第4話
翌朝、凪は制服に袖を通しながら、昨日の京子と小春の言葉が頭の中でぐるぐると回り続けていた。
作者の気持ちになって、この世界を見つめてみる。その言葉が、あまりにも深く響いている。
京子が言っていたように、自分が「作者」であれば、この世界のすべてを自在に操れるのだろうか。それとも、この世界自体がすでに誰かによって書かれ、進行している物語に過ぎないのだろうか。どうしても答えを出せず、結局凪はその思考を手放さざるを得ない。結論を出す前に、朝が訪れてしまった。
制服を整えながら、凪は鏡の中の自分をぼんやりと見つめる。
いつもの、何も特別なことのない日常が始まるのだと思いながらも、どこかでこの世界が何か異常であることを感じる。そうしているうちに、ふいにドアがノックされた音が響き、凪は反射的に振り返る。
「おはよう」制服をきっちりと着こなしたアヤが、朝の光の中に立っていた。
昨日の不機嫌な態度はどこへやら、今朝はまるで何事もなかったかのような様子だ。今日のアヤの髪は少し寝癖がついていたが、それすらも彼女の自然体に見えてしまうのが不思議だ。
「準備、できた?」とアヤが尋ねてくる。彼女は首を僅かに傾げ、凪をじっと見つめている。凪は無意識にうなずき、二人で一緒に学校に向かうことにする。
朝の空気は澄んでいて、肌に触れる冷たさが心地よい。
空は明るく晴れ渡っているが、地平線近くの淡いオレンジが、まだどこか夜の名残をとどめている。
凪とアヤは並んで歩きながら、時折吹き抜ける風にマフラーを押さえつけるような仕草をしつつ、同じ方向に進んでいた。登校路は相変わらず静かで、二人が交わす声だけが細い道に響いている。
「昨日さ、思ったことがあるんだけど」
凪は前を見たまま言った。それを聞いて、アヤが少し首を傾けたようだ。
「うん」
「この世界は支離滅裂だからこそ面白いかも、って思ったんだ」
凪の声は風に揺れるように細かったが、それでもアヤは耳を澄ませるようにして聞いていた。
「なんていうか……この世界って、すごく不完全で、矛盾だらけで……。作者の思い通りに世界が動いて……。でも、俺とアヤ以外は誰もその矛盾を気にしてしないようで。俺たちは、そんなこの世界に嫌悪感を抱いて、この世界を終わらせたいって思っていたけど、必ずしも悪いことばかりではないって思ったんだ。もしかしたら、不可解なことが起こったり、読者や作者がこの世界をじっと俯瞰していたとしても、逆にそういった非現実なことが楽しい、のかもしれないって……」
凪は離していくうちに語気が弱まっていく。一方、アヤは黙ったままだ。その横顔には、少し鋭い観察者の視線が感じられた。
「……面白い考え方、だね」
アヤの声はいつもより静かで、どこか遠慮がちだった。それに少しだけ勇気づけられるように、凪はさらに続ける。
「でも、俺がしようとしていることって、その支離滅裂さを全部終わらせることなんだよ。何もかも壊して、一からやり直すっていうか。でも……もし、それが間違いだったらどうしようって思うんだ。終わらせた後に後悔するんじゃないかって、どうしても考えちゃう」
自分の言葉が地面に落ちては割れていくような気がして、凪はそっと息をついた。
凪の視線は地面に向いたままだが、心の中ではアヤの反応を強く気にしていた。だが、アヤはすぐには答えを返さない。
二人の間に流れる沈黙を破ったのは、一つの小さな風の音。それが耳元をかすめた瞬間、アヤがぽつりと口を開いた。
「……凪は、この世界をどう思ってるの?」
不意に問われたその言葉に、凪は少しだけ足を止めかけた。
「俺は……この世界のこと、好きなんだと思う。支離滅裂で、時々イライラするし、意味がわからないこともたくさんあるけど。それでも、嫌いになりきれない、と思ってる」
その言葉を口にすることで、自分の本音を初めて聞いた気がした。
「そっか……」
アヤの声は、思考の深い迷路をさまよっているように低かった。言葉に詰まるようなその響きが、彼女もまた何かを考えあぐねているのだと物語っていた。
やがて、彼女はふと歩みを止め、空を見上げた。
「前に言ったかもしれないけど、何かをやってみるまで、本当に正しいかどうかなんてわからない。でも……わからないってことが、怖い時もあるよね」
凪はアヤの横顔をちらりと見た。そこには、普段の自信に満ちた表情はなく、何かを探し求めるような影が揺れていた。その姿に、ほんの少しだけ安心する。自分だけが迷っているのではないのだと。
するとアヤは静かに顔を上げ、柔らかな声で口を開いた。
「凪がどうしたいのか、私はその意見を尊重するよ」
その一言は、凪の胸の奥に温かな波紋を広げた。それは強い主張でもなく、単なる受け身でもない、凪の存在そのものを包み込むような言葉だった。
「凪がこの世界を終わらせたいなら、私もついていく。この世界を守りたいなら、以前私が言ったこの世界を終わらせるという宣言は撤回する」
その声には揺るぎない誠実さがあった。アヤの言葉が凪を信じ、どこまでもついていくという決意を含んでいることを凪は悟った。思わず息を呑む。
「……だから、難しいかもしれないけど、自分の『答え』を凪自身が出して欲しいな。だって、凪はこの物語の主人公なんだからね」
そう言ったアヤの唇に、微かだが確かな微笑みが浮かんだ。凪の目には、その表情が夜明けの空のように美しく映った。
凪は胸の奥に渦巻いていた不安が、ほんの少し軽くなるのを感じた。その言葉は、アヤにとっても簡単に口にできるものではなかったはずだ。それでも、アヤが自分を信じてくれることが、凪には何よりも心強かった。
「……うん。頑張るよ」
それを聞いたアヤは再び前を向いて呟いた。
「相談があったら、またいつでものるよ」
アヤのその言葉は、凪の胸にそっと灯をともすように響いた。少しだけ緊張していた肩がほぐれ、凪はお言葉に甘えるように静かに口を開いた。
「……じゃあ、もう一つだけ。実は、昨日京子さんと話したことがあって」
そう前置きしながら、凪は一歩ずつ言葉を選ぶようにして話し始めた。
京子が言った言葉――「この世界の作者になったつもりでこの世界を見つめてみるべきだ」という言葉。それが何を意味しているのか、どう解釈すればいいのか、凪にはわからなかった。一晩考えても答えは出ず、こうしてアヤに打ち明けることを選んだのだ。
話を聞いていたアヤは、少しだけ眉を寄せ、難しそうな顔をした。それでも言葉を挟まず、最後まで凪の話に耳を傾けてくれる。その真摯な姿に、凪は心の中で感謝の念を抱く。
話し終えると、アヤは短く息をつきながら首を傾げた。
「うーん……それって、本当に何を考えればいいのか難しいね」
そう呟いた後、アヤは少しの間考え込むように沈黙した。その沈黙の中に漂う真剣さに、凪もまた、言葉の裏に隠された何かを探ろうとするような心持ちになった。
やがてアヤはふと顔を上げ、至極真面目な表情でぽつりと言った。
「なら……お母さんの弱みでも握って、その言葉の意味を無理矢理吐かせてみる?」
その意外な発言に、凪は思わず息を飲んだ。
けれど、アヤの表情があまりにも真剣だったせいで、すぐには冗談だと気づけなかった。けど、そんなことは到底できない、と凪は頬を緩ませた。
「いや、それはさすがに……」
そう宥めるように言った凪の声に、アヤは再び小さく笑った。その笑顔にはほんのりとした温かさがあり、凪の心にも穏やかな風が吹いたようだった。
するとアヤは真剣な顔つきになった。薄曇りの空の下、その表情はどこか重々しく、凪は自然と彼女の次の言葉を待つように息を止めてしまう。
「……ねえ、凪」
アヤは少し間を置いてから、言葉を選ぶように話し始めた。
「私はね、お母さんが言ったこと、なんとなくわかる気がするんだ」
その言葉に、凪は目を見開いた。
アヤは視線を少し落とし、地面を見つめるようにして続けた。
「私ね、この世界の『作者』は何者なのか、どんな人なのか……実は、なんとなくだけど、予想がついてるの」
アヤの言葉が凪の胸に響いた。その静かな告白は、冗談や思いつきで言ったものではなく、彼女自身が抱える疑念や確信を滲ませていた。凪はその表情をじっと見つめながら、小さく息を呑む。
「本当か? ……じゃあ、一体誰なんだ?」
凪が尋ねると、アヤは少し苦しそうに目を閉じ、ゆっくりと首を振った。
「それは……言えない」
「なんで? ……なんで言えないの?」
アヤは一瞬だけ困ったように唇を噛み、それから弱々しくぽつりと呟く。
「なんだか、言っちゃいけない気がするの。ごめんね」
その言葉には明確な理由もなければ、説得力もなかった。それでも、アヤの瞳の中に浮かんだ曇りのようなものが、凪の胸を締めつける。彼女が何かを隠しているのは明白だ。けれど、それが意地悪や悪意からではないことも、凪にはわかった。
しばらく、二人は歩いていた。ささやかな風が、頬を撫でる。
そして、凪は少し気になっていたことを口にした。
「アヤはさ……小説を書こうと思ったこと、ある?」
凪が突然尋ねると、アヤは一瞬眉をひそめる。一瞬、驚いたような表情を見せたが、すぐに普段の冷静で無表情なアヤに戻った。
「いや、ないかな」
彼女はあっさりと答えた。凪は少し肩をすくめ、話を続けた。
「じゃあさ、小説を書こうと思ったら、どんな話を書く?」
凪はそう問うた。それは、少しだけ軽い好奇心から来た質問だ。アヤがどんなものを考えるのか、ただ気になったから。
アヤは歩きながら少し考える様子を見せ、眉をひそめて言葉を絞り出した。
「うーん……社会に対する不満をひたすらに書き殴った話かな」
その言葉に、凪は思わず笑ってしまった。アヤらしいなと、自然に口から漏れる言葉に、アヤも小さく頬を引き締めて、わずかながら目を細めた。
そして、今度はアヤが口を開いた。
「じゃあ、凪だったら、どんな話を書くの?」
凪はその問いを受けて、しばし考え込む。
アヤの問いかけは、凪の頭を悩ませた。そういえば、考えたことなかったな、と凪は少し俯く。
どんな話を書きたいのか。凪は目を閉じ、頭の中に浮かぶ言葉やイメージを整理しようと試みるが、それが簡単に形を成すものではないことを実感していた。
アヤは、凪のその静かな沈黙に一切焦ることなく、ただじっと見守っていた。
その視線は、どこか無言の期待を込めて凪を見つめ、彼が答えを出す瞬間を待っているようだ。
「……あ」
凪はその瞬間、心の中で何かが弾けたような感覚を覚えた。
まるで、閉じ込められていた扉が音を立てて開いたかのように、視界が急に広がった。
それは、自分がどんな物語を紡ぎたいか、に対する答えではない。それは、この世界の正体を解き明かし、そしてその先にあるカラクリを暴くこと。
凪はふとその思考に、脳が振り回されるような感覚を覚え、心の奥で一筋の光が差し込むのを感じた。
「わかった」凪は静かに呟いた。
自分が今まで求めていた答えは、この世界の真実を暴き、この話を終わらせること。小説という枠組みの中で何が起こり、何が定められているのか。それを探し出し、どうすればそのすべてを変えることができるのか。
その答えとなるものが、凪の頭の中に降りかかった。
しかし、これはまだただの推測に過ぎない。証拠も何もない。けれど、確信があった。
そして凪はアヤの方に顔を向け、言葉を紡ぎ出す。
「もしかしたら、この世界を終わらせることができるかもしれない」
凪の言葉が空気の中に重く、しかし確かな響きを残した。
彼の口から発せられたその一言は、まるで時を刻む音のように、静かに、しかし確実にアヤの心に届く。
「俺の考えがあっていれば、時間はかかるかもしれないけど、必ずこの世界を終わらせることができる」
アヤはその言葉をじっと聞き、最初は言葉を失っていた。
彼女の瞳がわずかに見開かれ、驚きの表情が浮かぶ。まるで凪が話す内容があまりにも唐突で、彼女の中でそれをすぐに理解するには少し時間がかかるようだった。
しかし、次第にその驚きが、やがて静かな微笑みに変わっていった。その微笑みは、決して無理に作られたものではなく、凪がその信念を貫く力を感じ取った証でもあった。
「じゃあ、その時まで、待ってる」
アヤは優しく、そして力強く言った。その言葉には、ただの応援の気持ちだけではなく、どこか凪に対する信頼が込められている。
その言葉を聞いた凪は、自然と口元に笑みを浮かべて、「任せて」と一言。
自分が感じた確信に対して、何の迷いもなく応じることができた。アヤが微笑んだことで、凪の中で少しだけ緊張が解け、心が軽くなったような気がした。自分の思いを伝え、そしてそれに対して肯定的な返事をもらうことが、こんなにも心強いことだとは、改めて実感していた。
二人の高校が目の前に迫ってくる。
歩いていた道が、もうすぐ終わることを告げていたが、二人の心の中では、まだこれから始まることが数多く待っているのだと感じさせた。
凪は振り返らずに、そのまま前を見据えた。彼が感じていたのは、この日常という世界がどこかで終わりを迎えること。そしてその時が来るまで、彼とアヤが共に歩み続けるという確かな絆。
凪とアヤは、教室に静かに足を踏み入れると、それぞれ自分の席に向かって歩き出す。
周囲は朝のざわめきに包まれている。軽い足音や気の抜けた「おはよー」という声が教室の空気に溶け込み、まるで日常の一幕のように流れていく。
凪は、普段のこの光景に馴染みながらも、どこかで心の中が引き締まっているのを感じていた。まさか、何気ない会話から答えになりそうなことが見つかるとは思っていもいなかった。
自分の考えが正しければ、これからのすべてが変わるのだ。だが、まだその証拠は何も掴めていない。だが、もうすぐその証拠となるものが掴めるかもしれない。
凪は鞄を膝に置き、教科書を取り出す手が少し震えていた。
心の中の確信を胸に秘めて、静かにクラスメートたちの動きを目で追う。
少し騒がしい音、誰かが軽く笑っている声、そして何気ない会話の断片。教室は、普段通りに慌ただしく、でもどこかで無駄に感じる瞬間が積み重なっている。
やがて、チャイムが鳴り響き、教室のざわめきが少しずつ静まり返っていく。生徒たちはそれぞれ自分の席に戻り、普段通りに着席を始める。
凪は真ん中の席に座っている。そこから教室全体を見渡した。
眠そうにしている生徒がいれば、興味深げに本を読んでいる生徒、こっそりスマートフォンを手にしている生徒もいる。会話を続けているグループの声が耳に届く中、凪の目がふとアヤを捉える。アヤも凪を見つけ、二人の目が一瞬、交わった。その瞬間、凪の胸が少し高鳴る。普段なら何も感じないはずのこの瞬間が、どうしてか少しだけ恥ずかしい。それでも、凪はぎこちなく前を向き、思わず目線を外した。
「よし……」ここまで上手くいっていると凪は静かに呟く。
教室の空気は、少しずつ落ち着き、みんなが自分の席に座り終えると、静けさが戻る。凪の中で、昨日から抱えていた思いが、少しずつ形になってきたようだ。
すると担任の梶谷先生が教室に入ってきた。
そして、教壇につくや否や、こう告げた。
「今日は転校生が来ている」
その言葉が響いた瞬間、教室は一瞬ざわめき始める。後ろの方にいるクラスメートが小声でつぶやく。
「転校生が来るなんて、聞いてた?」
「うちのクラスに、だよね?」
疑問と興奮が入り混じった声があちこちで交わされる。
梶谷先生は、教室が静かになるのを待ち、軽く手を上げると、「静かに」と一言告げた。
その声が響くと、教室内のざわめきは一瞬で収まった。そして、ドアの方に向かって声をかける。
「じゃあ、入ってきて」
すると、教室の扉がゆっくりと開かれた。最初は、何も見えなかったが、次第にその人物が現れる。
教室に入ってきたのは、井上小春だった。
その瞬間、クラス中の視線が一斉に小春に集中する。
男子生徒の中からは、驚きと興奮の混じった声が漏れる。「うおっ」と、男子生徒が声を上げれば、女子生徒の中からも「かわいい!」という声が重なって聞こえた。小春の容姿に目を奪われ、クラス中が彼女を注視している。
「やっぱりだ……!」
凪は、ただ静かにその光景を見守りながら、思わず息を呑んだ。自分が予測していた通り、彼女が転校生としてこのクラスに現れることになったのだ。驚きと同時に、どこかで感じていた思惑がうまくいったことに、微かな安堵を覚えていた。
小春はその静かな魅力を放ちながら、クラスの前に立ち、梶谷先生が紹介を始める前に、軽く一礼した。まるで、すべてが予定調和のように流れていく。
そして、小春は、少し照れくさそうに、しかしその可愛らしい声で自己紹介を始めた。
「井上小春です。田舎から引っ越してきたので、まだ慣れないことが多いですが、よろしくお願いします」
その言葉に、教室全体が一瞬静まり返る。そして、次の瞬間、ぱらぱらと手が鳴り、拍手が広がった。誰もがその素直な、どこか純粋さを感じさせる小春に心を奪われたようだ。
だが、凪はその光景に驚きつつも、自分の中で一つの確信が芽生えていた。
小春が転校生として登場したことで、彼の思い描いた世界の構造が、いよいよ動き始めたのだ。
直後、凪はいてもたってもいられなくなり、思わず立ち上がる。突然の行動に、クラスの視線が一斉に集まった。その中でも、特に小春が一番驚いた表情を浮かべていた。まるで時間が止まったかのように、彼女の瞳が凪に向けられる。
そして、凪はその静寂を破るように声を上げた。
「すいません。体調が悪いので、早退します!」
その言葉が教室に響き渡る。しばらくの沈黙の後、クラスの中で「ちょっと! 松本!」と、梶谷先生の声が叫び声のように響いたが、凪はそんなことに構っている余裕を持ち合わせていない。
彼の心は、今すぐにでも動き出したかった。思い描いていた通り、この世界を終わらせることができそうだ。
嘘の体調不良を口にしたものの、その言葉はただの口実に過ぎない。凪の目的は、それ以上に深く、そして強く根付いているのだ。
凪は教室の扉を飛び出し、勢いよく階段を駆け下りていく。
靴音が廊下に響き、急いで走りながらも、心の中で確信が次第に強まっていくのを感じる。靴箱を抜け、正門が目の前に迫る。誰にも追いつかれることなく、全力でその扉に向かって走り抜ける。風を切る感覚が、まるで自分がこの世界の支配者となるような錯覚を与えていた。
凪は走り続けた。
どれほど体が悲鳴を上げ、息が切れたとしても、関係ない。心臓が胸を突き破りそうなほど高鳴り、足の裏が痛みに痺れてきても、彼の意識はそれに向かうことなく、ただ前へ、前へと突き進んでいった。
まるで全身が、意識が、物理的な制約を超えて動いているかのように。
走ることが、今の凪にとってのすべてだ。それは単なる身体の行動ではなく、心の中で既に決定づけられた運命に従っている感覚だ。心の中で叫びながら、世界の真実が徐々に明かされていくのを感じていた。自分の体は限界に達しようとしているのに、頭の中ではそれとは裏腹に、確信が固まっていくのがわかる。
――この世界は、きっと「自分が」作り出した物語の世界だ。
凪はその答えがはっきりと浮かび上がっていた。
無意識に押し寄せるその確信を胸に、彼は走りながら言葉を紡ぐように感じる。
そう、何もかもが自分の描いた物語なのだ。すべての出来事、出会った人々、そして今ここにいる自分の姿。これらすべてが、彼自身が主人公となる小説の中に描かれたものであり、彼の手のひらの中で織り成されている物語にすぎないのだ。
彼が見ていた世界、彼が考えていた出来事、そして心の中で描き続けていた幻想。それが今、目の前の現実となって現れている。思えば、ずっと昔から、彼は自分自身を物語の主人公として位置付けていた。それがどんなに非現実的で、あるいは滑稽に思えたとしても、その心の奥底に眠る確信は、今、凪の手のひらに形を取って現れる。
彼の中で、この世界は自分の思い通りに操れる舞台だと知った瞬間、全てがクリアになった。
教室で小春が転校生になったこと、その奇跡が実際に起こったこと。それも、凪が「もし、小春が転校生だったら」と考えたからこそ実現したのだ。
物語の中での主人公として、同時に物語の作者として、すべての出来事を思い通りにする力が自分にはある。この世界の物語をどのように展開させ、どんな結末を迎えさせるか。それを決めるのは、他でもない凪自身なのだ。
だから、もしこの世界の物語を終わらせることができるとしたら、それもまた凪の手に委ねられている。物語の締めくくりを決めるのも、物語を続けるのも、彼の思うままだと、心の中で確信する。終わらせることができる。自分の手で、この物語を――
凪は、足音を響かせながら走り続ける。
その心はすでに自分が作り上げた物語の世界に深く根ざし、彼の足元はまるでその物語の一部を成すかのように、確かな道を刻んでいる。身体が疲れ、息が荒くなり、目の前がぼやけていくにもかかわらず、凪の内面は清明で、何もかもが鮮明に映し出されるような感覚に包まれていた。
この世界は、彼の心の奥深くにある欲望や空虚さ、孤独や憧れ、無力感や希望が映し出されたものなのだ。それはまさに彼自身が望んだ世界、そのものだった。
思えば、このすべてが始まりは、自分が家に帰った時のことだ。
引っ越してきたばかりの都会。何もかもが新鮮で、誰も知っている人がいない。物理的には人々に囲まれているのに、どこかしら孤独を感じる。
寂しさと不安を抱えていたその時に、家にアヤと京子がいたこと。それはまさに凪が心の中で、都会の孤独に耐えきれない自分を、誰かが支えてくれるという幻想を描いていたことの反映だった。二人は無意識のうちに、凪の心の中に築かれた理想の存在に他ならない。
そしてアヤが「この世界は小説だ」と告げた時、凪はその言葉に強く反応した。
その言葉が告げられた背景を深く掘り下げると、それは中学生の時、凪が密かに憧れていた小説の中に出てくるような設定、あるいは物語の一幕と奇妙に一致していたことに気づく。小説の登場人物が「この世界は小説だ!」と気づくようなストーリーを、拙い文章で書いたのを思い出す。それが現実化したことが凪が生きているこの世界の核なのだ。
そして、繰り返される日々。
どこかで見たような繰り返し、何度も同じ時間を過ごす感覚。それは、ライトノベルやアニメの影響が色濃く刻まれた痕跡であり、凪が無意識のうちに望んでいた世界の形だったのだ。
彼が抱えた退屈、無聊、平凡の中で、自分が変化を望んでいたこと。それがこの世界に現れる現象として、次々と不可解な出来事を引き起こしていた。
さらには、小春が凪を刺し殺したこと。
それは、凪による平和に満ちた日々に対する反抗だったのかもしれない。
何もなく、特別なことは何も起こらない日常に、凪は「何か面白いこと、ないかな」とぼんやりと思っていたのだ。それがナイフを持ち、狂気の笑顔を見せる小春を生み出した。
最も印象に残っているのは、小春と肌を重ねようとしたこと。
凪は、小春に想いを寄せていたのだろう。凪自身では気づいていなかったが、無意識のうちに彼女のことを目で追いかけ、話しかけてくれると心拍数が異常な数値を叩き出していたのだ。
その想いに世界が反応し、小春は凪を家へと連れて行くことになった。そして凪自身の望むままに、小春が凪を快楽と性愛の世界へと誘おうとしたのだ。
何もかも、繋がっていた。この世界は凪が創り出したもので、それぞれの登場人物が存在する意味、不可解な出来事が起こる根本的な心理、そして今の展開でさえ、凪自身が望んだものなのだ。
凪は顔を上げ、さらに力強く足を踏みしめながら走り続けた。世界の結末が、自分の手のひらに収まる時が来る、その時まで。
凪が自宅の玄関扉を開けたとき、ひやりとした静けさが彼を出迎えた。
暮れかけた日の光が廊下の奥に影を伸ばし、部屋の中はほとんど薄闇に包まれている。閉め切られた家に染みついた空気の匂いが、どこか馴染み深いはずなのに、今の凪には妙に異質なものに感じられた。
そして、凪は目を張った。
廊下の奥、そこに京子がいた。
「おかえり、凪くん」
不意に響いた声が、その場の空気を切り裂いた。廊下の壁にもたれかかるように立つ京子の姿が目に飛び込んできた瞬間、凪の心臓は一瞬止まったかのように感じた。
その微笑みには言葉にしがたい含みがあり、どこか挑むような、それでいて懐かしいような奇妙な感情を呼び覚ます。
「京子さん……どうしてここに……」
ようやく絞り出した声は、自分の耳にさえ震えて聞こえた。
彼女がここにいるはずがない。それが理性の叫びだった。けれど、理性の上を行く何かが、彼に彼女の存在を受け入れることを強要する。
「あなたを待っていたからよ」
京子の声は穏やかで、それでいて鋭いナイフのように凪の胸を貫いた。
「今からあなたがしようとしていることを知ったら、仕事なんてやってらんないわ」
その言葉に凪の呼吸が乱れる。
彼女が何を知っているというのだろう。何を理解しているというのだろう。しかし、彼は確信した。彼女は、自分の心の中を見抜いている。これまでの出来事、そしてこれから起こること。そのすべてを知っているかのようなその言葉が、彼の胸に不安と興奮を同時に呼び起こしていた。
凪は気を取り直そうと、できるだけ落ち着いた声を装う。
「じゃあ、僕は小説を書くので……」
自分の部屋に向かう足音が、廊下の木の床に微かな音を立てる。物語を終わらせる。それが今の凪にとって唯一の目的だった。彼の心の中に渦巻くものを、文字として紡ぎ出すために。そしてその瞬間こそ、彼自身の人生の結末を迎える瞬間のように感じられた。
彼は部屋のドアノブに手をかけた。けれど、その動作は途中で止められた。
京子の手が、彼の手首を掴んでいた。
「待ちなさい」
その指先は驚くほど冷たく、そして確固たる意志を持って凪を引き留めた。凪が振り返ると、京子の瞳はまっすぐに彼を見据えていた。その目には、静かでありながら絶対的な力が宿っていた。
「まだ逃がさないわよ、凪くん」
凪が京子の方へ視線を向けた瞬間、彼の世界は一変した。
さっきまで確かに存在していた廊下も、部屋の扉も、彼の背中を押していたはずの自宅の空気も、すべてが消え去っていた。
そこに広がっていたのは、限りなく広大な宇宙のような空間。
無数の星々が瞬き、淡い光の川が無音の中を流れている。どこまでも深遠で、どこまでも静か。
重力を感じさせないその空間で、凪と京子は確かに立っていた。二人の足元に地面はなく、けれど彼らは揺るぎない存在感を持ち、その場に佇んでいた。
「……っ!」
凪は言葉を失った。驚きが波のように押し寄せ、心を満たしていく。さっきまでの現実が幻だったのか、それとも今この景色こそが幻なのか。彼の理解は追いつかず、ただ息を呑むばかりだ。
その一方で、京子は微動だにせず凪を見つめている。彼女の瞳は、この広大な宇宙のすべてを映し出しているかのように輝いていた。その目に凪は引き込まれ、逃れる術を持たない。冷たくも温かくもあるその眼差しは、彼の内面に隠された秘密すら見透かしているようだ。
「少し話をしましょう」
京子の声が静かに響いた。どこからともなく生まれたその言葉は、凪の耳に直接届くというより、彼の意識そのものに沁み込んでいく。彼女の声はこの奇妙な空間に不釣り合いなほど穏やかで、それでいて抗えない力を持っていた。
京子は、凪の目をじっと見つめながら、静かに言葉を紡ぐ。
「この世界はね、数日前に始まったばかりなの」
突然の京子の言葉に、凪は眉をひそめた。何を言っているのか理解できない、といった表情が浮かぶ。だが、京子は構わず話を続けた。
「私たちは、作者によって作られた。容姿、性格、来歴、話し方……何もかも、すべて。あなたがどんな夢を見るのか、何を嫌い、何を愛するのか。それすらも、作者が頭と指先で作り上げたものなの」
その声には確信がこもっていたが、それが凪の心にどう届いているのかどうか自分でもわからなない。凪はただ黙って京子を見つめている。その目には不安と疑念が入り混じっていた。
「過去の記憶だって、虚構に過ぎないのよ」
静かに告げられたその言葉は、まるで凪の心を掴み、深いところに問いを投げかけるようだ。
「信じられないかもしれないわね」
京子はふっと微笑んだ。その微笑みはどこか寂しげで、冷たい夜風のような鋭さを伴っていた。
そして、京子の目が突然凪ではなく、どこか遠くを見つめた。それは、まるでこの場には存在しない「誰か」に向けられた視線。
「これを読んでいるあなた」
その言葉は唐突で、どこにもいない誰かに語りかけているようだ。
「あなただって、他人事じゃないのよ。あなたが生きているその世界だって、小説の世界だと言われたら、信じられる?」
問いかける声は柔らかく、けれども鋭く、耳の奥深くに響く。
「そんなこと、信じられるわけないものね」
凪にはその言葉の意味がわからない。だが、その瞬間、京子の目が再び凪に向けられた。
「私の言葉を無理に信じなくてもいいわ」
京子の瞳は静かに揺れていた。その瞳の奥には、何か大きなものを見据えているような意志が宿っている。
「でもね、凪くん」
その声はどこか切なく、胸の奥に刺さる。
「私が言ったこと、そしてこれから言うことは、本当のこと」
そう言い切った京子の声には、確かな覚悟が込められていた。それはただの一言ではなく、彼女の存在そのものが宿る言葉。
「そう言えば、昨日、井上小春と話していたわよね」
京子の声が穏やかでありながら、その響きには一種の鋭さがあった。凪は少し驚き、眉をひそめる。小春との会話のことを知っているのか、と心の中で反応する。
「彼女は、この世界を維持したいと思っていた」
その言葉には、何か重みがあった。凪の心が一瞬、引っかかる。小春の思いは知っている。彼女がこの世界に対して抱く感情。それは、単なる逃避でもなく、どこか温かな感情を伴ったものだった。
「それについては、あなたはどう思っているの? この世界は作者であるあなたの気ままに操ることができるのよ」
京子は続ける。
「井上小春だって、結局はあなたの手のひらの上で動く人間にすぎないの。だから、やろうと思えば、彼女の全てを手にすることだってできる」
それを聞いた瞬間、凪の頭にピンク色の妄想がかすかによぎる。小春の全てを手にする——小春と過ごした甘い時間を思い出して、心がざわつく。
「それに、アヤも」
京子が続けると、凪は目を見開いた。アヤが、凪に対して抱く感情。それはずっと不確かなものだったが、京子が言うように、アヤの気持ちもまた、凪の手のひらで転がる可能性があるのだ。
「アヤはあなたに好意を向けている。その気持ちも、あなたの意志ひとつでどうにでもなる。あなたがこの世界を維持し続ければ、すべては手のひらの中で踊り、あなたの欲望はすべて叶えられるの」
京子は言葉を紡ぐ。
「しかし、この世界はあなたの自由にできるが故、あなた不機嫌になった途端にコロっと滅んでしまうかもしれない、という危険性も孕んでいるけどね。この世界はつい数日前に出来上がったばっかりだから、この先の未来は予測不可能で、至極不安定、という特徴もあるわ」
その言葉に、凪は一瞬、心が揺らぐのを感じた。何もかもを手に入れることができる。こんなにも簡単に。世界を変え、彼らのすべてを操る力。まるで夢のようだが、それが現実であるように、京子は言い切る。
「それでも、この世界を放棄するの?」
京子の問いが、凪の心を深くえぐるように響いた。彼女の瞳は、まるで凪の弱さを見透かすようにじっと見つめている。
凪はその質問に答えられなかった。心の中では、さまざまな思いが渦巻いている。
京子は静かに目を閉じ、少しだけ沈黙の時間が流れる。
彼女の顔には、深い思索の色が浮かんでいた。周囲の空気がどこか重く、時間の流れすらも緩やかに感じられる。凪はその姿をじっと見つめていた。京子が次に口を開くまで、何も言わずに待っている。
「じゃあ、次はあなたがしようとしているこの世界を終わらせることについて考えてみましょうか」
その言葉が凪の心に重く響く。彼女が語る言葉一つ一つが、まるでこの世界の真実に触れるようなものだった。
「正直な話をするとね……私も、この世界が終わったら、どうなるかはわからない」
京子の目は遠くを見つめ、そこには消えかけた記憶のようなものが浮かんでいるように感じられる。
「私たちは消えてしまうのか、ただ時間が止まるだけなのか、それとも……」
京子の言葉は途切れ、そこで再び小さな沈黙が訪れる。
言葉を超えた何かが、京子の中で渦巻いているようだった。凪はその沈黙の中で、自分の心が乱れ始めるのを感じていた。
もしこの世界を破壊すれば、凪やアヤを含む全てが消えてしまうかもしれない。それでも、彼女の言う通り、時間が止まるだけで済むのか、未来はどうなるのか、それすらも分からない。
京子はやがて顔を上げ、凪を見つめた。その目は、彼女が今まで抱えてきた無数の疑問と恐れを映し出しているようだった。そして、再び言葉を紡ぐ。
「この世界の時間が続くかもしれない。けれどそれがどういう形で続くのかも、私たちは分からない。もしかしたら、あなたの望み通り、作者や読者に縛られない自由を手にすることができるかもしれないわ」
その言葉に、凪は深い戸惑いを感じる。
この世界を終わらせることには、計り知れないリスクが伴う。その先に待つのは、無限の不確実性。
この世界を放置することには、自分の意志によって支配することが続くのだ。自分の好きなようにできるが、作者や読者に見られているという事実は際限なく続いていく。
どちらを選ぶべきなのか、その葛藤がさらに凪を苦しめていく。
「あなたが操られていることに嫌悪感を覚えるのは当然で、監視されていることが不快だと感じるのも無理はない」
京子の声が、凪の内面を優しく、しかし鋭く突き刺す。
彼女が言う通り、凪はその感情にどうしても抗うことができなかった。日々感じていた心の隙間、胸の中で鳴り響く不安。それは、この世界が彼に与える苦しみの証拠だった。
「でも、それを理由に世界を終わらせてしまうことが本当に正しいのかしら」
その問いが、京子の言葉の最後に残る。
凪の心は、再び強く揺れる。世界を破壊すれば、すべてが解放されるのかもしれない。だが、もしかしたら、その先には何も残らないかもしれない。世界が終わり、すべてが消え去ったときに、本当に自分が望んでいたものが得られるのか、それとも、ただ虚無に飲み込まれていくだけなのか。
京子はその問いを続けることなく、凪の目をじっと見つめていた。彼の瞳の奥にある、何かしらの決意と迷い。どちらの道を選ぶか、簡単に答えを出すことはできないということを京子は理解していたのだろう。
凪はその問いを心に刻み込みながら、深く息をついた。そして、その答えを自分で見つけ出さなければならないことに強いプレッシャーを感じ、黙って京子を見返していた。
世界の終わり、それが本当に解放なのか、それとも新たな苦しみの始まりなのか。その選択を前にして、凪はただ静かに思索を続けるしかない。
すると、京子は口を開いた。
「ところで、現実と想像の境界って、どこにあると思う?」
唐突な問いに、凪は少し目を開く。彼は、自分の内面に深く向き合うことが求められているのを感じた。
「あなたの想像通り、この世界はあなた自身の手によって創り出されたもの」
京子の声が響く。
「でも、そのことが意味するのは、現実と想像、どちらが本当で、どちらが幻想なのかを一概に決められないということ」
凪は、そこに込められた意味を必死に探る。
自分の手によって創られた世界、それは確かに感じられる。目の前の風景、音、匂い、触れる感覚。それらはすべて、自分の意識が作り上げたものなのだろうか。それとも、どこかで現実と交錯し、絡み合っているのだろうか。
「現実というものは、物理的に存在するものだけではないの」
京子は一呼吸おいて、言葉を続ける。
「あなたが見ているこの世界、感じているこの世界、それもまた一つの『現実』。想像によって生まれたものでも、心の中で生きている限り、それは存在している。だとすれば、現実と想像の境界を引くことは、果たして可能なのかしら」
その言葉が凪の中で深く反響した。
彼は自分の心の中で作り出したものが、現実と変わらない影響を持つことを知っている。それは、心の中で生きているからこそ、現実と同じように彼に作用し、彼を導いている。
「現実の定義を問い直さなければ、あなたが言う『終わらせる』ということが、本当に意味を持つのかもわからない」
京子の言葉は続く。
「あなたが感じている世界、それは単なる空想なのか。それとも、本当に存在している現実の一部なのか。それを理解しない限り、あなたは何を終わらせるのか、その意味も掴めないの」
凪は深く考える。確かに、彼が目の前に感じる世界は、どこかにある自分の意識が創り出したものだ。
しかし、その世界は、彼にとっては疑いようもなく「現実」だ。目の前にあるもの、彼が触れるもの、彼が感じるもの、それはすべて彼の心の中で生きているからこそ、真実であり、現実であり続ける。
「あなたが感じるその世界、その感覚が『現実』を感じさせる。あなたが手にしたその世界が、あなたにとっての現実であるなら、それを放棄するということが、本当に現実への帰還を意味するのかしら」
京子は穏やかな表情で凪を見つめながら、しばらく黙っていた。やがて、静かな声で再び口を開いた。
「私はね、もし、すべての存在には意味が与えられるべきだとするならば、この世界に存在する一つ一つの事柄にも、必ずや何らかの意味が込められているのではないかと思うの」
凪の目の前で繰り広げられるすべての出来事、それがどんなに無意味に見えても、その背後には何かが隠れているのだろうか。凪はその問いを自分の中で反芻した。もしも、彼が創り出した世界が真に意味を持つのなら、そのすべてが繋がり、何かを成し遂げるために存在しているのだろうか。
「あなたがこの世界を終わらせるということは、すべての意味を消し去ることになるかもしれないの」
京子の言葉は冷静でありながら、どこか深い悲しみを含んでいた。
「もし、今あなたが見ている世界のすべての出来事が、たとえそれが一見無意味に感じられても、実は何かを成すための布石だったのだとしたら、終わらせることが本当に正しい選択だと言えるのかしら」
その問いが、凪の心を揺さぶった。彼は世界を終わらせることで何を得るのだろうか。すべてが無に帰すことに何が残るのだろうか。
「すべての出来事、すべての瞬間が流れ、繋がり、意味を持つことで、この世界は成り立っているとしたら、あなたがその意味を放棄するということは、世界そのものの本質を捨てることになるかもしれない」
京子の目は凪を見つめ、その問いを深く突きつけた。
凪はその問いを胸に抱えながら、静かに思考を巡らせた。自分がこの世界を創り出したのは、単なる空想の遊びではなく、何か深い意図があったからなのか。
その意図が果たしてどこに向かっているのか、すべてが意味を持つのか、それとも彼が見失ったのか、答えが見えない。
しかし、京子の言葉は確かに響いていた。もしすべてが繋がり、意味を持つのであれば、彼が選ぼうとしている「終わらせる」という決断は、ただの消失では済まされないだろう。
「あなたが選ぶその道、ほんとうに終わらせることが、あなたにとって最良の選択なの?」
京子の声が、凪の心に直接問いかけるように響いた。
凪は目を閉じて、深く息を吐く。現実と幻想、意味と無意味、そのすべてが交錯するこの世界で、彼は何を選ぶべきなのか。何が本当の意味を持っているのか、それを確かめることなく、何もかも終わらせてしまうことは、本当に求めていることなのだろうか。
京子は凪をじっと見つめていた。その目は、深い湖底のように静かで、しかしその奥には言葉にしがたい思索が渦巻いているようだった。二人の間に流れる空気は重く、静寂が時間そのものを遅くしているかのように感じられた。
すると、京子の視線が、突然、凪から読者へと向けられた。
凪の目の前に立つ京子の目が、これを読んでいる「あなた」の世界へと視線を移す。あなたがイメージしている京子が、あなたを見つめている。
「あなたはどう思う?」
京子の言葉が、まるで呼びかけるように響く。そして、静寂の中でじわじわとあなたに問いかけられた。
「あなたが今、この物語の中の主人公だとしたら、この世界を終わらせるのかしら?」
その言葉には、何かしらの強い問いかけが込められている。突然、この物語の一部として、主人公の立場に立たされているかのような感覚。凪の苦悩、葛藤が、まるで自分のもののように重く迫ってくる中、その問いに対して、あなたはどう答えるだろうか。
「日々の生活が息苦しくて、追い詰められ、満たされない現実に、心が疲れ果てているあなた。勉強や仕事、無駄だと思う日常の中で、昔のあなたの夢は遠くなり、やりたくもないことを繰り返す毎日」
どこかで感じているもやもやした不安。やり場のない怒り。疲れの中でぼんやりと浮かんでいる倦怠感。無気力な生活。生きる意味を見失った脱力感。仕事に疲れ、勉強に疲れ、何もかもうまくいかない日々。
もしかしたら、この世界が壊れれば、すべての煩わしいことから解放されるのではないか、そんな思いがよぎる瞬間があるかもしれない。
「それでも、あなたは二つ返事で、この世界を終わらせるの?」
京子の問いは、さらに鋭く、深く刺さる。
あなたは今、この問いに答えられるだろうか。もし、この世界を終わらせることで、すべての苦しみが消えるのなら、その選択肢に手を伸ばすこともできるかもしれない。しかし、終わらせた先に待っているのは、果たして何だろうか。
「でもね、この世界を終わらせた先に、何が待っているのか、それは誰にも分からないのよ」
京子は、その言葉をあえてゆっくりと紡ぐように告げる。
その言葉が重く、鮮明に響く。もしかしたら、終わらせることが解放に繋がるかもしれない。しかし、それが本当に自由なのか。もしかしたら、ただそれは「死」を意味するだけなのかもしれない。
その先に、望んだものがあるのか、それとも、何もない虚無が待っているだけなのか。誰にも分からない、未来の答え。
「それが、今凪くんが感じていることなのよ」
京子はその後も、凪の方ではないあなたの方を見つめている。
彼女の視線が、あなたの心を見透かすように、静かに深く沈み込んでいく。
その言葉は、まるであなたの胸にある深い恐れを引き出すようだった。もしかしたら、この問いは、あなたが日常の中で感じているどこか不安定な感覚と、繋がっているのかもしれない。
終わらせることの先に、どんな未来が待っているのか。それが、あなたにとって本当に解放なのか、そして、それを選ぶべきなのか。
「わからないのなら、一旦ここで読むのをやめて、考えてみてほしいの。こんなことを考えてなんになるんだ、って思うかしら。十代や二十代をターゲットにしたライトノベルになんてことを投げかけてるんだ、って思うかしら」
京子はそこまで言ってふふっと微笑む。
「でも、こういった問題を考えることで、自己理解を深めることができるわ。自分の存在や目的についての認識を深め、日々の生活に対する態度を見直すことができるの。さらには、人間関係や社会との接し方、困難な状況にどう向き合うかという心の強さを培う手助けにもなる。この小説は、ただ人々の暇を潰すだけの娯楽じゃないのよ」
そこまで言って、京子は再び凪に視線をやった。
「ここまで説明したけど、改めて質問するわ。それでも、この世界を終わらせるの?」
京子の声は柔らかかったが、その問いには決して揺るがぬ芯があった。
凪は視線を逸らさず、まるでその問いそのものを飲み込もうとするかのように、長い沈黙を保った。そして、やがて凪はゆっくりと唇を開く。
「終わらせるよ」
その一言には、迷いが一切なかった。凪の瞳は何かを超えた場所を見つめているようで、京子は一瞬、息を呑んだ。
「それは、どうして?」
京子の問いは、静かにしかし鋭く響いた。その言葉は凪の心を深くえぐり、彼女の内側に隠されたものを露わにしようとしているかのようだった。
凪は小さく息を吸い、そしてゆっくりと話し始めた。
「この世界は、俺の思うままに操作できる。好きなように動かせるんだ。人も、時間も、現象も、全部自分の手の中にある。でも、それをすればするほど、俺の中には虚無が広がっていく。自分が何を求めているのか、何をしたいのか、それすらもわからなくなって、ただ無為に生きていくだけになってしまう」
凪の声は穏やかだったが、その裏には深い葛藤が潜んでいた。彼の指先が膝の上で小さく震えているのが、京子の目に映った。
「無限に選べる自由があっても、それが無意味だって気づいてしまったら、もう何も価値を持たない。無限とは、ただの牢獄みたいなものなんだ。何も終わらないし、何も始まらない。ただ、俺が作ったこの世界が、俺の存在を蝕むだけなんだ。それなら、取り返しのつかないうちに、行動して、終止符を打ちたい」
京子は黙って聞いていた。凪の言葉は鋭く、しかし同時に痛々しい。この世界は凪そのものだ。そして、凪はその世界に囚われ、苦しんでいる。
しかし、自分との対話で得られた結論を話す彼の姿は、堂々としていた。
「数ある制約の中で、何かを選び取る自由。迷ったり、間違えたり、後悔したりしても、その中で俺が生きる理由を見つけることができる自由。そっちの方が、俺には必要なんだと思うから」
凪の言葉には、これまでにないほどの確信が込められていた。それは苦悩の果てに辿り着いた結論であり、決して揺るがない覚悟だ。
京子は凪の瞳を見つめた。その中にあるのは絶望ではなく、微かな光。それでも京子は問いかけずにはいられなかった。
「本当に、いいのね?」
凪は一瞬目を伏せ、そして再び京子を見た。その目にはすでに答えが宿っていた。
「うん」
凪の言葉が静かに空気を震わせる。京子は何かを言おうと口を開きかけたが、その言葉を飲み込んだ。凪の決意はあまりにも強く、それに抗う術が見つからなかったのだ。
京子は凪の言葉をじっと聞き終えたあと、微かに眉を下げた。
その表情にはどこか諦めにも似た静かな受容が浮かんでいた。それでも、唇の端には小さな笑みが宿っている。その微笑みは、全てを受け入れた人間だけが見せることのできる、限りなく穏やかなもの。
「わかったわ」
その一言は、あまりに軽やかだった。まるでこれまでの対話の重みが夢の中のことだったかのように、空気を切り裂くことなく、自然に凪の耳に届いた。
そして次の瞬間、視界が揺らいだ。
凪が目を凝らすと、いつの間にか彼女たちは、かつて二人がいた家の中に戻っていた。どこか懐かしい気配が漂うその空間は、まるで時が巻き戻されたかのように穏やかで、静寂に包まれている。
京子は凪を見つめた。その瞳には深い慈愛がありながらも、もう止めることはしないという意思が見て取れた。
「行っておいで」
そう言って、彼女は凪の部屋の扉をそっと開ける。
扉が音もなく動き、凪の目の前に広がったのは、これまで何度か目にした、自分だけの空間。だが、今の凪にはその部屋がどこか違って見える。広くもなく、狭くもなく、ただそこにある静けさが心に沁みた。
凪は一度だけ京子に目を向けた。
「ありがとう」
その言葉にはこれまでにないほどの真摯な感情が込められていた。そして、凪は迷うことなく部屋へと足を踏み入れる。
直後、扉がゆっくりと閉じる音が響く。
凪は静かに深呼吸をし、部屋の中を見渡した。目に留まったのは机の上に置かれている束になった原稿用紙と、一本のシャープペンシル、それと消しゴム。その配置は、まるで凪がこの瞬間を迎えることを知っていたかのように完璧だった。
彼は机の前に腰を下ろし、ペンを手に取る。その感触は学校で握っているときと同じような、何の変哲もないものだった。しかし、今の彼にはそれが特別な道具のように感じられる。それは、彼自身の内側に眠るものを形にするための唯一の鍵だったからだ。
凪は静かにペンを紙に滑らせ始めた。
最初の一文字が、紙の上に現れる。次の瞬間、それに続く文字たちが次々と紡ぎ出されていく。彼の手は迷いなく動き、言葉が一筋の流れとなって紙の上に刻まれていく。
書きながら、凪の心にはこれまでの全ての記憶が蘇っていた。
アヤの表情、京子との対話、そして小春の温もり。それらが渦巻き、形を成し、凪の筆先から物語となって紡ぎ出されていく。
言葉が重なり、ページが埋まっていく。
そのたびに、凪の中の虚無が少しずつ削ぎ落とされていくようだった。彼は書くことに没頭しながら、自分が本当に求めていたものはこれだったのだと気づいていく。
何時間経っただろうか、いや、何日経ったのだろうか。
何度か京子が食事を運んできてくれた。何度か「そろそろ休んだら?」と心配の声をかけてくれた。しかし、凪はここで手を止めるわけにはいかなかった。
やがて、原稿用紙が書き終わり、凪は手を止める。
深く息を吸い、吐き出す。その一瞬、何かが終わり、そして何かが始まった気がした。凪の中には、もう迷いも虚無も残されていない。
凪は、ペンを置いたまま、静かに原稿用紙を見つめていた。
彼の手は、まるでそのページに自分の命を刻み込むかのように震えている。もうすぐ終わると思った瞬間、心の中でひとつ大きな息をついた。
書いている最中、何度も、何度も繰り返し考えた。これでよかったのか、果たしてこの結末で、全てが収まったのか。本当にそれで、何もかもが納得できるのだろうか。
だが、もう考えるのはやめた。無駄だと分かっている。こんなことをずっと探し続けるのはただの時間の浪費だと。結局のところ、これでよかったのだと信じるしかないのだと、凪は静かに自分に言い聞かせた。
目の前の原稿用紙は、もはやただの文字の集まりではない。そこには、凪自身の悩み、思い、そして希望が宿っているのだ。
それらはすべて、あなたに託された。
これから何が起こるのか、それを決めるのは凪でもなく、作者でもなく、読者であるあなた。彼の物語は、あなたの中で続いていく。これからどうなるのか。それを描くのは、もうあなたの手の中にある。
凪は、ふと目を上げ、原稿用紙から視線を外した。その目は、今この瞬間、文章を読んでいる「あなた」に向けられていた。まるであなたが目の前にいるかのように感じるその視線に、凪は少し微笑んだ。
「もしかしたら、この小説を書き終えた後の俺がいる世界が、あなたのいる世界と同じなのかもしれないな」
その言葉は、彼の心の中から自然とこぼれ出たもので、ただの一人の人間として、あなたに話しかけるような感覚。彼は軽く肩をすくめて、どこか遠くを見つめるようにして、続けた。
「もし、何かの縁で会うことができたら、この世界を終わらせるか、それとも終わらせないのか、一緒にコーヒーでも飲みながら、ゆっくりと話し合おうよ」
その言葉には、どこか楽しげな響きが含まれている。まるで重い決断を一緒に悩んでくれる、そんな心地よい空気が流れたような気がした。
そして、凪の顔には、穏やかな微笑みが浮かび、そこにはかつての苦悩がすっかり消え去ったかのように、静かで落ち着いた空気が漂っている。
彼の目には、何もかもを終わらせることへの迷いが、もうなくなっていた。
それでも、この世界を終わらせるべきなのか、終わらせるべきではないのかという問題がまだ存在していることを、凪は知っている。
その選択を、誰かと一緒に考えることができるのなら、どれほど心強いだろう。そう、もしもその時が来たのなら、きっとあなたと二人で、ゆっくりと未来を選んでいけるはずだと、凪は感じていた。
そして、凪はゆっくりと目を閉じた。目の前に広がる世界の先に、何が待っているのか。彼の心の中では、もうすべての選択が、自由に開かれている。
「じゃあ、またね」
そう告げると、凪はもう一度、微笑みを浮かべた。それは、最後の一言をしっかりとあなたに届けるように、静かに、自然に。そして、ここまで読んでくれたあなたに感謝を込めて。
そして、ページは閉じられる 松本凪 @eternity160921
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