冬の章
一月中旬。最後の試験を終えてフラフラしながらも帰路に着いた。築三十年のアパートに着くと、ミシミシと外階段を鳴らしながら上る。自室である二〇二号室の鍵を開けて入ろうとすると、淀んだ空気が溢れてきてむせ込んだ。
「ケホッ、あー、掃除……」
最近は試験勉強のために大学の後輩である山野井の部屋に泊まり込みだったから、この部屋に来たのは二週間ぶり。そろそろ窓を開けたりなんなりしないといけないとは思いつつ、今日はそんな気力はないと諦めた。臭いものには蓋をしよう。玄関のドアを閉めた。鍵を掛けて階段を下りる。少し悩んで、合鍵を使って一〇三号室に転がり込んだ。
ここ二週間ずっと泊まり込んでいただけあって、俺の生活に必要なものは全て揃っている。自分の寝袋を押し入れから引っ張り出して潜り込むと、俺はそのまま眠りについた。
次に目を覚ますと、寝袋がやけに温かい。それになんだかもこもこしている。久しぶりの感覚が心地良くて鼻先にあったもこもこしたものをキュッと引き上げると、隣から小さく掠れた笑い声が聞こえてハッとした。パッと目を開けて声がした方を見ると、この部屋の家主、山野井が自らの腕を枕に、肘をついて横になっていた。驚きのあまりやけに甘ったるい視線を送る目をジッと見つめていると、山野井はスッと目を細めた。
「おはようございます」
「うん。おはよ。お邪魔してます?」
「そうっすね。でも、野田先輩はただいまで良いっすよ?」
山野井はたまにふざけたことを言う。それがちょっと弟みたいに可愛くて、いつものように犬を撫でるようにわしゃわしゃと頭を撫でてやる。
「山野井は可愛いな」
「野田先輩の方が可愛いっす」
「あははっ、ありがと」
山野井がやけに真面目くさって言うのが面白くて目が覚めた。寝袋に入ったままのイモムシ状態で身体を起こして、寒さに震えながら寝袋から手を出してキョロキョロと周りを見ると、何故かここは山野井のベッドの上。寝た時は床に寝袋を敷いたはずだから、寝ている間に寝袋ごと移動させられていたらしい。
「何がどうしてこうなった?」
「あぁ、野田先輩寒そうだったんで。それに、唐澤先輩はあと一コマ試験あって帰ってくるの遅いんで、チャンスかなーと思って」
「そっか。ありがとう」
「いえいえ」
「ん? あれ? 何がチャンスなの?」
よく分からないけれど、山野井は嬉しそうにニコニコと笑っている。答える気はないらしい。
「まあ、いいや」
気合いを入れて寝袋から出てベッドから降りようとすると、後ろから腰に腕を回されてベッドに引き戻された。
「おい、何してんの?」
「もうちょっとだけ寝ません?」
「いやいや、寝るなら一人でゆっくり寝なよ。邪魔したら悪いから」
山野井の腕から逃れようとするけれど、俺よりガッシリした逞しい腕はそう簡単に離してくれない。分かっていたことではあるけれど、ちょっとムカつく。
「はーなーせ」
「いーやーでーす」
俺の真似をして楽しそうな山野井。呆れながら振り向くと、案外近くに顔があって驚いた。それと同時に、遅くまで試験対策をしていたせいで濃くなった隈がはっきり見えた。
「ほら、隈も酷くなってるから。ちゃんとゆっくり寝なよ。今タオル温めてくるから」
「タオルより先輩の方が良いです」
今日は妙に甘えてくる。不思議に思っておでこに手を当てるとかなり熱かった。試験期間で寝不足と過労と、ストレスなんかもあったのかもしれない。
「山野井、熱ない?」
「いや、それは……」
俺の質問に山野井は何か言いたげな顔をしたけれど、少し考えて満面の笑みを浮かべた。
「あるかもしれないっす」
山野井はやけに嬉しそうにはきはきと答える。熱がある人間の返事ではない。これは様子がおかしすぎる。だけどおでこはやっぱり熱いし、熱で頭がおかしくなっているのだろう。それに熱があると人肌恋しくなるものだし、甘えたくなったのかもしれない。
「分かった。とりあえず山野井が寝るまでは俺も一緒に寝るから。起きたらご飯食べて、薬飲むんだよ?」
「うーん、薬はなくても寝れば治ると思うっすけど」
「何言ってるの。風邪は引き始めが肝心って唐澤も言ってたじゃん」
「あはは……」
山野井は少し困ったように笑ったけど、俺を抱きしめ直して眠る姿勢になってくれた。俺もその腕に収まったまま横になると、思ったより山野井の顔が近くて照れる。
「野田先輩って唐澤先輩のこと信頼してますよね」
「そりゃね。いつも助けてもらっているから」
突然そんなことを言うから驚いたけれど、山野井が唐澤のことをライバルのように思って意識しているから、気になるのだろう。唐澤は同じ学部の同級生で、料理上手で世話焼きだ。最初の出会いは唐澤の中間試験の成績があまりにも悪くて、心配した教授が俺に紹介してきたことだった。それ以来俺が唐澤に勉強を教えていたけれど、一年生のときに風邪を引いた俺の看病をしてくれて、それ以来かなりお世話になっている。
「唐澤がいなかったら生活が破綻すると思う」
「それは、まあ俺もっすね」
山野井は俺が雨でずぶ濡れになって大学とアパートの間のコンビニで突っ立っていた所を助けてもらった。その時に話の流れで同じ学部だということが分かって、山野井の方から勉強教えて欲しいと頼まれた。ちょうど唐澤の部屋で勉強する約束をしていたから、そのまま唐澤の部屋で三人で勉強することになった。その日からは勉強会のメンバーが一人増えて、お互いの部屋を行き来して勉強するようになった。そんな生活が始まってすぐに山野井の生活能力のなさが露見した。
初めて山野井が料理をしてくれた日、唐澤が焦げ臭い臭いに気が付いてストップをかけた。焼きそばが焦げそばになっていたのを見た唐澤の引き攣った顔は今思い出しても笑える。
「焼きそばはやっと作れるようになったんだもんね?」
「はい、今はチャーハンに挑戦中です」
「あ、一緒。俺も唐澤から唐澤家のチャーハン叩き込まれてるところ」
「え、あれマジだったんすか」
山野井は眉を顰めるとムッとした。何が嫌なのか分からなくて首を傾げていると、ガチャガチャと少し雑に鍵が開けられて、噂の唐澤が入ってきた。
「邪魔するぞ……は?」
「あ、唐澤。お疲れ」
「おう……え?」
戸惑いが隠せない様子の唐澤にこの体勢になった経緯を説明すると、唐澤はあからさまにため息を吐く。そして背負っていたリュックから体温計を取り出して山野井の脇に挟み込むと、突然のことに驚いて力が緩んだ山野井の腕から俺を引き抜いた。
「あっ……」
「はいはい、体調悪いなら暴れずに寝とけ」
山野井は唐澤の言葉に小さくなった。
「ねえ、なんで体温計持ち歩いてるの?」
「バイト先の先輩が残業になりそうになると熱っぽいとか言い訳して俺に押し付けてくるから。それ対策」
「次は頭痛だったらどうするの?」
「今ちょうど考えてるとこ」
ムスッとしている山野井を見守りながら唐澤と話していると、体温計が軽快な音を鳴らした。山野井が体温を見るまでもなく体温計を隠そうとするのを見た唐澤が力づくで奪い取る。
「三十六度五分」
「え、平熱じゃん」
「ごめんなさい」
山野井は素直に謝まりながら俺と唐澤に居直った。
「その、野田先輩が冷え性だから俺のおでこの方が熱いことは分かってたんです。だけどつい、出来心で……」
「出来心で手を出したと」
「まだ出してません」
「まだ、だと? 山野井、今日お前晩飯抜き」
「ちょ、唐澤先輩、マジですみません。これは、その、言葉の綾で……」
「うちの大事な息子は、お前にはやらん」
「いや、俺唐澤の息子じゃない……けどまあ、いっか。ママ、お腹空いた」
「はいはい、今ご飯にするから待ってなさい。宿題やったの?」
「やったよ、ママじゃないんだから」
「お前今日飯抜きな」
「ごめんなさい」
「先輩、意地悪なお母さんとはサヨナラして、俺と新婚生活始めましょう」
「我が弟よ、いきなりどうした」
「え、俺弟なんですか?」
「ちなみに俺は空前絶後の美少女な」
「それは納得です」
「いや、納得すんな」
山野井がいきなり真顔で納得してくるから、つい突っ込んでしまった。もう少し寸劇を続けたかったのに。
「てか山野井。お前さらっとプロポーズしてんなよ。マジでぶん殴りたくなった」
「自分が意識されてないからって俺に当たらないでくださいよ。お母さん?」
「は? お前もろくに意識されてねえくせに舐めた口利いてんじゃねえぞバカ息子」
「さあ、始まりました。母対息子の仁義なき戦い。元ヤン母さんと現在思春期真っ只中の息子。さあ、勝つのはどっちだ!」
「急な実況やめい」
「あたっ」
唐澤のチョップが当たって実況も親子戦争も終了してしまった。つまんないの。
「まったく。元気なら俺の部屋行くぞ。試験終了を祝ってパーティーだ」
「酒盛りっすか?」
「黙れ十九歳」
「同い年ですね」
「なんで俺三月生まれなんだろ」
「俺四月です」
「俺五月」
「やっぱお前ら飯抜き」
「マジですみません」
「ごめんって」
拗ねてしまった唐澤に後ろからひょいっと飛び着いてみる。もうちょっと弄ってやろうと思ったのに、軽々とおんぶされてしまった。
「謝られてる気がしないけど。まあ、いいや。行くぞ」
「え、このまま?」
「良いだろ、べつに」
「良くないですよ! 俺の野田先輩を返してください」
「いや、俺山野井のじゃない」
「そうだぞ山野井。野田は俺のだ」
「野田とのだって面白いよね」
「いや、野田先輩、唐澤先輩の方も否定してくださいよ」
「あははっ。恋人できるまではママの娘でいようかな」
「のだのだ」
「あっははっ!」
「だめだ、これ」
呆れる山野井が玄関を開けてくれて、俺は唐澤におんぶされたまま外に出た。他に誰もいなくて良かった。
山野井の部屋の二部屋隣。一〇三号室の鍵を山野井が開けて、唐澤の部屋に入る。お互いの部屋の鍵を持っているとこういうときに便利だ。
唐澤の部屋はずっと家主がいなかったとは思えないほど空気が綺麗で、全然咽ることもない。
「凄いな。俺の部屋と違って空気が淀んでない」
「そりゃ毎日空気の入れ替えだけはしてたからな……まさか、やってなかったのか?」
「……てへ?」
「のぉだぁ?」
唐澤が低い声を出して般若のような顔を俺に向ける。俺はひょいっと唐澤の背中から飛び降りで山野井の背中に隠れた。
「ごめんって。俺もさっき帰ってびっくりしたんだよ。まさか二週間であんなになるなんて」
「野田が自分でできるって言うから俺は手出ししなかったんだぞ? できないならそう言えっての」
「うっ、ごめんなさい」
「ったく」
唐澤ははぁっとため息を吐いてこめかみを抑えた。世話の焼ける娘で申し訳ない。
「しょうがない。俺は夕飯の支度をするから、野田と山野井で野田の部屋を片付けてこい。良いか? 片付けるんだぞ? 散らかすんじゃないからな?」
「はーい!」
「任せてください!」
すごく心配そうな唐澤に見送られて唐澤の部屋を出る。外階段を二階に上がって自室の鍵を開けた。深く息を吸い込んでからドアを開ける。もわっとした嫌な空気がなだれ込んできて、つい吸い込んだ息を吐いてしまった。
「これは……やばいっすね」
「あはは……とりあえず窓開けてくるね」
「俺は玄関抑えておきます」
山野井に玄関を任せて、ダッシュで窓に向かう。ベッドに飛び乗ってその奥にある窓を開けると、タイミング良く風がひゅうっと吹きこんできて、部屋の空気が少しだけ綺麗になった。
「寒い」
「ですね。早く終わらせましょ。俺がキッチンとか机の拭き掃除はやっておくんで、野田先輩は掃除機お願いします」
「了解! けどまさか山野井に掃除の指示をされる日が来るなんて」
「ふはっ。でもまあ、俺もちょっとは唐澤先輩に鍛えられてるんで」
「なるほど、婿修行か。頼もしいな」
「野田先輩、俺は弟じゃないんですか?」
「うーん、家事できるなら話は変わる?」
俺も一通りの家事はそこそこできるとはいえ、やっぱり唐澤くらいできるのには憧れる。俺は面倒臭かったらやらないし、その結果後輩の手を煩わせているし。だけどこうやって誰かと一緒に家事をするのは悪くないと思うから、山野井がいてくれて嬉しい。
なんて考えながら掃除機をかける。俺だって自分のことくらいできなきゃ不味いとは思っているし、山野井と唐澤にばかり頼ってもいられないことも分かっている。手も頭も動かしながら掃除をして、ふとキッチンに目をやると、こっちをじっと見つめている山野井と目が合った。手は完全に止まっていて、俺が手を振っても全く反応しない。
「山野井? どうした?」
何かあったのかと心配になって近づく。真正面から山野井の目をジッと見つめると、山野井は一度、ゆっくりと瞬きをした。
「野田先輩」
「ん?」
「どこまでが本気で、どこまでが冗談ですか?」
「どこまで?」
山野井が言っている意味が分からなくて首を傾げると、山野井は急に俺の手首を力強く掴む。そのまま引き寄せられて、キッチンに押し付けられた。
「ちょ、おい」
山野井はジッと俺を見つめながらじわじわと距離を縮めてくる。その目は至って真剣で、ふざけているわけではないことは分かった。
分かったからこそ。俺は山野井の鳩尾を一発殴った。
「ぐはっ……」
「ちょっと冷静になれ」
山野井は少し身を屈めて殴られた鳩尾を抑えながら、涙目で俺を見上げてくる。ちょっと強く殴り過ぎた。
「ご、ごめん」
「いえ……俺が悪いんで」
苦しそうに話す山野井の背中を擦ってやる。久しぶりだったから手加減し損ねた、は言い訳にならなそうだ。
「まったく。俺さ、山野井が俺に対して何を思ってるか、ぶっちゃけ分かってなかったんだよね」
「まあ、知ってました」
「マジ? でもまあ、今のでなんとなく分かった。山野井、今までごめんな」
「いえ……」
「これからはちゃんと、意識するから」
「先輩……」
「でもまさか、弟じゃなくて犬が良かったとはな」
「は?」
山野井はポカンと口を開けた。ちょうど痛みも飛んで行ったみたいだし、良かった良かった。
「よし、山野井。早く掃除終わらせて、唐澤の飯食うぞ」
「え、あの、野田先輩……」
「ん?」
「えっと……いえ、何でもないです。がんばりましょ」
山野井は何故か遠い目をしているけれど、ひとまずこれで解決だ。さっさと掃除を終わらせて、唐澤特性のご馳走にありつきたい。
タタタッと四角い部屋に掃除機を丸くかけて、部屋の掃除は完了。あとは週末にでも角の掃除をすれば良い。
「山野井、こっち終わったからそっち手伝う」
「あ、いえ。水仕事は手が荒れますから」
「それなら尚更俺がやるって」
「大丈夫ですから。大人しく待っていてください」
山野井はそう言って、俺のおでこにキスをした。
「は?」
「愛犬からの愛情表現ですよ」
「いや、え?」
ぽかんとしている俺を見ていたずらっぽく笑った山野井の顔が、次の瞬間固まった。その視線を追うと、開け放たれた玄関のドアに手をついた唐澤がニコニコと気持ち悪いくらいの笑顔を浮かべていた。
「か、唐澤先輩……」
「お疲れ様! こっちは山野井がやってくれてるところが終わったら終わるよ! そっちは? どう?」
顔から火が出そうなほど恥ずかしい。斜かしさを追い払いたくて必死に口を動かすと、ズカズカと近づいて来た唐澤は俺の手を取って、手の甲にキスをした。
「は?」
「あとは山野井がやっておいてくれるって言うから、野田は俺の手伝いな」
「いや、え? 大丈夫?」
「何が?」
「俺、掃除の後まだ手洗いしてないけど……」
「げほっ……」
唐澤は咽て顔を真っ赤にした。
「大丈夫? ちょ、口ゆすいだほうが良いって」
「いや、お前さ……はぁ」
唐澤は深くため息を吐いて山野井と視線を交わした。二人は同時に吹き出すと、困り顔のまま笑っていた。
「え、大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど、大丈夫」
「そうっすね。なんか、逆に笑えます」
よく分からないけれど、笑えるならまあ良いか。
ひとしきり笑った二人は、目元に浮かんだ涙を拭う。そして眉を下げたまま微笑み合って、お互いを讃えるように肩を叩き合った。
結局何がなんだかよく分からなかったけれど、今日も二人は仲が良さそうだ。
「ねぇ、今日の夕飯は何?」
「ん? それはまあ、お楽しみってことで」
「よし、こっちもすぐに終わらせるんで、野田先輩は先に唐澤先輩の部屋に行っていてください」
「分かった」
「よし、行くぞ」
俺は自室を後にして、唐澤の部屋に向かう。何故か唐澤が絡めて来た小指。小さい頃によくやった指切みたいだと思いながら、そっと握り返した。
俺たちのアオハル こーの新 @Arata-K
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