第44話
*
父の死を目の当たりにしてなのか、先の混乱に乗じて岬に立っていた筈の菊織ちゃんの姿が消え失せていた。
岩肌を舐める様に視線でなぞいっていくと、断崖を縫う様にして海面側へと下りて行く菊織ちゃんの姿を認めた。その手には、何やら四角い木箱が持たれている。
振り返ってみると、先程まで菊織ちゃんが背にしていた岩陰にあった筈の四角い影が失せている。何の目的があったのか、彼女はずっとあの木箱を側に置いていたのだ。
「危ない菊織ちゃん、何処へ行くの!?」
「行かせてやるのが……いいのかもしれない」
白沢はそう言った。
「はあっ?! 何言ってるんですか!」
「ただ、僕にもまだ一つだけ、怪奇探偵としてすべき事が残されている」
訳の分からぬ事を言った白沢を後にしながら、私は矢で弾かれた様に飛び出していた。すっかりと朝日の上った青い空の下を駆け出す。
風荒ぶ断崖絶壁の壁面を、ヤモリの様に張り付いて下っていく。遠くから見ている程危険では無い。道幅もある。ロッククライミングよろしく道なき道を行く訳じゃない。ただし危険極まる。足先から転がり落ちていった石塊が海の藻屑になるのを私は恐々と眺めた。
何層にもなった白い岩場の道をつづら折りに下っていく最中、私は背後に続いているであろう白沢に向かって振り返るでもなく聞いてみた。
「菊織ちゃんも想像妊娠しているんですね?」
返答が無い事に振り返ると、そこに白沢の姿が無い事に気付く。あの薄情者は危険を見越してこの崖っぷちを下る事を辞退したのかと驚愕し岬の方を見やるも、彼の姿もまた、何処にも見当たらなくなっていた。
白沢は一体何処へ消えたのだろう。しかし激しくなった勾配に、もう思案している余裕は無かった。
前方には海へ海へと断崖を下っていく菊織ちゃんの姿がある。朝日のギラつく向こうの海に、水上警察のボートが二隻、この島へと向かって来ているのが見えた。
菊織ちゃんが大事そうに手に持っているあの木箱は何だろう? あれのせいで風に体を煽られて大変危なげだ。それでも離さないのは、そこにとても大切な物が入っているからだろう。
しかし、大切な物とは何だろう?
私がこの島を出る時に持ち出したのは、母の写真だけだった。この島から持ち出すべきだと思った大切な物など他には何も無かった。
だからこそ思う。
――菊織ちゃんが大事そうに抱えるその木箱の中身は一体何なのだろうと。
やがて菊織ちゃんの姿が海面近くの岩陰に隠れて見えなくなった。もう転落する心配は無かったが、その先には荒波打ちつける海原があるだけだ。菊織ちゃんの見えなくなった辺りは崖の傾斜がなだらかになって海面にまで下りられそうな地点だったが、まさか泳いでこの海を渡ろうとは考えないだろう。
「まさか」
嫌な予感がして私は嘆く様な独り言を吐いていた。そして案の定、菊織ちゃんが見えなくなった岩陰の裏手に回ると、そこに闇の底に沈み込むのではと無いかと思える漆黒の洞穴が口を開けていた。
――
私の目前に口を広げた奈落。こんな所にトンネルがあるなんて事を知っていた島民が何人いるのだろう。
側まで迫る海面。その水位が一度上がれば、洞窟内が海水に満たされてしまうだろうという確かな恐怖を覚える。この暗闇が何処に通じているのかも知らない。
それでも、
「迷ってる時間なんてない」
恐ろしいと思いながらも、私は海面スレスレにある陸地へ上がり、懐中電灯の明かりを灯した。濡れた壁面を目にし、やはりこの洞窟は海底に沈む事もあるのだという事を考えると鳥肌が立った。
「菊織ちゃん、戻って来て、何処に行くって言うの!?」
私の声が狭い洞窟内に反響する。
しかし返答は無い。ただ忙しなく、洞窟内を進んでいく二つの足音が耳に残るだけだった。
私はこの肺の空気を残さず絞り出す様な声で、懇願する様に彼女に向かって呼び掛ける。
「菊織ちゃん! 戻って来て、絶対に私がアナタの事を守るから!」
返って来る声はないかと諦め掛けた所で、洞窟の奥から、くぐもった声が返って来た。
「お二人にはもう十分にして貰いました。唯さん、本当にありがとうございました。私はもう、姉と共にいきます」
共にいく――それは……どういう意味だ?
洞窟内を反響して返って来る声の具合がその様に私の耳には知覚されるのか、菊織ちゃんのその声が、何処か悲嘆の色を含んでいる様に思えて仕方が無かった。
――まさか、菊織ちゃんは死ぬ気なのでは無いだろうか? 姉と共にいくというのはつまり……
上へ下へと勾配し、時には非常に狭くなる一本の道筋は、まるで母の産道の様だ。
「お願いだから戻って来て! アナタまでいなくなってしまったら、本当に私は何の為にこの島に来たのか……っだから戻って菊織ちゃん!」
すると今度は、はっきりとした少女の声が返って来ていた。
「私たちは多くの人を傷付けてしまいました。戻っても警察に捕まるだけです。ようやくこの島の呪縛から解き放たれたのに、また囚われるなんて嫌なんです」
その声は先程とは様相が違い、明瞭に私の耳に知覚された。
そして前方に光の出口が見えて来る。菊織ちゃんはもう洞窟を抜けて、外からこちらに向かって話しているらしかった。
私もまた母の胎内より産まれゆく胎児の様に、この産道を抜けて光の出口へと飛び出していこうとした――
「えっ」
けれど、そこには海があった。
朝日煌めく無限の海。何処までも深い青空にゆっくりと漂う夏の雲。額縁いっぱいにコバルトブルーが広がっていた――
「私たちはただ、産まれでたいだけでした」
清らかな声につられ、私は前方を行く手漕ぎの船を目にする。
頭上の岩場に飛び出した樹木から、クマゼミがわんわんと鳴き始めていた。
海を介してすぐ側に立ち尽くしていた菊織ちゃんは、洞穴から顔を出した私を認めながら、可憐に微笑んで言った。
「この島で産まれるのは、神様じゃない」
一寸先にいる菊織ちゃんに、私は手を伸ばす。けれども届かない。海を挟んだこの隔たりは、僅かな様でいて、無限の様にも感じられた。
「私たちなの」
その行く末を照らす暖かな日差しが、彼女達を祝福する様に照らしていた。
――そうか、姉と共にいくというのは、そういう意味だったのか。
少女は抱えた木箱を足下に下ろし、その中からナニカを取り出して、胸に抱いた。
「姉の事は……残念でした。でも、大丈夫です」
菊織ちゃんの視線はじっとりと、足元に転がる木箱に注ぎ込まれている。
「この桐の箱に入れておけば、時間が止まるんです」
「……え?」
「あの時、唯さんの番号をメモしておいた紙が、いつまでもそのままだった様に――」
海原の景色に小さくなっていく少女の腹は、膨らんでいた。
「神様の子が、そのままだったみたいに」
愛おしそうに、彼女は胸に、わらわらと黒くなびくモノを抱いていた。
「生きてもいないし、死んでもいない」
菊織ちゃんが儚げにそう言うと、
彼女が、愛おしそうに、胸に抱いているモノが、こちらを向いた。
……目がある。額がある。耳がある。口がある。
光の加減か、どうしてか血の通っている風にも思える――だからその首は、
生きているのか、死んでいるのかが判然としなかった。
愛おしそうに、
我が子を抱くかの様にした腹の膨らんだ少女は、まるで――
「さよーならー」
菊織ちゃんが言う。
ひどく間延びした声の調子は、弛緩した日常のワンシーンを切り取っているみたいでチグハグだった。
その腕の中で、こちらを向いて蝋の様に固まっていた瞼がいっぱいに押し開いた。
さよーならー
確かに聞いた――。
こちらに背を向けながら海原に見えなくなっていく姉妹に言葉を失っていると、私の口は一人でに囁いていた。
「
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