ep.2ー2

 裁判を受ける為に、ヒースはフーディエに連れられて、とある一室に通されていた。


 案内された部屋は、簡素ながらも清潔で、木製のテーブルと椅子が一つずつ配置されている。


 その中央に置かれた蝋燭の火が、静かに揺らめいていた。


 ヒースの両手には重く冷たい手錠が嵌められている。

自由は奪われたままだった。

その圧迫感に、胸の奥で微かな不安が芽生える。


 それはもしかしたら、フーディエが傍にいないからなのかもしれない。


 彼女は準備の為に今は席を外している。

だからヒースは、知らない場所、知らない部屋で一人、裁きの時を待つことになっているのだ。


「失礼しますっ」


 と、その時。部屋の隅から、軽快な足音が響いた。


 やがて現れたのは、一人の青年だった。


 柔らかな茶髪の髪に、穏やかなオレンジの瞳が蝋燭の火によって映し出される。

 背筋を伸ばし、洗練された軍服を着こなした彼は、明るい笑みを浮かべてこちらを見た。


「初めまして、ヒースさん」


 彼はこちらに向かって、ゆっくりと歩み寄る。

 青年の声はどこか穏やかだ。初めて顔を合わせるというのに、信頼を感じさせる響きがある。


「見ての通り、僕は【メリッサ】の者です。ソラナと言います。フル·····、フーディエさんが裁判の準備している間、ヒースさんのおもてなしを頼まれました」


 人の良さを感じさせる微笑み。

揺れる瞳は陽だまりのように暖かかった。


 ヒースは一瞬戸惑いながらも、その空気に引き込まれるように、そっと微笑みを返すことにした。


「丁度、一人で寂しい思いをしてたところなんだ」

「それは良かったです。とはいえ、僕に出来ることなんて、紅茶を淹れることくらいなんですが」


 ソラナは微笑むと、手に持ったトレイと書類を机の上に置いた。

 トレイの上には液体の入ったカップと菓子がのせられている。

カップの中身は、先程話題に上がった紅茶だろう。茶葉の香りが鼻腔を擽る。


「だけど僕、紅茶をいれるのは得意なんです」


 どうぞ、と彼はこちらにカップを向ける。

ふっと消えそうな湯気の向こう。彼は今から裁かれるヒースに向かって、穏やかに微笑み続けていた。


「確かに。落ち着く香りだね。ありがとう」


 ヒースは普段と同じように返す。

 裁判の前とは思えない程に、心は落ち着いていた。それも、彼とこの紅茶のお陰だ。


「いえいえ、僕の方こ·····」


 しかし、その和やかな雰囲気が突如として崩れる瞬間が訪れた。

 ソラナが不注意にも机の端に腕をぶつけてしまったのだ。


 その勢いあまって、用意したカップが床へ落ちる。

 阻止する隙すらなく、それはいとも簡単に割れて破片となってしまった。


「うわっ、すみません。すぐ片付けますね」


 ソラナの声が響くと同時に、床に散らばった破片が微かに光を反射する。

 彼は慌てて手を伸ばし、その一片に触れた。


 その瞬間。


「っ、やっちゃったな」


 鋭い破片がソラナの指を食む。


 彼は苦笑しながら、傷口から滲む赤い血をハンカチで押さえた。

 その赤は小さな染みを広げ、微かに空気に甘い香りを漂わせる。

 それは、ほんの些細な傷のはずだった。けれど。


 ──甘い?


 何故。何処から?

 その問いはすぐに確信に変わった。

 鼻腔を掠める香りに、ヒースの胸が唐突に跳ねる。


 ドクン。


 響く鼓動はまるで鐘の音のように、体の奥深くまで共鳴した。脈が急速に速まる。


「っぁ」


 血が沸き立つような感覚。喉が焼けるように渇く。

 拒絶する理性とは裏腹に、渇望が全身を蝕む。

唇が自然と乾き、指先が僅かに震えた。


 ヒースの世界はその一滴によって、一瞬にして狂い始めた。


 それは身体の奥深く、理性では制御できない場所から響く衝動だった。ヒースの視界が微かに歪む。


 その瞬間、牙が自然と唇の裏に押し出され、彼の口内に鋭い違和感が生まれる。


 ヒースの視界に映るのは、ただ滴り落ちる血液の赤色。それがゆっくりとハンカチに染み込み、布を濡らしていく。

 甘く、鮮やかに、ねっとりと、艶やかに。


 ──襲ってしまう。


 彼を傷つけたくない。

それなのに、衝動が抑えられない。

唇が震える。牙が食い込む。

このままでは、喉の渇きに支配されてしまう。


 心は強く否定するが、その思いとは裏腹に、全身に走る乾きと渇望が容赦なくヒースを蝕んでいた。

 喉が焦げつくように痛む。

冷や汗が額を滑り落ちた。


「すぐ片付けますね」


 ソラナはまだ、気づいていない。

彼は無邪気な様子で、傷口を気にしながらヒースに話しかけ続けている。


その言葉はヒースの耳に届かない。

その笑みはヒースを更におかしくさせる。

その無防備な姿が、ますますヒースの心を揺さぶった。


「〜っ、」


 理性と本能が激しくぶつかり合う中で、ヒースは自らの腕に視線を向けた。その腕には今もヒースの自由を奪う手錠が嵌められている。

 きらり、と銀色が反射して瞬いた。


 ヒースは、勢いよく──手錠を、壁に叩きつける。


 ガンッ!


 鋭い衝撃音が鳴り響く。


「ったぁ·····」


 鋭い痛みが走り、血が滲む。

しかし、その痛みがヒースの意識を繋ぎ止めた。


 咄嗟に力を込めた拳が更に傷を広げる。

目の前でちらつく鮮やかな赤は、自身の血だった。

ソラナのものではない。

人間の血ではない。

【吸血鬼】へと変わった自分自身の血液だ。


 痛みがじわじわと広がっていく。

 そこで、ヒースはようやく、目の前の青年から意識を引き剥がすことに成功した。


 ソラナは、その様子を見て驚きの声を上げる。


「だっ、大丈夫ですかっ?!」


 ソラナがこちらへ近寄ろうと動く。

 ヒースはそれを静止した。これ以上近づかれてはまずい。


 ヒースは冷汗を拭いながら、必死に震える笑みを浮かべる


「少し·····、考え事をしていたんだ。気にしないで」


 その声は静かだった。

けれど、その奥底には言葉だけでは隠しきれない揺らぎがある。


 冷えた空気が、まるで彼の葛藤を映すかのように静まり返った。


 ヒースの瞳はどこか遠くを見つめ、内側から滲み出る渇きと必死に向き合っている。


 手錠に繋がれたその腕は、拘束以上の意味を持つ、理性の鎖。

自分自身を繋ぎ止める最後の砦だった。


「ねぇ、今の見たわよね?」

「あぁ」


 ·····扉の隙間から、小さな二つの声が漏れる。

 冷たい石壁に反響するそれらは、ヒースを見ていた。


「合格ね!」

「あぁ、これなら老いぼれも文句は言わないだろ」


 声は歓喜の色を浮かべる。


一方ソラナは、ヒースを心配げに見つめながら、その声の方へ助けを求めるように視線を送った。


「っ、もう、いいですよね·····?」


 ソラナがヒースと扉の向こうを見る。


 彼は、ヒースは、既に限界だった。本能に飲み込まれる寸前だ。

 けれど尚、人としての誇りを守ろうとしている。

 それは、誰の為でもなく、自分自身の為の証明だった。


「〜っ、はぁ·····」


 そんなヒースへ、足音が近づく。

扉が開き、空気が僅かに温かみを帯びる。


 飢餓感に苛まれても尚、その存在は異質で、けれど、ヒースにとって近い存在だった。


 それがフーディエだと、ヒースにはすぐに分かった。


「·····」


 彼女は無言でヒースに歩み寄ると、そっとその頬に触れた。

ヒースの火照った皮膚に、彼女の温度が心地よく広がる。


 彼女の瞳がぐっと、ヒースを捕らえた。


 フーディエの瞳に映るヒースは、アメトリンの宝石を瞳に宿していた。

 その視線は、痛々しい程の飢えと抑えきれない渇望に濁っている。

 化け物──【吸血鬼】と、そう呼ばずにはいられなかった。


「ヒース」


 彼女が、ヒースの名前を呼ぶ。

曖昧になっていた境界がぐっと分かたれた気がした。


 けれど、まだ足りない。足りないのだ。


 フーディエはそれ以上何も言わずに、また静かに一歩、ヒースに近づく。


 その瞳には恐れも、戸惑いもない。

ヒースの内側で暴れる獣すらも、彼女の静けさの前では小さなものに思えてしまうようだった。


「フーディエ·····」


 渇いた喉の奥から絞り出される声は、彼女に縋っていた。

 しかし、彼女は答えない。


 ただ強く、フーディエは自らの唇を噛みしめた。


 彼女の顔がぐっと近づく。


 滲む鮮やかな赤が、僅かに甘い香りを纏いながら、ヒースの唇にそっと触れた。

 触れ合う瞬間、ヒースの心臓が痛みを伴う程に激しく跳ねる。


 ·····鉄錆のような、けれど異様に甘いそれ。


 その味が舌に広がった瞬間、ヒースの喉が勝手にごくりと鳴った。


 抗えない。

 本能で悟った。


 境界が段々と曖昧になっていく。

 息をすることさえ忘れ、ただ彼女の温もりと血の甘さに溺れていく。

 唇が深く重なり、ヒースは無意識の内に彼女の唇を貪るように食む。


 舌が彼女の血を貪欲に舐め取る度に、身体が喜ぶのが分かった。


 滲む赤い血が、僅かに甘い香りを放ちながら、ヒースの唇に、舌に染み込んでいく。


 心の奥で必死に否定する声が響く。


 けれど、止まらない。

 止まれない。

 止まりたくない。


 理性は言うことをきいてくれなかった。


 唇を離すべきなのに、更に深く、更に激しく彼女を求める。

 彼女の全てを奪ってしまいそうな衝動が、喉元まで込み上げる。


 そんな時、彼女の指先がそっとヒースの髪を撫でた。

 母が子をあやすように、宝物に触れるように、彼女の指先がヒースに優しく触れる。


 だから。


 彼女が傍にいるから、もう、大丈夫だと思った。


 ·····そうして暫く、二人は熱い口付けを交わす。

 血に飢えた獣というより、それは愛し合う二人がする口付けのようだった。


 ふと、唇を離す。


 細い糸が唇の間に残り、濡れた呼吸だけが静寂の中に響く。


 ヒースは荒い息を吐きながら、彼女を見つめた。

 瞳に映る彼女からは、恐怖も拒絶も感じやしない。


 ヒースの内側で暴れていた飢えの獣が、ふっと静まっていく。


 理性の薄皮が破れかけていたその境界線で、フーディエの血が、彼女の優しさが、ヒースを現実へと引き戻したのだ。


 ヒースはゆっくりと瞳を閉じて、深く息を吸う。


 心臓の鼓動が次第に落ち着き、胸の奥で暴れていた飢えを抑え込むように。

 焦げつくような渇きは、まだ完全には消えない。

 けれど今、彼は確かにそれを抑えることが出来ている。それはやはり、彼女が隣にいるからだった。


「·····ありがとう、フーディエ」


 微かな余韻の中で、二人の鼓動だけが静かに溶けていく。


 その静寂を破ったのは、いたたまれなさそうに視線を外しているソラナだった。


「あの〜、こちらその、吸血衝動を抑える効果があるので、もし良かったら」


 ソラナが近づき、小さな飴を差し出す。


 ヒースは息を整えながらその飴を手に取った。包みをめくれば、それは何の変哲もない、小さな宝石のような飴だった。

 光に透けて淡く輝くそれは、ただの甘いお菓子にしか見えなかった。


 隣のフーディエに視線を向ける。

 彼女は静かに頷いた。その仕草には言葉以上の信頼が滲んでいる。


 ヒースは飴をじっと見つめた後、ゆっくりと口に含んだ。


 ひんやりと冷たい感触が舌に触れ、次第に微かな甘みが広がる。

 フーディエの血とは比べ物にならなかった。

 あの温かく、胸の奥まで染み渡るような深い衝動とは違う。


 しかし、乾いた喉に広がるその淡い甘さは、ほんの少しだけ、暴れ狂う渇きを和らげてくれる気がした。

渇きは消えない。

けれど、飲み込まれることはない。

ヒースはほっと胸を撫で下ろした。


 その瞬間、フーディエの声が静寂を破った。


「ヒース。貴方は試験に合格しました」


 彼女の真摯な瞳がまっすぐにヒースを捉えている。

 その視線には、嘘も誤魔化しもない。

 ただ、彼自身を見ているような、そんな彼女らしい視線だった。


「彼も、扉の向こうの彼女らも、お前を試す試験官だったのです」


 その言葉に、ヒースはゆっくりと視線を扉の方へ向けた。確かに扉の向こうから人の気配がするが、姿は見えない。


 目の前のソラナは少し申し訳なさそうに、けれど確固たる意思を宿した瞳で、頭を下げた。


「すみません。ヒースさんが【メリッサ】に相応しいかどうか、試させてもらいました」


 ソラナは視線を落とし、しかし責務を果たすように続けた。


「お分かりの通り、今のヒースさんが人間を襲わないかどうか、吸血衝動を抑えることが出来るかどうか、それを試させてもらいました」


 全て試されていたのだ、と今になって理解する。

 けれど、ヒースは、心の奥で囁き続ける渇きと、血への渇望を押し殺すことが出来た。

 最後の一線を越えずに済んだ。

 胸の奥に湧き上がる小さな安堵。

 その感情は、まるで長い間凍りついていた心に、初めて灯った微かな火のようだった。


「お前は吸血衝動に耐え、彼を襲いませんでした。だから、合格なのです。ひとまずは良かったですね」


 ヒースは舌で飴を転がしながら、静かにフーディエを見つめた。

 彼女が隣にいる。それだけで、渇きがほんの少し和らぐ気がした。

 ここで終わらない。こんな所では。

 ヒースはまだ、彼女の隣に立つことが出来る。それが心から嬉しかった。


「ヒースさん、ようこそ【メリッサ】へ!」


 ソラナの声が空気を震わせた。

 その笑顔は酷く無邪気で、あまりに温かい。

 歓迎されている。

 少なくとも、彼とフーディエには。

 しかし、【メリッサ】に所属出来たからといって、全てが上手くいくわけではない。


 ヒースはもう人間には戻れない。

 けれど、完全な化け物にもなりきれない。


 その事実が、心の奥で鈍く疼いた。

 中途半端な存在。曖昧な境界線。

 光にも闇にも属さない場所で、彼は立ちすくんでいる。

 人の温もりを知りながら、人の血に飢えるという矛盾。

 人として生きるのか、化け物として生きるのか。

 どちらを選ぶのか。

 きっと誰にも決められない。それはヒース自身すらも。


 けれど。


 不完全でもいい。揺らいだって構わない。

 それでも、ヒースはまだ自分自身で在り続けることが出来ているのだから。

 過去を背負い、渇きを抱え、痛みを噛み締めて生きていける。

 その隣には、フーディエがいる。

 彼の名前を呼び、手を差し伸べ、迷いを赦してくれる存在が。

 だから、きっと。それだけで、ヒースは再び前を向けることが出来るのだ。


「これから、よろしくね」


 ヒースは微かに笑った。

 その瞳は、夜明け前の空のように静かで、深いアメシストの色に輝いていた。


 ·····不完全なまま、中途半端なまま。


 毒に呪われながら。

 それでもヒースは、確かに生きている。

 渇きも、痛みも、孤独も、全てを抱えながら。

 そうして、生きるをことを選んだ。


「不本意ですが。仕方がありませんね」


 フーディエの声が響く。

 その真空色の瞳は、どこまでも冷たく澄んでいて。けれどヒースには分かる。その冷たさの奥に、確かにある彼女の温度を。


「拾った犬ぐらい、面倒をみてあげます」


 その言葉は冷たくて、さっぱりしていて。けれどそれが彼女なりの優しさだと分かっていた。ヒースを思ってくれているのだと分かったから。


 皮肉混じりの言葉に、ヒースは思わず声を出して笑ってしまった。

 彼女に軽く睨まれたけれど、それすら心地良いだなんて。


 そんなやり取りが、どこか遠い記憶のように懐かしく思えるのは、ヒースがもう人ではないからだろうか。


「うん。末長くよろしくね、フーディエ」


 こんな日常が。

 非日常ではあるけれど、それでも、ずっと続けばいいなんて、柄にもなく思った。


 ·····部屋には、揺れる蝋燭の灯が静かに影を落としていた。

 淡い光が石壁に踊り、二つの影が重なったり、離れたりを繰り返す。


 そうしてまた、蝋燭の灯が微かに揺れた。

 その光の中で、二つの影が寄り添うように静かに重なる。それは温もりがありながら、どこか遠く感じる。すぐ傍にあるのに、本当はもう届かない場所にあるような感覚。


 それでもいい。

 たとえ届かなくても、手を伸ばし続けることに、きっと意味があるから。


 微かな光。

 いつ消えてしまってもおかしくない、頼りない炎は、けれど、それでも確かに燃えていた。

 ヒースの中で、渇きや痛みを抱えたまま、それでも消えずに残るもの。

 それは·····。


 不完全なままでも構わない。

 それでも生きていく。


 闇の中で揺れるその小さな光は、確かに消えずに残っていた。


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孤蝶の夢 なの星屑 @nanohosi

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