『イン メランコリー』
カミオ コージ
★
僕は、小説を教えていた。
文芸教室の講義台に立ち、目の前の生徒たちを見渡す。
生徒のほとんどは高齢者たちで、彼らは熱心にノートにペンを走らせている。
彼らはプロの作家を目指しているわけではない。
ただ、自分の思い出や体験を文章にして残したい、そんな気持ちでここに集まっている。
「小説っていうのは、人生の断片でしかない......」と、僕は言葉を投げかける。
「その断片に、人生のすべてを詰め込むことができる。そう信じて書いてみてください。」
言いながら、ふと虚しさが胸をよぎった。
この言葉を何百回繰り返してきただろうか?
そして、この場所に立つ僕は、果たして何をしているのか。
生徒たちの純粋な眼差しが、かえって僕の内なる空虚さを浮き彫りにする。
僕は自分の意思でここにいるわけではなかった。
この文芸教室の講師を引き受けたのは、出版社の担当編集者に頼まれたからだ。
「新人賞受賞作家が直接教える、というのは宣伝になりますよ。」
そう言われて、なんとなく断れなかった。
最初のうちは、それなりに新鮮だった。
生徒の文章を読んで講評をし、アドバイスをする。
けれど、何度も繰り返しているうちに、すっかりルーティンになった。
生徒たちに話す言葉も、次第に決まりきったものになっていった。
★
僕の小説が話題になったのは、もう10年以上前のことだ。
新人賞を取り、単行本が出版された。
そこそこ売れたし、一時は注目もされた。
だが、それは一度きりだった。
二作目を書こうとしたが、うまくいかなかった。
あのデビュー作は、僕の中にあった何かが一気に溢れ出た結果だったのかもしれない。
でも、その後は何を書けばいいのかわからなくなった。
時間をかけて書いた原稿は、編集部で酷評された。
「悪くはないけど、新鮮味がないですね」
「デビュー作のほうが面白かったな」
そんな言葉を聞くたびに、自信が削がれていった。
それでも、僕は書き続けた。
何とかもう一度、あの切迫した時間を取り戻したくて。
けれど、気づけば小説を書くこと自体が苦痛になっていた。
最初は、書きたいことが溢れていたはずなのに。
今は、何を書けばいいのかわからない。
小説が好きと言われても、僕の小説で売れたものはたった一作だった。
それが、今の僕のすべてを決定づけているような気がした。
★
僕は文芸教室の講師を週に二回だけ受け持ち、並行して文章を書くアルバイトをしていた。
製薬会社のウェブサイトに掲載する健康コラムを書く仕事だった。
オンラインの打ち合わせでテーマを決め、週に一回、記事を更新する。
食事のこと、運動のこと、成人病のこと。
徹底的に調べて、論理的に構成し、わかりやすく書くことを心がけた。
例えば、「糖尿病予防のための食事の工夫」というテーマなら、医学論文や厚労省のガイドラインを調べ、低GI食品の選び方や食物繊維の摂取の重要性について書く。
「運動不足が招く健康リスク」なら、有酸素運動と筋トレの違いを説明し、どの程度の運動が効果的なのか具体的なデータを交えて紹介する。
単なる雑学ではなく、読んだ人が実際に生活に取り入れられるような情報を意識していた。
この仕事は意外と悪くなかったし、意外に楽しかった。
決められたテーマに沿って文章を作るのは、小説を書くのとは違う安心感があった。
少なくとも、何を書けばいいのかわからずに途方に暮れることはなかった。
原稿料も悪くない。
文芸教室と合わせれば、なんとか生活できた。
わずかではあったが親の遺産もあったし、贅沢はできないが、生きていくには困らなかった。
けれど、それはあくまで「生活」の話だった。
僕が本当にやりたいこととは、何の関係もなかった。
★
講義が終わると、僕は文化センターのある駅ビルの地下にあるとんかつ屋へ向かった。
この店には、何度も来ている。
カウンター席に座り、瓶ビールとロースかつ定食を注文した。
一口飲むと、冷たい液体が喉を潤すが、心の渇きは癒えない。
周囲の喧騒が遠く感じられ、自分だけが取り残されているような気がした。
とんかつを口に運びながら、僕はヨーコのことを思い出していた。
★
ヨーコと別れたのは、一年前のことだった。
何度も「好き」と言われた。
その言葉を信じて、僕は彼女と付き合っていた。
けれども、ある日突然、彼女は「もう無理」と言った。
それだけだった。
何が無理なのか。
僕の何がいけなかったのか。
理由を聞いても、はっきりとは答えてくれなかった。
ただ、「ごめんね」と言った。
ヨーコは、僕の文芸教室の生徒だった。
40代、子持ち。僕より、5つ年上だった。
夫はほとんど家に帰らず、彼女はずっと一人で子供を育てていた。
昔から詩を書いていたらしく、何か自分を表現する手段が欲しかったのだろう。
夫には内緒で、教室に通っていた。
最初は、ただの生徒と講師の関係だった。
けれど、彼女の作品を読んでいるうちに、僕は彼女に惹かれていった。
静かで、穏やかで、でもどこか寂しげな文章。
それが、彼女自身を映しているように思えた。
いつの間にか、僕たちは距離を縮めていた。
飲みに行くようになり、やがて付き合うようになった。
でも、彼女はある日突然、僕の前から消えた。
「もう無理」
それだけの言葉を残して。
★
彼女が教室を辞めてから、僕はますます小説がわからなくなった。
恋愛もわからなくなったし、小説もわからなくなった。
自分でわからぬものが書けるはずがない。
それでも、書かなければならない。
書くことでしか、自分を救えない。
そう思ってはいるのに、何も書けない。
このままではいけない。
このままでは、僕は本当に空っぽの人間になってしまう。
★
その日は、いつも飲まない熱燗を頼んだ。
最初の一杯はゆっくりと口に含んで、ゆっくりと飲んだ。
二杯目、三杯目と杯を重ねるうちに、少しずつ酔いが回ってきた。
キャベツに醤油をかけ、無意識に箸を動かしながら、ふと、昔覚えた俳句が頭に浮かんだ。
「愁いつつ 岡を登れば 花いばら」
どんなに気持ちが憂いに満ちていても、岡を登る。
歩いている。
前に進んでいる。
そして、いつか花いばらの咲く場所にたどり着く。
僕はこの与謝野蕪村の句を、そう解釈していた。
じっと座り込んでいても、何も変わらない。
進まなければならないのだ。
熱燗のぬるい酔いが、そんな考えを背中から押してきた。
このまま、ダラダラと同じ日々を繰り返していたら、気づけばもう何も書けなくなってしまうだろう。
いや、もうすでに書けなくなっている。
小説に向かい合っているつもりで、何年も逃げてきた。
ここで何かを変えなければ、僕は本当に終わる。
「どこか静かな場所にこもろう」
そう思ったとき、奥湯河原の旅館が頭に浮かんだ。
一年ほど前、結果的にヨーコとの最初で最後の旅行となった場所だった。
静かな山間にある、小さな温泉宿。
あのときは、ただ温泉に浸かって、何も考えずに過ごした。
彼女と過ごした最後の穏やかな時間だった。
湯河原駅からバスでさらに奥へ進んだ先に、その旅館はある。
ひっそりと山に抱かれた宿で、余計なものは何もない。
あの場所ですべてを決める。
★
次の日、文化センターの事務局に行った
「10日間、教室をお休みさせてください」
そう言うと、担当者は書類をめくりながら「ああ、わかりました」と、あっさりとした返事をした。
驚くほど簡単だった。
僕がいなくても、何の問題もないのだ。
代わりの講師を見つけるのは難しくはなさそうだったし、もしかすると、講師が変わったほうが新鮮でいいとさえ思われるかもしれない。
誰かがいなくなっても、世界は何も変わらずに回っていく。
――僕は、いくらでも代わりのきく存在なのだ。
そう思うと、急に肩の力が抜けた。
何かにしがみついていたつもりだったが、しがみつく必要すらなかったのかもしれない。
ならば、僕は僕のやるべきことをやるだけだ。
旅館の予約を確認し、僕は家に戻った。荷造りは簡単だった。
原稿用紙とパソコン。
クリップで留めたA4の紙の束。
最低限の着替え。
何を書くのかは決まっていなかった。
けれど、行けば何かが変わる気がしていた。
いや、変えなければならなかった。
★
東京から電車で一時間半。
横浜を過ぎ、熱海を越えるころには、車窓の景色はすっかり変わっていた。
都会のビル群は消え、山と海が交互に現れる。
湯河原駅に降り立つと、ひんやりとした澄んだ空気が肌を包んだ。
東京の湿った喧騒とは違う、山の冷えた風。
駅の改札を出ると、小さなロータリーがあり、観光客向けの案内板が立っている。
予約した宿の送迎バスは、駅前の端に停まっていた。
運転手は年配の男性で、「どうぞ」と短く声をかけ、僕の荷物を受け取ると、後部座席に乗せてくれた。
乗客は僕ひとりだった。
エンジン音が低く響き、バスはゆっくりと発車した。
車窓からの景色が次第に変わっていく。
最初は町並みが広がる。
土産物屋や食堂、古びた旅館の看板が並ぶ温泉街。
けれど、少し進むと道幅は狭くなり、建物もまばらになっていく。
坂道を登り始めると、車内に低い振動が伝わる。
右手には小さな渓流が流れ、ところどころに石橋がかかっている。
木々が生い茂り、道の脇には落ち葉が積もっていた。
湯気の立つ温泉の排水路がちらりと見えたとき、不意に記憶が蘇る。
――以前、ヨーコとここを訪れたときも、同じようにバスに揺られていた。
あのときは、彼女が窓の外を指さして「見て、紅葉がきれい」と言っていた。
それなのに、僕はろくに返事もせず、本のページをめくるふりをしていた。
バスはさらに奥へ進み、カーブをいくつか曲がったところで、ようやく目的の宿が見えてきた。
木々に囲まれた、静かな佇まいの建物だった。もっと山奥にあるのかと思っていたが、意外にもそうではなかった。周囲にはスナックやコンビニが点在し、完全に隔絶された場所ではない。
一年前に訪れたはずなのに、その記憶はほとんど残っていなかった。旅館の外観も、道の雰囲気も、初めて見るような気がする。あのとき、僕は何を考えていたのだろうか。
★
宿に着き、担当らしい、30前後の仲居が荷物を持って案内をしてくれた。
白い襟元から覗く首筋が細く、落ち着いた仕草をしている。化粧は薄く、控えめな美しさがある。口数は少ないが、動きには無駄がなく、慣れた手つきで荷物を運び、廊下を歩く。
通された部屋は、十畳ほどの和室だった。
中央には座卓、壁際にはテレビと湯呑みが置かれた小さな棚。畳の匂いが、わずかに湿った空気と混ざっている。
窓際には、肘掛け付きの椅子が二脚と、小さな長方形のテーブル。どちらも木製で、少し年季が入っている。椅子の座面は布張りで、腰を下ろすとわずかに沈み込む。肘掛けの部分は使い込まれた木の滑らかな手触りがあり、指でなぞると微かに冷たい。
障子を開けると、山の斜面が広がる。濃い緑の木々が連なり、その間を細い川が流れていた。遠くから鳥の鳴き声が響く。
仲居が布団を敷く場所を確認するために、部屋の隅に立ち止まる。
「ここにこもって、小説を書き上げるつもりなんです」
言った瞬間、自分の声が妙に大きく響いた気がした。
仲居は、少し驚いたように僕を見た。それから、憧れるような目つきで頷いた。
「......頑張ってください。」
そう言って、少し微笑んだ。
その反応が、むずがゆかった。
なぜ、こんなに自慢げな言い方をしたのだろう。
ただ小説を書きに来ただけなのに、さも大仕事を成し遂げるかのような口ぶりになってしまったことが、後になって恥ずかしくなる。
仲居は静かに一礼して部屋を出ていった。
自分で自分の言葉が気恥ずかしい。
窓際のテーブルにパソコンを置いて電源を入れる。
書かねばならぬ。
それだけを胸に、この場所に来た。
けれど、キーボードの上で指は止まったままだった。
何を書けばいいのかわからない。
いや、わかってはいるのだ。
人を癒し、再生する何か。
最後に輝く光や希望。
そういうものを、書きたいはずだった。
目を閉じる。
希望。光。再生。
それらの言葉を噛み締めるように心の中で反芻する。
けれど、そのイメージが自分の中から湧き上がることはなかった。
希望を描くには、希望を信じていなければならない。
光を書くには、光がどこかに射していることを知っていなければならない。
再生を書くには、一度すべてを失ったとしても、また立ち上がれる確信がなければならない。
今の自分に、それはあるのだろうか。
曖昧な焦燥が、胸の奥にじわじわと広がる。
このままではいけない。
けれど、どうすればいいのかもわからない。
ふと、手を伸ばし、リモコンを取る。
電源ボタンを押すと、テレビの画面が静かに明るくなった。
温泉地を紹介する旅番組が流れている。
湯煙が立ち昇る露天風呂。
浴衣姿のレポーターが微笑みながら湯に手を浸している。
「はぁ〜、気持ちいいですねぇ」と、どこか作り物めいた声が響く。
画面の向こうには、穏やかな時間が流れていた。
湯の温もりに身を預け、すべてを忘れるような時間。
僕が今いるこの場所と、まるで関係のないもの。
テレビを消す。
そして、再びキーボードに向かう。
だが、指は動かない。
何を書けばいいのか、やっぱりわからない。
光も、希望も、僕の中には見当たらなかった。
沈黙の中、内線が鳴る。
「夕食のご準備ができました」
キーボードの上の手をそっと引く。
机の上の白い画面を閉じ、立ち上がった。
★
廊下を進み、夕食の用意された会場に入ると、すでに料理が並べられていた。
舟盛りの刺身。
透き通るような白身、濃い赤色のまぐろ、甘エビが氷の上に並べられている。
陶板の上では、牛肉がじゅうじゅうと音を立てていた。
脂が溶け、焼ける匂いが鼻をくすぐる。
小鉢に盛られた、いかの塩辛とわさび漬け。
ほんのりと酒粕の香りが立ちのぼる。
土鍋には、ふっくらと炊き上がった山菜ご飯。
湯気の向こうに、薄く焦げたおこげが覗いていた。
僕は無言で座り、湯呑みに注がれたお茶を一口飲んだ。
「お酒は何かお持ちしましょうか?」
仲居が訊く。
迷ったが、「冷酒をお願いします」と答えた。
すぐに一合の徳利が運ばれ、透明なガラスのぐい呑みに注ぐ。
口に含むと、冷たい酒が喉を滑り落ちた。
そのまま、刺身をひと切れ。
白身は淡く、まぐろはねっとりと舌に絡む。
噛むたびに、じわりと甘みが滲み出す。
もうひと口、酒を飲む。
箸を伸ばし、塩辛をひとつまみ。
強い塩気が舌を刺し、酒の後味を引き締めた。
食事が終わって気づけば、冷酒を二本空けて少し酔っていた。
★
部屋に戻ったが、ただ天井を見つめているだけで、何もする気が起きなかった。
窓を開けると、ひんやりとした夜風が流れ込んできた。
温泉街の静けさの中で、遠くに川の流れる音が聞こえる。
けれど、まだ頭が酒でぼんやりしていた。
「少し歩こう」
そう思い、上着を羽織って部屋を出た。
廊下は静まり返っていて、どの部屋からも物音はしなかった。
ロビーを抜け、玄関の引き戸を開けると、外の空気はさらに冷たかった。
温泉街の道はほとんど人影がなく、薄暗い街灯が点々と続いている。
昼間は観光客で賑わう通りも、夜になると別の表情を見せる。
石畳の細い道を歩きながら、ふと見上げた空には雲がかかり、星はほとんど見えなかった。
耳を澄ますと、どこかの宿から湯が流れる音が聞こえ、かすかに硫黄の匂いが漂ってくる。
道の角を曲がると、ぽつぽつと赤や青のネオンが浮かぶエリアが見えた。
温泉街の歓楽街。
カラオケスナック、居酒屋、場末のバー。
どれも古びた看板が、ぼんやりと明滅していた。
「スナック すみれ」
ひときわ小さなその看板が目に留まった。
気がつくと、扉を押し開けていた。
中に入ると、思ったよりも狭い空間だった。
カウンター席が5、6席ほど、奥に小さなテーブルが2つ。
ほの暗い照明の下で、ママらしき女性が客と話していた。
40代半ばくらいだろうか。
肩までの髪をすっきりまとめ、落ち着いた雰囲気を漂わせている。
化粧は控えめだが、場数を踏んできた人間だけが持つ、独特の気配があった。
カウンターには地元の客らしき男たちが3人ほど座っていた。
彼らはすでに出来上がっていて、笑い声が響いている。
扉の開く音に気づいたママが、ちらりと僕を見た。
驚いたような顔をしたが、すぐに慣れた笑みを浮かべた。
僕はカウンターの隅の席に腰を下ろした。
もう一組客が来てママは僕の相手をすることができなかった。
旅館からも近いし、10日もいればたまには来るだろうと思って、ウイスキーのボトルを入れる。
その時、ふと先週書いた記事のことを思い出した。
健康コラムの依頼で「お酒の飲みすぎは成人病のリスクを高める」という内容を書いたばかりだった。
それを書いた本人が、こうして飲みすぎている。
それでも、僕はまたグラスを口に運んだ。
店を出る頃には、足元がふらついていた。
夜の冷えた空気が、火照った体に心地よい。
ふと空を見上げたが、星はほとんど見えなかった。
僕は宿への道をよろめきながら歩き、どうにか自分の部屋にたどり着いた。
布団に倒れ込み、天井を見つめる。
今日はもう、考えるのをやめよう。
そう思いながら、僕はゆっくりと目を閉じた。
★
目が覚めた瞬間、頭の奥が鈍く痛んだ。
喉が乾いている。
目を閉じたまま布団の中でじっとしていると、胃の奥がじわりと重たく感じられた。
昨夜、どれだけ飲んだのか。
記憶を辿るが、断片的にしか思い出せない。
冷酒を二本空けて、スナックへ行った。
ウイスキーのボトルを入れてロックで飲んだ。
そのあと、カウンターの男たちが話していた声、ママが何かを言った顔、すべてがぼんやりとしている。
動かないといけない。
そう思いながらも、布団の中から出られない。
窓の外の光が、障子の隙間からぼんやりと差し込んでいる。
体が重い。
二日酔いだ。
しばらく天井を見つめていると、朝食を知らせる内線が鳴った。
布団をはねのけ、ゆっくりと体を起こす。
頭がくらりと揺れた。
洗面所で顔を洗い、軽く口をすすぐ。
少しはすっきりした気がするが、胃の重さは変わらない。
朝食会場に入ると、すでに数組の宿泊客が席についていた。
窓際では年配の夫婦が新聞を広げ、向かいの席では家族連れがにぎやかに朝食をとっている。
障子越しに柔らかな光が差し込み、湯呑みからは淡い湯気が立ちのぼっていた。
僕の席には、すでに朝食が並んでいた。
固形燃料の小さな青い炎の上で、湯豆腐がふつふつと温まっている。
出汁が揺れ、白い豆腐が小さく踊る。
隣には、小さな鯵の開き。
皮が軽く炙られ、大根おろしが添えられている。
だし巻き卵に、味噌汁、納豆。
旅館らしい、穏やかな朝食だった。
箸を取る。
湯豆腐をひとつ、そっと持ち上げる。
が、そのまま戻した。
味噌汁を一口だけ飲む。
ご飯を半分ほど食べる。
それで終わりにした。
食事会場を出ると、冷えた空気が肌を包んだ。
部屋に戻ると、布団は片付けられ、昨夜と同じ静けさが広がっていた。
畳の匂いが微かに残る。
座卓の上には、A4の紙の束が置かれていた。
昨日、何かを書こうとしたはずだった。だが、ページは白いまま、何も書かれていない。
窓際のテーブルに置いたパソコンの電源は落ちたままだ。
座卓の紙を手に取り、ペンを握る。
何か書かなければ。
何か。
けれど、浮かんできたのはたった一つの句だった。
「愁いつつ 岡を上れば 花いばら」
その言葉だけを、紙の隅に書く。
他には何も出てこない。
コートのポケットに数枚の紙を折り畳んで入れる。
靴を履き、部屋を出た。
廊下を歩き、階段を降り、玄関の引き戸を開けると、冷えた空気が肌を刺した。
昨夜の雨のせいか、空はまだどんよりと曇っている。
旅館のすぐ近くを流れる川へ向かう。
水面は静かに揺れ、川の底まで透き通っていた。
大きな平らな岩を見つけ、腰を下ろす。膝を抱えたまま、流れを見つめる。
ポケットから紙を取り出し、折り目を伸ばす。
ペンを握り、紙の上に文字を走らせる。
——主人公の人物像。
これまで曖昧だったイメージが、少しずつ形を持ち始める。
名前、年齢、職業、口癖。
彼の過去、傷、後悔。癒されるべきもの。
久しぶりに、書いているという実感があった。
スマホで文字を調べようとして、紙を石の上に置く。
そのとき、風が吹いた。
紙が、ふわりと揺れる。
一瞬遅れて、指を伸ばす。
だが、紙はするりと抜けゆっくりと旋回しながら、川へ飲み込まれていく。
水面に触れた瞬間、文字が滲み始める。
反射的に手を伸ばしたが、届くはずもなかった。
紙は流れに乗り、下流へと遠ざかっていく。
僕の書いたものが、川に溶けていく。
何を書いていた?
さっきまで、確かにそこにあった言葉たち。
頭の中を探る。
けれど、何も思い出せない。
まるで最初から、何も書かなかったみたいに。
しばらく、川の流れを見つめていた。
ゆっくりと岩から立ち上がる。
川沿いを歩きながら、気づけば旅館とは反対の方向へ向かっていた。
★
昼はまだ胃がむかついて、食べる気になれなかった。ふらふらと歩いているうちに、巨大なボーリングのピンが視界に入る。
鄙びた外観。
大きく「BOWLING」と書かれた看板は色褪せ、端が剥がれかけている。
何十年ぶりだろうか。
吸い寄せられるように、中へ入った。
フロントに立つと、奥から初老の男性が現れた。
手の甲には細かな傷がいくつも走り、指先にはオイルの染みがこびりついていた。
彼はカウンター越しにじっとこちらを見た。目は細く、長年の仕事で刻まれた深い皺が、寡黙な表情をさらに重たくしている。
背後の壁には、色褪せたポスターや昔の大会の記念写真が飾られ、棚の上には埃をかぶったボウリングのトロフィーが並んでいた。
一番端のレーンに案内され、ボールを選び、レーンに立つ。
無心で投げた。
ボールは勢いよく転がり、ピンが弾け飛ぶ。
ストライク。
次も、ストライク。
三投目も、四投目も、ピンは音を立てて消えていく。
気づけば、ストライクが八回続いていた。
——こんなことがあるだろうか。
まるで、自分の意志とは関係なく、何かがこの腕を操っているかのように。
振り返ると、フロントの初老の男がこちらをじっと見ている。
いつの間にか、ボウリングシャツを着た高齢の三人組も、手を止めてこちらを見ていた。
視線を感じながら、九投目。
投げた瞬間、ボールが右へ逸れた。
ガター。
気を取り直して、もう一度。
またガター。
三投目も、四投目も、ピンにはかすりもしなかった。
フロントの男は何も言わなかった。
気まずさが込み上げるがスコアは240点。自己最高記録だったが全く達成感はなかった。
ボウリング場を出ると、冷たい風が頬をかすめた。
——俺は小説を書きに来たのに、何をやってるんだ?
★
旅館に戻り、部屋にいても何もする気になれなかった。
ふと、ロビーの片隅にある小さな図書コーナーに目を向ける。
背の低い木製の棚に、観光案内や雑誌、小説とは無縁の本が並んでいる。
『山菜ときのこの採取ガイド』
『日本の城と城下町』
『温泉の科学』
『将棋 名人たちの一手』
『失われた職業図鑑』
僕は『失われた職業図鑑』を手にする。
かつて存在し、今はもう消えてしまった仕事の記録。
白黒写真と短い解説が添えられ、そこに生きた人々の姿が残されている。
江戸の町を走り回った飛脚。
一日で百里を駆ける者もいたが、明治の郵便制度の普及とともに消えた。
炭焼き職人は窯を組み、数日間寝ずに炭を焼く。かつてはどの山にもいたが、今はほとんど見かけなくなった。
振り売りは籠を担ぎ、町を巡って商品を売り歩く商人。魚屋、豆腐屋、かんざしを売る者もいたが、店舗販売が主流になり、振り売りは姿を消した。
ガラス磨きは、明治時代、商家の店先でガラス窓を磨く職人。ガラスの質が向上し、手作業の必要がなくなった。
どの職業も、必要とされていた時代があり、やがて消えていった。
それらを、ただ静かに記録する本だった。
ページを閉じる。
壁掛け時計の針は、夕方の五時を指していた。
外は、すっかり日が暮れていた。
フロントに内線をかけ、夕食は不要だと伝える。
昨夜、酒に合う豪華な食事で飲みすぎたあとのだるさを思い出すと、また同じことを繰り返す気がした。
小腹がようやく空いてきたので、温泉街の通りを歩き、適当な定食屋を探す。
派手な観光客向けの店を避け、地元の人間が通いそうな、古びた暖簾のかかった店に入った。
カウンター席に腰を下ろし、メニューを眺める。定食の種類は少なく、焼き魚、煮魚、とんかつ、唐揚げ――どれも素朴なものばかりだった。
「唐揚げ定食と、瓶ビールを」
しばらくして運ばれてきた唐揚げは、皿の端に千切りキャベツを添えた、飾り気のないものだった。衣は厚めでカリっと揚がっていた。
瓶ビールを一本、静かに空けた。
新聞を広げる年配の男性、黙々と焼き魚をつつく作業服姿の男。テレビのニュースを流れる天気予報をぼんやりと眺めながら、僕はもう一本ビールを頼んだ。
勘定をすませるため、財布を取り出す。
小銭を探しながら、ふと違和感を覚えた。
昨日、スナックでけっこう飲んだはずなのに、財布の中身がほとんど減っていない。
確か、ボトルを入れた。けど、あの後のことはよく覚えていない。
記憶が曖昧すぎる。
店を出ると、いつの間にか足が昨日のスナックへ向かっていた。
扉を押し開けると、スナック「すみれ」の薄暗い照明が目に入った。
カウンターには地元の客が3人。酒を片手に、昨晩と変わらぬ調子で笑い合っている。
昨晩と同じ顔ぶれのような気もするが、確信は持てなかった。
ただ、この店の時間は昨日の続きをそのままなぞっているように思えた。
カウンターの奥でママがこちらを見た。
一瞬、表情が曇る。
「いらっしゃい」
昨日と変わらぬ口調だったが、どこかよそよそしい。
僕は軽く会釈し、カウンターの隅に腰を下ろした。
「……昨日、僕、ちゃんと払いました?」
ママはグラスを拭きながら、ちらりとこちらを見る。
「覚えてないの?」
「正直、あんまり……」
ママは少しだけ笑って、手を止めた。
「払ってないわよ」
やっぱり。
僕は財布から金を取り出し、昨日の分の勘定を済ませた。
このまま帰るのも申し訳ない気がして、一杯だけ飲んでいくことにする。
「ウイスキー、ロックで」
氷がグラスに落ちる音が響く。
琥珀色の液体がゆっくりと注がれ、僕はそれを一口飲んだ。
喉を焼くアルコールの熱。
昨日の記憶が、ぼんやりと滲む。
「旅行ですか?」
ママが何気なく訊く。
言葉を選ぶのが面倒で、つい本当のことを言ってしまった。
「……小説を書きに来たんです」
その瞬間、隣の男が「へえ」と興味を示した。
「作家さん?」
「まあ、そんなところです」
「へえ、小説ねえ」
男がグラスを揺らしながら言う。
特に悪意があるわけではなく、ただの興味本位に見えた。
「どんなの書くの?」
「……普通の小説です」
適当に答える。
「普通ってなんだ?」
「いろいろです」
「いろいろって?」
しつこく問い返される。
言葉を選ぶのが面倒になり、少し乱暴に言った。
「まあ、文学です」
「ぶんがく?」
「……」
男はわずかに眉をひそめたが、それ以上は突っ込まなかった。
「俺、本は読まねえけどさ、やっぱ推理とかSFとか、そういうのがウケるんじゃねえの?」
「かもしれませんね」
そっけなく答える。
別に、この場で小説論を語るつもりはない。
ただ、ウイスキーを飲みたかっただけだった。
「でもさ、そういう文学って、難しくてよくわかんねえんだよな」
軽く流せばよかった。
なのに、なぜかその言葉が引っかかった。
「……あなたになにがわかるんです?」
口にした瞬間、自分で「しまった」と思った。
隣の男が顔を上げる。
「……は?」
「いや、だから」
自分でも止められなかった。
「小説ってのは、ただ面白けりゃいいってもんじゃないんですよ」
口調が強くなる。
そう言いながら、面白いほうがいいに決まってるとも思っている。
男は一瞬、驚いたように僕を見たが、すぐに鼻で笑った。
「難しいこと言うねえ、作家先生は」
「……」
馬鹿にされているわけではない。
ただ、こちらを面白がっているだけだった。
それが余計に苛立たしかった。
「まあまあ、酒の席でそう熱くなんなよ」
もう一人の男が割って入った。
カウンターの奥で、ママが静かにグラスを拭きながら僕に言う。
「もう帰ったほうがいいですよ」
店内の空気が止まる。
ママは、静かに言葉を続けた。
「大変申し訳ないんですけど、今日はお代は結構です。それと……」
一瞬だけ視線が揺れる。
「もう、うちには来ないでください。」
カウンターの奥の男たちが、ちらりとこちらを見る。
「……そうですか」
ママは、じっと僕を見ていた。
ポケットに手を突っ込みかけて、やめた。
「……すみません」
それだけ言って、席を立った。
袋に昨日入れたボトルを入れて渡された。
これが、出入り禁止ってやつか。
店を出ると、夜の冷たい空気が頬を打つ。
路地の向こうで、温泉の蒸気がぼんやりと立ちのぼっていた。
結局、僕は何も書けていない。
お前は、多くの人に小説を教えてきたのだろう?
胸の奥で何かがざわついたまま、消えなかった。
★
部屋の布団に横たわっても、頭の中がざわついて眠れそうになかった。
窓を開けると、夜の空気がひんやりと肌に触れた。
体の火照りを冷ましたくなり、浴衣を羽織って大浴場へ向かう。
廊下を歩くたびに、足が妙に重たく感じられた。
脱衣所には誰もいなかった。
夜遅いせいか、もう宿泊客は風呂を済ませてしまったのだろう。
湯気の立ち込める浴室に入り、かけ湯をする。
湯船に浸かると、じんわりとした熱が足先から這い上がってくる。
静かだった。
耳を澄ますと、遠くで川の流れる音が微かに聞こえた。
湯に身を沈め、ぼんやりと天井を見上げた。
薄暗い灯りが湯面に揺れ、視界がゆっくりとにじんでいく。
——スナック「すみれ」での口論がまた頭の中に巡る。
「あんたに何がわかるんです?」
自分で吐いた言葉が、頭の奥に響く。
何かを守ろうとしたのか。
何を証明しようとしたのか。
ただの自己防衛ではなかったのか。
文学とは、書くとは、そんな大層なことを語れる立場じゃないのに。
結局、何も書けない自分に苛立っていただけだった。
スナックで渡されたウイスキーをコップでストレートで飲む。
顔の火照りが増した気がして、ふっと息を吐いた。
湯船から出て、露天風呂へ向かう。
脱衣所から外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
すぐ横を流れる川の音が、さっきよりもはっきりと耳に届く。
風が山の葉を揺らし、かすかなざわめきが湯気に紛れて消える。
空を見上げると、雲が厚く、星はほとんど見えなかった。
湯に肩まで沈める。
熱がじわりと体を包む。
目を閉じると、昼間、川に流したメモのことを思い出した。
いや、もう思い出せない。
確かに、何かを書き始めていたはずなのに、
どんな言葉を書いたのか、まったく浮かんでこなかった。
流れ去るのをただ見つめるしかなかった、あの白い紙。
あれが、自分の小説そのもののように思えた。
書こうとしても書けず、手を伸ばした瞬間、掴めないまま消えていく。
水面に落ち、ゆっくりと遠ざかっていく紙のイメージが、頭の中を反芻する。
言葉は、もうどこにもなかった。
ふと、視界がぼやける。
頭の奥にじんわりとした熱がこもる。
のぼせてきた。
湯船から上がる。
ふらつき、膝を打った。
痛みがじんわり広がる。
ゆっくり立ち上がり、脱衣所へ向かう。
鏡を見ると、顔が赤く染まっていた。
湯上がりの体に冷たい空気がまとわりつく。
浴衣の襟を直しながら、部屋へ戻る。
もう何も考えたくなかった。
布団に倒れ込み、瞼を閉じた。
目を閉じても、頭の中には、白い紙がゆっくりと水に沈んでいく光景が、
いつまでも浮かんでいた。
★
目が覚めても、布団から抜け出せなかった。
朝食の準備ができたと電話が鳴ったが、食べる気がしない。
丁重に断り、そのまま布団に沈み込む。
天井を見つめながら、この旅館にヨーコと来たときのことを思い出していた。
それも、克明に。
ヨーコの体は、シャワーを浴びたばかりで、まだ少し湿っていた。タオルで拭ったあとの、ほのかな石鹸の香りが残っている。シーツに沈む彼女の髪が、枕に絡まり、夜の光を吸い込んでいた。
横たわる彼女の首筋に触れると、わずかに震えるのがわかった。指先が鎖骨をなぞり、胸元の柔らかな起伏をたどる。熱が、ゆっくりと伝わってくる。まるで、じわじわと広がる波のように。
静かに、彼女の脚を開く。細い指がシーツを握り、布がくしゃりと音を立てた。喉の奥から、小さな吐息が漏れる。彼女の体が、徐々に熱を帯びていくのがわかった。
腰に手を回すと、彼女の指が背中をたどり、爪が軽く沈む。肌と肌が重なり、熱が押し寄せる。彼女の息が、鼓膜をくすぐる。顔を寄せると、額が触れ合い、髪が肌にまとわりつく。
ゆっくりと、彼女の内側へ沈んでいく。かすかに足が震え、指先が肩に絡みつく。そのまま押し入れると、体の奥から熱が広がるのがわかった。
彼女の喉が、小さく震える。
やがて、波が静かに引いていくように、彼女の体の力が抜けた。息を整えながら、僕は彼女の髪を指で梳いた。けれど、その指先に、さっきまでの温もりはもう感じられなかった。
「……おやすみ」
彼女はそれだけ言って、背中を向けた。その肩越しに、暗闇が広がっていた。
天井がぼんやりと揺れた。眠気と覚醒の間をたゆたう。
ささやかな川のせせらぎの音が聞こえる。僕がここにいなくても、いても、変わらずに。ヨーコがいなくなったあとも変わらず、ただ流れ続けている。
言葉もまた、そうなのかもしれない。どれだけ必死に掴もうとしても、指の隙間からこぼれ落ちていく。かつてあったはずの温もりが、今ではもう何も残っていないように。
目を閉じると、まぶたの裏に白いページが浮かぶ。けれど、そこに何を書けばいいのか、もうわからなかった。
川の音が流れている。その響きが、頭の奥で言葉のかけらをさらっていく。何かを思い出そうとして、思い出せない。何かを掴もうとして、掴めない。それでも、流れは止まらない。
微睡みの中で、言葉と温もりが同じ速度で遠ざかっていくのを感じた。
もう、どちらも手の中にはなかった。
昨日の朝と同じように、部屋には何も変わらない静けさが広がっている。
昨日、川に流れていった紙のことを思い出すと、余計に書く気が失せていった。
このまま部屋に閉じこもっていても、何も変わらない。
また昨日と同じように、紙を持って川へ行こうか。
そう思い、ようやく布団から抜け出し、窓際の椅子に座った。
しばらくして、襖をノックする音がした。
「失礼します」
昨日と同じ若い仲居だった。
僕は椅子に座ったまま、小さく頷く。
仲居は何も言わず、布団を片付け始めた。
静かな手つきで、枕を整え、シーツの皺をなぞる。
指先が、白い布の上を滑るたび、微かな音が部屋に響く。
その動きを、ぼんやりと目で追っていた。
シーツの白さが、ふと別の光景を引きずり出す。
ヨーコの肌。
あの夜、シーツの上に横たわっていた、なめらかな背中。
指先が彼女の肩をなぞり、鎖骨のくぼみを辿り、柔らかな起伏を……。
どこか遠くで、布が擦れる音がした。
その瞬間——
気づけば、僕の指先が、仲居の手の甲に触れていた。
ほんの一瞬、彼女の動きが止まる。
柔らかい皮膚の感触。微かな体温。
僕は息を呑む。
何か言おうとした。でも、言葉が出てこなかった。
手を引くべきなのに、動けなかった。
すぐに、仲居はそっと手を引いた。
何も言わず、ただ布団を畳み続ける。
表情は見えない。
けれど、その背中から、淡々とした距離感が伝わってきた。
「……失礼します」
それだけ言って、一礼し、仲居は静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
指先にはまだ、微かな温もりが残っている。
けれど、それはすぐに冷え、ざらついた感触だけを残した。
喉の奥が、ひどく詰まる。
体の奥から、どうしようもない嫌悪感が込み上げてくる。
もう、帰ろう。
こんな状態で、この場所にいても、何も生まれはしない。
いや、そもそも最初から、何も生まれなかったのだ。
昨日までの迷いが、一気に吹き飛んだように思えた。
僕は、ここにいる資格すらなかった。
荷物をまとめ始める。
10日予約してまだ3日しか経っていなかった。
だが、もう何の未練もなかった。
荷物を肩にかけ、部屋を出る。
廊下を歩くと、仲居とすれ違った。
彼女は一瞬だけこちらを見たが、何も言わずに会釈をした。
フロントにいた若い男性に「急用ができたので今日帰ります」と伝えると、彼は軽く頷き、手際よく宿泊費を計算し、伝票を差し出した。キャンセル分も加算されていたが、そのまま支払った。
「またのご利用をお待ちしております」
決まりきった言葉が、妙に遠く感じられた。
宿を出ると、冷たい風が頬を打つ。
空は灰色に沈み、今にも雨が降り出しそうだった。
フロントの女性は、淡々と宿泊費を計算し、伝票を差し出した。当日のキャンセル分も加算されていたが、そのまま支払った。
宿を出ると冷たい風が頬を打つ。
空は曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。
★
湯河原駅から電車が動き出すと、僕は窓の外に広がる景色をぼんやりと眺めた。旅館のある山並みが遠ざかり、しばらくすると相模湾が視界に入る。
灰色の空の下、沖には貨物船がゆっくりと進み、岸に近い場所では小さな漁船が浮かんでいる。風のせいか、波はわずかに白く泡立ち、海の色は深く沈んだ鉛のようだった。
車窓越しに見る海は、どこまでも広がっているはずなのに、妙に狭く感じられた。まるで限られた枠の中に閉じ込められた風景のように。
電車は速度を上げ、海は次第に遠のいていく。
東京を離れ、有り余る時間の中に身を置けば、何かをつかめると思っていた。温泉に浸かり、静かな宿で机に向かえば、言葉が戻るはずだった。
けれど、唯一書いた紙は川に流れ、酒はただ身体を鈍らせ、したくもないボーリングをして恥をかいたり、スナックでは無駄に地元客とやり合い『もう来ないで』とまで言われ、温泉では転んで膝を打ち、ついには仲居の手に触れて取り返しのつかない沈黙が残った。
何をつかむどころか、すべてを零し、静かに拒まれていただけだ。
書けなかったけれど、書こうとした。
今は見えなくても、そこにある。
すぐに言葉が生まれるわけではない。書けなくても、ペンを握る。ページを開く。
その先に、何かがあるはずだ。
やがて、無数の建売り住宅が立ち並ぶ神奈川の町並みを過ぎたあたりで、小雨が窓に落ち始めた。
粒の細かい雨がガラスを伝い、外の景色をぼやかしていく。
旅館を出るとき、空はまだ曇っていたのに。
帰ったら、僕はまた机に向かう。
何を書くのかは、まだわからない。
けれど、もう、僕には書くことしか残っていない。
今度こそ、書けるはずだ。
書かなければならない。
東京が近づくにつれて、車内の空気がざわつき始める。スーツ姿の男たち、キャリーケースを持った観光客、スマートフォンを見つめる若者たち。
誰もがそれぞれの時間を生きている。
ホームが見えて、電車が減速する。
東京駅のアナウンスが流れる。
僕はゆっくりと立ち上がった。
扉が開く。
人の流れに紛れ、改札へと歩き出す。
都会の湿った空気が頬を打つ。
改札を抜け、駅を出ると、灰色の雲の隙間から、ほんのわずかに光が漏れていた。
コートのポケットに手を入れると、指先に紙の感触があった。
僕は立ちどまり、その紙を広げる。
そこには、ただ一行だけ、書かれていた。
「愁いつつ 岡を登れば 花いばら」
指先の紙が、かすかに揺れる。
僕は何度も心の中で読み返す。
遠くで車のクラクションが鳴る。
目の前を人々が忙しなく行き交っていた。
花いばらは、僕の中にある。
人混みのなかで、僕はただ、ひとり立ち尽くしていた。
『イン メランコリー』 カミオ コージ @kozy_kam
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