第2話 『彼らは河を渡れない』
雪解けも早々の季節、ある村を
幸いその村は幾つも分岐した大きな河の中心に位置する小さな孤島のような離れ島であったので他の村に病が広がる事はなく、村人からは早期に通信でメッセージが届いたために他の村からその村に渡る者もおらず、他の村は突然の災難を労いながら彼らの治癒を待った。必要ならば物資も船で届ける、との打診も行ったが、返って来たのは同じメッセージだった。
『流行病あり、こちらには来るな。伝染性が非常に強く、厄介である。また連絡する』
それから一ヶ月が過ぎたが孤島の村人達は一向に他の村に姿を見せず、また再三の通信を行っても同文のメッセージしか返って来なかった。これは、こちらから通信を試みた際に定型文が返信されるようにセットされているだけで、彼らは支援の通信を本当は受け取っていないのではないだろうか。こちらの村でそう意見が出て、付近の村が集まった村人達の会議でも同じ結論が出た。
あの村ではもう流行病で全ての村人が倒れ、或いは死んでしまっているのではないか。
もしそうならば救助に行くべきである、との意見に多数の者が賛成した。病には最大限警戒しつつ、救助、もしくは相応に弔ってやらねば。
だが――と、ある村人が言った。
「あの村、昼にはだぁれもおらんのだが、夜になると人影がうろついているんだよ。だから少なくとも全員が死んでる訳じゃあなさそうだ」
その村人は漁師で、河の魚を釣って生計を立てていた。そして、例の村の対岸沿いの一番近くに住んでいる者だった。漁師の言葉に、何度も通信を試みている村人が声を上げた。
「おかしいじゃないか、なら何故こちらの通信に気付かないんだ?」
「大体、夜しか動きがないのも変だろう。夜行性の動物を見間違えたんじゃないのか」
その反論に、漁師はいいやと首を振る。
「動物と人間の区別がつかんで漁ができっかよ。それに……夜釣りの時に、一度、近くまで行ってみたんだ」
病を持ち帰る可能性があるために小島付近に近付く事は禁止されており、漁師はそのために今まで言い出せなかったと添えてから、
「確かに人間だった。複数、三人くらいかな。河沿いを散歩するようにうろついてたんだよ。で、俺が船から声を掛けたんだ。おーい、食べもん持って行ってやろうかぁ、ってな。……そうしたら奴ら、何だか焦ったようにばらばらに逃げ出しちまいやがって、すぐに人っ子一人おらんくなった」
記憶をなぞるように目を動かしつつそう話した。
「……逃げた? 何故だ?」
「知るもんか。だが、今でもたまにうろつく影が見える。夜に、特に月の晩だと増えるみてぇだ。……正直俺ぁ、あれ以来妙に恐ろしくってよ。なあ、あそこはバケモンの住処になっちまったんじゃないか?」
漁師の証言で、その場に沈黙が落ちた。
「……なら確かめてみよう。村に行く前に、本当に夜に人が歩いているのかを」
誰かがそう言い、賛同の声が集まった。漁師もその方がいいと頷いた。そして次の日の夜、目のいい者を数人引き連れて、村の代表が漁師の家に泊まった。漁師自身はもう見たくないと言い夜になると家から出ようとせず、彼の怯えように異様なものを感じつつ村の者は大きな河の対岸越しに隠れて小島を観察した。
月の大きな夜だったという。月光を反射して川の水面に風が模様を描き、それがきらきらと光り、魚の背中が一瞬跳ねて光る、そんな夜だったという。
明かりもない真っ暗な島の集落、そこから――ぞろぞろと、人間の影が出て来て、漁師の言っていた通りに『まるで散歩をするように』沿岸を好き好きにうろつき始めたのだ。
ある影は波打ち際を辿るように歩き出し、ある影は少し離れた場所に腰を下ろし、ある影は腰の後ろで手を組みじっとこちらを見遣っていた。
だが、どの影も……明かりの一つすら持っていなかったのだ。月が出ているとはいえ、夜の闇の中である。河に落ちる危険性も考えるなら、明かりも持たずにその場をうろつくのはおかしいだろう。なのにどの影も足元に困る様子すらなく動き、歩いている。対岸のこちらからではかろうじて影達の輪郭は解るものの、詳細は見て取れない。だから向こうも同じ条件の筈、その筈だった。
怖い。
言葉にはせずとも、小島を見ている者達は全員が等しくそう感じた。
特に、こちらをじっと見ている影。それが恐ろしかった。まるで、まるで――どうにかしてこちらに渡ろうと考えている、そんな風ではないか? いや、何故こちらを見ていると解るのか? その理由に次の瞬間気付く。
全身が闇に包まれる中、顔の、目と思わしき箇所が薄っすらと見える。薄ぼんやりと、寒気のするような
漁師の言っていた意味が、恐ろしいと言った理由が彼らにも理解できた。彼らもそこで、頭の芯が凍えるような恐怖を味わったのだ。そして確信した。
あの村は、流行病で化け物の巣になったのだ。
◆ ◆ ◆
オリエンスの国境付近の辺境土地、フルフィウス。
ギルドでの依頼を受けたシダルガとラウルは、依頼主である大きな河沿いの村の代表者の元を訪れていた。
その依頼は危険度が高いとされており、請け負う冒険者には呪いや病などの対策が為されている者に限られていたが、その割には対価が低いために請け負う者がおらずギルドでも持て余されている依頼だった。依頼主はこの辺境の河沿い地域の住民達であり、大きな流通路からも外れたこの土地は河魚を捕ったり土地を耕したりと、自給自足でのんびりとした暮らしをしていたのだ。依頼内容は『危険な土地の調査及び魔物の討伐』で、ここに呪いや感染性の病が関わる場合、普通依頼料は倍額に跳ね上がる。しかしこの土地の住民にそこまでの蓄えはなく、有志から募った依頼料もギルドの冒険者達には労力に釣り合わないと判断されて断られ続けていたようだ。
この依頼を引き受けたいと言い出したのはシダルガで、構わないと二つ返事をしたのがラウルだった。邪竜どころか竜種の関わりは一切ない、少なくともそう見える依頼だが、困り果てている村人を見捨てるのが忍びないのだと彼は言った。
依頼内容にあるその島は河に囲まれ孤立した島で、通信による連絡が定型文しか返って来なくなり、更に夜には明かりも付けずに人らしき影がうろついているが昼には一切それがなく、また漁師やこちら側の村の者はあそこは化け物の巣になってしまったのだと主張した。
一度は連絡が途絶えたに等しかったのだが、それが変化したのが一ヶ月前。夜になると点滅信号でメッセージが来るようになったのだという。『食糧をくれ』『沿岸に無人船で置いてくれ』『決して陸地には上がらずに』……彼らからの久方ぶりのメッセージはそのようなものであったという。やはり病はまだ蔓延しており、もしかすると太陽の上がる時刻にはおらず沈んでから出て来るのもその影響かもしれない。孤島の住民と交流のあった村人や親戚があの島に住んでいる者が疑う漁師や村人を説き伏せて、彼らの要求通りに食糧を載せた船を送ってみた。そして翌日の昼に回収のため船を見に行くと、食糧は全て取られており、代わりに対価と同等の金品と新鮮な魚の入った
やはり病のためであり化け物になったのではない、と船を出した村人は安堵し、疑う者にもこれを告げて一時は彼らも納得したかのように見えた。
次の夜の点滅信号で感謝の言葉が孤島から送られ、こちらでは代わりに何があったのか詳しく教えてくれと送ったが、『流行病のせいだ』としか答えは返って来なかった。
この点滅信号による取引は複数回行われたが、その内に金銭や宝石等の高価品が尽きたのか、孤島からの対価は魚や鮮花などに変化していき――ここで、こちら側の村人も困り果てた。何故なら彼らは、孤島からの食物対価……魚や果物などは食えたものではないと破棄していたのだ。金や高価な品物も一昼夜太陽光に晒して浄化しないと手にも取れない程に、村人の孤島の住人への忌避感は高まっていた。しかしその金品が途絶え、口にする気も起きない魚のみの対価となると今度は無償の提供になってしまい、こちら側の村の経済状況にかなりの痛手となる。しかしこれを断ると何をされるか解ったものではない――……既に根付いていた『化け物の島』のレッテルは、剝がれようもない程に強固になっていたのだ。
困り果てた村人はギルドに相談をしてみた。そしてギルドでも「島内で何らかのパンデミックが起こり、村人が人間ではないものに変化してしまったのではないか」と予測され、これが真実かどうか調査をする依頼を出すようにとアドバイスをした。村人はその通りに依頼を出したが引き受ける者がおらず、そこにギルドを通りかかったシダルガとラウルが目を留めて引き受けた……経緯としてはこのようなものだった。
「この依頼、どう思いますか?」
二人しかいない小船の上でラウルがシダルガに訊ねた。櫂を両手に漕ぐシダルガは僅かな間を置き答える。
「ギルドや村人の予測は正しいように思う。孤島内で何かが起き、そこに住む者が変化した。そう見ていいだろう。だが安易に異形に変わったと断定するのは早計だ」
「理性があり、攻撃の意図はなさそうですからね。もし本当にただの化け物に変わってしまったのなら、通信も点滅信号も送れませんし、島の人には食糧の対価を払う意思もあるようです」
「ああ。それに、『こちらには来るな』と再三の警告も発している。攻撃や加害の意図があるならば逆に引き寄せようとするだろう」
頷くシダルガが両手を大きく動かすたびに船がするすると移動していく。水面に立つさざ波は静かだ。
「病の中には日光が害になるものも存在しますし、それに罹患してしまったのだとしたら昼の間は外に出られないのも解ります。孤島に病が蔓延したというのが冬の終わりなら、今の彼らの状況はかなり悪い筈です。早く確認した方がいいかもしれません」
「そうだな。だがラウル、孤島への確認のみなら私だけでも構わなかったが……もし本当に病だとしたら、君が罹患する恐れも」
「それは無いです。僕の『体質』は回復というよりも固定に近いようで、毒や病などの異常にも
「…………」
ラウルはあっさりと言う。彼の『体質』、どのような怪我をしても四肢が斬り落とされてもすぐに回復して元通りになる。それをシダルガは目の前で見たし、これに加えて不老不死であるという言葉が本当ならば、確かにそれは『回復』よりも『固定』と呼んだ方がいいのかもしれない。その形で固定され、それ以上は成長せず、損なうと自動的に修復される……ラウルの身体はそういう仕組みであるのだろうか。
「それより、シダルガの方こそ、ですが……」
言葉の途中でラウルは苦笑する。恐らく返答が予測できたのだろう。
「私には効かない」
「やっぱり、そうですか」
「ああ。私はあらゆる呪いや病を無効化する権能を与えられている」
くすくすと笑っていたラウルは、権能の話になると笑みを引いて僅かに困ったように首を傾げた。彼は、シダルガが人造のものであるという話題が出るとよくその表情になる。人の
「ちびは置いて来て良かったのか?」
シダルガはそれを問おうとはせずに別の話題を出した。いつもラウルの懐にいるあの幼竜は宿に置いて来ており、数日分の木の実と共に「誰かが来たらすぐ隠れるんだよ」と言い聞かせていたのを見ていたのだ。ラウルは問いに頷いた。
「はい。病がある可能性を考えて。チビは竜なので人間の病くらいは跳ね除けるでしょうが、まだ子供ですし、もし免疫がなかったらと……」
竜に対するものとしては過保護のように思えるが、ラウルはあの幼竜を大事にしている。それが解るのでシダルガも頷いた。それに、もし本当に何かの病、或いは化け物に変化する呪術が掛けられていたら戦闘になる恐れもある。そうなるとチビを隠し通すのは難しいだろう。
そんな会話をしていると、船が河に囲まれた孤島の岸に着く。
今は昼の最中。孤島は、まるで無人島のように静まり返っていた。
孤島の東側に当たる岸壁に船をつけ、
河に囲まれた孤島はさして大きな島でもなく、住民も数十名のみで、全ての者が昔からここに住んでいた村人だ。国境ではあるが僻地であり、
東側に位置するこの接岸施設は近隣の村が食糧を届けていたその場所で、他には西側に浅瀬があり小船ならばそちらにも留められるそうだ。西側の向こうは大河が広がっており途中で国境を越えるので、孤島の住民に支援を行っていたのは主に東よりに位置する隣島だった。
孤島の陸地に降り立ち、二人はひとまず付近の村の様子を見ようと決めた。二手に別れれば効率は良いが、何があったかも解らない村だ、別行動は止めて二人で偵察を兼ねた散策をする。
村と思わしき家が連なる集落に入るが、そちらでも人っ子一人歩いておらずに静まり返っていた。ただ風で木の葉や家の軒先に吊るした飾りや屋根の綻びた草がカサカサと音を立てるのみだ。
「……誰もいないように見えますね」
「ああ。人の気配は……ある事にはあるが」
シダルガがそう呟いた時、ある家と家の隙間の通りでコツン、と音が鳴った。そちらに視線を向けるラウルの目に、慌てて逃げ出すような小さな影が映る。
「――あれと、もう一つ」
呟くシダルガが素早く足を踏みだし、ラウルもそれを追う。幾らもしない内に影に追いつき、それが必死で隠れ逃げようとする痩せた子供であると解った。通りの向こうは高く積まれた煉瓦で壁になっており、子供の背丈ではとても登れずに自然と行き止まりになっている。
「君は――……」
「こ、こないで、」
見るからに怯えた子供の様子に、シダルガが足を止める。ラウルは彼の傍から子供に向かい、そっと声を掛けた。
「こんにちは。この村の子かな?」
出来るだけ優しく穏やかに、怖がらせないように声を掛けながら屈んで目線を合わせる。びくびくとしていた子供はやっとで顔を上げてラウルを見た。それは
「だ、だれ……」
少女はまだ警戒を解かずに怯えを滲ませた声で問う。
「僕達は旅の者で、」
「ロサから離れろ!」
説明しようとしたその瞬間、刺々しく甲高い声が上がりラウルに向かって小さな何かが飛んできた。それはただの
「あっちへ行け、ここにはなんもない!」
「ロス……」
虚勢を張り全身で威嚇をする少年に、後ろの少女がそのぼろの服の裾をぎゅっと掴む。
「君もこの村の子ですか? 僕達はここに何かを盗りに来たんじゃなくて……」
「じゃあさっさと帰れよ!」
聞く耳もないとばかりに肩を怒らせる少年に、どう言ったものかと悩んでいるとシダルガがすっと足を踏み出した。
「シダルガ?」
と思うと、ラウルが問う間もなくロスと呼ばれた少年の襟首を掴み、ぐいと持ち上げる。
「離せ、離せよっ!」
「ロス! ロスにひどいことしないで!」
じたばたと足をばたつかせて藻掻く少年と、シダルガの足にロサと呼ばれた少女が縋りつく。ラウルは慌てて彼らの元に向かい、二人を交互に見ながら声を掛けた。
「落ち着いて、大丈夫だから。二人とも、よく聞いてください。僕達は旅人ですが、この近くの村の人から、ここの様子を見て来て欲しいとお願いされて来たんです。薬と水と、栄養のある食べ物も持って来ました」
「……たべもの?」
途端にロサのお腹から盛大な音が鳴る。真っ赤になる少女に、ラウルは小さく笑って少女の前で再度膝を折り目線の高さを合わせた。
「はい、沢山持って来ました。固いものを食べるのが難しい人には柔らかく煮た砂糖漬けのフルーツも。……他の村の人はいませんか?」
「えっと……」
「ロサ! ヨソモノを簡単に信じるなよ!」
まだ襟首を持たれたままのロスが声を上げる。迷ったようにラウルとロスの顔を見比べる少女に、ラウルは苦笑してシダルガに話しかけた。
「下ろしてあげてください。シダルガも、余り乱暴な事はしないでくださいね」
「あのままでは埒が明かなかったものでな」
ラウルに言われるとシダルガは素直にロスの襟首を離し、突然だったためか尻餅をついたロスにロサが駆け寄った。それでもまだ剣呑に目を吊り上げるロスに、ラウルは二人を見て持っていた荷の中から砂糖漬けの果実の瓶を取り出した。
「お腹がすいているんですよね? どうぞ」
「あ……」
瓶を見てもまだ迷っているロサとぐっと唇を噛み耐えているロスに首を傾げていたラウルは、ああ、と頷き瓶の蓋を取って一粒を自身の口に放り込んだ。
「大丈夫です、何も悪いものは入っていませんよ」
「…………」
「ねえ、ロス……」
むぐむぐと砂糖漬けの果実を噛んで飲み込むラウルに、もう涎を垂らしそうなロサがロスの裾を引く。ロスもぐっと息を飲み、それからシダルガを指で指した。
「そいつにも食わせてみろ。そしたら、信用する」
「解りました。シダルガ、どうぞ」
瓶を向けるとシダルガの指が同じく砂糖漬けの果実を一粒取り出して口に放る。そして彼もゆっくりと咀嚼してそれを飲み込み、何でもないがという顔で二人を見下ろした。
「ほら、大丈夫でしょう? 君達も、どうぞ」
微笑んで瓶を二人に差し出すと、殆ど奪うような勢いでロスがそれを手に取り、中の果実をロサに手渡した。ロサもがっつくようにそれを口にして、一瞬の後に破顔する。
「……! あまーい!」
「……ッ」
甘い、おいしい、とロサは喜びながら、ロスは無言でがつがつと次々砂糖漬けの果実を口に入れる。
「余り慌てて食べないで、お水も飲んでくださいね」
皮袋に入った真水を手持ちのカップに入れて手渡すと、ロサが嬉しそうに笑って受け取った。
「うん! ありがとう、お兄ちゃん! ロスも、お水だよ」
「……うん」
一度ロサが飲み干したカップに再び水を注ぐと、ロスもぶっきらぼうに頷きながらそれをぐいっと
「これ以外にも、パンや干し肉、野菜の類も持って来ていますよ。調理器具がありましたらそこで料理も作れます」
「……パンとお肉もあるの? 食べたい!」
跳ねるようにロサが言い、ロスもまだぶっすりとはしていたがそれに反論はしなかった。どうやらこの子供達はとても腹を空かせているらしい。
「それじゃあ、調理の出来る所に案内していただけますか? その時に、他の村の人の事を聞かせてください。もし病気でしたらそれ用の食べやすいものを作らないと」
「わかった! こっち、ロサ達の家はこっちだよ! あのね、お爺ちゃん達は夜にならないと起きて来ないんだけど、ご飯があるって知ったらきっとお爺ちゃん達も喜ぶよ!」
ラウルの袖を掴み、ロサが張り切って先導しようと歩き出した。ロスはまだ口を閉ざしたまま、それでも時折砂糖漬けの果実を口に運びながら二人の後を付いていく。その一番後ろをシダルガがゆっくりとした足取りで追った。
ロスとロサ、子供達は双子の兄妹なのだと道中で教えられた。
双子の家は集落の中の一軒家で、他の家と大きさも造りもそう変わらない。中は綺麗とまでは言えないが最低限の掃除や整理はされており、しかし長い間使用していなかったらしき台所の調理用具は錆や埃が強くしがみ付いていた。鍋と木杓子と幾つかの器とスプーン等を一度綺麗に洗い、ラウルは手慣れたように調理を始める。
「なに作るの?」
「スープです。野菜もお肉も一緒に煮込んで柔らかくした、栄養がたっぷりあるものを」
「あったかい?」
「温かいですよ」
やったぁ、と喜ぶロサはすっかりラウルに懐いたように周囲をちょろちょろと動き回り、手伝える事はないかと頻繁に聞いている。兄のロスは椅子に座ってそれをぶっすりと見ており、シダルガは台所の戸口に立ち壁に
後は火の様子を見ながら煮込むだけ、という段になるとラウルも台所のテーブルに向かい、改めて双子に問いかける。
「この間に聞いておきたいのですが、……他の村の人は夜に起きて来て昼には眠っているのですか?」
「そうだよ。病気なんだってお爺ちゃんは言ってた」
「今は昼ですが、君達は平気なのですか?」
「私とロスはまだ病気になってないの。私達のほかはね、西の……」
「おい、ロサ! あまりなんでもかんでも話すなよ!」
言いかけたロサの言葉をロスが遮り、ロサも慌てて己の口を小さな手で覆い隠した。
「こいつら旅人だって言ってたけど、それならフツウこんなに親切じゃない。どうせ金目当てだろ。ここにはもう金なんてないのに」
「いえ、決して金銭が目的では……」
「じゃあ何だよ、他に何があるんだ?」
つっけんどんに言うロスは、恐らく『何か』を知っている。それは流行病の事や夜にしか起きない村人と無関係ではないだろう。だがそれゆえに態度が
どう説明したものか、とラウルが悩んでいると、今まで黙っていたシダルガが口を開いた。
「我々はギルドから派遣された冒険者だ。依頼内容は、この村での流行病の真実を明らかにする事。その調査のために来た」
「……!」
シダルガの言葉にロスが顔を上げる。ロサは不安気にラウルの顔を見上げた。
「……シダルガの言う通りです。ここで起きた事の調査と、病人がいた場合の適切な簡易治療、それが僕達の役目です。ですから、何があったのかを教えて頂けませんか?」
引き継いで補足するラウルに、双子はどうしようと互いに顔を見合わせる。
「ねえ、ロス。お兄ちゃん達、悪い人じゃないよ……甘いお菓子もくれて、あったかいスープも作ってくれるし……」
「……でも、それだけなら外の奴らはふつうにやるだろ。そうやって騙すことだって……」
「でもでも、お兄ちゃん達が来てくれなかったらもうずっとお腹すいたまんまだったんだよ。あのことを知りたいだけなら、私達をおどかして言わせればいいだけだもん」
「…………」
まだ迷いがあるらしい双子に、シダルガが淡々と付け加える。
「我々がこれを解明出来ない場合、ギルドは村を異形に占拠されたと
「ちょっと、シダルガ……!」
直球すぎる物言いにラウルが慌てたのも遅く、双子はさあっと顔色を青く変えた。
「センメツ? みんな、殺されちゃうってこと? 私達もお爺ちゃんもお兄ちゃん達も? ――やだ! そんなの、イヤだよ!」
わっと泣き出すロサの肩を必死に抱き、ロスも涙目でシダルガを睨み付ける。
「いいかげんなこと言うなよ! 隣の村には爺ちゃん達のイトコもいるって言ってた!」
「その親戚筋の彼らがどうにか押し留めている状態だ。だが彼らも、長きに渡り連絡も渡来もないこの島の者を不審には感じている」
「そんな……」
「二人とも、落ち着いて。これはあくまで僕達がここを悪い島だと報告した場合です。何か他に理由があるなら、そうはなりません。だから、それを教えてくれませんか?」
震えて泣く双子に優しく声を掛け、ラウルは「言いすぎですよ」とシダルガを僅かに咎めるように見た。シダルガはそれを流し、続けて問う。
「みんな、と言ったが、その皆はどこにいる? 夜に起きる者は昼は家にいるのか?」
「そう、だよ……みんなお家で寝てるの……」
嗚咽の合間にロサが必死で言い、ロスも頷く。
「では、夜を待って僕らを皆に紹介してくれませんか? 彼らからも話を聞きたいのです」
「そしたら、みんな殺されない……?」
「……大丈夫ですよ。きっと、僕らも力になりますから。――ああ、丁度いい。スープが出来たようです。ひとまずこれを食べましょう、ね?」
「うん……」
顔を上げて竈の上の鍋を見るラウルに、ロサは涙を拭いながら頷いた。
ほかほかと湯気の上がるスープを四人分器に注ぎ、テーブルを囲む。
「普段は食前のお祈りをしていますか?」
「してるよ! 王様と神様に、お祈りするの!」
「それじゃあ、お祈りをしてから食べましょう」
うん、と頷き双子は目を閉じて両手をぎゅっと握る。ラウルもそれに倣い、シダルガは興味深そうにそれを眺め、三秒ほどで双子はぱっと手と目を開きスプーンを手に取った。そうして急いで口にかき込む――が。
「ん? あれぇ?」
ロサが首を傾げ、ロスが眉を寄せた。
「おい、これなんかヘンな味しかしないぞ」
「え? そ、そうですか? 匂いは良いので出来たと思うのですが……シダルガはどう思いますか?」
同じくスープを口に運びつつも首を傾げるラウルに、シダルガはスープを口にしながらごく淡々と言う。
「味付けが不足しており、
「そうなんですか……?」
「……先刻、上の棚に調味類があるのを見た。あれを加えればまともな味になる筈だ」
「で、ではそうします。すみません二人とも、一度返して貰ってもいいですか?」
「うん、いいよ」
そこで再びスープを鍋に戻し、ラウルはシダルガを呼び寄せて調味料を入れるたびに彼のアドバイスに従った。そんな二人の背を見ながら、双子はまた顔を見合わせる。
「あのお兄ちゃん、お料理がへたっぴなんだね」
「何でも出来そうなツラしてたのに、変な奴だな」
背後から聞こえる双子の言葉にラウルは苦笑する。
「すみません。僕は味覚が余り……上手く働いていなくて。極端に辛いとか甘いとかなら解るのですが、細かい味の方はちょっと」
「そうなんだぁ」
「ふーん」
無邪気に頷くロサと小馬鹿にしたように笑うロス。子供二人は特に深くは考えていないようだが、ラウルのその言葉にシダルガは彼の顔をじっと見下ろした。――味覚が殆どないというのは彼の身体の特異な状態、その副作用なのだろうか。しかしそれは、双子達が砂糖漬けの果実を甘いと喜んだその楽しみを、食の娯楽を失うに等しい。長い長い彼の生を
シダルガの味見によりまともな味付けがなされたスープが出来上がると、今度は切ったパンも添えて食事の再開となった。そのスープは双子のお気にも召したようで、あっという間に平らげてロスはお代わりもした。
「今まで、食事はどうしていたんですか?」
残りのスープは他の住民用にと蓋をしながらラウルが問う。
「えっとね、お隣の村から貰ったご飯をちょっとずつ食べてたの。みんなで分け合って……でも、最近はおなかがすいて眠れなくて……」
「――そうだったんですね。他の皆の食事はどうされているのですか?」
「生のお肉やお魚を分けっこしてるよ。私たちには危ないからって果物とか干したお肉とかをくれてたの。でも、少し前から私たちが食べられるようなご飯が少なくなってきて……」
「もうこの島の木の実とか、全部なくなったし……俺とロサは昼にも起きられるから、こっそり起きて花の蜜とかで我慢してたんだ」
「……なるほど」
納得しつつも、ラウルは苦く笑う。確かに、近隣の村人はこの島に送る食糧の数を減らしていると言っていた。他の住民が料理も出来ないような状態だと、生肉や生魚は子供には食えたものではないだろう。花の蜜を吸って
「皆はいつから夜に起きて昼に寝るようになった?」
シダルガが問い、ロスは首を捻りつつ「たしか、」と呟く。
「冬の終わりくらい、だったはずだ。冬の間も凍った河をこえて来る行商人が何人か来てたんだ。でも、やっとで冬が終わるくらいの暖かさになったころに、村のみんなの様子がだんだんおかしくなってきて……」
一人、また一人と、昼に起き出す者が減って来た。それに気付くと同時にその現象は加速的に広がり、双子以外の村人全てが病気になったのもそう遅くはなかった。
「それで、ヘンなんだよ。病気がうつるから来るなって通信した時には通信機が使えたのに、今は使えなくなっちゃったの」
「使えなくなった? 故障したという事ですか?」
「故障はしてないって役人の奴が言ってた。でも、使えなくなったんだってさ」
双子が弄ってみると使えるが、村人が使おうとするとうんともすんとも言わなくなったのだという。その双子も、通信機を立ち上げる事は出来るがセットされた文章を新しく組み直す事は難しくて出来ず、ただ近隣から通信が入ると無為に立ち上げる事しか出来なかった。――延々と同じ文章が届くのは、そういう理由からだった。
「その通信機を見せて貰えますか?」
「いいよ!」
「ばかロサ! 爺ちゃん達に言わずに見せたら怒られるかもしれないだろ!」
「あっ……」
ラウルの問いに元気よく頷いたロサをロスが突つき、ロサも慌てたように口を手で塞ぐ。
「僕だったら文章の組み直しも出来るかもしれないし、怒られるとしたら僕だけですよ。もし咎められたら、無理やり見せられたと言ってください」
「……ね、ロス」
ロサが兄の裾をくいくいと引き、ロスも渋々というように頷いた。
「わかったよ。怒られそうになったら本当にそう言うからな」
「はい」
笑ってラウルが答え、四人は食卓から立ち上がった。
双子の家から外に出ると、通信機のあるという場所に向かう双子とラウルとは別の方向にシダルガは足を向けた。
「シダルガ?」
「君達は通信機を。私は少し近辺を見て回って来よう」
「はい。ですが、別れて行動しても大丈夫でしょうか?」
「ロスとロサ、その二人が歩き回れているのならばこの島に当面の危険はないと認識している。……異変を見たら即時に撤退し、この家に戻って来よう。君達の方も、何かあれば……」
そこでシダルガは多少考え込み、ラウルを指した。
「ラウル。一滴でもいい、君の血を垂らしてくれ。その香りであれば、たとえこの島に魔獣がいようとも私はそれより速くに駆け付ける」
「血? ……まじゅう?」
「ぶっそーな男だな」
双子は首を傾げるが、ラウルは己の血の効能とシダルガがそれに強く反応する事を知っていた。なので、彼の提案に頷く。
「解りました。……くれぐれも、気を付けて」
「ああ。君達の方も」
そう言い置き、シダルガは歩き出した。彼の背を見送って、ラウルは再び双子に案内され通信機のある場所へと向かう。通信機は、村の寄合所である共用施設の中に設置されていた。
この通信機はギルドが融資し設置している、大陸では広く使われているタイプのもので、大まかな仕組みは簡易魔術に似ている。これに僅かながらでも魔力を通せば他方との通信が可能となっており、ラウルが点検して見たところ故障もしていないようだが……。
「では、この通信機を起動させてみますね」
通信機はギルドからこの村に借用されている、いわば村の共用機材だ。念の為に村人の一員である双子に確認すると、二人は頷きながら背伸びをして台の上の通信機を見上げた。
「うん! あのね、ここを押すと明かりがつくんだよ」
ロサは言いながら通信機の電源部分を指す。
「ありがとうございます。それじゃあ、」
礼を言ってラウルは電源部分に指を押し当てた。かちりと音がして通信機のランプが点く。これは『指で押し込む』という動作の中に『指先から魔力を流し込む』という一連の動きを重ねて設計されており、呪文や大仰な手続きは不要である代わりにあらかじめ登録された別の通信機と限られた文字数、そして送信する文字列は別途で生成するという手間が必要ではあるものの最初にそれさえ用意していれば『指でボタンを押す』だけで稼働する便利な器具だ。
電源が点くと、新規の受信メッセージは無かったもののここ最近の履歴として近隣の村からの事情を問うメッセージが山のように届いているのが見られた。ラウルは新しく送信するメッセージの欄に、孤島に着いた事、昼に起きて活動している子供がいる事、彼らによれば他の村人はやはり病で夜にしか起きられないようで現在は誰も起き出していない事、それ以外に異変はない事を文章作成して送信した。するとラウル達を送り出した村から即座に了解との返信があり、夜かもしくは明日の日中にまた調査報告を頼むという追伸が来た。これにも了承の返答を送り、ひとまず最初の報告を終える。
通信機の電源は放置すると五分程で自動的に消える。通信機から手を離すと、ロサがきらきらとした目でラウルを見上げて来た。
「すごーい! ねえ、あの文字はどうやって作るの? 私たちにもできる?」
「ええと、そうですね……新規でメッセージを作るのは、少し魔術のコツが要ります。お二人は文字の読み書きは出来ますか?」
ラウルが屈んで問いかけると、双子は顔を見合わせて気まずそうに頭を掻く。
「……カンタンなやつなら」
「ちょっとだけなら……」
素直な答えに笑い、「じゃあ、」とラウルは続けた。
「まずは文字を全部覚えてからですね。短いメッセージならすぐ作れるようになりますよ」
「できるって、ロス!」
「短いやつならだろ……」
嬉しそうなロサとぶっきらぼうに、けれども照れ隠しをするように頬を膨らませるロスにラウルは笑う。二人の子供のそれはとても微笑ましいが――やはり、疑問は出て来た。
通信機は故障してはいない。ラウルが使っても問題なく新規の文章も作成出来た。では何故、他の村人は通信機を使って説明しないのだろうか? わざわざ夜に点滅信号を送らなくても、通信機を使えばやり取りも早く簡単だった筈だ。
『病気がうつるから来るなって通信した時には使えたのに、今は使えなくなっちゃったの』
ロサはそう言っていたが、故障もしていないのに使えなくなるとはどういう事だろうか。
「…………」
心当たりはあった。だが、そうだと判断するにはまだ材料が足りない。
「では……僕達も、少し散歩をしましょうか。この島を案内して頂けませんか?」
ひとまず二人にそう声を掛けると、ロサが笑って頷いた。
「うん! 今日は晴れててあったかいから、きっといい気持ちだよ!」
「おい、ロサ。こいつはヨソモノだって忘れるなよ……ロサ!」
ロサはラウルの手を引いて意気揚々と歩き出し、ロスはその後をまだ文句を言いつつ着いて来た。
明るい太陽の光が差す中を双子と共に散策する。それだけを見れば何とも
しかし、集落の大通りの坂に差し掛かった時に突然様相が変わった。坂の途中からはまるでバリケードを作るように板や丸太、ドラム缶などで大きな壁が作られていたのだ。
「……これは?」
問いかけると、双子は互いに困ったような顔をした。
「あのね、ここから先は行っちゃいけないの」
「……封鎖されているという事ですか?」
「うん。向こうのほうにはお兄ちゃん達がいるんだけど、お兄ちゃん達は病気になってから怒りっぽくなってて、キケンだから絶対に行くなって」
「お兄ちゃん達も、夜に起きて昼には寝ているんですか?」
「そうだよ。向こうももうみんな病気になっちゃったんだって」
「前に、昼のうちにこっそり行ってみたことがあるんだ。誰もいなかったけど……ヘンな唸り声が聞こえて」
「唸り声?」
「ケモノみたいな、イヤな声だった」
「私たちそれで怖くなって逃げてきて、それからはあっちに行ってないの」
「…………」
坂の向こうは西側に位置する。道は緩い上り坂となってバリケードの向こうに続いているが、それより上に建物等の影が見えないという事はそこまで高所ではないのだろう。
「お兄ちゃん達と呼んでいますが、あちら側の人は若い方が多いのですか?」
双子は自身の暮らすエリアにいる大人をお爺ちゃん達と呼んでいるが、坂の向こう側の者はお兄ちゃん達と呼んでいる。年齢層があからさまに違っていなければそう呼び分けはしないだろう。ラウルの問いにロサは頷いた。
「うん。あっち側はお兄ちゃんやお姉ちゃん達で、こっち側はお爺ちゃんとお婆ちゃん達が多いの」
「……お父さんやお母さんは?」
これも気になっていた事だが、双子の家には大人が寝ている様子もなく、二人もそれを口にしない。ある程度の予感を持ちながら聞いてみると、双子はぎゅっと眉を寄せた。
「お母さんは私たちが生まれた後に死んじゃったんだって。お、お父さんは……」
「父さんは、兄ちゃんや爺ちゃんがケンカしてこのカベができる前に大事な用があるって言って出かけたっきり、戻ってこない。父さんも、隣のおじさんも、向かいのおばさんも。俺たち、カベの向こうに父さんがいるんじゃないかって探しに行ったんだけど、見つからなかった」
「……そうなんですか。お父さんも、病気には掛かっていたんですか?」
しかしその問いには双子は顔を見合わせて首を傾げる。
「父さんは……まだ病気じゃなかった、よな?」
「わかんない。皆が何だかピリピリしてて怖くなって、病気の人が半分でまだかかってない人が半分で……」
「だったよな。その後で、爺ちゃん達と兄ちゃん達がケンカして、カベができたんだ」
「――大事な用で出掛けたというのは昼と夜、どの時間でしたか?」
「夜だったよ」
成程、それでは父親が罹患していたかどうかは解らないだろう。しかし、双子の言葉で新たに判明した事が複数あった。
村中が完全に病に感染する前に、村の大人が『大事な用』だという程の何かが起きていた。その何かが起きて、終わったか、
バリケードを横に通り過ぎると島の端に着く。そこは浅瀬になっており、まるで海のように砂利の上にさざ波が押しては返していた。
あっ、とロサが声を上げる。
「ロス! 洗ってた服、かわいてるかもしれないよ」
そう言ってロサは繋いでいたラウルの手を離して駆け出す。服、と首を傾げつつ歩きながらロサの後を追うと、ロサは大きな岩の上に広げられた複数の布を摘まみ上げていた。
「んん、ダメだね。まだきれいに乾いてないや」
「夕方まで置いとけよ」
岩の上には下着も含む子供二人分の服が広げてあり、飛ばないようにと小ぶりの石で重しがされている。ふとラウルは問いかけた。
「河で服を洗っていたんですか? ……もしかして、お風呂も?」
ラウルの問いに双子はあっけらかんと答える。
「そうだよ。あったかくなってきたから、お風呂もお洗濯もラクになってきたよね、ロス」
「服がかわくのも早くなってきたしな」
そのまま河の浅瀬で貝殻拾いを始める双子に、ラウルは躊躇いがちに聞いた。
「家にお風呂はついてないのですか?」
「あるけど、動かないの」
「あれも、爺ちゃん達が病気になってから使えなくなったんだよ」
「…………」
ギルドの提供する通信機があるなら、同じく簡易魔術を用いた風呂や生活用水、更に排水の
「……すみません、もう一度あなた達の家に戻りませんか? お風呂、使えるようにしてみましょう」
ラウルの推測が正しければ、『病』に罹患した大人達はもう風呂も洗濯も必要としていないだろうが、この双子は違う。暖かな湯が出て生活に必要な水が要る。ラウルの提案に、双子は顔を輝かせた。
再び双子の家に戻る途中の集落の様子もそれとなく観察したが、どの家も扉や窓まで固く閉ざしており、特に窓はカーテンや木板で完全に塞がれている家も多かった。それも、内側からだ。
「……村の皆は、太陽が苦手なんでしょうか?」
手を繋いでいるロサに問いかけると、ロサは周囲の家を見て頷いた。
「病気になってから、強い光が苦手になっちゃったんだって」
「特に太陽の光は当たると火傷するから、寝ている間に光が入らないようにああやって塞いでいるんだ」
ロサの隣を歩きながらロスもそう付け加える。
「そうなんですね……」
静まり返った集落は、完全に光を追い出した家々と相まってまるで廃村のように見えた。
双子の家に戻り風呂場に案内して貰うと、やはりラウルの予想通りに簡易魔術により発動する入浴槽システムが設置されていた。そもそも台所の水は普通に出ていたのだ、あれも同様のシステムでありそちらが配置されていて入浴槽システムが不備という事は余りないだろう。
水の放出を調整するバルブが締められており、そちらを捻ると勢いよく水が浴槽に出て来た。
「お水だ! ……でも、汚れてるね」
歓声のあとで素直に声音を下げるロサにラウルはバルプを調節しながら声をかける。
「これはずっと使っていなかった分の錆が出ているだけですから、もう少ししたら完全に綺麗な水が出ますよ」
「あったかくならないんだったら河でも一緒じゃねーの?」
ロスが赤錆色の水流を眺めながらごちた。
「大丈夫ですよ。実践してみせますから、すぐに覚えられる筈です。……ああでも、お二人が使うとなると……ええと……」
まずバルブは大人の背丈の箇所についてあり、双子では手が届かないだろう。そこで踏み台代わりになる椅子を持って来て、ロスに昇って貰う。
「まずそのバルブを捻ってください。右に回すと沢山お水が出て、左に回すと少しずつになり、回りきらなくなるまで左に回すとお水は止まります」
「それくらい、解る。台所と一緒だろ」
口を尖らせつつロスが一度バルブを締めて水を止め、再度回してまた水を出す。その頃には錆色だった水も透き通った綺麗なものになっていた。
「次に、このお水を暖かくなるようにする方法です。……バルブの横に、
「頭で祈りながら手に力入れんのかぁ?」
「ロス、文句ばっかり! それなら私と代わってよ」
「嫌だね。えーっと、お湯……お湯……」
ロサに向かい舌を出した後で、ぎゅっと目を閉じてロスが把手を掴み力を込める。すると、程なくして辺りに湿気が混じり出し、浴槽に注ぎ込まれる水流に湯気が立ち始めた。
「お湯だぁ!」
「ロス、もう手を離しても大丈夫ですよ」
「――……ぷはぁ!」
どうやら呼吸まで止めていたらしいロスが手を離しながら真っ赤な顔で息を吐き出す。そうして彼も湯気の立つ水流を見て目を輝かせた。
「お湯だ!」
「お湯だよ!」
嬉しそうにはしゃぐ二人を微笑ましく見て、ラウルは二人の肩を軽く叩き注意を促す。
「今ロスにやって貰ったのは、この把手を通して浴槽……お風呂のシステムに魔力を注ぎ、電源を入れた状態にする事です。これは慣れれば簡単に出来ますし、一度電源を入れると周囲の大気の
「じゃあ次は私、私やる! 電源消す!」
ロスを促して椅子から降りさせると、交代でロサが上がり同じく把手を掴んで「むむむ」と唸りながら力を込めた。すると、水流からは次第に温度が失われて行き、また冷水に戻る。
「上手です。二人とも、飲み込みが早くて凄いですね」
「……こんくらい、簡単だろ。ええと、お湯から水に戻したら、これ締めて水を止める……ロサ、それ回せよ」
「はーい」
きゅきゅとバルブが回され、水はやがてぽつぽつとしたたる水滴だけを残して止まった。
「浴槽に水を貯めたい時はそこにある穴に栓をします。そうすればここで服の洗濯も出来ますよ」
「あ、そっかぁ。わざわざ河に行かなくてもいいんだね。雨の日だってもう大丈夫なんだね!」
大喜びするロサに、ロスはもごもごと口の中で何かを言っていたが、すぐにぐっと顔を上げるとラウルの服の裾を掴んで引く。
「あ、あのさ、」
「……? はい、何でしょう?」
「あの……その。あ、ありがとう。色々……ご飯とか、風呂とか。今まで悪く言って、ご、ごめんなさい……」
しゅん、とうなだれるロスに、ロサが「だから言ったじゃん!」と突ついてくる。
「お兄ちゃん達は悪い人じゃないよって、ロサの言った通りでしょ?」
「そうだけど……」
気まずそうにするロスに笑い、ラウルは彼の肩にそっと手を置いた。
「ロスは、知らない人である僕らを警戒していただけですよね。ロサや村の皆を守りたかったから、そうでしょう?」
「ん……」
「大丈夫ですよ、君が優しい子だって僕もシダルガも解っていますから」
「…………」
それ以上は何も言わず、ロスは真っ赤な顔で俯く。隣でロサがにまにまと双子の兄を見ながら「照れてる~」と笑っている。
「うるっさいな、ロサは!」
赤い顔で怒鳴るロスにロサは笑いながら飛び跳ねてラウルの背に逃げ込んだ。賑やかな浴室から出て、三人は居間へと向かう。でも、とふとロスが呟いた。
「何で爺ちゃんや兄ちゃん達は、これも通信機も使えなくなったんだろう。俺とロサは使えたのに」
「…………」
その問いにラウルは何かを言いかけ、しかし結局それを口にする事はしなかった。
そのまま双子の家で待っていると、少ししてからシダルガが戻って来た。
「どうでしたか?」
双子は居間のテーブルの上に紙を広げ、浴槽の手順を忘れないようにと絵を交えて書き綴っている。二人の耳を避けてバルコニーでシダルガに問いかけると、彼は相変わらずの無表情で周囲の家々にぐるりと視線をやった。
「西に行って来た。そちらの様子もここと大差ないが、ここより……幾らかの争いの跡があった」
「争い?」
「恐らくは。小規模だろうが、幾つかの家屋と塀の破壊が見られた」
「…………」
ふとラウルは、双子が言っていた『獣の唸り声のようなもの』を思い出し、それは聞こえたかと訊いてみる。だが彼は首を横に振った。
「そのような声は聞こえなかったが……複数の不審な気配はあった。どれも眠りに着いているようだったが」
「そうですか……それは、この周辺でも?」
「ああ、同じものだ」
そうして一拍置き、シダルガは続ける。
「――
◆ ◆ ◆
夕刻になり、双子の家にあったランプに火を灯して、四人は寄合所の建物に移動した。病に罹った大人達は明かりを必要としないという。ならば、彼らが起きて家屋の外に出れば唯一灯るこの光が部外者が来たという目印になる筈だ。
その予想通りに、陽が完全に落ち切り辺りが闇に包まれる時刻になってから、周辺の家屋の扉が開く音が聞こえた。そこから足音が続々と集まって来るのも。
しかし彼らは寄合所の中には入って来ず、周囲をぐるりと取り囲むように集うとそこで足を止めていた。
「来訪者……来訪、者よ……何用か……」
その内の一人がしわがれた声を上げる。ラウル達が表に出るよりも早く、双子がぱっと飛び出していった。
「お爺ちゃん! お客さんだよ!」
「この人達、悪い奴じゃないよ」
「ご飯や、あまいお菓子を持ってきてくれたんだ」
「風呂だって直して貰ったよ」
口々に言う双子が駆け寄るのは明かりの一つも持たない影。目を凝らして見ると、その影は擦り切れてぼろになった布を繋ぎ合わせたもので頭からすっぽりと覆い隠していた。双子が駆け寄ったのが彼らの言う『お爺ちゃん』なのだろう。
老人は幼い二人を交互に見るように首を動かし、次いで寄合所の戸口に立つラウルとシダルガを見遣った。目線は遮られているので解らないが、顔に垂らした布がそう揺れている。
「……幼子に食べ物を、あ、与えて頂いた事、感謝、いたします」
発声し辛いように声は途切れており時々掠れていた。老人は布に覆われた手で双子の肩をぽんと軽く叩く。
「お二人、に、話を、聞こう。ロス、ロサ、君達はもう、ね、寝なさい」
「……お兄ちゃん達とケンカ、しない?」
「しない、とも。話をする、だけだよ」
「さあ、行きましょ、ましょう……」
老人の傍らの影がやはり布に覆われた手を伸ばし、双子は渋々と「はーい」と声を上げた。
「またね、お兄ちゃん達!」
「また明日な!」
手を振る双子は一人の影に連れられて寄合所を去って行く。その道中でも代わる代わる何かを伝えているようで、賑やかな声の残滓だけが夜道にこだましていた。老人は一度双子の去って行った方を振り返り、もう一度寄合所の方に顔を向ける。
「あり、ありがとう、ござい、ます。あの子ら、が、あんなに、元気になった、のは……いつ頃、以来でしょう、か……」
「いえ。……良ければ、明かりを消しましょうか? その上で皆さん、寄合所の中に入って話をさせて頂く事は?」
「お気遣い、い、痛み入る。ですが、その、程度、ならば問題は、ありますまい。……あなた、がたの、敵意の、有無を図って、おりました。子供達が、そちらに、いた、ものですから」
どうやら子供を人質にしていないかと警戒されていたようだ。
「いえ……そう思うのも仕方がありません。来るなという警告を無視して乗り込んだようなものですから……まずはそちらの謝罪と、そして僕らがこういった行動に出た経緯を説明しても構いませんか?」
「ええ、お聞き、いたし、ます。我らの、数は、そう多くもあり、ません。この東側の住人は、これで、全員です」
ゆる、と影が動き出す。代表者と思われる老人を先頭に、幽鬼のような影がひどくゆっくりと歩き出し、一人ずつ寄合所に上がって来た。シダルガとラウルは寄合所の中のベンチに腰掛けて、向かいの椅子に四人の老人と、そしてその背後に残りの者がぼうと立つ。やはり全員が頭からすっぽりと厚手の布を被っており、まるで村全体が喪に服しているように見える。個々の顔は解らず、性別や年齢さえも解らなかった。
「改めまして、自己紹介をさせてください。僕はラウルと言います。こちらはシダルガ、共に冒険者をやっております」
「冒、険者。という、事は、ギルドが……?」
「はい。僕らはギルドで依頼を見てこの島に来ました。依頼の内容は、……流行病の蔓延の真偽と……お気を悪くされないでください。病に罹った皆さんが、人間ではなくなったと周囲の村では噂が立っており、それを確かめに来ました」
「…………」
老人達の間に重い沈黙が落ちる。
「冬が明けた頃に流行病があったとロスとロサから聞きました。周辺の村では、それ以降この島への渡航を制限するように要求があった事も。ですがこれだけの長期間、更に通信機を通しての音沙汰がなく、昼には誰も出歩かず夜には起きているようだと。……この村で何があったか、詳しい事をお聞かせ願えますか?」
「…………」
更に老人達は
「私、は、ディエスと、申す者。ここの、長のような、ものです。……よろ、しい、すべて、お話、いたしましょう。どの道、我々に残された、選択肢は多くはない。これを断れ、ば、ギルドは力尽くで、この村の件を、『解決』しよう、とする。そうですな?」
「……その可能性はあります」
断言はせずにラウルは答えるが、ディエス老人はもう解っているようだった。
ディエスは掠れた声で、ゆっくりと、彼らの村に起きた『事件』を話し出した。
冬の終わり。
数少ない行商人や渡り人が途絶えた頃、ある一人の若者の様子がおかしくなった。
最初にそれに気付いたのは彼の家族だった。若者は妙に日光を嫌って家に閉じ篭もるようになり、しかし陽が落ちて辺りが闇に包まれると起き出して周囲を徘徊するようになった。
最初は、若い時期特有の夜遊びだと思われていたのだ。それが一変したのは、彼の様子が本格的におかしくなり、家畜や村の者を見境なく襲い出した時だった。若者は理性を失い発狂したかのように暴れ、村で飼育されている鶏や牧獣を襲い始めた。襲い、そしてその血肉を生のままで喰らい始め、止めようとする家族や仲間にも牙を剥いたのだ。それを目撃した村の者が慌てて村長であるディエスに報告に来たが、その時には既に事は起こっていた。
若者の肉体は化け物のように皮膚が剥がれて生肉が覗き、彼を抑え込もうとした大人達により付けられた傷にも頓着せず、度を越した力で暴れた。それでも何とか捕縛に成功し、即席で作った牢に入れたが――若者に襲われ噛まれた者、若者を捕縛する際に傷を負った者、そして若者の血が飛んで付着した者、血が付着した動物や農作物を口にした者。その全ての者の身に、次々と異変が襲い掛かったのだ。
初めは日光への忌避。次に、強い光や火への嫌悪。昼に起きられず夜に起きるようになってから気付く、夜でも闇が視界の妨げにならない事。いつの間にか己らの目が、幽火のような青いものに変化している事。
皮膚が乾燥し、ぼろぼろと剥がれ零れて行く。手違いで負った傷がいつまで経っても治らない。しかし、傷口からは血も滲出液も出ずに乾き切り、それが時折剥がれて落ちる。
周辺の村に通信で相談をしようとしたが、――通信機が使えなくなっていた。いや、通信機のみならず、魔術で動く全てのものが使用不能になっていたのだ。
外見の変異、日光への恐怖、目の色の変化。それらは全て、最初におかしくなった若者の特徴と一致していた。
だが一つだけ、彼と村人達の中には異なっている点があった。それは彼は正気を失ったが他の者は元の人格の意思と理性を保ち続けている、という事だった。村人達は、これを若者から感染した病だと定義づけ、未だ感染していない二人の子供が感染しないように気を配った。だが、この肉体では出来る事が極端に限られており、それは人間の生産性からは程遠くにある。次第に食糧が尽き、己らは飢えても子供達を優先して無事なものを食わせていたがそれも尽き――近隣の村に点滅信号で救助を求めたのもこの頃だった。
だが、近隣の村から届く食糧の対価となる金銭もやがては底をつき、どうにかして釣りで魚を取っていたがそれも住民全てを補うには心許なくなり、……まさに昨日今日、この島は進退窮まる程に追い詰められていた。
「どのよう、な、理屈かは、解りませぬが。この、身体に、なってから、我らは船に、の、乗れない、のです」
「……船に乗れない?」
「はい。船のみなら、ず、河、を、渡ることが、で、出来ませぬ。なの、で、いざと、なれば、ロスとロサだけ、を、船に乗せて、送り出そうと、考えて、おりました。しか、し、懸念が、あった、もので……彼ら、が、我々を、化け物だと、思っている、事は、存じて、おりました、ゆえ。子供達、が、無事に、保護される、とは、限りませぬ」
「…………」
確かにその通りだろう。下手に何もせず送り出せば、双子は島から病原体を持ってやって来たと迫害されてもおかしくはないのだ。
「あの子ら、の、親、や……村の、大人達、は、我ら老人を除き、あの、最初の、者に、殺さ、されてしまい、ました。我ら、とて……臓を抜き、首と、胴体が、離れれば、完全なる、死を、得るようです」
ディエスが何処か自嘲を含んだ声で言う。その言葉でラウル達も確信した、この老人達は、己が既に人間ではなくなってしまった事に気付いている。気付いた上で、ひっそりとここで暮らしているのだ。
「……我らに、対し、ギルドは、何と言って、おりますか?」
ディエスの問いに、ラウルではなくシダルガが答える。
「私達が受けた依頼は、島の実態の調査。そして住民が人間ではなく『化け物』に変化していると確認が取れた際には即時の撤退。……以降の沙汰は近隣の村とギルドの相談により決定するだろうが、恐らくこの島は専門の討伐者が送り込まれて殲滅作戦に移行するだろう」
「シダルガ……」
はっきりと言いすぎるのでは、とラウルは傍らの男を見たが、老人達は動揺の気配も見せなかった。彼らは恐らく、ギルドならばそうするだろうと予測していたのだ。
「我らは……もう、この身だ。構いは、しませぬが。子供、達は、助けてやれぬでしょう、か」
「掛け合ってみます。あの子達には変化が起きていない。太陽の下で動ける事が『感染』していない証拠です」
「あり、がたい」
そう言って老人は深々と頭を下げた。ぼろの布がゆらゆらと揺れる。そしてゆっくりと顔を上げ、ディエスはまた訊ねた。
「……あなたがた、は、我々、に、何が起きたのか、この身が何、に変化した、のか、存じておりましょうか? 我ら、は、知らぬのです。化け物、になった、という事しか、解らない、のです」
「それは……」
ラウルが言い淀み、シダルガが口を開こうとした、その時。
「おい! ジジイども! いや、侵入者か! 出て来い!」
僅か離れた場所から、怒鳴り声が聞こえて来た。
昼間に見た、バリケードが張られ封鎖されていた坂道。そのバリケードの上に、堂々と立ちこちらを見下ろしてくる影がある。
「二人か。どうせ、隣村からの……使いっ走り、だろ。ハッ、化け物を、確かめて来いと、言われたか?」
それは一人のまだ若い青年で、彼は薄汚れたシャツを着崩して袖を肘まで
青年は、バリケードの下に来たシダルガとラウル、そして村の老人達を見下ろしながら両手を腰に当て皮肉気に笑っている。
「テメェらだろ、昼の内に、こっちの領地に、入ってきやがった、のは」
青年は
「イグニ……彼ら、は、ギルドから、派遣されて、きた、のだ。この意味が、解らなく、は、あるまい」
ディエスが静かな声でイグニと呼ばれた青年にそう呼び掛けた。ディエスの言葉にイグニは不快そうに顔を歪める。
「……具体的な、依頼内容を、言ってみろ。ジジイじゃ、ない。テメェらから、だ」
青年は顔をしかめたままシダルガとラウルを指した。
「――ラウル。彼一人ではない。バリケードの向こうに、多数集まっているようだ」
シダルガが潜めた小声で告げる。どうやらバリケードの『向こう側』の住民もこの障壁を隔てた先、イグニの足元に集っているらしい。シダルガに頷き、ラウルはイグニの顔を見上げた。
「僕達は、この村で一体何が起きたのか、その真相を確認するために来ました。流行病ならば適切な処置が必要でしょうし、周囲の村の方はこの島で何が起きたのかが解らずに猜疑心を抱いています。……そして、こちらのディエスさんから先程、何が起きたのかを
「……ジジイ、余所者に、もう話したのか」
イグニが舌打ちをしてディエスを見る。ディエスは黙ったまま何も答えなかった。
「この島の事を、知ったギルドが、次に何をするか、なんて……もう、解り切ったこと、だろ。俺達は全員バケモンだ、と思われて、皆殺しだ」
強く言い放つ青年の言葉に、バリケードの向こう側がざわつくのが伝わって来る。
「だが、ふざけんな!」
大きく片手を振りイグニが
「俺達が、何をしたって、言うんだ!? 何もしてない。フィニアの奴が、病を持ち込みやがったが、俺達は被害者だろう!」
そうだ、とバリケードの向こう側で同意の声が上がる。
そうだ、その通りだ、と次々と協調の波が遮蔽物を隔てた向こうで広がり、熱を発していく。それに押されたようにイグニは老人達を見下ろし声を上げた。
「老い先短い、テメェらはそれでいい、かもしれないけどな。――俺達は違う! 俺達は、まだ人生の半分も、生きちゃいねえんだ! 俺はこんな、クソ狭い島に閉じ込められて、死ぬのを待つだけ、なんて、真っ平御免だね! 俺達は悪い事は何もしてねぇ。俺達は、この島から外に出る、権利がある筈だ!」
おお、と向こう側の歓声は大きくなっていく。代わりにこちら側の沈黙は深くなるばかりだった。
ディエスが溜息をつきながらイグニを見上げる。そして初めて、彼は声を荒げた。
「馬鹿者!」
「……っ、」
それは向こう側の熱狂すらも切り削ぐかのような一喝だった。
「外の者に、その、理屈が、通じるか! さすれば、最後、我らは、世界から『化け物』の、烙印を押され、むざむざと、殺される理由を、与えるような、ものだ!」
反論が予想外だったのか、イグニは驚いた顔をして軽く身を引く。
「……そうよ、イグニ。あなた達、の言い分、も解る。けれども、私達は、あなた達の若さが、と、時に危うさを、招くと、よく知ってもいる、のよ」
ディエス以外の老人達からもぽつぽつと反論の声が上がった。
「そうだ。おまえ、は、そうではない、と信じている、かもしれんが。我らがこうなった、ように、他の島の、人間をも、腹いせに我らと同じ身に、落としたいと、考える者が、いて、も、おかしくは、ないのだ」
「…………」
シダルガとラウルは黙って老人達と若者達のそれぞれの言い分を聞いていた。イグニは、老人達の言葉に再度強く舌打ちをする。
「奴らが、俺達を、強制的に排除、するようなら……俺達も、そうするだろうな」
イグニの低い言葉に、やはり、と老人達から非難が次々と上がった。
「――君はこの島の外に出たいのか?」
そこで、今まで黙っていたシダルガがイグニに問いかける。イグニは驚いたように彼を見下ろし、皮肉気に笑った。
「何だテメェ、喋れたのか。白いカカシだと、思っていたぜ。外に出たいかだと? 当然だろ。……もう食いモンもない。どうにかして、外に出て、せめて食糧だけでも、確保しないと」
「駄目だ!」
それに老人達がやはり反対の声を上げる。
「私達は、駄目だ。外に出す、なら……せめて、ロスとロサだけだ。あの子ら、は、まだ感染して、おらん」
「……!」
双子の名前に、イグニもはっと口を閉じる。そして、幾らか控え目に訊ねて来た。
「あの子達は……元気か?」
気遣いの色が強く出ているその問いに、ラウルは小さく笑う。
「元気ですよ」
イグニはそれにほっとしたようだが。
「ですが、あの子達も飢えていた。……話を聞く限り、あなた方もです。この島の現状は……どうにかしないといけない」
続けられた言葉にまた厳しい顔になった。
「……そうだな。その通りだ」
そうして頷くイグニに、こちらの意図を掬って貰えたかとラウルは思ったが……
「だから、ロスとロサも連れて、俺達は、外に出る。引き篭もりたい、ジジイ共だけが、ここで余生を、送っていろよ」
ラウルの言葉を逆手に取り、イグニはそう宣言するように言い放った。
「いけません、それでは――……」
「イグニ!」
ラウルとディエスが同時に声を上げ、足元で対峙する顔ぶれを見下ろしたイグニは
「これ以上は、話し合いにも、ならねぇな」
そう吐き捨てて彼は背を向けた。しかし、バリケードの向こう側に降りる前にもう一度振り返り、悪辣に笑って彼は言う。
「ただし、俺らが、その気になれば、こっちは、アレを放つこと、も、出来るんだぜ」
その言葉に老人達が身を固くし息を飲む気配が伝わって来た。ディエスも言葉を失っている。そしてイグニは今度こそバリケードの向こう側に姿を消した。
「帰るぞ!」
そんな声が向こう側で響き、喧騒と足音が遠ざかって行く。それを見送ってシダルガとラウルがディエスの様子を窺うと、老人は深く息をついた。
「――お二方、は、聞きたい事、も、まだ、あります、でしょう。寄合所に、戻りま、しょう、か」
ひとまず寄合所に戻ると、間髪を置かずにシダルガが問いを投げた。
「彼の――イグニの最後の言葉は? アレとは何を指す?」
「…………」
まるで取って置きの手段と言うような、脅しにも似たあの言葉。この村には彼らと双子以外にも何かが存在するのだろうか。ディエスは数秒の間を空けた後で、溜息のような深い声で呟いた。
「イグニが、言っておる、のは、……フィニアという名の、者の事、です。フィニアは……最初の、感染者なのです」
そこでラウルは思い出した、イグニの言葉。『フィニアの奴が病を持ち込みやがったが、俺達は被害者だろう』……この村で一番最初にこの病に罹り、見境なく暴れたという者。しかし、彼の討伐のためにロスとロサの父やこの村の壮年層は駆り出されたが結局は牢に閉じ込める事しか出来なかったという。つまり。
「フィニアという方は、まだ生きているんですね」
その言葉にディエスは頷いた。ラウルの隣ではシダルガが難しい表情を浮かべている。
「その最初の一人、理性なく暴れ病を振り撒く者を解放すると? しかしそれは、彼らにとっても得策ではないだろう」
シダルガの指摘にディエスは頷く。
「左様、です。あれは単なる、脅し、でしょう。しかし、彼らは、血気盛ん、です。追い詰め、られ、思い詰めた、者が、何を仕出かす、かは……。誰も、絶対の保証は、出来ますまい」
「…………」
ラウルは眉を寄せ沈黙する。確かにこの村の内情はもう進退窮まっており、何が起こるかは解らない。しかし。
「何故、フィニアという者は生かしたままにしている? その肉体に変化した後も、首と胴が離れれば死に至ると先刻言っていたが」
「……出来ませぬ、の、です。何故かは、解りませぬ、が……我ら、は、フィニアを、殺せない。フィニア、の方は、我らを、殺せるにも、関わらず。これは、我らが、河を渡れない、ように、絶対の、掟のようで、あるのです」
「――成程」
悔しそうな色を滲ませながら吐露するディエスにシダルガは頷く。殺せないがそのままにしてはおけないから牢に入れて自由を奪っている、それしか出来ないという事だろう。
「フィニアの、牢は、西側にあり、ます。もしアレが、解き放た、れれば、ロスとロサも、無事では、いられぬ、でしょう。そのような、事だけは、あっては、ならぬの、です」
「ふむ。――ならば、その者の存在さえなければ、西の彼らの脅しは無効になると考えていいだろうか」
「……!」
ディエスがはっとしたように顔を上げる。重い布が彼の心を表すかのように揺れた。
「君達ではフィニアを殺せない。だが、私やラウルであれば可能だ」
「それは……確かに……」
「ならば、君達から私達に依頼をすればいい。フィニア――最初の一人の処分を」
「…………少し、相談を、させてくだ、さい」
ディエスは迷い迷い、他の老人達を見遣る。シダルガはそれに頷いた。
「構わない」
そうして老人達は二人の冒険者から僅かに距離を取り、円を組んで話し合いを始める。ラウルはシダルガの白い顔を見上げ、相変わらず何の感情も含んでいないかのような無表情に苦笑した。
「……病の原因と言えど、元は島の仲間です。葛藤があって当然でしょうね」
「ああ。しかし、最早その存在が病原体と言って差し支えないのであれば、取り除く他あるまい」
「そうですね……恐らく、そのフィニアさんの自我も、とうに失われていると思われます。ならば、解放してあげる事が彼のためにもなるでしょう」
「…………」
ラウルの返答にシダルガは彼をひたと見下ろした。
「君は反対するかもしれないと思っていた」
「……何故です?」
「君は優しいから」
「――……買い被りすぎです。僕はそこまで優しくはないですよ」
ラウルは意外そうな顔をした後で苦笑し、次いで自嘲のように付け加える。
「情に囚われて判断を間違える愚かしさは、もう捨てたつもりです」
「…………」
ならば、いつかは『間違えた』事があるのだろうかと、そう疑問が湧いて来たが、シダルガはそれを口にはしなかったし、ラウルもそれ以上は触れなかった。
そうこうしていると老人達が話し合いを終えたようで、ディエスが改めてシダルガとラウルの元に来る。
「――フィニアの、さ、殺害処分を、お願い、します。これは、我々東側、住民総意、の、依頼です」
「承った」
そしてその依頼に、シダルガは淡々と頷いたのだった。
老人達の依頼を聞き入れた後、その夜は寄合所で明かす事となった。寄合所には仮眠所となる場所もあり、そこで二人は念の為に交代制で仮眠を取る。老人達は夜に活動しているが、主に畑仕事や衣服の手入れ、やる事がない者は散策などをして過ごしているという。この単なる趣味の散策が近隣の村の漁師の見たあの影の徘徊のようだ。……河の近くを歩くのは、やはり、ここを渡れたら、という思いが多少なりともあるからかもしれない。
空が白んでくる頃合いになると老人達は一人一人と家に戻り、扉を閉じてきっちりとカーテンを閉じ、日光が入らないようにする。そうして付近から村人の気配が完全になくなった頃、二人は仮眠から起き出してその日の支度を始めた。
「シダルガ。僕は、フィニアの所在確認のためにも一度西の方を見てこようと思っています」
「ああ」
朝食にとラウルが切ったパンの上に、薄くスライスして軽く火で炙った干し肉を乗せてシダルガも頷く。
「昨日イグニさんはああ言っていましたが……彼らもロスやロサに危害を加えるような事はしないと僕は思います。それも含めて、一度、西の方の話も聞いてみたいとも考えています」
「賛成だ。ディエスの話から
「はい。……もうシダルガも察していると思いますが、フィニアが振り撒いたものは、単なる病ではありません。彼らはもう、人間ではなくなってしまった。そういう類の……ものです」
二人分の朝食を並べながらシダルガは頷く。彼らの変化。外見、性質、その全てが人間の範疇を越えたものに変化していると告げている。
「フィニアは、恐らく……彼らの始祖という扱いになっているのだろう。最初の一人、血の開拓者として。それ故に、血族は彼を滅ぼせない」
「…………」
「私の時代ではこの手合いは『
「
「では、国外から旅人や行商人の誰かが持ち込んだ、と?」
「その可能性が高いと思っています。それも含めて、西側の人達が何か知っていれば……」
「ふむ」
頷いて干し肉と香草を挟んだパンに齧り付き、シダルガはしばらく食事に集中した。ラウルも同じようにパンを口に運び、何をするか、何から始めるかの予定を考える。しばし無言での食事が続き、先に食べ終えたシダルガが手に付いた粉を落としながら「しかし」と呟いた。
「フィニアの件を置いていても、ギルドや近隣の村からの依頼とこの島の人々の主張を擦り合わせるのは、いささか骨が折れそうだな」
近隣の村は島民を完全に化け物になったと思い込んでおり、そして肉体的変化のみを考えるならそれは正しい。だが島の人々は精神は人間のままで、若者は血気盛んだが言葉程には積極的な他害の意思は感じられない。しかし、当事者でない近隣の村の者がそれでどれだけ納得するだろうか。
「どこかで誰かが、どの時点かでどちらかが、意見を折って譲らねば収まらないだろう」
「そうですね。――でも、うまく運ぶように出来る方法が一つだけあります。それぞれの心次第ですが……この村の方も、隣の村の方も、ギルドの方でも」
「ほう? それは――……」
一体どのような、とシダルガがラウルに問いかけようとした所で、元気いっぱいな声が割って入った。
「おーはーよー!」
「ここにいるって婆ちゃんが言ってたから来た! いるよな!?」
寄合所に入るより前に声を上げながらばたばたと駆けて来る幼い双子に、ラウルはシダルガの顔を見て苦笑した。
「それは後にしましょう。……はい、いますよ。おはようございます、二人とも」
頷き、シダルガは立ち上がって双子の元に向かうラウルの後を追って自身も立ち上がった。
双子は朝食は家で済ませて来たという。パンと昨日作ったスープが残っていたのだ。
「私は一度隣村に戻る」
その日はどうするかという話になった時、シダルガはそう言った。
「報告も兼ねてだが、食糧を。もう少し多く、持って来よう」
「そうですね、――シダルガ、」
ラウルが背を伸ばしてシダルガの耳元でひそひそと小声で頼み事を伝える。シダルガはそれにも一つ頷いた。
「承知した」
「お願いします」
「なになに?」
「ナイショ話か? あやしいぞ!」
二人だけの会話にロスとロサが興味津々といった顔でぴょんぴょんと跳ねながら首を突っ込んで来るが、ラウルは苦笑して双子に屈んで向き合った。
「個人的なお願いをしただけですよ。それより、お二人にもお願いがあるのですが――聞いて頂けますか?」
首を傾けて問いかけるラウルに、双子は顔を見合わせつつ口々に答えた。
「いいよ!」
「内容によるな」
素直に頷くロサと小生意気に腕を組むロスにまた笑い、ラウルは『お願い』を口にする。
「今日は、西の方を案内して欲しいんです。……特に、おかしな声がしたという方を」
西、おかしな声のした方、と聞いて双子は微かに怯んだ表情になった。彼らに向かい、「もちろん、」とラウルは続ける。
「その声が聞こえたらすぐ離れてここに戻りますし、無理にとは言いません。行ける範囲で構いませんが……どうでしょう?」
「…………」
ロサは迷った顔でロスを窺う。ロスもしばし考え込んでいたが、すぐに頷いた。
「……解った、案内する」
「ロス? いいの?」
はっきりと頷くロスに、ロサはまだ迷いの残る表情をしている。その中には『おかしな声』への怯えも含まれているのだろう。
「いいんだよ、大事なことなんだろ、多分。――怖いならおまえは留守番しててもいいんだぜ?」
後半はにっと笑って言うロスに、ロサはむうっと頬を膨らませた。
「怖くないよ! だから私も行くもん!」
そうしてラウルの右腕にしがみつくと、ロスに向かい大きく舌を出した。ふん、と鼻を鳴らしてロスもラウルの左手を取る。双子の了解を得てラウルは「お願いしますね」と再度言い、腰を上げてシダルガの方を見る。
「では、僕達は西の方へ。済んだらまた寄合所に戻ってきます」
「承知した。こちらも、報告と所用が終わったら寄合所に戻る」
互いに頷き、シダルガとラウルはこの日も二手に別れて行動を始めた。
通りの中央、東西を仕切る巨大なバリケードが築かれているが、小さな隙間が所々にあり双子はそれを覆うように置かれた薄い木板を
「お兄ちゃんは? ここ通れない?」
隙間からひょこっと顔を覗かせたロサに苦笑し、ラウルは首を横に振る。
「僕だと途中でつっかえるかもしれませんね。……上から行きます」
「うえ?」
はい、と頷きラウルは少し下がるとバリケードの上を見遣る。昨夜、イグニが立っていた箇所。そこは重ねられたドラム缶や木材で足場のようになっている。途中途中にも手を掛けられるような場所があり、ラウルはぐっと腰を落とした後で飛び上がり、釘打ちされた木材の一つに手を掛けた。そこから更に飛び上がってバリケードの頂点を越え、そのまま西側に渡る。
バリケードのすぐ傍にいた双子より離れた場所に音もなく着地すると、双子がわっと歓声を上げた。
「お兄ちゃん、すごーい!」
「今のどうやるんだ? ジャンプ? 俺にも出来るか?」
口々に言いながら駆け寄る双子に手に付いた砂を払いながらラウルは頷く。
「簡単な魔術の応用で、重力というか、自分の重さを短時間調整するようなもので……二人とも、勉強すれば使えるようになれるかもしれませんね」
「うぇ、勉強……」
「俺はやるぞ、勉強やったっていいから出来るようになりたい!」
うっと怯むロサと逆に熱心に拳を握るロス。双子の微笑ましいやり取りに笑い、ラウルは西側に続く通りの先を見た。
ここから見ると西側も東側とそう変わらないように見える。多少の上がり坂の後に続く、閑散とした
「声のしたほう、だよね」
「もうちょっと向こうだ……行くぞ」
緊張に顔を強張らせ、双子は足を踏み出した。
シダルガが言っていたように、西側の建物は幾つかが損傷し崩れた箇所が見られた。木々がなぎ倒された跡や壁が破壊された跡もあり、確かにかつてここで戦闘行為があったのだろうと窺わせる。
「……こっちだよ」
「あれだ。あの中」
ロサが手を引き、ロスが指さしたのは円筒状に突き出た丸いもの――井戸だった。
井戸周辺の建物は特に損壊が激しく、井戸には厚い木の板が載せられ大きな石で重しまでされている。
「僕はあれの様子を見てきますが、お二人はここで待っていてください」
怯えている双子の肩を叩き笑って言うと、双子は頷いて口をぎゅっとつぐんだ。
二人から手を離して井戸に寄り、その傍で耳を澄ませてみる。深い井戸の底、恐らくここに――フィニアが封じられているのだろう。静かな井戸の奥で、ひた、と微かな音がして……次いで、低く唸るような音が聞こえた。それは遠く微かにだが、確かに聞こえる。
ラウルは顔を上げ、井戸の様子を見た。四本の柱で囲われ、三角の屋根と巻き取り式の鶴瓶がついたごく普通の井戸だ。柱の一つには黒ずんだ染みがあり、その部分だけ柱が湾曲した跡がある。何かをひどく強く打ち付けたのだろうか。
「…………」
その染みを観察してみるが、今はそれ以上の事は解らなかった。井戸の蓋の上に置かれた石、更にその上からは縄で編んだ網が被せられており、網はその端を地面に釘で打たれ固定されていた。
ひとまずそこまでを確認し、ラウルは双子の元まで戻って来る。
「……どうだった?」
ロスがそっと尋ねて来て、ラウルは彼に頷いてみせる。
「確かに、何かの唸り声のような音がしました」
「……やっぱり?」
ロサの確認にも「はい」と答え、しかしとラウルは首を傾げた。
「これでは井戸の水を使う事が出来ないのでは? 他の人はどうしているのでしょう」
「この井戸、とうの昔に枯れ井戸になってたって爺ちゃんが言ってた。水は河からも引けるし」
ラウルの疑問にロスが答え、成程と納得する。枯れ井戸だと解っていたからここにフィニアを落とし、上がって来れないように蓋をして網をかけたのだろう。
「ありがとうございます。……すみません、もう一度あの井戸の所に行きますね」
「えっ」
「蓋、開けるなよ!?」
驚くロサと慌てるロスに苦笑し、「大丈夫ですよ」とラウルは言いながら、事前に用意していた紙を井戸の蓋の上……網をくぐり石の端に引っ掛けるようにして固定し、置いておく。そうしてまた井戸から離れて双子の所に戻った。
「では、西の方をぐるりと見てから戻りましょうか」
「うん……でも、何を置いて来たの? 西のお兄ちゃん達、怒らないかな……」
不安そうなロサの手を繋ぎ、ラウルは笑って答える。
「ただの手紙ですよ」
「手紙?」
「はい。……今晩、あなた達とも話し合いがしたいと、それだけの手紙です」
西の方も一通り見てから東の寄合所に戻ると、幾らもしない内にシダルガも戻って来た。
今度は大籠や木箱に山のようにどっさりと食糧、パンや肉や野菜の他にビスケット等の焼き菓子、穀物と小麦粉まで入れてそれを軽々と抱えて寄合所に運び込んで来る。
わあ、と双子が運び込まれた数々に目を輝かせた。
「ありがとうございます」
「念の為だが、酒の類も多少持って来た」
まだ船に積んであると言うシダルガに頷き、ラウルは双子に声を掛ける。
「僕達は船に残りのものを取りに行くので、こちらの品を見ていて貰ってもいいですか?」
「いいぜ!」
「あの、ビスケットを一個食べてもいい……?」
ロスは自信満々に引き受け、ロサはそっと尋ねて来た。シダルガの顔を見遣ると、彼は相変わらずの無表情のまま頷く。
「構わない。元々、君達のために買って来たものだ」
シダルガの答えに双子は更に顔を輝かせた。
「あ、ありがとう!」
早速と手を伸ばす子供達を見てから、二人は静かに寄合所から出た。昼の光の中、静かな村を通り船を停めている接岸部へと向かう。
「すみません、買い出しも連絡も任せてしまって」
「構わない。……ちびの様子も見て来た。胡桃を幾つか足しておいた」
それもラウルに頼まれていた事だった。一度宿の方でチビの様子を見て来て欲しい、出来ればチビの食べるものを付け足しておいて欲しいと。シダルガの報告にラウルはほっと表情を緩める。
「ありがとうございます。チビは大丈夫でしたか? 元気そうでしたか?」
「私を警戒してか、床下から出て来なかった。君がいない事に多少怒っている様子だったな」
「ああ……、
苦笑して呟くラウルを見下ろし、シダルガは軽く首を傾げた。やはり彼は、あの幼竜に甘い。
停泊している船から酒と香油の類が入った木箱を降ろし、手分けして抱える。シダルガは超人的な筋力を有しており、見た目以上に怪力の持ち主だ。酒瓶が何本も入った重い木箱を片手でひょいと持ち上げて何食わぬ顔で運んでいる。ラウルはさすがに十人並みの力しかないので軽い方の箱を持っているが、それでも両手で抱えなければ運べない。それより数十倍は重いであろう箱を涼しげな顔で抱える男にラウルは改めて感心した。――だが、それもそう設計されたものなのだろう。それが解っているから、ラウルはそれを口には出さなかった。
酒や香油類も運び込み、幾つかに分類した後でそこからそれぞれ半数ずつを更に分けて木箱に入れると、ラウルは双子に向かって言った。
「僕達はこれらをお土産として持って行き、今晩西側の方とも話をしてみます」
昨夜のイグニの言い分が真実ならば、向こう側の食糧備蓄の状況も差し迫っている。食糧と引き換えにならこちらの話にも多少耳を傾けてくれるだろう。
「……ラウルのお兄ちゃんと、シダルガのお兄ちゃんも行くの?」
「はい。二人で、お話をしに行って来ようと思います」
「…………」
ロスとロサは顔を見合わせるが、二人で頷き合うとラウル達に向かい身を乗り出した。
「私たちも行く!」
「俺たちも連れてってくれ!」
「――お二人をですか? でも、どうして?」
それに驚いたのはラウルで、思わず問い返してしまう。昼の間だけでも双子は西の方を怖がっているように見えたのだ。夜ともなればそれ以上に怖がりそうに思えるのだが。
「あのね、……西のお兄ちゃんやお姉ちゃん達、時々、私たちにこっそり食べ物わけてくれてたの」
「爺ちゃん達にはナイショだって、……俺達、それでずっと言えなかったんだけど」
「…………」
双子の言葉に、シダルガとラウルも顔を見合わせる。老人達は西側の若者がいずれ双子に危害を加えないかと心配していたが、西側の住民は彼らが思っているよりもずっと子供達を大切にしているようだ。
「夜ずっとじゃなくていい、顔を見てお礼を言いたいんだ。爺ちゃん達からは向こうに近付くのもダメだって言われてるから……」
「お礼言ったらすぐに帰るから。お願い!」
必死で頼み込む二人に、ラウルはシダルガを見遣り、彼は静かに頷いた。
「――解りました。でも、これもお爺さん達の許可を取ってから、それでいいですか? 僕達の方からもお願いしてみますから」
「わかった!」
その答えに、双子はぱっと上げた顔を輝かせる。やったやったと手を取って喜ぶ二人を微笑ましく見つつ、やはりと確信する。イグニはああ言っていたが、彼らの本性は悪しきものではないし、それならば話し合いの余地は充分にある。
それからシダルガとラウルは、夜の話し合いに向けて残りの時間を交互に仮眠を取って過ごした。起きている間は双子の遊び相手をしていたのは言うまでもないが、ラウルはともかくこの短時間でシダルガにも慣れたらしい双子の、子供特有の順応力には驚くものがあった。
陽が落ちて、その日も老人達が寄合所に集まって来た。
二人と双子はまず食糧の提供を老人達に渡し、これと同じ量の食糧を双子と一緒に西側にも渡しに行きたいと申し出る。
「……確か、に、西の者、にも、これらは、必要でしょう、が……」
「兄ちゃん達だってハラ減らしてるはずだ、絶対に必要だよ!」
「困った時は助け合うんだって、お爺ちゃん達が言ってたことだよ!」
特に双子が熱心にディエス達に向かって説得し、老人達の間に困惑の空気が流れる。
「しかし……」
どうする、危険では、と潜めた声が交わされる中――昨夜と同じ声が、響いて来た。
「オイ、余所者共! また勝手に、こっちに、来やがったな! 出て来い!」
あのバリケードの上から。イグニの声だ。老人達はハッと言葉を止め、ロスとロサはもう一度「お願い!」と彼らに懇願した。ラウルとシダルガは黙って西側に分ける物資を運ぶ準備を始める。ディエスは彼らを見遣り、そして深く頷いた。
「――いい、だろう。でも、ロスとロサは境界線まで、だ。西に渡るのは、いけない。それで、いいね?」
「うん!」
やっとの許可に、双子は喜んで頷いた。
昨夜と同じくバリケードに向かうと、同様に真上に立っていたイグニが遠目で双子の姿を確認し、慌てたように顔を逸らしてバンダナを巻き直した。再び振り向いた彼は崩れた右側の顔をバンダナで覆い隠しており、気勢を削がれたように一つ咳をしてから抑えた声で話し出す。
「……今日は、夜更かしだな、ロス、ロサ。まあ、元気そうで……良かったよ」
「うん! あのね、イグニお兄ちゃん、こっちのラウルのお兄ちゃんとシダルガのお兄ちゃんが、そっちのお兄ちゃん達とお話したいんだって!」
「ご飯とかお菓子も持ってきてくれたんだぜ! おいしいビスケットなんだ、イグニ兄ちゃん達も食べてよ」
「ん……そう、だな。メシをくれる、なら、まあ……話を聞いて、やる」
頭を掻きつつ昨夜よりやり辛そうに言うイグニに苦笑し、ラウルも口を開いた。
「当面の間困らない分の食糧を持って来ました。昼に手紙を残しましたが、読んで頂けたでしょうか?」
「ああ、読んだ。それで、こっちの奴とも、話したが……聞くだけ、聞いてやる」
それは双子の存在抜きにしても西側で出た結論なのだろう、迷いもなくイグニは答える。「では」とシダルガが続けて問うた。
「そちらにこの物資を運びたいが、この障害物が邪魔だ。一部退かしても構わないだろうか」
「……こっちは、別にいいぜ」
イグニはそう答えるが、東側の老人達にざわめきが走った。恐らく、このバリケードは主に東側の判断で張られたものなのだろう。シダルガは東側の住人を振り向き付け加えた。
「私たちが通ったら元の様に戻す。それで構わないだろう?」
「ええ、それなら、構い、ません」
老人達も頷き、双方の許可を取りシダルガがバリケードの端から端までを見る。そうしてある一部をコンコンと拳で叩き、「ここだな」と呟き腕を振り被った。かと思うと。
轟音が響き、バリケードの一部……複数の分厚い板で覆われていたはずのそこがぽっかりと抜けた。
「……は?」
一瞬バランスを崩しかけたイグニが呆気に取られた声を出し、同じ空気が双方に流れる。シダルガが拳で殴ったそこに、あっさりと大穴が開いたのだ。がらんがらんと音を立てて木の板だった木片や歪んだ金属板が西側に散らばっている。
「これなら充分だろう」
一人だけ平然とした顔でシダルガが大穴をぐるりと見て頷き、同じく声を失っていたラウルが深く溜息をついた。
「シダルガ……そういった事は、事前に言いましょう?」
「先刻、許可は取った筈だが」
「即殴って開ける、とは、聞いてねぇぞ!」
イグニが怒鳴り、素早くその足場から降り立った。
大穴の向こう側には同じく唖然とした顔のまだ若い者達がおり、彼らのスタイルもどちらかといえば全身を隠す老人達よりは常人と代わらぬ服のイグニに近い。
シダルガが手押し車に載せた物資をその大穴から通した後で、ディエスに付き添われたロスとロサが穴からひょっこりと顔を出した。
「あのね、これ! お昼のうちにつんだの」
「俺達、こういうのしか用意できないから……」
そう言って二人が差し出したのは、白や紫や赤のカラフルな花の束だった。穴の傍に西側の住人……若い女性が来て、屈んで花束を受け取る。
「ありが、とう。とても、綺麗ね」
「うん!」
嬉しそうに笑う双子に彼女も微笑みかけ、穴の傍にいた西側の若者達も笑っている。
「さあ。それじゃあ、おまえたち、は、戻りなさい。もう、寝る時間、だろう」
ディエスに促され、双子は若者達に大きく手を振る。
「じゃあ、またね!」
「そいつら、悪いヤツじゃないから、怒らないでくれよな!」
振り向き振り向き手を振る双子にイグニも苦笑しつつ軽く手を振った。
「こいつらが、怒らせなかったら、な。――おやすみ、ロス、ロサ」
そうしてしばらくの間、東側の老人達も西側の若者達も、元気に駆けて行く二人の子供の後姿を見守っていた。双子の姿が完全に見えなくなってから、ようやくイグニが大穴の向こうからディエスに声を掛ける。
「じゃあ、俺達は行く。こいつらが、帰る時に、この穴、塞いどけよ」
「ああ。……イグニ」
「……何だよ」
呼び止めはしたものの、ディエスは迷うような間を置いた後で、結局何も言わず首を横に振った。
「何でも、ない。……今日は、ゆっくり、食べて、休みな、さい」
「……フン」
気遣う言葉に鼻息だけで返し、イグニはバリケードにくるりと背を向ける。
「行くぞ、お前ら! テメェら二人も、大人しく、着いてきやがれ」
後半は穴を通り西側に渡ったシダルガとラウルに言い、イグニはそのまま歩き出した。バリケード周辺にいた若者達もぞろぞろとそれに続き、ラウルは最後に肩越しにバリケードの方を振り向くと、まだそこでじっと見送っているディエスに軽く頷く。
「おお、酒も、あるじゃねーか! 酒なんて、いつぶりだ?」
手押し車の中の物資から酒瓶を見つけ、若者の一人が歓声を上げた。
「ビスケット、もよ。お菓子なんて、もうずっと、食べてなかったもの」
双子から花を受け取った女性も嬉しそうに言い、そこからやいのやいのと持ち込まれた食糧物資を見ながら若者達が浮かれたようにはしゃいでいる。どの若者も肌は灰色にひび割れ、中には指や腕が欠けている者もいたが、それでも洒落た風に服を着てバンダナやパレオのように布で飾り立てており、全身を隠す老人達とは正反対だった。そして全員に共通する事だが、目の色が全て幽火の冷たい青色をしている。しかしそれを逆に強調するように目の周囲を赤い染料で化粧している者もおり、西と東での意識の違いをそこでも感じられた。
「家に、
「おう!」
イグニが取り巻きの若者達に言い、彼らも明るく返す。どうやら寄合所のような施設ではなく広場に案内されるらしい。今夜は月と星の明るい晩だ、雨の心配もないだろう。
顔半分を隠していたバンダナを解いて巻き直し、再度崩れた右半分を露出させたイグニはシダルガとラウルを見遣り顎を引いた。
「……そこで、テメェらの話も、聞いてやるよ」
西側の開けた広場、若者達が集まるとそこは一気に宴会じみた陽気な空気と歓声に包まれた。
食糧や酒があると聞いて西側のほぼ全員が集まっているようで、彼らはシダルガ達に提供された食糧のうちすぐに食べられるものを均等に分け合い、酒や果実のジュースを器に注いで円座を組み乾杯をし合っている。
「なあ、外は、どう、なってんだ? 隣の村に、俺の、従兄弟が、いるんだ」
「ロスとロサに、会ったんだって? 二人は、元気、か?」
「ロサちゃん達、は、不便は、してないかしら? ディエスさんは、年寄りだし、頭が、固いとこ、あるから」
「ええと……」
一気に質問攻めに合い、どこから答えたものかと悩むラウルを見遣ってイグニが溜息をついた。
「おい、一気に聞いても、答えられねぇ、だろ。一人、一答ずつ、だ」
それもそうだ、と若者達が口々に納得し、それならと先に一人の青年が身を乗り出す。
「じゃあ、一番最初は、これだろ。――俺達に、何が起きた? どうして、俺達は、こうなった?」
「……それは……」
躊躇いつつラウルはシダルガを見る。透き通った青と緑の目は真っ直ぐに琥珀の目を見返して頷いた。
「全て話すべきだろう。私から説明しても良いが」
「いや、テメェは、説明下手そう、だ。黒髪が言え」
シダルガの言葉を遮ったのはイグニで、彼のそれにもシダルガは「一理あるな」とだけ返し、続きを促すようにラウルを見る。困った顔で笑い、「では、」とラウルは口を開く。
「まず先に、この村で何が起きたのかを教えて頂けますか? ディエスさんにも伺いましたが、あなた達からも聞きたいと思っています」
途端、その場は水を打ったように静かになった。幾人かの目が伺うようにイグニを見遣っている。イグニは小さく舌打ちをすると、両手を広げて肩を竦めた。
「ジジイから、どこまで、聞いている?」
「……初めにフィニアという方がおかしくなった事、彼を取り押さえるために村の大人の方が多数犠牲になった事、それから……フィニアに噛まれたり彼の血に触れた方が次々彼と同じ身体異常を起こし、今はもう感染していないのはロスとロサだけ。そう聞きました」
「大筋、は、その通りだ。……フィニアの次に感染したのは、アイツの妹だ」
イグニは声を低めて続けた。
フィニアの次にこの『病』を発症したのは、彼の妹だった。理性を失ったフィニアに最初に気付き声を掛けたのが彼女だったのだ。彼女は兄だったモノに肩を噛まれ、その叫びでフィニアの常軌を逸した行いは家族と近隣の住人に知られる事となった。次に感染したのは、真っ先に彼女の手当てをした彼女の恋人だった。彼はフィニアに噛みつかれた傷口に素手で触れて感染した。フィニアはその場から逃げ出し、だが昼の間はいずこかにて息を潜めて隠れ、夜になると出没し家畜や住民を襲うという凶行を続けるようになった。
夜の度にフィニアは暴れ、彼を取り押さえるために大人達が怪我をし、数日間の逃亡劇が繰り広げられた後にフィニアは捕縛された。――だが、結果は。村人の大半が感染者となり、多数の犠牲者も出た。そして今、フィニアは逃げ出せないように閉じ込められているが、村人はロスとロサを除き全員が感染者となった。
「こんな身体に、なっちまったが、ハラは減るし、娯楽がなけりゃ、退屈だ。老人どもは、このまま、死ぬまでひっそりと、隠れて暮らしたい、ようだが。俺達は、そんなんは御免だ。俺達は、ここま変わっても、俺達だ。フィニアとは、違う。そうだろ?」
そう言いイグニはにやと笑って己の崩れた顔半分を指す。彼らは――感染し、化け物と言えるような状態になっても彼らは、己が己である事に矜持を持っている。ラウルはその事に、深く思い入っていた。
「……あなた達の言う通りだと思います。どのような肉体になろうとも、精神が、魂が変わっていないのであれば、あなた達はあなた達のままです。僕もそう思います」
「だろ?」
得意げに頷くイグニに、「でも」とラウルは続ける。
「他の方がどう思うかまでは解りません。特に、近隣の村の方やギルドの人は。……僕とシダルガがここに来たのは、ギルドでの依頼を受けて、調査の為です」
そしてラウルはイグニ達にもギルドでどのような依頼を受けたか、近隣の村から現在この島の住人がどういう目で見られているかを詳細に説明した。
「フィニアという〝感染源〟がいる限り、ここへの警戒が解かれる事はないでしょう。そのため、ディエスさん達はフィニアの討伐処分に賛成して頂けました。……あなた方は、どうですか?」
「討伐、か……」
苦々しくイグニが呟き、今まで黙っていたシダルガが口を開いた。
「見たところ、理性を失っているのはフィニアだけ。他害の危険性を持つのは彼のみであるなら、その危険性を排除すればギルドから島ごとの強制討伐は免れる筈だ」
「どこにそんな、保証が……」
イグニの呟きにシダルガがラウルを見遣り、ラウルがひとつ頷く。
「――
「……は? 何だって?」
「闇人協定。闇人と呼ばれる種族と人間の間に交わされた協定法案です。ざっくり説明すると、人間に危害を加えないという条約のもとで闇人の人権や生活の保障を約束するというものです。……オリエンスでは闇人は殆ど見ないので闇人自体を知らない人も多いと思いますが、ディスマコーグ怜国では広く知られている協定です。あなた方の状態を鑑みて、あなた方は闇人の一種に変化したものだと思われるので、この協定が適用されるかと」
闇人、怜国、と周囲にざわめきが走る。そのどれもが困惑のもので、やはり誰もそれを知らないようであった。
「……デマじゃ、ねえだろうな? それに、怜国の協定、が、ここでも通る、ものかよ?」
「出まかせではありません。それに、闇人協定は発足こそ怜国ですが、地域は限定されていません。当然、この法案を定めるに当たって商人連合総部やギルドにも話は通っています。ですので、ギルドで問い合わせれば怜国にあるギルドからすぐに返答が来る筈です」
「…………」
「……ねえイグニ、あたし達、それが通る、なら、もうビビらなくて、いいん、じゃない?」
「だよ、な。生活の保障、が、されるなら、メシも……」
「隣の村の、奴らも、これならよ……」
若者達が口々に言い交わし、彼らのリーダーであるイグニを見遣る。イグニは視線を落として
「――少し、考えさせて、くれ」
低く呟くとふらりと立ち上がり、円座から出て誰もいない隅に歩いて行った。その後ろ姿を見送っていると、若者の一人がラウルの肩を軽く叩く。
「悩むくらい、許して、やってくれよ」
「それは、はい。変わってしまったとはいえ、かつての仲間でしたら迷うのも無理はないかと」
「それ、も、そうだが。……フィニアの妹の、恋人ってのが、
小声で伝えられたそれに驚き、ラウルは目を見開いた。フィニアの妹の恋人、フィニアに噛まれた傷口に触れて感染した者。
「そう、だったんですか……」
「ああ。あの子――、フィニアの妹は、アレサって名前、だったんだが、アレサは……フィニアの様子が、おかしいと、あの事件より前、から、気付いていた、らしいんだ。だが、フィニアを案じて、黙っていた。そして、事件の後で……イグニにも、感染させちまった、事と、村に感染を、広げた事に、気を病んで……自殺した、んだよ」
「…………」
ラウルはまだ戻って来ないイグニを見る。イグニは片隅の岩の上に腰掛け、思い悩んでいるようだった。
「井戸を、見ただろ? アレサは、あの井戸の、柱の、一つに、自分を縛り付けて、太陽に焼かれて、死んだんだ。遺書が、残っててよ。謝罪ばかりが、綴ってあった。……かわいそうな、事をした、よ。アレサが、あそこまで、思い詰めていた、事に、俺達は、まったく気付かなかった。しかも、アレサの死で、太陽を浴びると、燃えて灰になる、事が、解ったんだから」
若者達の間で複数の溜息が上がる。苦い溜息、悲しい溜息、静かな溜息。その全てが自害したアレサという女性を悼んでいた。
「イグニの親、も……フィニアに殺された。イグニの、肉親は、もうディエスさんしか、いないんだが……折り合いが、悪くて、な」
「……ディエスさんとイグニさんは祖父と孫の間柄なんですか?」
そうだ、と青年は頷く。
「じゃないと、ディエスさんにあんな口、叩けないさ」
怖い人だからな、と彼は小さく笑い、少しだけ周りの者も笑った。
「実の所、まだ、甘えてる、のよね」
「小っせぇ頃は、爺ちゃんっ子、だったからな」
「鳥のヒナ、みてぇに、くっついて、歩いてな」
そうだそうだと口々に言い交わし、それから思い出話に花が咲く。場が和やかな空気に戻り、酒と食事を楽しむ雰囲気に戻った。それに安堵していると、しばらくして一人の女性がラウルの方に歩いて来る。
「これ、ありが、とう」
彼女が手にしているのはロスとロサから渡された花束の内の一輪だった。花束は西の仲間達に均等に分けられたようで、見れば服や髪に花を飾る者や水を入れた瓶に挿している者もいる。
「いえ、僕は何も。この花は、ロスとロサが頑張って集めたものですから」
「でも、あの子、達を、助けてくれたの、でしょう? じゃないと、お花なんて、もう何ヶ月も……いえ、夜でも、咲いている、ものは、咲いている、のに。それを愛でる、余裕なんて、なかったもの……」
呟きながら女性は花弁に鼻を寄せて匂いを一杯に吸い込むように目を閉じた。そうしてまた目を開き、ラウルを見遣る。青い炎のような色の瞳。人外の瞳だが、その内には確かに理性がある。女性は花を手に、ラウルに問いかけた。
「お願いが、あるんだけど。この花が、咲いてた所に、行きたいの。案内を、いいかしら?」
その花が昼の間に咲いているのをラウルも目にした事がある。確か西側だったが、河の接岸部だ。
「……河の付近になりますが、大丈夫ですか?」
彼らは流れる河に本能的な忌避感を抱いている。そういうタイプの闇人だ。問いかけたラウルに女性は小さく笑って頷いた。
「見るだけ、だから。それに、河には、入らなければ、大丈夫よ」
「でしたら……はい。僕でよければ」
「お願い」
微笑む女性に頷き、ラウルはシダルガに少し離れて河の方へ行くと伝える。すぐ了承するかと思ったシダルガは、しかし珍しくその眉間に皺を寄せた。
「ここで、君一人になるのは……」
「シダルガ。大丈夫ですよ、――彼らは僕らを信じてくれた。ならば、僕らも彼らを信じるべきです。違いますか?」
「…………」
シダルガの警戒も解るが、西の若者達の数人はまだこちらを気にしてちらちらと目線をくれている。一輪の花を手にする女性も不安そうに佇みこちらを見遣っていた。シダルガは軽く息を付き、渋々といったように頷いた。
「解った。私はここに残ろう」
「はい。すぐに戻りますよ」
笑って頷き返し、ラウルは振り返る。そうして花を持つ女性を連れて、広場から離れた。イグニはまだ一人片隅に佇んでおり、顔を背けているために表情は見えない。シダルガは酒や食糧を手に盛り上がる若者達をただ黙って見守っていた。
「そういえば、名前、言ってなかった、わよね。私は、ウェル。あなたは?」
「ラウルと言います。もう一人の僕の連れは、シダルガと」
歩きながら女性は名乗り、ラウルも名を返す。ウェルと名乗った女性は笑って頷いた。やがて二人は河べりに着き、さらさらと流れる水の音だけが辺りに響いている中で今は下を向く花を見遣る。
「……どうして私達は、こうなっちゃった、の、かしら」
ウェルが呟く。ラウルはそれに返せる答えを持っていなかった。ウェルもラウルに答えは期待していなかったのだろう、ただ溜息をつき流れる河と俯く花を見て寂しそうにしている。
「――私、ね。こうなった時、ヤケを、起こして。まだ〝変化〟していなかった、恋人を、噛んだの。……わざと、噛んで、感染させた、のよ」
「…………」
「不公平、だと、思ったの。なんで私、だけがって。彼も、同じように、広めた。他にも、何人か、同じようにした人、が、いる。……ディエスさん、達の言うことは、正しいわ。私達、には、まだ、憎しみがある。怒りが、ある。普通の、人間に対して、不公平だ、って、思いが……どうして、これを、渡ることさえ、できないのかって……」
「ウェルさん……」
夜風がウェルの髪を微かに乱す。彼女は顔にかかった髪を手で梳き、河から視線を外してラウルを見た。
「大丈夫、よ。別にあなたを、襲ったり、しないから。……でも、そうね。まだ、疑っている」
「疑い、ですか?」
そう、とウェルは頷いた。胸に抱いた花をぎゅうと握り締めながら。
「あなたの、言う、闇人?……もし、そうじゃない、って、後から、解ったら。私達は、怒りのまま、あなた達や、他の誰かを襲う、かもしれない」
「…………」
不安なのだ、とラウルは悟った。ウェルは、彼女達は、或いはイグニも。闇人協定という希望を持ち出され、しかしもしそれが違っていたら、『闇人ではないから協定の庇護対象に成り得ない』としたら、彼女達のような若者は内にある怒りのまま衝動的に行動するだろう。それが、どのような結果を生むかも想像しないままに。
「……闇人か、そうじゃないか、判別する方法はあります」
ラウルの言葉にウェルは顔を上げる。
「それも僕だけが言い出した事だと疑われるかもしれませんが……それでも、証明にはなると思います。河を渡れないという本能的なもの、それに近い作用が起きれば、あなた方は闇人であると正しく言えるでしょう。あとは、信じて頂けるかどうかですが」
「……どういう事? 話が、よく解らないわ」
「広場に戻りましょう。イグニさんにも、それを見せて、判断して貰います」
「…………」
よく解らないという表情のまま、しかしウェルは頷いてラウルに伴いきびすを返す。差し出した手は、そっと遠慮がちに避けられた。
「闇人には幾つかの種族がいます。しかし、共通している事もあります。大なり小なり、日光を苦手とする事」
広場に戻り、ラウルはウェルに言った通りに「彼らが闇人である証明をする」と宣言した。そして広場の中央で、集まる若者達の顔を見回しながら言う。イグニも呼ばれて広場の聴衆の中にいた。
「そしてもう一つ。――僕の血肉が、これに似た忌避感を与える事」
「……は?」
若者達の間で、疑問の声が上がった。それはそうだろう、ラウルのそれは彼らが予想だにしていない内容だった。しかし。
少年が短剣を取り出し、止める間もなくそれで己の腕を斬り付けた瞬間――ラウルを取り巻いて輪になっていた若者達は、一斉に後ずさった。
ぽたぽたと剣から腕から流れ落ちる血、地面に垂れ落ちて染みるそれを若者達は恐ろしいものを見るような目で見ている。
「……何故か、嫌な気持ちになりましたか? 触りたくない、近寄りたくないと、そう感じましたか?」
ぐるりと彼らを見渡すラウルに、代表としてイグニが苦々しい顔で頷いた。
「思った。いや、今も思う。なんだ、オマエの……血、は?」
「これこそが証明です。僕の血肉は闇人に嫌われる。理由は……解らないのですが、怜国の闇人も、国外の者も、闇人は皆そうでした」
「…………」
腕を布で拭うと、ラウルの傷口は既に塞がっている。血を吸い込んだ分の土も削って拾い上げ、ラウルはそれを端切れで包んで懐に入れた。
「やはりあなた達は闇人で、闇人には闇人の生き方があります。どうか、僕の話を信じては貰えませんか?」
「…………」
「…………」
村の若者達は顔を見合わせる。最後に全員の視線がイグニに集中し、イグニは苦々しい表情で問いかけて来た。
「その、協定が、あれば……本当に、俺達は、飢えずに、済むのか?」
「はい。協定の条約で、保証される筈です」
「……本当に、そんな、遠い国の、協定が?」
「適用されます。もし、ギルドが信用できないというのであれば、僕が怜国まで行き、怜国の
「…………」
ざわざわと再びざわめきが起こり、イグニは目線を落とし己の足元を見ていたが……イグニ、と若者達が声を掛けると、やっとで顔を上げ頷いた。
「……解ってる、解ってるよ。そうだな――あんたらの、言う、通りだ。俺達は、行き詰って、いて、もう後がない。なら、その提案を、飲むさ」
苦々しく、それでもどこか吹っ切れたような声でイグニは言い、ラウルを見る。
「ただ、代わり、に……ロスとロサを、ここから、この島から、連れ出して、くれないか。あの子達は、ここで唯一の、人間だ。まだ、人間の内に……ここから……」
言い淀むイグニにラウルは頷いて返した。
「解りました。ですがそれは、ロスとロサに聞いてからです。……あの子達がここを出るかどうかは、本人の意思で決めさせてあげてください」
「……そうだな。ああ、それでいい」
イグニはそう言い、ふっと肩の力を抜いたように息をついた。
話が着いたと見たのか、黙って成り行きを見ていたシダルガがラウルの元に近付いて来た。
「ラウル」
そして返事も聞かずにラウルの腕を取る。それは、先程ラウルが自身の短剣で傷付けた方の腕だった。
「……治っているか」
「はい。知っているでしょう?」
おどけたように肩を竦めるラウルに、シダルガはそれでも厳しい目を向ける。
「君は、自身を軽々に扱いすぎだ。彼らの説得ならば、他にも方法はあっただろうに、自分にとって最も簡単な手段を取った。違うか?」
「それは、……はい」
確かに、ラウルにとっては一番簡単だった、手間がかからなかった、そういう方法を取ったのは事実だ。頷くラウルにシダルガは渋い表情を見せる。
「以前にも話したと思うが、私は君が傷付くのを見たくはない。君が自身を軽んじるのもまた、見たくはない。ラウル、自分を粗末にするな。己を大切に出来ない者は、己以外の者も等しく大切に扱えない。……よくよく、考えておいてくれ」
「…………」
いつになく厳しい声のシダルガは、どうやら怒っているようだった。しかし彼の言葉は最もだと、ラウルは素直に頷く。
「解りました。……気を付けます」
「ならば、良い。必要とあってでも、せめて事前に私には言って置いて欲しい」
「はい」
頷くラウルの腕を、もう傷跡も何も残っていない褐色の皮膚の上を、白い指が静かに撫でた。
◆ ◆ ◆
翌日、太陽が空の一番高い場所で輝く時刻になってから、シダルガとラウルは西の井戸――フィニアを封じている井戸の元に来た。
掛けられた網を取り、蓋の上に載せられた巨石をシダルガがひょいと持ち上げて取り除く。彼の怪力に改めて感心しつつ、ラウルは木で出来た井戸の蓋の上にそっと耳を付け、中の様子を窺った。こちらで作業をしている音で勘付いたのだろう、遥かに下方の井戸の底で何かが
「生きているか」
「はい」
シダルガが短く問い、ラウルは頷いた。井戸の木蓋は、更に鉄杭によって端を四方により打ち付けられている。その鉄杭を木蓋ごと梃子の原理で引き抜きながら、シダルガは呟いた。
「彼らは飢えても死には至らない。始祖であるなら尚更、完全に浄化させないと消滅せず、月の満ちる夜に舞い戻る。故に
重々しい音を立てて杭ごと蓋が取り除かれ、暗い縦穴に光が射す。その瞬間に悲鳴を上げて穴の奥深くへ逃げて行く者の気配がした。
「――行きましょう。このままでは、彼があまりにも哀れです」
かつての仲間に怯えられ警戒され、何処にも行けず永遠にそこで飢えたまま囚われているよりは。ラウルの言葉にシダルガは頷き、巻き取られていた鶴瓶の縄を片手にすると井戸の縁にもう反対の手を置き、そのままその中にひらりと身を躍らせた。数秒のち、重い着地の音が聞こえて来る。そうしてすぐに井戸の底から声が上がった。
「ラウル。ここは大丈夫だ、降りて来い。フィニアは私が見ている」
「解りました」
シダルガが渡した鶴瓶の縄を手に、ラウルは自身に重量操作の魔術を掛けてから井戸の底に身をやる。からからと滑車が回り、やがては井戸の底に辿り着いた。ロスとロサが言っていたように井戸水は枯れているようで、底の地面は暗がりで湿ってはいるが掬える程の水も無い。そして、その湿って苔の生えた井戸の底、さして広くもないその暗がりの片隅に、日差しを避けるように蹲り低く唸り声を上げるもの――全身の皮膚は無残に乾燥してひび割れ、服であった布切れを纏わり付かせ、四肢を断ち切られ
「君がフィニアか」
己の剣を鞘から抜きながらシダルガがそれに声を掛ける。フィニアは応えもせず、ただ警戒心と
「慣例通りに、君を浄化する」
剣を構えたシダルガが言い放ち、同時にぬかるんだ地を蹴った。素早いそれに対応する暇もなく、フィニアの胸に剣が突き刺さる。フィニアは顎が外れんばかりに大きく口を開けて悲鳴を上げ、かと思うとごき、と首をあらぬ方へと曲げた。その首がまるで亀のように伸び、シダルガの肩口に思い切り食い付く。
「シダルガ!」
「問題ない」
思わず呼び掛けたラウルにシダルガは冷静に即答し、同時にフィニアの頭を白く大きな手が鷲掴みにした。それは造作もなくフィニアの頭を引き剝がし、その勢いのまま地に叩き付ける。ごん、と鈍く嫌な音が上がり、フィニアの濁った叫びが断続的に上がった。シダルガはそのまま反対の手に持っていた剣をフィニアの首に突き付け、躊躇もなく胴体と首とを切断した。
ごろりと首が転がり、胴体の方がびくびくと痙攣に動いていたがやがて力なく動きを止める。転がった首の驚いたように見開かれた目は数度瞬きをしていたが、――ゆっくりと周囲を見回した後で、ひび割れた唇が薄く微笑み、そして、乾燥した瞼を降ろしていった。最後にその口が動き、声にならなかった言葉を紡ぐ。
『ああ、やっとで』
……それは、そう動いたように、見えた。
そしてフィニアは――フィニアであったものは、ぴくりとも動かなくなった。
死したフィニアの頭と胴体を縄で括り、シダルガが井戸の外に引き上げたそれは、太陽の光を浴びると身体の端から黒ずんだ灰になって崩れ落ちていった。全てが灰となったのを見届けて、一粒も残さないように気を付けてラウルとシダルガはフィニアの灰を集めて瓶に入れる。
「彼は、……これで救われたでしょうか」
ぽつりとラウルが呟く。シダルガにも、そしてディエスやイグニや島の住民にもこれがフィニアの救いにもなると説いたが、実際の所、本当にフィニアがこれで救われたかどうか、ラウルには解らない。だがこの行き詰った村では闇人協定しか活路を見出せず、そのためにはフィニアは障害となる存在であり取り除かねばならない壁であった。だから村の者にはそう説明したが、本当はどうだったのか、フィニアや彼らにとっての救いになれたのか。
「私には判断しかねる。私は
シダルガは冷静にそう返答し、ラウルは苦笑して頷いた。
「そうですね……それは誰にも解らない事です。すみません、おかしな事を言って」
本当に救われたのか、彼にとって救いとは何なのか。それはフィニア以外には決して解らないだろう。
シダルガは灰の入った瓶を手に取り、それを掲げてラウルを見つめる。
「だが、私達がここで為すべきは為せた。そう思う」
「……はい」
真っ直ぐな声と目に、ラウルは小さく笑って頷いた。
◆ ◆ ◆
その夜、東西を問わず島民が集まり、フィニアの葬儀が行われた。
灰の入った瓶を花や食物と一緒に簡素な作りをした小さな舟に入れ、舟の中央に立てた蠟燭に火を灯しそれを河に渡す。小さな赤い火は揺れながら大河の流れに乗って、ゆっくりゆっくりと離れて行った。島民は皆手を合わせ祈りながらそれを見送る。フィニアと、彼の犠牲になった人々も含めての鎮魂の儀式だった。
舟に乗せられたフィニアの灰はごく一部であり、残りの大半は陽が昇ってからシダルガとラウルが島民の代理として河の広範囲に撒く事になっていた。これでフィニアが復活する事は万が一でもないだろう。
東西を隔てていたバリケードは取り払われ、住民は老人も若者も入り交じり久々に言葉を交わし合っていた。ロスとロサも西の若者達に交じって彼らと嬉しそうに話をしている。
「ありがとう、ございます」
シダルガとラウルに老人の一人が声を掛けて来る。声からするとディエスだろう。
「おふたり、には、何から何、まで、して、頂き……感謝、の、言葉も、尽きませぬ」
そう言い深く頭を下げる老人に、ラウルが手を振り「いいえ」と返した。
「僕達はギルドの依頼でここに来て、自分が知っている事を提案しただけです。どうか、顔を上げてください」
「……せめて、もの。この島で、朽ちる老人、に、最後の、恩返しを、させては、頂けませぬか」
「?」
首を傾げるラウルに、「こちらへ」とディエスがきびすを返して誘う。どうしようかとシダルガを見上げると、彼は頷き「行こう」と答えた。
「真摯な礼だ。受け取らねば彼の心を損じる事になるだろう」
「……そうですね。では」
ラウルも納得し、二人は少し先で待っているディエスの方へと歩き出した。
ディエスの後を追って行くと、彼はそのまま一軒の家に向かう。通りの中心地に近く他より大きなそこは、ディエスの自宅のようだった。
「中へ、どうぞ。大した、おもてなし、は、出来ませぬ、が」
「お構いなく……」
ディエスの家の中はひどく暗く、恐らく太陽の光が入って来るのを防いでいるためか月や星の光すらも遮断されており常人であれば足の爪先さえ埋没するような闇に包まれている。最も、ラウルは視覚に魔術強化をかけ、シダルガは夜目が効くために苦ではないが。
「少し、お待ちを」
そう言い、ディエスは竈の後ろの方に手をやりごそごそと何かを動かしていたが、やがて重い布に包まれた一つの小箱を取り出して来た。
「こちらを」
布を解いて差し出された小箱をシダルガが受け取り、彼は躊躇なく箱を開く。その中に納まっていたものを見て、ラウルは大きく目を見開いた。
「それは――もしかして、〝
「その通り、です」
「これは……、」
シダルガも何かを言いかけ、しかし珍しく彼は戸惑ったように言葉を切って口を閉じる。ディエスは二人の反応にただ頷き、言葉を続けた。
「これを、あなた方へ、報酬、として、差し上げたく、思います」
「……!? 貰えません、こんな高価なもの……!」
慌ててラウルは首を振るが、ディエスはゆっくりと頭を下げる。
「我らが、持っていて、も、仕様のない、品です。元は……ロスと、ロサが、ここを出、たいと、言い出した、ら、持たせよう、と思って、おりましたが……過ぎた、品である、ことは、明らかでした」
「なら、今からでもロスとロサのために残しておいては……」
「なりま、せぬ。我ら、は、無知ゆえ、この石を、ここまで、隠し持てて、おりました。ですが、これの正しき価値を、知った上ですと、最早、おそろしい、のです」
「恐ろしい……?」
はい、とディエスは頷いた。
「この石、は、この家に、一つだけ。この島に、一つ、だけ。しかし、他に、知られれば、まだ、隠されている、やもしれぬと、邪なる心で、島に来る、者が、いないとは、限りませぬ。存在しない、宝のために、島が危険に、晒される。そのような、事態が、起きかねない事が、恐ろしいのです」
「…………」
ラウルは複雑な思いで黙り込んだ。ディエスの懸念は正しい。この『太陽の落涙』はそれ程の価値を持つものだった。そしてこの島の住人は闇人に変化しているという、――邪悪な野望を持ち島を征服蹂躙したいと考えれば外部への名目は可能なだけの材料がある。下手をすればギルドが率先して行い、『太陽の落涙』を徴収という
「ですので、お二人に、こそ、受け取って、頂きたい。しかし、決して、この村、この島からの、ものだと、他言せぬと。それだけを、守って、頂ければ、そちらの、石は、売るなり何なり、と、お好きに、なされよ」
「…………」
この宝石をロスとロサに残していても、きっと変わりはしない。今度は双子の身を危うくするだけだ。ディエスの判断を受け、ラウルはシダルガを見上げた。彼もラウルを見返して深く頷く。箱の蓋を閉じて、それをラウルに手渡した。
ラウルは小箱を手に、ディエスに向かい合って真剣に答える。
「――解りました。こちらの品を、報酬として受け取らせて頂きます」
その言葉に、ディエスはほっとしたように肩の力を抜いた。
「ああ、ありがたい――……」
それはまるで、重荷をやっとで降ろせたような、そんな安堵が含まれる声だった。
残りのフィニアの灰が入った瓶を手に、シダルガとラウルは岸壁に停留していた船に乗り込む。
「お兄ちゃん達、ありがとうね! また遊びに来てね、絶対だよ!」
「絶対に来いよ、約束だからな!」
船の近くまで来た双子が二人に手を振りながら声を掛ける。
「はい、必ず。お二人も、元気で。どうか体には気を付けてください」
「世話になったな」
ラウルとシダルガの言葉に双子はまた寂しそうな顔になるが、すぐに無理矢理に笑って「うん!」と頷いた。
ロスとロサ、幼い双子は結局島に残る事を選択した。もう少し大きくなれば外に出たくなるかもしれないが、今はまだ慣れ親しんだ人々のいるこの島がいいと二人は言ったのだ。魔力を利用する機器……双子の家の浴槽や寄合所の通信機は双子ならばもう使用可能だろう。食糧問題はギルドに報告する事でそちらからの供給が開始される筈だ。既に通信機で闇人協定の件は聞き出しており、適用可との返答も確かに受け取っている。
見送りたいという島の人々の意思を組んで夜間での出立になったが、河から少し距離を置いて島の住民も皆集まり、口々に感謝を伝えつつ手を振っている。
「テメェら、も、また来るまで、……くたばんじゃ、ねえぞ!」
怒鳴るように言いながら大きく手を振るのはイグニで、彼の周囲ではウェルやディエス達が乱暴な言葉を咎めつつも同じく手を振っていた。島の住民に手を振り返して、シダルガとラウルは船を出す。
ここに来た時は真昼で、澄んだ青空が広がっていた。今は満天の星が頭上を覆っており、波は月光を反射してちらちらと美しく輝いている。
「――ギルドへ調査報告書を出した後ですが、僕は皆さんと約束をしたようにディマスコーグ怜国へ向かおうと思います」
島から離れ、住民の姿も声も見えなくなった頃にラウルがシダルガを見てそう切り出した。シダルガも「ああ」と頷く。
「闇人の大公に顔見知りがいるので、その方にこの島の事を報告しに行こうと考えていますが、……シダルガは、どうしますか?」
「構わない、同行しよう。どの道、現在の状況では私に他に当てなどない。邪竜発見の触れがあれば別だが」
「そうですね……」
例えば、怜国へ向かう途中に違う国で邪竜発見の通達があった場合。シダルガは迷わずにそちらに向かうだろう。元々この旅はそれまでの道案内という契約だ。
「……その時は、僕も怜国での用事が終わったらそちらに向かいます。少なくとも、僕の血肉は竜には効果があるので、お力になれるかと」
笑いながら言われたそれにシダルガは僅かに渋い顔になる。彼はラウルが簡単に己から傷を負いに戦場に飛び込むのを良しとしていないのだろう。それが解ったので、慌ててラウルは続けた。
「もちろん、ちゃんと自分の身は守ります。ですが、作り置きの竜酔香もありますし……」
溜息をつき、シダルガは薄い唇を開く。
「無理をしないと約束してくれるならば、良い」
「……はい」
「それと。ディエスから譲渡された石だが」
「ああ、『太陽の落涙』ですね。あの宝石が何か……?」
問いかけると、珍しくシダルガは考え込むように視線を落とした。それが気になり、ラウルはこちらからも訊ねてみる。
「あの宝石はシダルガの時代にも存在していましたか?」
ラウルの問いにシダルガは頷く。
「やっぱり、そうなんですか。今の時代ですと、あの宝石はフランタ連合王国という地で稀に発見されます。フランタは丁度怜国へ渡る途中で通過する土地ですね」
「そうか。……太陽の落涙。奇妙な名を付けられたものだな」
「……あの宝石は、何があるんですか?」
シダルガの呟きにラウルは首を傾げる。
太陽の落涙。そう呼ばれる鮮やかで濃い赤色の宝石は、硬度と透度が高く不純物が含まれにくく、また別側面として宝石や鉱石の特徴である魔力の貯蔵庫としても特出して優れている。魔力を貯める量は底なしとまで言われており、指輪程度の大きさだとしても、卓越した魔術師が毎日自身の魔力を尽きる程に石に注ぎ込みそれを百年続けてもまだ入るという容量を備えていた。
そして魔力を通す
現在最も大きな太陽の落涙はフランタ連合王国で出土した一抱え程もある大きさのもので、これがバザールの公共オークションにかけられた際は史上最高価格を叩き出したのだとか。
存在感は圧倒的で、小さな粒でも見るだけで解る程に異質な魔力を有する。それが太陽の落涙と呼ばれる宝石だった。
だがシダルガはこの石に思う所があるらしい。不思議に首を傾げていると、シダルガは静かな青と緑の目でラウルを見て、そして言った。
「あの石は、竜の血液が固まって出来るものだ」
「……、……竜、の?」
ぽかんと呆気に取られ、しかしすぐに言葉の意味を理解したラウルは、驚愕に息を飲む。シダルガは頷いた。
「竜の血は本来ならば地に吸収され魔力として大気に還る。だが稀に、魔力として分散されず凝固し結晶となり残る事がある。それが、あの石だ」
「…………」
とても信じ難い内容だが――もし太陽の落涙が竜の血の結晶体だとしたら。成程、その性質も、希少さも頷ける。そしてシダルガという男は嘘をつかないと、ラウルは知っていた。いまだ驚きから冷めないラウルに向かい、シダルガは思慮するように呟いた。
「その石が複数産出されるとは、かつて竜が激しい争いを行ったか、或いはそこで没したか。いずれにせよ、尋常ではない量の竜の血が流れた地だろう」
「…………」
太陽の落涙が産出されるフランタ連合王国。それは怜国へ向かうために通らなければならない土地だ。
美しい星月夜、揺れる河の船の上。小さな箱が微かに振動したような、気がした。
◆ ◆ ◆
その日、オリエンスの辺境の土地であるフルフィウスの大河の中にある小島に、異例となる闇人協定が適用された。
村人は外部からの手により強制的に闇人化させられた被害者であると認められ、また攻撃の意思がないとも確認された後に、ギルドが主体となりその身柄と生活を保証され、彼らに無用な迫害を加える事は協定により禁じられた。
また、遠く離れた国で闇人協定が下されたと報を耳にして、
◆ ◆ ◆
夜のとある街角。あちらこちらにランタンが灯され夜だというのに人通りの多い、ひどく猥雑な空気を漂わせるそこを、ひとつの黒い影が悠々と歩いていた。歩くたびに長いローブの裾が躍るように揺れ、高いヒールの踵が石畳を叩く小気味良い音が上がる。客引きの声を流れるようにあしらい、美しく飾られたウィンドウの向こうにしなだれて座る男女の秋波を受け流し、人影は泳ぐように歩き続ける。
その人影が建物の角を曲がり小道に差し掛かると、途端に
「よお、姉ちゃん。なあ、俺と遊んで行かないかい? いい酒も薬も揃ってるぜ、ご禁制のコレもな」
人影に、一人の男がふらりと声を掛けて来た。目つきの怪しい、どう見ても堅気の人間ではない斜めに歪んだ気配をあからさまに出した男を人影は一瞥した。ご禁制のコレ、と男が指でジェスチャーをしたのは公的に認可されていない魔術の類だ。そちらも夜に関わるもので、極上の快楽が味わえる……代わりに、乱用すれば精神と魔力が瓦解するという危険度の高いものであった。故に、こういった街では一定の需要がある。
く、と人影は唇を歪めて笑う。
「悪いがなぁ、」
低く艶めいた声で人影は男に軽く手を振った。
「野郎は趣味じゃねぇ。他を当たりな、坊主」
「……ハ、なんだよ意外とトシ食ってんのか? でも俺はそんな小さなコトぁ気にしねぇからよ、なあ」
坊主と呼ばれ一瞬怒りに顔を赤くした男は、しかし気を取り直すように言い、更に人影に言い寄りその肩に手を置いた。――が。
「趣味じゃねぇ、って言ってんだろ」
その一言と共に肩に置かれた男の手が突如内側からボコッと膨らみ変形した。
「な――ぎゃ、ぶっ」
それは一瞬で泡のようにボコボコと次々煮え立ち、男の腕から肩、肩から首へ顔へ頭へ胸へとどんどん広がり、一秒も経たずに男は奇妙な断末魔だけを残し、その場で弾け飛んだ。内側から破裂し、肉片が壁やそこらに飛沫となって散る。地面には砕けた骨とこれだけ破れずにいた服だけが残され、べちゃりと濡れ落ちた。
人影は、己の口元に飛んだ男の血を赤い舌を伸ばし舐め取ったが、
「
そうごちて顔をしかめた。
「相変わらず、過激ね」
その人影に声をかける者がいる。「お、」と人影が振り返ると、裏戸口が開かれオレンジ色の光が漏れるそこに、一人の女性が腕を組み壁に凭れていた。優れた身体の曲線を惜しみなく露出するドレスを身に纏い、煽情的な色香を纏わり付かせた、若く美しい女性だった。
「よう、リタ。久しいな」
黒い人影が笑ってフランクに手を上げて挨拶をすると、リタと呼ばれたその女性は呆れたような溜息をつく。
「ねえイドラ、あなたが私に約束した日から今日まで、何日が経過したと思っていて?」
「はは、三日くらいか? 悪い悪い」
多少恨めし気に言われたそれにも気にせず笑いながら、黒い影――イドラはリタの元に寄り、その細腰に手を絡めて引き寄せる。
「……好き勝手に放浪してるあなたと違って、不在の言い訳をするのも大変なのよ?」
「解ってるって。まあそう怒るなよ、怒る美女もいいもんだが、笑ってくれりゃあもっといい」
抱き寄せて髪を撫で、額に唇を落とすイドラにリタは「もう」と拗ねたように呟くが、怒っていない事は紅潮した頬が伝えていた。
「それより――たっぷり食わせてくれるんだろ?」
耳元で低く甘く囁くと、リタもとろけるように微笑む。
「ええ、そのために貯め込んでおいたわ」
「やっぱり、おまえはいい女だよ」
くっくっと喉で笑うイドラと共に、リタは裏戸口から建物の中に入り、扉を閉じる。
じめじめとした裏通りには、弾け飛んだ肉片と骨だけが残され、久々の『ご馳走』に飢えた野良犬達が我先にとたかり出した。
「へえ、勇者が」
「ええ、ついにお目覚めになったようで、教団の上の方は大騒ぎよ」
数時間後、気怠い空気を纏わり付かせたベッドの上で、イドラは頬杖をついてリタの報告に耳を傾けていた。
「勇者をお迎えするために一人の使者が派遣されたわ。まだ若いポッズ家の坊やよ」
「ほーん」
「……あなたの事も懸念されているようよ。気を付けた方がいいわ」
「はは、俺か」
軽く笑い、全裸のままイドラはのっそり身を起こすとベッドの脇に備え付けられていた水煙草の火皿に指を置く。するとその先から火がポウッと灯り、火皿の上の葉に移った。充分に燃えて煙が上がるのを眺めながらホースを拾い上げ、吸い口を軽く咥える。
ふう、と煙を吐き出し、イドラはクッションに凭れる。
「ま、勇者様にはそこまで興味はねぇ。一度ツラを拝むのも面白そうだけどな」
「勇者を追っているポッズ家の坊やは転移魔術の天才よ、あなたも巻き込んで教団に来られたら一大事だわ。そんな恐ろしい事は止めてよね」
「あははは!」
リタが本気で懸念していると解りつつ、イドラは笑い飛ばす。そして眉を寄せる情婦に向かい、額にキスをした。
「解ってるって。いつも悪いな」
「……本当に悪いとは思ってない癖に」
はあ、と溜息をつき、自嘲気味に、しかし
「私が一番都合がいいから可愛がってくれているだけで、あなたが大事にしているのは私じゃないわよね?」
「…………」
それには答えず、イドラは微笑んで水煙草の煙を吐く。渦巻く煙は上空に上がり、部屋の天井のファンにかき回されていた。
「さて。でも、俺は有能な奴は嫌いじゃないよ」
ふ、ともう一度煙を吐き出すと、煙はもわもわと形を変えて巨大な城、そしてそれが崩れて門の形になる。
「私は『有能』かしら?」
問いかけるリタにイドラは笑った。
「ああ。おまえはその辺、最高だ」
――『分』をわきまえ、譲渡すべき情報は与え、これ以上という場所には踏み込まない。これまで複数いたイドラの情婦として、リタはこの上なく『有能』だった。
恐らく全てを理解している彼女は皮肉気に笑う。
「本当に、悪い人」
他者の命も人生も簡単に弄び、顧みることなく、利用する価値がなくなるとすぐに捨てる。残酷で極悪、教団から永久追放を処分された天才的な『赤の司祭』。だがその男に惹かれ魅了されているリタは、この関係を止めるつもりはなかった。少なくとも、今はまだ。
黄金の山羊 白銀の鹿 睦月 @mutsu-ki-
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