言葉の重み

 その日、世界はほんの少しだけ狂った。


 最初に異変を感じたのは、コンビニのバイトを終えた帰り道だった。歩き慣れた夜道、スマホを片手にぼんやりとSNSを眺めながら、ふと「疲れた」と呟いた。すると、途端に身体が鉛のように重くなった。


 「な……?」


 一歩踏み出すのに、普段の倍以上の力が必要だった。足を持ち上げるだけで息が切れる。まるで急に重力が増したみたいだった。驚いて立ち止まると、隣を歩いていた同じバイト仲間の健司が訝しげに俺を見た。


 「どうした?」


 「今、『疲れた』って言ったら……本当に体が重くなったんだ」


 健司は「は?」と眉をひそめたが、おもむろに「じゃあ、俺も試してみる」と言い、「疲れた!」と大声で言った。


 途端に彼の足が地面に沈み込んだ。


 「うおっ!?」


 膝から崩れ落ち、地面に手をついた健司は、青ざめた顔で俺を見た。俺は震える手でスマホを開き、すぐにTwitterをチェックした。そして、あるハッシュタグがトレンド入りしているのを見つけた。


 #言葉の重み


 「おい、健司……」


 俺はツイートをいくつか読み上げた。


 ――『ミーティングで「責任が重い」と言ったら、本当に肩が上がらなくなった』

 ――『「心が折れた」と呟いたら、胸が激痛で動けなくなった』

 ――『「吹っ飛ぶほど驚いた」と言ったら、椅子ごと壁に激突した』


 健司と俺は顔を見合わせた。


 「マジかよ……」


 どうやら俺たちだけじゃなく、世界中の人間が同じ現象に遭遇しているらしい。


 翌朝、街は異様な静けさに包まれていた。


 みんな、自分の言葉を慎重に選ぶようになったのだろう。誰も無駄口を叩かず、聞こえてくるのは最低限の会話だけだった。


 学校でも、教師は「静かにしなさい」と言う代わりに、ホワイトボードに「静かに」と書いていた。クラスメイトたちはお互いの言葉を恐れ、囁き声すら聞こえない。そんな中、いつも元気な里奈がふとした拍子に「静かすぎて息が詰まりそう」と言った。


 次の瞬間、彼女の顔は喉を押さえて苦しみ始めた。


 「里奈!」


 俺はとっさに彼女の背中を叩いたが、彼女は息を詰まらせたまま苦悶の表情を浮かべていた。健司が急いで保健室へ駆け出す。その間、俺は里奈の肩を掴み、必死に呼びかけた。


 「大丈夫だ! お前は死なない!」


 その瞬間、彼女の表情が緩み、苦しみが和らいでいくのがわかった。


 「はぁ……っ……助かった……」


 里奈は荒い息をつきながら、俺を見上げた。


 どうやら、「言葉の影響」は否定する言葉によって打ち消せるらしい。


 それからというもの、世界は新たな言葉のルールを覚え始めた。


 ネガティブな言葉を慎重に避ける者もいれば、逆にポジティブな言葉を利用して「成功する」「幸せになる」といった発言を繰り返す者もいた。


 しかし、全てが順調にいくわけではなかった。どこかのビルで「もう耐えられない」と呟いた男が崩れ落ち、心肺停止状態になったというニュースが流れた。逆に、詐欺まがいの自己啓発セミナーが横行し、「あなたは成功する」と言われるたびに実際に金をばら撒く人間が現れた。


 俺たちは、言葉が持つ本当の重みを知った。


 翌日、世界は元に戻っていた。

 昨日の様にポジティブな言葉を口にしても、変化を感じなくなっていたのだ。

 人々は恐る恐るだが再び普通に会話をし始めていた。


 学校の帰り道、健司がぽつりと呟いた。


 「なあ、これがずっと続いてたら、世界はどうなってたんだろうな?」


 俺は少し考え、笑いながら答えた。


 「さぁな。でも、間違いなくネガティブな言葉は廃れただろうな。」


 健司も笑った。


 「確かに」


 俺たちは、元の世界に戻ったばかりの帰り道を歩きだした。


 もう一度、「言葉の重み」を噛みしめながら。


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