孤蝶の夢

なの星屑

prolog 孤独の蝶

 夜の静寂を切り裂くように、一つの影が闇夜に舞い降りた。

 薄い月光の中、その姿はまるで宙を羽ばたく蝶のように儚い。羽を広げるみたいに裾を翻して、風に抗うように、ゆっくりと空中を舞う。それは花の蜜に誘われるようにして、その地へと降り立った。


 遠くから聞こえるさざ波の音と、微かに揺れる木々の囁きだけが鼓膜を揺らす。

 風は冷たくどこか懐かしい痛みを伴って、肌を撫でた。その痛みは、胸の奥深くに刻まれた記憶を呼び覚ますかのよう。

 けれどその痛みをかき消すかのように、つんと鉄の匂いが鼻をついた。


 湿った草木と土の香りに混じる、濃い血液の匂い。乾いた土に滴るそれは、生命の終わりと始まりを告げる。

 闇夜の中で、刃の先に真紅の滴が冷たく宿っていた。

 ぽたり、ぽたり。

 命の欠片がまた、零れていく。


「·····孤独な【吸血鬼】は、夢を見るのか」


 囁いた言葉は、風とさざ波に攫われて溶ける。

 月光に照らされた瞳は、色をくるりと変えて、夜の中でさえ輝きを放つ。その光には、どこか冷たさと哀しみが宿っていた。


 けれど胸を満たすのは、孤独。


 それでも、ただ前に進む。

 誰かの為に、誰かを守る為に。彼女を愛す為に。彼女を殺す、その為だけに。


 愛することの果てに訪れるのが、終わりだけだとしても。彼女を殺す、その宿命の為に、歩みを止めることは許されない。


 その道の先に待つものは救いでない、そう知っていながら、それでも顔を上げた。夜空を見上げれば、一筋の光が星のように瞬いて流れ落ちる。それは願いにも似た一瞬の煌めきだった。


 そうしてまた、孤独の蝶は舞い続ける。

 夜という名の無限の時を抜け、運命という名の呪いに逆らいながら。その羽が傷ついてもなお、宙を舞う。


 そして孤独な蝶は闇夜に溶けて消え去った。

 蝶の行方は、誰かの記憶の中に封じられた夢のように、静かに消えゆく。けれど、鱗粉のように散らされた光は、確かに世界の運命を揺るがす予感を残していた。


 それは救いか、滅びか、それとも誰かの願う夢か。


 きっとこの物語もまた、誰かの夢の一片に過ぎないのだろう。


 孤独の蝶の旅路は今、愛と呪いに満ちた月光に照らされながら、静かに幕を開ける。


 永遠に続く夢の中で、消えない翅音が囁くように響き続けた。


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