迷宮深層紀行
東屋彦那
第1話 追跡者①
薄暗い店内だった。
客は男が一人。木製のジョッキに注がれた水一杯で、随分と長い間カウンター席の隅に陣取っている。
カウンター席が四席、テーブル席が二組と、お世辞にも広いとは言えない店内で、膝まで隠す外套を纏った深緑色の髪をした男は鬱陶しそうに前髪をかき上げて、静かにジョッキを置いた。
天井から吊り下げられたガラス瓶の中で、炎が燃え上がり、そして勢いを失うという動きを繰り返していた。
「なぁ、マスター」
その炎を見上げながら、カウンターの男は向かい側に立つ男へ声を掛けた。マスターと呼ばれた、屈強な体躯を持つ男がジョッキを洗う手を止めて顔を上げる。
「魔石が足りてないんじゃないの? 炎、消えかかってるけど」
水で唇を湿らせてカウンターにジョッキを置くと、マスターはそれを一睨みしてから口を開いた。
「あのなぁ《森色》、そう思うんなら水なんて頼まず売り上げに貢献してくれ」
「まだ昼間とは言え、客が俺一人とは……随分寂しくなったもんだ」
《森色》と呼ばれた男は薄汚れた外套の内側から手のひら大の石を取り出して、カウンターの上に転がした。
深い青一色だったその石は明かりに照らされると、その内部に幾つもの色を浮かび上がらせる。
「酒は苦手なんで注文はしないけど、普段世話になってる礼に取っておいてくれ」
「そういうなら、遠慮なしに受け取るぞ」
マスターはカウンターの上の魔石を受け取ると、すぐ後ろにある箱の中にそれを投げ入れた。次の瞬間、ガラス瓶の中の炎は勢いよく燃え上がり、店内が明るく照らされる。
ジョッキの中の水を飲み干し、《森色》は立ち上がる。
「ああ、待て《森色》」
制止され、その場に立ち止まる《森色》が疑問符を浮かべたところで、鐘の音が響き渡る。
「よし、やっときたか」
カウンターの一部を畳み、マスターが《森色》の隣まで出る。先ほどの鐘の音は、酒場の裏手にある入江に船が入港した合図だ。
船が来たことは理解した。だが、《森色》はそのことが自分を制止するに至る理由が分からず、再び疑問符を浮かべる。
「仕入れに行ってくるから、お前は店番していてくれ」
《森色》の肩に手を置いてそう言ってから、マスターは店の外へ走り去っていった。
悪態をつきながらも今日はやけに上機嫌で自分の長居を見逃しているな、と思ったら、そういうことだったか。初めから自分に店番を任せるつもりだったのだろうと納得し、《森色》は元居たカウンター席へと戻って腰を下ろした。
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