7【緒方和夫】
第32話
【緒方和夫】
二〇二五年八月七日 十二時二十八分
刈り揃えられた茶畑が、山肌に整然と立ち並んでいる。緑豊かな山林に囲まれて、木立の合間は濃い日陰になっていた。切り開かれたこの茶畑だけが、燦々と注ぐ夏の太陽に照らされているかの様である。
フードを垂れた白の農園帽子を深く被り、汗水垂らして緒方夫婦は農作業に精を出していた。
「ああ、かぁさん。今年はざぁまかずらが生えとぉなぁ」
高低のある畑の下の方から
この時期は茶畑の上に頭を出し始める山芋かずらの除草作業に追われる事になる。茶の芽に絡みついたかずらを辿っていき、地中の根から慎重に引き抜いていくのだ。
「おとうんかずら取りが下手だったったい。根ば残せば秋にむかごん成って、そうするとまたむかごが根を張る」
畑の上の方で黙々とかずらを引き抜いている
「それにしてん、ついこん間あがん事ばあったのに呑気なもんばい」
腰を折り、山芋を引き抜きながら和夫はまた無駄口を叩き始めた。とはいえ慣れたもので、手元では淡々と作業は進められている。
茶畑の根元に沈み込んだ姿勢からの声は紀子が作業をする畑上段の方とは距離も離れているから聞き取りづらかった。加えて周囲はアブラゼミの合唱に満たされているので余計に心許ない。
しかし紀子はそんな旦那の不平をしっかりと耳に聞き留めていたらしく、額にシワを幾重にも刻み込みながら大きな声を返す。
「やかまっひか。何があってん当たり前ん事として農作業はせんばいかんとや。おっだが茶を作らんかったらこん島で誰も茶ば飲めんくなるばい」
いつからだろうか、緒方夫婦の上下関係が逆転していたのは。結婚三十年、嫁入り当時の淑女の様なおしとやかさは何処に消えたか、今ではすっかり和夫の方が尻に敷かれている。
「あがんおぞましか、惨たらしか事んなってなぁ、ほんなこてつんだっか……やっぱり祟りなんやろか」
しかし旦那の方はそれはそれで呑気この上ない。和夫の声に紀子が応えないので独り言になった。
昼中の緩やかな日常が過ぎ去っていく。
『お祈りの時間です』
島内放送が鳴った。
和夫は、ああもうそんな時間か、と言いながら農園帽子を外して曲がっていた腰を立ち上げる。紀子の方を仰ぎ見ると、既に掌を胸の前で合わせて首を垂れていた。
和夫もまたそれに倣って、胸の前に手を合わせて閉眼した。
人によって差はあれど大体五分から十分程こうしている。首筋に照り付ける熱射が辛かったが、これは鈍島島民の唯一の義務の様なものなので、いかなる時も手を止めてお祈りをする事になっていた。この地に流れ着いてから和夫は一度たりともマガツ様への礼拝を怠った事は無かった。最近の若者にはこの時間をおろそかにする者もある様であったが、それはいかがなものかと和夫は思っている。
しばらく閉眼していると、鳴り止まぬ蝉時雨に紛れ、鈍い物音が聞こえた気がした。
「かぁさん?」
和夫は閉眼していた瞼を上げて、黒焦げたその顔を上方へと向けていったが、そこには長閑な茶畑の光景が広がっているだけである。
ジリジリと蝉が鳴き止まない。
しかし紀子の姿がない。
もしや熱中症にでもなって茶畑の足元の方にでも倒れ込んだのだろうか、とすると、先程の鈍い物音は、肉が大地に押し付けられるかの様な感じでもあった気がしてくる。
和夫は急ぎ茶畑の合間を抜けて傾斜を上がっていった。
「あっぱよ! やっぱり熱中症や、織部先生の所に連れて行かんば!」
そこに横たわっていたのは、手元に握り締めた農園帽子を掴んだままの紀子の胴体であった。頭の方は茶畑の根元に突っ込む様な形で見えなくなっている。
やはり熱中症を起こしたのか、和夫は急ぎ、妻を側に停めてある軽トラックに担ぎ込もうと走り寄って行った。
……ふかふかとした黒い土壌に、何かがぞろぞろと染み出して来ていた。
茶畑の根元から――妻の頭の埋め込まれたその場所から流れ出して来た液体が、土壌の色を変えて、波状に這い出して来ている。
妻の周囲を走り回る蟻、地中に飛び出したミミズが蠢いていた……。
和夫はそっと、広がっていく、黒い染みに触れてみた。
「ぁ……あ」
手に触れた液体の、その鮮烈な赤色を見て、和夫は情けのない声を出し始めた。
そして勢い良く紀子の上体を引き起こすと、茶畑に突っ込まれていた、妻の頭部が露わになった――
和夫の腕に抱かれていたのは、頭を鈍器でかち割られ、左右それぞれの目を明後日の方角に投げた、妻の凄惨な姿であった。
頭の形がひしゃげている。何度も何度も叩き付けられたのではなく一撃で頭を割られていた。頭頂部から噴水の様に液体を噴出した妻の姿に、和夫は放心するだけだった。
膝を着くまま、しばらくそうしていた和夫は、妻の亡骸を胸に抱えたまま、視界の先の濃い山林の陰に佇む者に気付いて、喘ぐ様な声を出し始めた。
「……ぉ……おまえさん……は」
陰よりその身を晒し出したのは、その手に鍬を引き摺る少女の姿。
「ねんねしなーはれー ねるこはみじょかー」
微かな声は子守唄を口ずさんでいる。
泥水に薄汚れた白いワンピースは、返り血を浴びていた。
わんわんと、蝉がやかましい――。
素足のまま山内を彷徨い歩く少女の髪が風になびく。肩口で切り揃えられた頭髪は、扇を広げた様に小さく舞っていた。
「おきてなくこはー つらにくいー」
そこに露わになった視線は虚ろで、常世の者とは思えなかった。
そして和夫の頭の中で、急速に周囲の雑音が消え去っていく。
「おきてなくこはー つらにくいー」
聞こえるのは、愉しげにした五島の民謡。
――これは
和夫は朧げな頭にそう思いながらも同時に、一歩一歩とこちらに迫る少女に、間違えようも無い既視感を覚える。
「
白いワンピースの裾がふわりと浮き上がった。
ペタリと沈み込んだ衣服に、体のシルエットが露わになる――
――その腹には、
何かが、
はいっていた。
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