第15話

   *


 西陽の落ちた黒塚邸は、やはり私の記憶の中にある間取りと寸分違わなかった。

 裏口から縁側の方に抜けて邸宅へ上がると、庭へと向かって開け放たれた襖の何枚かを通り越したところで菊織ひおりちゃんは立ち止まった。

 私と白沢は電気も灯されていない仄暗い室内で、締め切られた襖を前にする。

 屋内にいても蛙の合唱は絶え間なく響いていた。

 けれどその隙間を縫う様にして耳を澄ますと、微かに鈴の転がるような声が聞こえて来るのに私は気が付いた。


「ねむれ ねむれ」


 我が子に歌う微かな声が、次の間から漏れ出している。

 シューベルトの子守唄だろうか。

 しかし、次に聞こえて来る歌詞が私の知っているものと違っていた。


 に」


 そこで菊織ちゃんが襖を開けた。そこに待ち受けていた存在が私達の面前に露わとなる。

「歌詞が違うわかさねちゃん。、よ」

 次の間は広い座敷になっていて、一面に敷き詰められた畳からはい草の香りが立ち昇っていた。正面奥は障子になっていて、開け放たれたその先は縁側になっている。十畳程もある室内はがらんとしていて、暮れの陽が射し込んだ座敷の中心には白い布団が一つ、こちらに右半身を向ける形で敷かれていた。

 掛布を腰まで被せて上体を引き起こしていった少女は、

 と言って嬉しそうに、両手を口元に添えて驚いた。妹と同じ質をした美しい黒髪が肩の辺りで風に踊っている。

 姉の枕元に膝を寄せた菊織ちゃんが不安げな表情で私を窺っていた。しかしそんな姉とは裏腹に、累ちゃんは嬉しそうに笑って白い歯を見せている。

 二人並んだ姉妹を見る。

 私の前で肩身を寄せた二人の姉妹は、やはり記憶の中の幼い姿とは大きくかけ離れていた。けれども未だにその容姿は瓜二つで、服装や髪型に差異がなければ、どちらがどちらともわからない位だった。

「唯さん? 唯さんなの? 本当に会えるなんて夢みたい」

 弾む声を上げた累ちゃんが立ち上がり掛けた拍子に、腰元までを覆っていた薄手の掛布がハラリと捲れた――

 その腹は、張ち切れんばかりに膨れている。

 私はその事に遅ればせばがら気付いて息を呑む。

 縁側から抜けていった涼風に、空気を含んだ姉妹の衣服が下から膨れた。そしてすぐにへたり込んでいったシルエットに、累ちゃんが本当に妊娠しているという事をあらためて認識するしか無かった。

 ――本当に、妊娠している。

「菊織ちゃん、累ちゃん」

 私はそう声を上げるのだけで精一杯だった。白沢は顎先を摘みながら、私の背後から姉妹を観察する様にしていた。

「村の噂を聞いてびっくりしました。まさか本当に唯さんが島に来てくれるだなんて思っていなくて、私……」

 菊織ちゃんの声が少し上擦っていた。今日まで相談出来る相手もいないで、一人洗脳状態から解けてしまった彼女の苦悩は想像に余りある。

「まぁ嬉しい、唯さんに会えるなんて夢みたい。とっても美人さんになってる」

 対して姉の方は何処か楽観的で、その重そうな腹を揺らすまま、柔和な目をしていた。 

 かちりと音を立てて、累ちゃんの枕元にあった古い扇風機の電源が付けられた。首が旋回し、回転する青いブレードから生じた風が私の頬を撫でていく。

「唯さん。ここなら多分、誰にも聞かれないよ。叔母もすぐには帰らないから」

「菊織ちゃんたら最近そんな事ばっかり言っているの、うふふ。誰も見てなんかいないのに。それより、唯さんが島に連れて来た結婚相手って……」

 累ちゃんは気さくに話し掛けてくる。好奇心の込められた無邪気な瞳に相対し、私はやや取り繕う様に明るく努めた。

「累ちゃん。この人は白沢榮治しらさわえいじさん。結婚相手じゃなくて探偵よ。十年前、島を出て路頭に迷っていた私を拾ってくれた変人なの」

「一言多い」

 文句を言いながら白沢は畳の上に膝を着いていった。見兼ねた菊織ちゃんがすぐに座布団を出してくれたので、私も習う様に座る事にした。

「まぁ。それじゃあ島のみんなは勘違いを? ……ですけど確かにそうでもしないと島には入れてもらえませんものね」

 累ちゃんが掌を擦り合わせると、菊織ちゃんの澄んだ瞳が白沢へと差し向かった。何処か少し光明を得たかの様な輝きを感じる。

「探偵って、事件を解決するあの探偵ですか?」

「そうだ。僕は怪奇専門の探偵だ」

「まぁ。探偵さん」

「すごいっ」

「ふぅむ」

 嬉しそうである。得意げな――ふぅむ、だった。

 しかし世間知らずの島育ちの少女達からするとそんなレッテルも充分に羨望に値するものであるらしく、姉妹は双方頬まで赤らめている様子だった。

「それじゃあ、白沢さんはこの島で起こっている恐ろしい因習を解き明かしに……姉を助けに来てくれたんですね」

 菊織ちゃんは上品に膝の上に掌を重ねたまま上体を前へと倒して言うが、姉の累ちゃんの方はというと、投げ出した足をパタつかせてお腹を撫でていた。そして必死な妹の横顔を呑気に見つめながら言う。

「菊織ちゃんったら大袈裟だわ。島の人達はみんなこのお腹の子が早く産まれる事を願ってるだけなのよ?」

 やはり切羽詰まった様相の妹の方に対して、姉の方はひどくのほほんとしている。元々そういった性格の差異はあったものの、姉の方は自分の身に起こっている現象の認識が妹とは違うのだろう。

 菊織ちゃんが言った様に、私はそれを確かめなければならなかった。

「累ちゃん、そのお腹……」

「唯さんも手を当ててみて、わたしたちのお姉さんに、こんにちはって言ってるわ」

 ただ無邪気であの頃のようにあどけない笑顔が私へと向けられていた。

 私は心なしか緊迫したまま、累ちゃんの側まで寄り、言われるままこの手を膨れた腹へと向かわせていく。

「ほら、唯お姉ちゃん、こんにちはって」

 私の小刻みに震えた手が、累ちゃんに手首を掴まれ勢い良く引き込まれていた。ブラウスの下を潜ったこの指の先に、人肌は感じるが――


 ――ああ、はいっていない。


 直感的にそう感じた。しかし即座に白沢からの横槍が飛んで来る。

「触れただけではわかりようもないだろう、唯くん、耳を当ててみろ。妊娠後期なら条件が揃えば直接聴こえる筈だ」

 そうだ、何を馬鹿な事を考えているのだろう。手を触れただけではわかりようもない。これも私の内にひしめく先入観がそうさせているのだろう。

 こんなに腹が膨れてるのだから、はいっているに決まっている。

 私は彼女に断りを入れ、ブラウスの腹の部分を捲って、白い卵の様な肌に耳を当てた。

「ほら、聞こえるでしょう唯さん。わたしの赤ちゃんの音」

「……」

 ごぉおという血流の音に入り混じる、微かな生命の拍動を私は探った。

 左下腹部に耳を当てる……聴こえない。

 右下腹部に耳を当てる……聴こえない。

 右上腹部へ、聴こえない。

 左上腹部へ、聴こえない。

 腹の内側を探る様に耳を彷徨わせる、

 聴こえない。

「ね?」

「え……」

 この暑いのに額に冷たい汗を伝わせ始めた私に、累ちゃんはただ微笑む様にしていた。何処か有無を言わせないかの様な雰囲気さえ感じるのは私の気のせいだろうか。

 ……とはいえ、胎児の心音を直接聴取する事は適切な場所に耳をあてないと難しいと言う。

 私は事前にチェックしていたネットの情報を元に見よう見まねで医者の真似をしているだけなのだ。手技が足りていないのかもしれない。胎児は腹の羊水の中を自由に動き回る。その丸まった小さな背中に耳を当てなければならないのだから素人には難しいのかも知れなかった。

 私は累ちゃんにこの不安を悟られない様にと笑顔で努めながら、仰向けに寝そべってもらうように伝えた。

 その補助に菊織ちゃんが姉の背中側に回ったが、私のぎこちのない笑みに気付いているのか、彼女の方は青褪めた顔で口元を結んでいる。

 私は臥床した腹の中に胎児がいるのか、レオポルド触診法で確認してみる事にした。

 仰向けになった累ちゃんの足元の方に移動した私は、彼女の膝を曲げさせてから、先ず湾曲させた両手指を揃えて膨れた腹の上方に触れる。

 胎児の向き、子宮邸の位置、専門的な事はわからないが、この方法なら少なくとも、腹の中に何かがあるかどうかは素人でも確実にわかる。

 私は続けて両手を子宮の側壁に沿って滑らせる。

 次に片手で恥骨上部に触れ、そこにあるべき胎児の頭を探る。

「唯さん、わたしもう臨月に入るの。この時期になると赤ちゃんは外の声を聞いているんだって、話しかけてあげて」

 そう言って眉根を下げて幸せそうに笑う累ちゃんの腹の中には、

 やはり……。


 何もはいっていなかった。


 手を当てた箇所はどこもかしこもベコんと沈み込むばかりで、まるで風船の上を撫でているかの様だ。

 空っぽだ。

 がらんどうなのだ。

 私の頭は真っ白になりかけた。

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