狐男
「袖口から、ナイフが見えてるわよ」
不意に、耳元でそう、囁かれた。
キーボードの上で強張っていた私の右手に、そっと連れ合いの手が添えられていた。
買い物で街に出ていた彼女の気配が、香りとなって背後に流れ込む。
濡れた梢に咲くラベンダーの影に、わずかにパウダリーなアイリスが混ざる。肌の温もりでやわらかく膨らんだその香りは、秋の午後の白い光のように、凝り固まった私の神経を
深く、息を吸う。
吐く。
隣を見ると、目が合った。
「ありがとう」
彼女の目が細められ、すっと身を引いてく。
名残惜しさがほつれた糸のように伸び、心臓を締めつける。
「なにか、淹れるわ」
先を越された。
右の手の平で、
程なくして運ばれてきたティーポットからは、鼻先をくすぐる透きとおった柑橘と緑の香り。
彼女いわく、午後のハーブティーは〝思考の掃除〟なのだと言う。
その日はレモンバーベナとペパーミントに、ひと摘みのローズマリー。
心が丸くなる。
私はお礼に彼女の肩を揉んだ。
イタタ、と小さく悲鳴をあげながらも、もっとと強請られた。
私が仕事や趣味で書く言葉には、しばしば棘が出る。そういう時、連れ合いは、普段は袖口に忍ばされている私の言葉のナイフが覗いていると言って釘を刺す。
ただ、指摘されるのは棘がある時ばかりではない。
よく、『男は論理の生き物で、女は感情の生き物』というような言説がある。私としてはくだらないステレオタイプとして冷めた目を向けていたが、最近少し、見方が変わった。それはある意味で、事実やもしれぬ、と。一見、男女の対照性を示す言葉のようでいて、実のところは皮肉である――そう捉えると、しっくりときた。つまり、男という生き物が「論理」を武器にするしかないというある種の貧しさを示しているように感じるのだ。論理で、言葉で、戦車が人々の生活を踏み
ビジネス現場もまた男の論理の支配する場だとすれば、前職で飛び交っていた『言語化しろ』という表現には、当時からなんともいえない乱暴さや幼児性を感じた。私にとっての言語化というのは、もっと切実な文脈で立ち上がるものだった。まだ言葉になっていないもの、あるいはなり得ぬものをそれでも言葉にしようとする試みだった。そこには常に、敬意と、痛みと、挑戦が併存する。だがビジネスの場で用いられる「言語化」は、私の感覚からすればただの具体化や単純化の域を出ないものだ。でなければ、相手を欺くための装飾だ。吐き気がする。……つまり、こういうところだ。
向かいに座る連れ合いの肩越しに、窓の外に目をやった。
裏手の石垣に絡みついた蔦が、少しずつ色を変えていた。
ひときわ赤い葉が、一枚だけ風に攫われて、ゆっくりと視界を揺らし、舞い落ちる。
――言葉になる前に、何かが終わってしまう。
そんな気がした。
宵、連れ合いは藤鼠の小紋に、更紗模様の帯を結んでいた。
かつて身に纏っていた白と朱とは違う、抑えた色と異国の文様。
背中の帯を少し緩める手に、私が手を添えると、彼女はそっと肩をすくめた。
「……ありがとう。なんだか、慣れなくて。自分で選んだのに」
その声はまるで、少女のようだった。
髪を結い上げたうなじに、赤銅色の
すごく綺麗だ、と私が言うと、彼女は頬を染めた。そして、あなたも素敵よ、と返してくれた。気恥ずかしいやりとりだ。でも、言葉にした方が良いこともある。
ちなみに私の方は藍鉄の着流しに、墨の羽織を重ねていた。同じ墨黒の細かい麻の葉の柄の帯には、藍鼠と山葡萄色の撚り糸が混ぜっている。彼女と一緒に選んだものだ。試着した際、似合ってるわ、と静かに零した彼女の表情が忘れられない。馬子にも衣裳だと自虐するのを忘れたほどに。
見つめ合い、そっと彼女の肩に触れると、ざらついた生地の奥に甘い骨の硬さを感じた。
良い形をしている。
心が燻る。
……いけない。また、語り過ぎそうになっている。
そして互いの炉に本格的に火が入る前に、私は身を引く。
手を離した時、姿見の隅で、何かが揺れたような気がした。
気が昂っているのかもしれない。
今日は、秋祭りだ。
ふたりで家を出る頃には、既に南東に月が見えた。
虫達の求愛の声の中、とっぷりと暮れた道を並んで歩く。
特に何を話すでもなく、互いの草履の音を聴いた。
彼女の手には、巾着。生成りの晒木綿に藍染の更紗模様があしらわれている。大切に使い込まれてきたことが風合いから見て取れた。ぽてぽてと楽し気に弾んでいる。
巾着の口には、飴色に磨かれた木の根付が結ばれていた。鈴が揺れるたび、遠い日の約束が、頭の中で震えるような気がした。
約束……なんの約束だろうか。
「おいしそう」
声がして隣を見ると、連れ合いが月に手を伸ばしていた。
黒々とした木々の上に浮かぶ、僅かに欠けた月。
栗みたい、と彼女は言った。
たしかに、満月の前の月は、豆名月とも呼ばれる。
彼女は、すっと月を掠めとるような仕草をすると、その手をそのまま口元に運び、もぐもぐと
ちらり、とこちらを見る。
――帰るところが、なくなっちゃったね。
そんな言葉が、私の口をついて出た。
彼女は呆気にとられた様子で、足を止めていた。
私はなんだか気恥ずかしくなって、頭を掻くと、前を向いて歩を進めた。
鈴の音が、ついてきた。
境内へと続く道は、既に灯籠に照らされていた。
夏のような喧騒はない。
屋台の数もまばらで、どれも慎ましやかに、淡く浮かび上がっている。
割れ目から黄色い実を覗かせた、赤黒い焼き栗の香り。
干した柿のような、ねっとりと甘い飴の匂い。
そこに、すんとした秋の夜気が差し込む。
石段のところどころに濡れた落ち葉が貼りついていて、踏むたびにしっとりと冷たい感触が返ってきた。
すれ違う子どもたちは皆、口数が少ない。
提灯を握りしめ、父や母の着物の端をそっと掴む。
拝殿の前に着いた時、耳に届くのは、風に揺れる注連縄のぎしりという音と、中庭の舞台の方から響いてくる神楽笛。
連れ合いは、挨拶をしてくると言って社務所の方へと歩いて行った。
彼女の手の中の巾着が、かすかに揺れる。
鈴の音は不思議に遠く、過去から遅れて届いた手紙のように響いた。
他に知り合いがいるかと思って、私は中庭に足を運ぼうとした。その時だった。
首筋をぬるりとした風が撫でた。
背が粟立った。
振り返る。
三の鳥居と二の鳥居のちょうど中央。
それは、人の流れの只中に、墨で塗りつぶすように立っていた。
世界に穴が空いていた。
それ……否、
彼は、身動きひとつしなかった。そしてまっすぐに、私の方を見ていた。
ごくりと、喉が鳴った。私は視線を合わせないように、彼の方に歩み寄った。一歩ずつ、着実に。気にしない風を装って、すれ違おうとした。焚き込めた
「元気にやってるみたいじゃあないか」
すれ違いざま、そう声をかけられた。私は振り返らなかった。汗が耳の裏を伝った。
前を向いたまま、どこかでお会いしましたか、と問うと、彼は背後から面を私の横顔に擦り付けるように身を屈めた。
「名乗るほどのものでもないさ。でも強いて言うなら……
低く、
狐男。それが、彼の名なのだろうか。
あいにく私は、狼男と鹿男と羊男しか知らない。そう告げると、狐男と名乗った男は引き攣ったような笑いを漏らした。
「生きているみたいな顔をしているねぇ」
ああ、そうさ。私はいま、ようやく「いま」を生き始めている。その感触を、掴み始めている。
「語ることで……かい?」
はっとして私が振り向いた時、そこにはもう何もいなかった。
りんご飴を手にした少年が、私のことをぼんやりと見つめているだけだった。
……りんご飴か。悪くない。
私も、我がミスりんご飴の為にひとつ買うことにした。
口の周りを飴で赤くしながら、苦労して飴を食べる彼女を眺めながら、私たちは帰途についた。
夜、私はなかなか寝付けなかった。
狐男の影が、頭から離れなかった。
私はキッチンでコップ一杯の水を飲み、洗面台で冷たい水で顔を洗った。
タオルに顔を埋め、大きく五回、深呼吸をする。
……大丈夫。
顔を上げる。
鏡の中に、そいつはいた。
狐男だ。
ニヤニヤと嗤っている。
顔は見えないが、そんな気がした。
私は恐怖より先に、怒りを覚えた。爪が食い込むほどに、拳を握り締める。
「なぁ、本当は気づいてるんだろう?」
狐男が語りかけてくる。
「君は自分の痛みを言語化することで、他人に差し出している。でも、そのことが君を孤独にしているんだって」
足元が崩れるような感覚がした。
「それは自己開示であると同時に、〝自己消費〟だ。本音を隠し、蔑ろにして、輪郭を撫でるように意味やコンテキストの整理に終始する。だから、本当の君は決して誰にも届かない。それは水で出来た器に水を注ぎ続けるようなものなのさ」
私の口からは、知らず、笑いが漏れていた。
震えが止まらなかった。
壊れたように、笑うしかなかった。
泣くように、怒るように、嗤った。
そんな私に対して、彼はさらに続けた。押し殺した愉快さが隠しようもないという風に。
「君は自分を理解して欲しいと強く希求しながら、同時にどうせ理解されないと絶望しながら語っている。相手が君を否定する前に、先回りして語る。自分の語りに酔いながら、同時に醒めている。だから語った後に、深い竪穴みたいな虚の前に佇むことになる。それを繰り返す。どんどんと、透明になる。自己を持たないがゆえに、言葉で自分の輪郭を描き続けようとする衝動――しかしその語りが、かえって自己をすり減らし、他者から遠ざけてしまうというパラドクス。おかしな話もあったものだ。あぁ、君は大好きだったねぇ。おかしな話がさぁ」
狐の面が、息が当たるほど間近にまで近づいてきていた。
――哀しいねぇ。
刹那、狐男の節くれ立った指が、眉間を貫いて私の頭の中にぬるりと沈む。
全身から力が抜け、虚脱する。
彼の声が、頭の中に響く。
――ねぇ、君だよ。
――俺が語りかけているのは。
――そう。
――そこにいる、〝おまえ〟だよ。
――やめてしまえ。
――言葉を紡ぐことなんて、やめてしまえ。
――お前は自分を肯定して欲しいだけだ。
――そうやって誰かを傷つけ続けるだけだ。
――お前はどこにもいない。どこにも、行けやしない。
ゴトリ、と音がした。
足元を見ると、さっきまで私の頭を掻きまわしていた腕が二の腕で断たれ、転がっていた。
すぐ傍の薄闇の中に、ひとりの少女が――いや、連れ合いが立っていた。
手には包丁。
その目は虚ろだった。
私は正面の相手を見据えた。
「……お前は、誰だ?」
相手は、何も言い返さなかった。
――沈黙。
「あの人は、そんな風には嗤わなかった」
そう、知っている。私は本物の狐男を知っている。
何の証拠も、確かな記憶もない。でも、
彼は、孤独と、痛みを負っていた。
残酷な世界の歯車となってもなお。
それは現実ではないのかもしれない。
でも、否定させない。
それこそが言葉の力であるはずだ。
不確かな〝現実〟を切り裂き、あるべき実存を掬い上げるための力だ。
だから、私は言う。
「お前は、狐男ではない。紛い物だ」
それは断定のカタチをした、ほとんど祈りに近しい言葉だった。
それでも相手は、瞬く間に、煙のように闇へと融けていった。
私は連れ合いの手をそっと握ると、ゆっくりとその鈍く光るものを取り上げた。
と同時に、糸の切れた人形のように、彼女は脱力した。
そんな彼女を抱え、二階の寝室まで運んだ。
私は再び一階まで降りると、包丁を念入りに洗ってから元あった場所に戻した。
それから庭先の椅子に座って、隅の暗がりを見つめた。
奴の言っていたことは、すべて真実だった。
だからこそ私は、言葉にならないものを言葉によって彫り現そうとする矛盾を、時には言葉にしないことの必然を、引き受けていかねばならない。
論理的統御と情動的共鳴の相克。それもまた、
透明な戦争だ。
抗わなければならない。
「わからなさ」を受け止め、語りの彼岸で息をするために。
そうなんだろう?
――狐男。
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