第14話
*
やがて峠道を抜けると、日本の原風景かの様な山間部の農村が見えて来た。上り傾斜になった田園風景にはまだ若い緑の稲穂が一番多く、段々になった田んぼは風が吹くと波打つ様に揺れていた。一面に広がる田畑ではとうもろこしやきゅうりやナス等々、様々な農作物が育っている。集落を縫う様な農道は幾重にも続き、ぽつりぽつりと古い木造建築の民家が建っていた。
集落の中央付近には四方に拡声器の突き出した島内放送塔が見えていた。島にはこの様な放送塔が点在していて、十時と十五時にマガツ様への礼拝の時間を島の全土に知らせるのだという事を白沢に伝えておいた。さもないとどうせその時になったら騒ぐに決まっているからだ。
「なぁ唯くん。僕はキミがこの島に来るのを躊躇う事が嫌だったから黙っていた事が一つあるんだが、実際問題その空っぽの腹を妊娠したという姉妹の元を訪れて、それでどうするつもりだ。連れ去ってこの島を出るのか? 歳の頃はまだ十五だと言ったじゃないか。それは誘拐になるぞ。ましてや出産を間近に控えた妊婦だ。罪に問われても仕方が無い」
成程、私に考える暇を与えずこの島へと連れ去ったのはそういう思惑があっての事だったのか。しかし誘拐云々お前に言われる筋合いはない。
農道脇に続く用水路に清らかな水が流れていくのを眺めながら、私と白沢は田舎道を上り始めた。
正面には集落のすぐ背後にそびえている母山が見えていて、整然と杉の木が林立していた。向かって左手の方角には、母山よりも一回り小ぶりな小山が程近くに位置している。いずれに見えている山腹の木立も若い緑色をしていた。
「もし
……ですが、胸騒ぎがするのです。
そう続けてから私は、西にそびえた小山の影から低い雲が垂れ込めて来るのを見た。側まで迫った山岳が空を隠してしまっていたので天候の予想がつかない。もしやすると雨が降るのかもしれないと思った。
「この島の得体のしれない信仰を目の当たりにすれば先生にもわかると思いますが、何か恐ろしい因習に巻き込まれているのでは無いかと、そんな風にも思えるのです。神様の子が宿っているなんて馬鹿げているとは思いつつ、万に一つの可能性がない事を私は確認に来たのです」
言いながら背後に続いた男へと振り返ると、白沢は目を細めながら眼鏡のフレームをくいと押し上げるところだった。港側へと振り返った私の視界には雄大な海が水平まで見えている。
「それでは万に一つにその様な事があれば、キミは罪に問われる事も厭わず姉妹をここから連れ去るというのだな」
白沢が言葉を結ぶのを、私は黙して眺めていた。
正直言って、もしその時はどうすれば良いのかは、私の中でさえ整理が追い付いていなかった。累ちゃんのその腹を見たら何か思い至るだろうと、半ば放任気味に考えている節があった事を自覚する。
大体からして空っぽの腹に神様の子が宿されているだなんて、そんな事はある筈がないのだから考えてなくて当然だ。今の私にはあの頃には無かった常識がある。だから私は
――それでももし、その腹に何か不可解があったとしたら。
私はどうするのだろう?
もしも累ちゃんが何か恐ろしい信仰の一部にされようとしているのなら、私は白沢の言った通り、罪を厭わずに姉妹をこの島から連れ出すに違いない。
この島はいわば彼女達にとっての牢獄の様なものだ。けれど自分達が檻に捕らわれている事さえ自覚出来ずにいるんだ。
あの頃の私と同じ様に。
幸い累ちゃんの出産まではまだ少しの猶予がある筈だった。先日の電話で妊娠三十五週だと言っていたから今は三十六週目、臨月に入った時期になるだろう。一般的な出産予定日は最終月経開始日から二百八十日目。つまり妊娠四十週が予定日となる為まだ四週間程の猶予がある。本土へは半日もあれば辿り着くのだから、向こうの産婦人科にかかる時間くらいはあるだろう。
蛙の合唱が喧しく山にこだまする様だった。足下に視線を落とすと、田んぼから続くトラクターの泥の跡がアスファルトの道の中程で乾いた土へと変わっていた。
私が広い間隔を空けた電線の間に空を仰ぐと、雲の這い始めた山の稜線の向こうへと日が傾き掛けているのに気付いた。山際を複数羽の鳶が旋回する様に飛んでいる。
これから日暮れだ。皆作業を止めて家に帰っていくのだろう。
やがて田畑を横断していく畦道を行き交う人がまばらに見え始めた。
私は横目に白沢を覗く様にした。精一杯に嫌味っぽく言ってやる事にする。
「先生、お陰様でもうこんな時間なんですけど、まさか本当に船に泊まるだなんて言いませんよね?」
「だからそんな事にはならない」
何を根拠に言っているのだろう……危険だが、最悪夜間航行でもすれば帰れない事も無いだろう……多分。
私が不安げな声を漏らしていると、背後から二輪の排気音が聞こえて来て思わず振り返っていた。
「おう唯ちゃ。ほんなこち大きく、みじょかなって。そんでこっちん人がこん島ん人んなるむころんかな」
「この島の人になる……?」
小首を傾げた白沢だったが、察しの良い事にそれ以上声にする事はしないでいる様子だった。
私は年季の入ったスーパーカブに跨っている掠れた肌着姿のお爺さんの顔を見つめたが、誰だかわからなくて少し困惑した。
「なんね忘れちまったんかよ、おっがは唯ちゃんがこがんこんまい頃から知っとうとに」
お爺さんは顔の前で豆粒の様に小さい円を親指と人差し指で作って破顔していた。
「ああ、
「およおよ、巌んじんじばい。ばってん唯ちゃ、もう日暮れじゃろう、ととさん所ん挨拶いっなら杉沢集落の方に行かんばぁばい。こっからだって行くるじゃろうが遠回りじゃろう」
どうしてこの人達は揃いも揃って私が父の元に挨拶に来たという設定の事を既に知っているのだろうか。通信機器もまともに使えない筈なのに、この情報網はどういう事だろう。
「あの、久しぶりに慣れ親しんだ田舎の風景を見ておきたくて」
「ありゃあ、こがん若か人が感傷に浸るとは早かやなかとかい……もっともぉ、そん人、何ていうんか知らんばってん」
「申し遅れました、白沢です」
巌のお爺さんがうなじを引っ掻いた所で白沢はそう挨拶をしていた。
すると黒くジッとした目が白沢を捉える。
「そん白沢さのとこ嫁いでくって話ならもう島に来る事は無かばってんなぁ。島ん外ん人になったらもうこん島には出入り出来んもん」
陽射しの薄くなって来た空の下で、巌のお爺さんの黄ばんだ歯が見えていた。
「え、うなが天海さのとこんむころんなるって話で来とーっさなぁ? でなかとこん島に立ち入れんもんな。そうばいねぇ」
どうやら島民の間ではその様に解釈されているらしい。
私達は二人して言葉が出ずに固まってしまっていた。
珍しく白沢が右往左往として私に助け舟を求めてくる。
「うんら二人、これからこん島で暮らしてくって、そがん話やけんねぇ?」
先程まで見えていた巌のお爺さんの歯がスッと見えなくなった。その表情は頭上に落ちて来た雲で影になり、ヘルメットの下の陰影を濃くするばかりで窺い知れなかった。
「え、ええそうなんです……あはは」
「あー良かったぁ、そがんら良かった。いきなりけぇって来っみんなびっくりしとーばってん、唯ちゃはこん島ん巫女さやった人や、おっだも慕うとる。そがんうなが選んだ人やったら穢れもすぐにおっちゃけてこん島ん住人になる事がでくる」
――穢れ?
と呟き眉を捻じ曲げた白沢に私は耳打ちした。
「言ったじゃないですか。マガツ教にとってここの島民以外は皆穢れ。島外の人間との婚姻は、原則この島に帰化するという名目でのみ赦される訳です」
「ここの島民となる事で、禊がなされるという訳か」
ぞっとしないという顔で白沢は、うへぇと声をあげていた。
「なんねなんね内緒話か、はっはっは。それにしてん……親子やなぁ」
私は言っている意味が分からなくて首を傾げていたが、白沢は耳聡く巌のお爺さんに疑問を投げかけていた。
「それは唯くんの母親にも関する話ですか? 出来ればこの子の母親について少しお話しを伺いたいのですが」
すると老人は唇を窄めて困った様にううんと唸る。
「ばってんおっがも繭子さについてはなんも知らんとよ」
――繭子さん? と白沢が繰り返すので、私の母親の名前ですと口添えた。
私は何だかこの島の人が母の話をしている事に新鮮味を感じた。前にも述べたが、島民は私の母親に関する話を一向にしない。どういうつもりか白沢はその点に関しての追求をしているらしい。
「ですがこの島で
「うんにゃ、ばってん繭子さがこん島で過ごしたんはほんの一、二年ん事やったしなぁ」
「そんなに短いのですか?」
「およ、ばってん繭子さは家ん外に出んかったごたーよ、おっがも一度遠目に見た事がある位で何も知らんとよ。他ん人に聞いてんおんなじ風に答えると思うばい」
――私の母はこの島で二年程しか暮らしておらず、家からもほとんど出て来なかった?
初耳だった。この島の人が私の母について話さなかったのは、単に私の母について何も知らないからなのかもしれないと思った。
そうですか、と白沢もまたこれ以上の深追いは諦めた様子だった。
「そんじゃあね。雨ん降りそうやけん急ぎんしゃいよ〜」
片手を上げた巌のお爺さんは快活に笑うと、エンジンの唸りを上げて蛇行する田舎道を上って行った。
何故かパシャリと音を立てて、白沢のカメラがその背中を激写していた。何だか哀愁漂う構図に思える。
「キミの母親の件はともかくとして」
白沢は振り返りながら絶望する様な表情を見せた。
「僕がこの島に取り込まれ、二度とは帰れない様に地固めされていくぞ」
私もまた呆気に取られ、見渡す限りの田園を見やっていた。遠くでひぐらしが輪唱を始めている。
「巫女さ、なんばしよっとねー」
するとまた何処ともなく声が上がり始める。
幾重に走った田舎道から、路傍のトタンの納屋から、用水路の側に佇む平屋の軒下から……。
「これからよろしゅうね白沢さ」
「おかえり巫女さ」
「遠いとこからごったなこったな」
それぞれが満面の笑みで語り掛けてくる。
私達は彼らに会釈を返して適当にやり過ごしながら、路傍の草むらを踏み出していく。途中道が三叉路になって、その分岐点に左右に向いた錆びたカーブミラーが突き立っていた。
「唯ちゃ〜」
モンシロチョウが留まった右のミラーに、奥からこちらを覗く島民の笑顔が見えた。
私は逃げるように左奥へと続いていく凸凹道を踏み出していった。途中越えていく民家の二階の窓に、子供が二人ぺったりと張り付いて無表情で私を見下ろしているのを見た。
正面に見える西の山陵はその頃にはすっかりとオレンジ色に染まっていた。
白沢はカメラを撮る事に終始していて言葉少なだった。はたまた私を付け回す島民を不気味に思って閉口しているのだろうか。シャッター音だけが時折耳に届く。
いつまでも監視されている様な薄寒い感覚を覚えたまま、私達は急ぎ清流沿いを行き、飛び交うトンボの合間を潜って小さな橋を渡った。
やがて集落のもっとも上方に位置する黒塚邸を斜向かいに見始めたその時、巨大な一本杉の屹立したその木陰に、西に傾く黄金の陽光に照らされたシルエットがある事に気が付いた。
私達の来訪に気付いた様子の黒々としたシルエットは、静かにこちらへと振り返って来て、
「唯さん」
と、鈴の鳴る様な声で言った。
「菊織……ちゃん?」
十年前の幼かった頃の彼女しか知らない私にとって、その変貌ぶりは衝撃だった。
少女はまるでこの萎びた箱庭の中に佇む唯一の美の象徴であるかの様だった。全身を日差しに浅黒く焼かれた島民とは違い、余程大事にされて来たのか、その肌は紙のように白くさらりとしていて、覗く四肢には筋肉の隆起もなく、指の先まで細くしなやかだった。男の拳ほどの小さな顔に丸く大きな瞳、スッと通った小さい鼻、血色の良い唇は紅など差す必要もなく赤々としていて、まるで精巧な人形が吐息を繰り返しているかの様だった。
あの頃のあどけなさは見る影も無く、すっかりと大人になった一人の女性を前に、私は瞳を瞬く事しか出来なくなってしまっていた。
「唯さん、本当に来てくれたのね……ぁあ、唯さん」
菊織ちゃんは長く美しい墨染めの絹の様な髪を風になびかせて、水気をよく含んだ肌を上気させながら私を見ていた。今にも泣き出しそうにも思える堪えきれなくなった表情には、涙が浮かんでいる様に見えた。きっと一人でこの島の因習と戦い、姉を守るために必死だったのだろう。赤いワンピースの膝の辺りを、少女の掌が力強く掴んでいる。
「菊織ちゃん」
「唯さんこっち……今なら叔母は家に居ないわ。姉は寝室で寝ています。どうか姉のお腹を診てやってください」
「寝てるって、こんな時間に?」
「姉は既に臨月に入りました。それにどうもお腹の子は予定よりも早く産まれそうな兆候があるらしくて」
私は白沢と目を見合わせる。私達の考えていた出産までの猶予は予想よりもずっと少ないらしい。
「とはいえよっぽど心配する事は無いそうですが、大事をとって安静にするようにと医者に言われています。つい先日の事で、唯さんに伝えられずにいたのです」
戸惑う私は手を引かれるまま、オレンジ色に染まり始めた集落の影を縫う様に、黒塚邸の裏口へ回っていった。
熱射降り注ぐ太陽が西の空に隠れ始め、東に見えている母山の稜線が薄くなり始めていた。鬱蒼とした山野にはまだアブラゼミが鳴いている。
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