第25話 金というものの魔力
神は久方ぶりに地上へ意識を落とし込んだとき、かつてと様相を異にする街並みに目を奪われた。周囲には丈の高い石造りの建物が立ち並び、通りを埋め尽くす人々が絶えず足早に行き交う。そこでは荷車や駄獣を連ねる商隊がひっきりなしに行き来し、広場には大きな市場が開かれ、あらゆる物品が売買される光景が繰り広げられていた。近年、どの国も騎士団を編成し、領土拡大や国境の防衛に熱を上げているが、その裏で商業活動がどんどん活発化しているようだ。今や戦のための物資も、職人の手で作られる奢侈品も、市場がなければ流通しない。あちこちで都市が栄え、大道芸や露店、異国の商品を抱えた交易商が軒を連ねているのは、その証左だろう。
その変貌ぶりに興味をそそられ、神は今回“商人”として生きてみることに決めた。以前に王や兵士、巫女や娼婦になったときとは全く異なる世界観が広がっている。いくばくかの元手を用意し、それを種銭にして商品を仕入れ、また売りさばき、利潤を狙う――その営みは、金という不思議な概念に翻弄されつつ、社会を動かしているかのように見えた。神はさっそく適度な容姿と身なりを持つ男の身体を作り、都市で商店を開く設定を整える。ささやかな布地とスパイスを扱う小商いから始め、客を呼び寄せる方法をあれこれ試していくのだ。
初めのうちは失敗続きだった。気候や道路事情、または徴税の制度の変化など、予測の難しい要素が山ほどあり、ほんの一瞬の判断を誤るだけで大損害を被る。「大丈夫、すぐ取り返せる」と軽い気持ちで仕入れた材木が、思いがけず湿気で傷んで商品価値を落としたり、王の政策で突然税が跳ね上がったりと、予想外の出来事に翻弄されっぱなしだった。神なら本来、未来や天候の動きを知ることなど容易だが、今回はあえてその力を封印し、ただ人間と同じように試行錯誤を重ねることを選ぶ。おかげで何度も破産しかけ、工夫を凝らしてようやく再起を図る日々は、戦場の危機感とはまた違う種類の緊張感があった。
しかし、そんな挫折の積み重ねがあったからこそ、あるとき事業が“当たった”ときの歓喜は格別だった。ある国で塩の需要が急激に高まったとの報せを聞きつけ、塩倉を探してより良質の塩を大量に仕入れ、船便を手配して競合相手よりも早く出荷。結果、ほどなく桁違いの利潤が転がり込んで、神は思わず笑みをこぼした。金とはまことに不思議なものだ。戦で人が血を流し、命を掛け合う世界の只中にあって、金のやり取りひとつで人生が好転する者も、奈落に落ちる者もいる。神は「これはこれで一つの戦」と実感しながらも、その巧妙な仕組みに魅了されていった。
商売が軌道に乗るにつれ、少しずつ地位を築く。貴族や騎士に贈り物を届けたり、都市同士の連合で行われる大会を支援して、その見返りに有利な取引権を勝ち取ったり――やり方は決して一枚岩ではないが、とにかく機転を利かせることで販路を広げていく。そしてあるとき、神は大きなパーティーに招かれた。主催は地方を治める侯爵で、豪華なホールには貴族や騎士、学者や僧侶なども集められている。商人として成功を収めた神にとって、それは一種の“社会的ステータス”を得た証でもあった。
長いテーブルには高価な料理が並び、客人たちが優雅な衣装に身を包んで朗らかに談笑している。ワインの香りが空間を満たし、竪琴や笛の演奏が絶えず流れていた。貴族の若い男が神に近づき、「商いを学ばせて欲しい」などと軽薄な笑みで言うかと思えば、後ろでは貴婦人たちが競うように高価な宝石や絹の衣装を見せびらかしている。通りを歩けば、貧しい農民が一袋の小麦すら買えずに苦しんでいる光景を、こうした貴族たちはまるで他人事のように眺めているだけだ。飛び交う会話の端々から見え隠れする高慢さや、自分たちの享楽を正当化する根拠の薄弱さに、神は不思議な感慨を覚えた。
「貧富の差」という言葉では片づけられないほどの格差が、この世界にはあった。かつて神が農民や兵士として生きたころ、どれだけ汗水を流しても一日の糧を得るのが精一杯という暮らしを知っている身には、この貴族たちの華やかな宴はまばゆすぎる。いまや大きな屋敷を持ち、馬車を何台も揃え、晩餐会で珍しい果実を腹いっぱい食べる――そうした贅沢がどこまで人間を豊かにするのか、神には測りかねるところだった。貴族が悪いというわけでもない。彼らはそれが当たり前の世界に生まれ、育っただけであり、時に教養を蓄え、芸術や学問を保護する役割を担っている。だが一方で、彼らが耕作地の労苦には関心を示さず、農民から重税を搾取していることも事実だ。
神はその両面性がなんとも奇妙に感じた。表向きは優雅な音楽に包まれ、砂糖菓子のような愛想が交わされるパーティー。しかし、その足元には飢餓や、疫病に苦しむ者たちが何千人何万人もいる。騎士団を維持するための軍馬や武具だって、最終的には農民の負担や商人の税によって賄われているのだから、究極的には弱き者の上に富者たちの幸せが成り立っている格好だ。だが、その歪みを指摘する者はほとんどいなかった。ある種の均衡を保ったまま社会は回っており、それぞれが“自分の立場”を守るために動いているだけなのだ。
神が商人として招かれたパーティーの席で、豪奢な装飾をまとった侯爵夫人がやって来て、「あなたの取引網はきっと私たちにも役立つでしょう。遠くの異国から珍しい宝石を仕入れてきていただけるかしら」と囁いた。彼女はその宝石を買い、周囲の貴婦人に自慢することでさらなるステータスを高めようと考えているらしい。神が「さほど価値のないものも、彼らにとっては自己顕示のために欲しくなるのか」と、内心で笑ってしまうほど、自分の地位を飾るために大金を使うことに一切の躊躇がない。農民たちには何日も食べ物が買えない金額で、たった一つの飾り石を買う。それこそが、彼女らの“日常”だった。
ただ、そうした現実に嫌悪を感じる反面、神は奇妙な興味を抱いてもいた。商人として成功するには、こうした貴族の欲望を巧みに利用し、高値で商品を売りつけるのが手っ取り早いのだ。神も小さな工夫を凝らし、産地の物語を脚色したり、細工師を雇って宝石を豪華に見せる細工を施したりして品を売り込み、笑顔で膨大な金貨を受け取る。金銭を握り締めたときの深い陶酔感は、過去に味わった武勲や官能の喜びともまた違う質感を持っていた。なんというか、まるで世界をいくらでも動かせるような可能性が金貨の重みに変換されているかのようだった。
そして神がもう一度外の街道を歩けば、そこには傷や病で倒れそうになっている農民や孤児がいた。商会の帳簿を睨み、「取引額をさらに伸ばすにはどうすべきか」と思案する一方、遠征帰りの騎士団が武器を振りかざし、あるいは従軍から戻って路上の戦友を泣きながら葬る場面も見られる。富も欲望も殺戮も、すべてこの大きな社会の一部として共存している。神はそれらをひとつひとつ観測しながらも、今回はあえて介入は控え、商人という立場に没頭する道を選んだ。
「この仕組みがどう変わっていくのだろう」と神は考える。時折、奴隷として売り買いされる人間の姿をも見かけた。幼い子どもや異国の若者が鎖に繋がれ、家畜のように品定めされるのは、かつて幾度とない戦争や政変を見てきた神にとっても、改めてやりきれない光景だった。しかし、それがこの世界では“当然の経済活動”として受け入れられているのもまた事実だ。生産性を高めるために人を財産扱いし、必要とあらば売り払う。命と富の価値が混じり合う中で、人間は何を優先しているのか――神は問いかけるように空を見上げたが、その答えは見つからない。
やがて神としての商人生活は一段落し、大きな実績を残してはじめて神の意識が「そろそろ別の形で世界を見よう」と思い立った。山ほどの金貨や別荘を手に入れ、貴族と対等に渡り合う取引を成立させたところで、究極の満足には到達しない。むしろ「ああでもない、こうでもない」と事業を試行錯誤していた頃のほうがずっと充実していた。失敗が重なるたび、逆転を狙って眠らずに働き、やっとの思いで成功したときの心の昂り――それこそが商人としての醍醐味だった。いまや娼館や酒場で豪遊したり、貴族の宴に通うだけでは物足りない。金の魔力を十分に知ったからこそ、逆に「それがすべてではないのだ」と感じるようになったのだ。
そうして神はふと、自分が築いた商いの事業や屋敷を誰か信頼できる部下に譲り、こっそりと街を去る。大通りから外れ、岩の多い道を一人で旅立つころ、耳にはまだ市場の呼び声や車輪の軋む音がかすかに残響している。騎士団の鎧が陽光をはね返し、農民が疲れた足どりで年貢を運ぶ姿も脳裏に焼き付いていた。貴族らの華やかな宴と、奴隷の売買される闇市との落差――そのすべてを抱えながら、世界はまたゆっくりと進んでいくのだろう。神は馬を進める前に振り返り、微かに笑みを浮かべた。自らも一度はその波に乗り、金銭に操られる歓喜を存分に味わえたことを思い出し、そこには一抹の寂しさと達成感が混ざった不思議な感覚があった。
「貧富の差」という苦い現実と、「利益追求」の甘い誘惑――どちらも人間という生き物のあいだで共存している。金はすべてを解決しないが、あらゆる可能性を開く道具でもある。こんな形を生んだ人間の発想力に、神は改めて感嘆しながら、遠ざかる街を後目にぽつりと呟く。
「本当に面白い。金という魔力もまた、人間を駆り立てる大きな力なのだな。」
そうして神は風に身を任せるように馬を走らせ、次の観測地点へ向かう。今度はどのような形で人間世界を眺めるのか――戦いのための騎士団か、或いはさらなる技術の発達か。もうしばらくは介入せず、観測者として人の営みを見つめてみるのもいいだろう。薄れつつある馬蹄の音を最後に、街の喧騒から離れた神は、また新たなドラマへ心を弾ませていた。
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