前に進むしかない
弥生紗和
前に進むしかない
ふと後ろを振り返ってみたくなる。そんなことは別に珍しくもない。
おれはその時、つい後ろを振り返ってしまったんだ。特に理由があったわけじゃない。自分の部屋の中にいて、ふと後ろを振り返った、それだけだ。
こうなると分かっていたら、おれは絶対に後ろを振り返らなかった。
「うわあっ!」
思わず声を上げてしまった。なぜならそこには、いるはずのないものがいたからだ。
小さなワンルームの部屋に、奇妙な形の人間がいたんだ。いや、人間じゃない。人間がこんな姿をしているはずがない。全身が炭のように真っ黒で、顔が異様に大きくて、口が裂けたように横に開いていて、服を着ていない。
その黒いヤツはニヤニヤしながらおれをじっと見ていた。目玉のところがぽっかりと空いていたけど、おれを見ているのははっきりと分かった。
おれはすぐに部屋から逃げ出した。ゴム製のサンダルを引っ掛けて、慌てていたから鍵も持たなかった。アパートの階段を駆け下りて、敷地の外に出たところで恐る恐る振り返った。
黒いヤツは、おれのすぐ後ろにいた。さっきと同じニヤニヤした顔で、じっとおれを見ていたんだ。
おれはヤツから離れようと駆け出した。走りながら後ろを見ると、真っ黒なヤツがおれと同じ速さで追いかけて来るじゃないか。
どうしておれを追ってくるんだ? それにすれ違う人々は、真っ黒なヤツを見ているはずなのに全く無反応だ。
そうか、これは夢なんだ。おれは走るのをやめて息を整えた。腰に手を当て、地面を見ながら深呼吸をした後、顔をあげたおれは呆然としてしまった。
そこはおれが知っている町じゃなかった。なんとなく見覚えはあるような気はするが、ここがどこなのか分からない。おれはこの町に何年も住んでいるんだ、間違えるはずがない。
嫌な予感がして振り返ると、そこにはやっぱり黒いヤツがいた。ニヤニヤと嫌な笑顔を浮かべ、おれより少し後ろに立っていた。そいつは笑うだけで、それ以上おれに近づいてこない。
やっぱり夢なのかと思い、おれは自分の頬を叩いた。痛いしちょっとクラクラする。おかしい、これは現実なのか。
おれは前を向いて歩き始めた。少し歩いて振り返ると、黒いヤツがまるでおれの影のように着いてきていた。
やがて大きな道に出た。そこは沢山車が走っていて、広い歩道があった。店のようなものは殆どなく、道の両側はひたすら森が広がっている。おれが住んでいる家からは、十分も歩けば最寄り駅に着くはずなのに、駅らしいものは見当たらない。
途中で何度か振り返るが、やっぱり黒いヤツは着いてきていた。とにかくどこか、人の多いところへ行きたい。しばらく歩くと道の反対側に建物が徐々に増えてきたので、おれは道を渡ろうと近くの歩道橋に向かった。
歩道橋は錆びていてボロボロだったが、おれは構わずに歩道橋を渡った。真下を通り抜ける車の振動で、歩道橋はぐらぐらと揺れた。振り返るとやっぱり黒いヤツはそこにいた。
「お前はなんなんだよ」
おれはそいつに思い切って話しかけてみた。だがそいつは何も答えなかった。
賑やかな通りに入ったが、黒いヤツはまだ着いてきていた。すれ違う人々は相変わらず無反応だ。ヤツはおれにしか見えていないのかもしれない。
おれは近くの商業ビルに入った。やけに天井が低くて、営業中のはずなのになんだか薄暗かった。買い物をしたかったわけじゃない。おれの目的地はトイレだ。
おれはトイレに入ると個室に急いで、入ると鍵をすぐに閉めた。閉める時に個室の中に黒いヤツがいないことは確認したし、鍵もしっかりと閉めた。これでようやく一人になれるとため息をつき、振り返ったおれは思わず悲鳴を上げてしまった。
トイレの個室に、ぎゅうぎゅうに押し込められたように、からだを縮めている真っ黒なそいつがいたんだ。おれの目の前に大きな顔があり、空洞になった眼窩が二つ、おれをじっと見つめていた。
おれは震える手で個室の鍵をなんとか開け、転がるように外に出た。トイレにいた他の男は、おれのことを変な奴を見るような目で見ていた。おれだって好きでこんなことをしているわけじゃない。さっきから黒いヤツに追いかけられているんだ。逃げていたらいつの間にか、知らない町にいたんだ。おれはどうやったらこいつから逃げきれる? どうやったら元の町に帰れる?
おれはビルから出て、再び走り出した。走りながら後ろを見ると、黒いヤツはニヤニヤした顔ですれ違う人を器用に避けながら、俺を追って来ていた。
どこか、あいつが追ってこられないところはないか。おれは辺りを見回しながら走った。気づいたらおれはアーケード街の中に入っていた。店は殆ど閉まっていて、人はあまりいなかった。
どこでもいい、あいつから逃げられる場所を、早く探さないと──
アーケード街を走っていたおれは、古い建物と建物の間に細い抜け道を見つけた。そこは人一人がやっと通れるくらいの狭さだったが、向こう側に抜けられそうだった。
おれは迷わずその抜け道に入った。どんどん奥へ行くと、なんだか道が更に狭くなったような気がした。後ろを振り返ってみると、黒いヤツは抜け道の入り口に立ったまま、こちらをじっと見ていた。
「はは、ここには入ってこれないのか」
このまま向こう側まで行けば、あいつを振り切れるかもしれない。希望が出てきたおれは、更に奥へ奥へと進んだ。
道は更に狭くなっていく。次第に建物の壁が俺の肩に当たるまでの狭さになった。
おれはその時点で後ろを振り返ろうとしたが、身動きが取れなくなって、後ろを見ることができなくなっていた。
「やった、あいつが見えなくなったぞ」
おれはホッとして、思わず笑った。後ろを振り返らなければ、あいつを見なくてすむのだから。
♢♢♢
身元不明の奇妙な遺体が発見されたのは、それから少し経ってからのことだった。その遺体は成人男性で、アーケード街にある建物と建物の間に挟まるようにして亡くなっていたという。
身元が判明し、男はアーケード街から近い場所に住んでいたことが分かった。なぜ男が狭い所に挟まったまま亡くなったのか、理由は分からないままだった。
前に進むしかない 弥生紗和 @yayoisawa
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