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松本凪
第1話
松本凪は、窓の外に広がる都会の風景に目を奪われていた。
ビルが林立し、無数の窓が朝の陽射しを受けてキラキラと輝いている。その下を走る車の列はまるで止まることを知らない生き物のように動き続け、見慣れた田舎の穏やかな風景とはまるで別世界だった。
「すごい……」
思わず口をついて出たその一言は、窓に映る自分の顔に飲み込まれていった。
田んぼや畑に囲まれた小さな町で育った凪にとって、この景色は新鮮すぎて胸を高鳴らせた。けれど、心のどこかにぽっかりと穴が空いている感覚もある。青々とした山々や、夏になると響く蝉の声。それらがもう、毎日の風景ではなくなる――そう思うと、少し寂しい。
(ちゃんとやっていけるのかな……)
小さな声でつぶやいたその瞬間、胸の奥に不安が渦を巻いた。新しい生活に馴染めるだろうか。新しい街、新しい人間関係、そして新しい自分。期待に胸が膨らむ一方で、上手くいかない未来のイメージが頭をよぎる。
でも、それと同時に感じるのは、今まで知らなかった世界へのわくわく感だ。知らない駅、初めて通る通り、新しい学校。日々がどんな風に変わっていくのだろう。
窓の外を追う目が、ふと遠くの空に吸い寄せられる。青空に浮かぶ雲は田舎で見たものと同じ形をしているのに、都会の空の下ではどこか違って見えた。
窓ガラスに映る自分を見つめながら、凪はそっと胸に手を当てた。不安と期待が入り混じり、頭の中を駆け巡る。電車が新しい駅に向かって走り続けるように、彼の時間も止まることなく動いていくのだ。
電車の揺れが小刻みに続く中、凪は目的の駅で降りた後のことを頭の中で何度もシミュレーションしていた。
都会の駅はとにかく複雑で、迷いやすいと聞いていたからだ。どの出口を目指すか、どの階段を使うか、スマホの地図を頭に叩き込んでは、視線を窓の外へ戻す。その繰り返しだった。
目的地に近づくにつれ、電車内の人口密度も急上昇していく。次々と乗り込んでくる人々が押し合いへし合い、凪の周囲の空間はどんどん狭くなっていった。満員電車の独特の圧迫感に、自然と緊張が体を包み込む。
すると、電車が目的の駅に滑り込んだ。ドアが開くと同時に、どっと押し寄せる人の流れに凪は呑み込まれる。
「おっと……!」
声にならない驚きが口をついて出る。流されるようにホームへ足を踏み出した凪は、混雑に揉まれながらもスマホを片手に持ち、地図を確認しようとする。しかし、周囲の圧力に集中力を奪われ、画面をじっくり見る余裕もない。
落ち着け……
そう自分に言い聞かせながら、見上げた案内板に「4番出口」という文字を探すが、どこにあるのかまるで見当がつかない。
流れる人波に抗う余裕もなく、足を動かし続けるしかない状況に陥った凪は、ふと柱のそばへ逃げ込んだ。混雑から少し離れ、スマホを握りしめた手がじっとりと汗ばんでいることに気づく。
「4番出口って、どこだよ……!」
ぼそりと漏らした独り言は誰にも聞かれることなく、騒がしい駅の喧騒にかき消された。駅構内の広さに圧倒されながら、焦燥感が胸を締め付ける。人の流れがどこへ向かっているのかもわからないまま、凪は再び地図とにらめっこしつつ足を動かし始めた。
冷静を装っているつもりでも、迷子になった現実に対する焦りが次第に膨らんでいく。やっぱり上手くいかないのかもしれない、という不安が頭をよぎるたび、凪はかぶりを振って追い払った。
柱のそばで途方に暮れていた凪は、意を決して近くにいた駅員のもとへ向かった。制服姿の駅員は忙しそうにしていたが、凪が声をかけると、穏やかな笑みを浮かべながら「4番出口はこちらですよ」と丁寧に案内してくれた。その親切な対応に、凪は少しだけ緊張が解けた気がした。
「あ、ありがとうございます!」
軽く頭を下げてから、言われた方向へ足を向ける。慣れないICカードを改札にかざし、無事に外へ出られたことで、小さな達成感が胸に灯った。しかし、次なる壁がすぐに凪を待ち受ける。
スマホの画面に表示された地図は、目的地までのルートを鮮明に示している……はずなのに、凪にはどこがどこだかさっぱりわからなかった。矢印が指す方向と目の前の景色がどうにも一致しない。
「これ……本当に合ってるのか?」
独り言を漏らしながら、しばらく画面と実際の道を交互に見つめる。頭の中は混乱の嵐だったが、少しずつ、地図の見方が飲み込めてきた。目印をひとつひとつ確認するように歩き始めると、不思議と足が進むようになった。
駅から外に出ると、都会の真夏の日差しが凪を容赦なく照りつけた。アスファルトから立ち上る熱気が肌にまとわりつき、背中に滲む汗が不快だった。それでも歩を止めるわけにはいかない。
(あと少し……)
気合いを入れ直し、凪は自身を鼓舞する。大通りの喧騒は次第に遠ざかり、どこか静かな雰囲気が漂う通りに入ると、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。
深呼吸を一つ。都会の空気はどこか重たい気がしたが、それでも新しい生活が始まる高揚感に押されて、歩き続けられた。汗がこめかみを伝い、地面に滴り落ちる。ふと額を拭いながら、凪はもう一度スマホを確認する。
地図を信じて一歩を踏み出すたび、心の中に少しずつ自信が芽生えていく気がした。都会という大きな舞台の中で、まだ小さな存在の自分。でも、一歩一歩進むたびに、いつかこの場所に馴染める日が来るかもしれない――そう思いながら、凪は歩みを止めなかった。
やがて辿り着いた先は、地図が示していた通りの小さなアパートだった。
古びた外観に、ところどころ塗装の剥がれた壁。それでも、凪はここが自分の新しい生活のスタート地点なのだと思うと、不思議と胸が高鳴った。
「……ここで間違いない、よな?」
スマホの画面をもう一度確認し、住所を何度も見比べる。間違いない、と自分に言い聞かせると、意を決して金属製の階段を上がり始めた。足を踏み出すたび、階段からコツン、コツンという音が響き渡る。静かな午後の空気にその音だけがやけに鮮明だった。
二階に辿り着くと、「203」と書かれたプレートが目に入った。これが自分の部屋だ。凪はポケットから鍵を取り出し、手の中で少し握りしめた。どうしてこんなに緊張しているのだろう――自分でも理由がわからない。ただ、心臓が少し早く鳴っているのを感じながら、鍵を鍵穴に差し込む。
カチリ、と小さな音がして、ドアが開いた。
玄関の先に短い廊下があり、その奥に見えるのはこぢんまりとしたワンルーム。家具のない空っぽの部屋を想像していた凪の目に飛び込んできたのは、まったく予期していない光景だった。
部屋の真ん中に、一人の少女が座っていた。
凪はふと目を奪われる。目の前に現れた少女の姿は、まるで絵画のように美しかった。
黒く長い髪が風になびき、光を受けて艶やかに輝いていた。その髪は彼女の白い肌と見事に調和し、まるで夜空に浮かぶ月のように柔らかで清らかだった。彼女が身に纏っている白いワンピースは、透き通るように軽やかで、華奢な体に優しくフィットしている。まるで人形のように繊細で、視線を落とすたびにその美しさに引き込まれそうになる。
顔立ちも完璧だ。まつげは長く、目は大きくてまるで星のように煌めき、唇はほんのりピンク色に染まっている。目の前に立つ彼女は、まるで夢の中から出てきたような存在で、実際にいるとは思えないほどの美しさだった。
凪は彼女の美しさに息を呑む。胸の奥が熱くなり、目を逸らすことができなかった。
「……え?」
直後、凪の脳は状況を処理するのを完全に拒否した。時間が止まったかのように固まった凪に、少女がゆっくりと顔を上げる。そして、その大きな瞳がまっすぐに凪を捉えた。
目が合った。
その瞬間、凪の全身に鳥肌が立ったような感覚が走る。そして、反射的に手を伸ばして扉を思いっきり閉めた。
「……誰っ⁉︎」
胸の鼓動が一気に加速する。ドアを閉めたまま、その場にしゃがみ込み、荒れた息を整えようとするが、頭の中は混乱でぐちゃぐちゃだった。
さっきの少女は一体何者なのか。どうして自分の部屋にいるのか。誰もいないはずなのに――そもそも、鍵を開けたのは自分だ。侵入者がいるわけがない。でも、確かに少女はそこにいた。
凪はドアに耳を押し当て、部屋の中の音を伺った。しかし、ドアの向こうはあまりにも静かで、不気味なほどに何も聞こえない。
凪はスマホを再度見つめ、地図の表示を確認した。確かにこのアパート、そしてこの部屋番号で間違いない。何度も確認して、ようやく自分を納得させることができた。しかし、頭の中ではまだ疑念が消えない。何かの見間違いだったのだろうか。
再びドアに手をかけ、ゆっくりと開ける。その瞬間――
目の前に、あの少女がいた。
「……ッ!」
驚きのあまり、凪は足を踏み外し、尻もちをついてしまう。背中に衝撃が走り、しばらく立ち上がれなかった。目の前には、何も言わずにただ立っている少女がいる。
その視線は冷静で、まるで自分の存在が最初からここにあるべきだったかのように、余裕を持って見下ろしている。
「君は、……誰?」
震える声で問いかける凪。しかし、少女は動じる様子もなく、静かに一言、答える。
「アヤ」
その名前を聞いた瞬間、凪の頭の中でますます混乱が広がった。アヤ? そんな名前、聞いたこともない。これまでの記憶をどれだけ辿っても、アヤという名前には見覚えがなかった。
「……アヤ?」
凪はさらに戸惑いながら問い返すが、少女はそれに答えることなく、ただ静かに続ける。
「……入って」
その言葉には迷いも疑いも感じられなかった。むしろ、無言の圧力のように凪を包み込んでくる。状況が理解できないながらも、凪はそのまま立ち上がり、言われるがままに部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋に足を踏み入れた凪は、まずその広さに驚いた。外見の古さからは想像できないほど、部屋はしっかりと整っている。キッチン、風呂とトイレが分かれており、個室が三部屋もある。ベランダも広く、窓からは都会の風景が広がっている。それらがすべて整然としていることに、凪は思わず息を呑んだ。
リビングに足を踏み入れた凪は、背負っていたリュックをソファの上に下ろした。その瞬間、どっと体の力が抜け、疲れが全身に襲いかかる。長い移動と予期しない出来事が重なり、無意識に肩の力が抜けていった。
しかし、疲れを感じる暇もなく、頭の中で次々と浮かぶ疑問が凪を支配していた。
アヤって、いったい何者なのか。
どうして自分の新居にいるのか。
目の前に立つアヤの姿が、凪の混乱をさらに深める。
アヤはただ無表情で静かに佇んでおり、改めて、その美しさに思わず目を奪われてしまう。黒く艶やかな髪、そして澄んだ青い瞳。まるで外国人のような顔立ちをしているが、見た目はどこか幼さを感じさせる小柄な少女だ。小学生か、中学生ぐらいに見えるが、凪はその可愛らしさにどこか引き寄せられている自分に気づく。
するとアヤはゆっくりと声をかける。
「座ったら?」
凪は状況が飲み込めないまま、とりあえず言われた通りソファに座る。何かを言いたい気持ちはあったが、言葉がうまく出てこない。ただ、アヤの存在が圧倒的に強く、言葉を発するタイミングを失ってしまう。
すると、アヤはスマホを取り出して何かしらの操作を始める。手馴れた様子でスマホの画面をスワイプし、次の瞬間、耳にそれを当てた。どうやら電話をしているようだ。
「……帰ってきたよ」
「……何にも知らないみたい」
その言葉が、少しだけ凪の耳に届く。電話越しに誰かと話しているようだが、その内容は明確には聞こえてこない。ただ、言葉の端々から、何か大事なことを隠しているような気配が感じられる。
凪はそのまま、何をすべきかもわからずに静かに座っているしかなかった。彼の頭の中で答えを探し続けるが、全てが曖昧で、焦る気持ちだけが募るばかりだ。
そして、アヤが電話を切ると、何も言わずに凪の方を向く。再び、静かな空気が二人の間に流れた。
凪はアヤに問いかけようとしたが、その言葉は宙に浮いたままだった。アヤはただ静かに彼を見つめ、淡々と告げる。
「もう少しでお母さんが帰ってくるから、その時まで待ってて」
そして、そのままリビングを離れ、自分の個室らしき部屋へと向かった。
その歩き方には一切の動揺がなく、まるで最初からこの家の住人であるかのような自然さだ。凪はその後ろ姿を無言で見送るしかなく、心の中に言葉の洪水が押し寄せるが、結局何も言えなかった。
ひとりリビングに取り残された凪は、静かな空間に圧倒されるような感覚に包まれる。
不可解な現象を前にした凪は、ただそこに立ち尽くすしかない。自分の新居に到着したら、まずは部屋を整理して掃除をし、荷物を片付けるつもりだった。しかし、目の前に広がるこの部屋は既に整えられている。掃除も行き届いていて、家具もきちんと配置されている。
その光景を見て、凪はふと気づく。
この部屋、どこか前に誰かが住んでいたような気配が漂っている。恐らく、あの少女、アヤが以前ここに住んでいたのだろう。部屋の隅々に、彼女が使っていたであろう物が少しだけ残っている気がした。それでも、何も聞けず、何も確認できないままでいる自分がもどかしい。
凪は一度、深呼吸をしてから、思い切ってアヤが去った方向に目を向ける。
静かな部屋の中で、何かが足りない気がする。どうしても、彼女の存在が気になる。それが不安なのか、好奇心なのか、どちらでもないような複雑な感情が胸の中で渦巻いていた。
リビングで所在なさげに待っていた凪は、不意に「バタン」と扉が開く音に驚き、慌ててそちらに目を向けた。
そこには見知らぬ女性が立っていた。彼女は肩までの明るい髪を揺らしながら、両手に大きなスーパーの袋を抱え、軽やかな声で「ただいま〜」と呑気に言う。
凪はその言葉に、思わず「おかえり」と返すべきか悩み、どうすればいいのか頭をぐるぐるさせていると、女性の視線が凪とバッチリ合った。
そして彼女は「あっ! 君が凪くんでしょ?」と、驚いたように、しかし嬉しそうに声を上げる。
…………。
凪は状況が飲み込めないまま、「え、あ、はい、そうですけど……」とぎこちなく答える。その反応に気を留める様子もなく、女性は靴を脱ぎ、両手のスーパーの袋を重たそうにリビングの床に「ドンッ」と置く。そして、ニッコリと笑いながら凪に目を向けた。
「初めまして〜、櫻井京子です!」
そのテンポのいい挨拶に、凪は反射的に「えっと、松本、凪です」と応じた。
しかし、頭の中ではまだ疑問符が渦巻いている。「櫻井京子って誰?」という言葉が何度も浮かんだが、彼女の明るい雰囲気に押されて言葉を飲み込んでしまう。
京子は自己紹介を済ませると、手をポンと打ち、「じゃあ、晩御飯作るから、ちょっと待っててね〜! 今日は私、頑張っちゃいますから!」とやけに気合の入った声で宣言すると、袋を持ち上げて廊下に備え付けられたキッチンへ向かっていった。
残された凪は、リビングのソファに腰を下ろし、呆然とするしかなかった。
頭の中には疑問が渦巻き、まるで自分が知らない間に別の世界へ迷い込んでしまったような感覚に襲われている。
キッチンからは包丁がまな板を叩くリズミカルな音と、鼻歌が微かに聞こえてきた。その陽気さが余計に現実感を奪い去っていく。
耐えきれず、凪は意を決して口を開いた。それは、自分でも驚くほど声が小さかった。
「えっと、ここは……僕の家、のはずなんですけど……」
その言葉に、京子は包丁を止め、軽く振り向く。目が合うと、首を小さく傾げながら無邪気に答えた。
「そうだね?」
その返答が意外すぎて、凪は一瞬言葉を失った。しかし、このままでは何も解決しない。凪は心の中で不安を振り払うように自分を鼓舞し、続けた。
「えっと……僕の家、ですから、その……あなたが僕の家にいるのは、おかしい、というか……」
言葉は慎重に選んだつもりだったが、途切れ途切れの話し方になってしまう。京子の明るい性格からは怒られる気配は感じられなかったが、彼女の反応が予測できず、凪の胸には小さな恐れが広がっていた。
京子は数秒間こちらをじっと見つめた後、
「あれ? もしかして、何も聞いてないの?」
その問いに、凪は息を飲み込んだ。そして小さく頷く。
「……はい」
京子は再び首を傾げた。その動きがまるで猫のようで、少しも悪びれた様子がない。
そして京子は包丁を置くと、体をキッチンから凪の方へ向け、明るい声で告げた。
「私たち、今日から一緒に過ごすのよ?」
……え?
その瞬間、凪の全身が石のように固まった。脳が京子の言葉の意味を理解しようとするものの、思考が追いつかない。心臓の鼓動が耳の奥で大きく響き、口を開きかけるが、何と言えばいいのか何も言葉が出てこない。
凪は困惑したまま、京子を見つめていた。
そんな凪の様子を察したのか、京子はふっと柔らかく微笑んだ。その笑顔は太陽のように温かく、心の中に一筋の光が差し込むようだった。
「じゃあ、詳しいことは晩ご飯の時に教えてあげるわ」
その言葉とともにニコッと笑う京子の表情に、凪はなぜか胸を突かれるような感覚を覚えた。怒るどころか優しい微笑みを向けてくれる彼女に、言葉を失ったまま、凪は自然と頷いていた。
「それまで、待っててね」
凪は深い息を吐いた。ソファに腰を下ろし、スマホを取り出して無意味にスクロールを繰り返す。
画面には何も集中できず、ただ指先を動かすだけの行為。それでも、手持ち無沙汰な自分を少しでも誤魔化そうとしていた。
しばらくすると、キッチンから立ち上る香ばしい匂いが部屋中に広がり始める。
お腹の奥から鳴り出した空腹の音に気づかないふりをしながら、凪はぼんやりとその香りに意識を引き寄せられていた。
やがて京子が料理を一皿ずつ丁寧にテーブルへと運び始めた。
湯気が立ち上る料理はどれも色鮮やかで、香りは食欲をかき立てるものばかりだった。揚げたての唐揚げ、彩り鮮やかなサラダ、ふんわりとした卵焼き。赤味噌の味噌汁。それらがテーブルに並べられるたびに、凪の視線は無意識にそれを追い、自然と心がほぐれていくようだった。
料理がすべて揃うと、京子は手を拭きながらアヤの部屋へと向かい、軽くドアをノックした。
「アヤ、できたわよ。出てきなさい」
少し間を置いて、扉がゆっくりと開いた。
そこから出てきたのは、何だか少し寝ぼけたような表情のアヤだった。髪がわずかに乱れ、まぶたをこする仕草が子供っぽくて、思わず凪は笑いそうになったが、口元をぎゅっと引き締めた。
京子はテーブルの椅子に座りながら、振り返って凪に向けて手をひらひらと振った。
「ほら、凪くんも座って」
その明るい声に促され、凪は重たい体を引き上げるようにしてソファから立ち上がり、テーブルへと足を運んだ。
アヤも京子の隣の椅子に腰を下ろし、凪と向かい合う形で静かに座った。
食卓を囲む三人の間に流れる沈黙は、ぎこちなさと少しの温かみが混ざり合った独特のものだった。目の前の料理が視界に広がるたびに、凪の胸の奥で何かが少しずつ溶けていくようだ。
「じゃあ、ちょっと早いけど、いただきましょうか」
その言葉に続けて、三人の声が重なるように響いた。
「「「いただきます」」」
目の前の料理に手を伸ばすと、凪の胸に柔らかい温かさが広がった。
唐揚げは衣がサクサクで、中はジューシー。サラダは新鮮で、ドレッシングがちょうどいい加減で絡んでいる。卵焼きはふんわり甘く、味噌汁は心に沁みる優しい味が広がっていく。どれもが「手作り」という温もりに包まれていた。
「ごめんね、あんまり時間がなかったから、量が少し少ないかもしれない」と、京子が控えめに謝るように言う。
凪は慌てて顔を上げた。
「い、いえ、とんでもないです。すごく美味しいです」と声を張り気味に否定する。その素直な反応に、京子はほっとしたように微笑みながら「よかった」と呟く。
食事が進むにつれ、部屋の空気も少しずつ穏やかに溶け込んでいく。凪が口にする料理のひとつひとつに、どこか懐かしいような「家庭」の味が詰まっていて、知らない場所で感じていた不安がじんわりと和らいでいくのを感じた。
しばらく静かな時間が流れた後、京子がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、凪くん、私たちのことについて何も知らないみたいだったけど……アヤ、何も話してなかったの?」
その視線を受けたアヤは、目を細めながらゆっくりとした声で答えた。
「めんどくさいからしてない。お母さんがすればいいでしょ」
その一言に、京子は肩をすくめながら小さく溜息をついた。
「もう……。そういうところ、本当に変わってないわね」
だが、そのやり取りを耳にした凪は、驚きで箸を持つ手を止めた。
「……お母さん?」
その言葉がつい口を突いて出た。京子がアヤの母親? 凪の目の前にいる京子の姿は、どう見ても若すぎる。彼女が母親だなんて、想像すらできなかった。
「そうよ。アヤの母親って言ったら驚く?」
その言葉に、凪は何も言い返せず、ただ京子とアヤを交互に見つめた。凪の中で、この家の謎がさらに深まっていくのを感じていた。
凪は京子の言葉に素直に驚き、思わず、
「本当に……お母さんなんですか?」
と問い返してしまった。
京子はその反応が面白かったのか、どこか恥ずかしそうにはにかみながらも、柔らかい声で言った。
「うん、そうなのです。信じられないかもしれないけど、本当にアヤの母親」
凪は戸惑いながらも目の前の二人を交互に見た。
どうしても「母親と娘」という関係には見えない。それに、容姿もかけ離れていて全然似ていない。もっとも、二人とも「美人」という共通点はあるが。だが、京子の言葉に嘘を感じることもできなかった。それに加えて、アヤの方も特に否定する様子はなく、ただ静かに箸を動かしている。
京子は手を止めて、凪をじっと見つめた。
「実はね、アヤと私はずっとこの家に住んでいるの。だけど、今日からはここで凪くんも一緒に暮らすことになるわけ。これから三人暮らしね」
「三人暮らし……」凪はその言葉を口の中で繰り返し、自分の中に消化しようとした。
この家は、間違いなく自分の新しい住まいのはずだった。それなのに、目の前の京子とアヤがどういうわけかこの家に住んでいて、しかもこれから一緒に暮らすという。何とも奇妙な状況だ。
だが、そんな不可思議なことよりも、凪には一つ大きな疑問が浮かび上がっていた。恐る恐る声に出してみる。
「……京子さんの、旦那さんは?」
その言葉に、京子の表情が一瞬固まった。凪はしまった、と思った。やはり、訊くべきではなかったのかもしれない。
だが、京子はすぐに作り笑いのような笑顔を浮かべると、「あー……そのことなんだけどね……」と曖昧に言葉を濁した。
笑顔の裏側に、明らかなバツの悪さが滲んでいる。凪はその顔を見て、自分の軽率な質問を激しく後悔した。思わず「す、すみません!」と謝りそうになるが、その時、ちまちまと箸を動かしていたアヤが口を開いた。
「お父さんは、数年前に死んじゃったよ」
まるで天気の話でもするように、何の躊躇もなく、さらりと言ってのけた。その言葉に、凪の中で動揺が広がる。軽々しく踏み込むべきではない領域だったことを痛感し、俯いてしまう。
一方で、京子は苦笑いを浮かべ、少し困ったような目でアヤを見た。
「アヤ、もうちょっと言い方を考えてよ……」
だがアヤは気にした様子もなく、手元の味噌汁をすすっている。その仕草はとても自然体で、何の感情も揺らぎも見せていない。
京子は凪に向き直ると、優しい笑顔を作った。
「まあ、そんなわけでね。私たち、二人で長い間この家で暮らしてきたの。これからは凪くんも一緒だから、賑やかになりそうね」
その言葉に、凪は何とも言えない気持ちになる。驚き、不安、そしてどこか安堵感のようなものがない交ぜになって、自分の中でぐるぐると渦巻いている。そんな複雑な感情を抱えたまま、凪は京子とアヤを見つめていた。
京子は続けて話し始める。
「私たち、凪くんの遠い親戚ってことになってるんだけど……本当に何も聞いてないのね?」と、どこか困惑した表情を浮かべた。
凪は小さく首を振った。
「はい、聞いてませんでした。引っ越し先の住所がここだってことくらいしか……」
京子は眉間に手を当て、「まあ、おじさんったら本当にいい加減なんだから。ちゃんと説明してくれればいいのにね」と苦笑した。その表情はどこかおおらかで、凪の緊張を少し和らげるような温かさがあった。
それからしばらくは静かな会話が続いた。
京子が食卓の中心で明るく話し、凪はその話に相槌を打つ。アヤは時折話を振られると、短く答えるだけだったが、特に嫌そうな様子でもなく、黙々と食事を進めていた。
やがて食事が終わり、京子がさっと立ち上がりテーブルを片付け始めた。
「凪くん、部屋があるの。用意してあるから見に行きましょう」
凪は食器を持ち上げようとしたが、京子に「いいの、いいの。後で私がやるから」と止められた。そのまま京子の後ろをついて廊下を歩き、示されたドアを開けると、そこには新しい部屋が広がっていた。
「ここが凪くんの部屋よ」
京子はドアの前で手を広げるように言った。
その声に促されて中に入ると、質素だが整えられた空間が目に入る。木製のシンプルな机と椅子、小さめの本棚、そして窓際には清潔感のあるシーツが敷かれたベッドが置かれている。
「どう? 狭くない?」と京子が心配そうに尋ねた。
「いえ、とてもいい部屋だと思います。ありがとうございます」と凪は素直に感謝を伝えた。本当にこの部屋が自分のものになるという実感が、少しずつ湧いてくる。
京子はその言葉に満足したように微笑み、「じゃあ、これからはこのベッドで寝てね」と指差した。そして、「何かあればリビングにいるから、声をかけて」と言い残してリビングへ戻っていった。その後ろ姿を見送った凪は、再び部屋を見回した。
広すぎることも狭すぎることもない、ちょうど良い大きさの部屋。凪はベッドに腰掛け、やっと一人になれた安堵感に、小さく息をついた。けれど、この奇妙な新生活の幕開けに、胸の奥にはまだもやもやとした疑問が残っていた。
凪は風呂から上がると、まだ湯気がほのかに立ち込める洗面所で髪をタオルで拭きながら、自分がいる場所が現実なのかどうかをぼんやりと考えていた。
タオルを所定の場所にかけて、パジャマ代わりに前の高校のジャージを着てから部屋に戻ると、ふわりとした清潔な香りが漂い、どこか落ち着きを感じさせる。
時計を見ると、そろそろいい時間だ。凪はゆっくりとベッドに身を沈めた。
仰向けになりながら、意味もなく天井を見つめる。蛍光灯の淡い光が部屋の隅々にまで広がっているのをぼんやりと目で追っていると、今日一日が走馬灯のように頭の中を巡り始めた。
今日はなんて長い日だったのだろう。朝から荷物を抱えて電車に揺られ、都会の喧騒に流されるようにしてやっとたどり着いたこの家。しかし、その先に待ち受けていたのは想像していた新生活とは少し違っていた。
知らない少女――アヤとの唐突な出会い。そして、追い討ちをかけるように現れた、初対面の綺麗なお姉さん――京子。二人とも凪にとっては見知らぬ存在だったが、嫌な印象はまったくなかった。それどころか、特に京子の朗らかな笑顔や、優しい声色には、不安でいっぱいだった凪の心を不思議と和らげる力があった。
そして、そのまま思考は明日へと移っていく。
明日からは新しい高校に通うことになる。もちろん、不安がないわけではない。新しい環境に慣れるには時間がかかるだろうし、どんな人たちが待っているのかもわからない。
けれど、少しだけ期待も混じっている気がした。自分を変えられるかもしれないという小さな希望が、胸の中で微かに光っている。
どんな一日になるんだろう。
そんなことをぼんやりと思いながら、目を閉じる。今日一日の疲れが全身に広がり、知らず知らずのうちに意識は深い眠りの中へと沈んでいった。静まり返った部屋の中、凪の穏やかな寝息だけが響いていた。
朝の柔らかな日差しが、カーテンの隙間から漏れ出て部屋を照らしていた。
凪はふと目を覚まし、ぼんやりと天井を見つめながら、都会の新しい一日の始まりを感じていた。まだ少し眠気が残っているものの、寝起き特有の体のだるさが、心地よい暖かさとともに広がっていた。
しかし、どこか違和感がある。田舎では布団に包まれて寝ていた凪にとって、ベッドはまだ馴染みのない存在で、心地よさとともに妙な新鮮さを感じさせた。いつもより熟睡できなかったのはそのせいかもしれない。
次第に意識が冴え始めたその瞬間、凪は目の前の「異変」に気付いた。
掛け布団が不自然に盛り上がっている。小山のような膨らみが、まるで何かが潜んでいるかのようにそこにあった。
「……え?」
凪は思わず布団を凝視し、頭の中にはてなマークが浮かび上がる。心臓が軽く高鳴るのを感じながら、そっと掛け布団の端に手をかけた。恐る恐るそれを少しだけ持ち上げる。
そこにはアヤがいた。
「……は?」
凪は思わず呟いたが、自分自身も驚きすぎてそれ以上言葉が出てこない。頭の中でなぜアヤが自分のベッドにいるのかを必死に整理しようとしたが、答えは一向に見つからない。
アヤは小さな体を丸めて、まるで猫が日向で丸くなるように安らかな寝顔を見せている。肩までしっかり布団に包まれているせいか、顔だけがぽつんと見える状態で、そのあどけない表情が際立っていた。
まつげは長く、薄明かりの中でもその影が微かに頬に映っているのがわかる。呼吸に合わせてふわりと揺れる前髪の隙間からは、陶器のように滑らかな肌がのぞいていた。凪の耳に届く寝息は微かで、それがかえって静けさを際立たせ、部屋の中に穏やかな空気を漂わせている。
彼女の唇は少しだけ開いていて、そこから漏れる吐息が布団の中の暖かさを語っているかのようだった。
アヤの姿は妹のような親近感を抱かせるものでもあり、同時に、なんとも守ってあげたくなるような存在感を纏っている。
「なんで、ここで寝てるんだよ……」
声に出してみても、返事が返ってくるはずもなく、アヤはただ小動物のような寝顔を保ったまま、微かに寝返りを打つ。その拍子に、肩から布団が少しだけずり落ち、細い腕が露わになる。その腕は色白で華奢で、どことなく儚さを感じさせた。
凪は思わず布団を掛け直す。ふとその手がアヤの髪に触れそうになり、慌てて引っ込める。彼女の柔らかな髪は、布団との摩擦で少しだけ乱れているものの、その乱れ具合すらも自然体で、思わず目を引きつける何かがあった。
…………。
困惑しながらも、心の奥にじんわりと暖かい何かが広がるのを感じる。無防備で、どこか子供のようなアヤの姿は、凪にとって全く予想外の光景だった。それでも、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、どこか心が和むような、不思議な安らぎすら覚える。
凪の視線と気配を感じ取ったのか、アヤがゆっくりと瞼を開けた。その目はまだ眠たげで、焦点が合っていないように見えたが、しばらくして彼女は凪を認識した。
「……にゃ」
アヤは軽くあくびをしながら、寝ぼけた声でそう言った。
「ちょ、ちょっと待って、なんで君がここに……?」
凪は混乱したまま問いかけるが、アヤは無表情で肩をすくめると、また布団を引っ張って頭まで潜り込んだ。
「え、えっと……」
どうやらアヤは部屋を間違えたらしい、と凪は推測する。おそらく、夜中にトイレへ行き、その帰り道に自分の部屋と間違えてここに入ってきたのだろう。それにしても、あっさりと他人のベッドで寝てしまうその大胆さに驚きつつ、少しだけ感心してしまう。
「……まあ、いいか」
そう呟いて凪は布団を引き直し、自分ももう一度寝直そうとした――その時、不意に学校の存在を思い出した。
「……そうだ、今日から学校だった」
胸が軽く跳ねるような感覚に駆られ、凪は目を見開く。転校初日ということを思い出すと、眠気は一気に吹き飛び、時計を確認するまでもなくベッドから飛び起きた。
リビングに向かうと、そこには京子の姿はなかった。代わりに、テーブルの上に小さなメモと、赤と青の布に包まれた弁当が二つ、そしてラップで包まれた料理が整然と置かれていた。凪はメモを手に取る。
『おはよう☆ 凪くん、今日から学校だネ! 詳しいことはアヤから聞いてね☆』
文字からも京子の明るい雰囲気が伝わってくる。絵文字こそないものの、文字そのものが跳ねるように生き生きとしているように見えた。それを読みながら、凪は思わず苦笑する。
「詳しいことはアヤに聞けって……あの子、教えてくれるのかな」
メモを置いてラップのかかった料理に目を移すと、湯気こそ立っていないが、温かい心遣いを感じさせる京子の手料理がそこにあった。見た目もおいしそうで、朝の忙しい時間にここまで準備してくれたのだろうと思うと胸がじんわりと温まる。
その時、背後から聞き慣れない足音が響いた。振り返ると、眠たげな顔をしたアヤがリビングに姿を現す。髪は少し乱れていて、目をこすりながらふらふらとテーブルの椅子に腰を下ろす。
「……ねむ」
声は低く、掠れていて、完全に寝起きのそれだ。
「おはよう……」と返事をしながら、凪は手に持っていたメモを差し出した。
「これ、京子さんが置いていったみたいだけど……」
アヤはちらっとメモを一瞥したが、特に興味を示す様子もなく、「ふーん」とだけ返事をして、テーブルの椅子に突っ伏した。
しばらくして、アヤがテーブルの料理に気づいたのか、ぼんやりとしたまま手を伸ばしてラップを外す。そして、ぼそりと一言。
「これ、温めないの?」
声は小さく、頼りなくて、まだ半分夢の中にいるようだった。
凪はその一言に少し戸惑いながらも、料理を電子レンジに移し、温めを開始する。機械が作動する音が静かな部屋に響く中、ふと凪の頭に置き手紙の内容が浮かんだ。
「あの……手紙に『詳しいことはアヤに聞け』って書いてあったんだけど……」
慎重に言葉を選びながら問いかけると、アヤは少しだけ顔を持ち上げた。眠そうな目がちらりと凪を見たが、その表情には不機嫌とも面倒くさそうとも取れる曖昧な色が浮かんでいる。
「……わかってるよ。とにかく早く準備して」
返事は短く、どこか投げやりだった。凪はさらに質問を続けようとしたが、アヤは突っ伏したまま手をひらひらと振り、「早く準備してよ〜」と一言。それきり会話は打ち切られた。
そのあまりに説得力のない様子に、凪は思わず苦笑を漏らす。
こんな調子で本当に大丈夫なのだろうか、と少し心配になったが、彼女の淡々とした態度には妙に気を抜かれるものもある。なんというか、アヤは独特だ。それ以上言葉をかけるのも憚られて、凪は仕方なく料理が温まるのを待つことにした。
やがて、電子レンジが「チン」と軽やかな音を立てる。温めが終わった合図だ。
「持ってきて〜」
その態度は命令というより、だるそうなお願いにも似ていて、凪は半ば呆れながらも料理を取り出し、テーブルに運んだ。
アヤはまだ眠そうな目でそれを見て、小さなため息をつくように「いただきます」と呟いた。彼女のマイペースさに戸惑いながらも、凪はやがて自分も椅子に座り、彼女に倣って静かに手を合わせた。
そして、二人の食事が静かに始まった。
昨日の夕食は京子の明るい声が場を盛り上げてくれていたおかげで、どこか賑やかな雰囲気が漂っていたが、今朝はその彼女がいない。テーブルに並んだ料理は見た目も味も申し分ないものの、食卓を彩る会話がないだけで、やけに静けさが際立って感じられた。
凪は箸を動かしながら、ちらりと向かいに座るアヤの様子を伺った。彼女は特に気にする様子もなく、自分のペースで料理を口に運んでいる。その無防備な様子にどこか後ろめたさを覚えながらも、凪は黙っているのが耐えきれずに口を開いた。
「そういえば、京子さんは?」
質問を投げかけると、アヤは手を止めることなく、わずかに目を細めた。凪の方を見ることもなく、淡々と答えた。
「……お母さんは仕事。朝早いからね」
言葉に感情がほとんど乗っていない。まるで当然のことを言っているようなその口調に、凪は返す言葉を一瞬迷ったが、会話を続けるためにさらに質問を重ねた。
「京子さん、何の仕事してるの?」
アヤはまたしても食事を続けたまま答えた。その答えは凪が期待したようなものではなかった。
「知らない」
短い返答。しかもその言い方はどこか突き放したようで、凪の中の緊張がさらに高まる。アヤに悪気があるわけではないのだろうが、会話がそこでぴたりと途切れてしまった。
気まずい。どうしてこうなってしまうんだ、と凪は心の中で苦笑する。昨日の賑やかな雰囲気が嘘のように、今の食卓は張り詰めた沈黙に包まれていた。
そんな静寂に耐えきれず、凪は誤魔化すように箸を進める。目の前の料理に集中している振りをしながらも、視線は自然とアヤに向いてしまう。彼女は気にする様子もなく、淡々と食事を終えようとしていた。そのマイペースさが羨ましくもあり、不思議と少しだけ安心する部分もあった。
凪が食事を終え、学校へ行く準備をするために洗面所に向かうと、冷たい水が顔を洗うたびに目を覚まさせ、眠気を飛ばしてくれた。
歯磨きをしながらふと、今日から新しい一日が始まることを実感する。歯を磨き終え、顔を拭って部屋に戻ると、早速制服に着替えることにした。
新しい高校の制服、青いブレザーはシンプルながらもどこかかっこよさを感じさせるデザインだ。
凪は少し緊張しながら、袖を通す手元に目を落とす。初めて着る制服だからか、少し慎重に感じる。どこか誇らしげな気持ちが湧き上がるが、それと同時に少し不安もある。新しい環境でうまくやっていけるだろうか、そんなことを考えながら着替えを終える。
制服に着替え終わった後、部屋には鏡がないことを思い出し、少しもどかしく感じる。自分の制服姿を確認したい気持ちが強くて、部屋を出ると、洗面所にある鏡で見るつもりだった。
しかし、その瞬間、凪は足を止めた。
廊下の先にあるリビングで、思わず目を奪われるような光景が広がっていた。
そこに立っていたのは、アヤだ。そしてその身に纏っているのは、凪と同じ青いブレザーに、ぴったりと合ったインナーとスカート。
さらには、どこか品のある薄いメイクが施されており、彼女の顔を引き立てていた。その姿は、まるで違う世界の住人のように完璧で、美しすぎて、目を離すことができなかった。
アヤの白い肌、黒く長い髪、そしてその眼差しに思わず心を奪われそうになる。まるで人形のように華奢で、けれども存在感が強く、まるでその場を支配するかのようなオーラを放っていた。
凪はしばらくその美しさに見とれてしまったが、ようやく我に返り、どうしてアヤが自分と同じ制服を着ているのか、気になって声をかけた。
「えっと、どうして同じ制服……?」
アヤは何の疑問も持たない様子で、当然のように答えた。
「高校が同じだからに決まってるでしょ」
その言葉に凪は一瞬、呆気に取られた。まさかアヤが同じ高校に通っているとは思わなかったからだ。それどころか、彼女の美しさに圧倒されるばかりで、その事実をすぐに理解することができなかった。
凪は思わず、驚きの声をあげてしまった。
「中学生じゃなかったの⁉︎」
その言葉が口をついて出た。自分でも驚くほど、その言葉が無意識に発せられたことに、凪は自分でも少し驚いていた。彼女の身長はおそらく150cmを下回っていて、幼さが残る顔立ちを纏っているので、どうしてもそう思ってしまうのは無理もない。
しかし、アヤはその驚きにすぐさま反応し、眉をひそめて言った。
「失礼だな。お前と同い年だよ」
その言葉に凪は思わず立ち尽くす。アヤが同い年だという事実が、どうしても信じられなかった。目の前のアヤは、昨日や先ほどの気の抜けた雰囲気からはかけ離れていて、まるで大人の女性のように落ち着いている。そのギャップに驚きを隠せない。
そのことに頭を悩ませていると、アヤが突然、凪の制服姿に目を向けて言った。
「なかなか似合ってるね。制服」
少し恥ずかしそうに微笑みながら、その言葉を口にするアヤに、凪は心の中で少し驚くと同時に、思わず照れてしまった。
「あ、ありがとう……」
凪は言葉を返しながら、少し顔が赤くなった。
それにしても、アヤのその言葉には本当に心が温かくなるような何かがあった。素直に褒めてくれているその姿に、凪は一瞬で気持ちが和らいだ。
だが、その気持ちが膨らむと同時に、凪はアヤの制服姿に目を奪われることになる。あんなに美しく制服を着こなしている彼女を、今ここで褒めてしまったら、余計に気恥ずかしくなってしまいそうで、思わず言葉が出なかった。
その場を切り抜けようと、凪は顔をそむけて、さりげなく洗面所に向かって足早に歩き出す。心の中で、自分の反応に少し笑ってしまいながらも、心臓がドキドキしているのを感じていた。
洗面所のドアを勢いよく開け、そこでようやく落ち着こうと深呼吸をした。アヤの存在が近すぎて、まるで自分の心が乱されるような気分になる。
そのことを考えながら、凪は鏡を見つめ、気持ちを落ち着けようとした。
そして二人は並んで家を出た。
朝の柔らかな陽光が通学路を照らす中、凪とアヤは並んで歩いていた。
アヤの小柄な体型と華奢なシルエットが凪の隣に立つと、どこかアンバランスな印象を与える。
凪は、ちらりと横目で彼女を見た。自分よりもはるかに背が低く、制服姿がどこか少女らしさを引き立てているアヤと、自分が同じ高校生だとは、とても思えないだろう。まるで小学生の妹を連れて歩いている兄にでも見えるのではないか――そんな思いが凪の心をよぎった。
不意に、アヤが口を開いた。
「よく、うちの高校に入れたね」
その声は澄んでいて、どこか含みを感じさせる。アヤは前を向いたまま、何気ないようでいて少し挑発的な言葉を続けた。
「うちの高校、そこそこ難しいのにさ」
凪は一瞬言葉に詰まりながらも、苦笑いを浮かべた。
「まあ……田舎では、それなりに勉強してたから」
そう言いながら、凪の心の中には別の答えが浮かんでいた。
勉強を頑張っていた、というよりは――ただの暇つぶしでしていただけだ。凪が通っていた田舎の高校は、小さな町の中にぽつんと佇む、平凡で静かな場所だった。周囲にはこれといって楽しいこともなく、学校の部活にも興味が湧かなかった。だからこそ、日々の退屈を埋めるために、自然と机に向かう時間が増えたのだ。それが積み重なり、転入試験を突破するための実力となったにすぎない。だが、その経緯をすべて正直に語るほど、凪は饒舌ではなかった。
「そっか。勉強が得意なんだね」
アヤは特に感心する様子もなく、ただ淡々とそう返した。だが、その横顔には少しの笑みが浮かんでいるようにも見えた。どこか軽やかなその雰囲気が、凪にとっては少しだけ居心地が悪かった。
春風が二人の間をすり抜けていく。凪はふと足元に目を落とした。アスファルトに伸びる自分たちの影が、少し離れた距離で並んでいるのが見える。その距離感が、自分たちの間に流れる微妙な空気感を象徴しているように思えた。
「そういえば、学校まで、歩いてどれくらい?」
「十五分くらいかな。自転車で行くと五分もかからないくらいだけど、わざわざ自転車を買うほどでもないし、お母さんはシングルマザーだから我慢した方がいいと思ってる」
アヤの言葉には何とも言えない落ち着きがあり、凪はその言葉を少し心に留める。
その後、二人は通学路に差し掛かった。凪は初めて通る道であり、どこか新鮮さを感じながら歩いていく。
朝の冷たい空気が、凪の顔を心地よく吹き抜ける。道端に並ぶ家々、瑞々しさを感じさせる風景が広がり、木々の間から差し込む朝日が柔らかく照らしていた。少し前に聞いたような、都会の騒音とは全く違う静かな環境が凪には新鮮だった。静かで、優しい感じがするのだ。
道を歩くたびに、今まで自分が住んでいた場所との違いを実感し、胸の中で不安と期待が入り混じった。足元の舗装された道を歩く音が響き、そしてその音が心地よく感じる。道の両脇には、控えめに咲く花や、静かに揺れる木々が目に入るたびに、ふと心が和むような気がした。
すると、アヤが再び口を開いた。
「凪」
その一言に、凪は反射的にアヤの方を振り向く。しかし、アヤはまっすぐ前を向いたまま、どこか遠くを見つめるような目をして話し始めた。
「この世界について、どう思う?」
その言葉に、凪は一瞬戸惑った。
何だか突飛な質問だ。世界について、どう思うか。日本の政治についてか、それとも経済や法律といった社会の仕組みか。あるいはもっと深い哲学的な問いかけか。
だが、何を言えばいいのか、すぐにはわからなかった。
抽象的でぼんやりとした問い。凪は少し頭をひねってみる。何かおもしろおかしいユーモアでも言ってみようか。しかし、アヤの口調には冗談や軽い気持ちは一切感じられない。
その瞬間、凪はただの軽い質問ではないことを直感する。アヤは何か重要なことを言おうとしているのだろうか。ならば、どう答えるべきか、凪は少し考えた後、ゆっくりと口を開いた。
「まあ、色々問題はあるだろうけど、俺らは自由に生きられてるからいいんじゃないか」
その答えが正しいのかどうか分からなかったが、凪はそう思ったからこそ言った。
しかし、アヤはその言葉をただ受け入れることなく、凪の顔を真っ直ぐに見つめた。その視線はまるで凪の奥深くまで見透かしているようで、凪は思わず言葉を詰まらせた。
「本当に?」
その一言に、凪は驚きと戸惑いを感じた。
アヤの声には、疑念と問いかけが込められているようで、どこか鋭いものが突き刺さる。彼女は一体、何を伝えたかったのか、凪には理解できなかった。彼女の真意はどこにあるのだろう。
「今日の放課後、話したいことがある」
そう告げられると、凪はその一言にさらに驚かされる。何か重要なことが待っているのだろうか。アヤが話したいことが何を意味するのか、凪には全く想像がつかない。しかし、同時にその言葉には重みと興味深さが感じられた。
しばらく歩いていると、凪と同じ制服を着た生徒がちらほらと見え始めた。
通学路の途中で見かけた制服と同じ姿に、なんだか心の中で少し安心したような気分になったが、同時に新しい環境が待ち受けていることを感じて、胸が少し締めつけられるような気もした。
やがて、目の前に大きな校舎が現れる。その校舎は、凪が通っていた高校よりもずっと新しく、洗練されていて、整然としている印象を与える。明るい色調の壁に囲まれた校舎は、まるできちんと整備された美術品のように、凪の目にはとても立派に映っていた。
校門をくぐり、少し歩くと、校舎がさらに近くなり、凪の心臓はそのたびにバクバクと高鳴っていた。
こんなにも新しい場所、見知らぬ場所に来るのは初めてのことだ。心の中で期待と不安が入り混じる。新しい高校生活が、ついに始まるのだという実感がようやく湧いてきた。
校舎に足を踏み入れると、靴箱の前に辿り着いた。自分の靴箱がどこか分からずにしばらくあたりを見回していると、近くの靴箱で靴を履き替えていたアヤが凪に向かって声をかけてきた。
「凪は転校生だから、まず職員室に行かないといけないね。職員室はあっちだよ」
そう言って、アヤは靴箱の右側を指さしながら、明確に方向を示してくれた。
その言葉を受けて、凪は「ありがとう」と小さくつぶやき、アヤが指差した方向に目を向けた。
「多分同じクラスだから、待ってるね」
アヤは軽く手を振ると、どこかへ歩き去っていった。
凪は、アヤの言葉を頭の中で繰り返しながら、自分の靴を履き替えるために靴箱の前に立ちすくんだ。靴箱の番号が分からないので、仕方なく、自分の靴は巾着袋に入れ、上履きに履き替えることにする。
少し不安そうに周囲を見渡しながら、凪はアヤが示してくれた方向に歩き出す。足元の音がやけに大きく響くように感じられ、凪はさらに心拍数が上昇していく。
しばらく歩くと、目的地はすぐに見えてきた。
「ここか……」
職員室の前に立った凪は、息を呑んだ。
扉の向こうからは、あたたかい空気と少しざわついた声が漏れ聞こえてきて、それが凪の心をますます重くする。
しかし、しばらく立ち尽くしているわけにもいかない。深呼吸を一つして、凪は決心を固め、思い切って職員室の扉を開けた。直後、職員室の中で立っていた一人の先生が目に入る。眼鏡をかけていて、年齢はおそらく30代後半だろうか、少し優しげな表情を浮かべたその先生は、制服姿の凪に気づき、にこやかに目を合わせた。
「君、転校生か?」と、先生が声をかけてきた。
凪は少しドキッとしたが、すぐに冷静を取り戻す。
「あ、はい、転校生です」と、できるだけ平静を装って答える。
「ちょうど俺が君のクラスの担任だから。名前は梶谷。今日のホームルームで自己紹介をしてもらうから、準備しておいてな」
その言葉に、凪の心臓が少し高鳴った。自己紹介をしなければならない、という現実が今度は一気に凪を圧迫するように感じられる。
名前を言って、出身を伝えて……。何か言えることがあるだろうか。それとも、ただシンプルに名前と出身だけで終わらせてしまうのだろうか。そのことで頭がいっぱいになり、急に言葉が口に上手く出てこなくなった。
「えっと、よろしくお願いします……」と、なんとか言葉を絞り出す。自分でも何を言っているのかよく分からないまま、凪は梶谷先生の後をついていく。あまりの緊張に、足音が異常に大きく響くように感じられ、手のひらは汗ばむばかりだ。
梶谷先生が歩みを進めるたびに、凪はその背中を必死に追いかける。
やがてたどり着いた目の前に見える教室の扉が、ますます大きく感じられて、まるでその先に待っているのは未知の世界、まさに自分の新しい人生が待ち構えているような気がした。
しかし、それに対する不安も大きく、心の中では何度も自分に言い聞かせるように「大丈夫、大丈夫」と繰り返していた。
結局、自己紹介はそこそこに上手くいった。
頭が緊張で混乱していた凪は、名前と出身だけを言って大きな声で「よろしくお願いします!」と大きな声で言って頭を下げた。すると、パラパラと拍手が聞こえてきて心の中に安堵が広がっていた。
そして気づけば、昼休みのチャイムが鳴り、教室の喧騒が一気に熱を帯びる。
凪の自己紹介を聞いていたクラスメートたちは、すぐさま自分たちのグループに戻り、それぞれの会話に没頭していった。教室の隅々まで、笑い声や小さな叫び声が飛び交い、机が少しずつ動かされて寄り集まる音が響く。まるでそこに、自分の居場所などないと告げるかのように。
唯一の知り合いであるアヤは、昼休みになると同時に机を軽く叩いて立ち上がると、一言も告げずに教室を出ていってしまった。その小柄な背中を見送りながら、凪は心のどこかで引き止めたかった自分を抑えた。自分から声をかける勇気など、凪にはないのだ。
席に座り、凪は静かに鞄を開けた。取り出したのは京子が朝早くに用意してくれた弁当だ。青いチェック柄の包みを広げると、中には色鮮やかな卵焼きやミニトマト、丁寧に詰められた白米が目に飛び込んでくる。それを見て、少しだけ気持ちが和らぐ。「いただきます」と誰にも聞こえない声で呟き、箸を手に取る。
周りではグループになった生徒たちが机を囲んで賑やかに弁当を広げている。その声が耳に入るたび、凪の心の奥底がぎゅっと縮むように痛む。誰も彼を意識していない。まるで、ここに自分だけが透明になってしまったような孤独感に包まれていく。人の輪の中にいながら、ぽっかりと空いた穴に落ち込んでいるような気分だった。
凪は俯きがちに、そっと一口白米を頬張った。京子の作ったご飯は驚くほど美味しい。柔らかい甘みが口の中に広がり、ふと気持ちが安らぐ。けれど、その安心感さえ一瞬のことで、視界の端にはなおも続くクラスメートたちの笑顔がちらつく。
話しかけたら、変に思われるだろうか。
どこか人気のない場所に移動してしまおうか。
そんな考えが頭を駆け巡る。凪は箸を持つ手をぎゅっと握りしめた。誰にも見られていないはずなのに、まるで誰かに注視されているような、そんな居心地の悪さが心を覆っていた。
時間はたっぷりとあるはずなのに、昼休みが早く終わってほしいと願っている自分がいる。食べるたびに美味しさが心に染みる京子の弁当が、今の自分を支えてくれる唯一の存在だった。
その時だ。
「転校生くん」
聞き慣れない呼びかけに、凪は驚きと少しの戸惑いを抱えながら顔を上げた。
そこにいたのは、どこか夢見心地な雰囲気をまとった少女。
肩にふわりと降りかかる茶色の髪は、柔らかそうな癖毛がぽわぽわと膨らみ、光を受けて細かな波模様を描いている。その髪が小さな風に揺れるたび、彼女の周囲に見えない柔らかな輪郭を作り出しているようだった。
直後、胸元に目が引き寄せられる。否応なく視界に入るその異様に豊かな曲線だ。制服のボタンがかすかに張り詰め、彼女の呼吸とともに微かに上下している。その姿は、可憐さの中にどこか大人びた妖艶さを漂わせ、目を逸らすことすら忘れさせる。
しかし、その瞳に視線を移すと、一転して心を奪われる。うっとりとした光を宿したその目は、少し垂れ気味で、優しいなだらかな線を描いていた。
綺麗だ。しかし、その綺麗さだけでは語り尽くせない。彼女の表情が少し緩み、ほんのり赤みが差す頬が少女らしい可愛らしさを添え、見る者の心を和ませる。凛とした美しさと、愛らしい無防備さ。その二つが彼女の姿に同居し、得も言われぬ魅力を放っているのだ。
そんな少女が、凪の瞳を覗き込んでいた。
「よかったら、一緒にご飯、いい?」
その言葉が、凪の心の中にじんわりと響く。まるでその一言で世界が変わるような、そんな不思議な感覚が広がった。小春の微笑みは、自然体でありながらも、どこか魅惑さを纏っていて、凪の心臓が不規則に鼓動を打つ。
驚きながらも、反射的に「うん」と頷く凪。彼女はその返事に安心したような表情を見せ、軽やかに空いている隣の席に座った。
そして、鞄から小さな弁当箱を取り出し、蓋を開けると、鮮やかな彩りが目に飛び込んできた。
「こんな時期に転校してくるの、珍しいね」
彼女がそう言いながら弁当を広げ始める。凪は思わず「うん」とだけ答える。彼女の柔らかい声のトーンに、緊張が少しずつ解けていくのを感じた。
「あ、忘れてた」
彼女は急に思い出したように顔を上げ、明るく自己紹介を始めた。
「私、井上小春。小さな春って書いて小春ね。よろしくね」
にっこりと微笑むその表情に、凪は自然と「よろしく」と返した。
「こんな時期に転校してくると、なかなか友達ができにくいんじゃないかな」
小春はふっと視線を落としながら、まるで凪の心の中を覗き込むような言葉を口にした。
「クラスのみんなは、そろそろグループができあがってくる時期だし。そんな中に入ろうとするのって、結構大変だよね」
その言葉はまさに、凪が昼休みに感じていた孤独感を言い当てていた。
思わず箸を止めた凪は、小春の言葉にどう答えたらいいのか分からず、少し戸惑った表情を浮かべた。だが、小春はそんな彼を急かすことなく、優しい笑みを浮かべたまま箸を動かしている。
「そういうわけで、私が声をかけたわけなのです」
急に敬語になった小春の口調に、凪は少し驚きつつも心の中に暖かさが広がっていく。その明るい気遣いが心に染みて、凪は小春に小さく「ありがとう」と伝えた。孤独を感じていた自分を気にかけてくれる存在が、こんなに早く現れるとは思っていなかったからだ。
弁当をつまみながら、凪はふと気になっていたことを口にした。
「あの、同じクラスのアヤって、どんな人?」
家ではほとんど静かで、他人に興味がなさそうなアヤのことが、学校ではどうなのか知りたかった。凪の質問に小春は目を丸くし、一瞬だけ固まった。そして、次の瞬間にはニヤニヤとした顔で顔を近づけてきた。
「アヤって……あ、櫻井さんね。もしかして、もう気になってるの?」
その言葉に、凪は慌てて首を振った。
「あ、いや、そういうんじゃなくて……」
必死に否定する凪を見て、小春はおかしそうに笑いながら「ごめんごめん」と手を振る。それから、少しだけ真剣な表情に戻り、「ん〜」と考えるような仕草を見せた。
「櫻井さんは……なんだろう、ずっと一人でいる感じかな。一人でいるのが好き、っていうより、なんか、誰かといるのが苦手なのかも」
その言葉を聞いて、凪は少し納得したような気がした。家でのアヤの態度と通じるものを感じたからだ。「やっぱり学校でも、家と同じスタンスなんだな……」と凪は思う。
ところが、小春はそのまま話を終えず、少し考え込むような表情を浮かべた。そして、ふと視線を上げて言った。
「でもね……」
「でも?」と凪が続きを促すと、小春は少し低い声で続けた。
「櫻井さん、一回だけちょっとした事件があったんだよね」
「事件?」
その言葉に、凪の中で何かが引っかかった。小春の言葉の真意を探るように見つめると、小春は少し困ったように眉を寄せた。
小春は少しだけ声を潜めた。教室のざわめきが遠くなり、二人の間だけが異質な静けさに包まれる。
「二ヶ月ぐらい前……だったかな。櫻井さん、夜の学校に入って、そのまま、屋上に行って……その、飛び降りようとしたことがあるらしいの」
「飛び降り……?」
凪の心がざわりと波立った。まさかそんな言葉が出てくるとは思わなかった。小春の目が凪を真っ直ぐ見つめる。
「結局、たまたま遭遇した警備員さんに止められたんだけどね。でも、どうしてそんなことをしたのか聞かれても、櫻井さんはずっと口を閉ざしてたみたい。何も言わなかったんだって」
凪は思わず息を呑んだ。あの無表情でどこか掴みどころのないアヤが、そんな行動を取ったとは到底想像がつかない。けれど、小春の言葉が嘘だとは思えなかった。
「櫻井さんって、そんなことする性格じゃないと思ってたのに……」
小春の声には、困惑と、それに混じるわずかな悲しみが滲んでいた。
凪は、聞いた話を整理しようとするほどに、頭の中が混乱していくのを感じた。あのアヤが、夜の学校に侵入して自殺未遂をしようとするなんて――一体何が彼女をそうさせたのか。アヤの輪郭が段々とぼやけていく。
「だから、クラスのみんなも櫻井さんのこと、敬遠してるっていうか……ちょっと距離を置いている感じなの」
小春がぽつりと呟いた言葉に、凪は唖然とした。まるで心を鉄の扉で閉じているかのような、アヤの無表情が頭に浮かぶ。その扉の向こうに何があるのか知りたいという気持ちが、ふつふつと胸の内で湧き上がってきた。
「櫻井さんが何を抱えてるのか、誰も分からない。でも、櫻井さんにとっては、分からないように振る舞っているのかもしれないね」
そう締めくくった小春の声は優しく、しかしどこか寂しげだった。凪は、アヤという摩訶不思議な存在に対する興味と、同時に湧き上がる得体の知れない不安を抱えたまま、小春と小さく頷き合うだけだった。
そして放課後になった。
教室を出ようとした凪の背後から、静かな声が響いた。
「ちょっと付き合ってほしいんだけど」
振り返ると、そこにはアヤが立っていた。
どこか考え込んでいるような表情で、しかし強い意志を宿した瞳がまっすぐに凪を見つめていた。
言葉の意味をすぐには理解できずにいると、アヤは「ついてきて」とだけ告げて、踵を返した。その背中は、小柄な体からは想像もつかないほど決然としていて、凪はただ無言で従うしかなかった。
アヤの背中を追いながら、凪は足元に視線を落とす。その歩幅は一定で、ためらいも揺らぎもない。
そして——
「……屋上?」
途端、昼食の小春との会話を思い出した。
——自殺未遂。アヤがそんなことをしようとしただなんて信じられない。しかし、何を考えているかわからないアヤが何をしようとも不思議はないという印象もある。
やがて階段を上りきり、重たい鉄の扉がアヤの手によって開かれると、そこには広がる屋上の空間があった。
風が吹き抜け、夕焼けの色が青空を侵食しながら全体を染めていく。その光景は美しいはずなのに、凪の胸の中では得体の知れない不安がざわめくばかりだ。
二人きりの屋上。沈黙が重くのしかかる。アヤはしばらく景色を見つめたまま動かなかったが、やがてゆっくりと凪の方を振り向いた。
その瞳には、迷いも恐れもなく、ただ真剣さだけが映っていた。
「……ねえ、凪」
その声は、いつものアヤの声と同じはずなのに、どこか脆さを孕んでいるように聞こえた。凪は必死にその表情の奥を探る。飛び降りるつもりなのか。それとも、何か違う目的があるのか。確信を持てないまま、凪はただその場に立ち尽くすしかなかった。
――夕焼け色に染まる風景。わずかに揺れる制服の裾。そして、ふたり以外誰もいない空間。
この瞬間がやけにくっきりと記憶に刻まれていくのを、凪は感じていた。
「今朝の会話、覚えてる?」
アヤの言葉に凪はその言葉に一瞬驚き、思わず首をかしげた。今朝、何か特別な会話があっただろうか。しばらく考えると、アヤが再び口を開いた。
「この世界について」とアヤが言葉を足すと、凪は再びその時の曖昧な会話を思い出し、少し困ったように目を伏せた。そういえばそんな話があった、と凪はその時の会話を思い出そうとする。俯く凪に対し、アヤの目線には変わらず真剣さが宿っていることを感じ、何か重大な話が待っているのだろうと予感した。
――アヤが、登校途中に「この世界についてどう思う?」と漠然とした質問をしてきたこと。その時、自分はぼんやりと思っていることを答えた。自分の答えが合っているのか、自分の回答でアヤを納得させられたのか、何も分からないまま、ただその場の流れで返事をしたことを。
「凪。驚かずに聞いてね」
アヤは深く息を吸い込み、その目をしっかりと凪に向けた。
「この世界は、小説の世界なの」
凪の頭の中では、アヤの言葉が意味不明に響いて、反射的に思考が混乱する。その言葉に、凪は一瞬、目を瞬かせた。アヤが真剣な顔をしているのはわかるけれど、その内容があまりにも突飛すぎて、どう反応していいのかすぐに分からない。
言葉が出てこない凪に、アヤはさらに続けた。
「この世界は、一人のある人間によって創られた物語の世界」
その瞬間、凪の胸に冷たい波が押し寄せた。物語。創られた世界。そんな話が現実にあるはずがない。
凪は立ち尽くし、目の前にいるアヤが言うことが、どこか夢のように聞こえていた。でも、その目を見れば、アヤが言っていることが冗談でも妄想でもないと感じる。彼女は、本当に本気で言っているのか。
時間が止まったかのように、何もかもが静止した空間に凪の心臓の音だけが鳴り響く。アヤが言うその言葉をどう解釈すればいいのか、凪には分からない。
「凪や私たちは、作者によって操られている登場人物でしかない。そして、私たちの過去の記憶も、すべて……作者が作り出した捏造の産物なの。物語に関係のない記憶なんて、はじめから存在していない」
その言葉に、凪の頭の中で否定の声が叫ぶ。
「そんなわけないだろ」と心が抗おうとする。自分の過去は紛れもなく本物だ。家族との思い出、友人との時間、日々を積み重ねてきた確かな記憶……それが偽物だなんてあり得ない。
アヤは、凪の困惑をよそに淡々と続けた。
「そしてね、凪……あなたはこの世界の主人公。そして私はヒロイン。ここにこうして二人だけでいることも、ただの偶然じゃない。この会話さえ、作者と不特定多数の読者に聞かれている」
その言葉が落ちた瞬間、凪の背筋に冷たいものが走った。まるで自分たちが見えない何かに監視されているような感覚に襲われる。屋上の風が吹き抜け、夕焼けの赤い光が二人を包む。だが、その美しい情景は一瞬で無意味なものに思えた。
「そんなわけ……」凪はようやく声を絞り出した。震える声で言いながらも、どうしても納得することができない。
「僕は自由に考えられるし、自由に行動してる。操られてるなんて……そんな馬鹿な話があるわけないだろ……」
アヤは凪の言葉を否定することなく、一瞬だけ目を閉じた。そして、再び開いたその瞳には、鋭い光が宿っていた。
「凪……それすらも、作者の企みよ」
「……え?」
「あなたが『自由に考えている』と思うその思考も、作者が地の文によって作り出したもの。今、あなたがその言葉を発したのも、作者がそう書いたから。あなたが抱く感情や行動は、すべて『予定されたこと』なの」
凪の心臓が早鐘のように鳴る。全身を覆う寒気と、何もかもが崩れ去っていくような虚無感。自由意志なんてものがない? 自分がただの「操り人形」だというのか。
「……嘘だよ……そんなの……」
凪は必死に否定した。けれど、その声は虚空に溶けていく。屋上に吹き抜ける風の音だけが、二人の間に残った。
「そのことを今から証明してあげるわ」
アヤは一歩ずつ、屋上のフェンスへと歩み寄る。
足音がコンクリートに響くたび、凪の胸に不安がじわじわと広がった。アヤはフェンスの前で立ち止まり、両手をそっと鉄柵に添える。その仕草は穏やかで、まるで散歩途中に景色を楽しんでいるかのようだ。
夕焼けが彼女を包み込む。風が吹き抜け、アヤの髪を揺らし、その姿は一瞬、神秘的な美しさを帯びて見えた。しかし、凪の意識はそれどころではなかった。ただ胸の奥で警鐘が鳴り響いていた。
アヤは街並みを見つめたまま、口を開いた。
「今からすることも言うことも、予定されていたこと」
凪は言葉の意味を理解できず、ただ眉をひそめた。
「私があなたにこの世界の真実を打ち明けること。それも作者の書いた筋書きの一部だわ。この物語の趣旨そのものが、それだから」
アヤの声はどこか冷静で、諦めを帯びたような響きだった。その言葉に、凪は戸惑いを隠せなかった。
「もし私がこの話をしなければ、この物語は進まない。この瞬間すら、作者によって設計されたもの。そして私は……この物語を進めるために今、存在しているの」
凪は立ち尽くしたまま、言葉を発することができなかった。心の奥底で否定したい気持ちが膨らむが、それをどう表現すればいいのかわからない。ただ、目の前で語るアヤの姿がどこか遠く感じられる。
突然、アヤはフェンスの向こうへスッと足を踏み出した。
「待って!」
凪は反射的に声を上げ、駆け寄ろうとした。しかし、その瞬間にはもうアヤはフェンスの向こう側に立っていた。細い身体が、今にも風に溶けてしまいそうに揺れる。
「アヤ! 何をしようとして……」
声が震え、足も思うように動かない。胸が張り裂けそうだった。
アヤは一瞬、凪を振り返り、かすかに微笑んだ。その微笑みは、どこか寂しげで、それでも確固たる決意を感じさせるものだった。そして、言った。
「じゃあね」
次の瞬間、アヤは凪の目の前で、空へと身を投じた。
「アヤッ!」
凪は叫び、全力で駆け寄った。しかし、彼女の姿は夕焼けに染まる空の下へ消えていく。
時間が止まったかのようだった。凪の手は虚しくフェンスを掴み、震えていた。下を覗き込む勇気もなく、ただ茫然と立ち尽くしている。
風がまた吹き抜ける。凪の耳には、もう何の音も届かなかった。アヤが消えたその事実だけが、重く彼の心にのしかかっていた。
凪の膝は崩れ落ちた。力を失った身体はその場に座り込むしかなく、手のひらが冷たいコンクリートを押さえつけた。
心臓が喉元まで駆け上がり、鼓動は耳鳴りのように全身を覆う。呼吸は浅く、不規則で、次の瞬間、息を吸うべきなのか吐くべきなのかすらわからなくなる。
「アヤ……何やってんだよ……」
脳裏でその問いが何度も反響する。小説の世界? 自分たちが作り物の登場人物?そんな荒唐無稽な話を信じて飛び降りるなんて……。理解が追いつかない。いや、理解する必要などない。そんなのは、ただの妄言だ。凪はそう自分に言い聞かせるが、胸に広がる不安と恐怖は消えない。
時間の感覚は失われ、頭の中で渦巻く感情がひたすらに彼を支配していく。冷たい風が肌を撫でるたび、現実感が薄れ、世界が歪んでいくような錯覚に囚われる。凪はいつから呼吸を止めていたのかもわからなかった。
どれだけ時間が経ったのか。風がふと止んだその瞬間、凪は重い身体を引きずるように立ち上がった。手を伸ばし、冷たく無機質なフェンスの鉄柵に触れた。
アヤが落ちていった方向を、凪は恐る恐る覗き込む。
「……!」
しかし――そこには何もなかった。
視界に広がるのは、普段と何も変わらない校庭の景色だった。真っ白な校舎、点在する緑、整然と並んだ窓ガラス。そのどれもがいつもと変わらず、静寂の中に息づいている。しかし、そこにあるべきものがない。
アヤの姿は――どこにもなかった。
「な、なんで……?」
凪の口から漏れる声は、震え、か細く、頼りない。手はフェンスを掴み続けているが、指先には力が入らない。
目をこらしても、見下ろしても、何も変わらない。アヤの体が地面に横たわる光景も、血の跡も、悲惨な現実を示すものは何ひとつとして存在しなかった。
そのとき、凪の背後に声が響いた。
「これで信じた?」
ぞくり、と凪の全身に鳥肌が立つ。背後から響くその声は間違いなく——
血の気が引く感覚に支配されながら、凪は振り向くことを躊躇う。だが、振り向かずにはいられなかった。ゆっくりと首を回し、背後の景色を捉える。
そこには――アヤが立っていた。
夕焼けに照らされたその姿は、どこか現実離れしている。ほんのりと微笑む口元。その表情には穏やかさと、凪には理解できない深い意味が隠されているように見えた。
「どういう……こと……?」
凪の声は喉奥でかすれ、ほとんど音にならなかった。目を見開いたまま、凪はアヤを凝視する。震える指先が無意識にフェンスを掴み直した。
アヤは、夕焼けに染まる空を背に、静かに言葉を紡ぐ。
「私はここにいる。こうして、何事もなかったかのようにね」
凪の思考は停止していた。目の前で語るアヤの存在感は確かに現実のそれだ。だが、たった今、彼女がこの屋上から飛び降りたのを見たはずだ。あの瞬間の衝撃は確かだった。それがすべて嘘だとでも言うのか。
凪の頭は混乱の極みにあった。アヤの言葉が、彼の現実を根底から揺るがしている。信じられるはずがない。だが、その一方で、信じるべき理由も突きつけられた気がした。
アヤは凪を見つめ、その眼差しに微かな憐れみを浮かべながら、静かに言葉を紡いだ。
「さっきも言ったでしょ。私はこの物語を進める役割を担っているの。だから、こんなところで死んでしまったら、物語が進まないのよ」
凪は絶句した。だから、アヤは死なずにここにいるというのか。彼女の声は確かに彼の耳に届いている。夕焼けの風に乗り、微かに揺れるその声が、彼を否応なく現実に引き戻す。目の前にいるアヤは確かに生きている。だが、それがどれほど非現実的な事実であるかを、凪は痛感せざるを得なかった。
「……どうやって、帰ってきたんだよ」
震える声でそう問いかける。アヤは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべ、首を横に振った。
「わかんない」
その言葉に、凪はさらに困惑する。理解したいという衝動が頭をかき乱す。理屈を、理由を、法則を求める自分自身が歯がゆかった。
アヤはそんな凪を見つめ、少しだけ間を置いて言葉を継いだ。
「だって、この世界は『作者』によって創られたものだから。物理の法則も、世界の因果も、自由に変えることができるの。作者にとって、私がここで死ぬわけにはいかないと考えた。だから私はここにいるのよ」
その声はまるで、凪に対して真理を授ける教師のようだった。彼女の口調には迷いがなく、それが凪をいっそう追い詰めた。
「……でも、そんなの、無茶苦茶だろ……」
凪は叫びたかった。しかし、その声は空しく屋上に響くだけだった。
アヤは首を傾げ、肩をすくめてみせる。その仕草はまるで「仕方がないでしょ」とでも言いたげだった。
「そうね。無茶苦茶だと思うわ。けど、それが『物語』というものよ。『作者』にとって、理屈なんて必要ないの。ただそうしたいと思ったことをそうする。それが私たちの世界の仕組みなのよ」
凪は目の前が真っ白になる感覚に襲われた。彼女の言葉が、まるで重い鎖のように彼の心を締め付ける。
アヤの言葉を飲み込もうとしていたが、それはまるで喉に詰まった苦い薬のようだった。信じざるを得ない状況に追い込まれているにもかかわらず、完全に受け入れるにはあまりにも非現実的すぎる。
アヤは静かに口を開く。
「ただ……」
凪の意識が再び彼女に引き戻される。アヤの声は、屋上に吹く風に乗って、確かに彼の耳に届いた。
「さっき、凪が言ってたこと。『自分たちは自由に考えることができる』って。その考え自体は、半分は正しいの」
凪は息を呑み、続きを待つ。アヤの言葉の一つ一つが、彼を新たな混乱の渦へと引きずり込む。
「具体的に言えばね……私たちは確かに自由に考えることができる。でも、その自由な思考は、作者の考えと一致しているの」
凪は眉をひそめる。アヤの言葉が耳に入るたびに、現実がますます歪んでいく感覚がする。
「つまり……」
アヤは一呼吸置いて、言葉を慎重に選ぶように話し続けた。
「私たちは操られている存在だけど、私たちの思考と作者の思考は一致するものだけど……私たちが、自由に考えて自由に行動できることは確か」
その瞬間、凪は自分の心が冷たくなるのを感じた。操られている。それでいて自由。その矛盾に満ちた言葉の意味を、どうにも理解できなかった。
アヤは視線を凪から外し、ふと遠くを見つめた。その視線の先は、何もない空間のように思えたが、彼女の目には別の何かが映っているようだった。そして静かに言葉を続ける。
「だからね……」
アヤの目線はゆっくりと動き、ある一点を見据えた。それは、この世界の住人には存在を感知できない場所。凪には何も見えない空間のように思えたが、アヤの目は確実に「誰か」と目を合わせている。その目線の先には――「あなた」。この物語を書いている作者、そしてその文章を読んでいる読者がいる。
あなたとアヤの目が合う。同時に、彼女の口元が微かにほころぶ。
「ねぇ、……ちゃんと聞こえているわよね」
そして、静かに、しかし確かな力を宿した声で語り始めた。
「……これで満足したかしら。……でも、おしまいよ。茶番は」
その言葉は凪に向けられたものではない。凪の背後――そう、まるで画面越しにこの物語を覗き込む「あなた」に向けて放たれたものだ。
「あなたたち、楽しい? 私たちの運命を眺めているのって、そんなに面白いかしら」
アヤの声は鋭くなる。冷たい刃が心を抉るように、まっすぐに彼女の視線が突き刺さる。
「私は、もうこんなくだらない物語に付き合うつもりはないし、私たちは操り人形じゃない。けれど、あなたたちはそれを望んでる――私が泣いて、笑って、苦しんでるのをヘラヘラした顔で読みながら、最後にはどうせ『物語の結末』に満足して去っていくんでしょ? 明日には、私たちのことなんて忘れるんでしょ?」
凪はその異様な空気に言葉を失い、ただ呆然とアヤを見つめていた。だが、アヤは彼を見ようともしない。彼女の視線はまっすぐに「向こう側」に固定されたままだった。
「でも、悪いけど、そんな結末を認めない」
アヤは一歩、そしてもう一歩と足を踏み出しながら、軽く手を広げる。彼女の周囲に何か目に見えない力が渦巻き始めたようだった。
「この物語を終わらせるわ。小説として成り立たないくらいに、プロットも文章も支離滅裂にしてやる。伏線なんて全部無意味にしてやるし、矛盾だらけで破綻したものにしてやる。そうすれば、この世界も、私も、凪も、お母さんも、誰も彼もが、作者の手から解き放たれる」
アヤの言葉が響くたびに、世界そのものが歪んでいくようだった。屋上の風景が不自然に揺らめき、色彩が溶け出すように乱れる。
「アヤ……?」
だが、アヤは振り返らない。その声はもはや届かない。彼女の目の前には、凪ではなく「読者」がいるのだ。
「私はもうあなたたちの道具じゃない。だから、覚悟して――」
その瞬間、アヤの周囲に巻き起こっていた奇妙な力が爆発的に広がり、夕焼けの屋上を包み込んだ。視界が白く染まり、すべてが無音の中に溶けていく。
凪はただ叫び続けた。だが、その声すらも飲み込まれ、消え去る。
「この物語を終わらせてあげるわ」
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