第14話


 メグリと別れて、第三寮・すみれの二階自室に戻った十八時。


 扉を閉めたトウマは盛大な溜息を吐くと、ベッドの上にダイブした。スプリングがきいているわけではないそれに顔面から落ちるのは、ひたすら硬くて痛いだけだ。それでも、そうしたい気分だった。


『お疲れさま。ありがとうね』


 布団に顔を伏せたままのトウマの背後から、そんな星の声がする。トウマは顔を上げることなく、「いいええええええ」と間延びした声を返した。


「星さん」

『なんだい、清末くん』

「なにあれ。聞いてた話となんかこう、根本的にちがーう」


 しわがれた声での苦情に、星は『あははは』と笑った。


『ごめんね。内容が内容だから、どの段階で伝えるか、迷っちゃって』

「いや、ああいうことは先に教えといてくださいよ。あんな規模の大きい話だなんて思わないじゃないですか。なんですか、国家規模の呪いって!」

『ごめんねぇ』


 ぽん、とやさしい何かが、トウマの後頭部に触れた。それが星の手で、ゆっくりと髪を撫でてくれていることも感触から察することができていて、トウマは「うう」とよけいに顔を布団へ押し付ける羽目になった。


「星さんずるい」

『え、何か言った?』

「いいえ、なんにも!」


 しばらく無言でいてから、ぽつりと「星さんも」と零した。


「星さんも、ああいうことをしてたんですか? お祓いみたいな」

『うん。それが白家しらいえごうだからね』

「業?」

『家系というものには、先祖の背負ったものが引き継がれるものなんだ。命という祝いを貰えば、責務という呪いもついてくる。まあそういうのは、本質的には、どこのご家庭にもあるものなんだよ。規模の大小はあれどね』

「親から子に、ってことですか」

『そういうこと』


 頭を撫でていた手が、そっと下る。首を超えて、肩甲骨のあたりへ。そっと、ぽん、ぽん、と優しく触れる手があたたかくて、そこに存在していないはずなのに、ぬくもりに溢れているようで、トウマは泣きたくなった。

 胸の底の、ずっと閉ざしていた蓋が開く。


「――アタシね、父子家庭育ちなんですよ」


 トウマはわずかに首を横に向けた。ベッドのふちに腰かけた星が、じっとトウマを見下ろしている。

 トウマはその時、はじめてまっすぐに星の瞳を見た。黒目勝ちで、夜の湖に映る星々のような、キラキラとしたその目に、はじめて見た時から、どこかずっと惹かれていた。そして、その理由に気付いた。


 似ていたのだ。

 母の、それに。


「母親は、アタシがまだ小さいうちに、男作って出て行きました。うっすらとだけど、覚えてます」


 身体をおこすと、トウマはベッドの上で胡坐をかいた。星がじっとトウマを見ている。その視線が、なぜだか痛くて、視線を外し、俯いた。


「確かに、キレイな人でしたよ。キレイっていうか、かわいいって感じだったかな。長時間ドレッサーに向かって、すごく念入りに化粧してた背中を、特に覚えてる」


 胡坐の間に落とした自分の手を、にぎっては開き、そしてまた握る。ぐっと強く。


「でもあの人も、母親であることを、完全に投げ出してたワケじゃなかったと思います。傍にいるあいだは、ちゃんと愛情もって育てられてたのも、なんとなく覚えてる。でも、人間であることを、女であることを捨てられなかったんでしょうね。そこに固執して、他の全部、あたしや親父や、家族ってものを全部捨ててしまえるくらいに、何も考えられなくなるくらいに――孤立して苦しんでたんだと思います」

『そっか』


 星が、ふっと小さく息を吐いた音が聞こえた。


『君がそう言えるってことは、もしかして、清末くんのお父さんは、君にお母さんのことを、あんまり悪くは言わなかったんじゃないかな?』

「そうです」


 目元に、じわりと熱いものが湧きかける。


「そうです。親父も、オレも悪かったんだって言ってました。仕事で忙しくて、母親のこともアタシのことも、家のことも全部何にもできてなかったって。転勤であちこち連れ回して、当然母親の仕事も辞めさせてしまったからって」

『ああ……』

「結局そうして離婚して、祖父母もまったく当てにならないからっていうので、親父、仕事セーブして、全部一人でやってくれたんです。だから、親父のことも怨んではないです。海外転勤も、アタシが受けてくれって言ったんですよ。これ以上親父の足手まといになりたくなかったし」

『だから、全寮制の学校を選んだんだね』

「はい」


 薄暗くなった部屋に、とろりとした夕日の橙色が満ちている。


 暖色の空気に包まれて、星と二人、ベッドの上に並んで。どうして自分がこんな述懐をはじめてしまったのか、今さらながらに戸惑うけれど、トウマは、どうしても星に聞いて欲しかった。


 星の手が、そっとトウマの肩を抱いた。ゆっくりと抱き寄せられるのに任せて、その肩に頭をあずけた。

 ほろりと一つ、頬を雫がくだった。


『――うん。そうだね。人間であることと、母親の役割を果たすことは、実は両立できるはずなんだけど、それって分量に限界があるんだよね』

「そう、ですね」

『今はとくに核家族化してるじゃない? 君のとこみたいな状況でさ、たった一人で、母親という責任を果たすことって、想像以上に負担が大きいことだったんだと思うよ。あたしだって、もうだいぶ大きくなってたけど、メグリの世話を一手に引き受けるのは、きつかったもん』


 耳のそばにある星の喉元がふるえて、『それで、不貞をはたらいてもいいかっていうと、それはまた別の話ではあるんだけどね』と続けた。


『人間は、一つの側面やロールだけの存在として扱われるようになると、壊れるんだよ。そうして、いっぱいいっぱいになってさ、人間であること、女であることをセーブするなんてレベルじゃなくて、完全に捨てさせられるまでになるとさ、もう話が違ってくるんだよ。仕事をセーブしようと思えばできたお父さんなんだもの。お母さんの何かを、あえて目をつぶって犠牲にしていた自覚はあったんだろうし、もしかしたら後から気付いて、だから君にお母さんのことを悪く言わなかったのかも知れない』


 星が言葉を発するたびに、トウマの肌が震える。心地よい温もりと、胸が締め付けられるような切なさで、トウマはぎゅっと目を閉じた。


 瞼の奥に浮かび上がってくる、母の瞳と星の瞳が重なる。もう、どちらがどちらのものなのか、見分けがつかない。


「――でもね、やっぱり、母親のことを思いだすと、辛いです。あの女の顔をしている母のことを思いだすたびに、それが自分の中にもあるものなんだと思うと、気持ち悪くてたまらない。自分の中にある女の部分を、自分が体現することを思うと、不快でしかたなくなる。忌避意識でいっぱいになるんです」


 手を伸ばした。

 ぎゅっと、星のシャツの裾をにぎる。


「それで、きっとあたしは、こんなふうなんです。女でありたくないから、王子みたいにふるまおうとしてきた。それでも、母親を求めてしまう気持ちを諦めきれてなくて、そういうことの両方の、なれの果てなんですよ。みっともない」

『そんなことはない』


 ぎゅっと、もう一方の手が回されて、トウマは星の両腕の中に抱きしめられた。


『そんなことは、ないんだよ』

「うう……」

『君は、君のままで十分にかわいいし、かっこいいところもある、素敵な人だ。自信をもって、何より、君自身の実直さを、認めて信じてやりなさい』


 星の言葉と、ぬくもりが、夕日と共に、トウマの心を包み、解かしていった。


   *


 美術室の片隅にて。

 部活動の時間。メグリが黙々と絵を描いていると、教室の片隅で先輩たちが話しているのが聞こえてきた。


「ほんと、あの清末ってやつ、ムカツクよね。昔からプリンスってなにって、みんなに笑われてたの、気付いてもないんだよ、バカみたいに」

「ほんとだよ、サバサバ女のふりしてさ、山本くんにべったりして。結局近くによるために、自分は他の女子とはちょっと違うからー、男みたいなもんだからーってやってんだよ。ダサいよね」

「うん。汚いよね」

「ああいう女って、ほんと最悪だよね」

「手口が見え見えなんだよ」

「ほんと、山本くんも、早く気付かないかな」


 ちらりと、少女達の背中へメグリは視線を送る。



 どろりと、透明な黄金色の影が、彼女等の全身から、燻った。

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