玉繭
海崎しのぎ
玉繭
玉繭
窓ガラスに映る自分の顔は蒼白く、紺地の半袖から伸びる腕の薄皮は骨の形を浮き彫りにしている。鑿を握りしめる左手の指先が白んで震えていた。
作業台の上には小さな石の欠片が幾つも転がっている。数日前に適当な路端で雑に拾い集めた石だった。が、今後の己の身の振りをほんの少しだけ左右する、それなりに大事な石だった。
灰色に沈んだ石肌を、骨の浮く指でつるりと弄ぶ。両手に包める程あった大きさが、あまりにも削ってしまったものだから今ではすっかり掌で握り込めるようになってしまった。
「もう締まるぜ。」
不意に投げられる声に、弾かれて上がった視線が空を見やる。薄灰に白い縦縞の入ったなんとか言う着物を着た同級生の笑う奥で、快晴の空に月が光った。居待月だった。
「過ぎちゃったのか。」
私はそっと立ち上がる。薄汚い窓を静かに開けて、吹き込む風の冷たさに一抹の後悔を覚えつつ見上げた月はいくら目を凝らしても欠けていて、酷く落胆した。少々大袈裟な背中である。
「そんなものにばっかり目を向けているから見逃すんだ。俺がいくら今朝から今日は満月だぜって言ったってちっとも耳を貸しやしないで、そんな石ころばっかりいじくり回してたんだから。」
「そうだったか。」
「そうだったよ。」
これみよがしのため息が一つ、私は満月を見るのが好きだった。多量の課題に忙殺されていた今月の頭に、忘れていそうなら声を掛けてくれと頼んでおいた程に。暦をなぞって満ち欠けを追う程ではないが、なんとなく見上げた月が満ちていると嬉しくなる、それくらいの熱量で、私は満月が好きだった。
「また来月、忘れていたら声をかけてくれ。……おや。」
視界の端に映る壁掛けは二十一時半を指そうとしている。警備員の見回りに捕まる前に、私は何かをひた隠すかの如く窓を閉め、カーテンも閉め、散らかした机はそのままに道具だけを雑に丸めて鞄に押し込み教室を出た。
「ああ、ちょっと。」
「ボサッとしてると置いてくぜ、先生。」
我先にと教室を出る私の、数歩後ろを遅れて続く。
「その先生というのをやめろって。」
「さて、先生を先生と呼んで何が悪い。お前はもう立派な文筆家じゃないか。僕以外にもお前を先生と呼ぶ人間は五万といる。」
電気の消えた教室を横目に、私達は横並びになって廊下を歩く。エントランスもすっかり消灯されていて、暗がりの中、月の明るさだけが掲示板を照らしていた。
期末試験が近いようだ。そういえば、二つ程筆記の試験を控えている事を思い出す。
「良いなぁ、先生はこういうのに追われなくて。」
「君ね、」
何気なく溢した私の一言に、先生は顔を歪めた。
「そういう風に俺を呼ぶから、俺はお前に先生と呼ばれるのが嫌なんだぜ。」
「そ、そんなに失礼な呼び方じゃないだろ。」
掲示板には試験日程の他にも雑多にフライヤーが張り出されている。学内の有志団体による演劇の案内、大きな教室を一箱貸し切った造形作品の展示会告知、その中に埋もれてB4の、ジャンル不問の文学賞応募要項が目についた。
じっと眺めていたそれを、先生が見咎める。
「さて、君は今何に追われているんだい。そんな石ころ握りしめて帰るなんて相当切羽詰ってるじゃないか。さっき削ってたやつだろう、それ。」
私の手の中の石ころは、石頭で雑に形を変え、目的もなく鑿で突き倒したせいで拾った当初の姿は見る影もない。見た目も握り心地も悪くなったそれを持って帰るつもりなど無かったのだが、無意識に掴んだのだろうか、彼に指摘されるまで己の手の中に異物が収まっている事に気付かなかった。
「なんで石ころを選んだんだろう?」
「それは課題の意図を探ってやろうって事か。」
「君はパソコンに文字を打って第一稿を作るじゃないか。何故。」
「俺の思考に、俺の字を書く速度が追いつかないからだ。打った方が早い。あと字が汚い。」
「うん、そうだな、まぁそういう事だ。」
大学入学以来、私が握り続けていたのは絵筆で、向き合っていたのは画布だった。何か制作をするとなれば必然的に油彩になった。
「路端の石ころを美術館に展示したいと、僕は思っている、ものとする。」
今回もまた、画布と向き合うと思っていた。
が、目の前には姿見があった。手に収まったのは鑿だった。
「どうにかして美術品に仕立て上げたい。まあ要するにその辺に転がって見向きもされないような物に、大勢の視線を集めさせろっていう訳だ。が、要素として組み込まれていれば良い。」
「絵に描いて展示しても、文章にして製本しても……最悪、そこに石を思わせる何ものが無く立って良いと。」
「説明できるなら。」
幼少の頃は立体造形にばかり興じていた。いつの間に平面に傾倒するようになったのだか、今になってはもう分からない。出された課題の内容によって、諦念のように、観念のように、情念のように、私は造形に立ち返る時がある。明確な線引きは無いのがまた、居住まいの悪い気分であった。
「なんで彫刻なんだい。」
遮断機が耳障りに降りてくる。足止めを食らった先生は幾らか機嫌を悪くしたようだ。
「なんでって、絵より自分に近いから。」
「だから、何故。」
電車が横切る。地面が揺れる。視界を横切る電車の中はがらがらに空いていた。恐らく終電車であった。
遮断機が上がって静かになった踏切を数台の車が渡るのを見送って、私たちも向こう側へ、この道から先はマンションや背の高いテナントが多くて月が見えなくなるのが私はあまり好きでは無かった。
「目で見ながら、匂いを感じて、直接自分の手で形を成していくというのがね、雄弁さは万年筆に劣るが純度は高いと思う。」
街灯が二人の影を伸びやかに、風の一陣もなく、車通りもなく、ただ建物の隙間から時折覗く月の光が柔らかい。ものを考えるには些か寂しい帰路である。
「美術品にしたいんだ。だから価値を付けたい。僕の専攻は絵だけれど、なんだかなぁ、それが己の武器かと言われれれば違う気がするんだ。ただちょっと人より形を取るのが上手いだけ。人より色に拘りがあるだけ。ほんのちょっと、そういう分野の勉強が苦ではなかっただけだ。まあ彫刻は違うのかと言われれば、うん、そういう訳でも無いんだが……なんだろうな、やらなきゃって思う時がある。そういう衝動みたいな感覚が、僕の彫刻をぎりぎり芸術の中に押し込めている、と、僕は思いたい。」
「そんなら名前を彫れば良いや。簡単だ。何にも悩む事は無い。」
さらりと流す先生の、柔らかな光沢の裾がめくれて微かに襦袢が見えた。
「そう言えば、初めて見る。」
「露骨に話題を逸らしたな。おろし立てだ、良いだろう。赤城紬と言う。」
まるで舞台にでも上がったみたいに、街灯でぽつんと丸く照ったアスファルトの上で一つ、自慢げに回って見せる。可憐な少女であれば見栄えもしたであろう嫌に整った仕草に私は思わず失笑した。
「紬って言うと、あれか、君がたまに着ている大島だの結城だの。」
「そうそう、これは赤城……群馬のとこで出来た絹で紡いだ紬だ。玉繭の紬だから光沢が綺麗で丈夫なんだぜ。」
嬉々として語り出す先生の声は穏やかで、足取りもだんだんと軽やかに、思考に沈む私を容赦無く置いていく。
先を行く先生の貝の口は相変わらず綺麗な結びだった。
*
洗濯物は取り込んだまま捨て置かれ、期限の迫った提出物は机の上でノートパソコンの下敷きになっている。一人暮らしの部屋にしてはまだ体裁を保っている方であろう。
鞄の底で押し潰されていた鍵を引っ張り出し、乱暴に解錠して開けた扉から身を滑り込ませるようにして私より先に先生が入る。
「邪魔するぜ。」
我が物顔でソファを陣取り、催促する目で私を見る彼はきっと腹が減っているのだろう。私と彼の、決まった流れである。
「君は腹が減っているのかい。」
「食べようと思うほどじゃない。」
そっと腹を撫でた。腹の空く感覚はあったが、どうも飯を、という気になる程ではなかった。
「僕もほどほどに腹が空いている。多分君よりはずっとだろう。」
先生が私の腹をじとりと睨む。
「今日は互いに一限から講義が入っていたはずだ。いや、朝早くというのは疲れるな。」
立ち上がって、私の隣に並んでくる。冷蔵庫の扉に手を伸ばした。
「さらに君は複数の課題の締め切りに追われて連日徹夜だ。昨日もどうせ寝ていないのだろうし、昼飯の時間も割愛したんじゃないのかい。」
部屋の作業机の周りに散乱した毛布と枕で、全てを察せられたらしい。
「そして青菜が死にかけている。」
「まだいけるだろ。」
「もうじき死ぬぜ。この辺なんかだいぶ変色してるじゃないか。」
眼前に突きつけられた青菜は水分が抜けて干からびかけている。確かにもう幾日の命であろう、と、私は観念してまな板を出した。
「君の腹が空いているなら仕方ない。」
「こんだけ理由立てしてやってそこに落ち着くのか、君は。」
「あとはまあ、君と卓を囲めるなら、という所かな。」
「基準が分からん。」
決して手際の良いとは言えない私の包丁捌きを横で眺めながら、先生は大層不満げな音で唸る。
「楽しいだろう、先生と食事を摂るというのは。」
食事を摂るために大義名分が必要だと明かした時の先生が、何か己の理解の及ばない化け物でも見たような顔をしたのを、私はよくよく覚えている。
が、先生はその日から私が飯を抜こうとするのを、こうして逐一理由を立てて阻止しようとしてくるようになった。律儀なのだ。半分くらいは面白がっているのかもしれない。
「楽しければ君は食事を摂るのか。一人でも?」
「そうだね。まあ一人での食事を楽しいと思うことは殆どないけれど。」
「君は祝い事の日は一人でも祝いの物を食うだろう。節分に恵方巻だとか、クリスマスにケーキだとか。」
「人間ってそういうものだろ。それに、記念日だからそれを食う、は立派な理由だよ。」
「普段の食事にその楽しい、だとかお決まりだから、だとかの理由が台頭してこないのは何故だい。」
「罪悪感がずっといるんだ、ここに。」
食事という行為は生に直結する。その日私は、明日を生きて良いと思える程に何かを成し得ただろうかと、だから、どうしても立ち止まってしまう癖があった。酷い悪癖である。
欲に生きることは悪だろうか。生を放棄することは善だろうか。
私は無価値な私が明日を求める事がひどく浅ましく感ぜられて仕方がなかった。どんなに調子が悪くても、思ったように作業が進まなくても、予め決まっていた事のように腹が減る。
価値が欲しい。明日を生きる理由が欲しい。空っぽなまま食に興じる私の背を、冷めた目で指差す私が居る。
「価値のないものは罪人か。」
「赦しが欲しい訳じゃない。」
一般に、皆生まれながらに価値のある存在らしい。ならばきっと、私にも付与された何かが有る筈だった。それが見つからない。私は何も成し得ていない。
「こうして俺のお喋りに付き合ってくれているだけで、俺にとって君は価値のある存在だが。」
「ありがとう。先生に選ばれるなんて光栄だな。でも僕程度の言語能力者は死ぬ程いる。僕でなくても君の話し相手は務まるさ。なんたって、君は今や一世を風靡する大先生なんだから。」
「君にとっての価値っていうのは唯一無二で絶対的なものであるべきと?なんだいその傲慢な考えは。ルシファーもドン引くぜ。」
「別にそこまでいかなくても良いんだ。そうだな、絶対とまでいかなくても、そう、その作品を見てこれは僕らしい、僕にしか作れないものだねって思ってもらえるところまで行けたら、それはきっと僕の価値なんだ。僕らしい考えで、僕らしい言葉だって思えたら、それが。」
「価値のハードルが馬鹿みたいに高いのは変わらないじゃないか。」
後片付けをする私を尻目に、先生はいそいそと皿を机に持っていく。いつの間にか解凍された米まで並び、そこはもうきちんと設えられた食卓だった。茶碗も箸も二膳ずつ用意されている。
靴箱の上に放り投げたあの石屑までが、丁寧に卓上にもてなされていた。
「こんなものまでこっちに持ってきたのか、先生。」
「いずれ価値ある石になるんだろ。丁重に扱っておくべきだ。」
「それは提出物にならないよ。大体無価値な存在がこれになんの価値をつけられるっていうんだ。お前は美術館へは行けないよ。」
「たいそれた価値なんていらないだろ。美術館に並んだものは全部等しく美術品だ。それが砂利だろうとガラクタだろうと、道端の石ころだろうと。展示場とはそういう場所なんだから。」
風が強く鳴いている。静かだった夜が一変、飛ばされてきた何某が窓ガラスを叩いて回った。月見でもしながら侘しく思案に耽ろうと思っていたのに、こうも騒々しくされては興醒めである。先生よりずっと早く食べ終えた食器を流しに積んで、私は先生が前回家に持ち込んだきり飲みかけで放置して行った酒瓶と割り材を出した。
炭酸の酸味と酒の香りが喉を焼く。開けっぱなしのカーテンの隙間からぼんやり見上げた月は強風によって雲を一掃されたらしく、教室で見た時よりも明瞭で、煌々と欠けていた。
「君が自発的に酒を飲むなんて、珍しいこともあるものだ。」
「嗚呼、月が。」
私の言葉に釣られるように、先生はふ、と月を見上げ、そのなんとも思ってないような顔をちょっとも崩さずに立ち上がると、台所から空のグラスを持って戻ってきてどかりと無遠慮に私の隣に座った。勝手知ったる、といった風である。
「酒の肴にするには中々の名月じゃないか。」
「まあな。だが、欠けている。」
古来より満ちたる月の特別扱いの程は相当なものである。見目に麗しいその様の、人々の情を負ってなお堂々とした威風が、私を些か高揚した心持ちにさせる。月と一緒に己も満ちていく感覚が心地いい。その価値のあり方が好きなのだ。欠けてしまっては物足りない。
石を成形するに当たって、最初に考えついたのが球体にすることだった。月の形を写して、月の価値のほんの欠片でも享受できれば重畳だと、安直に丸くして見たものの、そこに芸術的な思考を見出せなくて結局辞めてしまったのだった。
道端の石に、月はあまりにも高すぎた。
相変わらず黙したままグラスを煽る先生の横顔を盗み見る。その目に映る世界の居待ち月はいかに美しく、彼がそれをどんな言葉で紡ぐのか、才のない私には推し量ることすら叶わない。
卓上には成り損ないが鎮座している。
私はそれをそっとつまみ上げて、炭酸の細かい泡の水面に。どぼ、と深い音がした。
*
「浮かない顔をしているな。」
大学の食堂で一人、蕎麦膳を啜っていた私の前に日替わり膳を持った先生が座る。
「前に言っていた石の展示とか言うやつか。」
「有難いことに方向性は定まった。問題は、ここにくるまでに長々と悩みすぎて制作時間がもうあまりない事だな。お陰様で連日徹夜だよ。エナジードリンク代も嵩むし。」
「結局何を彫ることにしたんだい。」
私は携帯の中に入っている制作過程を写した大量の写真を先生に見せる。
写真には両手で抱えられる程度の岩を高く積み上げて接着して作った、自分と同じ大きさの岩の塊が写っていた。岩肌は最低限のみ研磨され、外形は人間の様を呈していた。男であった。
「また大掛かりな事をしている。油画専攻生とは思えんな。」
「後で着彩もするから。」
「ふうん。」
私が蕎麦を啜りながら生返事気味に返すのに、先生はつまらなげな顔をした。
「ところで、今日はよく食べるじゃないか。君にまともに食事を取らせる理由がぜひ知りたいな。」
「腹が、減ったんだよ。ここ最近ずっと篭りきりで……ものを作るのは思っているよりずっと体力を持っていかれる。どうしても腹が減るんだ。携帯食を貪るだけじゃどうにもやれない時がある。」
「君にしては弱い気がするが。」
「今回の課題はきちんとやり切りたいんだ。下手に食事を抜いて体調を崩しでもしたら、僕はきっと後悔をするんだろうなって思うんだよ。もちろんまだ食べなくても動けはするが、確かに空腹感はあるし、昨日の昼から固形物を口にしていないし、昨日からだいぶ作業も進んでいたから、まあ許されるかな、なんて。」
「そんな嫌々食事を摂る程執心してるのか。」
「僕だって、他者の言葉を信じてみようと思う時くらいある。」
それ以上特に言及する事もなく先生は食事に戻ったのを見て、とうに食事を終えていた私は空の膳を持って席を立った。
時間の一秒も惜しいと、足早に教室に戻る。無人の教室には中央に岩の塊だけが据えられていて、まだ削り出していない筈の顔と目が合った。台車の分を引けば己と同じ背丈の、まだ腕も足も形取られていない、直立した灰色の男。これが歩くとは思えない、手を伸ばす訳もない。それ程の躍動感は無いし、完成品にも求めていない。
「うわ、何突っ立ってるんだ。」
教室の入り口で立ち尽くしていた私の背中を勢いよく小突く声がする。気怠さを隠さずに振り向くと、そこにはパソコンを抱えた先生が立っていた。
「君が作業してる横で一緒にやらせて貰おうと思って付いてきたんだよ。ほら入れてくれ。」
私が身を避けて開けた隙間からするりと室内に入り、壁際に追いやった机と椅子を一組引っ張り出すとさっさと施業環境を整えて、じきにかたかたとやり出した。
「勝手だなぁ。」
言いながら、彼のキーを叩く音が存外耳に心地よく、建物の四階にあるこの教室には地上で他の専攻生が捜索に打ち込む声が全く届かないのを少々物寂しく思っていた私は、とうとう彼を教室に留めたまま制作の続きに入った。
昼食で小休止を挟んだとは言え、寝食以外はひたすら石頭か鑿を握っていたこの手は少し打ち込んだだけでじんわりと痛みを思い出す。手の皮はすっかり剥けて、一部は出血しているのを絆創膏と布手袋で誤魔化していたが増していく痛みは集中力を削ぐものである。
「先生のそれ、なんだかここ最近ずっと着てないか。」
「なんだ急に。集中しなよ、日がないんだろ。」
「そんなに気に入りなのか。」
握る鑿の動きの鈍いのを、先生が鋭く見咎める。
「まあ紬なんてのは育てる着物だからね。それに初めての赤城紬だ。気に入りもするさ。」
「特別なものなのか。玉繭がどうとか言っていたが。」
欠けた月の静かな夜に、先生の喜色に染まった声の軽やかな語り口を思い出す。殆ど聞き流していたから内容も碌に覚えていない。
「赤城紬は経糸緯糸両方に玉繭を使っている珍しい紬でね。」
彼は文字を打つ手を止めない。
「その、玉繭とか言うのはなんなんだ。」
「ん?あぁ、双子の蚕が吐いた繭玉の事だ。繭玉の中に2匹の蚕がいて、普通のそれより倍程大きい。玉繭ができる確率はかなり低いし狙って作れるものじゃないんだ。だからこそ経緯両方使うっていうのはまあ贅沢だよな。」
「相当な希少品じゃないか。良いな、そうやってわかりやすく求められるというのは。」
「まあ聞け。玉繭だって最初は最初は屑繭扱いだったんだぜ。」
液晶だけを見つめていた顔をあげる。キーを打つ手を止めて、椅子を引きずって私の作業している横まで歩いてくると、背もたれを抱き込むように腰を落ち着けた。石像の目鼻の無い顔をじっと見上げている。
「2匹が思い思いに糸を吐いているから複雑に絡み合って糸口が分かりにくいので動力では紡げない。必然的に手で糸を引き出す事になる。動力で紡げないものは屑として弾かれて、自分たち用の普段着を作るのに回されてたんだ。」
「価値が、なかったのか。」
「そういう事になるのかな。」
「それが、今では一つの売りになる程に跳ね上がった。」
「光沢も節感も強くて頑丈だった。特に節の出方なんかは、特別好む者も居ただろう。時間が経って、決まり切った価値を踏襲する人がいなくなって、新しい時代の人が新しい目で当時のものを見るんだから、当然評価の仕方も変わる。価値のないものがずっと無価値である保証なんて、誰にも出来ないという事さ。」
「それは……良いなぁ。凄く。」
チャイムが鳴る。石像の顔ばかりを眺めていた先生ははっと立ち上がって荷を纏め出した。
「君が今の話の何処を良いと思ったかぜひ聞きたいが、次のコマに講義を入れているんだ。残念だが失礼するよ。」
慌ただしく教室を出ていく先生の、小さくなっていく足音を聞き届けてから私はまた石像に向き直る。この短い時間で進んだ作業量は微々たるもので、岩の塊だった腕も足もまだその形状は人のそれを模すには程遠い。このまま四肢の造形を進めようとして、私はふと、無のまま放っておいた顔面の造形に手を付けた。
姿見に映る自分の顔は蒼白く、黒地の半袖から伸びる腕の薄皮は骨の形を浮き彫りにしている。鑿を握りしめる左手の指先が白んで震えていた。
大まかな顔の凹凸を彫る。姿見の向こうから冷めた目で見つめる私の表皮の温度感を、私は出来る限り正確に写し取ろうと奮闘した。
「なんで石ころを選んだんだろう。」
美術館に美術品として、普段見向きもされないものを展示する。課題の趣旨はそこにあって、別にそれが粗大ゴミ置き場のガラクタだろうと、タンスの奥底から出てきたサイズアウトした古着だろうと、その定義に添うものであればなんだって良かった筈だった。だが課題の文面はそれを石ころと定義している。決められた定義に、私は反発するように理由を探した。
「だから私は石ころを選んだ。」
彼は、私が彼と言葉を交してくれるのを価値だと言った。拾った石に名を彫るだけで価値になると言った。彼にとって己と対等に話ができる一番身近な人間が私で、だから私には唯一性の価値がある。そんな私が類似する数多の中から何かを感じて選び取った石ならば、手を加えずともそれはもう価値を持つものである。
きっと、それが今の所の正解なのだ。だから、私は私を写した。
先生の近くに私以上の誰かが来たとき、私の価値が暴落する。来るかどうかも分からない未来に備えて、価値のある状態の自分を写しておこうと思った。己を無価値だと信じていた私が、彼の言葉で自分の価値を自認した、その一連の結果そのものを作ろうと思った。美術館の場所性に依存しないものになってくれると願いを込めた。元は価値を持っていた、今は失ったものではなく、最初から微塵も価値のなかったものにしか託せない願いだった。
私は、けれどどこか、ずっと納得していない。
あの晩酌の夜、私は先生の問いを食い気味に否定した。
価値が欲しい。
誰が見ても納得できるような。誰にも侵害されないような。
何より私に迫害されても揺らがないくらい、絶対で、唯一的な。
玉繭、のような。
屑繭から始まり、現在では着物に高額の値をつける程鮮やかに返り咲いた、玉繭のような。
削り出したばかりの、灰色の顔と目が合った。
*
早朝、僕は彼がひたすら引きこもっていたあの教室に向かっていた。自分の課題も段落着いて、彼の課題も大詰めに入る頃だろうと、いつも死にかけている顔が更に干からびて生気を一滴も失った一等かわいそうな顔になっているのを拝んでやろうと意気込んでいた。
長く伸びる廊下は講義を待つ学生達で幾らかの人通りがあった。平日の、天気の良い朝であった。朝に食べたハニートーストと新しいミルで挽いたコーヒーとの香りがまだ僕の鼻腔を満たしていて、僕はほんの少し足取りを軽やかにして廊下を進んだ。
彼がいるであろう教室の前に立つ。いつも煩く聞こえてきていた石を打つ音が、今日は微塵も聞こえない。
そっとノブに手を掛ける。施錠はされていなかった。換気をしていなかったのか、室内の空気が動く感覚が気持ち悪い。小言でも言ってやろうと足を踏み入れた室内には誰もおらず、ただ中央に白い大きな繭玉が聳えているだけであった。
丁度、男性二人分をすっかり包めそうなくらいの繭玉だった。
「ほう、気取ったなぁ。」
鼻歌混じりの言葉は誰に届く事もなく。
教室の端に寄せられた机と椅子を一組引っ張り出して荷物を置いた。パソコンを取り出して設える。
繭玉の表面はカサついていた。糸の間に爪を立てて引き裂いたら、笑える程簡単に穴が空いた。
「おはよう君、ちょっとそこ借りるぜ。課題の締め切りが近くてな、今から場所を探しにいく時間も惜しい。」
言い捨てて、僕は椅子に深く座りこんだ。頭の中で組んでいた流れを液晶に写していく。文字列を並べては消して、秒針の動く音だけが教室に響くのが心地いい。
「まあ。」
繭玉の向こうに広がる空は曇りがちの晴天だった。
「玉繭ってのは紡ぎ手と織り手と、仕立て師がいて、漸く価値が付いたんだぜ。」
玉繭 海崎しのぎ @shinogi0sosaku
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