塔の上の王子さま

華周夏

空中庭園/地上の楽園

「ほら。お食べ。私はもう、お腹がいっぱいだから」

 あんな粗末な食事で空腹を満たせる筈はないのに、王子さまは唯一の訪問者の私の為に一度私が喜んでしまったものですから、必ず毎日のようにタカタカの実を残してくれます。

タカタカの実は甘くて安価で美味しい、この国での伝統的なフルーツです。王子さまは、もう食事すらもほとんどお食べになりません。もう要らないと言うように、私に「お食べ」と言います。私が首を振ると、

「私には必要ないんだ。もう、疲れてしまった。喜んで食べてもらえるなら作った者も本望だろう」

と、哀しいことを寂しげに笑いながら言います。食べないと痩せてしまうと、これ以上栄養を摂らないと死んでしまうと私は泣きます。

「こんな私のために泣かなくてもいいんだよ。私の瞳と髪が黒いのは、治しようがないんだ。魔女の呪いと聞いた。この世に未練はないよ。あるとすれば……ただ一度で良いから『恋』をしたかった。たまらなく甘美で、切ない物とそう本で読んだ」

私はじっと王子さまを見つめます。造作の整ったお顔。宵闇を思わせる吸い込まれそうな黒い瞳。艶々の漆黒の髪。こんなに美しいのに、何故他の人々は王子さまを苦々しく思うのでしょう。銀色の髪が、碧い瞳がそんなに偉いのでしょうか。

そう腹が立ちますが、この国では、そうなのです。難しく言ったら『王族の絶対の倫理』とでも言えば良いのでしょうか。

王子さまは時折私を見ると切な気に微笑み、

「お前も私と同じだね」

 と言います。私を見るのがつらいのだと思うときがあります。

 私も、こんな容姿です。皆に忌み嫌われるものです。最初王子さまに姿を見られるのも恥ずかしかった。けれど、王子さまは優しい声音で私を呼びとめ、

「私と話をしてくれないか?答えたくなければ、答えなくて良いから」

と仰り、

「君は名前は?」

と言いました。私は首を振りうなだれました。

「じゃあ、私から君に名前を。『ロイ』……どうかな?」

私は小さく王子さまにも聞こえない声で「ロイ」と言いました。天にも昇る気持ちでした。

優しい美しい王子さま。本当は楽しいお話相手になりたかった。ですが私は容姿だけではなく声も醜いのです。私が力無くうなだれると、何も言わず、王子さまは私の背を撫でて下さいました。

 

 そんな、ある日のことです。

「お前は私の鏡のようだね。いじめられたりしていないかい?ああ──背中に傷が。ここまで来るのにも痛かったろう。可哀想に」

近所の子供達に石を投げられた時の傷でした。

「痛い、痛い」

その泣き声ですら、彼等にとっては穢い声なのです。王子さまは袖の布を破り、傷に巻き、手当てをして下さいました。

「どうして、こんな──君は何も悪くないのに」

私の傷を撫でながら涙を流して王子さまが言ったとき、私はただただ泣きました。とても切なくて苦しくてたまらなくなりました。けれど、何処か私ごときに王子さまが泣いてくれる事実が、不敬罪にあたるようなことですが……嬉しかったのです。王子さまの特別に、一瞬ですが、なれた気がしました。皆に、こんなことを言ったら嘲笑されることでしょう。だから、こんなことを思ってしまった罪悪感とともに、胸にしまっておくのです。

私は、王子さまにいつも纏う愁いを帯びたお顔ではなく、春風に触れ、顔を綻ばせるように笑って欲しい。そんな日が一日も早く来ますように。毎日、私が月の神様にお願いすることです。

けれど私は王子さまの涙を見て、思ってしまったのです。どうかその美しい微笑みは私だけにと。その涙も私だけに。そんなものは、お伽噺です。私はこの感情の正体を解っています。そして、私ごときが抱いてはならない感情だということも。

 王子さまは寒い冬を乗り切りました。私を懐に入れ、私を抱きしめ、風の来ない壁に寄りかかり眠られ、幾夜を越しました。王子さまの懐は、いつも春に咲く、白い可憐な甘い匂いのする、私の好きな花の匂いがします。

「お前は暖かいね。背を撫でられるのが好きかい?」

私は頷きました。その夜からずっと王子さまは私を懐に抱いて下さいました。そして、よく背を撫でてくださいました。優しい甘い匂い。王子さまの匂い。幸せでした。今年の冬はいつもよりは幾分かは暖かい。毎年、海さえ凍る冬ですが、今年の海は凍りつきませんでした。きっと王子さまは月の神様に愛されているのです。

季節は巡ります。あともうすぐで、春になります。ですが王子さまは元気がありません。きっとご自分だけを残して過ぎ去る季節がおつらいのだと思いました。

「ほらお食べ。この塔のまで来るには海風が強く体力を使うだろう。毎日来てくれてありがとう。冬は君に甘えてしまった。君は温かいから。いつもすまないね。きっと私を看取ってくれるのは、きっと君なんだろうね」

こんな切ない言葉を言いながらも、努めて明るく振る舞おうとする王子さまが痛々しかった。涙が込み上げてきます。つらくて、やるせない気分でした。

死んでしまうなんて、 酷いことを仰らないで下さい。王子さまが死んでしまったら、私は何を生き甲斐にすればいいのですか?私は月の神様にお願いします。

 どうか、王子さまが幸せになりますように。王子さまが元気になりますように。ですが、途中、穢い考えのもう一人の私が、私に話しかけます。

『王子さまが銀色の髪を取り戻して碧い瞳を得たら──塔から出たら、お前のことなど気づかない。鼻にもかけてもらえない』

『美しい王子さまは、お前の知らない誰かと結ばれ恋を知る。お前はそれに耐えられるか?』

 解っています。私は王子さまをお慕いしているのです。ですが王子さまは、私を『寂しさを紛らわす話相手』くらいしか見てくださいません。

それでも良かったはずなのに、それでも身の丈に合わない幸せなのに、いつしか自分は欲張りになりました。


見つめるだけでよかったのです。


それが声を聞いて、不意に流れてくる微笑みを受けとめて。私は王子さまよりずっと早く『恋』を知りました──私は、もう、いい。私は充分王子さまを見つめました、ご飯をもらって、タカタカの実も、毎日もらって。私の気持ちを伝えることは出来ませんでしたが、幸せでした。

意を決して、私はある満月の夜に集めた十二滴の涙を集めて国の重鎮の白魔導師さまの元へ忍び込みました。この人ならきっと私のことを解ってくれます。話を聞いて下さいます。賢者と呼ばれる人だと、この国の皆が口を揃えて言っているのですから。

赤い絨毯が敷かれた月の神様の祭壇の部屋で白魔導師さまがいらっしゃいました。白魔導師さまは、にっこり笑って言いました。

「どうかしたかね。可愛いお客さん。少し待ちなさい。言いたいことがあるんだね」

そう言い白魔導師さまは空中に杖で殊更大きな魔法陣を描きました。橙色に光り、神々しいとはこういう事を言うのかと思いました。魔法陣はふわりと移動し私を真ん中において、一度小さく閃光を放ちました。

「白、ま、導師さま」

声が、穢いと思っていた私のガラガラ声が綺麗な声に変わりました。白魔道師さまは、白く長い豊かなお髭を撫でながら仰いました。

「何かね?」

「私の満月の涙をここに。私の命と引き換えに、塔の王子さまを銀の髪、碧い瞳にしてあげて下さい、お城に戻してあげて下さい。お願いします」

私は何回も頭を下げました。

「随分と願いが多いね」

そう言い、白魔導師さまはじっと私を見つめました。私も、じっと白魔道師さまを見つめました。白魔道師さまは、小さく苦笑いしました。ふわふわの白く長いお髭を触られるのが癖のようでした。

「お前は本当に良いのかい?」

私は小さく頷きました。たとえ自分が消えても、王子さまの記憶から私が忘れ去られようとも、私が王子さまをお慕いした事実、過ごした時間、例えば──タカタカの実を私がいつも頂いた事実は、真実なのですから。

「こんなに泣いて、可哀想に。悲しいのかい?怖いのかい?」

私は白魔導師さまの声に俯き、

「悲しいからでは、怖いからではありません。ただ……もう、春です。この国の短い春です。沢山の花が咲きます。誰も知らない、森の外れに、私だけが知る花畑があるのです。それは、見事な花畑なんです。色とりどりの花が咲き乱れて、清々しい甘い匂いがするのです。王子さまにあの景色を見せて差し上げたかった。私は、こんな穢いと言われる生き物です。ですが許されるなら、王子さまと同じ景色を一緒に、見てみたかったのです。塔から見える荒涼とした岩肌に打ち付ける波ではなく、暖かな、王子さまが喜ぶものを。自然と顔が綻ぶようなものを

、共に見たかったのです──そして、ずっと、お慕いしていましたと、ロイは幸せでしたと心に秘めた思いを、そっと告げてから逝きたかった」

私は蹲って泣きました。

「苦しい恋をしてきたんだね。毎日月の神様に祈っていただろう」

私は頷きます。

「ただひたすら王子さまの幸せを。私は声も姿も醜い。そんな私を見ても、王子さまは儚げでしたが笑って下さいました。『やあ、よく来たね』と。もう、王子さまは生きることに疲れてしまわれました。私が塔に行っても悲しげに微笑むだけで……昔のように笑ってくださらない。王子さまを助けてあげて下さい。白魔導師さま」

不意に後ろから包むように抱きしめられました。抱きかかえる腕はひんやりと少し冷たく、王子さまに背を撫でられたような気がしました。抱きかかえる腕は言いました。

「もう、いいよ。私はこのままでいいよ。君がいてくれるなら、それで良いよ。塔に帰ろう。一緒に眠ろう。塔は寒いけど、君は暖かいから」

窓を見ると、王子さまが私を抱きしめています。その姿に私は驚きを隠せませんでした。

「どうして?どうしてここにいるのですか?」

私は訊きました。

「夢を辿って。誰かに呼ばれて、ここに来た……君の姿は醜くなどないよ。漆黒の翼も、黒い瞳も、嘴も。明けと黄昏に鳴く声も叙情的で綺麗だ。君は、綺麗だよ。だから、塔に帰ろう?鴉の君がいれば、私は寂しくない。ただ、今日のように君の声が聴こえたら、いいのに。君と沢山話せたらいいのに……」

潤んだ声で王子さまは言いました。私は幸せでした。死の世界へ旅立つ霞む意識の中で、王子さまが泣いています。温かい王子さまの手のひらの中、私の瞳から最後に涙が零れ落ちました。

「……しっかりして!起きて!起きて!ロイ!」

「……『彼』は死んでしまったよ王子。彼の満月の涙の願いだ。ほら、窓を見てごらん王子。銀の髪、碧い瞳。城にも戻れるよう手配しよう。王子の幸せか……全部、彼が望んだ。生命の代償として、今私が言ったことを望んだ。彼は君を愛していたよ」

「彼を生き返らせてくれ。私の幸せは彼が生きていることなんだ。私にとって、ロイがいない此の世は意味がない。私の寿命なんてどうでもいい。ロイを生き返らせて……」

何処か遠くで私のことを呼びながら王子さまが泣いています。いいのです。私などのために泣かないで。王子さまは幸せをつかんで下さい。

「黒い瞳の黒い髪に戻り、塔の上にも戻っても?忌み嫌われる『呪いの王子』と巷では呼ばれていますよ?」

「構わない。構わないから……。今日は満月だ。ほら、私の満月の涙十二滴だ。私の生命と引き換えに、彼を生き返らせて、彼に神官として敬われる翼族のような身体と綺麗な声を与えてあげて欲しい。もう、理不尽に傷つく事がないように。そして、幸せにしてあげてほしい。彼は傷ついてきた。石を投げられても耐えてきたんだ……お願いします白魔道師さま」

 王子さまは、白魔道師さまに最高の礼の形をとられました。気品がある、ずっと焦がれた王子さま。

「………解りました、王子」

ぼんやりと意識が混濁する中で私は見たのです。そこには白魔道師さまは居ませんでした。長く豊かな白い髭の老紳士の魔導師さまの代わりに、美しい銀色の長い髪の、澄んだ碧い瞳の月の女神様がいました。絵で見る方と同じです。

「二人が生命を賭して願ったものが『お互いの幸せ』とは……恋の因果か。幸せは二人の想い次第。見物よの」

 あまりに美しい、高貴さ故の残酷さを内に秘めたようなお顔をされた月の女神様の小さなため息のような笑いを含んだような声を最後に、私は意識を完全に手放しました。


─────────────────


目覚めたら、私は月の神殿に居ました。白い法衣の様な物を着ています。鏡張りの部屋にいて、自分の姿見ると背中の翼こそ漆黒ですが見た目は人間です。翼族です。色のついた翼を持つ翼族は特別高貴なものとして扱われます。黒い翼は極稀で、宮中のに仕える神官として奉仕するのが普通です。

 私は声を出します。美しい低く憂いを含んだような声。言葉も人間の言葉を話せます。何故かは解りませんでした。ですが気がかりでならないのは王子さまです。

私が白魔導師さまの涙の願いで、きっと私は死んだと思っています。私は今の私の置かれた状況でさえまだよく分からない。まさかこんな姿で生きているなんて。ですが頭から離れられないのは王子さま。生きていると御報告したい。

私が鏡張りの部屋を出ると、威厳のある方がいました。空から見たことがあります。神官長さまです。

「目が覚めたようじゃな。長いこと、眠っておった」

「神官長さま、ですか?ここは?」

「いかにも。ここは月の神殿の翼族の学び舎だ。お前は、月の神殿の前に行き倒れになり昏睡していた。翼族は、神官となり修練をして、月の神殿に仕える身。だがお前は珍しい有色翼族。城にに神官として仕える身だ。意味は分かるな?」

 私は頷きました。

 それから、今、私は神官の修練生であること。私は毎日の修練や、自分に与えられた部屋、その他諸々、神官長は丁寧に教えてくださいました。

 私は、王子さまが気がかりでした。神官長に頼み込み、おぼつかない『人間の足』で、王子さまの幽閉されていた塔に行きました。何故か門番がいないのが不思議でしたが、塔に入りました。まだ翼での飛び方が解らないので螺旋階段を不器用に上ります。

──王子さまはいませんでした。積み重なった本も、綺麗な海の見える風景を書いた絵も『いつか、遠くにいきたいね。君と一緒に』といって微笑みながら見せてくれた世界地図も、全て無くなっていました。タカタカの実が、三つ窓辺に置いてありました。もう、全部溶けるほどに熟れていて、時間の差を感じました。私が昏睡していた時間、王子さまは窓辺から現れる私を待っていて下さった。けれど多分私は死んでしまったのかもしれないと思っていらっしゃる。私自身そう思ったのですから。その胸の内を考えると、悲しみと罪悪感が私を支配しました。けれどこの塔に居ないということは、きっと王子さまはお城へ上がられた。月の神様に出会ったことは夢じゃない。


 きっと城にいらっしゃる、おこがましくも、薄れゆく意識で聞いた、王子さまの甘い幻のような願い。もしかしたら私を待っていらっしゃるかもしれないと私はそう思ってしまいました。お城にいれば、幸せなはず。暖かなベッド。美味しい食べ物……淋しいですがタカタカの実は多分食卓には上がらないでしょう。あれは庶民の食べ物ですから。

早く王子さまに会いたいと私は沢山の修練をこなしました。神官になればお城へ行けるのです。

古代から国の祭祀を扱う神官は有色翼族の仕事。神官業務を覚えると共に神官長は、翼族のマナーや飛行や術など教えて下さいました。

声も美しい声です。昔のダミ声の他者を不快にさせる声ではありません。毎日の修練はあまりにも忙しく、眠ることと食事以外に自由はありません。ですが不思議な、けれどささやかな満ち足りた幸せを感じました。

疲れた身をベッドに埋め、明日に備えるために、早く眠らならければ、と目を閉じると、目蓋の裏に映るのは王子さまです。あの微笑みを。あの温かな最後だと感じた手のひらの温もりを。毎日聴いたお話や、口ずさみ教えてくれた歌。必ず食事の時に下さったタカタカの実。あなたに会いたい。王子さま、あなたに会うことが、幸せなあなたを見届けることが、私の生きる意味なのです。


あっという間に私は神官候補まで昇格しました。もう、神官の代理の仕事もこなしています。季節は移ろい、もう夏の終わりになりました。

 私は新しく下級神官とし、王子さま──今更知りましたがリュミエ王子さまと言うらしいのです──と対面することになりました。

立派になったと褒めてもらえるでしょうか。『遅い』と責められてもいい。王子さま。お慕い続けた王子さま。上級神官の方は部屋まで案内すると

「上手くこなせ。あまり深入りすると面倒だからな」

といい、何処かへ行ってしまいました。思い緋色のドアを開けると強い媚薬のお香の匂いがしました。

お互いを貪る男女。繰り広げられる狂餐。窓には厚い濃紺の金の刺繍の遮光カーテンが引かれ、蝋燭が灯されています。豪奢ですが、行われていることは娼館です。

王子さまに群がる獣の群れのような男女達。快感に目を細める碧い瞳。ですが相反するようにその瞳からは涙が零れていました。快楽を享受する涙ではありませんでした。

私はそんな王子さまを見て、立ち尽くし、目を逸らしました。本当は耳を塞いで泣きたかった。この部屋から立ち去りたかった。その瞬間を王子さまは見過ごしてはくれませんでした。酷く傷ついた顔をして、王子さまは言いました。

「……全員出ていけ。神官、君は残ってくれ」

やはり王子さまの声です。お城へ行けば、幸せになれると思ったのです。私が、私の願いが間違っていたのでしょうか。

「リュミエさま、これからがいつものお楽しみじゃないですか──」

一人の男性が王子様にしなだれかかると、王子さまはその男性を振り払い、

「出ていけと言うのが聞こえないのか!」

泣き叫ぶような声をあげながら、手当たり次第に王子さまはあられもない姿の男女に物を投げつけます。残ったのは私と、散乱した部屋と素肌にシーツを纏った王子さまです。

「ベッドメイクをして欲しい。穢いベッドで寝たくない」

そう、うなだれる王子さまの為に、手早くシーツを取り替えます。

「服はどう致しましょうか」

「適当に着るよ」

私は部屋を手早く片付けました。こんなに変わってしまわれるなんて。あんな──痴態を昼間から。お酒を召し上がって、媚薬の香までたいて。

王子さまに何が起こったのでしょうか。塔に居るときより悲しい瞳をしていらっしゃいます。苦しい、つらいと訴えかけるような碧い美しい瞳。

取り敢えず挨拶に差し入れをと、ドライフルーツを差し上げました。それと、タカタカの実。話が盛り上がるかと思い、市場で買ってきましたが、正直私は悲しくて仕方がありませんでした。

ここまで荒んでいるなんて。何がそこまで王子さまを苦しめているのですか。私に出来ることがあれば、力になりたい。王子さまを助けたい。でも、あの頃よりずっと遠い──。

「誰かの指示か?これは」

タカタカの実を見た王子さまは言いました。

「私の一存です。……ロイです。覚えて、おいでですか?王子さま。忘れて、しまわれましたか」

 そう私が言った瞬間、王子さまは碧い瞳に涙を貯め、顔を真っ青にして、

「ロイ、見ないで!お願いだから私を見るな!見るな!」

と天蓋つきの、さっき私が汚れたシーツを取り替えたばかりのベッドに毛布を頭まで被って丸まって震え出しました。

私はベッドの傍らに座り、王子さまの丸まった背を撫でます。少しでも王子さまのお心が安らかになれば。昔、傷ついた私の背を王子さまは撫でて下さいました。王子さまはあの時の私より傷ついていらっしゃる。少しでも私に出きることがあればと、私は震える王子さまの背を撫で、穏やかに訊きました。

「王子さま?どうされたのです」

「あの満月の夜、君は、私の手の中で死んだ。私は君を生き返らせてくれと、白魔導師さまに頼んだ。自分の命と引き換えに、十二滴の満月の涙で。でも私は生きていた。起きたら夢のようにいつも通り、塔の中だった。ただ髪と瞳は変わっていた。夢じゃない、そう思った。でも、君は来ない。待っても、待っても………タカタカの実を窓辺に何個も置いたんだよ………?何個も腐ってしまって窓から落とした。あれから王家からの面会の一ヶ月、つらかった。いつもの景色の中で、君だけがいないんだ……君は私の生きる支えだったんだよ」

王子さまは咽びながら続けます。

「命を懸けて私は祈った。白魔導師さまは私の命はとらなかった。ある時思った。もし、私の願いを白魔導師さまが、聴いてくれたら君は生きて、翼族になれて、綺麗な声になっている。鴉の姿ではないと。だから神官候補が来たら会うようにしてた。でも、君には会えなかった。……半年は希望を失うには丁度良い期間だったよ」

私はゆっくりと毛布を剥がします。涙にまみれた王子さま。

いとしい、いとしい王子さま。私のこの声も、翼族の姿も、王子さまの願いだったのです。

「城に上がっても、君を失ったと思った世界は灰色に見えた。塔で君と一緒にいる方が寂しくない。城は孤独だよ、ロイ。いつしか、何も感じなくなっていった。快楽を貪っているときは全てを忘れられた。けれどあんな姿を君に見られて……死んでしまいたい。君の前では『王子さま』でいたかった。綺麗な私のままでいたかった。がっかりしただろう?」

座り込み、両手で目を擦る王子さまは、あどけなさを残す少女が、泣いているようでした。

「どうした?君の好きだった王子さまはこんなものだよ。誰彼構わず遊ぶ……尻軽の遊び人に成り下がったよ。………タカタカの実ありがとう。大切に食べるよ。綺麗な思い出なんだ。これだけは」

顔をあげた王子さまのお顔は涙に濡れていました。私は「失礼します」断りをいれ、ベッドに乗り上げ、王子さまを抱きしめました。王子さまが笑えるように。悲しい顔をしないで、いつも微笑んで、幸せを感じていられますように。それが私の変わらない願い。

「苦しい思いは今日で終わりです。私がいます。私が王子さまの笑顔を守ります。だから御自分を傷つけることはもうなさらないで下さい。御自分を貶める言葉を言わないで下さい。遅くなり、申し訳ありませんでした」

王子さまは私の背中に手を伸ばし、抱きしめ、声を上げ泣きながら言いました。

「遅いよ。待ったよ、ロイ。ずっと待っていたよ。君だけをずっと待っていたよ」

 私は首に下げた小さな笛のついたネックレスを外し、そっと王子さまに手渡しました。

「……寂しいときはこの笛で私を呼んでください。私だけに聞こえる笛です。世界に一つだけのものです。私は、王子さまのもの。もう、王子さまを独りにさせません。神殿に、来ますか?見学だと言えば私の部屋に泊まれます。息抜きになるかと。天井のレリーフが綺麗なんです。星空のような。本当に綺麗なんですよ」

その夜、二人でベッドに共に横になり、沢山の話をしました。王子さまは私の胸に顔を埋めました。図らずも横を向いて抱きしめる形になります。王子さまの心音が聴こえます。私はくすぐったいような気分になりました。王子さまからはやはり、甘く柔らかな香りがします。

「場所が逆になってしまったね。だがロイの温かさはそのままだ」

そう言い、私の温かさが気に入ってくださったのか王子さまは、

「毎晩こうしていたい」

目を細め私を碧い瞳で顔を上げ、私を見つめました。王子さまの瞳は宵闇ではなく、晴れた空の色の瞳になりました。

「私でよければ毎晩王子さまを温めます」

「ロイ。君は鈍いな」

王子さまは苦笑いしながら私に仰りました。

「鈍い、ですか?」

「解らないならいい……君がいたから、私はあの塔で生きてこれた。ありがとう、ロイ」

私の頬に涙が伝います。初めて見た王子さまの満面の優しい笑顔。しかも私だけに。

「どうした?」

心配そうに王子さまは私を見つめます。

「嬉しいのです。とても。王子さまが私をこんな風に想って下ってたなんて……嬉しくても涙は出るのですね。申し訳ございません。女々しくて」

王子さまは私の涙を刺繍の入ったハンカチで拭き、

「泣かないで欲しい。ロイの涙はつらい。あの最後を思い出してしまう」

私は返事をするように、王子さまに臆病な腕で、私は王子さまを抱きしめる手に少し力を込めました。

「ずっと、王子さまだけを想って参りました。ずっと。鴉が王子さまを想うなど、皆笑うでしょうね。身分違いの恋だと解っていました。想いを告げるのも不躾だと。ですが言わせて下さい。……リュミエ王子さま、貴方をお慕いしております。これからも、どうかお側に居させてください」

王子さまは私の懐で、寝息をたてて眠っています。柔らかで、優しい、一生懸命な寝息。しばらくし、リュミエ王子は小さく、恥ずかしそうに仰りました。

「私には、君だけだ。君さえいてくれれば良い」

王子さまは、私の頬に繊細な指でそっと触れます。

口唇を重ねました。何度も、食むように。柔らかで、溶けてしまいそうです。私は夢を見ているのでしょうか。王子さまは私にとって、切なく蕩けるように甘美な果実でした。

私は朝が来ることが怖かった。眠りにつくのが怖かった。こんなことは初めてでした。極めて上質なお酒で酔うような感じ──上質なお酒は勿論、お酒も満足に飲んだことはありませんが、例えるなら、こんな感じだと思えました。この幸せが、全て幻や、夢だったらどうしよう、と怯えました。

けれど懐の中では王子さまが安らかな寝息をたてていらっしゃいます。心臓の音も聴こえます。王子さまの心音を子守唄に、私は眠りにつきました。


「おはよう、ロイ。ほら好きだろう。タカタカの実を買ってきたよ」

今、王子さまは私を見て朗らかに笑ってくれます。塔にいた頃の寂しさはありません。今は二人で同盟国や友好国を含め、各国地方の文化を調査する仕事に出ています。お付の神官に、王子さまは私を指名してくださいました。

あの、目を輝かせて見た世界地図。私たちの世界は小さかった。毎日が発見です。毎日が幸せです。王子さまが疲れたら抱きかかえ、私が街の職人に習い、手作りした革のベルトで私と王子さまを繋ぎあわせ、鴉だった頃の唯一の名残の黒い翼で空を飛びます。今は誇りに思う黒い翼。風を読んで、上昇気流にのります。

「これがロイが見てきた世界なんだね」

王子さまは嬉しそうです。私も嬉しくなります。

「春になったら、私だけが知っている花畑へ行きましょう。色とりどりの花が咲いてそれはそれは綺麗なんですよ──」

季節はうつろい冬になりました。私は壁に寄りかかり、王子さまを懐に抱いて王子さまが寝息をたてられてから寝ます。

「ロイ、君は温かいね………」

そう言い残し、王子さまは安心しきった子供のように眠ります。私は王子さまを腕と翼で包むように抱きしめました。

昔、塔での冬、王子さまは微睡む私におっしゃりました。

「ロイ、君は温かいね………生命の灯火のようだよ。君の名前の由来は『希望』だよ。君がいるから私は生きていけるんだ。ロイ?眠ってしまったね。いつか話すよ。いつか──」




───────《FIN》

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