉とは正反対の態度に圧倒され、意欲を根こそぎ奪われてしまったのだ。

 表情自体は柔和だ。作った料理も、チンジャオロースにコーンサラダにコンソメスープと、普段どおり比較的手早く作れて、それでいてボリュームと栄養が考慮されたもの。僕が苦手な食材が使われているといった、幼稚な当てつけや嫌がらせもない。料理以外の家事も、どれもていねいに、手早くそつなくこなしていた。

 優しさと思いやりは感じられる。最低限どころか、充分すぎる優しさと思いやりを。

 ただ、気持ち悪い。不安になる。腹立たしい気もする。なにより不可解だ。

 僕たちの関係が根幹から揺らぐような衝突があったのに、なぜ真心を込めた手料理を作るのか。いちいち家まで来て作るのが億劫だから、週六日から頻度を減らして、作り置きの料理などに差し替えようと思う――姉は恋人との通話でそんな意味のことを話していた。僕はばっちりそれを聞いたし、似たような提案を姉は前日に僕にした。それなのに、そんな出来事なんてなかったように振る舞うなんて、いったい姉さんはなにを企んでいるんだ?

 あなたは邪念を内に秘めない人だ。他人を守るために嘘をつくことや隠しごとをすることはあっても、傷つけるための計画を立てて実行に移すような人じゃない。それがあなたの美点だったのに。あなたのそんなところが好きだったのに。

 僕だって反省している。言い過ぎたって、わがままだったって、昨日姉さんにしたことを心の底から悔やんでいるんだ。少しくらいの罰なら受ける覚悟はあるし、提案はもちろん受け入れるべきだと思っている。

 週の半分、四日か三日来てくれるだけいい。洗濯物はこまめに洗ってほしいけど、食事は一週間に一回、時間に余裕がある日に作ってくれれば、それ以外はカップ麺やパンで我慢する。現に、夕食以外はそういう食事ばかりとっているけど、それでも満足できているんだし、その頻度が少しくらい増えても文句は言わないよ。ていうか、言うわけがないじゃないか。

『昨日はわたしに失礼な口をきいたから、罰として一週間はずっと手料理抜きね。そのあとも、もう毎日は作らないから。手抜き? どの口が言っているの。たまに作ってあげるだけでも感謝しなさい。他の家事はちゃんとしてあげるんだから、文句は言わないでよね。今までの、なんでもかんでもしてあげていたのが異常だったのよ。今後少しでもわたしに失礼な態度をとったら、今度こそあんたとは縁を切るからね』

 あなたは黙々といつもどおりの料理を作るんじゃなくて、厳しい態度で僕にそう告げて、今日のところは料理以外の家事だけを片づけて、さっさと帰るべきなのでは?

 でも、言えなかった。

 僕が想像したような罵倒なら、甘んじて受け入れられる。でも、それ以上の厳しい言葉が返ってきそうで、怖くて、言えなかった。

 姉さんはけっきょく、雑談もなにもしないまま、家事をいつものように完璧にこなして帰っていった。


 そして、末永祐之介。

 杏寿の変容の印象が強烈だったせいで、末永の訪問日だということには当日の朝に気がついたせいで、不意打ちでも食らったように慌ててしまった。定刻に響いたノックの音は、いつもどおり慎ましやかだったにもかかわらず、背後から誰かから急に脅かされたみたいに僕の肩は跳ねた。

 続いて聞こえてきた、正体不明のかすかな物音を聞き取ったとき、末永が「上司を連れてくるかもしれない」と言っていたことを思い出した。全身に鳥肌が立った。真実を直視するのも怖いけど、なかなか応対に出ないことに業を煮やして声を荒らげられるのも怖い。震える足で玄関まで行って戸を開けると、

「醍醐さん、こんにちは」

 降り注ぐ小雨を背景に、末永がアンドロイドの表情と声音で挨拶をした。右手には、雫がしたたる紺色の雨傘。物音は傘を畳む音だったのだ。

 上司らしき人物は、同伴していなかった。

 これから末永と戦わなければならないのだと思うと、ささやかな安堵感さえも僕を見放した。

 末永は話に入る前に、持参したバッグから和菓子を取り出した。今日は水羊羹だ。プラスティックの小さな容器に入っていて、色合いを見たかぎり抹茶味。袋入りのプラスティック製のスプーンまで持ってきている。

 もったいぶったような手つきで水羊羹の封を開け、スプーンの封を破り、シャベルのような形状のそれですくって己の口へと導く。予測はついていても、ぺちゃ、ぺちゃ、という食べはじめの音には眉根を寄せてしまう。末永が食べるものがなんであれ、僕は彼が三分の一ほど食べるまで待たなければならない。向こうが話し出さないと話を展開できないから。

 末永は召集に応じるように要求し、僕は病気を理由にそれを拒み、末永はそれを理由に『飛行場』行きは免除されない規定になっていると説明する。

 いつもどおりの代り映えのしないやりとり。

 上司のじの字も出ない、という意味でもいつもどおりだ。

 上司を伴う件はどうなったのだろう。たしかに、次回に絶対に連れてくるとは言っていなかったけど。やっぱり、はったりだった? それとも、今回のところは見送ると判断しただけ?

 胸中で疑問が渦巻く。当然、ぶつけたいと思う。

 でも、言えない。杏寿の場合と同じで、怖いのだ。杏寿のように感情的に強い言葉をぶつけてくるんじゃなくて、末永は末永らしく、あくまでも沈着冷静に対応するだろう。だからこそ、怖い。ある意味では、杏寿よりも。

 話し合いはいつもどおり僕の防戦一方ながらも、なんとかタイムアップまでしのぎ切った。

「時間になりましたので、このあたりで失礼します」

 上司のことはとうとう一言も口にしなかった。


 同じような日々のくり返しだった。

 杏寿は、いつ弟を見捨てるのか。

 末永祐之介は、いつ「上司」という強力な切り札を切るのか。

 二つの事態に怯え、しかし不安と恐怖を根本から払拭するための手を打てず、ただ日々が流れていく。

 それ以上にきつかったのは、人々からの白眼視と陰口が復活したこと。

 配給を受け取りに外に出る週一回の午前十時が苦痛でならなかった。特別な事情がない者以外は受け取りに来なければならず、事情がある者も代行者を寄越さなければいけない規則になっている。僕が代行を頼めそうなのは杏寿一人だけど、彼女はその時間仕事があるから代行を立てている。

『二十五にもなるのに定職に就かないで、家族に迷惑ばかりかけて……』

『「飛行場」行きの義務をこなさないなんて、非国民にも程がある』

『働かざる者は食うべからず。なんであいつみたいな足手まといにも配給を施すルールなんだろう』

 僕にしか聴こえない声で陰口を叩く人間は日を追うごとに増えていき、もはや耳を塞がずにはいられないくらいにうるさい。でも、並ばないわけにはいかない。配給品を受け取らないわけにはいかない。歯を食いしばって、長い行列が消化されるまで耐えるしかなかった。

 配給品が詰め込まれた紙袋を取り落とすことはもうない。あのときのように恥をかきたくないからと、滑稽なくらいに慎重に振る舞っているのが功を奏しているんだと思う。

 ただ、もし落としたとしたら、夏みかんを拾ってくれた少女に再会できるだろうか、と考えることはあった。だから、並んでいるあいだの僕はときに無意識に、ときに意識して彼女を目で探した。

 ようするに、助けがほしかった。

 ただ仕方なく親切をしただけかもしれない、顔も覚えていない赤の他人にすがりつかざるを得ないくらいに、僕は精神的に追い詰められていた。


 息苦しかった。

 僕が生まれ育ったこの世界は、もう一つの世界に行く前よりも格段に生きにくくなってしまった。

 生きづらさを訴える相手を、遺憾ながら僕は持たない。杏寿が弟に愛想を尽かせてしまった今となっては、たったの一人も。


『外出する。帰りは遅くなると思う』

 午後五時半の十五分前というタイミングで、僕はそんな書き置きを残して自宅を発った。

 目的地は、岬の崖下の穴。

 僕は再び、あちらの世界に行こうとしていた。


 岬は今日も無人だ。

 波が打ち寄せる音はかなり遠くからでも聞こえる。昼下がりのクラシック音楽よりも眠気を誘う調べ。きっと人類が滅亡したあとも奏で続けられるに違いない。

 ためらいなく木製のフェンスを乗り越える。まず間違いなく転落防止のために設計されているはずなのに、僕のような運動神経や体力に優れているわけではない人間にも乗り越えられる高さ。その事実からして僕の行動を肯定してくれている。

 別世界への入口を見つめる時間が数秒あったのは、怖くなってためらったんじゃなくて、こちらの世界を見放す理由をひととおり思い返していたからだ。

 足を滑らせるようにして崖から落ち、足を下にして墜落する。

 頭からと足から、どちらから落ちるほうが美しく見えるのだろう?

 そう思った次の瞬間には意識を失っていた。


 落ちたのは前回と同じく『Cafe』のテーブル席が並ぶ領域の端だった。

 ホールを行き交う人々、リラックスした雰囲気の中で飲み物や食べ物を連れとの会話を楽しむ『Cafe』の客、巨大な窓から射し込む温かな白光。

 すべてが前回と同じで、懐かしさに心が温かくなる。それを味わえただけで、ここに戻ってきたのは正解だったと思えた。

 ポケットにおさめたはずのスマホは消えていて、鍵と財布だけを持参している。あちらの世界と間接的に繋がれるものはこちらの世界には持ち込めない、という解釈でいいのだろうか? 実験してみるのも面白いと思ったけど、意識はすぐに『Cafe』のメニューに注がれる。僕がこちらの世界に来て最初にやりたかったことは、なにを隠そう飲食なのだ。

 注文したキウイフルーツとイチゴのケーキは、二種類のフルーツの甘さと酸味が絶妙でとてもおいしい。ただ、この世界でなにをするかの思案ははかどらない。

 食べ終えるまでに出した唯一の結論は、今日は戸を開ける挑戦はしないでおこう、だった。


 ケーキを食べ終えるとさっそく出発した。

 目的は、建物内の散策。

 まずは前回も通ったコースを辿る。相も変わらず廊下は左右に曲がりくねっていて、行き交う人間は学生ばかり。僕に無関心なのも同じだ。

 戸は同じ場所に健在だった。外観、近づきがたさ、なにもかも前回と変わらない。中に入る学生が現れるまで待ってみたけど、開けた先が白亜の空間なのも同じだった。

 食事中に決めた方針にもとづき、戸の前を素通りする。

 分かれ道に差しかかってからは、前回通らなかった道を進んだ。その道には分岐が多く、迷わないように、どちらから来たのかを入念に頭に叩き込んでから進む必要があった。

 おおむねの傾向として、広く明るい道は人の行き来が盛んで、反対に狭く薄暗い道は少ない。多いか少ないかの差はあるけど、ほぼすべての場所に人がいた。椅子などの座るものが用意されている場所以外では、たいていが移動している。

 これだけ人がいるのだから、僕に無関心ではない人間も一人くらいいるはずだと期待していたのだけど、今のところ例外には遭遇していない。

 小さな懸念点はいくつかあるものの、全体としては肩の力を抜いて散策できたと思う。

 大ホールまで引き返し、そこから伸びたもう一つの道、いつも通っている道とは反対方向の狭い道を進んでいく。

 五分ほど歩くと、大ホールを狭くし、『Cafe』の店舗をなくした代わりにダンボール箱が山のように積まれた空間に出た。小ホール、と僕は命名した。

 小型のホワイトボードが設置されていて、文字を消すためのブラシつきの水性ペンが置かれている。左下の隅に著名な猫のキャラクターが控えめなサイズで描かれている他は、純白。ただし、書いた文字なり絵なりを消したらしい跡があった。

「まあ、著作権とかは関係ないから」

 おもむろにペンをとり、世界一有名なネズミのキャラクターをうろ覚えで描いてみる。目の描き方に苦戦して、何度も描いたり消したりしているうちに、この建物内の地図を作るのはどうかと思い立った。

 小さなブラシでボードの表面の黒を消し去り、はじまりの地と小ホールと二つを繋げる通路を描いた。描き上がったのは、片方が肥大化した鉄アレイ。

 この地図をどんどん広げていくんだと思うと、わくわくしてきた。

 さらには、周りの人間の無関心だから、堂々と飲み食いをしながら散策できることに気がつき、テンションはますます上がった。

 このおかげで、多少の暗い通路も臆することなく進んでいけたし、珍奇なオブジェを見かけても寛大な微笑でやり過ごせた。二回目の散策のときに上れなかった階段を上るときは緊張したけど、上った先のフロアは上る前と似たような構造、似たような景色だと判明し、よくも悪くも肩の力が抜けた。

 分岐がないまま長く続く道が多く、距離感が掴みづらいため、正確性には自信が持てない。しかし、なにはともあれ、ホワイトボードには着々と書き込みが増えていった。地図を更新する喜びをエネルギーに、僕は時間も疲れも忘れて歩き回った。

 忘れたというよりも、時間は経過しないし、疲れも覚えない。

 夕方から夜にかけての時間帯に穴に落ちたにもかかわらず、「もう一つの世界」の窓外はずっと明るいまま、という体験を僕はした。つまり、こちらの世界では時間が流れず、外は常に昼間。

 その事実と因果関係あるのかは定かではないけど、肉体的な疲労感を覚えることもない。長い距離を歩いたあとは四肢が重たくなる気もするけど、その感覚はすぐに消える。たぶん、元いた世界で身に着けた常識が作り出した錯覚なのだろう。

 さらに言えば、空腹にはならないし、眠くならないし、便意も催さない。検証はしていないけど、性欲に関しても同じだと思う。

 ただ不思議なもので、体が欲さなかったとしても、食べたくなったり眠りたくなったりすることはある。だからその場合、僕は逆らわずに『Cafe』でスイーツやドリンクを飲食したし、陽光が射し込む窓際で午睡した。

 やっぱりここは楽園だ。

 僕はいつしかそう認識を改めていた。


 楽しむことのくり返しの中で、流れるはずのない時間が流れていく。

 広大で果てがない建物内は、いくら歩いても飽きない。少々単調なのが逆に幸いして、分かれ道や階段を発見したときはむちゃくちゃうれしくなる。みんな僕に無関心なので、鼻歌やスキップやひとり言、その他の少々下品な行為などが平気でできるのもありがたい。

 疲れや眠気とは無縁だから、歩こうと思えばいくらでも歩ける。ふと気がついて足を止め、そういえばもう何時間歩いているんだっけ、と呆然としてしまうこともしばしばあった。最初のころは、何時間が経った、何日が過ぎたのかを漠然とカウントしていたんだけど、すぐにこんがらがってわけが分からなくなって、やめてしまった。

 だから、とにかく長い時間が流れたとしか言えない。総歩行距離はそうとうな数字になるはずだ。

 それにもかかわらず、開けられずにいるあの戸以外の戸や扉を、僕は一度もお目にかかっていない。

 さすがにおかしいんじゃないか、と本気で思いはじめた。

 僕は僕がいるこの建物を「大学のようなところ」と見なしているけど、それなら教室があるはずなのに、一か所も見かけないなんて。

 あの戸を潜れば、教室などが入っている別棟に行けるようになっているのかもしれないとも考えたけど、だとすれば戸を潜る人間が少なすぎる。一・二時間くらい見張り続けたこともあるけど、潜り抜ける人間はいつもまばらだった。

 僕は「出入口」を意識しながら散策するようになった。恐らくはそれが引き金となり、こんな声を聞くようになった。

 お前は自らの手であの戸を開かなくてはならない――。

 建物内をくまなく歩き回り、地図を拡張することに時間を費やしたい。その思いは健在なのに、僕にしか聴こえない、どこで誰かが発する声が邪魔をする。賢人からの温かみのある忠告じゃなくて、独裁者の高圧的な命令のような響きを孕んだ声が。

 最初は無視した。声は回数を重ねるごとにしつこさを増した。次にささやきかけてくるまでのスパンが短くなっていったし、一回につき何度も同じセリフをくり返すようになった。

『僕の人生にあの戸は関係ない。放っておいてくれ。お節介はよしてくれ』

 僕はとうとう、心の中で声に向かって怒鳴りつけた。すると、声は呆気なく聞こえなくなった。

 対処法が判明して安堵したのも束の間、敵はまた現れた。一喝されたことなど忘れてしまったかのように、相変わらずのしつこさで僕に呼びかけてくる。

 不快感に騙されて勘違いしがちだけど、頻度は最短でも半時間に一度ほどと、そう高いわけじゃない。煩わしくて厄介なのは、声の内容と質、そして防ぎようがないこと。

 僕はやがて、声は学生たちが発しているのではないかと疑いはじめた。

 戸のところへ行くべきだ、そんなことをしている場合じゃない、なぜ開けない――。

 誰かとすれ違うたびに、はっとして足を止めて振り向く。その人物は僕には見向きもせずに歩み去る。脳内で時間を戻して口元を注目してみるけど、唇は閉ざされていて微動だにしていない。視線の方向も僕ではなく、自らが手にしているスマホの画面、もしくは並んで歩いている連れの顔だ。

 勘違いだと頭では理解できても、疑いは解消されない。それどころか、冷笑的で侮蔑的な眼差しを彼らから感じるようになった。

 至近距離をすれ違ったり横切ったりしても、決して視線は交わらない。素早く振り向いても、誰も僕のほうなんて見ていない。

 それなのに、僕へと注がれる視線を確かに感じる。「お前は戸を開けるべきだ」というささやきと合わさることで、プレッシャーと不快感はすさまじいものになった。

 白眼視と陰口。これではまるで。

「元の世界と同じじゃないか……」

 いや、すべて気のせいだ。ここは楽園であり、彼らは僕に本質的に無関心のはず。荒唐無稽な疑念に心を悩ませてなんかいないで、堂々と自分がしたいことをして、楽しみたいことを楽しむべきだ。

 そう自分に言い聞かせたものの、効果は乏しい。ストレスは雪だるま式に膨らんでいき、不安定な精神状態が常態化した。

 さんざん打ちのめされた僕がとる行動は、どちらの世界だろうと一つしかない。

 逃げたのだ。

 こちらに来てはじめて食べたスイーツであるパイナップルのクレープを、小ホールのホワイトボードの前に胡坐をかいて食べていた僕は、唐突に「もう限界だ」と感じた。二口かじっただけのそれを真下に落とすように床に捨て、目的地に直行する。

 穴は男子トイレの奥の個室内に健在だった。

 僕は確信していた。穴を潜った先は、前回のように元の世界だということを。そして、この世界を去れば、「戸を開けなければならない」という声から逃れられるということも。

「……さようなら」

 ひとりごち、ためらいのない足取りで穴の中に入っていく。


 二つの世界を往復する生活がはじまった。

 現在いる世界で生きることにどうしようもなく耐えがたくなると、薄暗いトイレへ足を運び、あるいは岬の断崖から飛び降り、ここではない世界へと旅立つ。しばらくはその世界で暮らし、嫌気が差せば、ただちにここではない世界へと逃げる。

 滞在期間は、最低一週間。どんなにつらくてもそれだけはがんばろう、という目安が七日間だったのだ。もっとも「もう一つの世界」では時間の流れを感じ取れないので、体感という曖昧な物差しで計るしかないのだけど。

 一週間という期限に関して、僕は僕らしからぬ粘り強さでよく耐えたと思う。でも、その我慢強さを「別世界に逃げない」ことには転用できなかった。どうしても逃げてしまうのだ。

 滞在日数は、往復を重ねるたびにじわじわと短縮されていった。三日ほどにまで縮まったときは、これではいけないと思い直して立て直したけど、すぐにまた六日五日と、ずるずると我慢弱くなっていく。

 危機感を抱いた僕は、源泉を叩くことで事態の打破を目論見た。

 末永祐之介に対しては、ガードを捨てて攻撃的に向かっていった。若年の成人男性は『飛行場』へ行かなければならないという政府の決定は大間違いだと、歯に衣着せぬ物言いで批判する。かつて末永が口にした「上司を連れてくる」は口から出任せだ、子ども騙しの馬鹿げた嘘だ、あなたたちの側がいつまで経ってもその手を打たないのがなによりの証拠だと、挑発するようなことを言う。

 行動を起こしたのは、大喧嘩から時間が経ち、徐々に短い雑談なども交わすようになっていた姉の杏寿に対してもそうだ。

 今まではわがままが多くて姉さんにさんざん迷惑をかけてきたから、これからなにかお願いするときは、ちゃんと姉さんの都合も考えるようにするよ、と反省の弁と配慮の意向をセットで伝える。口や態度が悪くなることもあるけど、姉さんを信頼しているからこそだ、姉さんがいないと生きていけないから僕を見捨てないで、と情に訴える。逆に、僕が自立するまでサポートすると約束したのは姉さんなんだから、途中で嫌になったとしてもサポートを続ける義務がある、それを忘れないでよね、とふてぶてしく釘を刺す。

 二人に対する作戦は、上手くいったとは言いがたい。

 末永はどんな言葉も沈着冷静に受け止め、あくまでも『改善課』の一介の職員として発言に対処した。挑発に乗って感情的になる愚は犯さないし、僕の現状を限定的に是認することも、心から同情してみせることも絶対になかった。

 杏寿は、弟が発信するどんな発言にも形式的に相槌を打つだけで、充実したサポートを永続的に確約する言葉は絶対に返さなかったし、以前のような親密さを見せることもなかった。

 そして、戸を開ける努力。

 戸の前に行くまでがひと苦労だった。脚は震えなかったけど、まるでスニーカーが水をふんだんに吸ったみたいに足取りは重い。戸に相対してしまえば、挑まずに逃げる醜態は晒さなかったけど、向こう側こちら側、どちらからでもいいから戸を潜る人間が現れて、その人に道を譲るために今いる場所から退きたいとは思った。

 指が切断される錯覚の記憶はいまだに鮮明で、手を伸ばすのが恐ろしい。右手を戸のノブの高度まで持ち上げるのさえひと苦労だ。手首に錘をつけているかのように、普段無意識にするように軽やかには動かせず、ときにはかすかに震えることさえある。

 苦心して手の高さを合わせれば、次は引手に指をかけるフェイズだ。右手を、その五指を、目標へと近づけるさいに覚える感情は、恐怖一色。その感情は残された距離に反比例して増していく。一定程度近づいても、膜が阻む。さらには追い打ちをかけてくる、指が切断される恐怖。

 障壁がたった一つだけなら、開き直って思い切れたかもしれない。でも、二つは無理だ。

 困難から逃げるのが特技の僕は、挑戦を早々に断念して窓ガラスまで撤退する。発汗量の増大、動悸、体温の上昇。ガラスにぐったりともたれかかったまま、戸に挑んでいるよりも長い時間、体を休めることになる。

 症状が治まっても、うずくまったままなかなか動けない。やっと立ち上がって戸を睨みつけるけど、威勢がいいのは目つきだけ。再挑戦することは絶対になく、大ホールの『Cafe』のテーブル席へと逃げ帰る。椅子にただ座って十分もニ十分もぼーっとしたあとで、冷たい飲み物を注文する。

 違う世界に逃げたくなるのはいつだって、挑戦に失敗したあとだ。

 往復生活がはじまったばかりのころは耐えられていたけど、挑戦と失敗が積み重なるにつれて、失敗のたびに移動しているといっても過言ではないくらい頻繁になった。

 僕はいつしか。今いる世界でいかに充実した暮らしを送るかではなく、逃げることばかり考えながら生きるようになっていた。


 慢性的な疲労が気力と活力を奪い、積極性を発揮するのを阻害していた。

 煎じ詰めれば、世界から世界へと移動するだけの日々。

 そんな状況で変化が起きるとすれば、移動中に思いがけない偶然に遭遇するしかない。


 その偶然が起きたのは、日曜日、穴に飛び降りるために岬へ向かっていたときのこと。

 自宅を発って約五分、僕は道を右折した。大通りへと向かう並木道で、土日以外でも比較的人通りが多い。

 岬へ行くには大通りを通るのは必須だけど、大通りに出るまでの選択肢は二つある。一つは、それなりに人通りは多いけど所要時間をニ分ほど短縮できる、並木道。一つは、二分だけ遠回りになるけど通行人があまりいない、三日月のようにカーブした道。

 人口密度の高さか、体力を消費させられることか。どちらの世界で生きるのにも疲れた僕は、気分次第で嫌になる対象が変わる。今日は後者だったので、並木道を通ることにした。その選択が、思いがけない人物を発見する未来に繋がった。

 末永祐之介だ。

『改善課』の職員。僕の説得を担当する男。……僕の宿敵。

 問題の男は赤信号に足を止めていた。フードつきの黒いパーカーに迷彩柄のチノパンツという出で立ち。何気なくといったふうに右を向いたときに横顔が見えたのだけど、それが末永のものだったのだ。

 息を呑んで男を見つめる。

 男はすぐに顔を正面に戻した。後ろ姿からは、彼が末永だと判断できる要素はないけど、僕は男が末永祐之介だと確信していた。

 男から目を離さずに歩を進める。赤信号は長い。十メートルほどに迫ったところで、これ以上は危険だと判断、街路樹の陰に身を隠す。

 通行人が怪訝そうな眼差しを僕に投げつけてくるけど、男からは目を離さない。赤の他人から白い目で見られるのにはもう慣れた。

 信号がようやく青に変わった。末永は左右を軽く確認してから横断歩道を渡りはじめた。そのさいに見えた顔は、間違いなく末永祐之介だった。スーツ姿を見慣れているせいで、確信に至るのに少し時間がかかったらしい。細い眉、切れ長の目。表情から受ける冷たい印象は少し和らいでいる、気がする。

 あとを追って僕も歩き出す。

 背後から見た末永祐之介は、単なる歩行者Aという印象だ。狭い居間で相対し、呼吸の仕方さえも忘れそうになる緊張感をさんざん味わってきた僕としては、その凡庸さに軽く戸惑ってしまう。

 歩くのは速くも遅くもない。周囲には無警戒で、肩の力は抜けているようだ。今は末永にとってプライベートの時間で、時間には追われていない。その二つは間違いないと思う。でも、具体的になんの用事で外出しているのかまでは分からない。

 誰かを尾行するのははじめてだけど、末永をつけるのに特に難しさは感じない。ただ、いつ気づかれるかという緊張感はある。

 ――それにしても、末永の目的はなんなんだ?

 不意にターゲットの足が止まった。信号待ちかと一瞬思ったけど、進行方向の歩行者信号は青、末永の体の向きは横で、視線の先には商店がある。開け放たれた入口から店内を見ている。

 店は、花屋。

 末永はおもむろにチノパンツの尻ポケットに手を入れた。取り出したのは、シンプルなデザインの黒い財布。

 僕はそれよりも、財布を取り出したさいにポケットからこぼれ落ちたものに関心を惹かれた。薄くて軽いもののようだ。

 末永は財布の中を簡単に確認し、ポケットに戻して入店した。よく利用する店に気兼ねなく入ったという感じ。自分が落としたものには一瞥もくれなかった。

 尾行対象が立ち止まっていた地点まで移動し、店内をうかがう。多種多様な花が陳列され、馥郁たる香りで満たされた、いかにも花屋という感じの空間。末永の姿は確認できない。

 落ちたものを拾い上げる。写真だ。二名の若者が肩を組んでピースサインをしている。

 右側に写っているのは、末永祐之介。今日彼が着ているのと似た、黒を基調としたカジュアルな服を着ている。末永と同一人物なのは一目瞭然なのに、写真の男性が末永だと断定を下すまでに数秒かかったのは、その顔いっぱいに笑みがたたえられていたからだ。屈託のない、光輝に満ちた、さわやかな笑みが。

 常に無表情で、憎らしいくらいに落ち着き払っていて、淡々と仕事をこなす人間の笑顔だと考えると不自然だ。でも、健全な若者の笑顔だと考えればしっくりくる。

 仕事中のあの人間味のなさは、なんなんだ。そんな憤りも混じったような困惑の念が込み上げてくる。

 末永と肩を組んでいるのは、若い女性。幼さの残る目鼻立ちで、底抜けに明るい満面の笑みだ。ショートボブを明るい金色に染めていて、筆記体で英文がプリントされたショッキングピンクのTシャツ。豊かな胸が末永の胸に密着しているけど、双方ともにそれを微塵も気にかけていない。

 妻なのか、恋人なのかは分からないけど、とにかく末永には異性のパートナーがいる。

 説得される人間として相対しているかぎり、人間味が欠如した、冷酷な役人でしかないあの男に。

 僕は雷に打たれたみたいにショックを受けた。体が芯から震え、数秒でおさまる。そして、絶望だけが残った。

 あんななにを考えているか分からないような男でも、人並みの幸福で豊かな人生を送っているというのに、僕は、僕は――。

「……死のう」

 そうぽつりとつぶやいた。

 現在の世界で生きることが嫌になって別世界に逃げても、また別の、その世界ならではの嫌なことが待っているだけ。どちらの世界に拠点を置いたとしても、人並みの幸福を手にすることすら僕にとっては夢物語。

 だったら、死ぬしかない。

 こちらの世界でもあちらの世界でもない、第三の道へ進むんだ。

 あの日にし損ねた自殺を、今度こそ完了させる。それが、これまでの人生でなに一つ成し遂げられなかった僕の、最初で最後の大仕事なんだ。

 決めてしまうと、心が少し軽くなった。入店して、末永の肩を叩いて話しかけられそうな気さえした。しかし心の底の底では、この胆力は前向きな目的に使うために天与されたものではないと冷静に悟ってもいた。

 店先でいつまでも突っ立っている僕を怪訝に思ったらしく、店の奥から中年女性が歩み寄ってきた。この店の従業員だ。彼女に写真を差し出し、先ほど入店した男性客が落としたものだと伝える。従業員は落とし物を持ち主に渡す役割を快く引き受けてくれた。

 僕は下手くそな鼻歌を歌いながら花屋から遠ざかった。


 最初は岬に行こうと考えたけど、あそこには穴がある。穴を避ける形で飛び降りればいいだけなのかもしれないけど、実際に飛び降りてみて感じた、穴に吸い寄せられるようなあの身体感覚。たぶん錯覚だと思うんだけど、もし本当に吸引されてあちらの世界に行ってしまったら、仕切り直すのは億劫だ。

 岬までの道のりを歩きながら、いい案はないかと考えているうちに、閃いた。

 ヒントをくれたのは、偶然目にとまった高層ビル。

 最初に目をつけたビルは、中に入らなければ屋上まで行けない構造になっていた。そこで少し離れた場所に建つ、最初よりも少し低いビルまで行ってみると、こちらには外階段が備わっていた。上り口を塞ぐチェーンを潜り、階段を上がる。

 鉄製の階段は音がやたら響く。人気を感じるフロアもいくつかあった。しかし、誰にも気づかれないまま屋上に到着した。

 ビルの巨大さと比べると狭く感じられる、殺風景な空間だ。金網フェンスが張り巡らされていて、高さは僕の背丈の二倍ほど。

 実質以上に高く感じるてっぺんを見据え、上りはじめる。間歇的に吹きつける強風に邪魔されたものの、金網なので手足をかけやすく、比較的スムーズに最高地点に達した。今度はフェンスの向こう側の空間へ。下りるのは怖かったけど、上るときの半分の時間で床に靴底がついた。

 体の向きを変え、後ろに回した手でフェンスをしっかりと掴み、地上を見下ろす。

 片側一車線の道路が左右に走っている。車道を車が流れ、歩道を行く人の姿はまばらだ。僕の現在地、ビルの屋上を見上げる者は誰もいない。

 真下に広がっているのは、かたいアスファルトの路面。ほんの少し期待、あるいは危惧していたのだけど、岬やトイレにあるような穴は地上のどこにもない。

 つまり、飛び降りれば確実に死ねる。

 地上で活動している人々の無関心ぶりを眺めていると、僕が飛び降りて死んで、醜くつぶれたトマトのようになったとしても、誰も見向きもしない気がしてくる。

 考えようによってはさびしいことなのかもしれない。でも、自分が死んだあとのことは知る術がないのだと思うと、どうなったってかまうものかという大胆で投げやりな気持ちになる。

 両手をフェンスからそっと離す。

 風が少し強くなった気がする。今、僕の命を繋げているのは、狭い床を踏みしめている両足だけだ。

 飛び降りよう。死のう。すべてを終わらせよう。

 右足を一歩踏み出そうとした。しかし、凍りついたように動かない。

 僕はちょっとした衝撃を受けた。

 今度は心の中ではっきりと「動け」と命じたうえで、改めて踏み出そうとした。しかし、一歩どころか一ミリさえも前に行ってくれない。

 右足のコントロール権を僕が握っている感覚は覚えている。ただ、重い。重すぎるせいで、動かしたいのに動かない。動かせない。

 一瞬、右足が痙攣した。

 数拍を置いて、両脚が小刻みに震えはじめた。

 断続的に吹き抜ける風の音のあいだの隙間を縫って、少し荒い呼吸音が耳に届いた。僕が息を吸っては吐いてをくり返している音だ。

 再び両手を後ろに回して金網フェンスを掴む。がしゃり、という音を聞いて、両手の十指にいっそう力を込める。

 顔はいつの間にか、地上ではなく遠くの家並みを見ている。まだ明るい空を背景に佇む、色や形もさまざまな平凡な民家の群れは、牧歌的という形容詞を使いたくなる。

 対照的に、僕の動揺は激しく、鎮静する兆候は見られない。

 ……怖い。

 そう、怖い。

 僕は怖かった。高い場所から飛び降りることが。死ぬことが。

 なぜ? なぜ怖いんだ?

 金網の冷たさを唯一の慰めのように指と掌に実感しながら、懸命に頭を働かせる。花屋の店先で思い立ってからずっと、決意はかたいままだったのに、揺るぎなかったはずなのに、なぜ土壇場になって怖気づいたんだ?

 ――『飛行場』。

 その言葉が脈絡なく頭に浮かび、次の瞬間にはすべてを悟っていた。

 僕が『飛行場』行きを断固として拒絶し続けているのは、なぜか?

 性格的なこととトラウマとの合わせ技で、僕は人よりもはるかに、集団生活へ組み込まれることを恐れている。ただ、そうは言ってもやはり、死の恐怖はそれをはるかに凌駕する。たいていの人間にとっての最上級の恐怖だ。

 噂を信じるなら、『飛行場』は兵士の訓練場で、そこで訓練を受けた人間は戦地に赴かなければならない。戦地に行けば、死ぬ可能性が高い。『飛行場』に行って帰ってきた人間は、現時点で一人もいない。

 ようするに、死ぬのが怖いから、死にたくないから、僕は『飛行場』に行きたくないんだ。

 矛盾するようだけど、実行せずにはいられないくらい自殺願望が高まっていた時期もある。自殺の名所と言われている、街外れの岬にはじめて足を運んだときがそうだ。ただ、今になって当時を振り返れば、崖下に穴が待ち構えていなかったとしたら、跳べていたかはかなり怪しいと思う。「確実に死ぬ」という可能性以外にも、「もしかしたら死なないかもしれない」可能性があったからこそ、僕は飛び降りたんじゃないか。

 一方、現在地であるビルの屋上は、飛び降りれば確実に死ぬ。

 だからこそ、僕は飛び降りられないし、四肢が震えるほど恐怖している。

 あちらの世界で戸を開ける行為についても、似たようなものだ。

 あの戸はどう考えても普通の戸じゃない。他の人間は普通に開けて、普通に潜って姿を消していたけど、僕が同じことをしても無事だとは限らない。もしかしたら死ぬんじゃないか。

 そう思うと怖くて、怖くて、どうしても開けられなかった。

 屋上から跳べずにいるのも無理はない。

 自殺の意思がかつてないくらい高まっていた岬でも、「死なない可能性もある」からということでやっと跳べた僕が、「死ぬ可能性もある」選択肢を選べるわけがないじゃないか。

 僕は死にたくない。

 これまでの人生、僕はさんざん逃げてきたけど、死という逃避手段は決して選択できなかった。

 込み上げてくるものがある。反射的に抑え込もうとした。すると、指先で全身を弱くくすぐられているようなむず痒さに襲われた。我慢しようとしたけど、すぐに耐えられなくなってぷっと噴き出した。

 僕は笑った。

 ひとたび笑ってしまうと、歯止めがきかなくなった。声は一段飛ばしで高まっていき、やがて大気を震わせるほどの呵々大笑へと変わった。

 死にたくない!

 そう強く願うゆえに、このくそったれな世界から逃れられない!

 なんという喜劇だ! なんという茶番だ!

 笑いすぎて、あろうことか片手を金網から離してしまい、左足がコンクリートの縁から九十パーセント以上ずり落ちた。足元から吹き上がってきた冷気に、笑いの虫は驚くべき素早さで穴倉に引っ込んだ。

 残っている足の踵に力を込めて体を大地に縫いつけておいて、片手で金網を掴み直し、足を元の位置に戻す。特大のため息があふれ出した。

 ああ、僕、やっぱり死にたくないんだ……。

 本心を知った以上、挑戦を続行しても時間を無駄にするだけだ。黙々と、行きと同様に苦労しながらもフェンスの向こう側に戻り、ぐったりと床に座り込む。

 考えなければならないことがある気もするけど、頭が回らない。風が強くなったわけでもないのに少し寒い。

 腰に持病を抱えた老人のような挙動で立ち上がり、来た道を引き返した。


 世界は見る見る暗くなっていく。

 機械的に両脚を動かしながら、思う。

 どちらの世界にも僕は安住できない。

 でも、死ぬのは嫌だ。死ぬのだけはごめんだ。

 だったら、どこへ行けばいい?

 生まれ落ちたこの世界でもなく、もう一つの世界でもない場所――。

 第二の世界があったんだから、第三の世界もあるのでは?


 第三の世界を探す。

 それが僕の新しい目標になった。

 茨の道だった。道なき道を、方向が正しいかも定かではないにもかかわらず、「こちらではない」と確信できるまで突き進まなければいけないのだから。

 第三の世界があるのだとすれば、入口は直径二メートルの暗い穴。第二の世界の出口と入口がそうだったんだから、他の世界の入口もきっとそのはずだ。

 問題は、穴がどこにあるのか。

 一つは岬。一つは広大な謎の建物内のトイレ。

 二つの場所に共通点はない。強いて言えば、片や自殺の名所、片や誰からも忘れられたような場所にあるトイレだから、どちらも陰気な場所ということになるだろうか。

 ただ、この結びつけ方は我ながら強引だと感じる。それに「陰気な場所」という括りが正解だとすれば、候補地があまりにも多すぎる。

 あんな穴が発見されれば普通はニュースになる。なっていないということは、誰も訪れないような場所でひっそりと口を開けているのだろう。

 ただ、このご時世に、自殺の名所として有名な岬に、僕以外は誰も足を運ばない、なんてことがあるのだろうか? 自殺を考えている人間は、精神構造なり精神状態が常人とは違うところがあって、全員が全員、自分だけの秘密にしているとでもいうのか? それとも、穴の存在を知った者はみな飛び降りて命を絶ったから、公にはされていないだけ? いや、死んだんじゃなくて、穴の中に消えて「あちらの世界」で生を謳歌している? でも、僕はあちらの世界を歩いているあいだ、元の世界から穴を通ってやって来たらしい人間は一人も見かけていない。

 もし僕みたいに別世界に行ける人間がいるのだとしても、個人によって行ける世界は異なるのだろう。

 つまり、あの穴が見えるのは僕だけ。

 新しい穴は僕が自力で見つけ出すしかない。

 思いつくかぎりの「陰気な場所」を徹底的に探してみた。

 しかし、穴には出会えなかった。

「陰気な場所」の定義は広い。探そうと思えば永遠にでも探せそうだけど、そのとりとめのなさにやがて気力が萎えはじめた。末永との対決、杏寿との冷戦。二つの戦いと並行して苦行に臨まなければならないのだから、無理もない。

 そしてとうとう、僕は穴探しを断念したのだった。


 代わりにするようになったのが、万引き行為。

 きっかけは、僕と同じ行為を犯した者の多くが取り調べに対して語るように、魔が差したから。

 厳密に言えば、外側から魔が影響を働きかけてきた結果というよりも、無意識の領域で密かに育ってきた悪の種が急に芽吹いた、と表現したほうが感覚的に近いかもしれない。ただ、ではなにが原因で芽吹いたのかと考えても、これという理由は思い浮かばない。だからやっぱり「魔が差した」という使い古された曖昧な表現一つで説明を終えてしまったほうが、真実をもっとも正確に言い表しているんじゃないかと思う。

 二つの世界を往復する生活を送るようになってからは、配給品の受け取りと、穴がある場所へ向かう以外には外出しなくなっていた。一方で、穴を探すのをやめてからというもの、一日中家にこもっていると鬱々としてやりきれなくなることがよくあった。ようするに、ストレスがたまっていた。

 当然、解消しようと考える。ただ、目的も持たずに屋外をぶらぶら歩くのは嫌だ。そうは言っても金はかけられないから、好物を買ってきて家で食べるのが無難ということで、散歩のついでに食料品を買って帰るようになった。

 その日立ち寄ったのは、最寄りのスーパーマーケット。野菜売り場を素通りし、菓子売り場に向かっていた僕は、違和感のような感覚を覚えて足を止めた。気のせいですませることもできたのだけど、スルーするのも悔いが残る気がして、入念に答えを探した。

 そして気がついたのは、周囲にはある程度の人がいるものの、誰も僕に注目していないということ。

 ああ、これ、万引きしようと思えばできるな――。

 はじめは「やってみたら面白いかもしれない」程度だった。でも、その場に立ち尽くしてその選択肢と向き合っているうちに、「やってみよう」という強い欲求に変わった。

 再び、周囲をうかがう。状況はほぼ変わっていない。すなわち、客の配置とメンバーは多少変動したものの、犯行に踏み切るのにもってこいの環境のまま。

 僕のもっとも近くに陳列されていた商品は、普通のサイズの真っ赤なトマトだった。弱い冷気の中、腰の高さにある棚に正円の穴が無数に開いたボール紙が敷かれ、一つの穴につき一個ずつおさまっている。

 値段を見て、高いなと思った。それが最後のひと押しとなった。

 一列目の一番左のトマトをむんずと鷲掴みにする。軽く周りを見回してから、ポケットに押し込む。見下ろしたジーンズの生地は不自然に膨らんでいて、苦笑いがこぼれた。

 ただ、慌てない。菓子とジュースをいくつかかごに入れ、普通に会計をすませて普通に店を出た。子どものころに万引きがテーマのドキュメンタリー番組で観たように、出入口の自動ドアを潜ったとたん、追いかけてきた店員に肩を叩かれる、なんてことはなかった。高鳴っていた鼓動は、店から遠ざかるにしたがって落ち着きを取り戻していき、自宅に着いたころにはほぼ平常になっていた。

 帰宅後は、買ってきたばかりの商品を飲み食いした。気分がよかった。いつも食べている安物の菓子やジュースはまるでご馳走だった。食べているあいだは嫌なことはすべて忘れられた。盗品のトマトは捨てた記憶がないから、生のままかぶりついたんだと思う。

 それからは外出するたびに、なにか一つ、商品を盗んでくるのが目標になった。犯行のチャンスがある場合と、難しい場合、両方あったけど、無理はしない方針をとった。成功すると確信したとき以外にしか犯行に踏み切らないように心がけたし、踏み切った場合には確実に成功させた。

 同じ店での犯行は極力避けたかったけど、生活圏内で営業している店の数は限られているため、ローテーションを組んで順番に決行した。ただ犯行と犯行のあいだをあけるだけじゃなくて、犯行時間帯も盗む商品のジャンルも変え、着ていく服の雰囲気も極力変えるなど、工夫を惜しまなかった。

 油断も慢心もしたつもりはないけど、ひやりとする場面もときにはあった。

 誰もこちらを見ていないのを確認してから、商品をおさめるべき場所におさめる。顔を上げると、細面の中年女性の僕のほうをじっと見ている。背筋が凍える。金縛りに遭ったように動けずにいると、女性が僕へと歩み寄り、右手を伸ばした。彼女が触れたのは、僕の肩ではなく、僕のすぐそばの棚に陳列された特売の薄切りハム。逃げるようにその場から離れたのは言うまでもない。

 それと似たようなことが、五回に一回くらいのペースで起きるようになった。

 薄々気がついていた。「周囲にある程度の数の客がいるが、誰も一輝に注目していない」という状況は、絶対の成功条件ではないことを。慎重な性格だから、一か八かの犯行に踏み切るのは避けているのと、運に助けられているのとが相俟って、実行総数がまだそう多くない今のところは成功が続いているに過ぎないことを。

 いい加減、手痛い失敗をするぞ。もうそろそろやめておけ。初犯は大目に見てくれるとどこかで聞いたことがあるけど、僕は『飛行場』行き忌避者だから、一回の犯行でも重い責任を負わされるかもしれない。

 ストレス解消になっているのは認めよう。でも、ばれたときのリスクが大きすぎて、割に合わなくはないか。

 これまでにさんざん戦利品を得ただろう。そのたびに気分が晴れただろう。だから、もうこのくらいで満足して足を洗え。

 万引きを生きがいに生きるのが三つ目の世界? そんなのは馬鹿馬鹿しいし、虚しいだけだろうに。

 その都度文言を変えて、くり返し自分に言い聞かせたけど、どうしてもやめられなかった。

 たった一個、欲しくもない、高い価値があるわけでもない商品を盗む行為に、なぜこうも夢中になるんだ?

 僕は分からなかった。分からないから、やめられなかった。


 犯行のスパンは次第に短くなっていく。経験を重ねたことで、盗みやすい店・盗みにくい店が分かってきたので、盗む店はある程度絞った。

 一番のお気に入りは『平井屋』という個人経営の小さな店。食料品を中心に日用品なども取り揃えられていて、古風な個人経営のコンビニエンスストアといったところか。繁華街からも住宅街からも遠い辺鄙な場所に店を構えていて、新規の犯行場所を探してさ迷い歩く中で発見した一店だ。

 狭い店内には、天井に達する陳列棚が狭苦しく並べられ、死角は多い。インスタントの紅茶はあるけどコーヒーはないといったように、品ぞろえの歪さが見え隠れするものの、基本的には広く浅く。さり気なく確認したところ、監視カメラなどの、窃盗行為を抑止、あるいは防止する工夫はいっさいされていなかった。

 店主は八十歳が近いと見受けられる白髪の女性で、動作は緩慢。僕が一見の客だと見抜いたらしく、適当に買った菓子と飲み物を眠たくなるくらいにゆっくりと袋に詰めながら、あれこれ質問してきた。しゃべるのは体の動きと同じくスローだけど、年齢のわりに頭の働きはしっかりしているのかな、と感じる物言いだ。

「仕事柄ずっと家にいるので、街をぶらぶら歩くのが息抜き兼趣味みたいなものなんです。最近は食料品も値上がりしているから、安い店を探していたら偶然ここを見つけて。僕、この地区に越してきてそう長くないから、知らない店もいっぱいあるんですよ」

 よくこうもすらすらと嘘がつけたものだと、我ながら感心してしまう。おっとりした老婆は、対人コミュニケーション能力が低い僕にとってもかなり話しやすい相手だ。

 彼女は僕の嘘に全面的に納得したようで、引っ越してばかりだからなにかと慌ただしいでしょうし、しばらく大変ですね、などと労わってくれた。

「大変といえば、この店は平井さんが一人で切り盛りされているんですか?」

「見てのとおり、普段からお客さんは少ないから、一人でも充分なの。でも、さすがにこの歳になると体力的にも不安だし、なにより周りの人間が心配するから、週にニ回、娘に手伝いに来てもらっているわ。それから、休みの日にはたまに孫が来てくれて。孫はいつも仕事で忙しいんだけど、力仕事を頼みたいときだけ来てもらうようにしているの」

 相槌を打ちながら、力仕事を任せるくらいだから孫は男だな、と考える。仕事をしているそうだから、少なくとも十代なかばよりも上。平井が八十だと考えれば、三十歳前後だろうか。

 娘が店に来る日はいつかとそれとなく尋ねると、日曜日と水曜日、との返答。つまり、盗むならその曜日以外に決行すればいいわけだ。

 気がかりなのは、不定期に手伝いに来るという男の孫。注意力、体力、そして警戒心は、老境の平井よりも格段に高いのは間違いない。できれば店にいてほしくない相手だけど、平井の話によるとめったに来ないみたいだから、来ているようであれば犯行を見送ればいい。


 二回目の訪問時には、盗んだ。

 ポケットに忍ばせたのは、ソーダ味のロリポップキャンディ。

 盗んだ理由は、チャンスだと思った瞬間に近くに陳列されている中で、もっとも手にとりやすく、隠しやすい商品がそれだったから。ようするに、他の店や商品の場合と同じだ。

 蛮行は、ばれなかった。

 犯行時、平井はレジカウンターの定位置に座り、老眼鏡のずれをしきりに直しながら新聞を読んでいた。入店時に僕から挨拶し、ほんの軽く言葉を交わしてもいるのだけど、僕が店にいることすら失念しているように見えた。

 会計を行うさいの緊張は強かったけど、杞憂に終わった。平井の口から出たのは、「いつもありがとう、またおいで」という、おなじみの一言だった。

 たった一回の犯行で悟った。平井は、『平井屋』は、いいカモだと。

 僕は年端のいかない子どものようにロリポップキャンディを舐めながら帰宅した。人目がなかったらスキップをしていたんじゃないかと思う。

 その後、平井の娘が来ない曜日を狙って『平井屋』を訪れては、買い物と万引きをくり返した。犯行を重ねれば重ねるほど、犯行はばれないという自信は高まった。

 探りを入れたかぎり、平井は店の商品が盗まれていることにまったく気がついていないみたいだ。

 僕は犯行を疑われるのを未然に防ぐ観点から、「醍醐一輝は心優しく信頼のおける青年である」という印象を深めさせるために、暇を持て余す老婆の話し相手をなるべく務めてやった。彼女はどうやら、「力仕事が必要なときに手伝いに来てもらっている」という自分の孫と僕を重ねているようで、手応えは充分だった。

「あの子は無口だけどおばあちゃん想いでね、ずっと前に私がちょっと風邪をひいたときも、仕事を途中で切り上げて看病に来てくれて――」

 まっとうに労働し、真面目で頼りになるという孫の自慢話を聞くのは、苦痛であり屈辱でもあった。なにせ僕は、『飛行場』行きの拒否と万引き、二つの罪を犯している。恵まれない人生を送っている自覚だってちゃんとある。

 でも、犯行を確実に成功に導くためのチケットだと考えれば、耐えられた。犯行を成功させさえすれば、つまらない話を長々と聞かされた鬱屈もたちまち晴れる。

『平井さんによると、平井さんのお孫さんは大変おばあちゃん想いのようですが、そのわりにたまにしか店に手伝いに来ないんですね。そんなに忙しいんだったらさぞ儲かっているんでしょうね、お孫さんは。そんなに金があるなら、体力のないおばあさんをこんな儲からない店でいつまでも働かせないで、のんびりとした老後を過ごさせてあげればいいのに』

 そんな皮肉を、平井と世間話をしているさなかに心の中で並べられるくらいには、気持ちにゆとりがあった。

 他の店で盗むこともあったけど、『平井屋』での犯行がもっとも多く、その頻度は次第に増えていった。万引きはもはや僕にとっての生きがいだった。


 順風満帆に見えた新しい生活にも、つまずきはある。盗んできた商品の処置がそうだ。

 たとえば、『平井屋』で最初に盗んだインスタントの紅茶の瓶。僕は基本的に紅茶は飲まない。買ってきてからは意識して少しずつ飲むようにしたけど、もともと好みではないからすぐに飽きてしまう。

 ただ、盗品を捨てるとそこから足がつきそうで、そうするのは怖い。根性で三分の二ほど減らし、風味に陰りが見られたところで瓶と中身を分別して捨てたけど、未来に暗澹たる影が投げかけられたような気がした。

 飲食物以外の商品も盗んだ。爪切り、付箋のセット、食器洗い用のスポンジ。盗りやすい商品を盗れる状況のときに盗る、という方針のため、必ずしも必要のないものも盗むことも多々あった。非飲食物の一番のネックは、食べたり飲んだりして証拠隠滅消できないこと。だから、仕方なしに家に置いておく。

 初期のころは、なにも考えずに台所や居間などに置いた。そのせいで訪問した杏寿に発見され、怪訝そうな目で見られたことが何回かあった。爪切りは女性ユーザーを意識したカラーリングだったし、僕は付箋なんて今まで一度も使ったことがないし、食器洗い用のスポンジは杏寿が買い替えたばかりだ。

 冷や汗が出るどころの騒ぎじゃなかった。慌てて隠そうとすると怪しまれるから、姉が家にいるかぎりはなんの対応もとれない。

 杏寿はけっきょく、それらを買った理由を尋ねることなく帰っていった。動機は不可解ながらも、物品自体はありふれた市販品のため、気まぐれで衝動買いしたと解釈したのだろうか。姉が帰宅するとすぐに、問題の品を押し入れに放り込んだのは言うまでもない。

 危機を乗り切るたびに反省した。でもその後も何度も、杏寿の目が届く場所に盗品を置く過ちを犯した。犯行後は開放感と達成感から、ついつい気が緩んでしまうのだ。

 盗んだものは帰宅後にすぐに押し入れに隠す。そう決めたら決めたで、このまま増え続ければあふれてしまうのではないか、いずれ隠し場所に困ることになるのでは、という新たな心配の種が生まれる。押し入れの襖を開けるたびに戦利品が目に入り、泣きたくなるような不快感を催す。捨てたものから足がつくなんてまずあり得ない、怖がりすぎだ、思い切って捨ててしまおう。そう何度も考えたけど、やっぱり怖くて、恐怖心を克服できなくて、どうしても捨てられない。

 僕の心を圧迫するのは杏寿だけじゃなくて、末永祐之介もそうだ。

 末永にパートナーがいると知って以来、僕は彼に劣等感を抱き続けている。憤りと反発心を喚起するのではなく、「この男には適わない」という絶望に直結した、暗くどろどろとした劣等感を。そこに『飛行場』行きを執拗に求められる重圧と息苦しさ、さらには窃盗の罪悪感が加算されるため、彼と戦う精神的苦痛は以前と比べて二倍にも三倍にも膨らんだ。

 杏寿や末永と過ごす時間で得たストレスを万引きで解消し、万引き行為がもととなって杏寿や末永と過ごす時間の苦痛が増す――悪循環とはこのことだ。

 出口がなかった。救いようがなかった。

 僕はもはや、第二の世界に行く気力さえも失っていた。楽しみのためというよりも、自分の心が壊れてしまわないように、罪を重ね続けた。


 しきりに吹く強風のせいで気温よりも寒く感じられる、冬のはじめの午後だった。

『平井屋』に入った瞬間、空気がなにか違っているのを僕は感じた。気のせいだと思えば納得できるレベルの微妙さではあるけど、確かに違和感を覚える。

 店に入ってすぐの場所で足を止め、店内に目を走らせる。内装、陳列された商品、どちらにも異状は認められない。

 なにか変わったことがなかったか、尋ねてみようと思いながらレジへ歩を進めると、平井は椅子に座ったまま居眠りしていた。いつもの新聞ではなく、旅行雑誌がカウンターに広げられていて、文鎮のように老眼鏡が置いてある。胸が規則的に前後していて、眠っているのだと一目で分かる。

 不用心だな、と思う。

 その思いは、濁り切った脳の働きによって瞬時に、絶好のチャンスだ、に変換された。

 まずは適当な商品をいくつか買い物かごに入れて、品定めに入る。普段はそう深く長く選ぶ時間をとらないので、似て非なる作業に臨んでいるかのようだ。絶対に見ていないと分かっていると、かえって平井の動静が気になり、レジが見える位置をうろうろしながら何度も彼女に視線を投げかけてしまう。

 盗むなら食べ物がいい。その日のうちに中身を消費できて、空袋くらいしか残らないから。

 菓子の棚の前で少し迷って、チョコレート菓子の箱を手にする。

 かごを床に置き、あいた両手でコートの前をはだけたところで、ドアが開く音がした。出入口ではなく、レジカウンターの後方にあるドア。僕が店にいるあいだは一度も開閉されたことがないため、開かずの扉だと認識していたそれが、開いた。

 現れたのは、若い男。平井が以前に言っていた、たまに力仕事を手伝いに来てくれることがあるという、彼女の孫だ。

 その「たまに」は今日で、彼は任せられた作業を別室で行っていたのだろう。頼り甲斐のある孫が店にいるという安心感が、彼の祖母に居眠りをさせたのだ。

 男は双眸を見開き、まばたきもせずに僕を凝視している。僕が買い物の最中で、買い物かごに商品をいくつか入れていること。右手にチョコレート菓子の箱を持っていて、左手ではコートの前をはだけていて、箱を今にもその内側に隠そうとしているように見えること。いずれもはっきりと認識しているのは間違いない。

 僕は箱を慌ただしく棚に戻し、脱兎のごとく『平井屋』を飛び出した。

「あっ、おい! 待て!」

 孫息子が追いかけてくる。「待て!」の声の強さは、そして追跡してくる靴音の激しさは、明らかに僕を悪だと見なしていた。目の前で逃げ出したから反射的に追いかけた、ではなくて。コートの内側にすでにいくつかの商品を隠していると疑った? きっとそうだ。だって、あんなの、誰がどう見てもやましいことをした人間の逃げ方じゃないか。

 まだ商品は懐におさめていなかったのだから、何食わぬ顔で、落ち着き払って棚に戻せばよかった。むしろこちらから「もしかして万引きを疑っているんですか? そんな人を犯罪者扱いしたいなら、好きなだけ身体検査をどうぞ」と言ってやればよかったんだ。騒ぎに目を覚ました平井に事情を説明すれば、僕にもともと好感を抱いている彼女は僕の味方になってくれて、逆に孫のほうが僕に謝罪することになったはずだ。

 でも、できなかった。

 そんなこと、できるはずがないじゃないか。

 だって、だって――。

「なんで、なんで、末永が店にいるんだ……!」

 まったくの予想外だった。

 まさか、平井の孫が末永祐之介だったなんて。

 年齢的には確かに平井の孫でもおかしくない。でも苗字が違うから、もしかするとあいつかもしれないと疑ったことすらなかった。平井は孫のことをよく話したけど、会う機会が頻繁ではないからか、広く浅くという感じで、末永祐之介という個人の特定に繋がる情報は口にしなかった。

 騙された。僕を騙すつもりなんて毛頭なかった無垢な詐欺師にまんまと騙された。

 やつは僕が『飛行場』行きを拒み続けていることを知っている。ろくでもない男だと認識している。今日はまだ盗んでいないけど、『平井屋』で何回か盗みを働いたのは事実。末永に捕まったら、絶対にただではすまない。

 僕は走った。振り切るために走った。逃げ切るために走った。

 曲がり角で後ろを振り返ると、末永はついてきていた。叫びそうになった。靴音から、つかず離れずついてきているのは分かっていたけど、姿を見たとたんに汗と焦燥と恐怖とが渾然一体となって汗腺から噴出した。

 捕まりたくない! 追いつかれたくない!

 足を速めた。曲がり角でまた後ろを見る。さっきより速く走っているはずなのに、加速する前と間隔に変化がない。

 末永は体力に自信があるようには見えない。でも、僕だって似たようなものだ。それに、末永は祖母が経営する店が被害を受けたのだ。追いかける理由がある。警察に突き出す理由がある。それが力になっている。追いつかれることはあっても、振り切るのは難しそうだ。

 どうすればいい? どこへ向かえば逃げ切れる?

 答えが出るまでには数秒しかかからなかった。

 幸運なことにも、僕は偶然にも、閃いた目的地の方角に向かって走っていた。しかも、たどり着くまではあと少し。追いつかれる前に到着できる。

 岬に行って、崖から飛び降りて、穴に飛び込むんだ。

 崖に通じる遊歩道に差しかかったあたりから、末永が遅れはじめた。その事実が僕の両脚に力をもたらした。徐々に引き離す。走る勢いのままにフェンスを乗り越える。

 見下ろすと、穴は今日も口を暗く円く開けていた。肩越しに振り向くと、ちょうど末永が広場に入ってきたところだ。疲労が激しいらしく走行フォームが乱れている。僕が見た中でもっとも人間くさい姿に、優越感に似た、それでいて非なる感情が込み上げてきて、にんまりしてしまう。

 その表情の変化をどう解釈したのか、末永が右手をめいっぱい前に突き出しながら叫んだ。

「醍醐、やめろ! 行くな! 頼むから俺の話を――」

 僕は彼に向かって敬礼し、背中から倒れ込むように崖から転落した。一瞬背筋が寒くなったけど、何度も体験した穴に吸引される感覚に、全身の力を抜いて目を閉じた。


 気を失って目覚めるまでのあいだに、どれくらいの時間が流れたのだろう。

「こちらの世界」には時間も概念がないのだから、そう問いかけるのはナンセンスなのかもしれない。

「――末永……」

『Cafe』のテーブル席は今日も大勢の学生で賑わっている。その一席一席を、さらには大ホール全体を丹念に目で探したけど、追っ手の姿はどこにもない。

 タイミング的に、末永は僕が穴に吸い込まれる瞬間は見なかっただろう。でも、フェンスから身を乗り出して落下予測地点を覗き込んだはず。だけど、こちらの世界まで追ってはこなかった。

 つまり、あの穴は僕にしか見えない? それとも、僕以外は通れない? あるいは、僕を追って穴に飛び込む度胸がなかった?

 なんにせよ、助かった。

「やれやれ」

 僕はとことん、逃げるためにこの穴を利用しているな。そんな思いとともにため息をつく。

 やがて呼吸が整う。

 どうしよう、と思う。

 この世界でどう過ごすか、ではなくて、元の世界に戻ったときにどうするのか。

『平井屋』ではもう万引きはできない。犯行を疑われたから。しかも、よりによってあの末永祐之介に。

 頼み込んで赦してもらう? たぶん難しいだろう。たった一回過ちを犯しただけならまだしも、僕は常習犯なんだから。

 万引きどころか、あちらの世界の戻るのも難しいかもしれない。

 こちらの世界で、「あの戸を開けろ」というプレッシャーと戦いながら、寿命を消費するしかないのか?

「……いや」

 確かに末永は恐ろしい。でも、だからといって、逃げるのは情けなさすぎないか。

 立ち向かおう。末永を打ち負かす、という意味じゃなくて、相対する。逃げない。それが僕の定義する「戦う」だ。

 柄にもなく強気になったのは、あらゆる意味で逃げることから疲れて、もう終わりにしたかったからでもあるけど、希望の光を見つけていたからでもある。

 追われて逃げ、飛び降りる前に振り向いて末永を見た瞬間に彼に対して抱いた、優越感にも似た感覚。あれの正体を突き止めて、有効活用しさせすれば、あいつとの戦いを有利に進められるのでは?

 状況を打開するのに有効である保障はない。正体を突き止められるかどうかも分からない。それでも、戻りたい。絶対に戻るんだ。その思いに心を支配されている。

「はじめてじゃないか? こんなにも短時間で別の世界に移動するのは」

 僕は不器用に微笑し、一日に何度も利用しているドアを潜るみたいに穴に入った。


 目を覚ますと、いつもの路地裏だ。

 あたりは薄暗くなりはじめている。頭が少しぼーっとしていたけど、それもすぐに治った。

 立ち上がり、尻を払ってさあ歩き出そうとしたとき、幽霊のように音もなく物陰から現れた者がいる。

「お前は……」

 絞り出そうとした声は喉に引っかかって止まった。

 末永祐之介だ。前屈みの姿勢で膝に手をつき、荒い呼吸をくり返している。居間で対話しているあいだは崩れることを知らなかった、僕を追って走っていたときでさえ少し崩れる程度だった顔が、大きく歪んでいる。人間的に歪んでいる。

「醍醐一輝……。やはり、そこにいたか。まさか間に合うとは思わなかったが」

 上体を真っ直ぐに立て、ちょうど五対五くらいになった前髪を、指先で七対三に直してから末永は言った。苦しさはまだ続いているらしく、声は途切れ途切れだ。

「やはりって……。末永さんは僕がここにいると分かっていて、岬から全速力でこの場所まで?」

「確証があったわけじゃないけどな。ただ、醍醐がこの場所に忽然と出現することは把握していたから」

「忽然と? ……末永さん、まさか――」

「そのまさか、だと思う。……なあ、醍醐。個人的にお前にしたい話があるから、聞いてもらえるか? 『飛行場』の件とはまったく関係がない。これは仕事ではなくて、俺が個人的に話すことだ。お前はとにかく聞いてくれればいい」

 僕は肩越しに後ろを振り返る。行き止まりで、逃げられない。末永に体当たりにでもして強行突破するか? できなくはないだろうけど、どちらかというと話を聞きたい気持ちのほうが強い。

 なぜかは分からないけど、末永は僕の秘密の、少なくとも一部を把握しているらしい。この場でただちに僕に危害を加えるとか、話をすることで時間稼ぎをしてその隙になにかしようと企んでいるとか、そういう雰囲気ではない。対応は、話を聞き終わったあとから考えても遅くなさそうだ。

 僕は首を縦に振った。末永はうなずき返して言う。

「長くなるかもしれない。今日機会が来るとは思っていなかったから、話すことを整理しきれていないんだ。しかし、最善を尽くすよ」

 沈黙を了承と受け取ったらしく、彼は話しはじめた。


 役場の仕事はストレスがたまる。醍醐のような一筋縄ではいかない忌避者が相手でも、強硬な手段を行使するのはかたく禁じられているせいでね。救いは土日が必ず休みなことで、俺は土曜日は主に外出、日曜日は家でゆっくりと過ごすという方法で、それぞれストレスの解消と疲労の回復に努めている。

 今から二か月ほど前の土曜日の夕方、買い物を終えて帰途についていた俺は、醍醐の姿を見かけた。さまざまな商業施設が建ち並ぶ、人通りの多い通りでのことだ。

 俺は二重の意味で驚いた。説得対象の個人情報を把握している関係で、お前がこの地区で暮らしているのは知っていたが、今までお前の姿を自宅の外で見たことがなかったのが一つ。

 もう一つは、お前から発散されている負のオーラが尋常ではなかったこと。身なりはごく平凡、俯き気味に歩道を歩いているだけなのに、通行人たちからの注目を集めていたんだよ。

 俺はこれまでお前のことを、陰気で気弱だが、同時に強情で、面の皮の厚さを持ち合わせている男だと見ていた。俺を前にしているときは、下手に出て嵐を過ぎ去るのを待ち詫びているだけだが、過ぎ去ったあとはきっとふてぶてしく日常を送っているのだろう、とね。

 しかし、はじめて街中で見かけたお前は、そのイメージからはかけ離れていた。どう考えても、お前の人生を左右する一大事があったとしか思えない。幸い買ったものは軽かったし、時間にもゆとりがある。品がない真似だとは思いつつも、お前を尾行することにした。

 お前は地区住人が「自殺の名所」と呼んでいる岬に足を運んだ。フェンスに手を置いて崖の下をじっと見ているお前を、俺は離れた場所から固唾を呑んで見守った。過去に『飛行場』行き忌避者が自殺した現場だという知識は、もちろん俺の頭の中にあったから、飛び降りて死ぬつもりなんじゃないかと危惧したんだ。

 しかし、お前は崖下をただ見下ろすばかりで、一向に動きを見せない。それを受けて、俺の考えは変わった。なにか気が滅入るような体験をしたのは事実かもしれないが、死ぬつもりは毛頭ない。気分転換がしたくて、景色を眺めるためにここに来ただけではないか、と。

 いったん道を引き返しはじめたが、後ろ髪を引かれる思いがして、足を止めて振り返った。すると、お前の姿が消えている。

 俺は驚愕し、狼狽した。お前から目を離していた時間は、長く見積もっても五秒。あの場所からたった五秒で姿を消すには、フェンスを乗り越えて飛び降りるくらいしか方法はない。

 大急ぎで駆け寄って崖下を見下ろしたが、お前の姿はどこにもなかった。真下ではごつごつとした岩が陸地を形成していて、高低差も考慮すれば、落下したなら確実に死ぬはずだ。なのに、死体がない。奇跡的に生きていて、俺が見下ろすまでのあいだにどこかに身を隠したのだとしても、血が一滴も地面に付着していないのはおかしい。

 探せる範囲で探したし、さまざまな可能性を考えたが、手がかりは見つからない。警察に通報しようかとも考えたが、時間の無駄だと思い直した。だってそうだろう? 仕事で付き合いがある人間を偶然街中で見かけ、様子がおかしかったので尾行したら自殺の名所の岬まで行き、目を離した隙に姿を消したと伝えても、頭がおかしい人間だと思われるだけだ。俺は震える両脚を懸命に動かして帰宅した。

 その出来事の翌々日がお前の家に行く日だった。おっかなびっくり訪問すると、お前は生きていた。説得の場で、お前はいつものように全力で俺に反抗した。その姿からは、おとといお前の身になにがあったのかは推察できない。しかし、こちらから問い質すのはためらわれた。その日は得るものがないまま引き下がるしかなかった。

 外出するたびにお前の姿を探さずにはいられなかった。出退勤のさいや、仕事先への行き帰りの道中、さらには自宅から徒歩五分の距離にあるコンビニにちょっとした買い物に行くときでさえも。

 念じたから通じたのではなくて、行動範囲に重なる部分があったなのだろう。お前を厄介な『飛行場』行き忌避者としか見ていなかったころと比べると、嘘のように頻繁にお前の姿を見かけた。「遠回りをして帰宅したい気分だから」と自分で自分に言い訳をして、少しのあいだお前を追跡する、ということはよくあった。何度かは岬に向かっているようだったが、恐怖が真相を知りたい気持ちを上回ったから、いずれの場合も尾行は途中で切り上げた。

 そうするうちに、お前がたびたび、裏通りにある細道から別の細道へ、というコースを歩いていることに気がついた。そこで、裏通りの細道になにがあるのかを調べてみたのだが、その結果には首をかしげざるを得なかった。

 お前がいつも現れる方角は行き止まりになっている。途中に建物の出入口や抜け道などは一つもない、終点に行き止まりがあるだけの一本道だ。そんな場所に足繁く通って、醍醐はなにをしているんだ?

 どうしても気になったから、その道の出入口で張り込みをすることにした。

 何回、何十回と肩すかしを食らい、気力が萎えかけてきたとき、世にも驚くべき現象を俺は目の当たりにした。なにもない空間、つまり虚空からお前がいきなり現れたかと思うと、地面に仰向けに横たわったんだよ。ぴくりとも動かないが、表情はどこか安らかで、ただ意識を失っているだけだと遠目にも分かった。現れたのは高度三十センチほどで、俯せに寝そべった状態で、誰かからそっと地面に寝かされるような穏やかな着地だったよ。

 俺は心身ともに金縛りに見舞われた。とるべき対応が見出せず、直立不動でお前を注視した。

 十分ほど経つとお前は目を覚ました。しばらくぼんやりと座っていたが、やがて立ち上がって周囲を軽く見回した。現在地がどこかを確認したようだが、自分の身に起きた現象に戸惑ったり恐怖したりしている様子は見受けられなかった。

 お前は尻の汚れを払うと、道を俺がいるほうへ向かってきた。俺は咄嗟に物陰に隠れた。お前は俺には気づかずに素通りした。尾行という選択肢も過ぎったが、追わなかった。お前の身に起きた非現実的で不可解な二つの現象について、自宅に戻ってじっくり考えたかったからだ。

 二つの現象に共通するのは、肉体が突然別の場所に移動すること。一方は消える。一方は現れる。俺はこの二つの事実をシンプルに結びつけて、醍醐一輝は岬から行き止まりの細道へと瞬間移動できるのではないか、という仮説を立てた。非科学的で、荒唐無稽で、我ながら信じがたかったが、他にしっくりくる解釈が浮かばなかったのだよ。

 ただ、その二か所を移動するメリットがお前にあるとは思えない。瞬間移動ができれば便利なのに、などと子どものころにはよく空想したものだが、移動できる場所が二か所しかなくて、その一つが町外れの岬にあるのでは、有効活用できそうもない。ただ単に、瞬間移動という超常現象を無邪気に楽しんでいるだけなのかもしれないとも考えたが、その解釈では、お前が暗鬱とした顔をしていることの説明がつかない。

 俺はお前を尾行し、行き止まりの細道にも、岬にも何度も足を運んだ。結果、お前が瞬時に消えたり現れたりする現象はまぎれもなく現実だと確かめた。しかし、その目的までは見えてこない。

 かくなる上は、本人に直接問い質すしかない。

 そう結論し、行動を起こすタイミングをうかがっていたところ、こうして偶然にも機会が生まれた。

 だから醍醐、教えてくれ。お前の身に起きている現象の意味を。なにが目的でその現象を利用しているのかを。


 末永がしゃべっているあいだ、静かな衝撃が断続的に僕の体を波打たせた。

 冷徹な『改善課』職員としてしか見なしていなかった末永祐之介が、自分の知らない場所で、こうもさまざまな人間的な感情を抱き、人間的な欲求を抱き、人間的に動いていたなんて――。

 末永にも人間的な一面があることには、彼がポケットから落とした女性とのツーショット写真を見た時点で重々承知していた。しかし、その事実を軽視していた。というよりも、認めようとしなかった。末永は絶対に屈してはならない敵だから、非人間的な男のままにしておきたいという、身勝手な願いが胸の奥にあった。

 でも、懇切丁寧に我が身に起きた出来事を語られ、自分自身の胸の内について伝えられて、現実逃避はもはや通用しなくなった。

 末永は自らをさらけ出したのだから、応えなければ。

「分かりました。上手く語れる自信はないし、できたとしても、信じてもらえるかどうか分かりませんが」

 そう前置きしたうえで、説明した。

 末永との対決と杏寿との確執によって芽生えた希死念慮からはじまって、岬、穴、もう一つの世界。戸を開けられなかったこと。トイレの壁にあいた穴から元の世界に帰ったこと。どちらの世界にも満足できず、二つの世界を行き来したこと。二度目の自殺を画策し、死ぬのが怖いと気がついたこと。自暴自棄。魔が差し、常習化した万引き。そして、末永に秘密が露見したこと。

 必要事項を理路整然と、なおかつ簡潔に話すのは難しい。一つの情報を伝えるのに過剰な言葉数を費やしたし、言う必要のない事実についてもたくさん語ってしまった。それでも末永は、生真面目な顔つきを崩さずに話に耳をかたむけてくれた。

「にわかには信じがたいな」

 指先で顎を軽くつかみ、少し眉をひそめた表情で、末永はぽつりと言葉をもらした。

「にわかには信じがたいが、ディティールにはリアリティが感じられて、実際にその光景を見たり体験したりした人間だからこそ語れたのだろうな、という印象を持ったよ。だからきっと、あまりにも常識から外れているから信じがたいだけで、すべて真実ではあるのだろう。よって醍醐は嘘をついていないと断定するのが妥当だ」

 末永は小さく首を縦に振った。考え込むポーズは解消しない。「嘘は言っていない」と認めながらも、まだ信じきれていないいくつかの事項について真偽を見定めつつ、思案を前へ、前へと進めているらしい。

 顎から手が離れたのが、末永が再びしゃべり出す合図だった。

「気になることがある。醍醐はもう一つの世界の施設のことを『大学のようだ』と評したが、なにを根拠に?」

「雰囲気です。僕は高卒で、大学に通った経験はありません。でも、資料としてパンフレットは取り寄せたことがあって、そこに載っていた大学の構内の写真とそっくりで。見かけるのが二十歳くらいの男女ばかりだということを考え合わせれば、大学なのかなって」

「なるほど。もう少し詳しく、建物内の様子を俺に教えてくれないか。そのうえで、お前に話すか否かの判断を下すよ。長くなりそうだし、近くの喫茶店で話を聞きたいんだが、どうする?」

 異論はない。末永を先頭に僕たちは移動を開始した。


 行き止まりの細道から徒歩五分ほどの雑居ビルの三階に喫茶店はあった。看板の文字は英語ではない外国語でつづられていて、僕には判読できない。末永に訊いてみると、「実は俺も知らないんだ」と真顔で答えた。

 中途半端な時間帯だからか、外観から想像したよりも広い店内では、中年の男性客が一人で食事をしているだけだった。しっとりした曲調のクラシック音楽が控えめな音量で流れ、たくさん置かれた観葉植物が鮮やかな緑を広げている。落ち着いた気分で話ができそうだ。

 末永が「夕食はどうする?」と尋ねてきた。僕は無言で頭を振り、水を運んできた店員にブレンドコーヒーを注文する。末永はただ一言「同じものを」。

 注文の品が運ばれてくるよりも先に、僕はもう一つの世界の建物の内部について詳細に説明した。

 テーブルにコーヒーが到着し、ほどなくして僕は話し終わった。末永は砂糖もミルクも入れずに、コーヒーを一口すすってから口を開いた。

「やはり似ている。というか、たぶん同じだ。醍醐が言う建物と、あいつが暮らしている場所は同じなんだ」

「似ている? あいつ? ……どういうことですか?」

「今度は俺が説明する番だな。唐突なようだが、醍醐、俺には妻がいる」

 写真の女性だ、と思った。末永といっしょに写っていた、とびきり明るい笑顔が印象的な、少女のような女性。

「大学生のときに知り合って、彼女の告白を俺が受け入れて、付き合いはじめた。名前は透明な子どもと書いて、透子。

 醍醐もよく知っているように、俺は愛想がよくなくて、よくも悪くも生真面目、融通がきかないところがある人間だ。対する透子は、明るくて、社交的で、誰とでも仲よくなれる。

 一方で、ルーズで、失敗が多い。悪意から人が嫌がることをするタイプではないが、空気が読めないせいで、結果的に場の雰囲気を壊してしまうことがたびたびある。一見魅力的だが、付き合ってみると面倒くさいところも多くて、欠点だらけで、期待を持ちすぎた人間は失望を禁じ得ない。それが透子という女なんだよ」

「末永さんと正反対の女性、なんですね」

「そのとおりだ。あらゆる意味で俺とは正反対なのだが、不思議と気が合った。ときには喧嘩になることもあったが、すぐに和解できた。姿形は似ても似つかないけど、歯と歯が上手く嚙み合って滑らかに回転する歯車のような、そんな関係性なのかもしれない。

 社会人一年目に、互いに仕事に慣れたら結婚しようと約束を交わし、有言実行した。今から四年前の話だ。

 結婚生活は順風満帆だったんだが、結婚して二年後、今からちょうど二年前に、透子が突如として失踪した」

「失踪……」

 末永は重々しくうなずく。

「家族や知人から話を聞いて、警察の力も借りて捜索したが、行方は杳として知れない。直前に大喧嘩をしたわけじゃない。他の男のもとに走ったわけでもないようだ。あいつは自由奔放で軽佻浮薄に見えて、男女関係はきっちりしていて乱れがないんだよ。

 途方に暮れ、魂が抜けたような暮らしを送る俺のもとに、透子からの着信があった。失踪から半月ほどが経ったときのことだ。俺は矢も楯もたまらずに電話に出た。出たはいいが、気が動転してしまってなにもしゃべれない。すると、透子は至極能天気な声で、

『わたしは今、祐之介が暮らしている世界とは違う世界で生活しているんだ。違うところもいろいろあって戸惑いもあるけど、なかなか快適だよ。どうすれば祐之介がいる世界に帰れるのか、いくら探しても見つからないから、たぶんだけど無理なんじゃないかな。残念だけど、帰れないものは仕方ないよね。でも、心配しないで。こっちの世界はなかなか愉快なところで、わたしは毎日楽しく元気に生きているから』

 一方的にそう言って通話を切った。慌てて折り返したが、繋がらなかった。恋しさのあまり幻聴を聴いたのかとも思ったが、通話記録も残っているし、絶対に幻なんかじゃない。電話をかけてきたのはまぎれもなく透子だった」

 普通の人間なら嘘をついていると即断しただろう。しかし、何十回、下手すると百回以上二つの世界を行き来している僕は、「ああ、透子さんも」と冷静に受け止められた。僕はもう一つの世界に電子機器を持ち込めたことがないから、携帯電話を介して通話していたという話はさすがに驚いたけど。

「次にかかってきたのは三日後。あいつはあいつらしいへらへらした声で『暇だからかけてみたよ』と言ったが、こちらには訊きたいことが山ほどある。

 もう一つの世界などと言っているが、実際はどこにいるんだ? 誰かに嫌な目に遭わされていないか? 元気なのか? 金は大丈夫なのか? なにか困ったことはないか?

 俺は口をついて出るままに質問を連ねた。『元気に楽しくやっているよ』というのが、すべての問いに対する回答だったよ。ようするに、生活に関してはなにも心配はいらないということらしい」

 小さな疑問や、疑問未満の引っかかりはいくつもある。ただ、末永の語りには次第に熱がこもって早口になって、言葉の切れ目を見つけづらくて口を挟むチャンスがない。水を差すような真似は慎んだほうがよさそうだ。

「とりあえずはひと安心、と言いたいところだが、気になることはまだまだある。その日は『質問ばかりするから、疲れた』と言って、透子のほうからさっさと通話を切ったが、切られる直前、『今後は毎日必ずかけるようにしてくれ』と俺は強い口調で頼んだ。あいついわく、電話できる時間帯が決まっているらしい。それでも構わないならいいよ、ということだったから、毎日の連絡だけは約束させた。

 あいつは無駄話も多いし、気分次第で勝手に通話を切ったりするから、苦労しながら少しずつ別世界とやらの情報を訊き出した。いわく、透子がいるのは学校のような場所で、労働する必要も、金の心配をする必要もなく、好きなものを自由に食べられるという。

 具体的にどんな場所か尋ねてみると、カフェだとかホールだとかいったありふれた設備もあるようだが、風変わりな置物が置かれた曲がりくねった廊下だとか、本当なのか嘘なのか、誇張表現なのかありのままを語っているのか、判断が難しいものもあった。現実を基礎にしながらも、現実とは少なからず違うところがある場所なんだろうな、くらいの認識でいたのだが――醍醐、お前の『もう一つの世界』とやらの話を聞いて驚いたよ。どうしてだと思う?」

「似ていたから、ですね」

「そのとおりだ。お前が頻繁に行き来している世界と、透子が暮らしている世界は、同じ場所なんじゃないかと思ったんだよ」

 まさか、と思った。あちらの世界で、自分のように別世界から来た他の人間に出会ったことはない、というのが「まさか」の根拠だ。

 でも冷静になって考えてみれば、まだ出会っていないだけの可能性も充分に考えられる。僕はあの建物の中をかなりの長時間、長距離を歩き回ってきたけど、それでもまだ踏破できていないくらい広大なのだから。

「醍醐、お前に俺から一つ頼みたいことがある」

「なんでしょう」

「お前にあちらの世界まで行って、妻を、透子を捜し出して、こちらの世界まで連れて帰ってくれないか? 連れ戻すのが難しいようなら、俺が書いた手紙を透子に託してほしい。そもそも妻を発見できなかった場合は――泣く泣く諦めるしかないが、可能なかぎり入念に捜してほしいと思っている。お前にとっては赤の他人でも、俺にとっては学生時代からずっと愛している、大切な、大切な妻なのだから」

「捜す……。手紙……」

「俺はお前が通る穴は見えない。つまり、あちらの世界へは行けない。そして妻は、あちらの世界から戻る術はないと言っている。だから、お前に頼むしかないんだ。

 手間と苦労をかけるのは申し訳ないと思う。その代わり、今回一回かぎりの依頼だとかたく約束するよ。今回の捜索で透子を見つけられなかったとか、連れて帰ってこられないという結果になったとしても、お前は責めないし、二回目の依頼はしない。なんとしてでも妻と再会を果たしたい気持ちはあるが、醍醐にかける迷惑は最小限にとどめたいから。

 そのギブ・アンド・テイクが不公平だと言うのなら、お前が『飛行場』行きを忌避している件に関して、俺は上司に報告書の提出を義務づけられているのだが、お前に少しでも有利になるような文章を書くと約束しよう。

 祖母の店から盗んだ件についても不問に付す。商品は返さなくてもいいし、金も払わなくていい。もともと老後の暇つぶしに、儲けは度外視してやっている商売だからな。

 悪くない取引だと思うんだが、どうだ? 醍醐のほうから意見なり要望なりがあるなら、自由に言ってくれ」

 末永は僕から視線を切り、コーヒーを小さく音を立ててすすった。

 穴の中のように暗い、ミルクも砂糖も入っていない褐色の水面を見下ろす。そこに映る僕の顔は、迷っている人間のそれではなかった。

 結論は、考えはじめる前から出ていたのだ。

「分かった。せいいっぱい捜してみるよ」

「……ありがとう」

 末永はほっとしたように表情を緩め、天板に額がつきそうなくらい深々とお辞儀をした。首を垂れたのですぐに隠れてしまったけど、その顔には笑みが浮かんでいた。ほっとするあまり無意識に表出したというような、屈託のない笑みが。

 それを見た瞬間、悟った。

 岬へと逃げた僕を追いかけてきた末永が顔を歪めているのを見て抱いた、優越感に似た感情。あれの正体は、冷ややかで隙を見せない『改善課』職員が、赤く温かな血が通った人間だと確信できたことに対する喜びだったのだ。

「さっそく手紙を書くよ。醍醐は書くものは――持ってなさそうだな。店主に借りてくるから、少し待ってくれ」

 末永は慌ただしく席を立ち、レジカウンターへと駆けた。


 右手に握られているのは、シャープペンシル。天板に広げられているのは、真っ白なメモ用紙。

 末永は執筆に時間をかけている。頬杖をついて紙面を凝視する時間が長く、同じ箇所を何度も消しゴムで消しては書き、消しては書いてをくり返している。あふれる思いをペンの赴くままに書きつづるのではなく、一文字一文字に真剣に悩み、迷いながら、これしかないという唯一の正解を選び抜き、刻みつけている。

 執筆に集中しているゆえに無防備だ。内容を盗み見たい誘惑がないでもないけど、僕は窓外の景色ばかり見ていた。手つかずのコーヒーを飲むようにすすめるのさえも慎んだ。末永透子を見つけ出すことや、手紙を渡すことと同様に、手紙の執筆の邪魔をしないことも僕に課せられた役目なのだから。

「待たせてすまない」

 末永はメモ用紙を二つ折りにして僕に手渡し、自信なさそうに一瞬微笑する。そして、借りたものを返すために約半時間ぶりに座席から腰を上げた。

 戻ってきた末永は、冷めてしまったコーヒーを熱々のものを飲むスピードですすりながら、僕のちょっとした質問に答えてくれた。

「花屋で花を買っていたのは、祖母に贈るためと、家で飾るため、両方だな。うちは誰も花を飾って愛でる趣味はないのだが、一人の家はさびしいから、そういうものも必要だと思ってね。俺が買うのはみな生花なんだよ。花瓶の水を毎日替えるなんて、本当にちょっとしたことだけど、なにか一つしなければならないことがあるだけで、気持ちが沈んだり、怠けたりするのを未然に防止できる気がして」

「人間味がない? 大げさだし不本意だな、その表現は。作り笑いを浮かべるよりはましだと判断して表情を消しているだけだ。まあ、透子からはよく怖いと言われてはいたが……」

「甘いものを持参して食べるのは、緊張をほぐすためだ。大好物というほどではないが、甘いものはそのような効果があるだろう。上司からは、忌避者を翻意させるためなら、法律に違反しない範囲で挑発的なこともしていいと言い渡されていたから、一石二鳥ということでその方法を試すことにしたんだよ。咀嚼音? あれは、最初は緊張のあまり立ててしまって、二回目以降はわざとだ。本来ああいうはしたない真似は好きではないのだが、醍醐があからさまに眉をひそめたから、もしかしたら役に立つかと思ってね。効果的だとは思わないが、逆効果だとも思わないから続けているんだよ」

 新しい一面を知ると、もっと深く知りたくなるし、別のことも知りたくなる。質問攻めにしたい気持ちがうずいたけど、自制した。末永との付き合いはこれで終わりじゃないから、またの機会にとっておけばいい。

「じゃあ、二日後にこの店で」

「おごらせてくれ」と申し出た末永の好意に喜んで甘え、店の外に出たところで挨拶を交わし、僕たちは別々の道へ進む。

 歩き出してすぐ、一輝はジーンズのポケットの中の手紙を軽く握ってみた。ほんの少し温かかった。


 いつもくらいの時間に起床し、いつもどおりに朝のルーティンをすませ、午前十時に岬の穴へと飛び降りた。

 いつうものように、しばし気を失ったのちに目が覚めた。これから待ち受けている仕事の重大さと困難さに、すぐには行動に移れず、人差し指でこめかみをかく。

 失踪し、別世界へと消えた、末永祐之介の妻・透子。

 彼女は本当にこちらの世界にいるのか? いたとして、彼女を見つけ出せるのか?

 写真は一度見ているし、取り決めを交わしたあとでもう一度ちゃんと見せてもらったから、顔は完璧に覚えた。ただ、捜索範囲は広大で、彼女以外の人間の数は膨大だ。写真と実物では印象が違うのでは、あるいはさまざまな要因から今は顔が変わっているのでは、という懸念もある。

 去来するネガティブな想念を、頭を振って追い払う。

 末永と約束したんだ。願いを託されているんだ。やってみる前から弱気になっているようでは、彼に失礼だ。

「捜さないと」

 両手で床を押して腰を上げ、まずは『Cafe』のテーブル席の状況を確認する。

「え――」

 ほぼ中央の席にいた人物に、僕の目は釘づけになった。

 猛禽類だろうか、翼を広げた鳥のシルエットが大きくプリントされた、だぶだぶのTシャツ。その裾にほとんど隠れたデニムのハーフパンツ。

 そんな服装に身を包んだ、鮮やかな金色の髪の毛をボブヘアにした、少女のようにあどけない目鼻立ちの女性が、にこにこ顔で拳大のシュークリームをぱくついている。

 テーブルにはおかわりのシュークリームがいくつも用意されていて、飲み物はいちご味と思しきスムージー。シュークリームの中身の生クリームが口の端に付着しているけど、気にとめる様子はまったくなく、満面の笑みでひたすら口を動かしている。まるで好物を夢中で頬張る年端のいかない子どもだ。

 もしかして、彼女は――。

 女性のもとへ向かう。徒歩で、のつもりだったんだけど、無意識に小走りをしていて、すぐに駆け足へと変わる。慌ただしい靴音を聞き取ったらしく、彼女は顔を上げた。僕を一目見た瞬間、つぶらな目が大きく見開かれた。

 客は彼女以外にも何人もいるけど、僕に注目しているのは少女だけ。もう間違いない。

 少女が着いたテーブルに両手をつき、少し乱れている呼吸を整えてから、かじりかけのシュークリームを手に唖然としている顔に向かって、

「君、もしかして末永透子さん? 『改善課』に勤務している、末永祐之介さんの奥さんの」

 女性の目がさらに大きくなり、半開きの口から「え?」と「へ?」の中間の声がもれた。

「僕は、あなたが祐之介さんと夫婦として暮らしていた世界で、祐之介さんに頼まれて、君を元の世界まで連れ戻しに来たんだ。信じられないかもしれないけど、僕も二つの世界を行き来できる人間だから。詳しいことは――」

「わー、変な人! 変な人出現だ!」

 女性はシュークリームをテーブルに直に置き、僕を指差してけらけらと笑った。下品でも上品でもない、邪念が感じられない笑い方だ。

「この世界はあたしに無関心な人ばかりなのに、急に熱い人が来ちゃった! なんか笑えてくるんだけど。なになに? これはいったいどういうこと? あー、だめだ。また笑っちゃいそう。お相手さんは真剣な顔してるのに、失礼だよ、あたし」

 などと言いつつも、また笑う。腹を抱えて大笑いする人間を、生まれてはじめて見たかもしれない。個性的な人間だという情報は、特徴の一つとして頭に入れていたけど、実際に会話してみると戸惑いしかない。ひとまず、彼女の笑いがやむのを待つことにする。

「ああ、ごめんなさい。あたし、ツボに入るとなかなか抜け出せなくなるタイプなの。ところで、君はなんの用?」

「もう一度質問させてください。あなたは末永透子さんですよね?」

「そうだよ。本人だよ、本人」

「よかった、見つけられて。実は、あちらの世界で祐之介さんに頼まれて――」

「祐之介? あちらの世界? 気になるワードが出てきたね。どういうこと?」

「……僕の話、まったく聞いていなかったんですね」

 透子はきょとんとした顔を満々の笑みに変え、

「そっか、そっか。突然のことで頭が混乱しているんだね。どうせ時間あるし、じっくり話聞くよ」

「いや、混乱しているわけではなくて、透子さんが……」

「ん? なんであたしの名前を?」

「だから僕は――」

「頭が疲れちゃってるんだね。君、言ってることがそうとうおかしいよ。そんなときは甘いもの! ちょうどシュークリームをたくさん買ってあるから、食べて。食べながら話をしようよ」

 思っていた形とは違うけど、とにかく透子と会話するという目的は叶った。「お言葉に甘えさせてもらいます」と言い、対面の椅子に腰を下ろす。

「スイーツ追加しないとね。なにがいい? いろいろあるけど。なんでもいいなら勝手に選んじゃうよ」

「まだ食べるんですか?」

「だってさびしいじゃん。もしかして、甘いもの苦手? たまにいるよねー、そういう人」

「あ、僕は平気です。むしろ好きなほうかな。『Cafe』にはいろいろな軽食が売られているけど、ここで過ごすとき食べるものはたいてい甘いものを――」

「ここで過ごす? どういうこと? ていうか疑問なんだけど、君ってどこから来たの? なんか、謎だらけなんだけど!」

 僕は思う。話をいたずらに長引かせたくないのであれば、あまり余計なことは言わないほうがよさそうだ、と。


 広いとはいえないテーブルは多種多様なスイーツによって埋め尽くされた。

『この世界って、どんなからくりなのか、いくらお金を使っても財布に戻ってくるんだよね。使ったら使っただけ。だから実質使い放題! 罪悪感が湧くし、怖くなっちゃうから、羽目を外さないように気をつけてはいるんだけど』

 買ってきたものを並べながら透子はそう言っていた。彼女も僕と同じ恩恵を受けているらしい。

 僕はスイーツをしっかりと食べつつも、伝えるべきことをきちんと伝えていく。ただ、話はなかなか前に進まない。

「これおいしいなー。いつ食べても飽きずに幸せだよ。やっぱりチョコってちょっと苦いほうがおいしいよね。ビターなほうが」

 透子は僕が話している途中で急に無関係なことを言い出す。ひとり言かと思いきや、フォークで一口運ぶごとに僕をまじまじと見つめ、意見を求める。

「そうですね。甘い中にほろ苦いものがあるので、甘さが引き立つんじゃないかな」

 などと律儀に期待に応えようものなら、

「そうそう。ギャップ萌えってやつ? その表現って人間相手にしか使っちゃいけないのかな? よく分からないけど。ギャップといえば、学生時代にちょっと男の子っぽい女の子がいたの、かっこいい系の。その子がね――」

 と、どんどんずれていって、あっという間に元の線路が見えなくなるくらいに遠ざかる。

「透子さん、話に集中して。僕が今なんの話をしているのか、分かってる?」

 危機感を覚えて軌道修正を試みると、

「ごめん、聞いてなかった。だってこのチョコブラウニー、おいしすぎなんだもん」

 と、話を聞いていなかったことが発覚し、説明のやり直しを余儀なくされる。

 透子はたまに、食べながらやけに熱心に相槌を打っているときがある。きちんと聞く姿勢を示してくれているのは素直にうれしいけど、でもなにかが引っかかる。

「ねえ、透子さん。ちゃんと話聞いてくれてる?」

 嫌な予感がして、もし聞いていたら気を悪くするよな、と胸の片隅で危惧しながらも問い質すと、

「ごめん、聞いてなかった」

 と、悪びれる様子もなく怠慢を肯定する。これを責めたら責めたほうが責任に問われるというような、邪気のかけらもない満面の笑みとともに。

 話をしてみて分かった。透子は基本的に、自分がしゃべりたいことばかりしゃべる。積極的に人の話に耳をかたむけようとしない。

 つまり、なにかを伝えたいとき――中でも伝えたいことの量が多く、理路整然と話す必要がある場合は、目的を遂げるにはかなり苦戦を強いられる。

 透子が人間として、異性として魅力的なのは、会話をしてみてよく分かった。

 写真で見た印象のとおり、笑顔がかわいい。どんな話題でも盛り上げてくれる。彼女がしゃべるだけで場が明るくなる。初対面の異性が相手でも、昔からの友だちのように接してくれる人間と付き合った経験が乏しい僕は、とても新鮮な気持ちだ。少しくすぐったいけど、文句なしに楽しい。こんな人が友だちにいたら、それだけで人生は輝かしいものになるだろう。

 ただ、人の話を聞かないことも含めて、普通なら当然こうするだろう、というパターンを裏切る行動をたびたび見せるのには困惑させられる。ときには、ほんの少し苛立ってしまうこともある。末永は透子を「魅力的なところも多いのに失望してしまう」と評していたけど、その意味がよく分かった。

 聞き分けの悪い大勢の児童を前にしている教師の心境だった。投げ出したいと思ったことは一度や二度ではない。

 それでも粘り強く説明を続ける中で気がついたのは、「祐之介さんはこう言っていた」というふうに夫の名前を出すと、会話に対する透子の注意力が増し、集中力も長く持続する傾向にあるということ。

 それを上手く利用しながら、伝えるべき情報を伝えていく。末永との因縁、透子とのツーショット写真を見たこと、末永が僕に語った透子への想い。

 彼女はやがて、話の流れを無視して、元の世界での末永の暮らしぶりについて尋ねてきた。僕は知っている範囲内で一つ一つ答えていく。ポジティブな伝え方をするように心がけたけど、仕事ぶりに対してだけは皮肉の棘を埋め込まずにはいられなかった。だけど本人はまったく気がつかないみたいで、父親を褒められた子どものように誇らしげに目を輝かせていた。

「好きなんですね、祐之介さんのことが」

 微笑ましい気持ちで投げかけた言葉に、透子はいちごのスムージーを何口か飲んでから、

「当り前だよ。だって夫婦なんだもん。何年連れ添おうが、離れた世界で暮らそうが、愛情は変わらないよ」

 少し怒ったような顔つきと声音で恥ずかしげもなくそう断言して、元の無垢な笑顔に戻る。そして、祐之介とのエピソードを語りはじめた。

 耳慣れない単語も難解な言い回しも用いない、擬音語も積極的に取り上げた平明な語り口だ。取り上げられる内容は総じてくだらない。しかし、だからこそリアリティを感じる。作り話なんかじゃなくて、実際に起きたことをありのままに語っているのが分かるし、彼女にとっては印象的な出来事だったんだと納得できる。

 大喧嘩したときの話を眉を吊り上げて語ったのには、逆に微笑ましい気持ちになった。欠点、直してほしいところ、嫌いなところ。語られれば語られるほど、末永夫婦は仲がいい、という実感が高まっていく。

 話に耳をかたむける中で、杏寿がスマホで恋人と通話していた過去を思い出した。

 あのときの姉の声の調子は、今夫について語っている透子のそれに似ていた。僕との関係が悪化する以前の、てきぱきと家事をこなしながら、弟と他愛もない世間話に耽るときの声とは明確に違っていた。具体的に言うと、声が少し高くなって、弾むような感じ。僕との会話中にも声が上擦ることもあるけど、そのときの調子がずっと維持されていた。

 幸せそう。シンプルにまとめるならその一言になる。

 僕は当時、弟のことをほったらかしにして、恋人との会話に現に抜かす姉を不愉快に感じた。でも、時間が経って、客観的で冷静な眼差しで顧みてみると、無理もないなって思う。姉に依存した、精神年齢が実年齢よりも低い僕の、愚かで幼稚な逆ギレでしかなかった。

 杏寿の負担になっている厄介者の弟の相手をするのと、恋愛感情で結ばれた相手と言葉を交わすのとでは、後者のほうが圧倒的に快いに決まっている。

 杏寿の弟への愛は偽りではない。

 でも、恋愛対象に注がれる愛は、きょうだい愛を凌駕する。

 悔しくて、納得がいない気持ちもあるけど、人の力では動かしようがない真理なんだ。

 末永透子と出会い、会話し、夫・祐之介への愛を語り聞かされて、僕はようやく悟り、受け入れることができた。

 ありがとう、透子さん。

 永遠にでもしゃべり続けそうな饒舌さで話し続ける彼女を見つめながら、僕は心の中で感謝の言葉を述べたのだった。


「あっ、そういえば」

 僕は唐突に思い出した。

「確認作業、忘れないうちにやっておかないと。透子さんが穴を通れるか」

「ああ、そのことね」

 透子は口を半開きにした顔で斜め上を見上げて五秒ほど黙考したのち、ぱっと笑顔になって何度もうなずいた。

「覚えていてくれたんだね。二度手間にならなくてよかった」

「さすがに覚えてるよー。あたしがあっちの世界に帰れるかどうかの検証でしょ」

 透子はこの世界から出るのを形でのうえでは諦めている。出口探しはもう行っていないそうだけど、夫が待つ世界に帰りたい気持ちが消滅してしまったわけじゃない。それは会話の中で確認ずみだ。

 出口探しは過去に何度も行ったけど、成果はなかったそうだ。僕がいつも利用している男子トイレにも何度か足を運んだけど、壁に穴はあいていなかったという。

 穴が見えない人間にとって、穴は「あるけど、見えない」じゃなくて「存在しない」。よって、透子はあちらの世界に帰ることはできず、末永の場合も同じ。すなわち、末永夫妻が再会を果たすのは不可能。

 透子が最後に確認したあとで穴が出現した可能性もないわけじゃない。そんな一縷の望みにすがって、例の男子トイレまで行ってみたのだけど、

「ないね。やっぱり穴なんてない。ちょっと古びたタイルの壁があるだけだよ」

 男子トイレの二つあるうちの奥側の個室、便器もなにも設置されていない空間の中央に佇み、壁の顔の高さにあたる箇所を見つめながらの透子の発言だ。

 僕の目には穴はちゃんと映っている。でも、透子が嘘をついているわけじゃないのは一目で分かった。根拠は、顔つき。別世界に通じる大きな黒い穴という、非現実的な事象を視界に捉えている人間の顔では明らかにないのだ。

 彼女の首が回って、個室と小便器のあいだに突っ立っている僕へと顔が向けられる。

「でも、一輝には見えているんだよね?」

「うん、見えてるよ。ばっちり見えてる。壁、触ってみてくれる?」

 透子は言われたとおりにした。伸ばした彼女の手の先端が穴の入口に達し、押すように力を加えた。でも、その手は入口よりも先には進まない。彼女は僕を振り返って頭を振った。

「だめか。見えないし、触れられない。……透子さんは、無理なんだ」

 無理、という言葉は表現が強すぎる気がして、言った直後に「しまった」と思った。恐る恐るうかがった透子の顔には、手持ち無沙汰な人が自分の手の爪を見つめているときのような表情が浮かんでいる。

 落胆しているように見えない。ただ、あんなにも多弁だった彼女が今は黙っている。それがすべてを表しているようで、僕まで黙り込んでしまう。

「出ようか」

 暗い空間で突っ立っていても気が滅入るだけだと、ひと声かけてトイレから出る。すると、後ろからダッシュしてきた透子が僕を追い抜き、廊下を進むのを阻むかのように立ち塞がって、

「大丈夫! まだこの建物内にあたし用の穴がないって決まったわけじゃないんだし。二年もこっちにいるから、帰れない事実を突きつけられたくらいではなんともないよ。ノーダメージだから」

 最初は空元気だと思った。でも顔を見返して、屈託のない微笑が灯った顔に見返されて、疑った自分が恥ずかしくなった。

 言葉どおりにノーダメージなんだ。ダメージ自体は受けたと思うけど、でも、僕がひと声かけてトイレから出るまでのごく短いあいだに、気持ちを見事に立て直した。心の奥では引きずっているのかもしれないけど、顔に出ないくらいに、無理せずに抑え込めるくらいに気力を取り戻した。だから、実質ノーダメージ。

 すごいな、と素直に思った。物事を悪いほうにばかり考えようとする、自分のネガティブ思考が恥ずべきことに思えた。

 それを詫びる意味を込めて、笑顔を作って透子を見返す。自然な笑顔になっていたらしく、彼女は白い歯をこぼした。

 瞬間、少々唐突ながら、依頼者との約束を思い出した。

「そうそう、手紙だ。祐之介さんから君に渡してくれって託されていた手紙、透子さんに渡しておかないと」

「ああ、そんなことも言ってたね。早めに渡してくれればよかったのに、忘れちゃってたの?」

「恥ずかしながら。でも、この手紙を渡すのは、君が元の世界に帰ってこられないと判明してからにしてって言われていたから、タイミングとしてはちょうどよかったよ」

 旦那関連のことになると記憶力がいいな、と思いながらポケットから手紙を取り出す。二つ折にされたメモ用紙が一枚。

「ふーん。よく分からないけど、そういうことならまあいいや。代読してくれる?」

「本人が読んだほうがよくない? 末永さんはどこで誰がどう読むかは指定されなかったから、そういうことかと」

「えー、嫌だなぁ。祐之介が書く文章、小難しいんだもん。きょーえつしごく、とかさ。逆立ちしても読めない漢字とかが絶対に使われているから、嫌なんだよね」

「じゃあ、読めない字があったら僕が代わりに読むよ。まずは自力でがんばってみて」

 渡そうとしたら、手が滑って手紙が床に落ちた。すぐさま拾い上げたけど、折り方が甘かったため、書かれている文章が見えた。全文は短かった。

『俺はこちらの世界でがんばるから、お前もがんばれ』

 物質と精神、二種類の込み上げてくるものがあった。

 物理的なもの――涙。

 精神的なもの――感動と悲哀。

 人間は、与えられた場所で生きていくしかないんだ。

 末永も、透子も、それぞれが信じるやり方で、彼らにとっての「こちらの世界」で生きていく覚悟を固めている。

 絶対につらいけど、明らかに不条理だけど、それでも受け入れることに決めた。

 納得はしていないけど、受け入れるしかないのだから、そうするべきだと割り切って。

 一方の僕は、生まれ育った世界に満足できなくて、偶然か奇跡か、見つけたもう一つの世界にも満足できなくて、三つ目の世界を探そうとした。

 逃げて、逃げて、逃げ続けて。逃げ疲れて、それでもなお逃げようとしている僕は。逃げるばかりの人生を送っている僕は――。

 抑え込めなかった。悲しみも、涙も。僕はその場に膝をつき、号泣した。

 大切な人を喪った人間のように顔を覆って、僕は泣く。みっともないと自分でも思うけど、自力ではどうしようもない。悲しみも、涙も。だから、泣き続ける。

「よしよし。大丈夫だからね。泣いてもいいからね。よしよし」

 寄り添うようにかたわらにしゃがみ、僕の背中をゆっくりと上下に撫でる。その手つきが優しくて、僕にとってはもっとも心地よい圧力と速度で、僕という人間のことを理解してくれているのだと思うとますます悲しくなって、涙の量は増した。

 悲しい、悲しい、と思いながら僕は泣く。

 でも、透子が慰めてくれているからこそ、今以上に悲惨な目に遭わずにすんでいることに疑いの余地はない。

 どんなに悲しくても、寄り添ってくれる人がいるなら耐えられる。

 この人と知り合えてよかった。この人をパートナーにできた祐之介さんは幸せ者だ。

 かなり長い時間、落涙は止まらなかった。

 それでも透子は最後まで付き合ってくれた。


 透子に手を引かれて『Cafe』に戻り、彼女が注文した飲み物を飲んだ。注文したのは、二人ともレモネード。透子さんが提案し、僕が同意し、その決定になった。

 透子は黙ってストローをすすっている。僕をそっとしておくべきだと考えたからでもあるし、彼女自身も考えごとをしたい気分だからでもあるのだろう。

 僕も考えることはある。山ほどある。もう一つの世界で暮らすことが確定した透子のこと。妻との再会を果たせないと確定した末永のこと。そして、元の世界に帰ってからの自分自身の振る舞い。

「きっと神さまが、『お前がいるべき場所はここだ』ってあたしに命じたんだと思う」

 もどかしく、ほのかに息苦しい沈黙に甘んじる中で、透子がおもむろに口を開いた。

「あたしが通れる穴がなかったこと、あたしがあまりにもあっさり受け入れて、悲しむ素振りも見せなかったから、この女は夫と会えないことが悲しくないんじゃないか、夫のことを愛していないんじゃないか、なんて一輝は考えたかもしれないけど、弁明させて。どうしてリアクションが薄かったかというと、それはね、慣れたから。日本人って器用な人もいれば不器用な人もいるけど、たいていの人はお箸を使えるでしょ? 子どものころからずっと使い続けているから。それと同じだよ」

 透子はレモネードのグラスを脇にどけ、上体を大きく乗り出して言葉を重ねる。

「あたしもこっちの世界に来たときは、パニックだったよ。誇張表現じゃなくて、本当にパニックに陥ったから。そういえば詳しく訊いてなかったけど、一輝の場合はどうだったの?」

「僕は、とにかく怖かったかな。なにが起きたのかが理解できなくて、混乱する心を抑えながら周囲を観察したら、なにかおかしくて、でもなにがおかしいのが分からなくて。天井を見上げても、落ちたはずの穴はどこにもないし。静かにパニックを起こしたとでも言えばいいのかな」

「そうだったんだ。あたしと比べると、ずいぶん冷静に最初の危機を乗り切ったんだね。さすがだよ、さすが」

「透子さん、そんな感じだったんだね」

「意外だったでしょ。あたし、のほほんとしていて、どんな事態もトランポリンみたいに柔らかく受け止めて、すぐに適応する人だって見られがちだから。

 側溝、でいいのかな? 道の脇にある溝を何気なく覗き込んでみたら、底に黒い穴があいていたんだ。シチュエーションは忘れちゃったけど、買い物に行く途中だったと思う。ちょっとアイスが食べたくなったから近所のコンビニまで買いに行った、とかじゃないかな。夏だったし」

 穴は「陰気な場所」にあると僕は過去に推理したけど、意外といい線いっていたのかもしれない。

「その穴に水が流れ落ちていなくて、まるで真っ黒な薄い板かなにかが貼りついているみたいで、なんだこれ、どうなっているんだろうって、頭がはてなでいっぱいになった。だから、よく見ようと思って身を乗り出したら、足を滑らせて側溝の中に落ちて、気を失っちゃって。目を覚ましたら、いきなり『Cafe』って看板が出ている店の前の床に座り込んでいて、全然知らない場所だったから、すごく混乱した。もうパニックだよ、パニック。助けてって喚いて、喚いて、喚き散らしたんだけど、ふと我に返ると、誰もあたしに注目していなくて。昂っていた心がしぃんってなって、体が芯から震えた。ここは当たり前の世界じゃないんだって悟った。

 どんなふうに当たり前じゃないのか、確かめたくて、建物の中をひたすら、くまなく歩き回ってみて、明らかになったことは三つ。

 一つは、この世界は元の世界とは違う法則に支配されていること。

 一つは、この世界に元の世界から来た人間はいないこと。ようするに、祐之介は不在ということだね。

 最後の一つは、元の世界に帰る手段はないこと。

 悲しかったよ。さびしかった。だって、世界一大好きだった人と二度と会えないんだよ? 泣いたし、怒ったし、絶望した。運命を呪った。なんであたしがって憤った。感情が秋の空みたいにころころ変わって、そのどれもが激しくて醜い感情で、情緒不安定だった。柄にもなく荒れてたね、あのころのあたしは。思春期でもあんなに荒れたことはなかったのに」

「……透子さん」

 かける言葉が見つからない。透子さんと出会ってたぶんまだ一時間にも満たないけど、明るく元気な人という印象は強く刻まれている。そんな姿、想像できないし、想像したくない。

「だけど、感情的になって暴れ回っていても、なにも変わらないしなにもはじまらない。

 なにがなんでも帰りたかったあたしは、出口を探すことにした。ここって疲れないし、おなかも空かないでしょ? だからそれを利用して、建物内のあちこちを徹底的に探したんだ。隠し扉がないか壁をべたべた触るとか、廊下を歩いている人を掴まえて詰問するとかね。がらくたを利用して祭壇みたいなものを作って、『Cafe』で買ったスイーツを供えて神さまに祈る、なんてことまでした。

 でも、全然だめだった。広すぎて、建物内のすべての場所に行くことができないし。いくら強く問い質しても、みんな『なに変なことを言っているの、この子は』っていうリアクションを返すだけ。神頼みはもちろん効果なし。

 そんなことばかりしているうちに、心が疲れてしまって、床に大の字になったまま動けなくなった。あたしはもう二度と起き上がれない、このまま死ぬんだって本気で思った」

「そこまで追い詰められていたんですね」

「うん。人生の最大の危機。

 だけど、すごく時間がかかったんだけど、あたしは立ち上がった。そして、どうせこの世界から出られないなら好き勝手やって過ごそうって開き直った。手始めに、大好きなスイーツを死ぬほど食べてやろうって決めて、『Cafe』で売っている商品を全部買って食べはじめたんだけど、ふとした瞬間にはっとしたの。あたし、食べるのに夢中じゃんって。怒っても悲しんでもいないぞって。ここでの生活を楽しんでるなって。

 この発見をきっかけに、あたしはここでの暮らしを全力で楽しむことに決めたの。この世界って、かなり自由に過ごせるでしょ。やろうと思えば、好きなことだけをして過ごすのも難しくない。だから、嫌なことはやらないようにして、考えないようにして、快適な暮らしを全身全霊で追い求めてみようかなって」

 透子の瞳が輝き出した。まるで、決意した当時を再現してみせるかのように。

「祐之介がどうでもよくなったわけじゃないよ。でも、好きなのに会えないんだから、思いを馳せても気が滅入るだけ。だから、祐之介のことは極力考えないようにした。でも、気が滅入ってもいいから祐之介のことを想いたい日もたまにあるから、そういうときはそうしたよ。『したいことをして生きる』っていうのが方針なわけだからね。だけど、基本は頭の外に置いておく。そうしておいたうえで、楽しいことだけをする! 全力で瞬間瞬間を楽しむ! そんなふうにあたしは生きるようになった。

 楽しむことを意識して過ごしてみると、こちらの世界もあちらの世界と同じくらいに楽しかった。祐之介が、夫がそばにいる暮らしと同等、だなんて言うと疑わしく聞こえるかもしれないけど――どう言えばいいのかな。どっちの暮らしにもそれぞれいいところがあって、その『いい』のベクトルが正反対だから比べられなくて、同率一位、みたいな?

 最初は泣くほど嫌だったここでの生活も、心の持ちようを変えると嘘みたいに快適になった。地獄が天国になった。こういうのをことわざで、なんて言ったっけ――」

「住めば都?」

「そうそう、それそれ。住めば都っていうことわざ、嫌々でも住んでいればいつか心地よく暮らせるようになるっていうことじゃなくて、住む人間が意識を変える必要があるっていう意味なんだね。体験してみてはじめて理解できたよ。

 だから一輝も、楽しんで生きようって心がけて生きていけば、人生が今よりも楽しくなるんじゃないかな。劇的に、ではないかもしれないけど、確実によくなるよ」

 ああ、そうか、と思う。

 透子は僕を元気づけたかったんだ。

 末永からの依頼について説明する中で、僕は自分自身の境遇なども、簡単にではあるけど透子に話している。断片的な情報から、端的に言って僕が不幸せだと彼女は見抜いたのだろう。少しでも力になりたい、なにかアドヴァイスを送りたいと思ったのだろう。だから、僕が元の世界に帰ってしまう前に行動を起こした。

 覚悟していたのだとしても、少なからず落胆しただろう。トイレに穴がなかったのを確認した直後の沈黙は、きっとそれが原因のはずだ。

 それにもかかわらず、今日知り合ったばかりの人間を助けるための行動をとるなんて。

 目頭が熱くなったけど、今度は涙をこらえた。別れるなら笑顔で別れたい。これが最後の別れではないのだとしても、別れは別れなのだから。

「透子さん、ありがとう。アドヴァイス、とてもうれしいよ。胸に刻んで、苦しくなったときには思い出して、乗り越えるための糧にするよ」

「どういたしまして。その代わりってことじゃなくて、もとからお願いするつもりだったんだけど、一ついいかな?」

「僕にできることなら、喜んで」

「じゃあ頼んじゃおうかな。ペンと紙がないから、よく覚えていて」

「えっ?」

「祐之介にメッセージを伝えてほしいの」


 約束の、喫茶店で末永と別れた二日後の午後二時、同じ店で僕たちは落ち合った。

「やあ、醍醐。元気そうだな」

 先にテーブルに着いていた末永が軽く片手を上げた。

 末永は昨日、役場職員として、いつもと変わらない機械のような沈着冷静さで僕をさんざん攻め立てている。プライベートと仕事は別とはいえ、彼の融通のきかなさが印象深く思い出され、苦笑いを禁じ得なかった。

 二人とも前回と同じブレンドコーヒーを注文し、僕はさっそく報告を行った。出だしの声の調子から結果を察したのか、末永の表情は少し曇ったように見えた。心苦しかったけど、もう一つの世界には行けない彼に、あちらで起きた出来事を包み隠さずに報告するのも僕の仕事。だから、「透子さんはあちらの世界から出ることができない」と真っ先に伝えた。

 末永はまばたき一つせずに白い天板を凝視し、数秒で顔を上げて小さく一つうなずいた。それからの僕は淡々と言葉を並べた。

「そうか。楽しそうに、前向きに、か。……あいつらしいな」

 もう一つの世界で暮らすにあたっての考え方の変化に言及したとき、末永の顔にはじめて微笑が灯った。ポジティブな成分ばかりではないみたいだけど、笑みは笑みだ。

「透子のやつ、そんなことは今まで話してくれなかったけどな。『楽しく生きているから祐之介は心配しないで』という意味の言葉なら、電話がかかってくるたびに聞いているんだが。あいつはなんでもざっくばらんに話すやつだが、信頼のおける赤の他人のほうが話しやすい話題もあるんだろう。そういう意味で、醍醐の働きには感謝しているよ」

「ありがとう。気持ちを伝えられて、透子さんもほっとしてると思う」

「あいつが行方知れずになったとき、あいつは人を信じやすいし注意散漫だから、なにか事件や事故に巻き込まれたんじゃないかって、むちゃくちゃ心配した。無事だと分かって安心したけど、今度は異常事態に巻き込まれたのに能天気に振る舞っていることが腹立たしくて、文句をつけた。でも――そうか、そうだったんだな。あれは、あいつが危機を乗り越えたあとの姿だったんだな。事情が分かってすっきりしたよ」

 末永は晴れ晴れとした顔をしている。やっとのことで到着したコーヒーカップを口まで持っていき、一口だけ無音ですすってテーブルに置く。一連の動作からは、異性愛者の男である僕も見とれてしまうような優美さがほのかに立ち昇っていた。

「運命の残酷さ、理不尽さに対する憤りは今も変わらないが、そろそろ受け入れて前向きに生きていく頃合いなんだろうな。俺としてはとっくの昔に割り切りをつけているつもりだったんだが、お前の秘密が明らかになってからの自分の言動や思考を振り返ってみると、不充分だったのかなって思うことも多々あったから。幸い、俺たちは連絡を取り合える。『こちらの世界でがんばる』と最初に言ったのは俺なんだから、有言実行しないと」

「あっ、思い出しました。透子さんから伝言を頼まれていて」

「伝言?」

「はい。『あたしもこっちの世界でがんばるから、祐之介もそっちの世界でがんばれ』――そう言っていましたよ」

 末永は相対する相手が僕ではなく、二年ぶりに再会を果たした透子であるかのように、見開いた双眸で僕の顔を見つめる。やがてその目に満足げな微笑を灯し、唇の動きだけでなにかつぶやいた。それからは、ただただ無言でコーヒーをすすった。


「前に約束したとおり、今後透子のもとへ行って伝言を頼むとか、物を渡してほしいとか、そういった依頼を今後醍醐にすることはないから、安心してくれ。つまり、明日から俺たちは、一介の『改善課』職員と『飛行場』行き忌避者の関係に戻るわけだ」

 双方のカップの中身が空になると、祐之介はおもむろに窓外から僕の顔へと視線を転じ、そう告げた。

「上司への報告の件、前にもちらっと話したが、文面を工夫して、なるべくお前の有利になるような書類を提出したいと考えている。嫌な言い方だが、俺にも生活があるし、下っ端だから、醍醐のためにできることは限られている。しかし最善を尽くそうとは思っているよ」

「ありがとうございます。……ところで、『飛行場』ってけっきょくなんなんですか?」

「分からない」

 祐之介は頭を振って即答した。

「言ったばかりのように、俺は下っ端だから。下っ端の中でも一番の下だから、俺の直属の上司といっても、組織全体における地位は下から数えたほうが早い。『飛行場』関連の謎について問い質したとところで、真実を訊き出せる見込みはまずないだろうね。答えは知っているが答えない、ではなくて、答えを知らないから答えられないんじゃないか」

「……そうですか。そういうことであれば、頼んだとしても無駄ですね」

「残念ながらな。しかし、事態はそう切迫してはいないんじゃないか」

「どういうことですか?」

「日本は密かに外国と戦争を行っていて、『飛行場』は徴兵した人間に訓練を積ませる場なのではないか、という噂が流れているだろう。仮に戦争説、徴兵説、訓練場説が正しいとして、戦況が日本に不利だからという理由で、戦地へのさらなる派兵を急いでいるのだとすれば、俺が醍醐にしているような悠長なやり方では説得しないだろう。もっと暴力的で強引なやり方で『飛行場』に行かせるんじゃないか。一刻も早く追加の兵士が必要なんだから」

「あ……。それもそうですね」

「だから醍醐、お前は今までどおり粘り強く俺の説得に抗え。俺も引き続き、マニュアルにのっとってお前を悠長に説得する。そんな茶番を続けていれば、いつかは円満に解放されるはずだ」

 親愛の念の微笑みを僕に向け、伝票を手に席を立つ。僕は慌てて起立し、前を歩く後ろ姿に向かって、

「最後に一つ、いいですか。ずっと前に祐之介さんが言った、説得の席に上司を連れてくるというのは……」

「ああ、あったね。あれはぶっちゃけ、口から出任せのはったりだ。実は、直属の上司とは反りが合わなくてね。苦手で、嫌いで、厄介で……。自分にとってそんな人間だから、難敵である醍醐にも効果的だと勘違いして、ついそんな言葉が出たのだろうな」

「そうだったんですね。……実は僕も、祐之介さんのことはそう思っていました。厄介な人だから、嫌いだし、苦手だなって」

「だろうね。無理もない」

 二人の男は微笑む顔を見合わせた。コーヒー代は割り勘で支払った。僕たちは店を出たところで挨拶を交わして別れた。


 末永夫妻の絆を目の当たりにしたことで、あの人たちのように前向きに生きていきたい、という気持ちになれた。

 では、具体的に、今の生活のなにを変えていくか。

 学業に励んでいなければ労働に従事してもいない、『飛行場』に行くことを拒んでいるゆえにあり余っている時間を活用して、じっくりと考えた。やがて、あちらの世界に生活の拠点を移そう、という方向で考えが固まりはじめた。

 一番の理由は『飛行場』行きの義務だ。

 戦争が行われている噂、『飛行場』が兵士の訓練場だという噂が、真実なのかは分からない。仮に真実だとすれば、『飛行場』行きを義務づけられた年齢であり性別に該当する僕は、こちらの世界で生きているかぎり戦地へ派兵される可能性がある。その可能性をゼロにするには、その義務が課せられていない世界に行くしかない。

 唯一の心残りは、姉の杏寿と離れ離れに暮らさなければならないこと。

 ぎくしゃくしたままの関係は、僕が正直に気持ちを打ち明け、真摯に反省の言葉を述べれば、恐らく正常に復するだろう。

 ただ、元どおりの仲に戻ってから別れると、杏寿の惜別の悲しみはいっそう深まる。だったらいっそのこと、和解の機会を持たないまま別れたほうがいい。そうしたとしても後悔からは逃れられないんだろうけど、選択肢が二つしかないなら、姉が負う心の傷がより浅くすむほうを選びたい。

 杏寿には恋人ができた。さらには、もう弟の面倒を見なくてもすむ。今後、彼女の人生の質は格段に上昇するだろう。弟が失踪してしばらくは、失った悲しみが上回るかもしれない。ああするべきじゃなかった、こうするべきだったと、後悔や反省も数多くするだろう。でも、恋人のサポートによって速やかに心の健康を回復し、近い将来には必ず、胸に痛みを感じずに弟に思いを馳せられるようになるはずだ。

 もちろん、僕としてもさびしいし、複雑な気分だ。でも、今まで姉にさんざん迷惑をかけてきた罰だと思えば、納得できる気がする。耐えがたいし納得しがたいことだけど、仕方がないことなんだって受け入れられるはずだ。

 ただ、悲しみを少しでも和らげるために、書き置きを残しておきたい。文章を書くのは苦手だけど、幸いにも末永夫妻がよいヒントをくれた。

『突然で驚くかもしないけど、僕は今日から遠い土地で暮らすことにしたよ。僕はもう一人でも生きていけるから、心配しないで。僕もあちらの世界でがんばるから、姉ちゃんもそちらの世界でがんばって。今までありがとう。あっちに行っても大好きだよ。

 さようなら』


 こんなにも早く、もう一つの世界に戻ってくるとは思わなかった。

「さて」

 こちらの世界で、これからなにをしよう?

 生きがい。夢。目標。

 そういったものを作っておいたほうがいいな、と思う。

 万引きを末永に見つかってからは、とにかく慌ただしかった。のんびりと過ごしながら気長に探すのも悪くない。

 自由、生きがい、のんびりと過ごす。

 そういった言葉が引き金となったのだろう、透子の存在を思い出した。

 彼女はこの世界から出られない。僕はこちらの世界で生きると決めたから、必然に彼女とともに生きることになる。

 考えてみれば当たり前でしかないその事実を、今になるまですっかり見落としていた。

 気まずいような、照れくさいような気持ちに、頬を指でかく。

 天真爛漫、言動が幼く感じられるから忘れがちだけど、透子は既婚者だ。文字どおり住む世界が違うという、かなり特殊な関係性だけど、末永と彼女が夫婦という事実は厳然として揺るぎない。

「まあでも、あの人に限って不倫はないだろうから」

 透子は初対面の僕にもかなりフレンドリーに接したけど、その性質を間違った用途に活用する人間だとは思えない。

 あまり気をつかいすぎるのも逆に失礼だ。起こりもしない未来に怯えるんじゃなくて、こちらから透子に会いに行こう。そして伝えるんだ。

 この前はありがとう、これからもよろしく、と。


『Cafe』に透子の姿はなかった。

 テーブル席で大量のスイーツを食べる姿が印象的だったせいか、透子は健啖家だというイメージがある。飲み物を飲みながら彼女を待ってみてもよかったけど、会いたい気持ちを持て余すのが嫌で、大ホールを出て幅広の廊下を進む。

 透子は今ごろどこでなにをしているのだろう。建物内を気の赴くままに散歩している? それとも、僕が知らない秘密の場所でのんびり昼寝? そういえば、この世界で彼女があり余る時間をどんなふうに消費しているのか、詳しく訊いたことは一度もなかった。

 最初は「透子が行きそうな場所」「透子がいそうな場所」という漠然とした基準を念頭に、途中からは先入観を極力排して、広く探し回った。しかし、どこにもいない。

「引き返そう、かな」

 焦る理由はない。でも、目的をなかなか叶えられないと、やはり落ち着かない気持ちになる。時間がたっぷりあるのにそわそわするのも馬鹿馬鹿しいから、『Cafe』に戻って甘い飲み物を飲みながら待とう。戻ってみたら、透子は「最初からここにいましたが、なにか?」という顔をして、スイーツをぱくついていそうな気もするし。

 トイレのことを思い出したのは、引き返しはじめて間もなくのこと。

 あそこは透子にとって、元の世界に戻れない現実を改めて突きつけられた場所だ。彼女の性格を考えれば、まさか引きずってはいないと思うけど、なぜだろう、戸口に佇んで物思いに耽っている姿が脳裏で明滅し、僕の心をいっそう不安定にさせる。

「……まさかね」

 まさかとは思う。でも、時間はあり余っているから立ち寄ってみても損はない。僕は進路を変えた。

 トイレの前まで行くと、中からなにやら物音が聞こえてくる。

 耳を澄ませる。なんの声かは判別できないけど、幻聴ではなさそうだ。慎重な足取りで中に足を踏み入れる。

 声は一番奥の個室から発生している。

 胸騒ぎがした。見てはいけない、と直感した。

 うらはらに、足は止まらない。むしろ歩行速度は上昇する。声は続いている。すでにおおむね予想はついていたけど、この目で確かめずにはいられない。

 立ち止まって、中を覗き込んで、危うく叫ぶところだった。

 透子が見知らぬ若い男とセックスをしていた。

 タイルの床に仰向けに横たわる透子。その上に男がのしかかり、どこか機械的に腰を前後させている。男が下半身を打ちつけるたびに乾いた音が立ち、透子の口から媚を含んだ官能の喘ぎがもれる。どちらも一糸まとわぬ姿。闇の中に白く浮かび上がる肌全体がうっすらと汗で覆われている。泣き出しそうな瞳、切なげにひそめられた眉、切迫した声。

 衝撃だった。セックスをしている人間が透子だということも。相手が見知らぬ男だということも。

 男は学生に見える。僕や透子に基本的には無関心な、建物内に存在する大勢の人間の一人で間違いない。

 なぜ僕たちに無関心のはずの学生が、透子と交わっているんだ?

 混乱してしまったけど、やろうと思えばできる、と気がつく。

 僕はこちらの世界にはじめて来たばかりのころ、自分が幽霊になってしまったのではと疑い、学生たちに触れられるかを検証しようと、通行人の女性に自分からぶつかりにいったことがある。結果、体と体は触れ合った。基本的には僕に無関心だし、自分から近づいてくる者は皆無だったからつい忘れていたけど、僕と彼らは肉体的接触自体は可能だ。ようするに、こちらが望み、行動に移しさえすれば、普通にコミュニケーションがとれる。『Cafe』で飲み物や食べ物を注文できているのがそのなによりの証拠だ。

 つまり、透子のほうから男を誘い、トイレに連れ込み、セックスをしている。

 夫の祐之介を、あんなにも愛している透子が。

 ショックが過ぎ去ると、悲しみがじくじくと湧いた。それは足元から徐々に色を変えていくようにして、怒りへと変わった。しかし長続きはせず、また悲しみに逆戻りする。

 その悲しみが、温度を維持したまましばらく続き、やがて不意に、薄紙の上に一滴のインクがぽつりと落ちたように、仕方ない、という思いが心に滲んだ。

 なにが仕方ないんだ?

 はじめはちんぷんかんぷんだった。しかし、インクはじわりじわりと面積を拡大していき、足並みを揃えて理解も拡大していく。

 確かに、仕方がない。

 透子はもう二年以上も最愛の夫と対面を果たせていない。それだけの長期間、肉体的な交流を持てていない。いくら夫婦愛という絆で結ばれていたとしても、それは若い彼女にとってつらいことだったはずだ。拷問にも等しい苦行だったかもしれない。

 末永は透子を「男女関係は乱れていない」と評していたけど、それは真実だと思う。

 でも、それはあくまでも、彼女が生まれ育った世界に限っての話。

 彼女は、徹底的に探索したものの、建物の出口を見つけられなかった。「一生ここから出られない」という絶望を、悲しみを胸に暮らしてきた。追い打ちをかけるように、僕が利用している男子トイレの穴を、透子は使えない事実を突きつけられた。

 破れかぶれになったとしてもおかしくない。セックスの場所がトイレなのは、一般的にそういう行為にあつらえ向きの場所だからじゃなくて、僕が行き来するための穴があるからこそ、なのかもしれない。

 透子は自分のしゃべりたいことを好き勝手にしゃべり、あまり人の話を聞かなかった。自らの欲望を制御するのが苦手なタイプなのかな、という印象を受けた。自制心の弱さも見逃せない要因なのだろう。この世界で過ちを犯しても夫にはばれない、という狡い計算もあったに違いない。

 透子にも非がないわけじゃない。

 だとしても、彼女は責められない。

 ……仕方がない。これは仕方がないことなんだ。透子さんにとっても、そしてもちろん、末永にとっても不幸なこと。

 でも、仕方がないことでもあるんだ。

 だって、世界が、二人を決定的に隔ててしまったのだから。

 悪いのは、二人を隔てた世界なのだから。

「仕方ない、仕方ないんだ……」

 個室に背を向け、男子トイレをあとにする。

 聞こえた絶頂の声は、数歩も歩けばたどり着ける距離に音源があるのに、はるか遠くで響いたように感じられた。


 僕は惨めな足取りで道を引き返している。

 座りたかった。床に座り込んで、低い位置から行き交う学生たちを見るのは惨めなので、ちゃんとした椅子に。しかしあいにく、近くに該当するものはどこにもないので、『Cafe』を目指して機械的に足を動かしている。

 そして、決して看過できないものを認めて足が止まる。

 トイレに行くときもそれの前は通った。でも、足を緩めるどころか一瞥すらしなかった。向き合いたくなかったから、わざと無視したのだ。

 しかし、「仕方ない」の一語で納得するしか選択肢がない、己に不都合な現実を目の当たりにした帰り道は、無視できなかった。

 戸だ。

 白亜に包まれた空間に通じている、閉ざされた戸。

 何度も挑んだけど、触れることさえできなかった、僕にとっての開かずの戸。

 鼓動が静かに足を速めはじめた。『Cafe』に向かう方向、遠ざかる方向、どちらの邪魔になるような場所で停止した両足は、貼りついたかのように床から離れない。三十度ほどねじった首、その上の頭、その中ほどの高さに付属した一対の目が捉えるのは、戸。閉まっていて、はじめて見たときから姿を変えていない。

 そういえば、二つの世界の行き来が激しくなってからは、開けようと試みることさえなくなっていた。

 今の僕は、一瞬たりとも目が離せないくらい深く対象に関心を奪われているくせに、どこか他人事のようにそう思う。

 開けようとするどころか、関心を注ぐことさえもなかった。

 その関心が、久々に向いた。

 それで、どうする?

 足が動き出した。操られているとも、無意識に積極性を発揮しているともつかない歩の運びで移動し、僕は何十日かぶりに戸の前に立ち、それを凝視した。

 なんの変哲もない灰色の戸だ。間近から見据えたことで、さんざん経験した恐怖を体が思い出したらしく、鼓動が高鳴り出した。

 潜り抜けた先にある白い空間――そこになにがあるのだろう?

 何十回、何百回と考察した。中がまったく見えないため、推理は難航を極めた。しかし、醍醐一輝という存在にとって重要な場所であることは間違いない、という漠然とした回答はすでに導き出している。論理的に思案を進めた結果というよりも、直感に近い。

 どんなふうに大切? 戸を潜って入室することで、どんな恩恵を受けられる?

 現時点で与えられている情報だけでは、これ以上の推理は難しい。無理やり進めたとしても、結論は真実からはかけ離れたものになるだろう。

 実際に入室して、自分自身で確かめるしかない。

 僕は理解していた。もしかすると、はじめて戸の前に立ったときから。

 それでいて、引手に指を触れさせることすらできないのは、怖いからだ。

 戸を潜ることで得られるものが恩恵である保障はない。むしろ、時間が多少薄れさせはしたけど、いまだに生々しく残る、戸を開けようと試みたときに襲いかかってきた恐怖が邪魔をしている。

 ただ、今回は前回までとは少し趣が異なる。

 確かに怖い。怖いんだけど、でも前回までほどではない。言うなれば、なんとかなりそうな恐怖感。

 戸を開ければ自分は損害を被るかもしれない、という危惧の念は健在だ。最悪死ぬかもしれない、とも思っている。でも、どのような結果になるかはさておき、気力を振り絞れば開けられるのではないか、という前向きな予感を覚えている。

 僕は現状、目的も行き先もない。

 現状維持や停滞でも構わないなら、広すぎる建物内をあてもなく逍遥し、休憩したい気分になったら『Cafe』で飲食すればいい。「第二の世界を拠点に定める」と個人的に勝手に決めただけで、行き来すること自体にはなんら制限はかかっていないから、元の世界へ逃げることだって可能だ。

 でも、そんなことは望んでいない。

 変化が欲しい。

 それを得るためには、戸を潜るしかない。

 進むべき道は一つしかない。この理解ほど、人に力を与えるものはない。

 右手を胸の高さに上げる。引手を目がけて伸ばすと、指先に弾性のある壁を感じた。膜が隔たっているのだ。僕にしか感じられない膜が。でも前回とは違い、怯まない。恐怖を感じないのだ。なぜかは分からないけど、怖くない。指が切断される予感も襲ってこない。

 突き破るのではなく、思いきり押すイメージを描きながら加圧すると、膜が弾けるようにして破れた。呆気なかった。右手をそのまま引手に近づけ、触れる。冷たい。長く味わうと意欲が萎えてしまう気がして、右方向にスライドさせる。ほんの軽い手応えがあって、半分ほど開く。

 出現したのは、白。まばゆいばかりの白。空間をくまなく満たし、先は見通せない。

 理解するには、足を踏み入れて、この目で確かめるしかない。

 そんな段階まで来てはじめて、僕は足踏みを強いられた。

 僕が果たそうとしている目的は、大別すれば二段階に分けられる。すなわち、戸を開けるフェイズと、戸を潜るフェイズ。第一フェイズはさらに、引手に手をかける、戸を開ける、その二つのフェイズに分割できる。だけど前半から後半に移行するにあたり、要求される精神力はそう大きくない。事実、先ほどその関門を乗り越えたとき、「このまま引手の冷たさを味わい続けていれば、気持ちが萎えるかもしれないぞ」と、少しばかり危機感を煽ってやるだけでよかった。

 しかし、第一から第二へと移行するのはそう簡単にはいかない。だから、今僕はフリーズしている。あんなに開けられなかった戸を開けることに成功しながら。戸の内側に立体的に広がる白を前にしながら。

 未知の場所に踏み込んでいくのが、こんなにも困難だとは思ってもみなかった。

 いつの間にか呼吸は速く、心臓は早鐘を打ち、四肢は震え――戸を開けようと挑んだ過去とまったく同じ症状だ。

 でも、前回までとは違い、戸に背を向けて逃げ出すことはない。

 あとひと押し、僕に力をもたらしてくれるなにかを見つけられれば、決定的な一線を越えられるかもしれない。

 その「なにか」の正体がなんなのかはまだ掴みきれていない。ただ、大まかな方向性ならすでに掴んでいる。

 開き直りだ。

 僕は疑り深い。杏寿のささいな言動を過大評価したのも、末永のはったりに苦悩したのも、ひとえにその性質のせいだ。戸の先の空間に足を踏み入れるのも、それが邪魔している。逆に言えば、それを取り除きさえすれば目的は遂げられる。

 でも、どうやって?

 戸を潜るにあたって抱いている最大の懸念は、その先の世界で、こちらの不利益になるような事象が発生し、被害をこうむるのではないか、ということ。

 考え得る不利益の中で最大のものは、言うまでもなく死だ。

 僕は死を恐れている。新しい国民の義務である『飛行場』行きを断固として拒絶するくらい、激しく。死に対する恐怖は、生きとし生けるものに普遍的な、根源的で本能的なもの。一時的だとしても克服するのは困難を極めるけど、

 僕は忘れていない。永続的ではなかったものの、それを克服したことが僕にはある。世界で生きていくことに希望を持てなくなり、岬の断崖から飛び降りた、というのがそれだ。

 穴に落ちれば死ななくてすむかもしれない。

 そう考えたからこそ、僕は飛び降りることができた。

 だから、こう思おう。

 この戸を潜って白亜に身を投じても、僕は死なないかもしれない。

 ロウソクの小さな炎が軽いひと吹きで吹き消されたように、恐怖が消えた。ただ、それはすぐにも復活しそうだ。

 今しかない。


 僕は戸の内側へと飛び込んだ。白い輝きが全身を包み込んだ。


 意識を取り戻すと、教室の中にいた。

 まっさらな黒板。黒板受けに置かれた黒板消しと数本のチョーク。教壇の上の教卓。整然と並べられた机と椅子。黒板の対面にはロッカーがあり、その上の壁にはプリント類が所狭しと貼りつけられている。どの窓のカーテンも全開にされ、ガラス越しに見える空はさわやかに青く、広がりを感じさせる。

 日本で義務教育を受けた経験を持つ人間なら、誰であっても現在地は「教室」だと瞬時に認定するだろう。

 その空間の、窓の対面、戸にもたれて僕は床に座り込んでいる。

 戸はまぎれもなく、意識を失う前に僕が自力で開けたもの。ただし、今は閉まった状態だ。

 机と椅子のセットは全部で三十弱あり、誰も着席していない。というよりも、教室の中に学生は誰もいない。

 ただし、学生以外の人間ならばいる。

 たった一人、教卓の天板の上に腰かけている男がいる。上下ともに迷彩柄の軍服で、無帽。緩やかに脚を組んで悠然と座し、僕のことを見ている。

 男だと判断したのは、細身だけどがっちりした体格だったからで、目鼻立ちは参考にしていない。というよりも、参考にならない。男の顔は、顔だけが真っ黒に塗りつぶされているのだ。鼻や唇や耳の凹凸さえ確認できない、のっぺりとした黒一色。

 まるで、二つの世界を繋ぐ穴のような。

 男は何者なんだ?

 それに、僕が今いるこの場所は?

 おもむろに男の右手が動いた。立て、と促したように見えた。

 僕は対応に迷った。今現在自分が置かれている状況が呑み込めず、適応できず、混乱を引きずっているのもあるけど、男が敵か味方かが定かではないからでもある。僕に危害を加えてくる気配は感じられない。ただ、害はなさそうだからと、流されるように命令に従い続けているうちに、取り返しがつかない地平まで連れ去られてしまいそうな予感もする。

 再び、男は立てと促した。

 迷ったけど、従った。すると今度は、胸の高さに横線を引くように、指を左から右に、僕がいるほうから窓の方向へと動かす。それを二度、三度とくり返す。

 男から視線を逸らさないようにしながら、促す方向に向かって移動する。教室を左右に二等分する架空の線上に差しかかった瞬間、男は掌を僕に向けた。止まれの合図だと解釈し、言われたとおりにする。すると、次は「こちらに来い」という手ぶりでの指示。

 やはり、この男は僕を操ろうとしている――。

 これ以上言いなりになるのは怖い。ただ、なんらかの危害が及ぶ可能性は、拒絶した場合にもあると気がつき、覚悟を決めて歩き出す。怪しい挙動をすればすぐに対応をとれるように、心身に警戒心をみなぎらせて。

 てっきりそばまで来るようにと指示されるのかと思っていたのだけど、途中で掌によるストップがかかった。僕の足が止まったのは、部屋の中央。

 男は座ったまま脚を組み替えた。それがしゃべり出す合図だった。

「待っていたよ。ずいぶんと遅かったじゃないか」

 二十代から三十代の、落ち着きが感じる男性の声。温かみがあるけど、機械で巧みに合成された温かみ、という印象を受ける。

「いや、なに、君のことを怒っているわけじゃないんだ。私は授業を執り行う人間であって、生活指導は仕事の範疇ではないのだから。

 さっそくだが、君には問題を解いてもらおう。

『人生において困難に直面したさいに、それを乗り越えるために必要なものは、なに? 単語一つで答えよ』」

 そこまで言って、男は黙った。言葉が追加される気配はない。伝えるべきことは伝え終わり、あとは僕が行動するだけ、というわけだ。

 汗が流れ出した。粘度が高く、ゆっくりとしか流れない、肌に不愉快な汗が、大量に。手足が震えている気がする。心臓が痛いくらいに強く鼓動を刻みはじめたのは、いつからだろう。

 運命の分かれ道だ。回答を誤れば、身の安全が脅かされるかもしれない。できればじっくりと時間をかけて思案したいところだけど、果たして男は待ってくれるのか。

 ……逃げたい。

 戸を開けるんじゃなかった。

 教室に入るんじゃなかった。

 後悔、後悔、後悔。しかし戸は閉まっている。恐らく、開けようとしても無駄だ。あるいは、男がそれを許さない。罰が下される。僕に向ける暗黒の顔貌はそのままに、指を鳴らすという行為一つで、僕の命を不可逆的に終わらせてしまう気がする。

 この部屋に入った人間は、問題の正解を書く以外に生存する術はないのだ。

 まるで僕が理解を完了するのを待っていたかのようなタイミングで、男は軽やかに教卓から下りて黒板を指差した。指先を上下に波打たせるように動かし、窓際の隅まで引き下がる。答えを書け、と言っているのだ。

 人生の困難を乗り越えるために必要なもの――。

 僕には謎かけの答えが分からない。書けと言われても、なにも浮かばないから書きようがない。だからと言って、でたらめに書いたところで的中するはずがない。はっきり言って、状況は絶望的だ。

 それでも僕は教壇に上がる。

 なにもせずに突っ立っていると、男になにかされそうだから、という消極的な動機からの行動だった。しかし、真っ白なチョークを手にとり、世界そのもののような黒板を見上げた瞬間、ぱっと答えが浮かんだ。

 シンプルだ。陳腐でもある。ゆえに不正解かと訝ってしまう。しかし同時に、唯一の正解だと信じてもいる。引っかけ問題。灯台下暗し。大切なものは身近な場所にある。さながら、メーテルリンクの『青い鳥』のように。

 僕を教壇に上がらせたものの正体――人生の困難を乗り越えるために必要なのは――。

『勇気』

 丁寧だが素早い指づかいでその二文字を大きくしたため、チョークを手にしたまま男のほうを向いた。

 男の顔は真っ暗なままだ。それなのに、笑っているように見えた。見下しているような、同情しているような。

 その顔で、男は告げる。

「おめでとう、正解だ。ただし、次の問題はこれよりももっと難しいぞ」

 出し抜けに、浮遊感。息を呑んで自らの足元を見下ろす。床に穴があいていた。黒く、暗い、直径二メートルほどの大穴。

 僕はなす術もなく落下する。絶叫が迸る。それもろとも吸い込まれるかのように、意識は闇に呑まれる。


 意識を取り戻したとき、白の主張が強い空間に僕はいた。

 壁の代わりに設けられた巨大な窓ガラスから射し込む光の働きによる白さだ。

 視界には、整然と並べられたテーブルセットが映っている。

 戸の内側で起こった出来事は鮮明に記憶している。僕は正答を黒板に記し、戸の外側の世界に戻ってこられたらしい。

 しかし、なにか違和感を覚える。

 周囲を見回してみて、背筋が寒くなった。

 元の世界、ではない。

 似ているけど、ところどころ大きく違う。簡単すぎる間違い探しのようなものだ。

 たとえば、看板の文字は『Cafe』から『喫茶店』に変わり、テーブルセットの総数は三分の二ほどに減っている。アップダウンが激しい廊下の床には点字ブロックのような小さな突起が一面に広がっていて、ホールとの境界の両脇に熱帯の植物の鉢が置かれている。

 呆然としてしまってその場から動けない。たった一ミリ、身じろぎすることさえも。

 座り込む僕の前後や左右を、時おり二十歳くらいの男女が通り過ぎる。本来のもう一つの世界よりも若干人口密度が増したようで、だからこそ僕に対する無関心さが際立つ。

 当たり前の事実に、今になってようやく気がついた。

 人生の困難を乗り越えたとしても、それで一件落着ではなくて、また次の困難が待ち構えている。

 その果てしないくり返しによって人生は運営され、死をもって終止符が打たれる。

「……僕は」

 また世界を歩き回って、戸を探し出して、勇気を振り絞って開いて、次の世界に行くための問題を解かなければいけないのか?

 突如として重い疲労感がのしかかってきた。全身に力が入らなくなり、その場に崩れ落ちる。仰向けの、四肢を中途半端に投げ出した姿勢で。

 天井は広く、白く、つやつやしている。まるで画用紙みたいだ。なにを描いても自由だけど、一つの作品を完成させるのはそうとう困難だろう。だったら創作活動なんてはじめからしないほうがいいと、瞼を閉ざそうとしたのだけど、

 閉ざしたわけではないのに視界が暗くなった。

 驚きながらも目を凝らすと、真っ暗な顔の少女が僕の顔を覗き込んでいた。

 どこかで見たことがあるような、ないような……。

 彼女はおもむろに僕の鼻先になにかを突きつけた。初夏が香った。

 夏みかんだ。

 しばらく迷って、それを受け取る。

 少女は微笑んだ。顔は真っ白なのに、表情の変化がはっきりと分かった。

 だから、僕もうれしかった。


 しばらくして僕は立ち上がり、この世界を歩きはじめた。

 戸を見つけるためだ。

 本当に見つかるのか、見つかったとして開ける勇気を発揮できるのか、今はまだ分からないけど。

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楽園不在 阿波野治 @aaaaaaaa

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