好きになんて、ならなければよかった

華周夏

好きになんて、ならなければよかった

 雨が降っていた。頭から打ちつけるような雨で、夜も更けてみぞれ混じりになっていった。俯きながら雨足が弱まるのを店の中で待っていた私に女将さんは、

「三輪ちゃん、雨やまないみたいよ。これから雪になるかもだって。電車なくなっちゃうから、ほら、他のお客さんには内緒だよ、小さいけどビニール傘。気をつけて帰んな」

 私が今日、行きつけの居酒屋『のんき』に来たのは、彼、賢治から、珍しく呼び出しがあったからだ。賢治は自分から『会いたい』とは言わない。昔と違い、LINEも素っ気なく、今はスタンプだけの場合が多い。一応付き合っては、いる。

 去年のクリスマスと年越し、私誰と一緒にいたんだろう。ああ、黒猫のおはぎだ。昔マンションの前に捨てられていた仔猫。私は衰弱したその子をバスタオルでくるんで動物病院に飛び込んだんだっけ。今日みたく雨が冷たい日だった。生命の灯火が消えてしまいそうなその子を、私は放っといていられなかった。ミィミィと『助けて』『寒いよ』とでも言うように細く鳴く震える仔猫に私は『おはぎ』と名前をつけた。私はこの子に随分慰められてきた。いつも温かな彼を抱くと生きていることを実感できた。勿論、24日のスケジュールの空白が埋まることはなかった。賢治からの誘いを期待する未練がましい自分が嫌だったけれど、私は彼と、かろうじて繋いていた指先をほどきたくなかった。

   *

 賢治に会いたい日は、電話をかけ、「のんきに行かない?」とだけ言う。賢治は、そのときだけ私の誘いに「いいよ」とだけ言って、早々に電話を切る。彼は『のんき』以外では会いたがらない。『のんき』のもつ煮が好きなのだ。そして、私の願望だけれど、彼と私が先輩と後輩という関係で、初めて来た店がここだからなのか。昔、帰り際に彼は『俺のおごり。先輩の顔つぶすなよ、三輪』そう言い彼は伝票を私より先に金額が見えないようにレジにたち、私を入り口前に立たせた。今は食事をし、かなり酔うまでビールやハイボールを飲んだ彼は、私と、ろくな話もせずに食べ終わり、帰る頃に『必ず』トイレに行く。そのとき私は支払いをカードで済ましている。

 『のんき』でビールを煽ったあとは、私の家で、宅飲みだ。私の家の近くのコンビニエンスストアでチーズや、生ハムや良いワインなどを買って、私が先クレジットカードで払う。賢治は不機嫌そうに何故かアイスクリームを買う。私にも「アイス、選んで」と言う。梅雨の肌寒い雨の日でも、蒸し暑い残照が残る夏の終わりにも。銀杏が色づく秋の盛りも、必ず賢治はアイスクリームだけは奢らせない。

 昔はよく言ってくれた。『三輪は可愛いよ。世界で一番頑張り屋さんだ。もう俺より役職上なんて凄いよ!やな奴に負けんな!』頭をくしゃくしゃっと悪戯に撫でられ、最後に言われたのはいつだったか。優しく抱きしめられたのはいつだったか。もう、ずっと前のことだ。

 今の私達の関係は恋人じゃない。こんなのデートじゃない。私から声をかけて、飲んで寝るだけ。朝早くに起きて、下着姿で、昨日の食べ散らかしたゴミに溢れた部屋を静かに片付ける。多分、アルコールで感情を騙さなければ賢治は、もう私を抱くことはないんだろうなと苦笑する。

『何で、こんな風になっちゃったんだろ』

  * 

 そんな賢治にも連絡をほとんどなくなってきた矢先、帰り際に来たLINEのメッセージ。

《明日『のんき』で七時に会わないか》

 会うのは暫くぶりだった。会って、沢山話して、昔みたいな関係に戻れたら。そんな淡い想いを抱いていた。

    *

 会社で、私の方が先輩の賢治より随分早く、昇進した。彼は手をまだ繋ごうとしていた。けれど、私は彼より仕事を選んだ。選んだと言うよりただ単純に、結果がすぐ出るやりがいのある仕事が楽しかった。私の天秤は、賢治ではなく仕事を選んだ。無意識だとしても、賢治を傷つけたのは確かだ。

『ごめん今日はまだ仕事があるの』

 一体何度、彼の誘いを断ってきたんだろう。誰かに任せるのが嫌だった。確実に成果とコミットしている仕事を手放したくなかった。勿論、どんどん昇進をした。プレゼンが称賛された。上司に気に入られた。『女のくせに』と言う雑音も、セクハラや、パワハラ紛いのことや、陰口を言い笑う、上司や同僚や部下には、聞こえないふり見ないふり。たまにピシャリと言い返し、笑ってみせた。──妬み嫉みの汚い奴に負けるもんか。言ってやりたい。じゃあ、あなたは?陰口叩く暇あるなら仕事して。ろくに仕事もしない、出来ない。本当に使えない。

 あなたはね、あなた方が馬鹿にする私の足元にも及ばない。私は心の中で汚いことをする奴らを嘲笑した。じゃなければ、張りつめていた線が切れそうだった。傷だらけの心が折れそうだった。所謂、可愛くない女になった。このご時世、生ぬるい言葉を吐く奴に言ってやりたい。女が上に上がると言うのは、どれだけのことか。凝り固まった、男社会。可愛らしさなんて、捨てなければならない。しなやかに強くならなければ負ける。勿論、女として見下されたくはない。身綺麗にする時間や、化粧品のグレードはあがった。

  *

 賢治はいつも話を聞いてくれた。唯一慰めて、相談に乗ってくれるひとだった。けれど、いつの間にか顔を会わせれば、賢治はいつも苛々していた。段々と、すれ違いが続いた。私が話をし出すと、私の声も聞くのも嫌みたいに貧乏ゆすりをして煙草をつける。だから私も話をしなくなる。けれど、猫のおはぎを飼い始めてから、賢治は私の家では煙草を吸わなくなった。そしてすることは、アルコールを飲んで、シャワーとベッドだけになった。ただの身体の依存の関係だって解っていた。そして、それしか彼を繋ぎ止める術がないことも。

 情事のあと、私たちには気怠い珈琲なんてない。夏は冷房をかけず、冬は暖房をたいて、彼は一年中アイスクリームを齧ってる。昔、付き合い始め、ベッドの後、冷凍庫にあったアイスクリームを偶々齧っていた賢治は、

「アイス勝手にもらった。三輪の味に似てるね」

 そう言って笑って、私を赤面させたっけ。若かった。それから、

「俺、アイスクリーム好きなんだ。子供の頃、食べなかった?幸せな気持ちになるんだよな」

 と言い彼は笑った。だから私の家の冷凍庫にはいつでも彼の《幸せな気持ち》が入ってる。今は何も言わない。私に背中を向けて、帰り道のコンビニで買ったアイスをベッドに腰掛け賢治は黙々とアイスを齧る。昔は賢治が家に来ない日でも一応常備していた。いつしか会うことすら少なくなっていったから、買う機会も減った。私はアイスから遠ざかっていった。今は質量の無い思い出だけが冷凍庫に眠っている。

   *

 私は久しぶりの賢治の誘いに、会社を出る時、化粧室で赤い口紅をひいた。帰り、コンビニで、二人で何か新しいアイスクリームをチェックすることを考えてむず痒い気持ちになりながら。

「やり直したいの。昔みたいに戻りたい」

 そう伝えようと思っていた。約束の時間を5分過ぎて、ガラガラっと『のんき』の引き戸が開いた。私はカウンターで控えめに手を上げる。賢治は、ポケットの厚みのある少し大きめの付箋を剥がし、私のテーブルに貼りつけた。

《もう会いたくない。別れよう。うんざりだ。三輪も周りも、みんな。じゃあな》

 真っ白になるってあるんだ、と思った。血圧が一気に下がったみたいになった。私に対して言葉にするのも嫌なのか。こんな紙切れが幸せだった日々すらなかったことにするのか。切なくて、辛くて、私は手を握りしめた。おあいこだ。私の中で、別れの悲しみより、プライドが勝った。

「振るなら私の方よ。私に会うのが怖いんでしょ。変わった私を見るのが嫌なんでしょ。惨めになるって言っていたもんね。そんなんだから万年平社員なのよ!」

 そう立ち去る賢治の背中に投げつけた言葉が、私を縛る。私、最低だ。

   * 

 出世コースに乗った私は、どんどん平社員の賢治とは仕事も、お給金も、会社側の私と彼に対する扱いは変わっていった。彼も。きっと私も。自分では知らない所から腐食するように、変わってしまったんだろうな、そう思った。

 いつの時か『のんき』で彼は言った。空腹のところに鍛高譚のかなり強めのを注文したから、かなり酔っているように見えた。最近彼は、始終不機嫌だ。

『俺と付き合ってるなんて絶対他の奴に言うなよ』

『どうして?』

『廊下をそのヒールでカツカツカツカツ偉そうに音立てて歩くお前みると惨めになるんだよ!周りの奴らも、「いいネクタイだな、ああ本部長サマからか」何て言いやがる。もう、うんざりなんだよ!』

 何かしら言おうと思った。でもやめた。彼の焼酎のグラスは一口も口をつけられていなかったからだ。彼は、素面だった。あの頃もう、別れていればよかった。

 段々距離は離れていく。二人の場所が遠ければ、会社で会う機会はなくなる。心の距離も、物理的な距離も。会いたかったら会いに行った。スマートフォンで連絡を取りあって付き合い始めに見つけた静かな人の少ない中庭で会ったり出来たはずだ。繋げることを本当に望んだ糸なら、切れなかった。私は繋ぐ努力をしなかった。けれど賢治は引きちぎった。もう、彼は私は要らなくなった。私も彼が要らなかった。だって、涙すらでない。普通、別れには涙がつきものなのに。そんな私は、酔ってもいないのに辿々しく歩く。私は呆然としても涙はでないことを知らなかった。

「本当にお互い様だったんだな」

私は一人笑う。女将さんからの傘は断った。いつの間にか、みぞれは雪になっていた。夜道は、電灯が壊れかかって、チカッチカと言っている。段々と景色が白くなっていく。ブランドのコートの肩がぐっしょり濡れてしまった。パンプスの中に雪が染みて気持ち悪い。 

 惨めなのは一緒だね。けれど、私はあなたが笑うからアイスはあなたが来てもいいように買って、冷凍庫に入れてあるんだよ。チョコとミルクとイチゴの三種類。あなたいつもこの三種類のどれかしか買わないの。私、見てたんだよ。

 今すぐ電話をかけて縋ってしまいそうだ。会いたいよ。悪かったよ。別れたくないって、やり直したいって。

    *

 賢治が泊まった朝、彼がまたアイスクリームを食べて、私はトースターでパンを焼くのが習慣になっていた。思い出すのは、目玉焼き。彼に、作ってと駄々をこねて言ったら、

「作ってやるかあ」

 とボクサーパンツ一枚でキッチンに立って彼が作ったくれた目玉焼きは黄身が二つの本物の『目玉』焼き。一個づつ、分けて食べた。二人で、

「こんなことってあるんだね」

 といって、目玉焼きを食べた。幸せな記憶だった。

「ただいま」

 マンションの玄関でコートをハンガーにかけ、パンプスを脱ぎ、へばりつくストッキングも忌々しく脱ごうとしたけれど、爪に引っかかって高級ストッキングが伝線した。私は引きちぎるようにストッキングを引っぱった。濡れて冷えて感覚なんかない足。情けなくて、やるせない。私は真っ暗な中、床をうつ伏せになりドンドン叩いた。

「もう嫌だよ!誰か助けてよ!……誰もいないけどね。私には誰もいない!振られたんだっけ、私には誰もいない!いない!」

 真っ暗な室内にポッと小さな明かりがついた。

「泣くなよ、次長さん。昇進おめでとう」

「なん、で…………」

 賢治は笑う。煙になって、消えてしまいそうだ。

「ドッキリ、かな?ごめん。趣味の悪いドッキリだな」 

「私、酷いこと、言った………」

「そうだぞ。それに俺はもう平じゃない。部署変わったから解らなかったかもしれないけど、課長だからな。でも、俺も三輪に酷いことしてきたよ。ごめんな」

「やり直したいよ」

「まあ、着替えて、髪乾かして眠れ。風邪引く。髪撫でてやるから。朝になったら、元通りだから。あとは三輪次第だ」

 私が眠るまでずっと、賢治は髪を撫でてくれた。

 夜中目が覚めたら賢治は珍しくミルクアイスクリームを食べていた。賢治はあまり、ミルクアイスクリームは食べない。

「まだ、朝早いから、眠れ」

 その穏やかな声に、また私は微睡んで、起きたら賢治はいなかった。いつも通り、おはぎが私の髪をなめている。この行動『俺がお前の面倒を見てやるぜ』と言う意味らしい。いつもと違う甘い匂いに、おはぎの顔を見ると、ミルクアイスがベッタリついていた。

「馬鹿だね、お前。馬鹿だね………」

 私はおはぎを抱きしめ声をあげて泣いた。子供みたいに泣いていたら、心が晴れて笑えてきた。

   *

 おはぎの餌いれの裏に隠されたミルクアイス。

「アイスクリームの魔法かしらね。おはぎ、心配かけてごめんね」

 おはぎの顔を暖かい濡れタオルで優しく拭いてやる。甘いミルクの匂いがする。私は笑ってトースターでパンを焼く。目玉焼きを作ろうと、フライパンに玉子を割ると、黄身が2つの玉子だった。思い出だけ残されたようでつらい。一人じゃ重い。まだ私には未練がある。

「一人じゃ、多いわよ。馬鹿っ!なんで、なんで朝から黄身が2つなのよ!」

「半分しよ?俺もトースト頂戴」

 かけられた声に驚いて振り向くと、ボクサーパンツを履き、タオルで頭を拭く賢治がいた。

「風呂借りたよ。朝から雪すごいね」

 息が、出来ない。ここに、おはぎはいる。じゃあ、あなたは?言葉を読んだように賢治は言った。

「夜遅く来たんだけど、起こすの可哀想で。明日休みだし。ソファで寝た。後からアイス食っていい?」

 私はみるみる声が潤んでいくのを感じた。

「ダメって言っても食べるんでしょ?ちゃんと、玉子も半分食べてくれる?………昔みたいに、またやり直そう?お願いよ」

 賢治は頷いて、服を着る。久々に賢治と一緒に食べるご飯は、美味しくて、食後のアイスクリームは幸せの味がした。

「おはぎ、ほら、アイスクリーム柔らかくしてあげたよ。滑らかでクリームみたいでしょ」

「ったく、三輪はおはぎに甘いよな」

「私を助けてくれたのは、この子なのよ」

 私は笑って、言った。

「たくさん話したいの、あなたと。いいことも、悪いことも。あなたとやり直したいのよ、昔みたいに。あと、訊きたかったんだけど、こんな天気の日にどうして?」

 私は彼を見つめた。

「次長になったら、いいものあげるって、約束した。俺から。安いけど」

 賢治からのプレゼントは、アンティーク調の薔薇のピアス。トップにルビーがついている。燻した金色が綺麗だ。

「俺はお揃いの時計。こっちはタダ。試作だからって。同じアンティークデザイナーのアクセサリーとか作ってるひとから。カップルで工房やってるみたい」

「大変だけど、楽しそうね」

 にゃあ、と俺にはないかと、おはぎが鳴いた。

「あるよ。おまえにも」

 黒猫のおはぎに映える燻金の首輪に、ペリドットのごろりとした大きめの石のトップ。裏にマイクロチップ。おはぎのグリーンの瞳に映える。

「可愛いわね。ハンサム君よ、おはぎ」

 ムッとした顔で賢治が『俺は?』と言った。愛猫と張り合わなくても、と思いつつ。言う。

「私は、あなたが一番。もう後悔したくないから素直になることに決めたの。会社で、あの社会で、全ての人に可愛い女とそう思われるのは無理。でも、あなたがいればいい。昔みたいにはなれないかな、もう、遅いのかな」

「やっぱり、直属じゃないけど、俺は三輪の部下だから。しかも、三輪は出世街道まっしぐらだ。お見合いとかの話も来るだろ」

 私は頷く。

「違う世界の人なんだよ、今となっては、さ。朝ごはん、ご馳走さま。もうここには来ない。これ、鍵。三輪のこと、好きだったよ。ありがとう。でも俺、お前に釣り合わないよ」

 彼は、泣きながら笑った。首を傾けて、白い歯を見せて。閉まるドアを見送る。

 私は一ヶ月後、海外支局に自ら転勤を願い出た。


~三年後~


 輸出検疫なんてあると知らなかったから、事前に知ることができて流石のインターネット様々だと思う。おはぎと共に、フランスへ行った。チーズ、ワイン、アイスクリーム。でも、足りない。あのひとが足りない。心の穴はアルコールやグルメでは中々うまらない。『君は僕に、かつての恋の影を追いかけているだけだよ』と言ったひともいた。何となく解ってはいる。賢治に『俺そんな御大層なもんじゃないよ』とでも、言われそうだ。

 けれどつらい思い出は消えていく。時間と共に、幸せな思い出だけ残して。人は狡いなと思うけれど、人間上手くできている。だから人は生きていける。

 身につけたのは、英語とフランス語。物怖じしない対人スキル。帰ってきたら私の隣のオフィスの一番上座の席に彼がいた。目が合う。

『おかえり』

『ただいま』

 屋上で『これ美味しいよ』とアイスクリームを渡された。私は笑って持ち手の棒をつまむ。

「あ、美味しい」

「だろ?なめらかでカミさんもつわりのときこれだけは食えた」

 私の時間が止まった。ピシッと音を立てて。

「結婚、したんだ」

「チビもいる。男の子。これ、写メ。俺似かな。とにかくヤンチャ。ごめん。連絡何もしなくて。カミさん怖くて、飲みに行くのも全部申告制。面子も」

 疲れた、ただのサラリーマンの顔があった。私の好きな、私が愛した賢治はいなかった。

「何で謝るの?後悔なんかしてないんでしょ?私は逃げたの。それだけよ。結婚おめでとう。じゃあね。アイスクリームご馳走さま。このアイス、気に入っちゃった。覚えとく。さよなら」

 振り返って手を振り笑う。何で私は泣いているの?悲しくない。悲しくない!

「次長、探しましたよ。どうして泣いて──」

「泣いてないっ!」

 この国の夕焼けは、綺麗じゃない。ごちゃごちゃしていて、見たくもなかったブルーのスモッグを着た男の子がおもちゃ箱をひっくり返したようだ。

 待っててくれるなんて、好きでいてくれるなんて、都合の良いことばかり考えて。

「本当に馬鹿だな、私も」

 小さな自嘲をして、長い執着もおしまいにした。薔薇のピアスを外してアイスクリームを食べた。涙が止まらない。

「おはぎ、アイスクリーム美味しい?美味しいね」

 賢治とは、沢山傷つけあった。けれど沢山の幸せな時間を貰った。別れに後悔なんかしていない。なのに何でこんなに悲しいんだろう。それは共に人生を歩めない喪失感だろうか。それとも賢治が私を選ばなかったことに自尊心が傷ついたのか。

「おはぎ、ワインも美味しいよ。でも、おはぎはワイン飲めないからね。ん?この国産ワイン扱う会社、この前のパーティーで会った和田会長の奥さんが資金援助してるワイナリーだ。確か」

 私の頭は冴える。パソコンを立ち上げ、人事、家の周辺を探る。

 あの日から変わった。視野を広げる。自分のスキルを上げるだけではなくて、周りをみて、誰に恩を売っておくか、このひとは落ち目だとか、判断する力をつけた。

 誰につけば得か損か。

 派閥、お気に入り。

 過去の女性遍歴、また、男性遍歴。

 趣味、趣向。

調べることは調べ尽くして人と会う。調べるときに人は使わない。心理学や語学力をつける勉強しこの人とまた会いたいと思わせる話し方を身に付けた。

 家ではいつも片手にアイスクリーム。彼が最後にくれた、疲れた脳を動かす養分。

   * 

 それから暫く経ち、私はついに女性で初の常務取締役になった。あの日見たくもなかった屋上から見た夕焼け。見たくもない子供。今日のきっかけになったアイスクリーム。とても感謝している。

 夜中、パソコンをいじり、膝にはおはぎ。おはぎもおじいさんだ。おはぎを右手で撫でながら。左手でキーのタイプもお手の物だ。

 秘密ファイルの私の鍵は『ICE_KENJI』会社でのオンラインでのやりとり。おはぎは膝でうたた寝をする最近殆ど動かないおはぎに怖くなる。

 ある日おはぎが逝った。会社を三日休んだ。ドアを叩く音が聴こえて不振に思った。オートロックのマンションだからだ。近所付き合いはしていない。

「九条さん!開けますよ!」

優しく誠実な顧問弁護士。近衛明次。2人で食事は3回した。印象は悪くない。顔も良い。上品で下卑た計算はないと思う。   

 私はおはぎが逝った後、私はずっとぼんやりソファにかけて遺骨を抱いていた。足にじゃれついてミルクアイスをねだる彼にどれだけ慰められただろう。

 私はよろよろになりながらおはぎを弔った。ずっと抱きしめていたかったけれど、体が痛んだら可哀想だと思った。

「おはぎが、逝ってしまいました。長生きでした。二十二歳。大往生です。ソファへ。お茶でも出しますから」

 ウェッジウッドのティーカップにダージリンを淹れる。近衛さんはおはぎの写真を見て、

「優しそうな、男の子かな?きっと九条さんが好きだったんですね。偶々有給の申請の電話を取ったの僕で、九条さんの声を聴いて、何かあったと思って飛んできました。弁護士バッチは役に立ちます」

 近衛くんは本当に心配している。眉を下げて、しょんぼりと。私が『駄目だよ!』と怒った後、私の方を困ったようにこちらを見るおはぎを何となく思い出す。

「ありがとう。でもね、もう疲れちゃった。肩肘はって仕事するのも、婚期を逃して、もう子供も産めない……綺麗でありたいと思うけど若さも衰えていく。今手がけてるプロジェクトが終わったら、会社辞めようかと思ってるの。近衛くんは間違わないでね。間違ったら引き返す。執着は一番ダメ。これが先輩からの助言かな。私は全部踏んできた。時間の無駄遣いと思えれば楽だけど、幸せな時間もあったのよ」

 アイスクリーム、食べる?美味しいの。そう言い、向かい合って黙々アイスクリームを食べた。

   *

 今、私はパリにいる。あの三年間、何を思っても心には賢治がいた。でも、おはぎと共に暮らしたアパルトマン。そして今、おはぎは過去のしがらみを全て持っていった。パリの夕暮れは本当に綺麗。新しい恋人も連れてきた。

「三輪さん、疲れたよー。一緒にお風呂入ってアイスクリーム食べよ」

「はいはい、ご飯の後ね。バケットにクリームチーズ塗って生ハムのっけて食べると美味しいのよ。カンパリにも合うし。明ちゃんワインとカンパリどっちにする?」

「まずただいまのキスでしょ」

 顧問弁護士の近衛明次、私が空港で、パリへのフライトを待っていると、肩を叩いて笑って、

「僕も行きます。向こうにはコネはあるし。どうやら僕は、九条さんが好きみたいというか、好きです!一応、国際弁護士なんですよ。いい収入源になりますよ」

 笑って首を傾げる仕草。可愛い。この笑顔を疑うほど、私はひねくれていない。

   *

「何を、してるの?」

ベッドから顔を上げると、夜中私のノートパソコンにUSBメモリーを差し込んで、私のデスクでイライラしている明ちゃんがいた。

「な、何もしてないよ。ち、ちがうよ、そんな目で見ないで。フランスの友達の住所を内緒で欲しくて………」

「パスは『ICE_KENJI』よ。あの会社の極秘メモ、渡すところを間違わなければ一生遊んで暮らせるんじゃない?そうよね。何かしら魂胆がなきゃ私みたいなおばさんのこと好きだなんて言わない。なのに私ったらみっともなく浮かれてた。出てって!顔も見たくない!」

「三輪さん!話を聞いて、お願いだよ!」

 泣いて縋って答えが変わるなら私は幸せに暮らしている。ドアの向こうから鼻を啜る音と、私を呼ぶ声がずっと聴こえていた。朝になってみると荷物は片付けられ、スーツケースごと彼は消えていた。どうやら私は恋愛には向いてない。

   *

 いつの間にか誕生日になった。知らないショートメールで、

『誕生日おめでとう。今日は家から出たらいけないよ。お洒落をして待っていて』

そうあったので素直にお洒落をして待っていると、この国で出来た友人が次々に訪ねて来て、誕生日を祝ってくれた。フルーツやお酒、オードブルがいつの間にか、テーブルに並べられていく。

「私、ルカに住所教えた?」

「ミワに恋するコノエが、皆にメールを送ってミワの誕生日を祝いたいって。そして、重大発表があるって!」

スーツ姿の明ちゃんが現れ、いつの間にか風船やら何やらで賑やかになった部屋を、私を見つめ歩いてくる。

「決めつけはよくありませんよ、三輪さん。まあ、人のパソコン見たんですから全部僕が悪いんですが。でも、ああでもしないと友だちリストなんて、サプライズでつくれないし。すみません」

『ほら、コノエ!』だの、『早く言え!』だの、ひやかす外野が、明ちゃんを急かす。明ちゃんは跪いて、

「み、三輪さん、僕と結婚して下さい」

「あ、明ちゃん!?」

「僕には、三輪さんだけです。ヒールで音を立ててあなたが廊下を背筋をのばして歩っている姿に僕は見惚れました。あのとき僕はあなたに恋をしました。あなたの羽を休める場所になりたいと思いました。結婚して下さい!」

 大粒のダイヤの輝きと沸き立つギャラリー。明ちゃんの真剣な顔をみて、私は泣いていた。

「喜んで。ありがとう明ちゃん」

「幸せに、なりましょう」

 ヒールの音が嫌いなひともいたわね。私は泣きながら笑って、明ちゃんに口づけた。



──────────────【Fin】

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