ep.1ー1 花嫁と花婿
【吸血鬼】──それは血に縛られ、血に飢えた化け物。
人々の血を求めて彷徨い、襲い、命を蝕むその存在は、力と魔術をもって人間を凌駕する脅威であった。抗う術を持たない人々は、その影に怯えながら夜を迎え、ただ祈るように朝を待つしかない。
·····それは例外なく、この村もまた、その恐怖から逃れることは出来なかった。
静寂に包まれた村には、どこか空虚な冷たさが漂っている。軒先を彩る色とりどりの飾り付けは、微かな風に揺れながら、どこか物悲しく音を立てていた。それは祝福の飾りだというのに、絶望を覆い隠す仮面のようにも見える。
村人達は皆、息を潜めて朝を待ち望んでいた。恐怖に支配された目が、押し殺された言葉が、静まり返る村の広場に集まっている。その中心には物憂げに涙を流す一人の娘がいた。
村長の娘である彼女は、今夜【吸血鬼】に奪われる運命にある。それは逃れようのない事実だった。どれだけ願い、どれだけ抗おうとしても、人々を凌駕する【吸血鬼】に敵うはずもない。
この村の誰もが彼女を思いながら、けれど心のどこかで諦めていた。それでもなお、有り得ぬ奇跡を願う愚かさが、人々にはあった。
その沈黙は、恐怖と諦めを宿した深い闇の中、ただ時間が過ぎるのを待っているかのようだ。
遠くで聞こえた風の音が、一瞬、人々の耳を掠める。
村に冷たく響く足音と共に、真空色の三つ編みを揺らしながら、一人の少女が現れる。彼女の姿は、この静まり返った村の中で異質な存在感を放っていた。軍服が闇夜に溶け込み、その胸元に施された刺繍が月の光を受けて、きらりと瞬く。
村人達は皆、物陰から期待と不安が入り混じった眼差しを彼女に向けていた。しかし、彼女はその視線に一切動じることなく周囲を見定め、口を開く。
「私は、聖蜂機関【メリッサ】の者です。【吸血鬼】討伐の任を受け、こちらに参りました」
澄み切った声が夜の静寂を裂き、村の空気を揺らす。
しかし、信じられない、と村人は不安の声を漏らした。こんな若い少女が、【吸血鬼】を倒せるとは到底思えない。
少女は呆れたように溜め息を零して、胸元の紋章を示した。そこには、精巧に縫われた蜜蜂とハーブの刺繍が施されている。
それは、彼女が【吸血鬼】討伐に特化した組織、聖蜂機関【メリッサ】の者であることの証明だった。
村人達は一瞬戸惑った後、次第に驚きと希望の色をその顔に浮かべた。
「まさか【メリッサ】の方が来てくれるなんて·····」
「【メリッサ】なら【吸血鬼】を殺してくれる!」
「これで村は安泰だ!」
村人達は押し殺していた感情を一斉に現し、口々に歓喜の言葉を漏らす。そんな村人の間をかき分けて、少女の前に進み出たのは、村長と震える娘だった。
少女はそちらにゆっくりと視線を向ける。
「報告は既に受けていますが、状況を改めて伺います。手短にどうぞ」
村長はその態度に彼女の立場を理解したのか、娘の肩を支えながら事情を語り始める。
「実は、私の娘がお貴族様に見初められまして。本日、婚姻を結ぶ予定でした。しかし、式の直前に【吸血鬼】から手紙が届いたんです。花嫁を迎えに行くと·····。逃亡の手配もしましたが、逃げれば村の女を皆殺しにする、と脅され·····。どうすることも出来ませんでした」
村長が差し出した手紙には、わざとらしく乾いた血で封がされていた。それを受け取って一瞥すると、視線を花嫁に移す。その青ざめた顔と震える指先が、彼女の抱える不安を雄弁に語るようだった。
「分かりました。では、私がお嬢さんの代わりに、花嫁の役を務めます。こんな夜です。ヴェールを使えば、【吸血鬼】といえども、すぐには見抜けないでしょう。私はその隙を突いて【吸血鬼】を殺します」
彼女の確固たる言葉に、村人達は救われたような表情を浮かべ、感謝の声を口にしようとした。しかし少女は静かにそれを遮り、冷静に指示を出す。
「皆さんは、衣装や式の準備をお願いします。私はその間に確認したいことがありますので、席を外します。それから·····、花嫁である貴女。貴女は、くれぐれも式には近づかないように」
娘は一瞬戸惑ったが、震える手で胸元を握り、静かに頷いた。
そうして少女は広場から踵を返し、一人で村の中を歩くことになる。
·····そんな時だった。
ふと、視界の端で淡い光が揺れる。
それは、淡い黄金色の光を放つ蝶だった。黄水晶──シトリンのような輝きをもっている。
薄明かりの中で、彼女の視線をその美しい光が引き寄せる。無意識の内に、足を止めた。
一体、何処から迷い込んでしまったのだろう。
此処では不釣り合いな程に美しい蝶は、優雅に、そして雅に少女の目の前で舞い踊る。少女は蝶から目を離せない。
蝶はまるで彼女を誘うように舞っていた。微かに風を切るその羽音が、無音の中でより際立つ。蝶は少女を導くかのように、その儚い翅を震わせて漂っていた。まだ見ぬ運命の糸が静かに震え、交わる瞬間を告げるように。夜の闇に光を放ちながら、空を舞い続ける。
視線が蝶に引き寄せられるまま、足が自然とその後を追うように進んだ。村の中心から少し外れた道を、蝶は迷うことなく飛んでいく。その軌跡に誘われるように、彼女もまた歩みを進めた。
村の外れに近づくにつれて、夜の冷たさが一層強く感じられる。しかし、それでも蝶の光は彼女の前にあった。
ふと、蝶がひらりと舞いながら立ち止まり、すぐ目の前に降り立った。少女は僅かに息を飲む。
「これは·····」
目の前に広がる光景が、まるで夢の中に迷い込んだような錯覚を与える。
青い花々の上で、黄金に輝く蝶が羽を震わせていた。その翅には細かな鱗粉が散りばめられ、まるで星々を纏ったような煌めきを放っている。蝶は青い花の蜜を吸いながら、静かに宙を舞っていた。その光は、言葉を持たぬはずの存在が彼女に何かを伝えようとしているかのように、優しくも切なく輝き続ける。蝶の光が彼女の視線を引きつける。
しかし、次に目を奪ったのは蝶を惹き付ける金色。それは風のように現れ、彼女の目の前を通り過ぎた。
「·····?」
はっとして、フーディエは無意識にその色の行方を追った。その先には一人の青年がいる。
蝶が彼の肩に舞い降り、その身を包むように黄金の光を揺らめかせていた。それは月が落とす涙のように儚く、しかし確かな存在感を放っていた。その光がふっと消えると、夜の静寂が一層深まる。
「誰です?」
気づけば、言葉が彼女の口をついて出ていた。何故か声は僅かに震えている。
青年は静かに振り返った。
「·····俺?」
その瞳が少女を捕らえる。アメシストの瞳がくるりと瞬いた。
彼の顔にはどこか憂いを帯びた美しさがあった。見る者の胸に刺さるような儚さが宿っていた。目を凝らせば、その瞳の奥に、深い過去の影が潜んでいる。彼の存在そのものが、消えゆく星のように微かに輝いているようで、それでいて、その存在を主張しているようにも思えた。
「·····俺はね、ヒースっていうんだ」
低く穏やかな声が静寂を破る。それは夢の中で耳にする音のようにどこか遠い。それでもその声には不思議な力があった。胸の奥で、何かが触れるような、説明のつかない感覚が広がっていく。
少女はその声に目を見開き、彼の佇まいをじっと見つめた。その姿には、どこか懐かしさがある。過去の記憶の中に沈む、消えゆくような存在を思い出させるような。声も、容姿も、性別も、種族だって違うのに、それでも、『あの人』を思い起こさせる何かが、彼にはあった。
「あ·····」
ヒースは静かに歩み寄り、彼女の髪にふわりと手を伸ばした。その瞬間、蝶が彼女の髪にとまり、まるで花の飾りのように美しく揺れる。黄金の蝶と彼女真空色の髪が、闇夜に一瞬の輝きを灯した。
「綺麗、だね」
その一言は、囁きのように小さく、けれど確かに夜の空気を震わせた。
彼の笑顔は、夜の冷たい空気さえも柔らかく溶かしてしまうようだ。
「それで、君は? 可愛いお嬢さん」
その言葉と共に、蝶がふわりと飛び立ち、闇に溶け込むように姿を消す。
「·····私は、聖蜂機関【メリッサ】の者です。【吸血鬼】を倒しに来ました。お前は·····、こんな場所で何をしているのですか?」
彼女の言葉には緊張と警戒が滲んでいた。しかし、ヒースは彼女の問いかけに嫌な顔一つせず、軽く微笑みを返す。
「ああ、君があの·····!村の人達が騒いでたよ。あ、えーとね、俺は·····、ただの旅人、かな?この村には、偶然立ち寄っただけなんだ」
「·····旅人?」
その返答に、小さな違和感が蠢く。言葉では言い表せない妙な感覚だ。疑念と警戒が交錯する。
「うん。今は一人で旅をしてるんだ」
アメシストの瞳の奥底には、消えゆく星のような光と哀しみが渦巻いているようだった。
夜の冷たい風が吹き抜け、二人の間の木々を騒めかせる。ヒースの金色の髪が風に揺れ、月光がその瞳に反射する。その瞳はアメシストの色を持っているというのに、シトリンに染められていくようだった。混じるはずのない紫と黄色の色が、彼の瞳に宿り揺れる。それは、紫のアメシストと黄色のシトリンのように輝く宝石、アメトリンのようだった。
その光景に、彼女の胸は強く打たれた。
(やっぱり·····、この男は、どこか『彼女』に似ている)
胸の中で湧き上がる感情を押し殺したいのに、ヒースの顔から、彼の瞳から目を逸らすことは出来なかった。
「俺の顔、なにか付いてる、かな·····?」
「そうですね、間抜け面なら」
「えっ!?!?」
「煩い野郎ですね·····。【吸血鬼】がどこに潜んでいるとも分かりません。痛い目にあいたくなかったら、早く村に戻って」
彼女は短く告げると、踵を返してその場を去ろうとした。しかし、そんな彼女を彼の静かな声が引き留める。
「分かった。じゃあ·····、お嬢さんが名前を教えてくれたら、すぐにでも戻るよ!」
その言葉に、彼女の足が止まる。
淡い月が二人を見下ろし、月の光がヴェールのように優しく二人を包む。その光は、彼女の心の中で眠る何かを呼び覚ますようだった。
「·····フーディエ。フーディエ、です」
それだけ告げて、彼の顔も見ずにその場を去る。後ろから名残惜しそうな彼の気配がしたが、あえて無視をした。これ以上彼といると、自分まで得体の知れぬ何かに染められてしまいそうだったから。
そんな彼女を取り巻くように、蝶は舞い始める。それは祝福のようでもあり、呪いの象徴のようでもあった。
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