少女の心に花が咲く
川上水穏
第1話
はなぶさ商店街という大きな看板のかかったアーケード街に、黒髪の少女が立つ。引っ越してきたばかりなのだろうか。昼間、たくさんの買い物客が行き交う中で、少女はキョロキョロと辺りを見回しながら、お店には入らず歩いている。
旬の苺やアメリカンチェリーを売り出す果物屋、緑がキレイなブロッコリーとキャベツが安いと客を呼ぶ八百屋、餡に創意工夫をこらし今一番の売れ行きはさくらんぼ餡という焼きたてが自慢の小さなどら焼き屋が建ち並ぶ。そこらじゅうから春がきたよと喜んでいるようだ。
配布されてるチラシを強引に押しつけられ『あなたのお悩み、異能で解決します!』という文句に視線を落とす。
花紺青のカーディガンに身を包んだ少女は、細い路地から飛び出してきた三毛猫に視線を奪われる。
「あ、猫ちゃんや」
胸からポワンと蕾が出てきたように見えた人はいないだろう。少女の足に遊ぶようにまとわりつき、逃がそうとパタパタとその場足踏みをするたびに檸檬色のスカートがふわりと舞い、猫の瞳はキラリと光った。にゃーんと鳴きながら首筋を少女のすねにこすりつけた。瞬間、背筋を伸ばしてパッと跳躍し、別の細い路地へと入っていこうとする。少女は後を追って小走りでついていった。
古く階層の低いビルが続く路地は、空が狭く見えた。ちょっと視線を外しただけで、前を歩いていたはずの猫の姿は見えなくなる。
「あれ? ここどこや?」
店名は出てないが、なにかのお店の前にいるようだ。どこからか、にゃあんと猫の鳴き声も聞こえてくる。さきほどの猫だろうか、姿は確認できない。
『あなたの時間を珈琲に託してみませんか』
不思議な文句の看板がかかっているお店は商店街の裏路地にあった。
漆喰の壁と小さな緑の屋根からは爽やかさを感じられるだろう。路地に面した大きな窓ガラスにはところ狭しと蔦が張り、中を伺い知ることはできない。珈琲と書いてあるからには喫茶店だろう、と少女は見当をつける。店に続く隣のテナントや上の階は怪しげな商売をしているようで昼間はほとんどのお店が閉まっている。すなわち、昼間から開いてるのはこの喫茶店のみ。客もいないだろうと、黒髪の少女は重い木目調の扉を開ける。
「いらっしゃいませ」
喫茶店はカウンター席のみでテーブル席はない。狭いカウンターには女性二人が並んで立っている。
扉に手をかけたままの少女は回れ右をして帰ろうとする。
「あなたの時間、珈琲に託してみない?」
カウンター手前に立つ、少女よりも長い黒髪を揺らし頭を下げる女性店員がいた。奥にいる柔らかな茶色に染めたボブの女性は、こちらを見ようともしない。少しの間、時間が止まったように少女と店員は対峙する。
何かを決めたように、少女はカウンターの一番奥へと座ると同時に、メニューが差し出される。
元から茶色いのか渋い色紙にクセのある文字がこれまた濃い茶色で書かれている。
・一時間託します。お試し価格 千円
・一時間半託します。 三千円
・二時間託します。 五千円
・この他、応相談。
珈琲豆の種類など一切書かれていないメニューに、少女は困惑を覚える。肩掛け鞄から財布を取りだし、お札の枚数を確認しようとした。
「待って、もう珈琲は抽出しているの。だから、あなたが満足した分を払っていって」
長い黒髪の女性店員が言うと少女はこくんと頷いたと同時に左胸に蕾が出現する。
「
春陽と名乗った少女の胸にある蕾が何かを期待するようにブルルと震えた。
「お二人とも、能力者ですか?」
その問いに二人が答えることはない。春陽はため息をつくと、蕾から白い花弁が一枚カウンターへ落ちた。
女性店員は器用に人差し指と親指で花弁をつまむとカウンターの中にあるダッシュボックスへと捨てる。
「春陽さん。お待たせしました」
店員が差し出したのは、アイボリーのマグカップ。マグカップを顔に近づけると芳しい花の香りが鼻を抜けていく。春陽にとってこんな珈琲は初めてだった。お茶請けは小粒のチョコレート二粒。
漆黒の奥底から爽やかな酸味が広がる。苦味は少なく、花の香りを楽しむだけで、甘さを感じられるかのようだ。カカオの量多めのチョコレートを口に含むと、舌の上で転がる粒を感じながらよりまろやかな美味しさへと変化していく。
「あぁ、おいしい」
胸からはマグカップと同じアイボリーに染まった花弁が大きく開く。リラックスした様子の春陽の胸は誇りが咲いているようだ。
店員二人は顔を見合わせて微笑む。ボブの店員のえくぼが控えめにできた。
「どんな花でも咲かせられるんですね」
「えぇ。咲くたびにわずらわしいなと感じていたんですけど、今日は違います」
「どんな風に?」
「この珈琲と同じような芳しい香りを胸の花と一緒に楽しみたいと思ったんです」
春陽はマグカップを包み込むように持ち、店員に笑いかける。入店したときとはまったく異なる表情がそこにある。心も蕾も閉じることはない。
「看板の言葉……その通りでしたね」
「はい。彼女が人に合う珈琲を抽出できるから、お店として役に立ってる。私はサーブするぐらいしかここでは役に立ちません。でも、関係ないでしょ」
「はい、ありがとうございます。引っ越してきたばかりですけど何とかやれそうです!」
「それは良かった……どこか就職は決まっているの?」
店員の問いに春陽はフルフルと頭を左右に振る。
「……いえ」
咲き誇っていた花はしゅるるると固い蕾に戻り、その花弁はアイボリーから藍に染まって、細長いそれをひらりとカウンターに数枚落とした。
異能貸出所、能力者募集! と書かれたチラシを奥の店員が春陽へと差し出す。先ほど押しつけられたチラシをポケットから取り出すと同じ事務所のものだ。蕾の先はキラリと光り、誇りを見失ってはないようだ。
「バリスタはここから派遣されてきてるの」
「ええところなんよ。あんたも良かったらそこ行きぃ」
今まで一言も喋らなかったボブの店員の口から出る西の言葉に春陽は安心を覚えたようだ。
マグカップに残っていた珈琲を飲み干すと、春陽はごちそうさまでしたと口にした。
「お試し価格や」
そう言って千円札を一枚取りだしカウンターに置く。
「珈琲美味しかったです、仕事決まったらまた来ます!」
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