プライド

いと

プライド


 もう何度数えたかもわからない絶望。今日も変わらない。ないものはない。何度探してもどこを見渡してもそこに自分の名前はない。俺は落ちた。オーディションという戦場で俺は何度も敗北の味をしめている。もはや悲しみすら感じなくなっていた。何度も同じことの繰り返し。圧倒的デジャブ感。それでも諦めない自分を誰かが笑う声が聞こえるような気がする。お前に何ができる。お前じゃない誰かに才能がある。お前にメジャーは無理だ。そんな声が頭を反芻して残響に変わる。うるさい。うるさいうるさい。黙れよ。まだ俺は叫べる。まだやれる。そんなアンチたちに罵声を浴びせられる。実力で証明できる。

...本当にできるだろうか。

 自分を苛む声もバカにする誰かも、全部全部、自分の声だった。


 そんな彼の姿を見ていたとある青年がいたことを、彼はまだ知らなかった。 






 周りの受験者たちは色々な感情を表しながら出口へ向かっていた。合格した嬉しさ、不合格だった悲しさ。ショックのあまり泣き出す少女。全部が全部くだらなかった。そんな受験者たちの群れに沿うように俺も出口へ向かっていた。

「ねえそこの君。」

 どこからともなくそんな声が聞こえる。誰を指して言っているのかもわからなかった。どうせ合格した誰かさんに向けた言葉だ。契約の話でもするのだろう。

「君だよ、そこの全部を諦めた目をした君。」

  その声とともに俺の肩に手がかかった。まさか全てを諦めているような目をしている人間が自分だとは思わなかったから少し驚いたが、同時にイラつきもした。誰が諦めてるだって?不合格だったやり場のない怒りも相まってこいつを殴ってやりたいと思った。どんな顔したやつが俺を知ったような口を聞くのか見てやろうと思って振り返った。

 そこに立っていたのはどこかで見たことがあるような人間だった。だが俺はその顔に対する既視感の正体がどうもわからない。

「君の歌、気に入ったよ。ねえ、俺と一緒にメジャー目指さない?」

「えーと、どちら様でしょうか...?」

「んーと、まあこのオーディション会場にいた人ってことでいいかな。」

「業界の方とかですか?」

「いや、そういうのじゃないよ。今は、ね。」

 なんだ。ただの一般人じゃないか。一言目で少し業界の人間なんじゃないかと期待した自分を呪いたくなった。それもなんだよ「今は」って。こいつやっぱ殴ってやろうかな。

「ねえどうかな?君には素質があると思うんだ。声にもハリがあるし、楽曲のオリジナリティももう少し磨けば輝くはずだ。」

「結構です。俺もう帰るので。失礼します。」

「あーねえそう言わずに!ちょっと話だけでもしていこうよ!俺君となら音楽について深く語れると思うんだ。少しだけ。ね?」

「しつこいです。失礼します。」

 背中の方で「あー」という声が聞こえる。なんだったんだ本当に。それにしてもあの顔どこで見たことあったんだっけ。さっき話しかけてきた青年が新たな記憶に刻まれてしまったせいで思い出しづらくなってしまった。きっとこれ以降俺があいつを思い出すこともこの既視感に関するモヤモヤも気にも止めず過ごしていく、はずだった。


 次の朝、バイトへ向かおうと歩いた公園のベンチに彼は座っていた。

「よお、少年。」

 ......なんでいるんだよ!咄嗟に俺は目を逸らし、その場を離れた。ストーカーか?いくらなんでもしつこい。というか俺の家がこの辺だってなんでわかった。昨日の帰りもこっそり俺の後をつけていたとか?そんな思考が頭をめぐる。男は昨日と同じような言葉を並べて俺についてくる。やれ音楽がどうとか、君の作曲センスがどうとか、歌声がどうとか、とにかくやかましい。

「あの!......ついてこないでもらっていいですか?しつこいです。」

そんな俺の声に彼の口角が上がる。

「じゃあ、また明日!」

 まるで返答になっていない。英語のリスニングの不正解の選択肢でもこんなへんてこな回答はないだろう。というか明日も来るのか。勘弁してくれ。そしてあいつどこの誰なんだよ。

 バイト中も俺の頭の中にあいつはいた。あいつが誰で、俺になんの用があって、何がしたいのか、何一つわかることはなかった。ただ一人で考えていても仕方がないこともわかっていた。だが、これが俺の悪い癖だ。一度考え始めるとその思考を止めることができない。思考は堂々巡りを繰り返す。生産性がないことも理解している。しかし、俺は妙にあいつが気になって仕方がなかった。もちろん、色恋の類ではなく気持ち悪さとして。そうこう考えていたら勤務時間が終了していた。フルタイムのはずなのに、数時間で終わったような感覚だ。今日は全く業務に集中できなかった。ミスなどはしていないからまあ許容だが。巡り巡って何周したかもわからない思考を未だに地球儀のように回す自分に後ろから声がかかる。店長だった。

「最近よく働いてくれてるからね、明日、休まない?この後もかなり連勤が続きそうだから、今のうちに休んだ方がいいと思うんだけど、どうかな?」

 自分がぼーっとしているように見えたのか、はたまた他意はなく、その言葉の通りの提案なのか、俺にはわからなかった。しかし、この提案のおかげで妙な考えが浮かんだ。そうだ。あいつに直接聞いてみればいいんだ。店長のありがたい提案に俺は肯定の返事をして帰路についた。

 また日は上り、同じ時間に公園へと向かう。昨日のようにあの青年はベンチに座っていた。やっぱりどこかで見たことがあるようでないような、不思議な感覚を呼び起こす。

「今日も来てくれたんだね。嬉しいよ。俺と話す気になってくれた?」

 男はさも嬉しそうにそう言う。その後ろにぶんぶんと振り回すしっぽが見えるような気さえする。そんなハイテンションの目の前の人間が逆に自分を冷静にさせた。声に冷たさを含めて俺は告げる。

「聞きたいことがあります。」

 何を言い出すんだろう、と興味深そうな顔でこちらを覗き込んでくる。あぁ、やっぱこいつ殴ろうかな。その一挙手一投足が癇に障る。

「へぇ、聞きたいことって?」

「あなたは誰で、俺になんの用があってこんなストーカーじみたことをしてるんですか?何が目的なんですか?」

「一つずつ答えようか。まずは俺が誰か。前にも言ったけど、俺はこの前のオーディションの会場にたまたまいた一人だよ。次に何の用があるのか。ストーカーってのは聞き捨てならないけど、僕は君に才能を見出した。率直に君がメジャーに行く手伝いがしたい。目的もこれに当たるかな。どう?これで満足?僕に手伝わせてくれる?」

 俺の質問に対して具体的に答えてきたから、もはや言い返す言葉もでなかった。しかし、わだかまりが一つだけある。

「この前のオーディション会場にいたってことは、あなたもメジャーや、それなりに音楽で生きていけることを望んでいるってことですよね?それなのに俺の手伝いなんかしていいんですか?俺に才能があると見込んで技術とかを盗む気ならお断りしますけど。」

「何か勘違いしているみたいだけど、俺がオーディション会場にいたのは自分が業界の人間に見出されるためじゃない。君を探していたんだよ。」

「は?」

 思わず声が漏れる。こいつが何を考えているのか余計にわからなくなってきた。

「あはは。君ってやっぱ面白いね。俺は君みたいな才能ある人間を探してたってことさ。君の話はなんとなく聞いていたんだよ。この前の大手レコード会社のオーディションを受けてたりだとか、前のクールでやってたあの深夜アニメの主題歌のオーディションを受けていたりとか。」

 全部なぜ知っているのか、気味が悪くなった。俺は話に回るほど大それたミュージシャンじゃない。全て最初の選考で落ちるような雑魚だ。どんなオーディションを受けても、俺の存在を認知しているのはこの男くらいしかいないだろう。

「ね、俺は君を信じてる。期待じゃない。信じてるんだ。君の歌声を、君の作るメロディを、君の綴る詩を、そして君という人間を。誰にも期待されないくらいがちょうどいい。まだ、叫べるんだろう?」

 その言葉に絆されそうな自分が悔しい。でもそう語る目に少しの曇りもないことに俺は気づいていた。こいつ以外の誰も俺を信じてくれないなら、いっそこいつを俺も信じてみてもいいのかもしれない。俺に足りない何かをこいつは知って、持って、そして俺にその正体を教えてくれる気がした。そんな根拠もない信頼が俺を突き動かした。あぁ、もう失敗してもどうにでもなれ。

「わかった。任せます。俺をメジャーに連れてってくれ。俺もあなたを信じてみます。」

 そうこなくっちゃ、と笑う顔はやはり癇に障る。なんだか波乱の予感しかしないが、その分楽しさもあるような気がして、心の中で双極的な感情がマーブル模様を描く。

「そうだ。もう一つだけ聞きたいことがあるんですけど。」

「なんだ?」

「......どこかで会ったことありますか?」

 少しの沈黙が流れる。気に止めなければ誰も気にならないような、隙間風が一瞬通り過ぎるだけの短い沈黙。それが俺には違和感でしかなかった。

「...いや、ないと思うけど。何?運命感じちゃった?」

 そう言う青年の顔は少しだけ笑顔が引き攣っているような気がした。

「いえ、ないならいいんです。どこかで見たような見てないような、そんな感じがしただけなので。」

「......どこかで、ね。」

「何か言いました?」

「いや、何も。連絡先でも交換しよっか!」

 そうして俺たちはお互いのチャットアプリのアカウントを交換して解散した。その五分後には既によろしくを伝えるスタンプと、「明日の夜空いてる?ご飯でも行こうよ」とメッセージが来ていた。「いいですよ。明日バイト終わるの二十時なんで二十一時に公園横のファミレスとかでどうですか?」と返して返事を待つ。了承の返事を見て、久々にできた友達のような存在が少しだけ嬉しくなった。メジャーにこの青年の力で行けるなんて馬鹿みたいな話だが、彼が俺にメジャーの可能性を信じた分、俺もその信頼に全力で答えたいと思った。





 その日から、俺と青年の音楽を介した交流が始まった。二人で音楽について語り合った。有名なアーティストの話、オーディションを受けにくる人の話、特徴的なサウンドや、バズる音楽の話。自分がどんな音楽が好きで、何を意識しているのか。そんな他愛のない話で、時を共にした。新しい友達ができた気がした。最初こそわけのわからないやつだと思ったが、案外話すと気が合った。あいつは俺の考えを否定しなかった。やりたいこと、目指したい場所、好きなこと、嫌いなこと、全てを聞き入れて、そういう人だと理解していた。否定しないというそのコミュニケーションが俺にとっては心地よかった。そしていつでも俺の音楽を応援してくれた。そしていつからか俺たちはタメ語で話すようになっていた。元々あいつはタメ口で話してきていたけど。

 ある日はスタジオを取って二人で弾き語りを披露しあったりした。自分が思う言葉を並べて音にのせて、たった十五分で作った曲を歌ったりした。セッションをしたり、俺たちは思うがままに音楽を奏でた。それをあいつは綺麗だと形容した。俺にとってはあいつの音の方が綺麗に聞こえた。隣の芝は青いのかもしれない。

 バイトの休みや合間を縫っては二人で飯を食べたり、スタジオで音楽をした。とにかく楽しかった。オーディションで落ちる絶望を繰り返していた日々が嘘かのようにただ楽しいという感情しか出てこなかった。オーディションなんてもうどうでも良くなっていた。こいつと楽しく音楽ができればもうメジャーなんか行かなくてもいいなんてそんな気持ちさえ芽生えていた。その反面、メジャーに行けば一番喜んでくれるのもこいつなんだろうと思った。そばにいるこの青年が俺に笑いかける顔しか浮かばなかった。だから、夢を諦めるなんて思考はすぐに打ち消された。そんなことをまた考えている最中、青年はある提案をしてきた。

「来月の第二日曜日って確かシフト入ってないよね?そこの駅で路上ライブしない?」

 心底楽しそうだと思った。俺もアーティストたるもの、人の注目を浴びることが好きだった。

「いいな!楽しそう!」

 気づいたら前のめりでそんな回答をしていた。自分につんのめってそう言う俺にあいつは一瞬驚いて、穏やかな笑顔でその回答を受け入れた。

 路上ライブに向けての準備は意外とやることが多かった。俺たち二人のオリジナル曲の制作、カバー曲を何にするか決めて、その練習。事務的なことだと行政への使用許可。いつもより少しだけ真剣に、俺たちは音楽に向き合った。時間なんてないはずなのに、それが苦じゃなかった。いつも一人でオーディションや本番に向き合う時は行き詰まったり、焦ったり、ストレスのたまることの方が多いが、今回はそう思うことなど一度もなかった。アイディアが詰まりそうになれば、いつでもあいつが新しい風を吹き込ませた。人と音楽を作ることがこんなにも楽しいことを自分は知らなかった。いつも自分の内面に向き合って、引きこもっていた。誰か、という存在が障壁になる気がしてならなかった。これもまた、あいつが俺に教えてくれたのかもしれない。

 路上ライブの当日になった。準備段階で俺らの演奏を待つ人など一人もいなかった。期待なんてされていない。誰もが自分の目指す場所へと足早に向かっていった。人はみんな生き急ぎすぎている。ライブを始める。誰も足なんか止めないくせに挨拶なんかしてみたりして、ちょっとだけプロを気取ってみた。演奏を始めると、ちらほらと足を止める人がいた。だけど最後まで演奏を聞いていく人は誰一人としていなかった。

「俺たちの音楽聞いて行かないなんて人生損だな。」

 青年が俺に小さくそう言う。その表情は俺と同じくらい楽しそうだった。

 誰も聞かなくても、誰に興味を持たれなくても、青年と音楽をしている時間だけがとにかく楽しかった。地球に存在するはずなのに、俺たちは俺たちだけの小さな世界を持っているようだった。

 ライブも終わり、また少し気取って挨拶をした。やはりそこに足を止める人なんていなかった。黙々と片付けをしている最中、ふと青年は口を開いた。

「お前、変わったよな。」

「何が。」

「楽しそうに音楽をするようになった。」

「だって楽しいもん。お前と音楽する時間。」

「あはは。そりゃ良かった。お前に足りなかったものはそれだよ。」

「どういうことだよ。」

「お前は音楽を楽しそうにしてなかった。苦しそうだった。それが音楽性に表れていたのも一つの魅力でもあったけど、それでもなんだか聞いているこっちまで苦しかった。壁打ちの音楽に聞こえてた。お前の音には命がなかった。」

 思い返せばずっと忘れていた。なぜ自分が音楽をしているのか。それはただメジャーを目指したいからじゃなかった。メジャーを目指したいと思った裏にもまた背景があった。その背景こそが音楽が好き、楽しいという感情だった。誰に見られなくても、誰に認められなくても、自分が奏でる音楽を愛していた。その瞬間聞こえる旋律がたまらなく愛おしかった。それを、俺は忘れていたんだ。音楽って楽しいんだ。音に楽しいと書いて音楽だ。こいつは俺に足りないものを教えてくれた。気づかせてくれた。こいつと音楽ができて良かった。信じた自分は間違ってなかった。

「ありがとな。」

 俺はそれだけ告げてまた黙って作業を続けた。 






 それから何度か、俺たちは路上ライブをした。次第に青年以外にも俺の音楽性を見出す人間が現れ始めた。いわゆるファンってやつだ。ライブを見る人も増え始めて、最初から最後まで見ていってくれる人も出てき始めた。俺は有頂天になっていたんだ。楽しいと人気は比例すると信じて止まなかった。だから、ネットの掲示板に増えていく高評価のコメントたちに鼻を高くしていた。だがそれは、好感を持つ人間だけでもなかった。そんな日々の中、俺は掲示板に黒い点を落とすように存在した批判のコメントを見つけた。「たいして上手くもないくせに」その言葉が胸に突き刺さった。その意見は何十分の一にすぎなかった。しかしそれが俺にとっては百パーセントのような錯覚を起こさせる。「上手くない」そんなことはわかっていた。ボイストレーニングにも通ってないし、ギターだって独学だし、生まれた時から才能があるわけでもない。自分でわかっているのと他人から言われるのでは訳が違った。

 それに加えて、直接的なアンチも生まれた。もう六、七回目になる路上ライブの日、俺たちの後にライブをするバンドがいた。撤去作業をしている時に聞こえた「ヘタクソ」という単語が耳を刺した。反抗したかった。しかしここで揉め事を起こしてはいけないとも思って俺は言い返すための暴言を飲み込んだ。負けたわけでもないのに負けた気がしてなんだか悔しかった。わかっていた。自分に才能がないことも、決して上手くもないことも。

 そんな事例と元来ネガティブ思考なのも相まって、俺は自分の音楽に自信を持てなくなっていった。俺にメジャーは無理だ。有名になんかなれない。俺は信じてくれる人間を裏切ることしかできない。そう考え始めたらそれしか頭の中を巡らない。ネガティブはネガティブを生み、悪循環が起こる。それでも、俺の心にあったのは絶望だけじゃなかった。胸の芯では微かに炎が燃えている。

諦めたくない。くじけてたまるか。努力のわからないお前らに何がわかる。本気の絶望を知っている俺の何がわかる。そうして人を傷つけることしかわからないやつに俺を語る器なんてない。見返してやる。今に見ておけ。

強気な言葉が自分の奥底で燻る。虚勢かもしれない。間違っているかもしれない。それでも俺は俺の心を信じてみたかった。こうしてアンチを送る奴らもみんな俺に期待しているからに違いない。こいつらの天邪鬼な期待も、青年からのまっすぐな期待も、誰からのどんな期待も全て応えてみたかった。俺は諦めない。絶対に見返してやる。そんな熱い気持ちが自分の中に芽生え始めていた。オーディションの結果に絶望したあの日々の俺とは違う。諦めなんて言葉を遠い昔に置いてきてしまったみたいに、俺の前には未来しか見えなかった。






俺たちの音楽を通した交流はそろそろ数ヶ月が経とうとしていた。今日もスタジオで、思い思いの音楽を奏でてみる。青年の音楽はいつもまっすぐで、明るくて、でも少しだけ暗さも含んでいて、感情の入りやすい音をしていた。俺も見習うべきところがたくさんあると思って躍起になった。

「ねえ、なんかあった?」

 休憩時間、青年は口を開く。何もない。それしか答えはなかった。

「何もないけど。」

「絶対嘘だ。」

「いや、嘘も何も、本当に何もないけど。」

「何もないのにそんなに音が荒れるとは思えないんだけど。」

 音が荒れる。自覚が全くなかった。いつもと変わらない音を奏でている気しかしなかった。そこにプラスして、あいつの音から取り入れたい要素を混ぜ込んで自分の音に消化しているつもりだった。

「音楽、楽しい?」

 胸の内で、ガラスの割れる音がした。また忘れてしまっていた。今、やっと見つけた音楽の楽しさをまた手放し始めていた。楽しいと思わなくなっていた。楽しさはまた焦りへと逆戻りしていた。上手くないなら上手くならなくちゃ。期待の声に応えなくちゃ。きっとそんな声だけが最近の俺を突き動かしていた。

「もう一回聞く。何かあった?」

 少しだけ正直に話してみようと思って口を開く。

「音楽の楽しさを忘れかけていた。お前が教えてくれたのにな。また忘れかけてたよ。だから面白くないのかな。俺の音楽。またつまらない音に戻ってたのかな。でも期待の声だけ高まっていくんだ。応援してるとか、俺たちの音楽が好きだとか。アンチしてる奴らも期待してるんだよな。上手くないとか、止めたら?とか。それって俺に伸びしろがあるからだよな?俺はそんな批判に負けたくない。そいつらの、お前の、期待に応えたい。そう思って焦ってたら、また音楽が楽しくなくなってた。義務になってたんだ。音楽をしたくてしているんじゃない。音楽をしなくちゃいけないって。期待には応えないといけない。応えられなければ、それは裏切りだ。でもそう考えれば考えるほど、俺は楽しさってものを見逃すんだ。どうしたらいいと思う?お前ならどうする?」

 矢継ぎ早にそう告げる俺の言葉を一つづつあいつは飲み込む。そして咀嚼を終えて俺の肩を掴んだ。

「まずは落ち着け。」

 いつもと変わらない声だった。

「まず一つ否定する。俺はお前に期待なんかしていない。」

 その否定は今までで一番大きく俺の胸をえぐった。否定なんてしてこなかったこいつが、オーディション会場にいた理由を話したあの時以来、否定をしてきた。でもこの否定はあの時とは違う。俺自身への、否定だ。期待されていなかった。こいつは俺に期待なんて最初からしていなかった。メジャー目指そうなんてのも嘘だったのか。今までのやり取りはなんだったんだ。

「俺はお前に期待していない。信じてるんだ。」

「......何が違うんだよ。」

「お前の才能を、お前の夢を、本当だと思っている。これが信じること。期待っていうのは、お前が勝手になんとかして上手くいくことを外から見つめて楽しむだけのことだ。俺はそんな無責任な感情なんかをお前に向けていない。俺はお前の言葉に、音楽に、お前自身の気持ちや将来への希望や過去への絶望の全てを見た。それを信じたいと願った。お前だって信じてるんだろ?自分の音楽や将来を。もし信じられなくなったら、俺のところに来い。何度だって信じてるって、自分を信じろって言ってやる。」

 俺は、信じられなくなっていた。人からの評価、批判、マイナス意見を全て鵜呑みにして、自分を否定した。側で信じてくれる人を達観して期待している人と勘違いしながら。あいつは俺を信じていたんだ。俺も信じるって決めていたのに。いつから俺はあいつさえも信じられなくなったんだろう。そう思うと申し訳なさでいっぱいになった。

「何度でも言う。俺はお前を信じている。音楽を楽しいと笑うお前を信じている。だから、ファンやアンチなんかに流されるな。お前はお前の夢と心と音楽だけを信じればいい。そして少しだけ、俺を信じてくれていればいい。」

 こいつの言葉に絆されてしまうのはこれで二回目だ。だけど今回は不思議といやな感じがしなかった。それはこいつが俺に大切なものを何度も教えてくれたからだろう。

「ありがとう。俺、夢を、音楽を、お前を、信じてみるよ。」






その日から、俺は音楽の楽しさを取り戻した。心に従った。期待やアンチに耳を傾けることを止めた。自分の好きにめいいっぱい向き合ってみた。やっぱり音楽は楽しかった。音楽をしている時は日常から離れられた。音楽のせいで嫌なこともたくさんあった。止めてしまいたいと願ったこともたくさんあった。でも今俺はそんな大嫌いで大好きな音楽ってやつに酔いしれている。音楽だけが俺を生かす。そして俺だけが俺の音楽を生かす。そんな相互作用によって俺の音楽は成り立っていた。そしてそれを誰よりも理解しているのが青年だった。路上ライブも繰り返し、スタジオで練習をしたり、時にはファミレスで音楽を語り合った俺たちも、そろそろ出会ってから半年が経とうとしていた。


 その日はあいつが珍しくスタジオ練習に遅刻してきた。

「ごめんごめん遅くなっちゃった。」

「珍しいじゃん。何かあった?」

 そう聞いて欲しかったかのように彼の顔には高揚の色が見えた。

「じゃじゃーん!実はこの資料をもらいに行ってたんだ!」

 そう言う彼の手中にあったのは全国的にも有名な公開オーディションの募集案内だった。

「出てみない?これ。メジャーにも直結するらしいし。このオーディション知ってると思うけど大手レコード会社の人たちが審査員だからかなり売名効果はあると思うんだけど。」

 その提案に俺はすぐ答えを出すことができず、口ごもってしまった。どれだけ自分の音楽を信じられるようになったとは言え、そんな有名なオーディションで合格すると思うほどの自信はなかった。

「俺はさ、お前がこのオーディションで受かっても落ちてもいいんだ。ここで上手くいかなきゃいけないなんてことは一つもない。ただ、いろんな人にお前を知ってほしいんだよ。お前の努力を、楽しそうに音楽している姿を。お前自身がもっとその姿を信じられるようにしたいだけなんだよ。結果なんてその時次第だ。その楽しさや努力が伝われば、結果だって付随してくる。」

 信じてみたくなった。俺がどこまで行けるのか。久しぶりのオーディションを受けてみたくなってきた。オーディションを受けたいなんて思うのは初めてだった。俺の音楽って楽しいって感情を誰かに伝えたいと思った。

「やりたい。出たい、そのオーディション。だからそれまで、もっと音楽を楽しんでみたい。俺は俺をもっと信じてみたい。音楽が楽しいことを多くの人に伝えたい。」

 そんな俺の言葉をあいつはまた快く受け入れた。


 その日から、いつもより多くの時間と労力を音楽に費やした。オーディションに挑むのに、自然と苦痛なんて感じなかった。むしろどんどん音楽が楽しくなっていった。やってやる。やってみたい。そんな感情が自分の中で満ちていった。ライバルなんかどうでもよかった。今までオーディションは誰かと競うものだと思っていた。勝者と敗者がそこには存在して、勝者だけが正義で、敗者は間違いだと思い込んできた。でも今はそう思わない。勝者も敗者も、等しく自分に向き合うのがオーディションだ。自分の音楽をもっと深掘りして探すのがオーディションで、それまでの期間だ。俺は自分の音楽に新しいエッセンスがどんどん加わっていくのが楽しかった。俺を形容するこの音という存在に大きな愛着を持った。アイディアが絶えず湧き出てきてわくわくが止まらなかった。

 歌って、弾いて、作って、それを繰り返しているうちに、俺は自分の音楽を信じ切っていた。誰にも干渉されない俺となった。誰がこの音楽に反対意見を述べようと、俺はこの音を綺麗だと言い切ることができる。あの日、俺の音楽を綺麗だと言ったあいつみたいに。あいつが言うように、このオーディションに受かっても落ちてもよくなっていた。それだけ自分の音楽を信じていた。俺の音楽を受け止めきれない方がセンスがないとさえ思うほど、自分の音楽を好きになれた。誰にどんな評価をされようが、これが俺だった。





オーディションの当日になった。その日の朝は太陽がやけに眩しく見えた。俺と青年はオーディション会場の入り口で待ち合わせる。

「おはよう。」

「おはよう...今日だな。うわあああ緊張する!」

「なんでお前が緊張してるんだよ。」

 目の前にいる青年は俺より楽しそうにしていた。オーディション会場に誰かといるのは初めてだから少し変な感じがした。だけど、俺を信じて応援してくれる人がすぐそこにいることが、俺にとっては大きな励みになっていた。

「今までさ、お前は自分に擦り切れるほど向き合ってきた。大切なものを知って挫折を知った。そしてお前は最強の武器を手に入れた。楽しさと自信だ。この二つは誰にも負けない。だから、いつまでもこの二つだけは忘れないでくれ。そして俺はお前の今までとこれからと今を信じている。信じることとーーー」

「信じることと期待することは違う、だろ?あと誰にも期待されないくらいがちょうどいい。」

「わかってんじゃん。」

その言葉を皮切りに、二人には笑いがあふれた。なんだか上手くいくような気がした。上手くいかなくてもよかった。結果より楽しいと思える一瞬が全てだとわかった。誰の期待の目だってどうでもよかった。信じて待ってくれるこいつと俺にとって最善である未来が訪れるように願った。誰も俺の結果なんて期待していない。それでよかった。

「お前はお前だけを信じろ。全力でかましてこい。」

 そしてグータッチをして俺は会場へと入った。どの面々も緊張と顔に書いてあるかのように空気はピリついていた。楽しさを秘めている俺が逆に変な人みたいになっている。それでもわくわくしてどうしようもなかった。まだ失敗を知らなかったあの日みたいに高揚感に包まれていた。でも俺は失敗を知っている。絶望だって何度も味わった。だからこそ、この場所で楽しむ方法だって身につけた。絶望の先にある光は、何もわからずに見る光よりも眩しくて綺麗だった。

 オーディションが始まる。愉快な音楽とともに審査員の紹介がされる。審査が始まり、前の人たちは皆一呼吸して舞台に上がっていった。とうとう自分が次の番になる。なぜか緊張なんてものはなかった。音楽って楽しい。それが伝わればよかった。俺は俺であるために音楽をする。だから、見ている観客たちに、審査員たちに、俺という人間を知ってもらえれば、それで満足だ。

「エントリーナンバー十六番の方、ありがとうございました。続いて、エントリーナンバー十七番の方、お願いします。」

 俺の番だ。そのセリフを聞き、見切り線を超える。俺という人間を、音楽を、皆期待の眼差しで見つめてくる。期待なんてどうでもいい。俺は俺の音楽を信じるだけ。楽しくてアツくて気持ちいい、そんな音と生きるだけ。そんな等身大の俺を受け止めてくれ。期待なんかするな。

「エントリーナンバー十七番、聞いてください。『プライド』」

 俺は音楽の楽しさを、音楽で伝えてみせる。





壇上で歌うあいつは輝いていた。どの受験者よりも圧倒的に輝きを放っていた。俺は知っていた。このオーディションでこいつはメジャーに行く。その楽しそうな姿は審査員に見出されて、大手の事務所に所属することになる。それが今俺の所属しているレコード会社だ。後から聞いた話だが、俺、というかこいつはこのオーディションで結構事務所同士の取り合いになっていたらしい。さすが過去の俺だよ。

 俺も過去に助けられたんだ。未来から来た自分に。俺はそいつと同じようになれたかな。あいつにとって、人生における大切な何かを教えられただろうか。音楽の楽しさを伝えられただろうか。いや、この質問は無粋だな。あいつのステージで歌う表情を見れば一発でわかる。あいつもいつか、過去の自分に楽しさや信じることを伝えに行くんだろうな。きっとあいつなら大丈夫。メジャーでだって上手くやれるし、過去のあいつにもその熱を上手く伝えられるはずだ。

 あいつの心にあった不安感や絶望はもう見えない。俺は責務を果たしたみたいだ。じゃあな、相棒。自分を信じるんだぞ。期待なんて気にするな。

 さて、未来に帰るとするか。俺も信じることを続けるよ。ありがとな。

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