雪にとろろ
こーの新
雪にとろろ
カフェの外では雨が降っていた。私は目の前で縋り付いてくる犬のような年下の男を心底面倒臭いと思った。傷つけたくはない。けれど、言うべきことはもう言った。さっさと別れたい。
「だから、君は悪くないけど、私はもう無理だから。別れたいの」
「俺、ダメなところ直すから、だから」
何を言ってもこれの繰り返し。帰してくれる気はないらしい。私は諦めて立ち上がる。
「待ってよ」
「さようなら」
私はヒールをカツカツと鳴らしながら足早にその場を離れる。他の何にも目もくれず、雨に降られながら自宅へ帰った。雨が降るくらいだから、冬にしては暖かくて。
自宅に到着して、玄関を開ける。ムワッとした空気が漏れないうちにドアを閉めて、しっかり施錠する。私は家の中に閉じ込めた気持ち悪い生ぬるさの中に身を投げた。これでいい。私に恋愛なんて、向いていなかったんだから。
翌朝。明るさに目が覚めると、床に倒れたはずがベッドに運ばれていた。布団から起き上がろうとして、すぐにベッドに潜り直す。
「さっむ」
身も凍える寒さに布団を頭まで被る。さっきまで外気に触れていた耳がほんのりと温まってくる。寒いと耳が千切れそうになるから怖い。
「千尋、起きたの?」
布団の外からくぐもった声が聞こえて、渋々顔を出す。するとワンケーのマイルームにおいてキッチンと部屋を仕切っているドアから、何故か晴明くんが顔を覗かせていた。晴明くんは私の一つ年上の幼馴染で、実家が隣同士だからよく遊んでもらっていた。
「え、なんでいるの?」
「昨日のお昼からメッセージの既読つかないから、生存確認に来たんだよ。そうしたら玄関開けてすぐの廊下で濡れたまま倒れてて。びっくりしたんだからね?」
そう言いながらコロコロと笑う晴明の手には、長芋とすり鉢。
「なんでとろろ?」
「千尋好きじゃん。でも前に自分で擦ったらかぶれるって言ってたから、擦ってあげようかと。あ、そうそう。昨日は服だけ着替えさせたけどタオルで拭いたりもできてないから、お風呂行っておいで」
そう言われて、自分がパジャマを着ていることに気が付いた。首元をちょいっと引き伸ばして、下着は変わっていないことを確認した。時計を見ると朝の五時。まだ夜と言いたい。日は昇っていない真っ暗な外。
「流石にそこまで触るのはね。お湯も張ってあるから、ゆっくり浸かりなね?」
にっこりと笑った晴明くんはまたキッチンに戻る。私は渋々布団から出て、着替えを探そうとして視線を落とす。枕元にきっちり用意されている私のお気に入りの部屋着。前に晴明くんがうちに泊まりに来たときにこれを着ていた気もする。下着まで出しておいてくれて、至れり尽くせりだ。ちょっとどうかと思わなくもないけど、晴明くんなら良い。今更晴明くんに秘密なんてないし。そう思いつつもふと手が止まる。着ていない状態なら触るんだ。
有難くお風呂に入ろうと、こちらに背中を向けている晴明くんの後ろで服を脱ぐ。
「躊躇ないなぁ」
「見慣れてるでしょ」
「小学生のときの話でしょ?」
晴明くんは呆れたように言いながら、こっちを見ないようにしてくれている。壁を見つめながら、ただひたすら長芋を擦る。
私はお風呂でシャワーを浴びる。浴槽にお湯を張ってくれてあるから、浴室も暖かくて快適だ。髪を洗って、トリートメントをして、身体を洗って。シャワーで流してから浴槽に浸かる。
「ふぅ……」
「肩まで浸かって暖まるんだよ?」
「はぁい」
外から聞こえた声に返事をする。こんなぴったりなタイミングで声をかけてくるなんて、やっぱりすごい。
昔から、晴明くんは私のことをなんでもお見通しだった。私が忘れ物をしても届けてくれたし、いじめられたら助けてくれた。いつもどこからともなく現れては助けてくれる、ヒーローだった。
お風呂から上がると、タオルで身体を拭いてから浴室を出る。またキッチン前の壁の方を向いてくれている間に、私はのんびり着替えを済ませる。
「本当に、警戒心がないなぁ」
「晴明くんだし。それに見てもつまらないよ。こんな貧相な身体じゃ」
私が自虐混じりに言うと晴明くんははたと手を止めた。
「前に言ってた彼氏は?」
「彼氏? 昨日別れた」
晴明くんは何も言わない。ただとろろに生卵を落とす。天気を聞いて答えてもらった後の方が、まともな会話をしていると思う。
「凄く愛されていたとは思うんだよ。でもさ、私恋愛とか向いてなくて」
なんとなく言葉を続けてみたけれど、カチャカチャととろろと生卵が混ぜられる音が響く。やっぱり晴明くんは何も言わないまま。聞いているのかいないのか、返事に困っているのか。それともただ考え込んでしまっているのか。分からなくて、私は口を閉じた。
部屋着を着て、部屋に向かう。ドライヤーで髪を乾かし始めてしまえば、晴明くんが何か言っても聞こえない。私はチラリと晴明くんの方を見た。けれど晴明くんは、何も言わずに微笑んでいるだけ。頭の中に彼の世界が広がっている時の顔。晴明くんは付かず離れず、不思議な人だ。そして、私の知らない世界を持っている人。
髪を乾かし終わった頃にはローテーブルに二人分の食事が用意されていた。いつの間にかベッドメイクまで終わらせてくれてある。テキパキしていて、私とは大違い。メニューはとろろご飯と焼き魚、具沢山のお味噌汁。温かいチョイスにホッとした。
「美味しそう」
「食べようか」
「うん」
二人で向かい合わせに床に座る。そして手を合わせて、いただきます。一口食べると、ふわふわのとろろと温かいご飯に笑みが零れた。
「すっごく美味しい」
「そっか、良かった」
晴明くんはふわりと微笑むと、自分も食べ始めた。二人で時々会話を交わしながら食事を進める中でも、晴明くんは魚を解してくれたり、醤油を渡してくれたり。至れり尽くせり、有難い。
「凄いなぁ、晴明くんは」
「そう? 僕からしたら、千尋も凄いと思うけど」
「そうかなぁ……」
私はとろろが口元につかないように、大口を開けてとろろご飯を口に放り込む。晴明くんはその様子を見ながら嬉しそうに笑っていた。
「ん?」
「いや。美味しそうに食べるなと思ってさ」
「だって美味しいもん」
「そっかそっか」
嬉しそうに笑った晴明くんは、それからも私の顔を眺めながら食事を続けた。食べてくれる人が喜んでくれると作った人は嬉しいもの、そう言っていた母親の顔を思い出して、なるほどと納得した。
「そうだ。さっきの彼氏さんの話、もう少し聞きたいんだけど。千尋、今日仕事は?」
「休みだよ。ねえ、この話、ネタにでもするの?」
私の問い掛けに、丁度お味噌汁を啜っていた晴明くんは目だけで肯定した。
どこにでもいるような会社員の私とは違って、晴明くんは絵本作家をしている。時折本屋さんでサイン会を開くこともあって、たくさんのファンが晴明くんに会いに集まるくらいには人気がある。かく言う私も晴明くんの絵本が好き。優しくて温かい、そっと心に寄り添ってくれるようなお話が大人になっても心地良い。
「分かった。食べ終わったら少し話すよ」
「うん」
晴明くんはふわりと微笑むと、もぐもぐととろろご飯を咀嚼する。その顔を見ているといつもよりも少し幼く見えて、可愛いと思った。
食事を終えて晴明くんがお皿を洗ってくれて、お茶も淹れてくれた。私だってやろうかって言った。だけど晴明くんは良いから良いから、とほんわかと笑ってテキパキと片付けてしまう。こうなると素直に甘えてしまうのが正解な気がして、私はベッドに腰かけてぼんやりと窓の外を眺めた。日が昇る頃になったからか、太陽は見えないのに外が明るい。雪がちらちらと降っている。雪が濡れたアスファルトに落ちてスッと解けて消えていく。そのときふわりと甘い香りがした。懐かしい、晴明くんといえば、という香り。
「お待たせ」
「ありがと」
手渡してくれた緑色のマグカップ。お茶かと思ったらココアを作ってくれたらしい。小鍋を使ってコトコト作ってくれたそれは、昔よく飲んだものと同じ味がした。
「美味しい」
「良かった。ココアもね、買ってきたんだ。きっと千尋は持ってないと思って」
晴明くんの言う通りだった。自分で作ったココアは味気なくて、昔から作ってみては飲む気がしなくなって肩を落とした。
「晴明くんのココア、私が作るよりずっと美味しいんだもん。コツがあるの?」
私の言葉に、晴明くんは少し目を見開いた。それから悪戯っぽく笑って私のおでこをつついた。
「愛情だな」
晴明くんの冗談に私は小さく吹き出した。けれどその言葉を嘘だとは思わなかった。晴明くんの愛情は温かくて甘い。ココアが美味しいのはそのせいだと言われても、納得できるくらいには。
「よし、じゃあ話そうかな」
私がローテーブルにマグカップを置くと、晴明くんも隣に色違いのそれを置いた。ペアのマグカップ。晴明くんが使っている赤いマグカップは私が彼氏にクリスマスプレゼントにあげようと思って買ったものだった。けれど別れようと決めてすぐ、来客用に下ろしてしまった。昨日彼が何を言おうと別れる。その決意でもあった。
「彼から告白されて付き合うようになったの。口では少し素っ気ないけど、いつも私を見る目が優しかった。とても愛されていたと思うし、私もそれが凄く嬉しくて、幸せだった」
ちらりと晴明くんを見ると、晴明くんはノートにペンを走らせていた。傍から見れば事情聴取を受けているように見えるかもしれない。
「少年っぽい、ちょっとピュアな人で、世間的によく言う彼氏らしい姿をしていたと思う。奢ってくれたりとか、帰りに送ってくれたりとか。それで満足できたら、きっと幸せだった。だけど、やっぱり私は甘えただからさ。もっと甘えたくなっちゃった」
「そうなの?」
晴明くんはノートから顔を上げて優しく聞いてくれる。私はそれに安堵してぽつりぽつりと語る。
「私は年上だし、女だし。彼を支えないとって気持ちが湧いてきてさ」
「それは、どうして?」
「多分、それが求められていると思ったから、かな」
私は昔からそうだった。人の感情を敏感に感じ取っては、その場に合わせて動く。その人が心地良くいられるように、その人の機嫌が悪くならないように。私はただ、その一心で周りの顔色を窺っては演じて生きてきた。そうしなければ、あの家では生きていられなかった。
毎日誰かが喧嘩をして、どこからともなく茶碗が飛ぶ。何もしていなくても拳が飛んできて、気に入られれば守られる。母親も、父親も、祖母も、祖父も、兄も、姉も、弟も。みんなみんな、同じだった。
負の感情が爆発しないように、負の感情が私に向けられないように、負の感情から守ってくれる盾になってくれる人の後ろに隠れられるように。私が生きるためにはなくてはならない生き方だった。
誰も彼もがそうではないことを知ったのは、高校を卒業するくらいの頃だったと思う。友人からの、八方美人という嘲笑が私に気が付かせた。
「別に、そうしなきゃって思うわけじゃなくて、自然とその場に合わせた行動をとってしまうの。自分の外に目があって、そこから自分を観察しながら必要とされる人物を演じているような、そんな感覚」
晴明くんは私の拙い説明を真剣な顔で頷きながら聞いてくれた。私は誰にも、幼馴染の晴明くんにさえこれまで話したことがなかった自分のおかしなところを赤裸々に話してしまって、心がすっきりした。
「彼氏の好きだったところと嫌いだったところは?」
「え、そんなこと聞きたいの?」
「参考までに」
晴明くんは柔らかく、それでいて困ったように笑った。私はそれを見て、同じように笑った。
「好きだったところはたくさんあるよ」
「例えば?」
「うーん。ちょっと意地悪だけど、悪戯が成功すると嬉しそうにしているところとか。あとは、身長が高すぎないこと」
「どういうこと?」
不思議そうにしている晴明くんを立たせる。晴明くんは私よりも十五センチくらい背が高い。それでも百七十センチは超えていなくて、世間的には低いと言われるらしいと聞いた。
「晴明くんもそうだけど、これくらいの身長差だったの」
「うん……でも、女の子って身長高い方が好きじゃん」
「私は、目線が近かったり、キスするときに背伸びをして足が攣るようなことがないくらいの身長が良い」
「千尋、ちっちゃいもんね」
晴明くんは私の頭を撫でながらくすくす笑う。私の悩みの種ではあるけれど、晴明くんはそれをいつも小さくて可愛いと本心から言ってくれる。気にしている姿すら可愛いと言ってくれる。こんな優しいお兄ちゃんに拗ねるなんてできなかった。
私たちは座り直した。晴明くんは手を離してペンを握る。私はココアを一口啜った。
「嫌いだったところは?」
「それもたくさんあるよ」
嫌いなところなんて、たくさんあった。だけど、だから心地良かった。私は自分自身のことが嫌いだから。同じ人間だと、安心できたから。
私がその先を続けようとしないでいると、晴明くんは小さく微笑んで私の頭を撫でてくれた。
「良い関係だったんだね」
晴明くんは呟くように言うと、私を見て小さく微笑んだ。どこか寂し気で、けれど嬉しそう。私はその感情が表している気持ちの答えを読み取ることができなくて、照れ笑いを浮かべて誤魔化した。晴明くんが、好きな顔。
「別れようと思ったきっかけは?」
その問いに、私は少し考えて、やっぱり素直に話す。
「私の我儘なんだ」
「我儘?」
晴明くんは不思議そうに首を傾げる。私は苦笑いを浮かべた。自分の汚点を語るのは、心が苦しい。
「うん。ちょっと疲れちゃったの」
私は思わず誤魔化した。言葉にできなかった。分かっているから。彼は十分良い人だった。だけど私には上手に振る舞えなかった。もっと温かい、綿のように常になんでも傍で優しく包み込んでくれる味方を求めていた。ただ、ホッとひと息、安心したかった。それを求めようとして、空回りした。甘え方を、間違えた。言葉を、行動を。今考えれば全てを間違えてしまっていたと思う。彼は悪くない。私が、間違えたんだ。不甲斐無い自分が、心底嫌いになった。
「まあ、千尋は極度の甘えん坊だからな。大人になってもずっと子どもみたい」
「なんで、分かったの? 上手に甘えられなかったのが辛かったって」
私が聞くと、晴明くんは少しはぐらかすように笑った。
「千尋のことならお見通しだよ。きっと、自分が相手に応えられないこととか、上手に振る舞えないことが苦しかったんだろうなって」
「流石だね。もうさ、馬鹿だよね……」
「馬鹿じゃない。相手に迷惑にならないかばっかり気にして一途に頑張る健気なところは、可愛いと思うけど?」
晴明くんの言葉に私は目を見開いた。晴明くんがこんな風に可愛いなんて言うことはなかった。さっきみたいな妹に言うような可愛いじゃない、違う、可愛い。深読みしようとすれば、妹だと思われていると考えてしまうことだってできる。だけど、今の空気は明らかに違った。
「次は晴明くんみたいに、すぐ隣でいつでも甘やかしてくれる人と付き合いたいな」
私が呟くと、晴明くんはノートとペンをベッドにそっと置いて、その手で私の頬を撫でた。慈しむような手つき、甘い空気と瞳。私はその状況を俯瞰して見ている自分が酷く気持ち悪く感じた。
「千尋、僕だけを見て」
晴明くんの声が私の頭に直接響くように錯覚した。その瞬間に思考が停止して、晴明くんをぼんやりと見つめる。どうしてだろう。酷く、眠たい。
「千尋、横になろうか」
「う、ん……」
私は晴明くんに導かれるままベッドに横になった。晴明くんは私の手を握って、優しくトントンとお腹を叩いてくれる。
「きっと、疲れちゃったんだよ」
「そう、かな……」
さっきまであんなに寝ていたのに。なんて疑問を口に出す力もないくらい、強烈な眠気だった。どうにか目を瞬かせて眠気に耐えていると、晴明くんは手を休めずにリズムよくトントンと眠りに誘う。
「起きたら、次の絵本の話を聞かせてあげる」
どんな話だろう。そう思いながら、私の瞼が落ちた。その刹那、唇を掠めた柔らかさ。そういえば、晴明くんはどうやって家に入ったんだろう。その疑問を口にすることもできず、深く闇へ沈んでいった。
次に目が覚めると、知らない部屋。ベッドの傍に置かれたローテーブルで晴明くんが座ってパソコンを叩いていた。
「起きた?」
「うん」
ベッドから起き上がることなく晴明くんの背中に返事をする。晴明くんはデータを保存してから私を振り向いた。その表情はいつもの柔らかい笑顔ではなくて、笑ってはいるのにゾクッとするような顔だった。私はその理由を求めて視線を彷徨わせる。そして身体を起こそうとして、カチャリと音が鳴った。音がした方を見ると、手錠。ベッドの端に繋がれたその反対には、私の足首。
「気が付いた?」
「……うん」
私自身、やけに冷静だった。別に怒りを感じることもなくて、ただジッと晴明くんのキラキラした瞳を見つめていた。
「安心して。これは一度外してあげるつもりだから」
「一度?」
「うん。荷物を部屋に置いてきちゃったからね。荷造りに戻る時には外してあげる」
「そっか」
「そうだよ。あ、そうそう。ここは新居ね。間取り見る?」
私が頷くと、晴明くんはパソコンの画面を切り替えて私に間取りを見せてくれた。地下室付きの、一軒家。この先私が自由に歩くことはないであろう、新居。
「頑張って絵本を描き続けてきて良かったよ」
晴明くんは熱を孕ませた瞳で微笑む。晴明くんの素顔をみることができた気がして、私はそっとその頬に触れた。私の行動に驚いたのか、晴明くんは目を見開いた。
「どうしたの?」
「ううん。新しいお家、気に入ったよ」
「本当? 嬉しいな」
晴明くんはにっこりと笑うと私に口付ける。眠る前に感じた感覚と同じだ。
「あ、荷造りは僕がするからね。千尋はいるかいらないかだけ言ってくれれば良いよ」
「分かった」
「それから引っ越しがきちんと終わったら、手錠じゃなくて、もっと動きやすいように長い鎖を付けてあげる」
「ありがとう」
私の返答に晴明くんの表情が蕩けたようになる。欲情を感じさせる、男の瞳。
「ふふ、抱き着きたいときに抱き着いてきて良いからね」
「うん」
「それと、トイレとかお風呂も僕がやってあげるから。いつでも呼んで良いからね」
「分かった」
「お仕事は代行を使って辞めさせてもらうから、気にしなくて良いからね」
「うん」
晴明くんは嬉々としてこれからの生活のために必要なことを私に説明してくれる。私はそれをにこにこ笑いながら頷いて聞いた。
「ああ、こんなに素直に聞いてくれるなんて。本当に可愛いね。愛してるよ」
「私も愛してる」
愛って何。私の気持ちとは裏腹に、晴明くんは幸せそうに微笑んだ。狂気も何も感じられない、ただ幸せな男の顔だった。
「安心してね。千尋が嫌がることはしない。怖いこともしない。ただ、頑張って欲しいことはあるけれど」
晴明くんはそう言うと私の手を撫でた。その手が身体を這うように撫でていって、唇をつつかれた。
「千尋の初めても最後も、もらってあげるから」
晴明くんはそう言って熱っぽく、悪戯っぽく笑った。
「キスは、初めてじゃないよ」
「知ってる。ムカつくけどね」
晴明くんはそう言うと私がいつも使っている鞄の底を引き裂いた。そこからは黒くて四角い板が出てきた。何かの機械らしい。
「これで位置も会話も筒抜けだったんだけど。気が付いてなかった?」
晴明くんはニヤリと笑う。重たい鞄だとは思っていたけれど、そんなものが入っていたなんて。いつの間に。
なんてね。私は心底驚いたふりをして、目を見開く。晴明くんは満足げに微笑んで私の頬を撫でた。
「ねえ、新しい絵本のストーリー、聞いてくれる?」
「うん」
晴明くんはベッドに腰かけてパソコンで文章ソフトを開いた。私はその隣に座って、晴明くんに寄りかかる。嬉しそうに笑った晴明くんは意気揚々と語り出す。
「うさぎちゃんは、気にしいな女の子。うさぎちゃんは、いつも周りをきょろきょろして、ニコニコ笑っていた。そんなうさぎちゃんの親友だったくまくんは、いつも心配そうにうさぎちゃんを見つめていた。
ある日、狼さんが現れて、うさぎちゃんを食べようとした。うさぎちゃんは怖くて逃げだしたかったけれど、お腹を空かせた狼さんににっこり笑った。良いよ、私を食べて、と。狼さんは喜び勇んで食べようとしたけれど、そこにくまくんが現れた。
くまくんは狼さんに立ち向かって狼さんを追い払った。うさぎちゃんは驚いて、けれどくまくんに微笑んだ。助けてくれてありがとう、と。くまくんは安心してうさぎちゃんを抱き締めた。そしてうさぎちゃんに言い聞かせた。僕の前では素直になって良いんだよ、甘えん坊なところを見せてくれても良いんだよ、と。うさぎちゃんはその言葉に堰を切ったように泣き出した。
うさぎちゃんはその日から、くまくんの前でだけは泣いたり怒ったりできるようになったとさ」
晴明くんはパソコンを閉じて私の頭を撫でた。髪を撫でつけるように、壊れ物を扱うように、優しく。
うさぎちゃんは私。くまくんは晴明くん。心優しいうさぎちゃんを守りたいくまくんのお話。
だけどくまくんは知らない。うさぎちゃんの心の中を。
「晴明くん」
「ん?」
「私も、うさぎちゃんみたいに、晴明くんの前では泣いたり怒ったりしても良い?」
私の言葉に晴明くんはにっこりと笑った。
「うん。もちろん」
晴明くんの笑顔に私は安心したような笑顔を作る。晴明くんに抱き着くと、驚きながらも抱き締めてくれた。
「愛してるよ」
「うん、私も愛してる」
私は今日も演技をする。晴明くんが好きな私でいるために。そうすればきっと、こんな状況も変わるはず。いつか、鎖を解いてくれるはず。
「千尋は本当に可愛いね」
晴明くんの笑顔に照れた顔を見せる。晴明くんは満足気な表情で軽くキスをしてくれた。ココアの味。甘くて苦い。きっと、愛の味。
良い子でいれば、きっと安全。
雪にとろろ こーの新 @Arata-K
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます