美人上司からの命令

ゆる弥

これは命令?

 自分の息が少し荒い気がする。心臓の鼓動が早い。これは、隣にいる上司のせいなのか、はたまた違う要因なのだろうか。


 現在、取引先へ打ち合わせのために電車で移動中。二人で隣同士で座れば、多少密着するわけで。隣からいい香りが漂ってきて俺の心臓を刺激してくる。


 十も年上だから、ペーペーの俺なんて歯牙にもかけないだろう。この上司である佐々木さんは綺麗なことで車内でも有名。でも、独身貴族でいることでも有名だ。


 その原因が。


「波多野、お前なんか熱くないか?」


「そ、そうですか? 気のせいですよ」


「おいおい。風邪かぁ?」


 こういうなんというか、親父のような話し方をするところにある。ただ、黙っていれば綺麗で魅力的なんだが、話すとたちまち熱が冷めていく男が多いらしい。


 俺は、逆にギャップがあっていいと思うんだけど。皆がそうだということではないのだろう。


「もうすぐ着く。マスクしろよ?」


「はい。すみません」


 マスクを装着しながら頭を下げた。


「とりあえず、座ってればいいから。私が説明するから」


「すみません」


 俺が説明するはずだったのだが、変わってくれるみたいだ。頭がボーッとしているから、あまり考えることができない。


 本来は、体調不良であれば先方には行かない方がいいと思う。うつしたら、それこそ申し訳ないからだ。ただ、今回の打ち合わせは俺が担当になる取引だから、いない訳にも行かないのだ。


 とりあえずえればいいというから、上司の背中を追って歩く。息が荒いのが酷くなってきた。歩いていると寒さも感じる。


 外は息が白くなるほどの寒さだから寒いのだろうけど、この寒さは異常だ。まだ震えるほどでは無いけど。ヤバいかも。


 打ち合わせのビルに着いた。上司も一応マスクをしている。案内されるがままに部屋へと向かい、席に座る。なんとか意識を保ちつつ挨拶を交わす。


 打ち合わせが始まると、上司が説明を始めた。話している声が右から左へと流れていき、ただただ時間が過ぎ去るのを待つ。こういう時の時間が過ぎるのは本当に長く感じる。


「ありがとうございました」


 上司の声で意識が浮上し、一緒に立ち上がって頭を下げる。取引先の方は笑顔で話しているところを見ると、問題なく終わったみたいだ。


 ビルの外に出るとマスクを外し、冷たい空気を肺へと送り込む。少し目が覚めたが、瞼が重い。


「波多野、今日は帰れ」


「えっ? でも……」


「さっき、意識なかったぞ? 大丈夫か? 家、最寄り駅どこだっけ?」


 なんでそんなこと聞くんだろうか。

 自分の家にぐらい帰れる……はずだ。


「上司命令だ。今日は帰って休め。送ってく」


「えっ?」


「ほらっ、行くぞ!」


 腕が掴まれる。

 上司の見た目以上に大きな柔らかい感触に、俺の心臓は更に暴れだした。


「おい! 最寄り駅どこだ?」


「えぇっと、阿佐ヶ谷ですけど……」


「なら中央線だな」


 連れられるがままに駅へと向かい、電車に乗り込む。乗っている間にも隣からいい香りがして俺の脳を痺れさせる。


 熱があるのか、別の要因で体が熱いのか訳が分からなくなってきた。


 電車を降りると家へと向かう。本当に家まで着いてくるようだ。子供じゃあるまいし、大丈夫なんだけど。


 駅からは徒歩十分程のアパートに住んでいる。歩いている最中もずっと腕を支えてくれている。大丈夫なんだけど。そうは見えないらしい。


 鍵を開けると中へと入る。あまり片付いて居ない家だから申し訳ないなぁ。


「汚ねぇなぁ。まぁ、男の一人暮らしはこんなもんか」


 一緒に中へとはいるとベッドに放り投げられた。

 一気に疲れが来たのか、眠くなってきた。

 佐々木さんが何か言っているけど、耳に入ってこない。


 そのまま意識が無くなった。



 額に何か冷たいものが当たり、目を開けた。

 目の前にはドアップの佐々木さん。

 そして、いい香りを一気に吸い込んだ。


「えっ?」


「おぉ。起こしちまったか。冷えピタ貼っとけ。あと、薬買ってきたから飲め。本当は医者がいいんだろうけどな。もうやってないからな」


 外は日が落ちて暗くなっている。

 今の状況が理解できなかった。


 台所へ行くと、いい出汁の香りのする器を二つ持ってきた。テーブルに置かれた中身を見るとうどんのようだ。


 部屋もなんだか、綺麗になっている。


「ほらっ、食えっ」


「いただきます」


 冷ましながらうどんを一口すする。

 出汁の風味とほのかな甘さが広がる。一緒に入れてくれた野菜や油揚げの出汁も出ていて美味かった。


「美味しい……」


「ふふっ。そう? なら良かった」


 普通に返されたその言葉に目を見開いて佐々木さんを見つめてしまった。親父みたいに言葉を発するはずの人なのに。


「なに? そんなにジィっと見て」


「いや、なんか女の人みたいな話し方……」


「失礼ね。女ですけど?」


 睨みつけながらそういうけど、なんかドキッとしてしまう。


「いや、だっていつも……」


「あれは作ってるの。その方が男になめられないでしょ? それに、言い寄ってくる人もいないし……」


「えぇー。素だと思ってました」


 衝撃的な事実を知ってしまった。これからどう接したらいいものか。


「ズズッ……言わないでね。これは命令よ?」


 うどんをすすりながら俺へと命令を下してくる。こんなギャップ魅せられたら、誰にも話したくない。だって、ライバルが増えると思うから。


「言わないっす」


「今日、泊まってっていい?」


 その発言に頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。なんかフラフラしてきた。


「はいぃ?」


「帰るの面倒。いいじゃん。明日休みだし」


 なんでもないかのようにそう言うと、上着を脱ぎ捨てた。


「いやいや……」


「上司命令よ」


「ありがとうございます」


「ぷっ! 命令にありがとうは変よ?」


 いつも見せないような笑顔で答えてくれた。この顔が見れたのが俺だけだと思うと勝ち組になった気分だ。


「素直は気持ちです」


「そっ」


 少し顔が赤いのは、照れているからか、はたまた一気に飲み干したチューハイのせいか。


 命令を喜ぶなんて変だろうか。


 これからは、こういう顔を見せてくれるようになるのかなと、胸が高鳴っていた。

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