12【天獄団十郎】

第40話

  【天獄団十郎てんごくだんじゅうろう


 二〇二五年八月八日 四時四十八分


 人知れず教主殿を後にした団十郎は、不眠不休のまま、暗い空の下を歩き始めていた。目覚めてから一度も着替えぬままでいる薄汚れた白衣に紫色の袴、白い足袋の下には下駄が突っ掛けるままに履かれている。

 夜明け前の最も暗い闇の下を足早の白衣が過ぎ去っていく。周囲は外灯さえもない暗黒だったが、闇に慣れた瞳で見知った島を歩いていくのは団十郎にとっては造作も無い事だった。手元の光源を使用するまでもない。

 菊織は団十郎に虫喰崖に一人で来いと言った。その誘いが教主殿に籠ったままの団十郎を誘き出すのと同時に、累の復讐を果たす為の邪魔立てを遠ざける目的である事もまた明白であった。つまり、団十郎は今、誘われるがまま敵の渦中へと飛び込んでいるのである。

 しかし命よりも大事に思っているマガツコの命運を握られている事を差し引いても、団十郎にはこの見え透いた誘いに乗じる利があった。

 一つは自己の欲求の塊でしか無いマガツコの姿を島民に晒さずに隠匿出来る事。

 そしてもう一つは、これから行おうとしている自らの凶行を、誰にも知られないという事であった。

 闇の下を行く団十郎の手には猟銃が握られていた。乱れるままの頭髪は怒髪天を突く様で、その下に落ちた瞳は獲物を狙う獣の様に輝いている。

 団十郎は子泣川を越え、月集落を抜け、虫喰崖へと続く山林へと踏み出していった。

 海は凪いでいたが、やがて冷えた潮風が額に触れ始める。ざざんと、高く切り立つ崖に荒波の打ち付ける音が大きくなって来た。

 常緑樹に囲まれた山林を抜けてすぐ、背後にそびえた母山の麓に、白岩に埋め尽くされた断崖絶壁の光景が姿を現し始めた。

 切り立った海食崖が内に抉り込む様な形で弧を描いている。岩場周辺には一切の緑が無く、大小様々な白岩が無造作に積み重なったかの様に見える。よく見れば凹凸とした勾配には大岩を迂回する様なルートや岩肌の下を行くルートが幾重にも続いていて、岩肌には無数の風穴が空いていた。ここからは見えないが海面側にも無数の海食窪や海食洞が空いていて、場所によっては他の地点に繋がる海食洞門を形成している。虫喰崖――言葉の通りに虫喰い穴の様になったこの地形が名の由来である。

 潮風が団十郎の髪を掻き乱す。

 ぅぅぉぉ……。

 洞穴を抜けていく風が不気味な音を立てていた。まるで地の底に潜む魔物が唸っている様だ。

 断崖の先は闇。海へと続く奈落だったが、視線を上げていった水平には仄かに朝日の片鱗が昇り始めていた。

 猟銃を背中に隠しながら、教主は手元で懐中電灯の明かりを灯し、慎重に足場を選び始めた。

 ささくれた岩肌が無数に地を這っている。一度体制を崩せば、吹き付ける海風に煽られてこの断崖絶壁から転落する可能性も充分に考えられた。この地はあまりに危険なので、島民にも不用意に踏み込まぬ様に言い含めた場所でもある。故にいかに勝手知ったる鈍島の中といえども、団十郎もここら一体の地形を完全に把握している訳では無かった。

 そして菊織からの奇襲にも充分に気を配る必要があった。岩肌に並んだ洞穴のどれかに身を潜めている事も考えられる。団十郎は周囲を見渡しながら、なるべく断崖の先には立たぬ様にと距離をとりながら、岩肌をなぞり始めた。

「何処にいる……」

 心許ない光源を頼りに岩場を歩いてると、唸る轟音の最中に、微かに耳を掠める子守唄を聞いた気がした。

 聞き間違いかと思ったが、そうではない。確かに何者かが、この風荒ぶ夜闇の中で、囁く様に不気味に歌っているのだ。

 視線を渡らせていくと、朧げに灯る小さな光源を見つけた。陸地を抉る地形に一箇所海へと突き出した箇所がある。ここらで一番高い標高にある岬である。光源はその崖の先端辺りに灯っている様子だった。

「そこか」

 鼻息を荒くした団十郎は、じっくりと猟銃に弾を装填すると、それを後ろ手に隠しながら岬へ向かって歩み始めた。

 

     ――ねーむれー……

 ――ねーむれー


 進むにつれて、その囁き声が明確に聞こえて来る。

 岬へと吹き付ける風は相当なものであった。団十郎は身を屈めながら岩場を進むのだが、この暗がりに加えて風に煽られる体に何度かつまずく事は避けられなかった。前向きに体が倒れ込み、岩肌に片手を着く。したたかに硬い岩場に膝を打ち付けながらしかめた顔を持ち上げると、ぼうと行手を照らす光が目前に落ちていた。

 ――誘い込んでいるつもりか。

 不服そうにした団十郎は人知れず牙を剥いていた。菊織が何点かの凶器を手にしている事は理解している。今もその手に得物を握り、いまかいまかと団十郎の首に刃物を突き立てる時を待っているのだ。考えるに菊織の目論見は、マガツコを引き合いにして、自分を手近に寄せてから殺害する事だろう。もしくはこんな難儀な所に呼び出したのだから、そのまま海へと突き落とす気だったのかも知れない。

 岬の先端へと間も無くとなった距離。菊織が明かりを灯すのを止めて周囲が暗闇になった。

「ねーむれー ねーむれー 母のーーでー」

 夜陰に少女の歌声が沁みて、消えた。

 あるのは団十郎の持つハロゲンライトの光源一つと、闇に打ち付ける豪快な波の音だけだった。

 団十郎は顔を上げた。そこに岬の先端に立ち尽くした女のシルエットが見えた。影法師は胸の前に手を掲げてこちらに手招きしている。

 海風に鳴く風穴の音に紛れ、


 ――こ…………っち……。


 と微かな声が耳に届く。

 黄泉から届く幽鬼のか細い声に、団十郎も幾許かの恐怖心を抱いた。けれど幽霊も祟りもありはしないのだからという彼本来の科学的思考は、易々と彼の足を前へと押し進めていった。

 こちらを手招く影法師まで――あと十メートル。

 幽霊の声をハッキリと聞いた。

 その瞬間に、背後にひた隠していた猟銃を抜き出して照準を定める。

 団十郎の目は次第に闇に慣れ、正面に立ち尽くす女のシルエットを視認し、

 顎を落とした。

 ――そこに居たのは、

 腹の膨れた、

 であった。

 勝ち気な表情をしていた筈の団十郎は、いつしか白いワンピースをたわわに風に膨らませる少女の姿に愕然としていた。

 肩程で切り揃えられた黒髪、スラリとのびた華奢な四肢、呆けた様なその表情、膨れた腹――

。そんなもの持ち出して、お腹の子に当たったらどうするんです?」

 その表情に、その姿に、その口調に、団十郎は震え上がった。

 島民が見間違えるのも頷ける。その言葉遣いに口癖、細かな所作に至るまで、それは黒塚累のものに酷似していた。

 しかし薄汚れたワンピースに返り血を浴びながら柔和に微笑む目前の少女は確実に、

 累ではない。

 そして亡霊などでもありはしない。

「わたしは再誕の儀式の続きをして頂こうと、そう思っていただけなのに」

「腑抜けた事を言うな! 姉の姿形を真似て、復讐のつもりか!」

 猟銃の銃口が菊織の鼻先を捉える――。

 日の出前、薄明の時間に差し掛かっていた。

 水平からの薄い光は緩く、暗がりの下の少女の姿を足下から浮き上がらせ始めていた。

「わたしが、累じゃない?」

 何処か幽美にさえ思える指先が、衣服の上から膨れた腹の上を這い、撫で上げる。

 膨れている。しかし衣服が盛り上がっているだけに過ぎない。まやかしだ。

 自分を律した団十郎は、震える程の怒りを噛み締めながら眉を吊り上げた。

「マガツコは? マガツコを何処にやった菊織」

「菊織ちゃん? わたしは累ですよおじさま」

 少女は薄い唇を横に引き伸ばして笑っていた。団十郎の鬼気迫った様相とは対照的だった。

「お前は菊織だ。嘘だと言うならその腹を見せてみろ、詰め物でもしているのだろう! それよりもマガツコだ、マガツコは今何処にある!」

「まぁ、大きな声。怒ってらっしゃるの?」

 ――怖いわ。

 うふふ、

 うふふふ。

 白い少女はまた微笑む。

 どう言う訳か菊織は向けられた銃口に怖気る事も無い。白日の元になって来たその表情は青褪め、やつれ果て、何処か茫然自失としている様にも――この世の者では無い様にも――見えた。

 団十郎は目を見張った。緊迫した空気の最中、菊織の微かな所作を追っていく。

 細くしなやかな指先がワンピースの裾をたくし上げ始める――

 そこに艶かしい少女の足が剥き出されていく。

 やがて露わになったその、

 腹は――

 いつしか岩場から落ちそうになる位に体を前に突き出していた団十郎は、厳しく結んでいた真一文字の口を無意識に弛緩させていきながら――言った。

……?」

 団十郎の瞳に何か、暗い影が差し込んで来ていた。それはまるで、この暗雲の中に導きの光を眺めているかの様でもあり、狂言に惑うその姿は、これまで彼が欺いてきた島民の目と同じだった。

 ――膨れている。

 つるんとして張りのある若い肌に、青白い血管が幾重にも走っているのが見える。

 たわわに腹が実っている。肥満ではない。少女は痩身だ。

 ただ腹だけが膨らんでいる。そこに何かが、

 はいっている。

「産まれるんです。わたしたちの子が」

「……っ」

「アナタが言ったんですよ?」

 団十郎はもはや言葉もなく、震えるまなこで少女の腹を凝視する事しか出来なくなっていた。口の端から唾液が垂れている事にも気付かず、ただ茫然と一点を注視し続ける。

 そして、頭の片隅ではまだにわかには信じられないといった思考はありながらも、団十郎の口元はこう紡ぎ出していた。

「累……なのか?」

 ――そんな事が……ある――のか?

 憔悴しきったその風貌には、もはや教主の威厳などなかった。

「ならばあの遺体は……? あれは累……か、累――」

 ――累では無いのか? のか?

 団十郎はそう考えた。確かに累の心肺停止を確認した訳ではない。あの後息を吹き返したという事も――あるいは、

 自分の正面に繰り広げられた信じ難い光景が、極限状態の団十郎の思考を巻き込み始める。疲弊の限界を迎えていた彼の思考は安堵を得たいと叫び声を上げ、アドレナリンの過度な分泌により興奮状態であった思考は針で突かれた風船の様に萎み、少女の甘言に惑わされていく。

「ならばマガツコは、わしの息子はそこに……」

 亡霊は僅かに上気した頬で、団十郎を手招きし始めた。

「あ……ぁあ、そうであったか……ぁあ、よかった、よかったぁ」

 縋る様な口調で言って、団十郎は猟銃を足元に落とす。

 自失した老輩は、歓喜に満ちた胡乱な瞳で岩場を走り始めた。何度か無様に転けて、それでも走る。あるいは薄闇の下に立ち尽くした虚ろな存在が、彼を何処かへ引きずり込もうとしているか。

「早く産んであげたいのです。この子を、神様の子を」

 少女は、背後の岩の窪みに隠していた鍬の柄を後ろ手に握り締めていた――


「行ってはダメ――そこが境界です!」


 突如とそう声が上がり、団十郎の視界を奪うものがあった。未だ薄闇の空を突き抜けて、ハロゲンライトの明かりは狂気に堕ちんとする父の目を眩ませた。

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