静かなる霊の沈黙

「じゃ、話すよ。とっておきの怪談。いいかい?」



「ねえ、お願い。聞いて欲しいの。あたし、すごく恐いの」

 僕らは、今、カフェに居る。

 目の前にはコーヒーの入ったカップと、やや離れた場所に紅茶の入ったカップ。コクリと小さな音を立てて僕は苦水を喉に落とし込む。彼女の怖がる姿を見るに堪えられず、自分で頼んだコーヒーが苦いものだとしか思えない。

 僕の彼女が怯えている。猟犬に追い立てられた野ウサギが暗い穴に隠れて震えているかのよう。彼氏の僕が言うのもなんだけど彼女は気が強い。メンタルも太い。少なくとも僕よりは彼女の方が恐いものがない。そんな彼女が顔面を蒼白にして訴えている。警察が手に負えない案件で自衛隊を応援に呼んでいるようなもの。いや、その自衛隊すらも手に負えず同盟国の軍隊へと救援信号を送っている。気が強い彼女から緊急事態宣言を受けて僕の心臓が跳ねる。跳ね回る。

「視線を感じない? 誰のものか分からない視線」

 視線? 今まで、視線など気に留めていなかったから、一瞬、彼女がなにを言ったのか、なにを訴えたのか分からなかった。そして改めて気を張る。視線が在るのかどうかを確かめる。すると少し離れた場所からの視線を感じる。ついでにその視線が誰のものなのかを確かめる為、更に気を張ってみる。

「……少し前から感じるようになったの。視線を。どこにいても、なにをしていても視線が追ってくるの。部屋でくつろいでいる時も会社で仕事をしてる時も」

「うん。そうだね。視線を感じるよ」

「その視線の正体は、一体、誰なのか。男のものなのか、女のものなのか、それを知りたくて何回も視線が在る場所を探ったの。でも、見つけられなくて……」

 いまだ視線の正体が分からないの。

 僕も視線が誰のものなのかの正体を探ってみる。けども分からない。いや、むしろ人間のものではないとさえ思える。気味悪さを感じる。僕は、敢えて視線を動かさず、周辺視で視線が在る場所を探る。不気味な視線の持ち主をあぶり出す為。それでも敵は尻尾を出さない。誰のものか分からない。分からないが恐怖に変る。

「少し前からってさ。この視線を?」

「うん」

 彼女が言うには、時と場所を選ばず、視線は彼女に絡みついてきていたようだ。それは、まるで大蛇が足のつま先から這って登ってきたような心境だったという。あまつさえ、その蛇は、体中を舐めて巡り、遂には頬へと辿り着いているそうだ。その上、そこで赤い舌をチロチロと出している。それが今の状況だというのだ。

 いや、その気持ちは分からないでもない。

 今まで視線の事など気にせず生きてきた。けども、一旦、その視線に気づいてしまえば、いくら鈍感な僕とて気分が悪くなる。正体も分からないならば余計に。少なくとも僕よりも気が強い彼女が気味悪がっているのだ。僕の気分が急転直下で堕ちていくのは当然だろう。

 ククク。見ているぞ。見てる。見てるぞ。

 そんな事を言われたような気になり、吐き気すらもよおす。

「とりあえず、ここを出よう」

「分かった」

 彼女はうなずく。

 僕はレシートを手に取ってレジに向かう。それは、ここから逃げ出したかったから。ここから動けば視線から逃れられると儚き思いを吐露しただけの事。そうしてレジでマスターを待つ。洗い物をしていたマスターが気づく。タオルで手を拭いてレジに立つ。そうして僕の手からレシートを受け取る。とマスターの動きが止まる。僕らの恐怖に引き攣った顔をマジマジと見比べてから申し訳なさそうに言う。

「あの、つかぬ事をお伺いしますが、……視線に悩まされていませんか?」

 恐怖を言い当てられてマスターを凝視する。カッと見開いた眼〔まなこ〕で。

「は、はい。正体が分かるんですか? 誰のものです? 僕らの知っている人間のものですか? それとも、あり得ないと思いますが人間のものじゃなくて……」

 ようやく視線の正体が分かるかも知れないと矢継ぎ早に質問の嵐を投げつける。

「い、いえ……」

 マスターは言葉を濁す。なにか言いにくい事があるかのよう。

 僕は、もったいぶるな、と見当違いの怒りを滲ませてマスターに詰め寄る。

「教えて下さい。この視線が誰のものなのかを!」

「良いんですか。本当に。言って」

 マスターは目を伏せてから、チラリと僕の彼女へと視線を移す。僕は良いとしても彼女も聞きたいのだろうか、と思いを馳せた。そう感じた。だから。

「大丈夫です。誰の視線だろうと、ある程度の覚悟は出来ていますから。それどころか。いえ。それよりも、もちろん、彼女とて同じです。なあ、そうだよね?」

 僕は彼女に同意を求める。

「う、うん。恐いけど正体を知りたい。でないと、この後も、ずっと、この視線に追いかけられ続けられるから。もうイヤ。こんな恐い思いは。だから知りたい」

 という彼女の返事を聞いてマスターは目を閉じてから大きなため息を吐く。

「誰のものなのか……」

 ゴクリと大きな音を立てて唾をのみマスターの二の句を待つ。

「誰のものなのかは分かりません。知りたくもありませんしね」

 ええっ?

 だったら、なにが言いたいんだ。マスターは。

「ただ一つだけ言える事があります。その視線一つだけじゃないですよ」

 ……あなた方の周りに無数に在ります。それは数え切れないくらいに。

 ぶわっと、あなた方を取り巻くよう無数にも。

 一つだけじゃなくて、無数にだって。マジか。

 僕と彼女は、お互いの顔を見合わせた震えた。



「……という怪談。どうだった? 恐いでしょ」

 僕は興味がさそうに紅茶をすする彼女に言う。

 僕も冷えてしまったコーヒーを喉の中に通す。

 恐い話が聞きたい。というよりも、最近、恐いと思った事がないから怖いって気持ちを忘れそうなの。だから思い出したいの。恐いって気持ち。なんて言われて一週間かけて探し出してきた怪談。このお話はね。

 彼女はソレを無碍に笑いながらも切り捨てた。

「このお話の恐いポイントって、どこよ? というか、その無数の視線っての正体って霊なんでしょ。だって無数だもん。それ以外なくない? 全然、恐くない」

 まあ、オカルトや怪談、霊など一切信じないリアリストな彼女らしい答え。けども僕は彼女がリアリストだからこそ、この話を仕入れて仕込んだんだ。で、話した。そんな、お話の中で、彼女が怖がるポイントは、実は、この後、すぐだったり。意味が分かると恐い話系だから。

「というか、実は、これが視線の正体なんだよ」

 スマートフォンの背を向けて彼女に魅せる僕。

「スマホ。しかも裏側? なんだって言うのよ。……ああっ。そういう事かッ!」

 彼女は得心がいったと瞳を、より一層見開く。

「うん」

 僕は鼻頭を親指で弾いて強く右親指を立てる。

「カメラか。視線の正体。確かにソレは恐い。スマホのカメラ、お店の防犯カメラ、車載カメラ、ともすれば盗撮用の隠しカメラ、それが無数って。マジ?」

「でしょ? 恐いでしょ?」

「じゃ、監視されていた彼らは正体は犯罪者って事? それとも有名人だとか?」

「まあ、その辺は、君のご想像にお任せします。……いや、むしろ、ごく平凡な一般人が彼らの正体としておいた方が、この怪談は、より恐くなるけどね」

「そっか。そうだね。今は、ちょっとでも集団から外れて逸れる行動をしたら、その時の好奇の視線は計り知れないってか。確かに。めっちゃ恐いわ。それって」

 と言って両二の腕をお互いの反対側の手のひらで包んでから震えて続ける彼女。

「……私も気をつけよ、と」

「そうして下さいませ。お姫様。これにて閉幕」

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