第11話

昼休み、教室のドアを出て、階段を上がる。

手すりに触れる指先が、少しだけ冷たかった。


屋上の扉の前で、ふと足を止めた。


──カチャ。

もう、誰かが中にいる気配。


静かに扉を開けると、冬の風が顔をかすめた。

白い光に包まれて、あの人が、そこにいた。


柵のそば。

いつもの場所に、白石さんが立っていた。


 


「……やっぱり来てたんだ」


「黒巻くんこそ」


いつもより、ほんの少しだけ声がやわらかかった。

それだけで、この屋上の空気が少し変わる。


 


「……あのさ、今日、自分の意志でここに来たの」


そう言って、白石さんは空を見上げた。

雲が切れて、まるい光がビルの間から差し込んでいる。


「逃げ場所じゃなくて、ちゃんと自分の足で登ってきたの。たぶん、初めて」


「……それ、すごくない?」


「うん。ちょっとだけ、自分を信じられた気がした」


 


俺は白石さんの横に立ち、風と街の音に耳を澄ませる。

遠くからチャイムの予鈴が聞こえてくるけれど、まだここにいたかった。


 


「ねえ、黒巻くん」


「うん」


「変われなかったとしても、誰かの隣にいていいのかな」


 


その声は、かすかに震えていた。

でも、それ以上に真っ直ぐだった。


「……変わらなくても、いいと思うよ。

ていうか、無理に変わる必要なんてないし」


 


「……ありがとう」


彼女は小さく息を吐き、空を見つめたまま話し始めた。


 


「お父さんと最後に歩いたのも、この学校の近くの坂だったの。

手をつないで、買い物して、ただそれだけの記憶なんだけど……

どうしても、そのあとがないの」


「……いなくなったんだっけ」


「うん。何も言わずに。

だから“あかり”って名前、あの人が最後に言った言葉のひとつなの」


 


──“名前”。


あの日も、昨日も、俺はずっと心のなかで呼びかけていた。

でも、声にはできなかった。


言葉にしたとたん、何かが変わってしまいそうで。


だけど今、この光の中で、

少し背を伸ばした彼女の背中を見て、自然と声が出た。


 


「……あかり」


 


風が止まる。

街の音が遠ざかる。


白石さんが、ゆっくり振り返った。

頬にかかる髪を押さえて、驚いたように、目を見開いて。


 


「……え?」


「……呼んでみた。ちゃんと名前で」


 


沈黙が流れた。けれど、その沈黙はやさしかった。


 


「……うれしい、かも。ちょっと照れるけど」


 


そのとき、あかりがマフラーを外し、半分を俺の肩にそっとかけてきた。


「……寒いから」


たったそれだけ。

でも、それがあまりに不意打ちで、胸が跳ねた。


頬に触れた布越しに、彼女の体温がふわりと伝わってきた。


 


──好きだ。もう、間違いない。


名前を呼んだ瞬間に、気持ちは確かになってしまった。


 


風が再び吹く。だけど寒くない。


屋上の空は、今日も広い。


 


少しずつでもいい。

また明日も、この場所で会えたら──そう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る