星Ⅴ
『もしも花が星に咲いているなら、それを見るために夜空を眺めることは甘美だ』
— サン=テグジュペリ
「『星』と聴いて、あなたは何を想起しますか? ――境界の君」
私の眼差しに呼応するかのように、グレージュの少年は私に問いかける。
その『境界の君』というのはくすぐったくて仕方ないから
改めて少年を眼差す。
――美しい。
そう、思った。
人のカタチをとってはいるが、人間的でもなければ、人形のよう、という形容もそぐわない。
それは、なにか美しい獣のような種類の美しさだった。
彼のことをほとんど知らないうちにこんな感想を持つべきではないかもしれないが、エゴの匂いがしなかった。
エゴイスティックである、ということは、本能的であること、つまり動物的であることのように思われる時がある。しかし目の前の彼を獣のように感じるということは、エゴという言葉はある種の人間臭さを纏っているのかもしれない。人間だけが備える、なにか
いけない、思考が散漫になっている。彼の問いに答えなければ。
いつもの癖で唇に指を添えると、カサカサに乾いていた。
――星か。
「現代的な文脈において星と言われてまず浮かぶのは五芒星だろうね。仕事柄、六芒星が不用意にプロダクト内に使われていないかに神経を尖らせることはあったけど、例外だ。あれは繊細な宗教的文脈を持つから、扱いに慎重を要した。じゃあ五芒星はどうだと考えた時……そうだね、こういうことを考えていた方が、今は気が楽だ。少し話そうか」
私は電気ケトルで湯を沸かし、ポットにアールグレイとラベンダーの茶葉を入れる。本当は予めポットを温めたりした方がいいのだろうけれど、いまは億劫だったので省略した。そもそも紅茶についての知識は、まだまだ連れ合いに遠く及ばない。
棚には、たまに私が来た時に使っていた青磁のマグカップがあった。最近は、ここに来ることも少なくなったことに、改めて気づく。カップに茶を注ぎ、立ち昇る香りを吸い込む。
「いい薫りだね」
私は、少年の言葉に、小さく微笑む。
ミラに目をやる。『眠っている時は死んでいる』、というのは、『モリー先生との火曜日』の先生の台詞だったろうか。うろ覚えだし、違うかもしれない。
息を吐く。
「五芒星の話だったね」
私は話を再開する。
「日本国内に目を向けると、原点として『晴明桔梗』がまず浮かぶ。飛鳥時代から奈良時代にかけて大陸から陰陽五行説が伝わり、やがて権力の中枢の座を手にする陰陽師は、天文観測や暦の作成、占術を担い、その中で五行思想が重んじられるようになった。平安時代になると、その『晴明桔梗』とも呼ばれる五芒星が、魔除けや呪符におけるモチーフとして重要な役割を果たすようになる。そこでの五芒星は『木・火・土・金・水』の五行をその頂点に配し、互いの相克を図式化したものだ。五芒星の外側を結ぶ線が
いまの仕事をするようになってから、こういった知識に裏打ちをする機会が増えた。思ったよりもすらすら出てきて、自分でも少し驚く。
「木は燃すことで火を生み、灰となって土に還る。土からは鉱物が生じ、冷えた金属からは水が凝結する。そしてその水がまた木を育てる。そのように相手を活かすのが、相生だ。一方で、木は土から養分を吸い、土は水を吸い、水は火を消す。火は金を溶かし、刃が木を倒す。相手に克ち、抑える。こちらは相克。そして、これらの均衡が崩れた時、
……共生と、搾取。おかしいな。私は星についての話をしていたはずだ。
「話が逸れたけど、そんな五行説の象徴たる五芒星が、天体すなわち運命の象徴となり、やがて空に輝く星の表象となっていったであろうことは想像に難くない。では海外ではどうかというと、メソポタミアにおいて、シュメール文明の遺跡で土器や粘土板に五芒星が発見されているそうだ。何らか概念的な記号というよりは、方向や領域を示すものだったと聞く。これがバビロニアの時代になると、五大惑星――水星・金星・火星・木星・土星を象徴し、特に金星の軌道が五芒星を描くということで女神イシュタルの象徴である、という神話的なコンテキストを持ち始める」
紅茶を口に含むたび、渇いて鰹節みたいだった唇が息を吹き返す。
「古代エジプトではそれこそ空の星や死後の世界――ドゥアドを表す象形文字として使用され、これは一番イメージしやすいかもしれない。他にも線分比が黄金比を示すことから、数学的完全性の文脈で扱われたり、とにかく色々な時代や文化の中で変容し、守護の印から悪魔の徴まで解釈は多種多様だ」
遠くから、子ども達の声がした。そういえば今日は、縁日が出ているはずだ。薄暗いアトリエの中でこんな
――黴か。
遠くの山にまばらに咲いた桜の花を車窓から眺めた時、なんだか黴みたいだな、と思ったことがあった。
星も、桜も……物事は、それを眺める距離によって、美しくも醜くもなるのかもしれない。当然、そこに宿る象徴性も。
いや、距離だけじゃない。誰が見るか、どんな眼差しで見るか――それが、星の意味を変える。私は、最近それを知ったばかりじゃないか。
「そして現代。真っ先に僕が想起したのは、定量的な評価の為の記号としての、『星』だ」
少年の瞳が一段階、昏く、深みを増しているように見えた。
まったく、ロマンのない話だと思わないか? グレージュの君。
私は心の中で、そう独り言ちた。
「元々はその希望や祈り、目指すべき道標としての象徴性ゆえに評価の記号となった『星』は、いまや強烈に評価の表象そのものとなっているような側面がある。あらゆるサービスやプロダクト、営為においてプラットフォームのデジタル化とグローバル化が進むことで、その普遍性は日に日に強固になっている」
目の前のふたりを見ていて私は痛切に思った。なんという矮小化かと。その変遷は『金』を彷彿とさせる。金の場合、実際に金本位制という鉱物としての金を基盤とした通貨システムが存在した過去はあるにせよ、いまや信用貨幣やデジタル通貨が主流となり、『金』は資本主義社会における経済価値を示す記号へと変化した。それはもはや抗いようのないことかもしれない。そのうち就職試験で、『星』をテーマにした小論文が出されて、夜空の星に言及するようなものは即足切りの対象になるかもしれない。
「……」
私は、右手で頭を抱えた。
「……だからなのか?」
少年を見る。彼はただ、私を見つめ続けている。
私は言葉を続けようとして、でも、口を噤んだ。
私の愚かな考えが当たっていたとして、きっとそれは、私が口にすべきことではない。
若菜が気づいて、ミラに、伝えてあげるべきことだと思ったからだ。
私は代わりに、自分の経験を語ることにした。
「僕は仕事上で見てきた。初動の『星』の獲得のため、最低限、目につきやすい部分のみ品質を担保する他はマーケティングに多大なコストをかけ、売り逃げるようなやり口を。そこで与えられる『星』は確かに需要の高さを示すバロメーターなのかもしれない。でも、品質の高さを示すものじゃない。ルサンチマンだなんて笑われるかもしれない。誠実であればあるほど、そんな嘲りを飲み込んで、口を噤むだろう。でも、それこそが罠だ。そんな、市場性という大義名分のもとに短期的な利益だけを追い求めた結果が、長期的には業界全体の品質や創造性の水準を下げ、衰退させる姿を僕は実際に見てきた」
私は知らず、熱くなっている己を感じた。淀んだ記憶によって重くなった頭を、もはや支えていられず、左手を膝に突き立て、杖代わりにして項垂れた。
「きっとそういうことは、人間の営為に普遍的なことなのかもしれない。教養だって同じだ。文学、歴史、様々な知識。それは本当は人と人が手を繋ぐための
顔を上げて少年を見る。
そこには、変わらず揺るがない彼の表情があるだけだった。
彼は何も答えてはくれない。
でも、その毅然として、寂しくも美しい佇まいは、私に勇気のようなものをくれた。
少なくとも、私がいま語っていることは、薄笑いを浮かべたり、顎を上げ薄眼で見ながら聴くような種類のことではないのだと。
「コスパ、タイパ……大事だよな。分かるよ。僕だって精一杯だった。妻の……
日常が、侵食されていく。
「でも、それは、本当にみなが欲しかったものなのか?仕方ないと思いながら思考停止した先にあるのは、僕みたいな結末かもしれないんだぞ? 僕はまだマシだ。この村でみんなが手を差し伸べてくれた。でも、そうじゃなかったら? 僕はすべてに絶望し、もうこの世界から
「でもいまのあなたは既に、それに対するソリューションを知っているはずだ。若菜さんと同じに」
いつの間にかまた項垂れていた私はしかし、少年のひどく落ち着いた声に顔を上げる。
解決策が、ある……? 若菜にも……?
少年は続ける。
「決して万能ではないし、人はそれを慰みと呼ぶかもしれない。実際、フィンセントはそう言った。彼にとってすら、そうだった。――それでも」
私は、ハッとした。
「システム化された分かりやすさの代償としての単純化。ぼくらもまた、公教育的で、コンビニエンスストア的な世界観から、無縁とはいかなくなった。それは悪ではない。でもそんな世界では、ぼくも、ミラも、同じように見えただろう」
「でも、違う」
「イエス」
それ以上を、彼に語らせるわけにはいかなかった。
それは、私が語るべきことだ。たとえ、誰かに忘れられても。
私はもう知っている。
ふたりの美しさを知っている。
彗星の美しさを知っている。
それがただ、塵を撒き散らしながら落ちる石ころではないということを。
私はもう、託されている。
*
窓の向こうの紅と藍が混じる頃、覚悟していたことが起きた。
私は、若菜にメッセージを打った。
『ミラが、冷えはじめた』
若菜がアトリエに着いたのは、闇の帳が降り、天燈が始まる直前だった。
部屋の入口まで駆けてきた彼女は、まずミラを見つめ、それからゆっくりと彼女に歩み寄った。そこには、穏やかな笑みすら浮かんでいた。
「一緒に行こう。ミラ」
若菜はそう言って彼女を負ぶると、私と一度視線を合わせてから、社への道のりを歩み始めた。
道中、社の方から降りそそぐ太鼓の音と、土を踏む音、虫の音、それに屋台の甘い匂いや、金木犀の香りで
いつも通りに振舞えない彼女を、何も訊かずに皆が案じてくれたこと。お菓子をたくさんもらったこと。ミラのことを想って、時々物陰で泣いたこと。いまはもう、平気なこと。――耐え兼ねてミラのことを話した時、見えない存在を、皆が信じてくれたこと。
「ボクね、言ったんだ。最近、ずっとお星さまと一緒に寝起きしてたんだーって。でも……ボクがボンツクだったから、その子は、
血筋の者には、常人には見えないものが見える――そんな伝承があるためだろうか――今日まで、時折視線を泳がせたり、ひそひそと話す若菜の姿を、皆は見ていた。そして、信じた。それは信仰心ゆえなのか、若菜が積み上げた信頼ゆえなのか、あるいは表面上、信じたように振舞っているだけなのか……それは、分からない。それでも、そこには彼女の見ている世界を尊重しようとする人々の姿があった。
やがて石段の登り口に着く。歴史を感じさせる石材の一の鳥居を潜り、灯篭に朧げに照らされた路を往く。一歩一歩、確かめるように。しばらく、誰も一言も発しなかった。だがやがて――
「ミラ……」
若菜が再び、口を開く。木立に囲まれた闇の中で、彼女の声が不思議な響き方をした。
「ボクもね? わかったよ」
母が、娘に添い寝をしているかのような、そんな落ち着いた響きだった。
「見て、欲しかったんだよね?」
ミラは何も答えない。石段を踏む音が返事をする。彼女は、眠っているのだろうか。
「アタシはこんなにも綺麗なんだよ、って。みんなの『大好き』を、みんなの『がんばって!』を、両手一杯に抱えて、ずっと笑顔でいたかっただけなのに……いつの間にか、『もう見たくない』って、『意味ない』って、『信用できない』って……そんな気持ちに晒されて……」
それは懺悔のようだった。ミラを苛んだという気持ち、それはきっと、若菜自身が抱いていた想いなのだろう。ひとり孤独に、抱え続けていた想い。その時、私は傍にいなかった。思えば、書のインスタレーションアートを手伝った時すでに、彼女はどこか不安定に見えた。でも、私は傍にいるべきではないと思った。それは……正しかったのだろうか。
もし若菜が姿勢を崩した時、受け止められるようにと、私は彼女の右斜め後ろを歩いた。
「ねぇ、ミラ……今日はすごく綺麗なの、見せてあげるから。ぜったい、感動するから。だから……そしたら……ミラは、かえらないでいてくれる……?だめ、かなぁ……?」
輪郭の歪み始めたその声に、私が彼女を見上げた時、その頬に伝うものが見えた。それは後から後から溢れ出し、ミラのケープに吸い込まれていった。
「ワカナ……泣かないで」
彼女は、まだ眠っていなかった。
「確かにね、色んな想いがあるよ。祈りは……時に、呪いにもなる。それでも、その中には、美しいものもあったはずでしょ……?」
星の子はなおも語る。命を、息へと変えて。
「それにね……いろんな気持ちは、そのままでいいんだよ。すきも、あいしてるも、しんじてるも。それをそのまま表現することが、ワカナには出来るんだから……だいじょうぶだよ」
私には、ふたりが何について話しているのか、すべてを理解することはできなかった。でも、きっとたくさん話したのだろうと思った。ふたりだけの秘密が、たくさんできたのだろう、と。だってもう、ふたりは、姉妹のようだ。
二の鳥居を抜け、手水舎を過ぎ、拝殿を横切り、幣殿を抜けた先の中庭に辿り着く。
そこでは皆が若菜を、いや、ふたりを待っていた。
掌の中には、願いを灯した小さな天燈。胸の内には、それぞれの祈りの光を携えて。
太鼓が止む。
澄んだ夜気と静寂の中、焚かれた薪の弾ける音と、虫たちの悼むような音色が、唄となり、空を掃いていた。
若菜はミラを降ろし、私と少年に託す。
「――見てて」
若菜はミラに、そう告げる。
そして、光の園の中心に向かって、静かに、堂々と歩を進める。
少年の手が、しっかりと、ミラの蒼白い手を握りしめていた。
彼女の往く先には、同じく装束に身を包んだ女性たちがいた。連れ合いの姿も、その中にあった。彼女は既にその立場からは身を引いていたが、今日は特別なのだと、そう、言っていた。
手にしたひと回り大きな天燈が、彼女らの相貌を淡く照らし出し、新しい世代へと手渡される。そっと赤子を託すように、それは為された。
笙の音が、夜気の膜を震わせるようにゆっくりと、しかし確かに、場を満たしていく。
響き合うように、皆が次々に、想いを載せた光の
そうして目の前に、光の河が現出した。
光はせせらぎとなり、夜空を流れる。
人々の想いが、祈りが、あるべき場所へと還っていく。
「――お花みたい」
ミラの口が、動く。
「よかった……ここにも、『星』はあったんだね」
若菜が駆けてくる。
――それなら、きっと、寂しくないね。
それは、音になる前の、魂の震え。
少女もまた、祈りの光のひとつとなり、秋の夜空に融けていく。
九月二十一日 穂含月 最後の日。
私たちは、ただ、見おくった。
山下克明『平安時代陰陽道史研究』
大道寺友山『落穂集』
三田村鳶魚『江戸雑録』
ミッチ・アルボム『モリー先生との火曜日』
Chen Minzhen (2023), Chinese antiques give new insight into history of pentagram, CSSN.
Pardesco (2025), Symbolism of the Pentagram.
Staci Grove (2025), Pentagram Through The Ages.
※「もしも花が星に咲いているなら、それを見るために夜空を眺めることは甘美だ」は、サン=テグジュペリ, アントワーヌ・ド.『星の王子さま』より引用させていただきました。
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