羽
沢田和早
羽
土日は先輩のアパートで食事をしているが平日は主に学食を利用している。その日も一人で夕食を済ませ、暗くなりかけた路地をアパートに向けて歩いていると後ろから声を掛けられた。
「よお、こんな時間にご帰宅かい。ご苦労さん」
振り向くまでもなく声の主はわかっている。僕の先輩だ
先輩は小学校で一学年上、中学校で一学年上、高校で一学年上、そして現在、大学では一学年上ではなく同級生である。先輩は一年浪人してしまったからだ。
同級生を先輩と呼ぶのもおかしな話だが、小学校の頃からそう呼んでいるので、今更別の呼び方を考えるのも面倒くさい。先輩も「よせよ、同級生だろ」などと反論したりもしないので、そのまま呼んでいる。
「先輩こそ、こんな所で何をしているんです。先輩のアパートとは逆の方向でしょう」
「明後日の日曜日、単発で清掃のバイトを入れたんだ。今日、現地の下見に行ってその帰りなのさ」
先輩の家は裕福なのだが、親の意に背いて勝手に一年浪人したり勝手に地方の大学に行ったりしているので実家からの援助は一切ない。僕と同じくバイトと奨学金でやりくりしている。
「そうですか。まあ頑張ってください」
「ああ。おっと」
先輩の手が宙に伸びたと思ったら何かを捕らえていた。虫だ。黄褐色の羽に長い角。カブトムシに似ているが今は二月。カブトムシが飛び回るような季節ではない。
「なんだってこんな虫がこんな時期に……」
二人で首を傾げていると甲高い声が聞こえてきた。
「あらあ~、捕まえてくれたのね。助かったわ、うふふ」
女っぽいおじさんがこちらに向かって走ってきた。どうやらこのおじさんが飼っている虫のようだ。
「ちょっと油断したら虫かごを破壊して逃げ出しちゃったの。お礼を言うわ。ありがとね」
「そんな言葉だけではこの虫は渡せない。あなたのモノだという証拠はあるのか」
一度手に入れたモノは簡単に手放さないのが先輩の性質だ。しかしこの状況ではどう考えてもこのおじさんのモノだろう。虫かごも持っているし。
「あら、あなたずいぶん用心深いのね。証拠はあるわよ。その子の名前はカブ衛門。腹にそう書いてあるわ」
虫をひっくり返すと確かにそう書いてある。先輩は黙って虫を渡した。
「それにしてもどうやってカブ衛門を捕まえたの」
「飛んできたから捕まえた」
「素手で? もしかしてあなた、虫取り名人ではなくて」
「そうだ。俺は虫取り名人だ」
まあ虫に限らず捕獲するのは得意だよな。先月は巨大メダカを獲って食べていたし。
「ねえ、その腕を見込んであなたに頼みたいことがあるの。あ、その前に自己紹介するわね。あたしの名前は
名刺を先輩に渡すと無視台氏は話を始めた。半年後に芸術祭があり出品を依頼されている。そのために現在取り組んでいるのが昆虫の羽を用いたオブジェアートなのだ。
「玉虫厨子って知っているでしょう。虫の羽を数千枚貼り付けたアート作品。あんな感じの作品を制作しているの。このカブ衛門も羽を利用するために、知人から譲ってもらった熱帯地方に生息するカブトムシなのよ」
飼っているのではなく羽を取るための虫だったのか。きっと自分の運命に気付いて虫かごから逃げ出したんだろうな。それなのに先輩に捕まってしまうとは。哀れなりカブ衛門。
「事情はわかった。で、俺に何を頼みたいのだ」
「大量の昆虫を捕獲してほしいの。作品制作には二千枚の羽が必要なんだけど、それだけの量を入手するとなると費用も時間もかかり過ぎてどうしようか悩んでいたのよ」
何も本物の羽を使うことはないのになあと思うのだが、そこは芸術家としてのこだわりなのだろう。
「どんな虫でもいいのか」
「あたし、虫大好きだからどんな虫でもOKよ。あ、でも蠅とか蚊とかあんまり小さいのはやめてね。作品に使えないから。一番いいのは甲虫類だけど蝶とかトンボでも構わないわ。それから制作に使用するのは上翅だけで下翅は使わないからよろしくね」
「数と期限と報酬は?」
「千匹、と言いたいところだけど出来高払いにしてあげる。なるべく多く捕まえてね。期限は三月末。報酬は羽一枚二十五円。本体は不要だから捨ててね。ただし羽に傷や欠けや汚れがあった場合は減額させてもらうわよ。どう?」
もし千匹捕獲できれば羽二千枚、五万円か。悪くないバイトだな。もうすぐ春休みで時間もできるし、羽の枚数にノルマがないのなら引き受けてもいいかも。
「先輩、やってみたらどうですか?」
「おまえに言われるまでもなくそのつもりだ。だが期限に不満がある」
「三月末じゃ不満? なら四月末でもいいわよ。でもそれ以上は無理。制作が遅れちゃうから」
「逆だ。俺なら三日で二千枚の羽を集められる」
「せ、先輩!」
大言壮語にもほどがある。こんな所で見栄を張っても仕方ないだろうに。
「ふっ、何を言っているの。できるわけないでしょう」
「いや、できる。かつて赤壁の戦いに臨んだ諸葛孔明はたった三日で十万本の矢を集めた。それに比べれば二千枚の羽を集めるくらい赤子の手を捻るより
「言ってくれるじゃない。そこまで言うならやってごらんなさい。もしできたら報酬を倍にしてあげる。でももしできなかったらどう責任を取ってくれるの」
「こちらも倍の違約金を支払おう」
「せ、先輩!」
どこまで暴走するつもりなんだよう。できなかったら十万円支払うんだぞ。わかっているのかな。
「ふふふ。後悔しても知らないわよ。じゃあ連絡先を教えて。それからそこのあなた、保証人になってちょうだい。この学生さん、ちょっと信用できないから」
最悪だ。何で僕まで巻き込まれなくちゃいけないんだ。
「いいだろう。おい、学生証を出せ」
嫌だと言って引き下がる先輩ではない。仕方なく取り出すと先輩は自分の学生証と一緒に提示した。スマホで撮影する無視台氏。
「それじゃ月曜日に会いましょう。準備が出来たら連絡してちょうだい。楽しみにして待っているわ」
虫かごをぶら下げて去っていく虫大好き芸術家。すぐさま先輩に食って掛かる僕。
「どうするんですか。三日で二千枚の羽なんて不可能に決まっているでしょう。昆虫博物館でも襲うつもりですか」
「やれやれ、おまえは俺のことを全然わかっていないな。俺が勝てる見込みのない博奕を打つわけないだろう」
「じゃあ、何かアテはあるんですか」
「明後日の日曜日に清掃のバイトがあるって言ったのを忘れたのか。下見に行った現場は一軒家。とんでもないゴミ屋敷だった。中に入ると天井、壁、ゴミの上、いたる所を這い回っていたんだよ、ゴキ……」
「それ以上言うのは止めてください!」
慌てて耳を塞いだ。蜘蛛も蛇もトカゲも平気だが
「見たところ千匹は確実にいた。だが一緒に下見に行った業者に言わせるとそれでも少ないらしい。中には数千匹いる現場もあるそうだ」
「ああ、そうなんですね。つまり清掃のバイトで殺処分したGを貰ってくるってことなんですね。じゃあそういうことで頑張ってください」
そそくさと立ち去ろうとした僕の襟首は強い力で引っ張られた。
「おい待て。まだ話は終わっていない。いいか、羽には傷も汚れもつけられないんだ。業者に任せられるわけないだろう。彼らにとっては虫なんかゴミみたいなもんだからな。粗雑に扱うに決まっている」
「ああ、そうですよね。で、どうするつもりなんですか」
「清掃日は明後日の日曜日。明日はまだ業者は入らない。だから俺とおまえで明日の土曜日にゴミ屋敷へ踏み込んで、慎重に一匹ずつ捕まえて丁寧に羽をむしり取るのだ。一匹十五秒で処理すれば五時間もかからずに作業は終了する」
「いやだああー!」
と大声で叫んでも逃れられるはずもない。二千枚の羽が集まらなければ十万円払わなくてはならないのだ。覚悟を決めるしかない。
翌日は地獄だった。思い出したくもない。よく気絶せずに続けられたものだと思う。コスト削減のため殺虫剤などは使わず、その代わりに石けん水を用意した。先輩が捕獲したGをバケツの石けん水に放り込んで窒息させ、僕が一匹ずつ丁寧に羽をむしるのだ。
最初は防護服代わりに着用していた雨合羽の表面を這い回るGを払いながらの作業だったが、そのうちどうでもよくなってGの好きなようにさせていた。たまに羽をむしられたGが息を吹き返すことがあった。あいつらの生命力には心底恐れ入る。
「あらあ~、本当に集めちゃったのね。お・み・ご・と!」
月曜日。Gの羽ということで文句を言われるかと思ったが、無視台氏はまったく気にしていないようだった。本当にどんな虫でも分け隔てなく好きなんだな、この人。
「はい、お約束の九万八七二五円」
無視台氏が二時間かけてじっくり検査した結果、十枚が不合格となって無報酬、三十一枚が瑕疵ありとして報酬が半分に減額された。それでも大金を手に入れられたのだから頑張った甲斐があった。封筒に入った栄一のお姿を拝見した途端、涙が溢れてしまった。
「よかったら芸術祭、観に来てちょうだい。招待状を送るわ」
と言われたがあまり気乗りしない。さりとてGの羽がどんな芸術品に変身しているのか、少々気になるところではある。
羽 沢田和早 @123456789
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