第13話

私は、あまり夢を見ない。


寝ているときの夢じゃなくて、将来のこととか、そういう“夢”。


見なくなったのはいつからだったかな。

たぶん──お父さんがいなくなった、あの冬からだ。


玄関が静かになって、

食卓がひとつ広くなって、

あたたかいごはんの香りの代わりに、空気の隙間が増えていった。


誰も悪くないと思ってたけど、

それでもきっと、私は“なにか”を失ったんだと思う。


 


 


「なーにぼーっとしてんの、あかり」


「……えっ」


教室に戻った意識を引き戻したのは、澪の声だった。

黒板の文字がにじんで、ノートは途中で止まっていた。


「さっき先生、問題あててたけど……」


「え……まさか」


「答えなくて済んだけど、危なかったよー」


「ごめん……ちょっと考えごとしてた」


澪はにこっと笑って、あたしの肩を小さく叩いた。


「まぁ、最近なんか上の空なときあるもんね」


「……そう、かな?」


「ふふ、あたしは気づいてるよ」


その笑顔は、やさしいけどどこか鋭い。


気づいてる──って、どこまで?

心臓が少しだけざわついた。


 


 


放課後、教室に残っていたあたしのもとに、澪がやってくる。


「今日は屋上行かないの?」


「……うん、ちょっと寄ってく」


「じゃあ、あたし先帰ってるね。気をつけて」


そう言いながら、なにかを言いかけたような顔をして、

それでも言葉にはせず、教室を後にした。


あたしは荷物をまとめ、昇降口ではなく、階段を上へ登る。


 


 


屋上に出ると、風が冷たかった。

けれど、そこにいたのは──やっぱり、彼だった。


「……よ、来たんだ」


「うん、ちょっとだけ……ね」


「小崎は?」


「帰った」


柊くんは、あたしの名字じゃなくて、

“あかり”と呼ぶようになった。


そのたびに、胸がちくりとするのはなぜなんだろう。


うれしくて、こわい。

近づくほど、心の奥がざわめく。


 


「……この前さ」


「うん?」


「名前、呼んでもらえてうれしかった」


彼は不意にそう言った。

風の音が耳をくすぐるなかで、それはとても静かに響いた。


「うれしかったって……そんなことで?」


「うん。そんなことが、大事なんだよ」


あたしは黙って空を見た。


雲の形はよくわからなかった。

でもその灰色の空が、あたたかく見えた。


 


「……柊くん」


「ん?」


「明日も、会える?」


「当たり前だろ」


彼は笑った。

その笑顔は、なんてことない日常の中で、少しだけ特別だった。


あたしの中で何かが静かに揺れた。


 


たぶんこれは、夢じゃない。

でも夢みたいに、脆くて壊れやすい。


「……ありがとう」


風が吹いて、前髪がふわりと揺れる。

その隙間から、柊くんの目がまっすぐに見えた。


あたしは、目を逸らさなかった。


彼の瞳の奥に、ちゃんと自分が映っている気がして。


頬があたたかくなるのを感じた。

きっと赤くなってる。だけどもう隠さなかった。


 


心の中に灯った小さな光。

それを消したくなくて、あたしは立ち尽くしていた。


 


──夕暮れが、冬の屋上をやさしく包んでいた。

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