第2話

凪は息を切らすようにして目を覚ました。

薄闇の中で乱れた呼吸を整えようと、しばらくの間、じっと天井を見つめていた。目が覚めた瞬間の感覚は鮮烈だった。汗が額を伝い、心臓がまだ不規則に高鳴っている。

だが、時間とともに体の緊張がほぐれ、現実の重さがじわじわと意識に染み込んできた。

視界に映るのは、見慣れた自室の風景だった。

ベッドの脇には、昨夜乱暴気味に置いていたリュックサック。カーテンの隙間からは柔らかな朝日が差し込み、薄明るい光が部屋全体をぼんやりと照らしている。その光が瞼に触れるたび、わずかにチクチクとした刺激を感じた。

(夢……だったのか……?)

凪は頭を抱え込むようにして小さく呟いた。

鮮明に脳裏に焼き付いたあの出来事。屋上でのアヤとの対話、そして彼女の意味不明な行動――その全てが、まるで現実のような感覚で蘇ってくる。

アヤの声の響き、彼女の微笑み、その一挙手一投足までが生々しく、どうしても夢だとは思えない。それでも、目を開けた今、ここに広がる風景はただの日常だった。異常なほどにリアルな夢だったな、と自分に言い聞かせるしかなかった。

凪は体を起こそうとしたが、直後、ふと違和感を覚える。肩口に妙な重みを感じる。それに、掛け布団の端が不自然に盛り上がっているのだ。恐る恐る布団の中を覗き込むと――

そこにはアヤがいた。

 猛烈な既視感が凪を襲う。

 彼女は凪のベッドの中で、まるで小動物が巣穴で丸まるように体を縮めていた。

細い腕が凪の体に柔らかく回され、ぴたりと寄り添うように眠っている。彼女の頬はほんのりと赤らみ、その寝顔は無防備そのものだった。穏やかな寝息が静かな部屋の中に小さく響き、そのたびに彼女の肩が微かに上下する。

抱きつくその腕の力は決して強くない。それどころか、まるで凪が逃げてしまわないように確かめるような、か弱い力加減だった。まるで子どもが夢の中で安心感を求めるような――そんな繊細さが感じられた。その仕草が、なぜかたまらなく胸を打つ。

凪の肩に触れる彼女の顔からは、普段の気丈さや意地っ張りな雰囲気は一切感じられない。ただただ、安らぎに包まれた無垢な姿がそこにあった。長いまつ毛の影が頬に落ち、微かに開いた唇から漏れる息が凪の肌にかすめる。柔らかくて、あたたかくて――触れているのにどこか儚い。

「……なぎ……」

彼女が呼んだのは、自分の名前。あまりにも小さな声だったが、それは確かに凪の耳に届いた。その一言が、胸の中で何かを熱く燃え上がらせるような感覚を呼び起こす。

(……どうすればいいんだよ……)

凪は深く息を吐きながら頭を抱えた。全てが夢で片付けられるならどれだけ楽か。けれど、今ここでアヤが自分に抱きつくように眠っている事実は、紛れもない現実だ。

(それにしても……)

凪は目の前の光景に釘付けになっていた。

凪に気を許したような姿で眠るアヤの寝顔。どこか幼さを残した表情が、凪の胸に静かな波紋を広げる。寝息とともに微かに動く彼女の唇、寄り添うように伸ばされた細い腕。その全てが、凪の目には驚くほど魅力的に映った。

(アヤって……こんなに……かわいかったのか……)

ふと漏らした言葉に、自分でさえ驚いた。普段見せる彼女の強気な態度や時折の無鉄砲さはどこへやら、今のアヤは小さな動物のようにちょこんとしていて愛らしい。自然と湧き上がる庇護欲――いや、それだけではない。それを超えた何かが凪の心にじわりと広がっていく。

不意に凪の視線がアヤの唇へと吸い寄せられた。柔らかそうなその形。普段は言葉巧みに凪を翻弄するその口元が、今は静かに微かに開いているだけ。まるで誘っているかのように見えるその様子に、凪の中に奇妙な衝動が芽生える。

(いや、まさか……)

凪は首を振り、自分を落ち着かせようとした。しかし、視線は再びアヤの寝顔に戻る。彼女の寝息が肌に触れるたびに、理性が薄れるような感覚に襲われる。心のどこかで「こんなことしてはいけない」とわかっているのに、その一方で、凪の手はゆっくりとアヤへと伸びていった。

その瞬間――。

「凪くん! 朝よ!」

突然、部屋の扉が勢いよく開かれた。ドン、という大きな音が静寂を破り、凪は心臓が飛び出しそうになる。振り返ると、そこには京子が立っていた。彼女の明るい声と笑顔は、部屋の中の空気を一変させる力を持っている。

「そろそろ起きないと遅刻するわよ!」と元気よく言いながら、京子は凪の部屋を一瞥した。そして、次の瞬間、彼女の目がアヤを捉えた。

凪のベッドの中に潜り込んでいるアヤ。そして、その横に添い寝をするようにしている凪。状況を察した京子の目が意味深に細まった。

「ふぅん……なるほどねぇ……」

口元に浮かべたニヤリとした笑みが、凪にとっては何よりも恐ろしかった。

「え? あ、いや……」

凪は慌てて口を開くが、京子はその言い訳を遮るように手をひらひらと振った。そして、まるで芝居がかった仕草で口元を覆いながら、小さく呟いた。

「昨日は……お楽しみでしたね?」

その言葉が凪の耳に届いた瞬間、全身が熱くなった。頬どころか首筋まで真っ赤になっているのが自分でもわかる。

「そ、そんなわけないでしょ!」

凪は声を張り上げたが、その声には明らかな動揺が混じっていた。京子はそれを聞きながら、なおもニヤニヤとした表情を崩さない。その余裕たっぷりの態度が凪をさらに追い詰める。

「そうよね。二人とも同い年なんだし、そういう年頃なんだから、年相応のことをしてても不思議じゃないわよね。私のことは気にしないでね☆」

京子はそう言いながら軽やかに笑うが、その声には明らかにからかいのニュアンスが含まれている。その一言一言が、凪の心にダメージを与えていく。

「だから違うって言ってるでしょ⁉︎」

凪はもう一度強く否定したが、その必死さが却って怪しさを増しているようにも思えた。京子はそんな凪の様子を見て、

「ふふっ。朝ごはんできてるから、早くリビングにいらっしゃいね」

と小さく笑いながら部屋を後にした。

残された凪は、ため息をつきながらアヤを見た。彼女は京子の登場にも動じることなく、依然として穏やかな寝顔を浮かべている。その不用心な様子が、今度は凪に別の種類の困惑を与えた。

「昨日は、何もなかった……よな?」

誰にともなく呟いたその声は、やけに虚ろに響いた。

そして、凪は隣で眠る彼女の肩にそっと手を置いた。できるだけ優しく、羽毛が触れるような軽さで。そのぬくもりに触れた瞬間、アヤは小さく身じろぎした。瞼がわずかに震え、ゆっくりとその目が開かれる。

「……あぅ」アヤが眠たげな声をあげる。その声はかすれていて、まだ夢の中にいるような儚さがあった。

「……おはよう。もう朝だよ」

アヤは少しの間ぼんやりとした目をしていたが、やがて小さく頷いた。

そして、二人並んでリビングへ向かう。

朝の光が穏やかにテーブルクロスを照らし、微かに漂うトーストの香ばしい匂いが部屋を包み込んでいた。

凪、アヤ、そして京子の三人がダイニングテーブルを囲んで朝食を摂る。

フォークがカチリと陶器に当たる音だけが響く中、凪は目の前の食卓に目を落としていたが、心は落ち着かない。

アヤは相変わらず眠たそうな顔で、トーストをちびちびと齧る。時折、半分閉じた瞼の隙間から凪の方をぼんやりと見ているようにも見えるが、気のせいだろうか。

彼女の髪は寝癖が少し残っており、か弱い姿が妙に目に留まる。昨夜から今朝にかけての出来事が鮮明に頭に浮かび、凪の胸が再び熱を帯びる。彼は顔を紅潮させないよう懸命に気を引き締め直すが、そのたびにアヤの無意識のしぐさや表情が視界の端でちらつく。

一方で、京子はスーツ姿で完璧に整った身だしなみを見せつけながら、満足げに笑顔を浮かべている。その表情にはどこか含みのあるものがあって、凪は目を合わせるのをためらった。京子は凪の沈黙やぎこちない動きをすべて見透かしているようで、何も言わずともその場の空気を掌握しているかのようだ。

「ふふ、いいわね、こういう平和な朝も」と、京子が軽やかに口を開く。

凪は思わず顔を上げたが、その言葉の真意を測りかね、何も返せずに視線を皿の上へと戻した。

すると京子は立ち上がり、食べ終えた皿をシンクへ運びながら、腕時計をちらりと確認する。

「もう時間だから行くわね。凪くん、学校頑張ってね。アヤも、ちゃんと学校行きなさいよ」

最後の一言には、軽いからかいが込められているように聞こえた。凪は何も言えずに固まったままだったが、京子はそれを楽しむようにニヤリと微笑む。そして玄関に向かった京子はそのまま慌ただしく靴を履いて出て行った。

扉が閉まる音が響き、家には凪とアヤの二人だけが残される。凪は箸を持つ手が不自然にぎこちなくなる。周囲の静けさが妙に耳に残り、京子のいない空間の密度が急に濃くなった気がする。

食卓の空気はどこか気まずく、凪はその静けさを破るように、意を決して声をかけた。

「ねえ……」

その一言は、凪自身の耳にも小さく、頼りないものに聞こえる。しかし、対面に座るアヤはゆっくりと顔を上げ、眠たげな目を凪に向けた。

「なに?」

たったそれだけの問い返しだったのに、その柔らかい声に心が揺れた。凪はしばし口ごもりながらも、やがて腹を括って口を開いた。

「あのさ、昨日……」

言葉を続けるにつれ、凪の記憶の断片が再び浮かび上がる。屋上での奇妙な会話、アヤの告白。そして、この世界が小説であるという途方もない話。凪は、それを断片的に、ぼんやりとした言葉で伝えた。

アヤは少し首を傾げ、目をぱちぱちと瞬かせた。凪が話す内容を一通り聞いた後、彼女は小さく笑みを浮かべる。

「何それ……もしかして……まだ夢の中にいるんじゃない?」

その声はからかうようでありながらも、どこか優しさを含んでいた。しかし、凪にとっては胸を突かれるような言葉だった。自分が信じようとしているものを、夢と片付けられる虚しさが、じんわりと心に広がる。凪はそれ以上何かを言おうとしたが、言葉が続かない。

やがて凪は小さく肩を落とし、「……忘れて」とだけ呟いた。

その後、二人の間には沈黙が降りた。先ほどまでの気まずさがより濃くなり、凪はもう一言も発することなく箸を動かし続けた。

アヤもまた特に何も言わず、小さく息をつきながら、ちまちまと食事を続けている。その表情は読めず、凪の胸にさらに重苦しい感覚を積み重ねていく。

凪はアヤが食事を終えるのを待つこともせず、自分の分を早々に片付けると、言葉を残すこともなく立ち上がった。その動きはどこか落ち着きがなく、視線もアヤを捉えることなく、ただ逃げるように足を進める。

「はあ……」

廊下に出た瞬間、凪は小さくため息を漏らし、自分の部屋へと駆け込んだ。ドアを閉じた瞬間、背中を壁に預けるようにして座り込む。心の中で繰り返すのは、アヤの首を傾げた仕草と、あの「夢の中じゃない?」という言葉だった。

あれは本当に夢だったのか――それとも、ただ彼女が覚えていないだけなのか。凪はそれを確かめる術もなく、ただ薄暗い部屋で膝を抱えて、小さな混乱に苛まれていた。

凪が悩みを引きずっていると、突然ノックの音が部屋に響いた。その音は穏やかで控えめだったが、彼の胸に妙な緊張感を呼び起こした。

凪は慌ててその場から立ち上がり、ドアノブに手をかけると、そこには制服姿のアヤが立っていた。寝癖ひとつない艶やかな黒髪が朝の光を柔らかく反射している。

それを見て、自分がかなり長い時間悩んでいたことに気づく凪。

アヤは少し眠たげな目で凪を見上げ、「そろそろ行くよ」と短く告げる。まるで昨日と何も変わらない日常の一コマのように。

凪はその声に促されるまま慌てて身支度を整え、アヤと並んで家を出た。

通学路は静かだった。二人の間に会話はなく、ただ一定のリズムで響く靴音だけが、朝の空気に溶け込んでいく。

凪は隣を歩くアヤの横顔をちらりと盗み見る。彼女はどこか無表情に近い穏やかさを保ちながら前を見つめていた。何かを考えているのか、ただぼんやりしているだけなのかはわからない。

十五分ほど歩き続けると、高校の正門が目の前に現れる。

高くそびえる校門をくぐり、校庭の冷たい空気が二人を包み込む。まだ始業前の静けさが漂い、わずかな鳥のさえずりが耳に届く中、凪はただアヤの後を追った。

靴箱にたどり着くと、アヤがふと立ち止まり、凪の方を向く。

「凪は転校生だから、まず職員室に行かないといけないね」

 ……え?

言葉の内容もその口調も、どこかで聞いた記憶がある――凪はそう感じた。

さらには、アヤが靴箱の右側を指差しながら付け加える。

「職員室はあっちだよ」

そして、凪の顔を見上げながら少し微笑み、「多分同じクラスだから、待ってるね」と言い残して、校舎の中へと去っていった。その背中が小さくなるまで見送る凪の中に、不思議な違和感が込み上げる。

昨日と全く同じ。そう思わずにはいられなかった。いや、昨日ではないのかもしれない。夢の中の出来事――その可能性も否定できない。

だが、どちらにせよ、以前の出来事と現実が完璧に一致している感覚に凪は動揺していた。細かい仕草、言葉遣い、景色、空気の匂い……すべてがあまりにも酷似している。これは偶然ではない。必然でもない。そう直感する。だとすれば、一体何がこの感覚を生み出しているのか――凪は靴箱の前で、まるで足元の地面が揺らいでいるような不安定さを覚えながら、静かに立ち尽くしていた。

そのまま凪はアヤに促されるまま、職員室へと足を向けた。

校舎内の廊下は朝の清々しい光に満たされ、足音が反響するたび、奇妙に耳に残る。これまでに何度も見たことがあるような既視感が、彼の胸をじんわりと覆っていた。

職員室の前に立ち、凪は小さく息を吐くと、ドアを静かに開けた。

室内には一人の男性が立っていた。短めの黒髪に眼鏡をかけたその姿――瞬時に凪の記憶の奥から引っ張り出される名前。「梶谷先生」。知っている。間違いなく知っている。

その男性、梶谷先生がこちらに気づき、穏やかな笑みを浮かべて口を開く。

「君、転校生か?」

凪は無意識に頷き、ぎこちなく返事をする。

「あ、はい。転校生です」

「ちょうど俺が君のクラスの担任だから。名前は梶谷。今日のホームルームで自己紹介をしてもらうから、準備しておいてな」

その言葉――凪の心に不意打ちのように響いた。「一緒だ」と心の中で呟かずにはいられない。声のトーン、言葉の順序、表情の微妙な動き……すべてが以前と寸分たがわず同じ。

凪は混乱する頭を抱えつつも、梶谷先生に続いて教室へ向かう。

その途中、廊下の景色さえもどこか既視感に苛まれる。教室の前に立ち、扉が開け放たれると、中にいる生徒たちのざわめきが一瞬だけ静まった。すべての視線が凪に向けられる。その瞬間、凪の胸に小さな動揺が走る。しかし、それは昨日……いや、もしかしたら夢の中ですでに経験したはずの感覚だ。

梶谷先生がクラス全体に向かって軽く手を上げ、「今日からこのクラスに新しい仲間が加わります」と言った。

声の抑揚も表情も、またしても一緒。凪は前に進み出るよう促され、自分の名前を名乗った。二度目の自己紹介だったせいか、緊張は思ったより少ない。教室のあちこちからパラパラと起こる拍手の音。

「じゃあ、あそこの席に座ってくれ」と梶谷先生が示した席は、教室の真ん中あたり。凪が促されて歩くたび、視線がついてくるような感覚がする。

席に着きながら、凪は胸の奥で再び湧き上がる疑問を抑えきれなかった。何もかも、同じ。景色も、会話も、振る舞いも――この違和感の正体は何なのか。この世界は一体どうなっているんだ。凪は静かに周囲の様子を見渡しながら、胸の中の混乱が解ける糸口を必死に探していた。

やがては昼休みの鐘が鳴り、教室内が一気にざわつき始めた。

生徒たちがそれぞれの仲間と弁当を広げ始める中、凪は自分の席に座り、静かに弁当箱を取り出した。箸を持つ手がわずかに震える。周りの喧騒に溶け込むどころか、どこか疎外された感覚が胸を締め付けていた。

凪の頭には、一つの考えが根を張っていた。

(もうすぐ来るはずだ……)

視線を伏せながら、彼はその瞬間を待つ。

すると――

「転校生くん」と、控えめで明るい声が聞こえてきた。凪は顔を上げる。その声の主は、間違いなく井上小春だった。

机の横に立つ小春は、弾むような笑顔を浮かべながら凪を覗き込んでいる。

「よかったら、一緒にご飯、いい?」

 その言葉が、凪の胸の奥に新たな波紋を広げる。あの時、初めて話しかけられた時と同じように、今もまた彼の心臓は少しだけ速く打っている。小春の存在が、予想以上に凪の心を動かすのだと気づき、彼は一瞬、言葉を探すように沈黙した。

凪は反射的に「うん」と答えていた。答えを口にする瞬間、自分が何をしているのかさえ分からず。小春は満足そうに微笑みながら、自分の弁当を持って凪の席に腰を下ろした。

二人で弁当をつつきながら、会話が自然と流れ始める。

案の定、小春が尋ねてくるのは、以前聞かれたことと全く同じ内容だ。「こんな時期に転校してくるの、珍しいね」「こんな時期に転校してくると、なかなか友達ができにくいんじゃないかな」凪は自分の動揺が悟られないように平然を装っていた。

そして、気づけば放課後になっていた。

ふとアヤの席に目をやると、そこは空っぽ。凪は無意識のうちにアヤの姿を探す。教室の中、廊下の先――けれど、どこにも彼女の姿は見当たらない。

「前は……」凪は思い出す。確か、前は廊下に出た瞬間、アヤが話しかけてきたはずだ。「ついてきて」と。そのまま屋上に連れられ、この世界が小説であることを告げられた。あの瞬間の奇妙さと衝撃は、未だ鮮明に記憶に焼き付いている。

けれど――今日は違った。廊下は人影がちらほら見えるだけで、アヤの姿はどこにもない。周囲を見渡しても、彼女が話しかけてくる気配すらない。

「何が……起こっているんだ」凪の胸には、不安とも恐怖ともつかない感情が渦巻いていた。何もかもが同じなのに、肝心なところが抜け落ちている。それはまるで、何者かが物語の筋をねじ曲げたかのような違和感だった。

凪が廊下でぼんやりと立ち尽くしていると、背後から軽やかな声が届いた。

「ねえ、よかったら一緒に帰らない?」

振り返ると、そこには井上小春が立っていた。

穏やかな笑顔を浮かべた彼女は、日が沈みかけた窓辺の光を受けてほんのりと輝いているように見える。

凪は一瞬言葉を失い、胸の奥で何かがざわつくのを感じた。アヤではなく、小春に声をかけられたことへの戸惑いがその原因だろう。けれども、その理由を考える余裕もなく、凪は小春の誘いに「うん」と頷いた。

二人は並んで校舎を後にする。校門を抜け、通りに出ると、冷たさが残る夕風が頬を撫でていく。足音がアスファルトに小さく響く中、小春が話題を振り始めた。

「転校してきて、初めての授業、どうだった?」

凪は少し考え込むようにしながら「普通かな。緊張はしたけど」と答えた。

「そっか。友達はできそう?」

「まだわからないかな」と凪が正直に答えると、小春は少し笑って「そうだよね、焦らなくていいよ」と返す。その声にはどこか温かさが含まれている。

他愛もない会話が続く。田舎と都会の違い、凪が暮らしていた場所の話、趣味のこと――。こうした平凡なやりとりが、凪にとってはどこか新鮮だった。気づけば会話に引き込まれ、ほんの少しだけ心が軽くなっているのを実感する。

やがて、小春がふと問いかけた。

「そういえば、部活とか入るつもりある?」

凪はしばらく考えたが、やがて首を振った。

「いいや、まだ考えてないよ」と素直に答える。

「そうなんだ」と小春は頷くと、「私、文芸部に入ってるの」と話し始めた。

「文芸部?」

「うん、みんなで小説を書いたり、本を作ったりしてるの。それに自分の好きな本を持ち寄って、読み合ったりもしてる」

小春の瞳が、夕日の光を受けて輝いて見えた。その楽しそうな雰囲気に圧倒され、凪は曖昧に頷く。「楽しそうだね」

すると小春は嬉しそうに「うん。それでね」と鞄から一冊の本を取り出した。表紙は控えめで素朴だが、どこか温かみがある。薄い装丁に手書き風のタイトルが印刷されている。

「これ、私が書いた本なんだ。あんまり力作じゃないし、短いけど、よかったら読んでみて」

彼女が差し出した本を受け取ると、凪は自然とその表紙を撫でていた。手触りが少しざらついていて、温もりを感じる気がした。「ありがとう。読んでみるよ」と凪が答えると、小春は満足げに微笑んだ。

小春はほんの少し頬を染めて、視線をさまよわせながら言った。

「じゃあ私、こっちだから」と、恥ずかしそうに微笑んで、足早にその場を離れた。

その背中が遠ざかるにつれて、凪は少しだけ胸が高鳴っていく。まるで心の奥底に何かが芽生えたような、そんな不思議な感覚に包まれる。手の中の本を大事に鞄へしまい込むと、心なしかその感触がいつもより温かく感じた。

小春の顔が、ふわりと頭に浮かぶ。あの笑顔、あの照れたような表情。それが今でも目の前にあるかのように鮮明に思い出される。そして、ほんの少しだけ頬を赤くしながら、凪はゆっくりと歩き始めた。

そのまま、いつもの道をたどる。しばらくの間、凪に渦巻く重力が半分になったかのように軽快に。

そして、アパートの玄関扉を閉めた音が、狭い室内に乾いた反響を生んだ。

凪は無意識のうちにその音をやり過ごし、鞄を肩から降ろしつつ自室のドアを開けた。部屋の中は薄暗く、ベッドの傍にある小さな窓から僅かに差し込む夕陽だけが、この空間に色を与えている。

ベッドに腰掛けると、凪はふと大きな息を吐いた。

学校での出来事が頭を巡り、ほんの少しだけ疲労感が押し寄せてくる。制服のままその場に倒れるようにして背中をベッドへ預けると、目の前に広がる天井をぼんやりと見上げた。

無数の白い模様が浮かぶ天井は、田舎に住んでいた頃の自分の部屋とは違って、妙に冷たい印象を与える。

(そういえば、本、もらったんだった)

すぐに凪は起き上がり、鞄の中を探った。薄くて軽い本がすぐに手に触れ、そのまま取り出す。表紙は柔らかなクリーム色だが、タイトルは書かれていない。

それを眺めながら、小春との今日の会話を思い返す。

髪が揺れるたびに柔らかな光を帯びるように見えた彼女の後ろ姿。弁当を一緒に食べているとき、ふと笑顔を浮かべてこちらを見るその表情。ほんのり赤みを帯びた唇が、こちらに向かって優しい言葉を紡ぐ様子。その全てが、脳裏に焼き付いて離れない。

「今日も、綺麗だったな……」そう口にした瞬間、徐々に頬が熱を帯びていく。まるで誰かに聞かれているような恥ずかしさが込み上げる。

しばらくして気持ちを落ち着けた凪は、再び本に視線を落とした。手の中に収まるほどのこの本を読むことによって、彼女の心の中の一部が垣間見えるような気がして、心がざわつく。

「四万字くらいかな、そんなに長くない」田舎で暇つぶしに本を読んでいた経験から、これなら一晩で読めるとすぐに判断がついた。

読み始める前に、小春が文芸部に所属していると言っていたことを思い出す。彼女がどんな気持ちでこの本を作ったのかを考えると、胸の奥が温かくなるようだった。そして、凪の中で一つの思いが芽生える。

「文芸部か……俺も入ってみようかな」

甘酸っぱいことを思いながら、凪は静かに本を開き、ページをめくり始めた。

しかし、最初の数行を読んだところで、彼の手が微かに震えた。目にした言葉が、どうにも信じられないものに感じられたからだ。

『松本凪は、窓の外に広がる都会の風景に目を奪われていた』

それが、最初の一文だった。彼の名前が、あたかも本の中の登場人物として書かれていることに、凪は強烈な違和感を覚えた。

『ビルが林立し、無数の窓が朝の陽射しを受けてキラキラと輝いている。その下を走る車の列はまるで止まることを知らない生き物のように動き続け、見慣れた田舎の穏やかな風景とはまるで別世界だった』

その先の描写は、まるで今、自分が見ている風景そのものであった。都会の風景。ビル群と走り続ける車、まさに今朝の景色。彼がここに来たばかりだという事実を思い出して、凪は背筋を冷たく感じた。彼は本を置き、手を額に当てて深く息を吸う。

「……なんだこれ」

彼はつぶやいた。小春が書いたものだと思っていたその本に、凪自身の名前があり、彼の記憶と完全に一致する出来事が描かれている。

今日の朝、目を覚ましたばかりで、まだ何も進んでいないはずだ。それなのに、この本はまるで自分がここに来た経緯をすべて知っていたかのように進んでいる。

凪は再びページをめくり、もう少しだけ読む。

『流れる人波に抗う余裕もなく、足を動かし続けるしかない状況に陥った凪は、ふと柱のそばへ逃げ込んだ。混雑から少し離れ、スマホを握りしめた手がじっとりと汗ばんでいることに気づく。

「4番出口って、どこだよ……!」

ぼそりと漏らした独り言は誰にも聞かれることなく、騒がしい駅の喧騒にかき消された。駅構内の広さに圧倒されながら、焦燥感が胸を締め付ける。人の流れがどこへ向かっているのかもわからないまま、凪は再び地図とにらめっこしつつ足を動かし始めた』

その時の自分が感じていることがそのまま描写されていた。引っ越してきたばかりの不安、でもそれと同時に湧き上がる期待感、それらが綺麗に文字となって並べられている。

『カチリ、と小さな音がして、ドアが開いた。

玄関の先に短い廊下があり、その奥に見えるのはこぢんまりとしたワンルーム。家具のない空っぽの部屋を想像していた凪の目に飛び込んできたのは、まったく予期していない光景だった。


部屋の真ん中に、一人の少女が座っていた。


凪はふと目を奪われる。目の前に現れた少女の姿は、まるで絵画のように美しかった』

凪が、アヤと初めて出会った瞬間だ。あまりにも繊細に、不気味に、まるでその様子を間近で見ていたかのような表現だ。

「…………」

凪は目を細めて、本をじっと見つめた。小春と会ったのは、今日が初めてであるはずだ。だとすれば、どうやってこの本を書いたのか。何故、凪のことを知っているのか。

思わず声に出して問うてしまいそうになる自分に、凪は驚き、唇を噛んだ。冷や汗が額に浮かび、手に持っていた本を少し力強く握りしめた。

(どうして、どうして俺のこれまでの出来事が書かれてあるのだろう。 俺が感じたこと、見たこと、あった出来事がまるで小説のように描かれている。これが単なる偶然だとしたら、どれだけ恐ろしいことだろうか)

その本を読み進めるたびに、凪の身体に一層の不安が広がった。

ページをめくるたびに、その内容がどんどん現実味を帯び、まるで自分が夢の中に囚われているような、確信に変わる感覚が胸を締めつける。

『「この世界は、一人のある人間によって創られた物語の世界」

その瞬間、凪の胸に冷たい波が押し寄せた。物語。創られた世界。そんな話が現実にあるはずがない。

凪は立ち尽くし、目の前にいるアヤが言うことが、どこか夢のように聞こえていた。でも、その目を見れば、アヤが言っていることが冗談でも妄想でもないと感じる。彼女は、本当に本気で言っているのか。

時間が止まったかのように、何もかもが静止した空間に凪の心臓の音だけが鳴り響く。アヤが言うその言葉をどう解釈すればいいのか、凪には分からない。

「凪や私たちは、作者によって操られている登場人物でしかない。そして、私たちの過去の記憶も、すべて……作者が作り出した捏造の産物なの。物語に関係のない記憶なんて、はじめから存在していない」』

凪は息を呑んだ。アヤが言った言葉が、本にそのまま書かれていることに気づき、凪は一瞬、目を疑った。

もし、この本に書かれている内容が、凪の過去そのものであるとしたら。ならば、アヤが告げた言葉も、すでに確定した出来事として存在していることになる。

アヤの屋上での言葉を鮮明に思い出した凪。

今、凪がこうして本を読んでいる瞬間も、誰かに見られているのだろうか。読者に。それとも、作者や編集者に。そして、もしかしたら、この物語の展開すらも、すでに誰かによって決められているのだろうか。その考えが凪の背筋を凍らせ、まるで視線を感じるかのように思えた。

凪の手は震え、ページをめくるごとに胸の奥に冷たい鉛が流し込まれるような感覚に襲われる。目の前の文字はただの印刷物のはずなのに、その一つひとつが生々しく、凪自身を縛りつける鎖のようだった。

記されている内容は紛れもなく、凪の今日一日の出来事だ。

朝、アヤを起こしたこと、京子が部屋に入ってきたこと、そして、身の回りの全てに既視感を覚えたこと──すべてが克明に書かれている。まるで凪が生きた瞬間を切り取り、無遠慮に活字へと変えたかのように。

時間の流れに従い、記述はどんどん「今」に近づいていく。

ページをめくるごとに悪寒が背中を這い上がり、心臓が締め付けられるように痛む。やがて辿り着いたのは、つい先ほどのこと──小春からこの本を受け取る場面だ。小春が何気ない微笑みとともに差し出した、この本を——

恐怖と困惑の渦中で、凪はページをめくり続けた。指先の動きは無意識で、それでも止まることを許さないような強迫観念が彼を突き動かしていた。そして、ついにその「今」に到達した。

目の前の文字は、まさに凪が本を読み進めている自分自身を描写していた。たった数秒前のこと、彼が悪寒に耐えながらページをめくる仕草、その瞳に浮かぶ恐怖の色──すべてが本の中に刻まれている。それはあり得ない、説明がつかない。「こんなことがあっていいのか」と頭の中で叫びながら、凪は最後のページに視線を落とした。その瞬間、本は静かに終わりを告げた。

『恐怖と困惑の渦中で、凪はページをめくり続けた。指先の動きは無意識で、それでも止まることを許さないような強迫観念が彼を突き動かしていた。そして、ついにその「今」に到達した。

目の前の文字は、まさに凪が本を読み進めている自分自身を描写していた。たった数秒前のこと、彼が悪寒に耐えながらページをめくる仕草、その瞳に浮かぶ恐怖の色──すべてが本の中に刻まれている。それはあり得ない、説明がつかない。「こんなことがあっていいのか」と頭の中で叫びながら、凪は最後のページに視線を落とした。その瞬間、本は静かに終わりを告げた』

「っ……!」

その瞬間、凪の中で何かが弾けた。理解できない現実が重なり合い、耐えきれない恐怖が膨れ上がる。

「うわああああぁぁぁぁ!」

彼は息を呑み、手にしていた本を無造作に壁へと叩きつけた。乾いた音が部屋に響き、本は無力な塊となって床に落ちた。

凪はベッドに崩れ落ち、両手で頭を抱えた。

「なにこれ……なんなんだよ……!」

心の中で湧き上がる疑問は次々と形を変えながら、自分自身を追い詰めていく。現実のようで現実でない、説明のつかない現象に囚われ、凪の思考は混乱の深みに沈んでいった。

「あああ……」

部屋の静寂が、凪の乱れた呼吸だけを際立たせていた。

コンコンコン――

その瞬間、静寂を切り裂くようにドアがノックされた。

一定の間隔で刻まれる無機質な音が凪の部屋に響き渡る。なんでもない音のはずなのに、その瞬間、凪の全身に強烈な恐怖感が押し寄せた。

無意識に喉から漏れる「ひっ……!」という短い悲鳴。凪は息を呑み、硬直した体でドアをじっと見つめた。

ドアは開かない。さっきの音は幻聴だったのか。それとも、ドアの向こうで誰かが凪の返事を待っているのか――そんな考えが頭を巡る。もし誰かがいるのなら、それは誰なのか。 凪は答えの出ない疑問に心をかき乱され、恐怖に飲まれていく。

すると再び鳴り響いた。コンコンコン。ドアを叩く音がはっきりと響いた。今回は幻聴ではない――間違いなく現実だ。凪の胸が強く脈打ち、冷たい汗が背中を伝う。震える脚を無理に動かしてベッドから立ち上がり、重たい空気を切り裂くように一歩ずつドアへと近づく。全身の神経が張り詰め、目はドアの無機質さに吸い寄せられるようだ。

「誰……?」声に出してみたが、掠れた声は自分の耳にしか届かない。返事はない。ただ静寂が返ってくるだけだ。凪は恐る恐る手を伸ばし、ドアノブに触れる。金属の冷たさが肌を刺し、さらに恐怖を煽った。そして、ゆっくりとドアを引く。

 瞬間、黄色い声が鼓膜に響いた。

「こんばんは」

開いた隙間から見えたのは―― 小春だった。井上小春。

茶髪のぽわぽわした癖毛が揺れ、相変わらずの綺麗な顔立ち……だが、凪の目を捕らえたのは今までとは異なる表情だった。普段の愛らしい微笑みではなく、薄気味悪い笑み。形だけの笑顔がその顔に貼り付いているかのように見えた。

「うわっ!」凪は喉から叫び声を上げ、その場で尻餅をついてしまった。冷たい床の感触が体に広がるが、そんなことを感じている余裕はない。視線はただ、ドアの向こうの小春に釘付けだった。

すると、小春がふふっと笑った。その笑い声は甘く響くはずなのに、どこか空虚で、耳障りに感じる。

「面白かった?」 小春が口を開き、静かな声で問いかける。

「私の小説、どうだった?」

その言葉が耳に届いた瞬間、凪は言葉を失った。彼女の表情は笑っているのに、その瞳の奥には底知れない何かが潜んでいるように見える。

凪は喉が詰まったように何も言えなかった。目の前の小春を見つめるだけで、何か言葉を発しようとしても声にならない。

小春は、凪の様子を静かに観察していた。口を閉ざし、顔から血の気が引いていく凪の姿に満足したように、ふっと息を漏らす。そして、まるで凪の心を見透かしたように言った。

「気になる?」

彼女の声は穏やかで、まるで親しい友人に語りかけるかのような優しさがあった。しかし、その瞳の奥には冷たい光が宿っている。

「どうして私がこんな小説を書いたのか。気になるんでしょ?」

凪はぎくりと体を震わせた。確かにそれが気になっている。けれど、それを聞いてしまうことで何か取り返しのつかないことが起きるような予感もする。それでも、小春の問いに対する答えを示せないままでいると、小春の唇が再び動いた。

「私はね、この世界が退屈なの」

小春はそう切り出した。声には抑揚がない。それでいて不思議と耳に残る響きがあった。

「何もかもが同じ。規則的で、変わり映えがなくて、心が動かないのよ。最初はマシだった。だけど、結局はそれもすぐに飽きちゃった」

凪は何も言えず、ただ小春の言葉を飲み込むように聞いていた。小春は視線を逸らし、どこか遠くを見るような目をして続けた。

「だからと言って、私には自由なんてないの。上の指示に従うだけ。あれをやれ、これをやるな、何もかもが決められていて、私はそれをこなすだけの存在。反抗してもいいけれど、後々面倒なことになるのよ」

小春の声にはほんのわずかだが苛立ちが混じった。

「面倒が増えるだけ。そんなことをするエネルギーなんて私にはない」

小春の笑顔が少し歪んだ。それは笑っているように見えて、どこか絶望的な表情でもあった。凪の背筋に冷たい汗が伝う。

「でもね、この世界はどんどん不安定になっているの。あまりにも不確定要素が多すぎて、何がどうなるのか、もはや誰にもわからない。悲劇が起きるのも、時間の問題」

小春は凪をまっすぐ見つめた。その瞳には冷酷な光が宿っている。

「だから、終わらせることにしたの。この物語を。そして、その鍵を握っているのが――」

小春はゆっくりと手を伸ばし、凪を指差した。

「――あなた、松本凪、くん」 彼女の声は静かだったが、その言葉が持つ重みを持っている。

「あなたがこの物語の主人公で、一番の不確定要素だから。そして、あなたを殺せば、全てが終わる。物語も、私の退屈も」

 瞬間、小春はスッと手を後ろに回した。彼女が何をしようとしているのか理解する暇もなく、凪の視線は小春の動きに釘付けになった。

「さようなら、凪くん」

その言葉とともに、小春は鋭い光を放つナイフを握りしめ、一瞬の隙をついて凪の胸元へと突き出した。凪は目を見開く。

時間がゆっくりと流れるように感じた。反射的に足を踏み出し、体を横にずらす。刃先が紙一重で脇をすり抜け、服の繊維を切り裂く音が耳に届いた。心臓が爆発しそうなほど脈打ち、冷や汗が背中を伝った。

「危なっ……!」

凪は息を荒げながら距離を取ろうとしたが、小春の目はまだ狙いを外していなかった。その目には狂気が宿り、彼女の薄い微笑みがその異常性を際立たせている。

「無駄よ」小春は口元を歪めた。それは喜びとも苛立ちともつかない、曖昧で不気味な表情。彼女はナイフを再び構え直し、一歩踏み込む。その動きは迷いがなく、凪の心臓を冷たい手で握りつぶすかのような威圧感を持っていた。

直後、凪の腕に鈍い衝撃が走った。小春のナイフが凪の左手を掠め、深くはないものの鋭い痛みが手の甲を切り裂く。

瞬間的に反射して手を引っ込めたが、滴る血が床に赤い点を作っていく。思わず息を呑んだ凪は、痛みよりも、自分を狙う小春の冷徹な表情に戦慄した。小春の瞳は恐ろしく静かで、そこには一切の迷いが感じられない。

凪は血の滲む手をぎゅっと握りしめ、後退しようとしたが、床が滑り、足元が危うくなった。その隙を小春は見逃さない。鋭い動きで一気に間合いを詰め、振り上げたナイフを凪の胸元に向かって突き出した。

「っ……!」凪は咄嗟に体を捻って逃げようとしたが、今度は完全に避けきれなかった。ナイフが凪の肩口を掠め、痛みと共に鮮血が舞う。反射的に手で肩を押さえる凪だが、間に合わず、ナイフの切っ先が服と皮膚を裂き、その傷口がじんわりと熱を帯びていく。

 凪は直後、息を呑んだ。

小春の鋭い目がわずかに動いたかと思うと、その手がまるで獲物を仕留める猛禽のように動き、ナイフの刃が一直線に凪の胸元を狙ってきた。凪は反射的に体を引こうとしたが、足元が床に縫い付けられたかのように動かず、時間が止まったような感覚に襲われた。

「――っ!」

次の瞬間、鈍い衝撃が胸元に走り、凪は言葉にならない呻き声を漏らした。ナイフの冷たい刃が胸の中心に突き刺さり、深く侵入する感触が全身に広がる。痛みが遅れてやってきた。鋭く、焼けつくような痛み。それと同時に、ナイフが心臓のすぐ近くを通ったことを本能で悟った。

 凪の胸元に突き刺さったナイフは、鋭い刃先を通して冷たさと熱さの入り混じった奇妙な感覚を体中に送り込んでいた。刺された瞬間、痛みは確かにあったが、それ以上に、血が体外へと流れていく感覚が凪の意識を支配していた。肌を伝う生暖かい液体がシャツを濡らし、滴り落ちて床を濡らしていく音が耳に残る。

力が抜けるように、凪はその場に倒れ込む。仰向けになった体が硬い床に打ちつけられる。視界が滲み、世界がぼやけていく中で、凪は目の前の光景を捉えた。

小春がその美しい顔立ちにかすかな狂気を宿しながら、自分に馬乗りになっている。茶髪の癖毛が乱れ、わずかに肩にかかったそれさえも、肉感的で生々しい現実の象徴のように見えた。

「痛い?」と小春が問いかける声は、妙に優しげで、けれどそこには冷たさが滲んでいた。その声が空気を震わせるたび、凪は自分がまだここにいるのだと認識させられる。しかし、その感覚も次第に薄れていった。

意識の遠のく中、凪の心には不思議な感情が湧き上がっていた。

死ぬのかもしれないという確信。その一方で、目の前の小春の姿があまりにも現実離れして美しく、どこかでその状況すら受け入れたくなるような気持ちが芽生えている。彼女の肉感的な肢体と、狂気を含んだ微笑みは、凪にとって現実の終わりを象徴する芸術作品のようだった。

(俺、死ぬんだな……)

そう心の中で呟いた凪は、不思議なことに焦りや恐怖を感じていなかった。ただ、現状を受け止める自分がいて、ほんの一瞬、心のどこかで幸福感すら芽生える。こんな状況でくだらないと分かっていながらも、凪は思ってしまう――小春にこんなにも近くで触れられていることが、少しだけ嬉しい、と。

しかし、その感情さえもやがて薄れ、凪の視界は完全に霞んでいく。小春の声も、表情も、そして体温すらも遠ざかる中、凪は静かに意識を手放した。

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