星Ⅱ

『我々は星屑でできている。我々は、宇宙が自らを知るためのひとつの方法だ』

 — カール・セーガン



 

「――みつけた」

 

 その子は、そう言った。

 ボクは思った。

 逆じゃない?、と。

 彼女は、運命の人でも見つけたみたいなキラキラした笑顔で、ボクの胸に飛び込んできた。


 ――いいにおい。


 なにかに似てた。なんだっけ。

 そうだ、アレだ。ベビーパウダー。

 お星さまって、ベビーパウダーの匂いがするんだ。

 ……へー。


「若菜ちゃん……? 誰と、話してるの……?」


 お星さまの夢みたいな可愛らしさと香りとで、ボクのオツムはポンコツのポンツク。

 そこに、彼の言葉が松の葉みたいに降って来た。


「へ……あ、そっか。もしかして、見えてない系……?」

 

 この宇宙的美少女は、ボクにしか見えないのかもしれない。

 なんとなく、自然とそういう発想になった。

 すると彼女が、ぼそりと言った。

 あまりに胸に密着してるもんだから、くすぐったくて仕方がない。

 

「アタシは、ワカナにしか見えない。……もし誰かに見えるとしたら、それは夜、ワカナと深く繋がってる誰かだけ」

 

 ……。

 ……あ、夜の間だけ見える、ってことか。

 そうだよね、お星さまだもんね。

 そんでもって、ボクとの繋がりが深い誰か、ってことだよね?

 なんか、ヘンなこと考えちゃった。

 

 でもその時、ボクの蟀谷こめかみを汗が伝ったのは、そんなおかしな想像のせいだけじゃなかったと思う。


 彼には、彼女が見えてないの?

 ……なんで?

 

 なにか幻みたいなものは見えるけど、はっきりとした像を結ばないのだと、彼は言った。

 それから、ごめん、と付け足した。

 ボクの表情から何かを察したのか、彼の言葉には、心なしか罪悪感のようなものが滲んでた。

 『ごめん』だって。

 また悪い癖、出てるし。

 なんで、謝るのさ。

 なんで……。

 

「ワカナ……」


 気づくと、少女がボクのことを心配そうに見つめていた。

 それから、キッと彼のことを睨んだ。

 ボクがそんな彼女の、銀と藤紫のグラデーションがかった髪をと撫でてあげると、子ギツネみたいに目を細めた。

 それは髪というより、月みたいな手触りだった。

 つまり、現実感がストライキ中。

 ……仕事して。


 ボクは大事なことを思い出した。名前だ。まだ名前を聞いてない。


「キミ、名前は?」


 きっと、素敵な名前があるはず。そう思った。


「ないよ。そんなの」


 さも当然のことのように言うもんだから、さすがのボクも、ちょっと言葉に詰まった。

 そんなボクを気遣うような笑みを、少女は浮かべる。


「人の子は、ふつう、名前をもらうものね……? でも、アタシたちは違う。それは、そういうものなの。悠久の時の果てに、いつかことわりへと還る――それがアタシたちにとっての、ふつう。……だから、ちっとも寂しくなんて、ないんだよ?」


 ……うそ、じゃん。

 ……だって……だって知ってるもん。

 ……だって君は、ボクなんだから。

 ……昔のボク……そっくりなんだもん。

 

 ――名前をつけられない何かだった、ボクに。

 

 小さく、唇を噛む。

 最近、唇を噛んでばっかりだ。

 ……新しいリップ、買わなきゃ。

 

「じゃあさ、ボクが、あなたに名前をあげてもいーい?」


 少女が目を丸くする。そんなこと、考えたこともなかった、そんな風に。

 星屑の海に吸い込まれそうだった。

 そして彼女は小さく、でも確かに、ひとつ頷いた。

 イメージは、すぐに降りてきた。

 家の小さな天文台で、何度も星を見上げた。

 ひとりで、ふたりで、……さんにんで。

 いつも見えるわけじゃない。

 それでも確かに、そこに存在する、

 『驚くべき星』。


「――ミラ」


 ……。


「あなたはいまから、ミラだよ。よろしくね、ミラちゃん」

 

 ミラ、ミラ……と彼女は音のカタチを確かめるみたいに、何度もその名前を唱えた。


「アタシは、ミラ……!」


 人のカタチをしたものに名前を贈ったのは、お人形以外では初めてだ。

 ボクの小さな、初体験。

 なんか、ヘンな感じ。

 今日はずっと、ヘンな感じだ。


 それからボクらは、おうちに帰ることにした。

 きっとお母さんなら、何とでも受け入れてくれそうな気がしたから。

 

「お星さまを連れてきたんだけど、いーい?」

 

 小学生が友達を家に呼んだみたいなノリで玄関でそう尋ねると、ボクのとなりをじっと目を凝らして見つめた後――


「いらっしゃい、お待ちしてました」


 と、いつもの笑顔で迎えてくれた。

 さすがは、ボクのお母さん。

 世界でたったひとりの、お母さん。

 たまに口うるさい時もあるけど、ボクはやっぱり、お母さんのこと大好きだって思った。

 ミラもすぐに懐いたのか、お母さんの周りを犬みたいにくるくる回ってた。

 それでもやっぱり、お母さんにも、ミラのことは、はっきりとは見えないみたいだった。

 逆に、ほっとした。

 お母さんに見えないんなら、もうそういうものなんだと思ったから。

 ……そう、納得した。

 

 ミラはご飯を食べられないんだと言った。

 でもその代わり、ボクが美味しいと感じれば、ミラも美味しい!ってなるし、

 楽しい!って感じれば、同じように楽しくなるんだって。

 そんな彼女の言葉通り、ミラはずっとボクの傍で、ちょっと戸惑いながらも、ニコニコしてた。

 その気配はふたりにも分かるみたいで、

 

「いま、笑ってる?」

 

 とか、

 

「あ、いまちょっと拗ねた?」

 

 とか、

 そんなやりとりが、家族が増えたみたいで本当にあったかくて

 ――みんなでおでんの具になったみたいな気持ちになった。

 ボクがはんぺんで、お母さんがたまご、彼はでいいや、ミラにはダイコンの栄誉をあげよう、とかって言って。

 そしたら彼が、ちくわぶは馴染みがないから他のがいい、って言い出した。

 ワガママだなー。

 うちでのヒエラルキー、わかってるー?

 じゃあはんぺんの座は譲るよ、って言ったら、はんぺんも関西では入れないんだって言う。

 仕方ないから、コンニャクにしてあげたら、満足げ。

 そんなおバカな話をしながら、ミラもずっと笑ってた。

 

 みんなで踊ったり、彼がピアノを弾いたりしてるうちに、あっという間に時間は過ぎて、彼がボクとミラをアトリエまで送ってくれた。

 そこで、三人で少し話をした。


「ミラは、どうしてあそこにいたの……?」


 きっとなにか、理由があるはずだと思った。


「わかんないの。あんまりよく、憶えてなくて……」


 膝を抱えながら、儚げにそう零した。

 ボクとミラがベッドの上で隣同士で壁にもたれて、彼がスツールの上で、ボクらに向き合ってた。

 

「目が覚めたら、知らない昏い場所で動けなくって、んー、って力を振り絞ったら動けるようになったの」


 それはたぶん、ボクが天蚕糸テグスでぐるぐる巻きにしてたからだ。

 なんだか急に、申し訳なくなってきた。


「どこに行けばいいか分からなくて、彷徨って、でもなんだか、無性に空が恋しかったの」


「だから、あそこに登ったの?」


 ミラはボクとは視線を合わせないまま、頷く。

 

「でも……」


 ミラの手がギュッと握りしめられるのをみて、ボクはそっと手を添える。

 ハッとした表情の後、天使みたいに、みぞれみたいに、笑った。

 

「星が落ちる理由は、決まってるの」


 ウマオイも、キリギリスも、スズムシも、みんなが窓の外で聞き耳を立てていた。


「星はね、自分の為に涙した時、堕ちるの」


 ボクの視線が、彼と合う。虫たちも、息を殺した。


「アタシたちはね、自分のために泣いちゃダメなのよ」


 ミラがそう繰り返す。


「星は人の為にあれ――人々の祈りや、応援や、すき――そういう『きらきら』を受け取って、自分の透明な感情に混ぜるの。そして糸として紡ぎ、愛しい人のためのはたを織る。それは夢路を辿って愛しい人に届けられ、生きる力になる。だから、泣いちゃったら、大事な感情を無為に流してしまったら……それはもう、星としては失格なのよ」

 

 視界が滲んで、ボクの喉が鳴いた。

 

「そんな――」


 それは、彼の声だった。

 彼の頬を月が照らして、涙の軌跡を浮かび上がらせていた。

 彼は言った。

 震える声で。

 

 それはいったい、誰が決めたことなんだい?、と。


「……わかんないわよ。そんなの。ずっと昔から、そうだから。いやなら、。そんな、弱い星は、いらないもの」


 どこか投げやりなミラの言葉にボクが問いかける前に、彼女は続けた。


「落ちたら、もう星には戻れないけどね。ただの、石ころ」


 目の前の夢のように美しい子は、知らない世界の、知らないルールの中で、

 いつか遠い未来で空に融けるか、擦り減らされ、地に落ちるかの二択を迫られていた。


 ――恋も、知らないまま。

 

 それは、ボクとは逆だ。

 『知ってしまった』からこそ、曖昧になってしまったボクとは。

 それとも、ボクも、まだ知らない……?


 ボク……なんでいま、そんなこと考えてるんだろ……。


「――見える」


 そんなボクの思考を遮るように、もう一度、彼の声がした。

 

「――僕にも、君が見える」


 うそ――と、隣からか細い声がした。

 彼がふらふらと立ち上がり、ミラに歩み寄る。


「ア、アタシ、あんたなんかキライだから!……こっちくんな!」

 

 お……おおぅ。

 し、辛辣シンラツぅ。

 トゥースパイシーガールだね、こりゃ。

 彼の方を見ると、完全に固まってる。

 ……いや、ほんのちょっと揺れてる。

 震度3ってところだ。

 

「なんで?なんでそんなこと言うの?」


 ボクはついたしなめる感じで、ミラに言った。

 だって、とボクにすがりつくミラの様子を尻目に彼は、


「……確かに、長居し過ぎた。……また、明日様子を見に来るよ。おやすみ、ふたりとも。――良い夢を」


 そう言って、古い柳みたいに背を曲げて去っていった。

 

 月が影を落としたその背中を、ボクは、しばらく見送っていた。

 





 




※「我々は星屑でできている。我々は、宇宙が自らを知るための一つの方法だ」は、カール・セーガン『Cosmos: A Personal Voyage』(1980年)より引用させていただきました。

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