星Ⅵ
『私にとって確かなことなど何もないが、星の輝きが私に夢を見させつづけるのだ』
— フィンセント・ファン・ゴッホ
少しずつ風に冷たさが混じりはじめた、秋の終わり。朝の光は、まだ柔らかい。
車窓から吹き込む澄んだ空気の中、紅葉の赤が、棚田のリズムが、水面の眩さが、視界から体へと浸透し、骨の奥を軽やかに叩いていく。
三人はまだ、スイッチが切り替わっていない。
同じように車窓から外を眺めたり、文庫本に目を落としたりしている。
でもきっと、それぞれに胸に思うことはある。
バスの最後列、若菜は膝の上で、スケッチブックを抱えている。車窓の
ふと、微かに唇が動く。雲の形でも、確かめているみたいに。
連れ合いはいつものように髪をアップに纏め、薄く化粧をしている。無防備にその横顔を私に晒しながら、詩集に目を落している。
口元に、ときおり穏やかな笑みが浮かぶ。なにか心に触れる言葉でも見つけたのだろうか。私は、そんな言葉に嫉妬する。
『空からやってきた魚』――薄墨色の表紙は、今日の空よりも深く、冷たかった。
「空には、いくつの名前があるんだろうね」
その語り口は、どこか少女のようだった。
連れ合いはそう言って、ビナードの詩集をぱらぱらと捲る。
「星が語りかけるときの空も、雨がわたしたちを撫でるときの空も……名前は違う気がするの」
そんな何気のない彼女の言葉が、私の胸に鋲を打つ。
空に名を与えること。カタチのないものに言葉を与えること――それはきっと、誰かに「物語」を贈るということと、似ている。
バスに揺られること、二時間。山と水に囲まれた風通しの良い盆地都市、穂波市に辿り着く。
駅前には近代的なバスターミナルと大型商業施設、図書館、美術館などが並ぶ。
整然として、モダンで、機能的だ。
そこを抜けると、古い町屋やレトロなカフェ、ギャラリーが点在する旧市街エリアとなる。町屋の軒下には風鈴が揺れ、日差しがほんのり色を抜いた暖簾を透かしていた。人の姿はまばらで、コーヒーの香りや音楽が、そこかしこの細い路地から流れ出ている。
そして、商店街を抜けた先、工場跡地を利用したリノベーション施設が、若菜の通うアートスクールだ。
中に入ると、天井が高く、大きな窓からは山が見えた。あの、匂いがした。乾いたアクリル絵の具と木屑の粉っぽい香り、紙の匂い、それにコーヒーの残り香が混ざり合ったような、一種独特の空間だ。壁際には乾きかけの作品が雑然と並び、浜に打ち上げられた半魚人みたいに無言の呼吸をしていた。その中で、黄色い糸だけで構成された巨大なオブジェが、ひときわ異様な存在感を放っていた。なんだか、バナナみたいだった。きっとなにか深淵な象徴性があるのだろう。
それら作品たちのぎょろぎょろとした視線を感じながら、ぎしぎしと軋む木の廊下を進む。薄暗い廊下に響く足音が、私たちを拒むようであり、吞み込もうとしているようでもあり……そんな、矛盾した感覚があった。
ツナギやエプロン姿の学生が行き交い、カフェスペースでは作品について語り合っている姿が見られた。視線を感じた。じろじろ、というほどではないが、私はどこか『物語の外』にいるような気持ちになった。
……尻尾でも見えているのだろうか。
さらに進んだ廊下の奥に、仄暗いスペースがあった。
他の展示室とは明らかに雰囲気が異なっている。
エントランス、壁に貼られた手書きのサインにはこう記されていた。
『Memoria in filo, oratio in nodo.
――記憶は糸に、祈りは結び目に。』
私たちは、自然、足を止めた。
目の前に、薄い膜が張っているような、そんな気配があった。
最初に足を踏み出したのは、若菜だった。
小柄な体で、少し緊張したような、でも決して怯んでなどいない――そんな背中。
それを見ながら、私たちも続く。隣で、連れ合いが小さく息を飲む音がした。
その空間に一歩足を踏み入れた瞬間、音が吸われるような感覚があった。
天井は4メートルほどだろうか、白壁の空間。天窓からやわらかく光が降りている。
視界を埋め尽くすように垂れた無数の糸や紐……いや、何か音がする。
――シャラシャラ、
――サリサリ、と。
よく見ると、紐の中にビーズが混じっているようだった。
どこからか吹き込む風に微かな音を立て、光を反射している。
空気のざわめきすらも、捉え、抱きとめてしまうかのように。
荘厳で、繊細な世界――それは、星の胎内にいるような心地だった。
足元には柔らかなマット。歩くたびにきゅ、と控えめな音がして、それがまた周囲の静けさを際立たせる。
天井を見上げると、二重の円が、ゆるやかに傾いて重なっていた。
そのせいだろうか。最初それら全体が、わずかに回転しているような錯覚を覚えた。
内円と外円のあいだから垂れ下がる紐――それらは、すべて色も質感も異なっている。
布、絹糸、裂いた麻、
「こっち」
若菜に手招きされる。
「見てみて」
誘われた場所から、若菜が指さす方を見る。
――a――m――o――r――
――amor.
「――愛」
隣を見ると、若菜が、はにかむような笑みを浮かべていた。
動くたび、視点を変えるたび、紐と紐の重なりが変わり、英語、日本語、ラテン語――さまざまな言葉で織られた想いが、浮かび上がる。
――freude
――忧伤
――आशा
――جرح
――연애
――гнев
――odio
――perdón
――guilt
それらの言語と意味の対応は、キャプション台に置かれた若菜のコンセプトノート――表紙には『w: connection』と書かれている――そこに、記されていた。
見る者の位置によって、読める文字も、響く感情も変わる。その道標として。
ビーズが反射する光――照明が調整されているのか、それは夜空に浮かぶ星そのもののように、目を奪った。
私はまた、郷愁をも覚えていた。
はじめて、若菜と出会った雑貨屋で、彼女は海原から浮上する鯨のように、ビーズのカーテンをかき分けて私の前に姿を現した。
座敷童かと思った。
――懐かしいな。
誰かがそっと手を触れると、糸が揺れ、結われたビーズ同士が微かに触れ合って、チャリリ……と音を奏でる。
その時、私は思わず、若菜の方を見た。
音が、彼女のナカから響いてきた気がしたから。
やさしさと、繊細さと、知性と、僅かに残るあどけなさを宿した横顔。
そんな若菜が私の視線に気づく。近づく。手を取る。
円の内側へと、導く。
「内円は〝惑星領域〟外円は〝太陽系の果て〟」
若菜が、唄うように、誰にともなく語る。
つまり、この糸やビーズたちは、オールトの雲を揺蕩う、彗星。氷の欠片。あるいはなにか、触れられないもの。遠きもの。
そんな知識もまた、星を眺めていて知ったことだ。
中心に入ると、世界はまた異なる様相を見せる。
――安心する。
外から眺めていたときには感じなかった、包み込まれるような静穏と、一抹の寂しさ、頭の奥をくすぐられるような――
……これは、なんだろう。
……そうだ。
……これは、きっと――好奇心。
ここには、若菜の、言葉にならない感情たちが、紡がれている。
そして不思議と、若菜のものだけではない、語られなかったすべての物語が、彼女の感情に惹かれて、集まってきているような気配すらあった。
ふと、熱を感じる。現実的で、輪郭のはっきりとした、生々しい温かさ。
いつの間にか傍に来ていた連れ合いが、私の腕に身を寄せていた。
私は何も言わず、その手をそっと握る。
いま、三人で、手を繋いでいる。
一度目を閉じ、深呼吸をする。
作品を見つめる。
――きれいだ。
美しかった。
装飾のためのものではない。
垂れ、重なり、編まれたもの。
それは、感情の襞。感情の枝。感情の核。
それが心を震わせ、美しさを魅せる。
時に重なり、時に絡まり、時に解ける。
そこに宿る、希望、夢、悦び、寂寥、痛み……赦し。
決して美しいと言える感情ばかりではない。
――それでも、それを眼差す意思に、横顔に、美しさは宿る。
いつの間にか若菜は少し離れた壁際に立って、私たちを見守っていた。
恒星間空間から、オールトの雲を越え、私たちを眼差している。
その表情はどこか遠くを見つめていて、けれど、今たしかに、ここにいる。
たぶん、ミラが残したものと一緒に。
改めて展示スペースを見渡すと、二か所、アクリル製の薄い台座が配され、その上にキャプションらしきものが置かれていた。
さっきはつい展示物に目を取られてしまったが、ひとつは入り口近く、もうひとつは奥にあった。
私は移動し、入り口近くのものを改めて見てみた。
リソグラフ印刷された詩文。
そこには、こう記されていた。
******
この空間は、あなたの内側にある〝感情の星図〟です。
音は、誰かがそこにいた証です。
紐は、誰かに触れようとした痕跡です。
感情はいつも、ほどけかけの言葉と、すこしの勇気で、きっと結び直せる。
――名もなき星たちへ。愛をこめて。
Sera.
******
私はひとつ、溜息をついた。
頬が緩む。
「あれ、お母さん、ペンネーム変えた……?」
またいつの間にか傍に来ていた若菜が、声を上げる。前までは、〝Anon〟だったよね、と。ギリギリまで準備にかかっていて、若菜も落ち着いて見る機会がなかったのかもしれない。
連れ合いは目を細め、言う。
「ちょっと、ね」
奥のキャプションにも足を運び、見てみる。
******
《星の輪郭》――Contour of a Star
詩:Sera.
ことばにならない想い
それをあえて、ことばに落とすこと
それはわたしの生業であり、誇りです
それでも、どうしても、
零してしまうものがある
ひとは、
ことばにならない想いを、
糸にして編みはじめる
信じたかった光、信じられなかった夜
それでも、ここにこうしてあることが、
あなたが、わたしが、きっと在ったことの証
ふれることのできない言葉たちが、
いま、ほつれ、絡みあい、あわいにゆれる
あなたが見上げるたびに
それは、ひとつの星になるでしょう
******
『Sera.』
それは連れ合いの、新しいペンネームだった。
『宵』を意味するのだという。
彼女は言った。
かつては、ただ手紙を瓶に詰めて海に流すように、言葉を紡いでいた、と。
ただただ、息をする為だけに。
でも、いまは、わたしの声を待ってくれているひとがいる。
言葉を届けたいひとがいるから。
名乗っても、いいのかなって。
そう、やさしい表情で語る彼女に、私は、
――妬けるね。
と返した。
彼女は、私の腕を、きゅっと
後に、私は『Sera.』という語について改めて調べてみた。
そして、偶然そのもうひとつの意味に辿り着いたとき、小さく、震えが走った。
低地ソルブ語においてそれは――『初乳』。
私は口に含んでいたカフェラテを、しばらく飲み込むことができなかった。
展示を見終え、帰途につく。
若菜は、笑っていた。
宵の風が、街の石畳を撫でる。
バスに揺られながら、私はふと、記憶の底に沈んでいた『声』を、思い出す。
あの夜、ミラが冷えはじめる前。
彼女は、私に、こう言った──
「ねぇ……『お話』って、どこから生まれるの?」
私はその唐突な問いに対し、やや返答に窮した。
でも、よく考えてみれば、唐突でもなんでもなかった。
私は、
「たぶん、心が溢れた場所から──だと思う」
みながどうかは、分からない。
でも少なくとも、私や、私と言葉を交わしてくれる親切な人々にとっては、そういう場合が多いのではないかと思った。
「そっか。……じゃあ、アタシたちのこと、書いてくれる?」
もちろん、と私は答えた。
「そしたらさ、もう、ずっと、……夜なんか怖くないかも」
星にとっての夜とは、なんなのだろう。
私にとっての、春や、夜明けのようなものだろうか。
「きっと、そうなる。そのために、僕は書くから」
それは、記録でも、証明でもない。
名もなき光を、名を与えることで、空に還すこと。
忘れられぬようにではなく、還れるように。
だから私は、物語を書く。
彼女らの祈りを、拙い言葉でなぞる。
誰かが読めば、それは意味になる。
誰かが読めば、それは音楽になる。
誰かが読めば、それは星になる。
「……君にも、名前を贈らせてくれないだろうか」
そんな私の提案に、彼はしばし、呆気にとられていた。
でも、ひとつ、たしかに頷いた。
「――アルクトゥールス」
それは、彷徨う者を導く、春の明星。
夜空に浮かぶ、最も好きな星の名前。
「随分と荷が重い名前だね、それは。
……でも、あなたがくれた名前ならば、背負っていくよ」
そう言って、笑った。
そして、こう続けた。
「あなたにとって、春が、いまよりもう少し、温かな季節となりますように」
夜が深まる。
街の灯が、少しずつ遠ざかっていく。
名を与え、物語る。
それはもう、孤独ではないということ。
星は、そうして巡っていく。
私たちの中に、外に。
誰かの見上げる空に。
だから、いま、私は、物語を書いている。
――この、『おかしな噺』を。
special thanks to the stars
『ほしの王子様』by 白河 隼様
『オールトの雲に目を凝らす』by リス様
そして、私を照らしてくれた、すべての星に感謝を。
まだ名前を持たない、すべての光に祝福を。
アーサー・ビナード『空からやってきた魚』
※「私にとって確かなことなど何もないが、星の輝きが私に夢を見させつづけるのだ」は、フィンセント・ファン・ゴッホ『ゴッホの手紙』より引用させていただきました。
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