彼が〝妊娠〟したのは、秋祭りが終わって少し経った頃だった。


 予兆はあった。執筆の合間にテラスでぼんやりと庭を眺めているかと思ったら、目の端に光るものを見つけることがあった。何かが、彼の中で暴れ回っているみたいに見えた。

 ある日、彼は仕事中に口元を押さえると、トイレに駆け込んで吐いた。

 頭痛や腰痛、背中からさらには下腹部の痛みを訴えるようになった。

 夜も、それまでとは様子が変わった。

 それはまるで、〝つわり〟のようだった。

 そして症状が出始めてから一週間ほど経つ頃には、明らかにお腹が膨らんで見えた。

 何かが彼の中に着床し、根を張っていた。

 

 *

 

「まず、妊娠の可能性はありません」


 問診と触診を終えたあと、志保さんは梅の木についたカイガラムシを見るみたいな目つきで言った。


「子宮がないので下腹部の弾力性は通常です。筋肉のこわばりが張りを感じさせているのではないかと思います。ただ――」


 膨らみの大きさは、それだけでは説明できないと付け加えた。だからその後、超音波検査が行われた。

 子宮は当然映らず、代わりに腸のガス貯留や内臓脂肪の偏った蓄積が指摘された。

 おかしな話かもしれないけれど、わたしにはそのガスの影が、〝胎児の輪郭〟のように見えた。

 血液検査の結果、hCG(妊娠ホルモン)は陰性、ただプロラクチンが基準値の3倍、コルチゾールも高値で出た。


「医学的に説明不能な要素もありますが、まずはクーヴァ―ド症候群――俗にいう〝想像妊娠〟の可能性があります」


 それから彼女はわたしを一瞥した後、彼をまっすぐに見つめながら問うた。


「妊娠を強く望んでいますか? または、妊娠に関して不安がありますか?」


 冷たい手で背後から首根っこを掴まれた気がした。と同時に、膝の上で強張っていた手に温もりを感じた。彼の手だった。隣を見ると、彼はわたしの方を見て穏やかな笑みを浮かべていた。いつもの、微笑み。

 

「なにも不安がないと言えば、嘘になるかもしれません。でも、強迫的なものを感じているというようなことはありません。いまはふたりで、ゆっくりと考えているところです。……僕たちは、助け合うことができます」

 

 わたしは言葉に詰まって、彼の手をきゅっと握った。

 彼は事故で奥さんを亡くしている。その時、彼女は妊娠中だった。

 わたしは、若菜を出産した。そして今年で三十九だ。

 それでも、彼の表情はそんなことを一切感じさせなかった。

 ――。


 彼の態度に、志保さんも表情を緩めたようだった。

 結局、経過観察をしながら、後日改めてカウンセリングを受けることになった。

 

 

 夜、彼の作った夕食を、わたしはモリモリ食べた。

 栗ご飯に、しめじと豆腐のお味噌汁。秋刀魚の塩焼き。ほうれん草のおひたしに、茄子の煮びたし。赤カブの漬物。

 どれも、美味しかった。いつも通りに。

 ……まぁ、赤カブの漬物はわたしが漬けたやつなのだけど。

 

 ふたりで洗い物を終え、彼の為にハーブティーを用意してから、今日はいつもより早めに入浴することにした。

 ティーポットの中で、ハーブがゆっくりと開いていく。

 薄い琥珀色の水面に、仄かに赤みが差し始める。レモンバーベナと、エルダーフラワー、それにローズヒップ。

 鎮めすぎず、昂らせすぎず……それくらいが、今夜はちょうどいい。

 

 お湯の中に肩まで沈め、足を伸ばす。薄く目を閉じ、息を吸う。ミモザの香りがふわりとほどけ、体中に行き渡る。

 バスタブの縁に置いたアロマオイルは、特別な時のために選んだもの。

 甘すぎず、青さを残した、彼が好みそうな香り。

 もちろん、わたし自身のためでもある。

 彼に触れたくなる夜は、わたしの感覚も、若返るような気がする。

 

 髪を洗いながら、ぼんやりと今日の彼のことを想い出す。

 夕暮れ時、書棚の整理をしていた後ろ姿。

 わたしがいつも適当に突っ込むから、彼は時々それを整理してくれる。

 首筋に、うっすら汗をかいているのが見えた。

 でも、気づかないフリをした。

 不意に、手の中で泡が蕩ける。

 ……どうしようもないな、と自分に苦笑する。

 

 バスタオルで体を包み、湯上がりの肌にひやりと冷たいミルクローションを伸ばしていく。

 鏡に視線を移すと、頬が紅い。わたしはそれを、指先でそっと押さえた。

 シルクのスリップを頭からかぶる。燈子が以前、プレゼントしてくれたものだ。

 宵の空のような、薄い菫色。背中が開いていて、裾にあしらわれたレースが、腰骨のあたりで控えめに揺れる。自分では選ばないような、攻めたデザイン。

 ――彼に見られたい。

 いつもはどこか裏腹なわたしの気持ちが、今日は妙に素直だった。


 ガウンを羽織り、部屋の照明を眩しくない程度に落とす。

 彼は、リビングで本を読んでいるだろう。ページを繰る微かな音と、カップの置かれる小さな音だけをともがらにして。

 わたしが髪を乾かしたり身支度をしてる間に、彼も入浴し、先にリビングで寛いでいる。

 それが、わたしたちのルーティーン。


 ワインを開けることにする。彼の好きな白。シャブリ・プルミエ・クリュ。

 部屋の温度が上がりすぎないようにキッチンの小窓を細く開けると、薄絹の夜風が頬を撫でる。


 ゆっくりと歩いてリビングに向かう。

 踵からフローリングの軟らかい木を踏む音が、いつもに比べ、もったいつけたように静かなのは、自分でもわかってる。

 彼が顔を上げる。カップに手を添えたまま、言葉はない。眼差しだけ。それで、十分だから。


「……少しだけ、飲まない?」


 そう言って、グラスをひとつ差し出す。

 渡す瞬間、指先が重なった。彼の指はいつも、春の終わりの石みたいに、静かで温かい。それを伝えたら、春が嫌いな彼は、なんて言うだろう。

 わたしが手を離したあと、グラスの脚が彼の手の中で揺れたのを見て、わたしは満足する。

 グラスを置く音が、夜の弦を弾くように、高く響いた。

 わたしはそのまま、ソファに腰を下ろす。

 彼の隣。触れない距離。けれど気配は、わかる距離。

 彼からは、わたしと同じ匂いがした。


「お風呂、ゆっくり入れた……?」


 彼はボトルの栓を開けながら、ただ静かに頷く。

 その無言の返事が、なぜか嬉しい。


「……今日、ちょっと暑かったものね。首の後ろ、汗かいてたでしょう」


 あのとき気づかないふりをしたことを、今さらのように口に出す。

 僅かに驚いたような、彼の顔。

 わたしの唇の端が持ち上がっていること、気づいてるだろうな。

 

 彼が注いでくれた二人分のグラスを重ねると、留め金の外れるような音がした。

 口の薄いグラスを唇に運ぶ。舌先に淡く酸味が残る。

 それを味わいながら、ゆっくりと視線だけをズラして、彼を見る。

 彼も、こちらを見ていた。

 グラスを置いて離した左手の指先が、彼の手の甲を掠める。わざとではない。

 でも、きっと、伝わってる。


「……今日は、夜ふかししても、いいよね?」


 その彼の声は、いつもより少し低く、少し甘かった。

 今度はわたしの方が、無言で頷いた。

 どうしてだろう。

 わたしたちは時を重ねれば重ねる程に、初心になっている気がする。

 

 静かに時が流れ、融けていった。

 彼の手にしたグラスの中で、麦わら色のワインが揺れる。

 ふたりで、するすると口に運ぶ。香りはもう、部屋に馴染んでいる。

 彼の、汗の匂いも一緒に、熟していく。


 グラスを置く。

 重心を傾け、立ち上がる。

 レースの裾がゆれて、彼の目が、一瞬だけそこに留まるのを感じた。


「……」


 ゆっくりと背を向ける。振り返らない。照明のスイッチには触れない。音も光も、残していく。

 視線を感じながら部屋を出て、階段を上り、二階の寝室へと入る。

 ドアは――閉めない。


 そのまま、ベッド脇の間接照明だけを点ける。

 ミルク色の光が、壁にぼんやりと広がっていく。

 淡く、呼吸をするような灯りだった。


 鏡の前で、ガウンを脱ぐ。

 スリップの肩紐が、片方だけ落ちる。

 直そうとは思わなかった。鏡に映った自分の輪郭が、まるで他人のように見えた。


 ベッドに腰を下ろし、足を上げる。

 白いシーツに包まれた足先が、冷えていた。

 誰かに温められることを待っているように。

 ――誰かに……?

 ……どうしようもないな。

 背後で、廊下の床がわずかに軋んだ。


 

 *


 

 彼との満たされた時間の後、わたしは深い海溝のような眠りの淵に落ちていた。

 ――饐えたような、においがした。

 気がつくと、わたしの目の前には彼と、顔の見えない影のようなものが互いに向き合うようにして座っていた。

 これは彼の夢なんだと、すぐにわかった。ただ、わかった。

 ふたりは、アンティーク調の安楽椅子に前屈みに座っていた。


「もう、分かったろ」

 

 影が声を発した。

 

「みんな、安全なところから惨さや醜さを眺めるのが好きなんだよ。〝代償〟に飢えてるんだよ」

 

 その言葉は、呪詛のようだった。

 

「祈りなんてまやかしだ。お前の言葉なんて糞のツッパリにもならん。すべて、誤魔化しだ」

 

 影はさらに、彼を追い詰める。

 

「お前の葛藤なんて、なんの意味もない。ご苦労なことだ。自業自得だ。善人面はやめろ。やさしいフリはやめろ。もう疲れたろ」

 

 影は、彼の足下から伸びていた。

 

「……いつもみたいに言い返さないのか?お前の言葉はどこにいった?」

 

 その影は、少しだけ哀しい顔をした。

 

「……お前の言う通りだ」

 

 彼は言った。


「だから、頼んだよ。それが、お前の役目だ」

 

「……なにを言ってる……ついに狂ったのか……?」

 

「僕がそれをするわけにはいかない。誰かが僕を自分の不幸の証明に使ったのと、同じことをするわけにはいかない。負の再生産をするわけにいは、いかない。負の連鎖は、僕が絶つ。そしてなにより、こんな僕に言葉をかけてくれた人々に対する責任がある。僕は、僕のままでいたい。……ごめん」

 

 それは、いつもの彼のはずだった。

 

「だから、みんなにはお前が応えてくれ」

 

「……は?」

 

「僕はいまから、お前……いや、君を産み堕とす。君は、すべての美しいものに唾を吐きかけ、嘘っぱちだと石を投げ、組み伏せ、凌辱し、踏み躙り、嘲笑う存在だ。それが、君だ。そうだろう? これまでの通りだ」

 

「……そんなのは出産じゃあない。〝堕胎〟だ」

 

「そうかな。僕にはどっちでも同じに思える。恨んでくれて、かまわない」


 彼の眼は、わたしが見たことのない色をしていた。


「さぁ、たらふく食わせてやってくれ。〝苦悩の梨〟で喉を開き、漏斗を咥えさせ、お腹いっぱいにして差し上げるんだ。君好みに。……でも忘れないで。君が為すのは〝文学〟だ。〝ホラー〟じゃない。これは、だよ」

 

「……」


 彼はおもむろにシャツのボタンに指をかけると、上から順に解き始めた。

 そうして露になった、膨らんだお腹の中央――臍に右腕を突き立てた。

 なにかを探るかのように、搔きまわしていた。

 ぐちゅぐちゅと、嫌な音がした。

 それから、何か細長いものを抜き取った。

 赤黒い血に塗れたそれは、ナイフだった。

 彼は椅子から立ち上がり、屈むと、爪先にそのナイフの切っ先を添えた。

 すっと音もなく刃があわいを薙ぎ、臍の緒を絶つように、影を分かつ。

 その時、彼ははっと何かに気づいたように首を回した。

 わたしと、目が合う。

 

 ――やめて。


 そんな風に、笑わないで……。


 わたしを〝透明〟にしないで……!


 

 跳ねるように飛び起きた時、世界はまだ夜だった。

 わたしの全身は、雨に濡れたみたいに汗びっしょりだった。

 堪らず、毛布を抱き寄せ、胸に抱えた。

 カタカタと、音がした。

 わたしの歯の音だった。

 隣を見ると、彼はわたしに背を向けて寝ていた。

 表情は見えない。

 寝てる……?

 わたしが彼の肩に触れようと手を伸ばしたその時、それは起きた。

 間接照明に照らされて伸びた彼の影が一瞬ぴくりと蠢くと、そのままと彼を抜け出て、そのままどこへともなく去っていった。

 しばらくして、彼がむくりと身を起こした時、わたしはベッドの隅で震えていた。

 彼の頸がゆっくりと回り、わたしを捉える。

 わたしはその時、


 ――彼が怖かった。

 

 彼に対してそんな感情をもったのは、初めてのことだった。

 そんな彼を見ていると、わたしは、自分が半分になったような気がした。

 どんどんと透明になるような気がした。

 わたしの輪郭がぼやけていく。

 でも、よく見ると彼は、涙を流していた。

 わたしは恐る恐る近づき、その涙に触れた。

 それはまだ、温かかった。

 胸の奥が軋む。

 わたしは彼の頭を抱き寄せた。

 そのまま彼の口元に乳房を押し当てると、やがて彼の熱を感じた。

 彼の口の中も、温かかった。

 


 

 malitia・了

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