蟲狂い姫の受難
第1話 揚羽の日常
ここは、平安京と名付けられた都の一画。大納言を務める男の邸において、彼には二人の姫君がいた。
一の姫は貴族の姫らしく、教養深く奥ゆかしい。貴公子たちから何通もの文を贈られ、それぞれによく練られた歌を返すと有名だ。
そして、この物語の主人公である二の姫は、姉とは全く異なる気質を持っていた。虫を始めとした生き物全般が大好きで、だからこそ人々からは遠ざけられた。
しかし姫は他人からどう思われようと知ったことかという態度で、虫たちを愛でることを止めない。
噂好きな人々の口から口へ大納言の二の姫の話は広がり、いつしかこう呼ばれるようになっていた。
――『
❀❀❀
早朝、目を覚ました大納言の二の姫は、鳥たちの声を聞いて庭へ飛び出す。
「ははっ、みんな元気ね」
「おはようございます、姫様。お目覚めですか?」
鳥を愛でる
そんな少年に、揚羽はにこりと笑ってみせた。
「おはよう、
「はい。皆、姫様と会えて嬉しいと申しております故」
そうだろう。瑞飛が顔を上げると、木々の枝や屋根に陣取った雀たちが、声を揃えて「チュン」と鳴く。ほら、と瑞飛は微笑んだ。
「皆、朝を告げに参りました」
「雀の声は、楽しげね。……そういえば、
キョロキョロと見回すが、瑞飛以外に人影はない。いつもはすぐに来てくれるのに、と揚羽は肩を落とす。
「案ぜずとも、二人共おりますよ。ただ、夜のうちに現れた
「まだ帰っていない、というわけね。二人の強さを疑いはしないけれど、きちんと戻って来る?」
「当然です。……ほら、噂をすれば」
バタバタバタ。外から誰かが駆ける足音が複数したかと思うと、ひょいっと垣根の上に誰かが腰掛けた。
「姫様、ただいま!」
「た、ただいまだよ……疲れた……」
「おかえりなさい。走矢、竜玉」
元気に片手を振るのは、深い赤色の短い髪と灰色の瞳を持つ青年が走矢。そして、白髪を後ろで束ねた鮮やかな赤の瞳の少年は竜玉という。
「随分と遅かったな。姫様が起きるまでには帰ると思っていたんだが……」
「オレたちもそう思ってた。けど、意外と手のかかる奴でさ」
「うん。水に閉じ込めて沈めるだけじゃ、暴れて抗って抑え切れなかったんだ」
瑞飛の問いかけに、走矢と竜玉は口々に言い募る。どうやら手強い妖だったらしく、二人は怪我こそないものの土や泥で汚れていた。
「仕方がない。二人共、話は後で。まずは、体を清めて来て」
「わかった、待ってて」
「いってきます」
庭を突っ切って、走矢と竜玉は水浴びに行く。二人が戻って来る前に、拭くものを用意しなくては。そう思って踵を返しかけた揚羽は、「姫様」と呼ばれて振り返る。
「どうかした?」
「拭くものは、おれが取ってきます。姫様は、これから来られる方のお相手を」
「来られる? また、あの時のように垣間見されているの?」
「違います。別の、大切な方です」
「二の君」
誰が来るのか。首を傾げた揚羽だが、その疑問はすぐに解けた。渡殿を渡って来たのは、同じ邸に住まいする母の
礼をして去った瑞飛を見送り、揚羽は母に
「おはようございます、母上。どうなさったのですか?」
「おはようございます、二の君。母が娘に会うためには、何か理由が必要ですか?」
「いえ、そうではありませんが……珍しいと驚いたのです」
桐子は、体が強くはない。娘を二人産んだ後、弱くなったのだと誰かが言っていた。
しかし桐子はそんな己を憂うことなく、日々をにこやかに過ごしている。揚羽は、そんな母が大好きだった。
しかし、素直に甘えるのは少し気恥ずかしい。揚羽は躊躇ったが、桐子に「おいで」と両腕を広げられ、円座から立ち上がって母に抱き着いた。
「よく来てくれました。可愛い我が姫、今日は何をするのですか?」
「父上が置いて行って下さった書がありますから、それを読もうと思っております。それから、
揚羽の母の一族は、昔から帝に仕えて都に集まる妖を退治して来たという。現在は一部の陰陽師が担うその役割だが、揚羽は率先して影の仕事を請け負っていた。
そして一族に代々仕えて来たのが、『化人』という存在。現在、揚羽のもとには瑞飛と走矢、そして竜玉の三人がいてくれる。彼らほど頼りになる者たちはいない、と揚羽は嬉しそうに誇らしそうに笑った。
けれど、桐子は顔を曇らせる。
「妖を倒すのは、我が一族の使命。……貴女にまで背負わせることになってしまい、本当に申し訳ないですね。本来貴族の姫君は、既に良い伴侶のもとで幸せになっていてもおかしくはないのに」
「謝らないで下さい、母上。これは、わたしが選んだ道です」
それに、と揚羽は微笑む。
「母上のおっしゃるように幸せに暮らしているのは、既に姉上がおります。わたしはわたしの幸せを過ごしておりますから、ご安心ください」
「ふふ、そうですね」
母に頭を撫でてもらい、揚羽は気持ち良さそうに笑う。
そんな母子の様子を離れて眺めていた瑞飛たちは、顔を見合わせ少しの間その場を離れることを決めた。揚羽が寂しくならないよう、一緒にいてあげて欲しいと彼らに願ったのは、桐子だ。しかし、今は案ずることはない。
妖という人々を脅かす存在を夜な夜な倒し、決してそれを知られない揚羽。彼女のささやかな幸せの日々がこれからも続く、とその場にいた者たちは皆信じていた。
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