第5話 一番悪いのは誰だ




 …………

 ………

 ……


『――ッ君ッ!』


 ん……なんだ……何か聞こえる。


『アッ君ッ! しっかりしてぇっ! お願い目を覚ましてっ!』


 そうだ、俺は希美のハメ撮り映像を見て、気持ち悪くなって嘔吐した。


 どうやら吐きすぎて気を失ってしまったらしい。


「希……美……」


「アッ君ッ! よかった……」


「ここは……」


 知らない天井って言葉を、人生で初めて口にしたくなった。


「病院だよ……。脳しんとうで気を失ってたって……」


「……そうか」


 身を起こそうとするが、体がフラついて上手く動けない。


 ぼんやりと病室の光景を眺めていても、自分の置かれている状況を理解するのに時間が掛かった。


「うぐっ」

「ダメッ、まだ起き上がらないで」

「うう……」


 ズキリと頭に痛みが走る。起こそうとした体に力が入らず、ベッドにボフッと倒れ込んだ。


 希美が慌てて俺の体を支えてくれる。その顔はボロボロとも言えるほど泣きはらした目元の腫れが痛々しかった。

 

「無茶しないで。先生呼んでくるから」


「ああ……」


 ついさっきまで泣いていたのだろう。希美の衣服は部屋にいた時のままで、ヨレヨレになって色んなところがボロボロだった。


 気を失っている間に相当パニクっていたことが窺える。

 

 希美が呼んできてくれた先生の話によれば、どうやら自傷行為で床に打ち付けた頭が思いのほか大ダメージだったようだ。


 俺は気を失い、泡を吹いて倒れたらしい。


 パニックになった希美は救急車を呼び、そこからずっと付きっきりで看病してくれた。


「良い奥さんを持たれましたね。彼女の献身的な措置がなければもっと危険なことになっていたでしょう。最悪の事態も有り得ました」


「そうですか。お世話になります」


 奥さんと呼ばれた希美のなんともいえない表情に複雑な気分になる。


「幸いにして脳に直接のダメージは確認されませんでした。MRIの検査結果は良好。ご自分の石頭に感謝されることですな」


 冗談めかした先生の言葉に苦笑するしかなかった。


「アッ君……」


「ああ。ごめん、話の続きをしようか」


「そんな。無茶しないで……」


「いや、大丈夫だ。まだちゃんと確認しないとおちおち気絶もできない」


 怒りに任せて頭を打ち付けたおかげなのか、俺の頭は徐々にスッキリし始め、冷静な判断力が戻ってきた。


「お願い……退院したら、ちゃんと全部話すから、今は体を休めてほしい。私にそんなことをいう資格はないって分かってるけど、お願いします……」


「分かった。疲れただろ。帰って休むといいよ」

「ううん。側にいさせてほしい……どこにも行きたくない。視界に入らないようにするから、ここにいさせて」


「分かった……」


 恐らく、自分が側にいることで二度と浮気はしないと証明したいのだろう。


 正直顔も見たくない気持ちは僅かながらあるものの、今彼女を突き放したら危険なことになる予感がした。


◇◇◇


 数日後、後遺症の心配もなくなったということで、頭の包帯は取れないものの退院することができた。


 希美はあれから一時も俺の側から離れることなく、付きっきりで看病してくれた。


 しかし希美の顔は酷いものだった。目の隈が増えて、食事も満足に取ろうとしない。まるで自分を罰するような行動をする希美は、見ていられなかった。


 俺は泣きじゃくって離れようとしない希美に、性病検査をすることを進めておいた。


 それだけ女を食いまくってきた男に生出しをされてしまったのなら、しかるべき治療が必要な事態になっていないとも限らない。


 俺自身もその希美を抱いてきた訳だから、危険な因子が体に入り込んでいる可能性は十分あった。


 結論を先にいうと、これは問題なかった。


 総合病院なので性病検査ができる設備はちゃんとある。


 入院ついでにできる限り多くの項目で性病検査を受けておき、数日後に検査結果をもらった。


 2週間ほどかかる項目もあるので、定期的に通う必要は出てくるだろう。


 数日のインターバルを置いたことで、俺の中に冷静な判断力は戻ってきたように思う。


 戻ってきた家は、あの日の料理がそのまま残っており、数日放置された生ものが酷い臭いを放っていた。


「まずは掃除からだな」

「う、うん。そうだね」


 気まずい沈黙に包まれながら、淡々と生ゴミを処理して洗い物をする。


 ついでに数日間溜まったホコリを拭き掃除して、雑巾がけやらなにやらで、結局1日がかりの大掃除となってしまった。


 そうして全てが終わったその日の夜、俺達は改めて話をすることになった。


「話の続きをしよう。改めて、あのメール見せてくれる?」


「はい……。あの、アッ君…これ」


 何かを差し出してくる希美。それはかなり大きめの容量を持ったSDカードだった。


「これは?」


「私とあの人のメール履歴と、動画や写真を全部ダウンロードして、保存してあります……」


「そうか、わかった」


 希美なりに贖罪のつもりだろうか。まだ許せる気分にはならない。

 だが頭の中がガンガンするような噴火型の怒りは湧いてこない。


 胸の内側がムカムカとするものの、冷静な判断力は失わずに済みそうだ。



 俺は改めて動画と文章の一つ一つを丁寧に確認する。

 保存したとは言っても、希美がどういう経緯を辿ってきたのかを理解する必要はあるために、自分で見ないという選択肢はない。


「うっ……」

「アッ君ッ!?」


「くそっ」


 だがダメだった。脳裏に映像の記憶がフラッシュバックし、激しい嘔吐感がせり上がってくる。


 俺は再びこみ上げてきた衝動でトイレに引きこもり、先ほど食べた夕飯を全てぶちまけてしまった。


 限界まで吐き出され、何もなくなるまで嘔吐し続ける。



 吐瀉物がなくなって胃粘液に血が混じり始め、俺は怒りと頭痛で目眩がして、行き所のない怒りが爆発して再び暴れ回った。


 床を殴り、机を叩き、また頭を床に打ち付けたくなる。


 やがてひとしきり暴れ回り、息を落ち着け、何度も深呼吸を繰り返した。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


「あの、アッ君……」

「ゴメン」


「謝るのは私の方だよ……幾らでも殴って欲しい……気の済むまで……そんなことで到底許されることじゃないけど……それでも」


「そんなこと、できないよ……」




 よくある話だと、こういうのを見て、いわゆる『寝取られ属性』に目覚める男ってのがあるが、俺の陰茎はピクリとも反応しなかった。


 むしろ、嫌悪、吐き気、殺意……有りと有らゆるマイナス感情が渦巻いて、相手の男を殺してやりたい気持ちばかりが募っていった。


 どうやら俺には寝取られで喜ぶ属性は無かったらしいことに安堵した。


 二度と見たくもないが、これは奴の犯罪を立証する証拠となる可能性がある。


 もっとしっかりと確認しておかないと。



「最新の投稿は、あの日の前日のセックスの様子ってことだな」

「ッ……ッ、うう……はいっ」


 どうやら数日の間に向こうからいくつかのメールが来ているようだった。


「これは……脅迫文とも取れるな。これは保存してあるか?」

「はい。全部保存してあります」


 野郎は連絡の取れなくなった希美に「動画をばら撒くぞ」と脅しをかけてきている。


 これは警察に提出すれば証拠になるかもしれない。


「分かった。改めて動画を確認する」


 俺は希美のスマホを片手に持ちながら、受け取ったSDカードをパソコンに繋いでデータを再生する。


 映像の中の希美は、快楽に溺れ、完全にメスの顔を晒していた。


 相手の男に対して逆らうこと無く従順に従っており、一見すると普通のカップルのハメ撮りにすら見えてしまう。


 獣のような嬌声をあげる女が本当に希美なのか分からないほどだった。


「こんな表情、俺には見せてくれたこと、一度も無かったよな……俺は、そんなに下手くそだったのかよ」


「そんなことは……」


 最新の動画になると、希美はすっかり快楽に溺れているようだった。


 相手の言葉を疑うことなく鵜呑みにし、従順に従って居る。


 やはりどれだけ記憶を辿っても、俺は一度として希美のこんな表情を引き出せた経験はなく、敗北感が募った。


 文章と動画をざっくりと確認し、始めと終わりで希美の態度は、少なくとも表面上は懐柔されてカップルのようになってしまっている。


 だが動画内の希美を見る限り、一つだけ気になることがある。


「言いたい事はよく分かった。つまり、脅されて、尊厳を踏みにじられて、俺を失いたくない気持ちと、最悪の人物に惹かれてしまう自己矛盾の板挟みになって、どっちにも動けなかった。思考を放棄して流されるままに浮気を繰り返していった、と」


「……ッ……」


「俺じゃあ与えられなかった快楽に溺れて……、すっかり嵌まっちまったわけか……相談もしてくれないんじゃ、俺はどうすれば良かったんだッ……」


 バツの悪そうに俯き、希美は再び土下座をした。


 酷いな……本当に酷すぎる。なんだよそれは……。 


 他に好きな人ができましたって言われた方が、なんぼかマシだった。


 正直、声を荒げて希美をもっと徹底的に罵倒したい気分だった。


 気付かなかった俺が悪いのか?

 いや、どう考えても非は向こうにある。



 どう考えたっておかしいじゃないか。まともな神経をした人間のすることとは思えない。


 レイプした奴も許せないが、それを助けを求めるでもなく、流されて流されて流されて……結局こんな事態になるまで隠し通した希美も、同じくらい憎らしかった。



 だが、しかし、それでも……、俺は思ってしまったのだ。


 『ああ、希美らしいな』と。


 だからここで彼女をもう一度罵倒して追い出したら、思い詰めた彼女は何をし出すか分からない。



 だが一つだけ……、先ほど言った気になる点。


 言葉の上では快楽に耽ってこの男に従順になっているものの、動画の中の目つきが……、昔から知っている希美が怯えている目であることだということ。


 たぶん、長年付き合ってきた俺にしか分からないだろうが、彼女が持っている微妙な空気感というか、心のどこかで助けを求めている時の彼女の顔が、俺の網膜に焼き付けられる。


 思い出されるのは中学生の時、クラスの男子からからかわれ、女子からはイジメを受けていた彼女を、俺が救い出した時のことだ。


 その時の彼女が、こんな目をしていた。


 助けてほしいのに、誰にも相談できない苦痛を飲み込んでいた彼女を、俺が助け出したことで、俺達は付き合うきっかけを得る事になる。


 そう、あの頃から変わっていない。希美の顔は、俺が何度も目にして、何度も彼女との絆を深めた時の目。


「助けを求めてる……」

「え?」


 その答えはただ一つ。俺が見いだした一つの希望だった。


 あるいは、そう思いたい。自分の都合の良い解釈で事実から目を逸らしたいのかもしれない。


「動画の中の希美……。昔から知ってる目だ。俺がよく知ってる、俺がずっと見てきた、絶対に気が付かなきゃいけなかった、怯えてる時の目をしてる」


「……」


「ずっと、救いを求めてたんだな……助けて欲しかったんだな……でも、失う事が怖くて必死に隠してきたんだな」


「……はい……アッ君……分かって、くれるんだ……ううっ……! うわぁああんっ、ぁ、あぁああっ、分かってくれたっ! アッ君、分かってくれた……」



 それは希美が『助けを求めてる時の顔』だったからだ。


 快楽に溺れながらも、この状況から脱したいと思っているように見える。


『助けて欲しい』

『でも怖い』

『失いたくない』

『でも動けない』

『暴力が怖くて逆らえない』

『軽蔑されるのが怖い』

『快楽に嵌まっていく自分が怖い』

『それを止められない意志の弱い自分が憎い』

『愛する人にも嫌われたくない』

『でも逆らえない』

『自己矛盾』

『怖い』

『助けて』

『怖い』

『助けて』

『怖い』

『助けて』

『怖い』

『助けて』

『怖い』

『助けて』

『怖い』

『助けて』

『怖い』

『助けて』

『怖い』

『助けて』

『怖い』

『助けて』


 そんな叫びを何度も繰り返していたに違いない。

 希美は弱い。心が弱くて、人見知りで、自分の意見を言えない、弱い女の子だって、知っていたはずなんだ。


「分かってくれた……アッ君……分かってくれるんだ……。こんなことなら、初めから相談すれば良かった……本当に、馬鹿だった」


 俺は、家での彼女がその信号を出していることに気がつく事ができなかったということか。


 動画の中で、快楽に溺れながら喘ぎ声を上げる希美を客観的に見ていると、いつもなら絶対に分かる筈のSOS信号を出している時の顔だ。


 こうして動画の中でマジマジと顔を見れば、すぐにでも分かってしまうほど、希美は怯えて居る。



 なんという大馬鹿野郎だ……。こんな顔をしていることに気が付かなかったなんて。


 希美の事を責める資格なんかあるのかと思ってしまうが、今はまだ結論を出すのは早い。


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