岐阜県民になりまして。

縁(えん)

岐阜に心を射抜かれた話。

「こんなに降ったのは久しぶりなんですよ」


真っ白に染まった足元。

彼女は肩を少し震わせながら、柔らかく冷たいそれを手に取る。


平凡な自己紹介を彼女は優しい表情で聞いてくれた。

訛ってなかったかな、と思った。


「このアパートも随分と人が入れ替わってしまったんですよ。十年もいるものだから。やっぱり寂しくなりますね」


旦那さんはご実家で一人暮らし。

そして、彼女もこのアパートで自身の生活を楽しんでいる。


それが何を意味するのかとか、愛には色んな形があるんだな、とか。

そんなくだらないことを脳みそが考え始めたので、白い息をホオッと吐いてごまかした。


気づけば頭が白くなっていた。

若白髪を冷やかされたことがあったけれど、これならどうということもない。

屋根のある玄関先に移動して、彼女と会話を続けた。


会話の合間に

「大丈夫? 寒くない?」

と、彼女が声をかけてくれる。

もう少し厚着して出てくれば良かった。


近くのバス停はこの先を右に曲がってね。

鮎はもちろん、柿も梨も美味しいのよ。

近所のジムに通っているの。

こっちの夏はカラッとした暑さでね。


そんな他愛のない会話を十五分くらいした。

やっぱり寒くて、歯が何度かカタカタと鳴った。

会話のぎこちなさは冬のせいにだろう。


彼女は、このご婦人は、私にとっての第一村人だった。


「どうして岐阜県に?」


さっきそれお話ししましたよ、と言いかけて。

ああ、そうじゃない。


えっと、仕事の都合で。

そうじゃなかったよね。


この人はもしかしたら、見抜いているのかもしれない。


そうじゃないから、やり直しって。


「縁もゆかりもないんです、この土地に。でも一度来ただけで好きになってしまいまして」


「まあ、そう」


変なことを言っていないだろうか。


ぎこちないのは冬のせい。

いいや、久しぶりに人と話をしたからだ。


岐阜県美濃市の瀧神社。

壮大な自然の中にその神社はある。

まるでもののけの世界に迷い込んだみたいだ。

車の助手席に座りながら、まだぱらつく雨を気にせず窓を開ける。

くねくねとした狭い山道に少し心臓がドキドキした。

この辺りから空気が変わるのを感じた。

熊も出そうだし、犬の神も息を潜めていそうだ。


道、合っているよね。

合っているよね?

この先に八百万の神様が集うお湯屋でもあったりして。

花束じゃなくて、道の駅で買ったお菓子をぎゅっと抱きしめた。


「オット、道合ってる?」


「合ってる、たぶん」


夫がそう言うのだから、きっと大丈夫。


瀧神社の御祭神は水園象女之尊(みなさめのみこと)と 瀬織津比咩尊(せおりつひめのみこと)、そして八百万神(やおよろずのかみ)。

瀬織津姫(瀬織津比咩尊)は大祓詞(おおはらえのことば)に登場する水を司る神様だ。

古事記や日本書紀にその名は一切記されておらず、謎多き神様として知られている。

瀬織津姫に興味を持ってから、この神社へずっと訪れたいと思っていた。


移住。


そんな発想がある日脳みそを支配し始めてから、旅行以外で遠出をするようになった。


ワクワクと焦りと、焦りと。

誰にも何にも追われてなんかいないのに。

また他人を納得させようとしている自分がいる。

自分が納得できたらそれでいいのに。


だから、変わる理由を探している。

心に刺さる何かを求めている。


「すごい」


月並みな言葉だが、瀧神社は本当に凄かった。

雨上がりの水のにおい。

生い茂る緑の隙間からこぼれるかすかな光。

苔に覆われた狛犬と鳥居。

長い長い石段の先にある拝殿。

大きな木々は触ると湿っていて、ひんやりとして気持ちいい。

安易に立ち入ることを許さない、神々の世界。


「水の中にいるみたい」


泳いできた。

平泳ぎが好きなのに、クロールで泳いできた。

おまけにバタフライまでし始めてついに溺れた。

だめだめになって全部辞めた。

顔だけなんとか水面から出して、もうどうにでもなれと流れに身を委ねてみた。

流れた先で舟に乗せてくれる人に出会った。


夫とはそんな出会い方だった。


どんな時もずっと幸せだった。

いつかそんな風に言いたくて、今は素手で舟を漕ぐのをアシストしている。

かっこ悪くてもいいやって思っている。


神社には私たち以外の参拝者はいなかった。

時が止まったような幻想的な世界。

マイナスイオンを全身で浴びながら、目を閉じて深呼吸をする。

夜が明けるのを待っているみたいに。


参拝を終えて、少しだけ動画を撮ることにした。


「来る前はどしゃぶりだったから、こんなに晴れるなんて思わなかったな」

夫が空を見上げながら言った。


「ええっ本当だ」


思わず声が漏れる。

曇り空から一変し、眩しいくらいの晴天へと変わっていたのだ。

苔の上の透明な粒たちが日の光に照らされ、きらきらと輝いている。

表情を変えた神社の姿にさらに心を奪われ、惹きつけられる。


実はこの時撮影した動画に、光を放つ一本の矢のようなものが映り込んでいた。

空を切るように、一筋の光が走っている。

当時は全く気が付かず、後日動画を見返して発見した。


私は興奮気味に夫にそのことを話した。

夫は動画を見て、

「凄いな」

と言って寝た。

この感じが夫の良いところなのだ。


瀧神社は本当に美しかった。

背筋が自然と伸びるような神聖な空間。

この美しさを維持するために人の手が加えられているのだろう。

今日この景色が見られることも、誰かのお陰なのだ。

どんな場所へ訪れる時でも、そこで働く人や管理してくれている人への感謝を忘れずに生きていきたい。


顔の見えない誰かに思いを馳せる時、心がじんわりとあたたかくなる。

やっぱり、人なのだ。


「岐阜は面白い場所がいっぱいあるでしょう?」


ご婦人の声が私を今に引き戻す。

瀧神社を思い出したのは、彼女が神様みたいに見えたからだ。

見透かされているようで、でも不快じゃない。

ただそこに居てくれる安心感。


彼女は流してくれる。


長良川プロムナード。

長良橋から上流へと続く川沿いの遊歩道。

長良川と金華山を眺めながら夫と歩いた。

豊かな自然が育んだ美しい水。

命を生み出し、育てる長良川。


ウォーキングやランニングをする人々。

座って川を眺める二人。

手を振ってくれた男の子。


あの時あの瞬間に、偶然そこにいる人たちと人生が重なる。

出会って、別れて、また誰かと巡り会う。

刹那的なものだからこそ愛おしい。

川の流れは止まらない。

私たちはただ流れていく。


彼女は流してくれる。

傷ついた言葉たちを流していく。

心を動かすには十分な勢いで。


「はい、本当にいっぱいあります」


見つけたようで、見つけられたような感覚。

彼女は、このご婦人は、私にとって神様みたいな第一村人。


「久しぶりに若い人と喋れて楽しかったわ」


彼女はきっと何かを感じていただろう。

それでも彼女との距離は変わらない。

近くもなく、遠くもなく。

それがとても心地いい。

あたたかく美しい声で時間を流してくれる。

大切な人たちから貰った言葉を思い出させてくれる。

心を震わせるには十分な勢いで。


「ところでそれ何を持っているの? お風呂掃除の道具?」


「そうです、バスボン君です。雪かきの道具を用意してなかったので、これで車の雪下ろしをしてました」


「まあ、そう」


彼女はふふふっと笑った。

雪かきの道具をちゃんと買っておこう。

ここで生きていくのだから。


「これからよろしくお願いします」


今朝は夫の見送りに出て良かった。

このご婦人と出会えたから。


オット、今日は素敵な出会いがあったんだよ。


「良かったね。俺の職場も良い人ばかりだよ」


本当に良い人ばかりだよね。

不動産屋さんとかガス会社の人とか。

お店の人も。

ここへ来てそんなに時間は経っていないのに、分かるものがあるよね。


「俺、岐阜好き」


私も。


実は移住先は最終的にはダーツの旅形式で決めた。

刺さった場所が岐阜県で良かった。

それからは不思議なくらい全ての物事がとんとん拍子で進んだ。

クロールもバタフライも辞めたら人生が動き出したあの時みたいに。

これからきっと何度もそんな瞬間がある。

でも止まってなんかいなかった。

失敗したことも全部正解だった。


やっぱり人っていいな、と思う。


きっとまた人を好きになる。

そんな予感がしてる。


「そういえば今俺らが住んでるところ、親父が小学生のころ暮らしてたらしいよ。忘れてたんだって」


縁もゆかりもあったらしい。


それから、動画に映り込んだあの矢のような一筋の光。

何だったのかは分からないけれど、瀧神社のご神体は弓矢と剣なのだそうだ。


藤原高光(ふじわらのたかみつ)による妖魔退治の伝説が残るこの近辺では、瀧神社を含む六社が今後魔物や妖魔が出現しないよう祈願のために建立された。

山全体が黒雲に包まれ前進できなくなった際、高光は神に祈り黒雲の中に矢を射放ったという。



「来る前はどしゃぶりだったから、こんなに晴れるなんて思わなかったな」



高光の矢は、黒雲を嘘のように消し飛ばした。

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岐阜県民になりまして。 縁(えん) @swtxy0321

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