第15話
キュキュッ!
ダダダンッ!
自分たち以外、無人となっている昼休みの体育館。Aフロアのハーフコートで、トウマと
両者、むき出しにした長い手足を自在に動かしては、ボールを奪い合っては攻守を入れ換える。
無心でボールを追う時、目の前の相手がどこを、何を狙っているのかを考えることだけに没入するその瞬間、トウマの世界は、ただ純粋な、それだけのものになる。
無駄の削ぎ落された、純粋なスポーツの時間。その時だけは、父のことも母のことも、周りから向けられてきた視線の何もかも全部をおいて走ることができた。その時間にだけ、トウマ個人は生きていた。
トウマが飛ぶ。高く伸ばされた右腕の先端で、手首から先が白百合の蕾のように折れてしなる。放物線を描いたボールが、ざすっ! とネットをすり抜けた。
「は――! こんなもんか」
額の汗をぬぐってから、真理はていんていんとフロアで跳ねるボールを掴み、終了の意思を告げた。コートを出ると真理は壁際に向かい、ずるりと背中を預けて座り込んだ。シャツの裾を引っ張り上げ、ヘソが出るのも構わず、それで外した眼鏡のレンズをぞんざいに拭う。近くに置いてあったペットボトルの水を一口飲むと、同じく隣に座りこんだトウマへそれをよこした。
ためらうことなく、それを受け取って喉を鳴らすトウマは、セーラーを脱ぎ捨てた黒Tシャツ姿だ。肩までまくり上げられた袖の下から伸びる両の腕は、過不足のない筋肉に覆われている。右膝を傷めたために部活は引退したが、鍛えるのをやめたわけではない。
「せんきゅ」
半分まで干したボトルを真理に返すと、トウマは両腕を上に向けて伸ばし「ううん」と背伸びした。
『しかし驚いた。君達これだけプレイできたんだね』
中空からふってきた声に、トウマと真理は同時に顔を上げた。そこには中空で腕組みのうえ、さらに何かに腰かけるがごとく脚を組む
「そうなのよ星さん。オレらけっこーイケてるっしょ?」
サムズアップして「うぇーい」と笑う真理に、『すごいすごい』と星は頷き笑う。
それから真理は、自分が小学校でミニバスをはじめたころからの華々しい実績を説明し出し、星は星で存外真剣に質問をはさみつつ、真理のバスケットヒストリーを聞きだしてゆく。そんな二人の、たわいもないやり取りを横目に、トウマは壁をずり落ちるようにして、フロアの上に横身で横たわった。
目を閉じ、昨日のことを思い出しつつ、トウマは「はああ」と溜息を吐く。
昨日、メグリと経験した(思いだすと脳内でサンバがはじまる、あれこれを含め)超常現象的なできごとと、説明された彼女のバックボーンについて、トウマは真理に話さずにいた。いや、話せずにいた。
現行政府どころの話ではない、トウマにとっては最早歴史上の出来事である、戦争の時代に、人知れず取り交わされた神と氏子と国との契約。その余波が現代に呪いとなって残っており、それを取り除くのが
真理と楽し気に語らう星の、薄っすらと透けた横顔を見つめる。
メグリの母親の妹であるのだから、彼女もまた、その業というものを背負っていたのだろう。実際、星はメグリと同じように、あの
その横顔に、くすぐったそうに伏せた目許に、頬に掛かった艶やかな黒髪に、そしてそれを耳に掛ける指先に――
いったい、どれ程の傷と苦しみを負ったのだろう。
聞かなくとも、トウマにだってわかった。
二十九歳での死亡。
その不自然なほどの早逝と、彼女らが語ったことが無関係であるなどとは、いくら能天気なトウマでも思わない。
一晩経って、やや落ち着きはしたが、それでもなお、どこか体の内側が冷えているように感じられてならない。
フロアの上に横たわったまま、トウマはさっき嚥下した水が、実際以上に冷たく感じられたことを思い、唇をきゅっと曲げた。目の前に投げ出し、手のひらを天井に向けている自分の右手を握り、そして開く。握り、また開く。
そうだ。メグリが自分にしたのはキスじゃない。あれは人命救助だ。
トウマの中に入りこんだ、命を奪いかねない呪いを吸い上げようとして、そしてできなくて、セーラーの襟元を開いた。
握りしめた右手の拳で、Tシャツの下に隠れている喉元に触れた。そこには、メグリが琥珀柘榴を吸いだすためにつけたキスマーク……鬱血がある。
溜息を吐いて、トウマはぼんやりとあたりに視線を投げた。
体育館の中には、午後の陽光が差しこんでいる。まっすぐな、春の光だ。
その光が実直で強く明るいものであればあるほど、それが注がれていない場所では、取り残された影が黒さを増す。何かにスポットライトが当たり注目されていれば、逆に見えなくなってしまう何かが、裏側に存在しているということだ。自分達が光当たるものに視線を向けているその時、注目されなかった何かが、影からこちらを見ているのかも知れないということを、多くの人間は見落としたままで生きている。そしてそれは、トウマ自身もそうなのだ。
どれだけ真剣に目を凝らして世界を見ようとしたところで、全てのこと、全てのものを見ることはできない。俗に一番星と呼ばれる宵の明星は、またたくまに地平の彼方へと沈んで見えないものとなる。
それはまるで、星のこと、そのもののように思われた。
そうだ。今はたまたまトウマに〈座〉とやらがスライドしてしまったから、星はこうして傍にいてくれているが、本来それはメグリの受けるべき立場なのだ。しかも、どうやらこの星の移動のせいで、メグリはあの琥珀柘榴がよく見えない状態になっており、結果、祓いという仕事が困難になってしまっている。そう、これは正しい状態ではないのだ。
いや、そもそも星はすでに亡くなっているのだから、見えているこの瞬間こそが宵の明星的なものなのであって、本当は彼女は、瞬く間に地平の彼方へ消えてしまう、いや消えるべき存在で――
そこまで考えて、その思考にトウマはざわりと震えた。
嫌だ。この人がいなくなるなんて、考えられない。考えたくない。そんなのは――そんなことは――
その時だった。
「ああそうそう、トウマ、お前こんな噂知ってるか?」
急に真理から名を呼ばれ、慌ててトウマは身を起こした。
「なに? すまん、寝てたわ」
「お前、よくこんな硬いとこで寝れんね?」
呆れたように目を細める真理の横で、星が『噂って?』と小首を傾げる。
「いやね、最近中等部の、特に女子部のほうで呪いの絵ってのが流行ってるらしくて」
「『呪いの絵?』」
トウマと星が声をそろえると、「そう」と真理は頷いた。
「イラストっていうんじゃなくてさ、人物画っぽいんだけど、それこそ昔の絵っつーか呪符っぽいっつーか」
「うげ、なんだそれ」
「とにかく、あるんだよ。でな、それには二種類あるらしくって、それが丁度左右対称に反転した絵になってるらしいんだ」
『ふむ……それで?』
星に促された真理は、こう続けた。
「つまり、正しい向きの絵と、そうじゃない、反対向きのがあるってこと」
『そうか、正の面と負の面があるということか』
顎に手をやり考え込んだ星の目が、ふっと陰りを増す。
『山本くん。君、それ二種の絵って言ったけれど、もしかして、左右対称の絵が、色んな種類あるって意味だったりしないかい?』
「あっ、そうですそれです! オレ説明下手ですんません。そう、あの、あれです。トランプの神経衰弱みたいに、ペアになるカードがたくさんあって、それが下駄箱の中とか鞄のなかとか、机のなかとかに一枚だけ突然入れられてるんですよ」
『――そして、それと対になる絵が、別の誰かの元にも同時期に送られている、ということじゃないかね?』
「ビンゴです!」
『山本くん。そのペアカードを送られた子たちの、関係性や、共通点は、もう見えてきているのかい?』
「いえ、それはまだ……流行ってるのは確かなんですが、どうも持ち主たち、皆、自分がもってる呪いの絵を隠してるみたいで……」
『ううん……それだと、まだちょっとわからないな』
考え込んだ二人を後目に、トウマは立ち上がった。
「どした? トウマ」
「ちっと便所行ってくるわ」
「うんこか?」
「うんこだ」
『一緒についていこうか?』
「星さんマジでやめてください。体育館の使うんで、それくらいなら離れてられるでしょうが」
*
予定より早く来た月の物の対処を済ませて、トウマはトイレのレバーを蹴った。薄い頭痛が両の眉頭のあたりにある。
もう、さっぱり訳が分からない。
神様に呪われた美少女に、その守護霊に、今度は呪いの絵の神経衰弱ときた。ここはハーレムパラダイスの白玉女学園だったはずだ。一体いつからオカルト共学学園になってしまったんだ。
はああ、と盛大な溜息を零した、次の瞬間だった。
がさばさっ。
俯いていたトウマの頭に、何かがぶつかった。
ぼとぼとがさっ、と、床タイルの上に、複数の何かが落ちる。
それは、黒かった。
てかる黒い、ビニール袋だった。
そして、それらの中から、茶黒や赤に汚れた生理用品が零れ出ている。
トウマの全身から血の気が引いた。
トイレの汚物入れの中身が、袋ごと上から投げ入れられたのだ。
ふふふふふ。
くくくくく。
勘違いキモブス。
いい気になってんじゃねぇよ。
きったねぇ。
何が王子だ。頭んなか、虫湧いてんじゃないの?
――レズの男漁り。
うふふふふふ。
あはははははははははははははははは。
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