脳宮

熊埜御堂ディアブロ

脳宮

 ゴウン、ゴウン。……何かが、一定の波を含みつつ、遠くで低く沈んだ音を鳴らす。そのリズムに合わせて、体を貫通するかのような冷風が、わたしの周囲をかすめ、満たしていた。生きている者を歓迎しないような温度。心地よい不規則な回転音と、静謐を保とうと運ばれる空気。

 ……風はどうやら、わたしの足元から頭へ向かって流れを作っている。立っているのかと思うと、重力に背中をぐいっと押し付けられている感覚、どうやらわたしは横たわっている。

 ……視界に何も映らない。四肢の感覚が自ずから消え去り、体躯をも誘い、意識のみが妙な浮遊感に漂っている。広い水溜りの微かな流れに身を任せているか、わたしは安息の内にわたしを置かせていた。


 ゴウン、ゴウン。……重い音が、少し気になる。浮遊感に嫌な鉛が襲い掛かった。ただ、重力の重さしか感じ取れない。音が消えれば、良くなる気がする。

 止めようか止めまいか、もどかしさと気怠さの間を彷徨っていた時。鋭く薄い金属音が、何かを弾いた。パキリと、薄い膜を破壊し弾き飛ばす音の後、軋みながら壁に隙間が出来ていく……様子を想像した。静謐が薄れ、風の流れが僅かに変わった。

 眼球へ淡く鋭い刺激が流れた。何の様子だ、と、瞼を力込め開けば、先ほどの薄い膜を弾き飛ばす音が、わたし自身から現れた。布らしい物の、糸が細く編み上げられた平面が見えるが、それ以外は微かな光だけが、何処かから運ばれてくるだけ。

 耳を澄ますと、カタリ、カタリ、と、高く生き生きと聞こえる回転音、共に振動で地面と何かがぶつかり合う音。もはや安息の内に留まるよりも、その音の正体の方に気が向いた。

 両腕を持ち上げると、ますますパキリと膜が弾け飛び、そのまま指を見れば、霜が僅かにわたしの体を覆っている。風の程度は、水を凍らせる程なのかと思うと、わたしがどうして冷風に晒されながらも、寒気を一切感じないのか。背を伸ばして手を上げると、何かに当たり、それは少し力を入れて押すと、ギリリと音を立てて退いて見せた。穴があった。


 瞬間、悲鳴がした。隙間無い金属の間を押し通すような、金切り声だった。全ての微細な音はかき消され、先程聞いた音の記憶さえ、吹き飛ばしてしまった。果たして、あの重い音はどんな質感だったか。

 何事かと、四肢で仰向けの体を持ち上げて、穴の先へ這いずり出る……体にかかる布をどける……寝ていた先の、さらに広い部屋から見える、長方形。逆光のそこからは、人型のシルエットが見えた。シルエットはすぐに背低く縮こまり、四つの長い物を激しく蠢かしながら、長方形の奥へと消えていった。

 中途半端に足に掛かっていた布を落とし、水色のタイルの上に足の裏を置いた。寝ていた場所は、灰色の金属が平坦に延ばされている、ロッカーのような壁四面。横に人を収納するのに丁度いい大きさ。ぐるりと周囲を見渡すと、札の付けられた、重々しく小さな扉の連続、何段も積み上げられている。

 一番下の、わたしが出てきた扉だけが開いていた。後は、先程わたしがここに入っていた時に聞こえた、ゴウン、ゴウン、という音、そのリズムに合わせて運ばれる、水を凍らせる程冷たい風。

 光が差す先の長方形、部屋の出口だろうか……に近づくと、先程の人影が持ってきたのだろう、腰ほどの高さ、縦に長い滑車が置いてある。その上には白い布が覆いかぶさり、人型に膨らみを持っている。ここの部屋の出口の先をじっと見ると、長い廊下の先は天井から照らされ、明るい。


 滑車の、白い布、人型の膨らみ、じっと見ると、アアアア、と音が何処かから漏れ出た。細かく動かせる、五つの指、両手についている、それで布の端を片方持ち、上げてやる。眼球から入る刺激の元には、目を閉じ口を頑なに閉め切った、男性の体があった。これはストレッチャーだ。横たわった人を運ぶのに用いる。頬に触れれば、反応も無く、部屋と同じ程に冷たい。その、滑らかに光る金属が、男性の隣に、同じ色彩の顔を置く。

 アアアア、と先程よりも、あの金切り声に近い音が発せられた。ゴウン、ゴウン、と回転する音と共に、冷凍を目的とした空気が運ばれる。足元をなびくその風が体中に充満している。

 かかとを両指で触れると、硬く、滑らかに伝う指は膝の硬い骨を感じ、恥骨の脇から中心に移動し、へこみには内側へ隠された器官、腹部の異常な程の膨らみの無さ、胸部の乳房の下まで風に満たされ、首まで来ると顎に指がひっかかり、爪先を伝わる、唇が二枚、鼻腔の手前に立ち止まれど何も感触は無く、頬はそれ以上に冷え切り、眼前に爪が通過した所……両手で、堪らなくなり、顔を隠した。

 アアアア、と金切り声が体から弾け飛んだ。その声は、リズムも無ければ静謐である事も無く、あの狭い一人部屋の内に居続ければ、永く出す筈も無い、叫びだった。

 長方形のシルエットにわたし自身を合わせるように、崩れ落ち、顔から頭を掻き回し、なお、アアアア、という声は止まない。片手でストレッチャーの足を握り、もう片手で左の乳房を潰す程に押さえても、尚の事、わたしが何者かを教えるかのように、この手の内側はこの部屋と同じ表情しか見せてはこない。滑車を握る手を離し、眼前で開こうとも、汗一つそこには見られない。目を指で擦っても、何一つそこには滲み出てはいない。

 ……ゴウン、ゴウン、という音が、わたしの鼓動を代弁している錯覚に陥りたくなり、水色タイルの床に寝転がり、呆然と薄暗い天井を眺め、風に全身を撫でられ、もう、ついさっきまでの、狭い棺で意識無く眠っていたわたし自身に戻れない事を知り、再度、目に人差し指を当ててみた。何も無かった。





 ……意識を忘れようとも、意識はやはりわたしにあり、わたしはわたしを意識出来る、それを何度か往復した。やはり、わたしはいる。部屋の床に体を預け、何も考えない事を意識しながら、ぼう、とすると、冷房の音は先程以上に束の間の安堵を、狂いそうなわたしに与えた。時折、もしかしたら何かの間違いかも知れない、と、再度胸で動きを確かめたが、やはりすぐに床に手を当てて、今の体勢が一番安定していると思う。体を起こし、三段続きのロッカーの、扉一つどれか開かないか、と待ちもしたけれども、このストレッチャーがいつ仕舞われるかの方がきっと早いのだろう。すがりつく安置も思いたたず、疲れ、狂気に駆られたように笑ってしまおうか、と考えていた……。

 そうして、自分は死体なのだ、と何度も何度もその名詞を租借しながら、終点が始発点になった事に気持ち悪さを募らせ、(意識ってそもそも何だっけ)と思い始めた。

 と……奥の廊下から……足早にこちらへ歩んでくる、二重の靴音が聞こえてきた。意識は突然パチリと目を開け、何かを期待した。あの女性が、誰かを連れてきたのだろうか。私は廊下へ身体を進めた。ぺたりぺたりと足の裏が、ゴムマットでも敷き詰めたような床に、張り付いては剥がれ、張り付いては剥がれを繰り返した。

 ふっと。

「死体?」

 という言葉が口から漏れた。すると途方もなく遠くから訪れた印象の声質は、先程自身の体躯に強烈な違和感が襲ったように、再度わたしをわたしから剥離させようとしていた。しかし違う。死体なのなら、違う。

 長い廊下の奥から、男と女が一人ずつ、手ぶらで、女が遅れて歩いてきた。女の方は口を開けたままだったが、男は特に何の感情も見せない。両方が焦りもなく、わたしという異常事へ平然と歩んでくるのは、不吉だった。

 男がわたしの前に立ち止まる。

「目覚めてしまいましたか……。」

 と、あの部屋の冷風くらいに引っかかり無く言った。これは何事か、と、態度一つからでも恐怖を引き起こされてしまうし、自認出来る上で、最初に出会った人物にこう言われるのは、不自然だった。

「……貴方は、喋れるのですか?」

 はい、とわたしが口から異質な声を出すと、男性はぴくりとも動かずに、

「そうですか……。」

 と平坦なまま、音を漏らす。その間にも、目はあちらこちらをさまよっては――奥の部屋の、霊安室の手前から奥、そこから廊下を伝い、わたしの足下から顔を見て――目を合わせた所で、顔を左へ機械的に逸らした。後、鎖骨周辺に視点を合わせ、

「ロビーに来て下さい……先に向かっていますので……。」

 突然、宜しく、と言わんばかりに女の手を叩くと彼は歩きだし、彼女は怯えながら小さすぎる声で、(まずはこちらへ。)と、言った。開きっぱなしの霊安室からの音の方が、よく、聞き取れた。

 (服を。)という声、女が入院患者用の衣服をこちらに渡してきたので、言われるがままに着用した。色褪せた水色の衣服は乾いていて、身体を通すと肌と擦れて、シュルッ、と言った。





 消灯時間を過ぎているらしい館内は薄暗い。付いている灯りはロビーだけで、微かに違う色彩の光が壁に反響している。廊下を進むと、それがテレビだとわかった。テレビは砂嵐をじっと映し、とても小さな音量だけ発していた。

 『受付』と書かれた看板の奥に入るとそこは一部屋を確立するだけの仕切りに囲まれていて、男はわたしを確認すると、テレビの音量をひとつだけ下げた。無音になった。彼は深呼吸を二度した。

「砂嵐は、テレビとだけ関係を持っています……。」

 と、白衣のポケットから封筒を取り出し、机の上に置いた。字が書いてあったが、逆の意味でも、字がある事だけしかわからなかった。それくらい薄暗かった。男の座る木製椅子のわずかに後ろ、横三人並んで座れるだろうソファーに、浅く腰掛けた。

「外側から何も受け取らない情報は、ただただ、『ありません』という情報だけを導き出します……ありませんという事は、そこを越えて関係を何処とも持たないのですから……テレビにとっても、砂嵐は、『ありません』以外はわからないでしょう……。」

 特に何にも感化されない抽象的話題を、男はひたすら続ける。あとは、たった一匹の蠅がわたしの周辺を飛び回り、時折腕に止まっては、羽根を震えさせ低音を鳴らすだけ。

 やがて、女が静かにロビーにやってきて、テレビの前、わたしの隣に座った。明るい所で見ると、彼女の肌は死体のそれに近く、青白い。わたしに止まっていた蠅が、彼女の方に止まり、喜びながら腕をすり合わせている。顔をのぞき見ると、女の虚ろな目の先には砂嵐がある。

「何が起こっているかは……見た方が早いでしょう……死体は砂嵐だから……。」

 男がテレビに手を伸ばすと、音量のボタンを発狂めいて連打し、緑色のカラーバーが画面端まで到達すると身体を休める。鼓膜を強烈に振動させる感覚は、砂嵐とわたしが共鳴しているようで、魅力的だった。





 外は、小降りの雨が降っていて、霊安室程では無いにしても、寒い。建物を振り返ると、そこはこじんまりとした病院で、玄関先の広場では、一人の長髪の男が、空を仰いで大声で何かを叫んでいた。声にならない声は識別不可能で、意味は何も取れなかった。遠くの景色は、濃い霧のせいで見えない。

 彼の足下には、水に塗れてクシャクシャになった段ボール、そこから飛び散らされた用紙が舞い上がっている。病院の壁に一枚張り付いていたので、取ると、

『死亡診断書・死体検案書』

 と書かれていた。白いシャツは泥で汚れ、ネクタイは緩みきり、ズボンはベルトが取れてずり下がっている。余程長い時間、ここで狂い事をしていたようだ……。

(あの人は。)

 後ろのドアがいつの間にか開けられ、先程の女がすっと立っている。看護服を着ている事に気が付いた。目の間、額には蠅が一匹蠢いている。

(自分の、死亡診断書を探しています。)

「……どうして?」

(どうして……。わからない。)

 言葉に合わせて、蠅の羽根が(ブブブ、ブブ、ブ)低音で音を鳴らした。

「彼とは話せないの?」

(話せない。)(ブブ、ブブブ、ブ)

 雨が曲がる。皮膚の水滴が冷やされる。紙が再度宙を舞うと、男は両手を高く上げ、声帯を縮めて雄叫びをを上げる。二人で、男の様子をじっと眺めていた。

(言葉。)

「言葉?」

(言葉が示す先、わからなくなって。)

「言葉……どういう事?」

(わからない……という言葉が、どんな事を。表すのかも……わか、砂嵐が、聞こえます。)

 看護士は、病院の向かい側にある林を指さすと、その指先に、蠅が飛び、同じように林に足を向けた。

「林の音……だよ?」

(わたし、と、情報の、関係が、切断されて。)

「ねぇ、林の音だよ……林。」

(ブ、ブブブ、ブブ……。と、聞こえて。)

 不審に思い、看護士をのぞき込むと、眼球の中心に、蠅のシルエットがぐるぐると回転して止まり、しかし看護士はとても悲しそうな表情を、目から下に浮かべては、ただ、言葉、言葉、と続けるだけになった。

 段々、彼女の言葉は、彼女に止まっている一匹の蠅が発しているように感じ、そしてそれが、何処にも違和感なく合致しているような、ある種の有り得無さをわたしに与えた。それでも恐怖は無く、彼女はただ会話をしたいだけのようにも、感じ取れた。

(お願いが。)

「え?」

(名前を……。名前が無いと、言葉から突き放されて。)

 純粋に名前を求めている様に思えたので、ハエ、と呼んでみた。いいですね、と彼女が言うと、眼球の中の蠅が再度ぐるぐると高速に回転していた。





 一度、病院のロビーに戻ると、白衣の男は砂嵐の音量を最低まで戻し、背中越しに片手で、こちらに来い、と呼んできた。わたしとハエでロビーに入ると、彼は、

「……情報と記憶は、他との関係を作ります……。」

 抽象的話題の好きなこの病院の二人、そう思った。話せますか、と、再度彼がたずねてきたので、わたしは、勿論、と返した。

「封筒がそこにあります……。」

 さっき置かれた封筒を取り、灯りの下で目を凝らすと、ボールペンの雑で小さい字で、死亡診断書、と書かれていた。

(外の人の、診断書。)

 ハエが言う。探しているものを彼に渡さないで、砂嵐の男が控えていたのはどういう事か、と暫く模索してみたけれども、やはり、渡してはいけないものだから渡していない、としか考えられない。さっきから、わたしの事も、砂嵐の事も、ハエの事も、この病院の異質な雰囲気も……全部、意味が意味として取れない。いっその事聞いてしまってすぐに解決したくもなる。

「わたしは死体なのに意識がある……それはどういう事?」

「言った通りです……情報と記憶は、他との関係を。」

「わからない。……ハエだって、今、わからない、って言葉が示すものは、わかるでしょう。」

 ハエは、身体を小刻みに震えさせながら、封筒を持ち、ブブブブ、と声を発した。わたしの手を握り――それは酷く冷たい、骨張った指だった――再度外に出よう、と少し引っ張る。

 砂嵐の男は、テレビの音を再度最高にしてから、立ち上がり、一人足早に外へと出て行った。わたしは、ハエが封筒を手に持って外へと出るよう急かすので、きっとあの男はどうにかなってしまうのだ、と何となく把握出来た。

「行くの?」

 二人、調子をずらして、言葉無く頷いた。





 雨は大粒になり、砂嵐の音とさほど区別がつかなくなってきた。先に病院の外へ向かった二人、ハエと砂嵐の男は、髪や衣服から雨を滴らせながら、あの診断書の男を取り囲んでいた。

 雨に濡れるのが少し億劫でもあったし、それ以上に、眼前の三人との距離がとてつもなく遠くに感じられ、『わたしは死体であるかも知れない、しかし、共通する要素一切が無い』、と思う。近づきたくなかった。

 ……雨が複数の水たまりを打つ音。玄関の雨除けが大量の水を流す音。遠くの林で葉と葉が擦れ合い弾かれる音。目の前の男がハエに襲いかかり、ハエが水浸しの泥に倒れ、手に持つ封筒を男が奪う……一連の音の多様さがわたしの意識に表象し、視覚は後続きに訪れる……彼らはそうではないだろう。

 診断書の男が、封筒の中から用紙を取り、それを掲げ眼前に広げる――その様子を、砂嵐の男は直立で眺め、ハエは転んだまま見上げている。眼前に用紙を広げると、男は動力源を失ったかのように固まり、雨が降り続いている、浅い水面を越えて泥に叩きつけられる鈍い音……倒れた。何が起こったのかわからなかった。

 ハエが、(ブブブ、ブブブ、ブ)、とわたしを呼んだ。一度、首を左右に振った。ゴウン、ゴウン、という音が聞こえた。もう一度、ハエがわたしを呼んだので、裸足で泥の上に立ち、一歩一歩を進んでいった。爪の間に砂が入り込み、足の裏には大きな石の感触がした。

 倒れた男の表情を見て取れる位置まで来ると、ハエと砂嵐の男が、倒れた男の頭部に手を置き、(手。)とだけ言った。一人、既知の事実を知らず、孤独に苛まれながら周囲をただ眺める。質問を大体は許されない状態で取り残されて、意味もわからないままに二人に付いていき、自分の状態を反芻する間も無く、狂気に落ちた男の死体の、頭部に手を当てろ、と言われる……。

「ハエ、何がどうなっているの……。」

 ただ、ハエしか言葉上の関係が無く、ハエの方が話しかけやすい、それだけで声をかけた。わたしは、ハエに凄く期待していた。

(手。)

「手?」

(手。)

「手って、手?」

(手。手の事。)

「手を?」

(手。手に。)

 今はハエに付いていくしか無いのか、と、無さ過ぎる関係の孤独をどうにかしよう、と、思い、わたしは、ハエの手の上から、自分の手をあてがった。ハエの手は雨の温度と一緒に冷えて、骨の感触しか無かった。

 ハエが、微かに、笑った。





 ……関係を切ってしまったものには、関係を与えたがるものが群がるように思う。それは、私が私である事を否定しそうだから、決して触れてはいけない考えなのだけれど……一度、私は、私の周囲に蔓延っていた関係という関係を、残さず断ち切ってしまった事がある。抽象的すぎるけれども、私にとってはかなり具体的な話題だ。

 過去の経緯がどうであれ、私から何かへ、関係を求めたって問題は無いだろうとも思う。一度全てから離れてしまって、今にどう在り続けようかを考える必要が無いのだから、どんなに空虚さに満ちていたって、欲しいものは欲しいと思う。

 そう、ミドリとマクドナルドで会話をすると、彼女はマフィンを口に加えながら、

「イシキとあたし、似てるね。」

 と、言う。

「そうなの?」

「うん。自分がいなくって怖いなって時って、欲しいものがあれば怖くなくなるから。」

「欲しいのか、欲しくないのか、わからない時は?」

「わかんない。貰った時に嬉しければいいじゃん。」

 能動的な受動が喜びに繋がればいい、とミドリは言う。私は頷いた。何かとの関係を求めてもいいのかな、と彼女に返答すると、服だけは変えた方がいいよね、と抜けた返事を頂いた。


 ミドリに封筒を渡され、また夜あの場所に来てね、と言われた後、彼女は早朝の新宿の雑踏に消えていった。私はマクドナルドを出て、OIOIの入り口前に座り込んだ。ミドリが言うには、『自分をよく解っていない人』が着るドレスがここの上の階に置いてあって、死体みたいな風貌の私にはよく似合うだろう、と。私は、自分の事がよくわからない。

 字の書かれた封筒の中を見ると、紙が数十枚入っていた。これと、私は、どんな関係でいるのか……間にミドリがいるだけの用紙だと思う。ここに描かれた堅苦しい人物は誰だかわからない。そう思いながら、患者用の服の胸元に仕舞い込んだ。

 十時になるとシャッターが開き、冬なのにアイシャドウとスカートの丈が凄い人と眼が合った。じっと見ていると、何かを言い掛け止まり、冷えた視線で、どうぞ、と言われた。立ち上がり、教えられた階にエスカレーターで向かった。

 真っ黒な棺が置いてある店だ、と教えられていた。棺は飾りか玩具みたいに店内に置かれている。とにかく全体が真っ黒な店員に、服お似合いですね、とお世辞を貰う。これしか着るものが無かった、というと、冗談がお上手ですねー、と語尾を延ばした愛想を頂いた。青白い肌の色が素敵です、と自己陶酔的な趣味をのたまわれた店員に苛苛し、適当な上下セットのドレスを紙七枚で買い、すぐに出た。トイレで着替えると、コルセットの締め付けは一切ないし、スカートは中のワイヤーで無駄に膨らんで気持ち悪い、首に結ぶレースは一度固結びしたら直そうとしても解けない、細かい部分が安っぽい作りにもなっていて早速糸が解れ始めた。中のチラシは真っ黒で虫のレリーフが施されている、悪趣味なので紙袋と一緒に路上に丸めて捨てた。自分と周囲との在り方を考えなければ、入院したままの姿の方が良かっただろう。

 OIOIを出ると、晴天が目に刺さり、そうかもう昼なのか、と店の時計で確認する。そういえばお腹が空かない。喉も乾かない。夜までは、まだひとりだ。

 封筒の中にはあと三枚入っている。時間を潰す宛がそういえば無い。紀ノ国屋書店が近くにあったろう事を思いだし、歩き出すと、すぐ正面に電気屋があったのがすごく気になり、二階に上がり、テレビが電源入ったままで放置されている場所、何が映っているのかも考える事も無く、当然で鮮明な仮想を表象した。

「すなあらし、だ。」





 手を解いた。わたしが手を引いたのを確認すると、ハエは肩から指先にとまり、毛の生え揃う足で、そっと林を指した。砂嵐の男は、一言、

「雨が晴れました……。」

 何処かから用意してきたストレッチャーに、診断書の男を慣れた手付きで軽々しく持ち上げ、白い布をおもむろに被せ、覆うと泥がすぐに染み込む、泥濘の中に嵌った車輪をぐいぐいと押して進もうと踏ん張る。 

「意図から、意味が生まれます……意味は無くって、意図だけがあって、その意図は、意識が生み出します……。」

 ゴトン、と泥濘を抜けたのを拍子に、身体を傾け体重を乗せるだけの力を入れる。不規則な衝撃を受けながら、ストレッチャーが動かされる。上に乗るものが、手と足を左右に揺らす。

「スナアラシ、貴方の言う言葉は、抽象的すぎて、わからないよ。」

 身体をふらふらと揺らしながら、病院へと戻っていく背中越しに。

「抽象には、その先があるのです……。」

 病院の扉が閉ざされると、隣にいるハエが小刻みに、(ブ、ブ、ブ)と羽を鳴らした。指先のハエが入り口の方へと飛んでいったので、わたしは隣のハエと一緒に向かった。裸足の一歩一歩は泥濘がよくまとわりつき、散らばった紙を時折踏むと、不思議な層が出来た感触と紙の皺が少し鋭いのを受けた。




 雨が止んだ病院には、微かに太陽の光が差し込み、ロビーの光をスナアラシが消すと、窓という窓から明かりが反射しているのがわかる。窓の近くは熱を受けて快活な印象を与えるが、窓から離れた廊下などには影が降り独特の湿っぽさを見せる。明かりが無くても、病院は十分に明るい。

 ここでいいですね、と、スナアラシが短波音源のような声を出すと、ストレッチャーにかかった布を解き、死体がそこに露わになると、もう、生きている、死んでいるの問題では無いのかな、と不意に感じてしまった。診断書を離すまいと片手に握り締めて、死体になる事を決め込んでいるかのような『振り』に、多少の狡猾さを見取ってしまう……。そうなれるのなら、わたしだって『死体の振り』をして眠りたい! そう文句を垂れたって、この人は全ての関係を打ち切り、周囲にまかせっきりの受動態になってしまっている……あれ、『振り』って、何だろう?

「脳を取り出します……。」

 と、スナアラシが再度、短波音源の声を出し、奥の廊下へと歩き、T字を曲がると見えなくなった。わたしがロビーに座ると、ハエの何処にも止まっていないハエが、隣に座って、

(脳を取り出して触れば、もっと奥へ。)

 脳を取り出せば、あの男は『振り』を出来なくなるだろうか。

(脳にある情報を読んだり、動かしたりして、ここを離れて。)

 脳から、わたしは何処かへ行ってしまうのか。

(脳とずっと言うと、言葉が破損していって。)

「脳、ってずっと言っていると、ハエのその言葉が、なんとなくわかる気がする。」

 もうハエは笑わなくなっていて、外の林を指差すだけになった。静かにスナアラシを待つのも、ハエが言葉を発しない事のせいか、少し息苦しい。テレビの電源を付けて、音量を半分まで上げてみる……、ハエが、ハエの鼻腔に少し入り込み、口で、(ブブブブブ)と言う。もう意味があってもなくっても大丈夫な気がしてきた。ハエが隣で、わたしへ反応を返してくれる、それだけで拠り所の無さが消えていく気がした。

 しばらくの間、砂嵐をじっと眺めて砂嵐が砂嵐である質感を楽しんでいると、スナアラシがロビーへ、回転のこ、金槌、楔を持ってやって来た。テレビのコンセントの下に、回転のこの電源を刺し、スイッチを入れると、規則的に甲高い音を鳴らし続ける歯、砂嵐の画面と音がちらついた。ハエへ一言、ストレッチャーを、と指示される、ハエは鼻腔の奥へ引っ込み、立ち上がって、入り口からロビーへ、男を押して持ってきた。車輪のストッパーを足で押してかけて、男を少しストレッチャーからずらし、頭部だけが宙に浮いている状態にし、両手で首の下を持ち男を固定すると、

「意識は、どこに宿っているのでしょうね……。」

 右側の頭蓋骨へ刃が下ろされる。金属と木材の中間をひたすら削る音がして、スナアラシは無表情で、黙々と頭部を半周させ、刃が走った箇所には空白の線だけが残る、一度作業が止まった。左側へ移動し、再度空白の線を延長するように円を当て、半周。髪の毛を大量、白い粉と赤い液体を少量周囲に散らし、電源を切る。楔と金槌に持ち帰る間、ハエが男をストレッチャーに戻し、後頭部を持って、ぐぃ、と頭部を天に向ける。

「脳から、僕達は出られた事がありましょうか……。」

 間も無くスナアラシが側面から、削った線へ慎重に楔と金槌を打ちつけると、少しの力で、男の頭蓋骨は取れた。瑞々しさの無い、やわらかな脳が覗いて見せた。

「他者の感覚の志向性は、他者から完全にわかるのでしょうか……。」

 ハエの固定そのまま、スナアラシは楔と金槌を男の脇に置き、両手にゴム手袋を嵌め、左右に乱雑に指を差し込み、ぐ、ぐ、と引っ張ると、脳は、右脳左脳脳幹、形しっかりと確認できる形で取れた。一瞬だけ、その男の手を確認してみた……診断書は、握られたままだった……?

「人は、脳と脳で触れ合えないのでしょうか、ね……。」

 身体をしゃがませ、両手を下げ、バネ一杯に立ち上がり、腕を振り上げ、手を離し、脳が勢いよく宙に舞い、天井へ向かい、接点を作り、面を作るように歪み、平面を覆うように広がり、破片を周囲に散らし、部屋一面に拡散し……。





 新宿駅前のベンチに座り、雑踏をじっと眺めている内、砂嵐が感覚質全体を支配し始め、内面は潜み続ける情報だから無関係には決して出てこない、一つ一つの人間の動きにはまるで意識が宿っていないかのような印象を受け、新宿のこの風景の中には色々な情報が溢れ過ぎていて、もし全ての情報を拾おうとしたら頭が破裂してしまう……その情報の中に死体一人紛れ込んでいたっておかしくはない、存在の不思議は追わずに、視覚化出来ない情報は尊重せず、でも情報は関係を持たない人には流れない、この雑踏の一人の死体は、関係が今の有り様と結びついていないから、いてもいなくても一緒なんだ……砂嵐が抽象的な何かを、意図と一緒に押し付けてくる間……ドミノ倒しのように情報が流れて、意図を持たせて組み上げられたものを眺める、倒れる時にだけ意味があり、倒れ終わると自分だけが立ち、後にはピースを片付け整理して、何を見たかと記憶に頼り、やがて記憶は関係を薄れさせ切断される、孤立した脳内のニューロンの、手を繋がない孤独のままに死滅する、脳の中のたった一つの細胞の出来事……街灯だけが周囲を照らしている夜の中、空ろに開いていた目をぱちりとさせて顔を上げれば、雑踏にいる人々の種類が変わっている印象を受け、ミドリが来いと言っていた場所は、確か西部新宿駅の周辺にあるマクドナルド、服を見ると真っ黒で、人々の私を見る目が朝とはまったく違うし、集団で視界にいる人という人が何だか怖い、強固な関係性で私を追い詰める様は、景色の人間という人間が手を繋げて私の前に壁として立ち、誰も手を残さず伸ばさず、イシキという人物はイシキとして人と手を繋げない、求めるにも掴まり所が、ミドリの残すただ一本の手しか思い出せない、ただ一本の手だけが私自身の思考すら壁のように思える中の、穴を開けるただひとつの情報だけれども、死体は果たして自分から関係を作り出してもいいのかな。


 ……息をつけない位に、ミドリに会わないと不安だった。でも、そうだとしたらミドリのもう片方の手はどこと繋がっているのだろう?

 ミドリと待ち合わせをしている場所へと、広場の時計を確認してから向かった。入り口に彼女はいて、手を振ると振り返してくれた。

「休もう?」

 と言われたのに安堵した……。こっちだよ、とミドリが言うと、手を握り締めてぐいぐいと私を引っ張る。何も考えずに、彼女の向かう所についていった。

 何も考えない場所へ向かおう、と彼女が教えてくれた場所は、しかし、どんどんと人混みの無い場所へと向かっていき、車の音さえ聞こえなくなり、街灯だけが照らしてくれる場所まで来ると、ここの二階だよ、と言う。見れば、トタンで出来た壁さえ剥がれかけている、朽ち果てたアパートだった。

「ここなら考えないでもいいんだよ。」

「でも、怖いんだ……何だろう。」

「大丈夫、怖くないよ、ね、イシキ。」

 再度掴まれた手は、さっきよりも力が込められていて、離すまいとするようだった。そのまま階段を上らされて、木製の模様だけプリントされた扉の、沈んだスチールのノブを捻った。

 室内は、外と同じくらい暗くって、街灯が窓から同じような調子で室内を照らしている以外、空き室そのものだった。ドアを閉じると、コンクリートの狭い玄関、靴を脱いで上がり、木目の床は歩くと一箇所だけ軋みがあり、右手にあるお風呂場の水色タイル、金属の湯船は使われた様子が無い、右手のキッチンも、湯船と同じ様な金属と使われなさ。たった数歩の廊下を渡ると、畳は六枚敷かれていて、井草の匂いが部屋を満たしていた。

「窓、開けるね。」

 木の枠で出来た、少し光の歪むガラスの嵌められた窓を、叩きながらずらして開けると、井草の匂いは消えて、冬の少しだけ湿った綺麗な空気が流れ込んできた。

「知らない虫の声がする。」

 畳の上に、スカートを引いて座ると、ミドリは窓の枠に座って、私をじっと見つめてきた。

「イシキ……虫の声ってね、ただただ何かを求めている声なんだよ。」

「……どういう事?」

「鈴虫とかはね……優しげで涼しげな声を、出すじゃない。秋に聞くと嬉しくって寂しくって。でも、オスが単に、生殖の為にメスを呼ぶ為の声で。」

「何も意図がわからないよ。」

「いいの、聞いているだけで……。ねぇ、生き物って、何かを強烈に求めないと、駄目なような事を、時折思うの。それぞれの生き物が、何かを求める為だけに、あんな変な形とか、変な性質とか、持っていて。それは人も一緒なのに、人は、何かを求める事を、想像だけで済ませられるように出来ていて。」

「……うん。」

「ミラー・ニューロンって、話があるの。脳の中には、ある対象を自分に投影する為、それだけの機能を持った、ニューロンがあるって。投影をすると、うんと、人が食べているのを見ると、自分も食べているように感じてしまう、ように。脳から出られない生き物が、唯一脳から脳を覗ける機能。」

「投影。」

「その投影、は、もしかしたら自分自身をミラー・ニューロンに投影して、自分に感じさせているんじゃないかって……話もあるの。それが、自分が自分を管理し、される、意識なのではないか、とも。」

「自分で自分を投影する?」

「そうするとね、動物は、自分がいる、って思うのかも知れない。でも、そうじゃない虫とかは……ただ、自分とか考えないで、何かを強烈に求める事で、求めた結果として充足を得る。ミミズとか、脊椎しか無いのに、どうして、何かを只求めるの?」

 その辺りまで聞くと、ミドリが、あの昼の話題を覚えていて、それへの答えを私に提示してくれたのだ、と気付いた。

「その中でも、人はどうして、人だけが、求める事を抑えようとしているのかなって……あたし思う、求めるのは、鈴虫の鳴き声くらいに、綺麗な事なんだって。生きるって、欲しいって思う事なんだって……。」

「でも、ミドリ。」

「どうしたの、イシキ。」

「求めても、求められないものがあるよ?」

「うん……その、境を、ニューロンが知ろうとしているのかも知れない……。投影は、悪い事じゃない。物語に、人はいつも、他者と自己の同一を求めるのだし。出来ない事、難しい事って、でも、沢山ありすぎて……。」

 ミドリが、窓から降りて、私の隣に座った。

「何の形も与えないで、求める事は、どうして不可能なのかな……何の手段も用いないで、求める事だって出来る、そう思うのに……。」

 ただ黙った。二人で街灯の光だけを眺めていた。何の形も与えずに、求められる事ってあるのかな……。

「ねぇ、ミドリ。」

「……?」

「求める形なんか無い方がいい……でも、要素で、私を、求めていないよね。」

「え?」

「だって、ミドリは……。私が、訳もわからないまま目覚めて意識を持った死体だって、気付いている。私を死体としての要素で求めていないよね。私は、何かを求める事なんて、出来やしない、本当は。それでも受け入れる事だけは出来る。でも……イシキとしての、私じゃないと、何かの要素を持ってしまっている。」

「……イシキ。嫌だよ。」

「ミドリは、だってこの新宿では大切な関係でいるのに、ここからから目を離せば……。」





 目を離すと、スナアラシが投げつけた脳は跡形も無く、天井にも床にも残っていなかった。ハエが、鼻腔から出て来て、わたしの周囲をぐるぐると飛び回り、耳元に止まると、鼓膜へ直接訴えかけるように、(ブブブ、ブブブ)と羽根を鳴らす。とても不快な声に思えて仕方なかいのに、わたしには、ハエを払いのける事なんか出来やしない。

 スナアラシが、男の乗ったストレッチャーを静かに押して、ロビーからいなくなると、ハエが耳の穴へと入ろうとしてきた……やめて、と言うと、ハエは数秒耳元に立ち止まり、耳たぶを一度だけさすり、ハエの鼻腔に再度戻った。

 テレビの電源を切った。ハエからは何の反応も無く、前よりも生気の薄れた、筋肉が硬さを失って垂れ下がったような頬と唇。眼は光を失っていて、淀んで白く変色している。ハエはハエ自身として宙を飛び回るようになり、放置された看護士は、只の死体になった。

 わたしは何かから求められたから、動く事になったのかも知れない。そして、わたしの身体が死体なのなら、どうして腐敗しないのか……きっと、ハエがわたしへ関係を一方的に与えないからだ。

 形を与えないと求められない。その不可能性に気付くと、ハエがどうしてこんな回りくどい事をわたしにしてきて、意識がわたしに戻ってきてしまったのか、わかるような気がした。求める事に、ハエはきっと相互関係が欲しいだけなんだ。ハエがハエとして、死体としての要素のわたしを求める事は、きっとしない。

 ハエが立ち上がった。硬く変色した眼球をこちらにふっと向けた後、わたしに強い衝撃が走り、壁際に押し飛ばされその場に崩れ、何が起こったのかと顔をあげると、ハエがハエ自身の頭部に、あの回転のこを当てている。まって、と叫ぶ間も与えられず、スイッチが入れられ、あらく一周刃を回すと、壁に向かって頭突きをし、ひび割れの音と一緒に頭部が落ちる、脳を露にしたハエが、眼から涙を溜めて、

「嫌だよ!」

 と言う。外見は、人が他者を想像した時の、大半を占めるものなのだと思った。

「何をするのにも形が無いと駄目だよ!」

 聞いた事のある、大きな声だった。この部屋では聞いてはいけない、場違いな声だと感じた。ハエが脳に手を伸ばし、ぐぃ、と側面から指を沈めると、ハエの身体から一切の支えが消えたのか、間接も筋肉もおかしい方向に、四肢が曲がりくねって倒れてしまい、床を蠢く様子には、何をハエは嫌がっているのだろうか、を、微かにクオリアとして受け取れた思いがした。

(手を。)

 とハエが呼びかけた。

「手を。」

 と、ミドリの声がした。

 どちらに反応したのか、わたし自身も曖昧にしながら、脳に突き刺さっていない方の手を、取った。





 畳の部屋の、あの知らない虫の声は消えていて、隣にいたミドリを見ると、ミドリの背中には大きな蝿の羽根が生えていた。ミドリはとても魅力的な笑みを浮かべていて、臆面も無く、その羽根から音を鳴らしていた。両手両足を大の字に広げ、

「イシキ、言い忘れていたけれども、その服、似合っているよ?」

 と言われると、そういえば封筒の中に、まだ何枚かの紙が残っているのを思い出した。これ、と彼女に渡すと、それをつかって街を回ろう、と提案された。映画を見たいし案内出来るそうなので、ミドリについていく事に決めた。

 アパートを出て、再度新宿の中心街へと向かっていく間、蝿の羽根をずっと震えさせながら、にこやかでいて、あの場所とあの場所のどちらが私の元いた場所だったか、全く曖昧になってしまった。ミドリと、ハエと、どちらが彼女なのだろう、そう考えたって、私自身も違うのだから、やっぱり、形が伴わないものを理解するのは難しいんだな、と改めて知る。

 新宿の裏路地の映画館に入ると、壁にかかっているポスターは凄く官能的で、とても軽い気持ちで入れる雰囲気では無かった。

「これを見るの?」

「そう!」

 笑いを絶やさないままに中に連れられた。映画は既に始まっていた。人はまばらに座っていて、殆どが男性で、ミドリの背中についているものを驚きながら見ては、飾りだと片付けて画面に視線を戻す。一番前の席に座った、席の隙間にお菓子の袋が押し込められていて汚い……情事を、おかしな儀式としてしか見られない、あれは何をしているのだろう。声を出して笑いながら、ミドリがポップコーンを貪っている時、

「ねぇイシキ。こういうシーン、どこかで見たことない?」

 と言われたが、記憶なんて無いよ、と返した。ミドリは落胆と焦りを見せながら、じゃあ次のに行こう、と、画面内でこれから結合するだろう場面を無視して、ポップコーンを席に置いたまま、映画館を出て行ってしまった。

 早足の彼女に付いていくと、タクシー乗り場にいて、二人で乗り込むと、知らない地名を彼女は運転手に告げた。かなりの額がかかるが大丈夫か、と確認されたので、私が運転手にお札を全部渡すと、問題ないらしく、気だるい挨拶と一緒にアクセルを踏んだ。

「記憶にだけは他人が宿り続ける……イシキ、わかる?」

 車窓から流れていく景色を、何も考えずに見ていた私には、そのミドリの言葉が理解出来なく、彼女の方を向くのも少し疲れてしまう。色々な光があって、色々な人がいて、色々な物があって、そのどれもが、私には訴えかける事をしてくれない。

「イシキは、確かに、関係を全てと断ち切ってしまったから、一人かも知れない……でも、でも、あたしと、スナアラシは、イシキとずっと一緒にいるんだよ……外側には、沢山の暴力的な情報がありすぎていて、いつもイシキを無くそう、無くそう、と襲ってくる。でも、貴方を守るモノは、貴方の内側にいる……イシキは、求めている限り、イシキで、あたし達は、求められる限り、イシキと一緒。」

「どうして……そんなに距離感の無い言葉が言えるの。」

 苛立っているのか、放棄しているのか、わからなく、そういえばミドリはどうして私と一緒にいるのだろう、と思い始めた。私が目覚めたのも、何かを求めた結果なのだとしたら、私が求めたのはミドリだったのだろうか……まだ、少し違う気がする。車から見える風景から、少しずつ明かりが消えていく。

「……求めて。」

 窓の外の景色が、段々と、荒い目のドットのように見えてくる。ドットには、最初こそ色がついていたのに、段々と色が薄れて白と黒のコントラストだけを表すだけになり、それでも何か寂しさから動く事をしないでいると、景色は、白と黒の点それだけになり、それらが目の前を流れて、タクシーの中にいる事さえ流れ……ミドリと私がいるだけの、砂嵐一杯広がる風景。

「怖いよ。」





 ハエが目の前に、糸の切れた人形みたいに崩れていて、わたしは手を離していた。その掌には、ハエが、お腹を向けて乾ききった様子で置いてあって、羽根を幾らじっと見ても、動きもしない、音を鳴らしもしない。死体が、増えていく……このままでいると、わたしの周囲には、死体しかいなくなってしまう。病院のロビーには、ゴロゴロと物ばかり増えていって、外は太陽が沈んでいて、明かりもつけていなくって、暗い。

 ふっと、このまま自分が自分としていなくなってしまって、時間や空間から切り離されて、二度とここへ戻ってこれないのではないか、という、強い断絶を感じると、私自身に恐怖と、断絶のリアリティが襲い掛かり、目の前のこの二つのハエが、そのリアリティを迎えてしまっているのだとしたら、求めていないものは生物じゃない……これは何も求められなくなっている。

 テレビの電源を急いで付けて、音量を最大まで上げると、部屋には砂嵐の音が鳴り響き、ミドリ/ハエがこのままだといけない……掌の死体を、開かれた脳の中に押し込んで、背中にミドリ/ハエを背負い、急いでスナアラシを呼びに霊安室に向かった。

 階段を下りると、ゴウン、ゴウン、と何かが回転する音が段々と近づいてきて、裸足にはかつて感じた事のある感覚が思い出され、背負うものがただ、スナアラシによってどうにかなる事を頼りに、ただ走った。

 霊安室の中にスナアラシはいて、彼は、わたしが出てきたあのロッカーに手をかけている所だった。閉めないで、と叫ぶと、スナアラシは手を離し、状況をすぐに察したのか、ミドリ/ハエを床に寝かすよう指を指した。

「意識は、意図を持って、情報を、求めました。関係は、内部にこそ、宿るものです。」

 スナアラシは今までの無表情を崩して、真剣な眼をわたしに見せた。彼の手が、ミドリ/ハエの脳に突き刺さったのを確認して、わたしも、手を突き刺した。ハエの手に感じたあの冷たさと骨ぼったい感触は一切無く、むしろ、暖かかった。





 タクシーは、静かな田園地帯を走っていて、とても暗い道には、沢山の虫の声が溢れていた。車のライトだけに照らされた道の先には、ずっとずっと緑色が続いていて、遠くの山から覗く空には、うっすらと青色が見て取れた。

「静かな空間ですね……。」

 ドライバーが、ハンドルに軽く手をかけてこちらを振り返った。少し優しげな表情だった。鈍足で、車は道を走っていく。

「病院へ、向かってください。」

「誰を搬送するのですか?」

「私の隣にいる人を。」

「焦らないでも。ここは、意識を守る場所だから……意識は、死体のように受動態であって、そして、求めるものです。」

「わかるよ、その抽象的な話。」

「イシキは、何処にいるかわかりますか?」

「意識は、物事の、きっと全部にいるんだと思う。でも、イシキとしての私は、ここに沢山いる。」

「人は、脳を出られませんから……。」

 ドライバーが、ハンドルに両手を掛けて、運転席に深く座り込んだ。隣を見れば、羽根を生やしたミドリが眼を閉じて、疲れきったように眠りについていて、鼻の前に手をかざすと、風がリズミカルに皮膚を撫でる。前を向いて、道が思ったよりも長い事を確認して、ドアにもたれ掛かって窓に視界を向ける……形が無くっても、もう求められると思えた。

 だから、形をあたえるのを、病院についたら、やめよう。これは、脳から出したもので、脳から出られた結果じゃない……。





 ゴウン、ゴウン。霊安室には、沈んだ機械の回転音に合わせて、水を凍らせる程の風を部屋に満たす。その中にいるわたしは皮膚に寒気を感じ、しかし危険は一切感じず、一つの質感として意識に表象されているものとして、楽しむ余韻を持ちえていた。

 その表象の中で、『脳が見せているもの』の形、この意識と、イシキは、どちらが自分自身だったのだろうか、と詮索する間が出来た。

 意識は、求める事それだけに依存して、脳は意識を鏡に映す。その関係性にのみ、意識は現実を導き出せる。

 いろんな物事が、恐ろしい量の情報を内包しながら並列に、目の前に現れる。拾いきれない者には、強烈な疎外感を与えるだけ与えて、それは『物事は相互関係でいる』と伝えながら、関係の外に弾き飛ばす。だから、安心出来る。この風景の中に、死者が一人さまよっていたって、おかしい事では無く、相互関係の結果なのだから。

 スナアラシが、一つのロッカーを開け、そこにハエを収棺した。扉を閉じると、形がいらないのなら、と言い、自分も一つのロッカーに入り、パタリと閉ざした。

 霊安室に一人になった。次は、タクシーに乗って、三人が来るから、ここに入って貰ったら、わたしも眠ろう。

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脳宮 熊埜御堂ディアブロ @keigu_vi

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