第12話 戦術をもつ者たち
彼は熱帯の森林を遠巻きに眺めながら、ある場所に点在する集落に視線を据えた。そこでは、顎を発達させるという方向よりも脳を大きく進化させた一群の人間が生活圏を着々と広げている。まだ幹の太い常緑樹が生い茂り、蔓や大きな葉が絡まる湿度の高い森だが、その中を裸足で駆け回っていた時期は終わりつつあるように見えた。動物の皮や植物の繊維を利用して体を覆う“服”のようなものが作られ始め、彼らは季節や気候の変動に対して以前とは比較にならないほど柔軟に対応できるようになったらしい。道具どころか、いまや身にまとう物すら加工する。その発想と行動力が、彼にとって新鮮な衝撃だった。
何より驚かされるのは、彼らの言葉のやり取りだ。まだ体系的な文字などはないはずだが、集落ごとに異なる複雑な音声を操り、何かを共有しているのが一目でわかる。叫び声や身振りだけでなく、多彩な発声によって相手に細かな指示や感情を伝えているらしい。大勢が寄り集まると、火の焚かれた囲いの内で、ひっきりなしに言葉の波が交わされている。ジェスチャーや表情と組み合わせれば、その内容は相当に複雑なやりとりにまで踏み込んでいるようで、彼はその様子を捉えるたびに「どうやらこれまでの動物社会と根本的に違うものが生まれつつあるな」と感じずにはいられなかった。
ふと視線を森の奥へ移すと、一際大きな動物の気配を感じ取る。灰色の巨体に長い鼻を持つ生きもの――彼が「象」と呼ぶ存在だ。今までは体格と力でほとんど敵なしの威容を誇っていたが、最近、その象をも襲うようになった人間の群れを彼は目撃している。彼らはバラバラの個体が無謀な突撃をかけるのではなく、きちんと役割を分担して立ち回っていた。後方には鋭く尖った投げ槍を使う者、側面には音や火をちらつかせて象を追い込む者、そして最終的には複数の方向から一斉に仕掛けて相手を逃さない。それはまさに高度な狩猟の戦術であり、以前の生きものたちには考えにくい「集団による計画的行動」だった。
当然、それなりの犠牲も出る。象は巨大な牙や体躯を振りかざし、時には人間のほうが踏み潰されそうになって絶命する場合もある。けれども、それでもなお彼らは狩りを諦めず、大きなカロリー源になる獲物を仕留めるまで執念を燃やし続けた。石器も、見るたびに少しずつ形が洗練されているようで、投擲用のバランスを整えたり、柄を付けて槍や斧を作ったりと、道具そのものの改良が盛んに行われている。象や他の大型動物を仕留めたあとは、血や骨まで余さず活用し、皮は服や敷物として再利用する。ここにきて、世界の食物連鎖がまるで別次元に拡張された感すらある。神と呼ばれる彼ですら「今までとは違う」と実感するほど、人間たちの生活スタイルは異彩を放っていた。
「彼らはいったい、どこまで行くのか」
そんな呟きが意識の奥をかすめる。森の茂みを踏み分けて新たな集落の場所を探す彼らの姿は、自分たちの体力と頭脳と道具を頼りに、未知の領域へ進出しようとする意志がはっきりと感じられる。目の前の自然を単に受け入れるだけではなく、焼き払って畑に変えたり、木材や枝を刈り取って家屋らしき構造を作ったりする可能性すら見え始めていた。
彼らの活動が大きくなるにつれ、周囲の生態系にも変化が連鎖的に起こっている。それを最も顕著に示しているのが、植物たちが押し広げる不可視の闘争や共存の姿だった。もともとこの星には多彩な植物群が存在していたが、近年は、その進化のなかでC4型光合成を獲得した新種が次々と頭角を現し始めている。とりわけ、彼が「トウモロコシ」や「サトウキビ」と呼ぶ作物は、暑く強烈な日差しのもとでも極めて効率の良い光合成を行い、わずかな水分でも生育できる強さを持っていた。人間ほど劇的な道具や移動手段を持たない植物たちだが、その生存戦略は同じくらい驚くほど洗練されている。
ある広い草原地帯で、彼はトウモロコシらしき植物が密集して伸びている姿を捉えた。鮮やかな緑の葉は狭い地面からひしめくように立ち上がり、太陽を受ける面を最大限に確保するよう広がっている。土壌の条件や降雨量が厳しい環境下でも、C4型光合成を駆使することで優れた成長力を発揮し、高い背丈に育っていた。おそらくこの植物は、二酸化炭素の取り込みを極めて効率良く行うため、周辺の他の植物を圧倒して生育域を広げているのだろう。傍から見ると、凜々しいほどにまっすぐ立ち上がるその姿は、周囲にしなだれる雑草たちを尻目に、まるで新参の覇者のようでもあった。
そしてサトウキビと呼ばれる植物もまた、似たような原理で糖分を高濃度に蓄える能力を発達させている。水や炭酸ガスを巧みに取り込み、光合成で作り出した糖を茎に蓄え、葉や茎を硬くしながら害虫の攻撃をかわす。干ばつ気味の環境であっても、内部の組織に水分をしっかり保ち、倒れにくい。彼からすれば、大気組成や土の質に大きな影響を与えるほど繁茂していく植物を目の当たりにするのは毎度興味深いが、このC4型光合成を手に入れた種たちの勢いは特に目覚ましく感じられた。
問題は、人間がこの植物界の動きをどのように利用するかという点だ。もちろん、まだ彼らは自ら畑を作って植物を栽培する段階には至っていないが、やがて強靭な生存力を持つ植物を発見すれば、そこから種子を取り集め、意図的に育てるという手段を思いつくかもしれない。トウモロコシやサトウキビの糖分や養分を取り込み、人間が自分の体に変えることを覚えれば、それまで狩猟と採集だけに頼ってきた生活から一気に転換が進む可能性だって十分にある。森を焼き、土地を清め、そこへ特定の植物を植え付ける――神である彼からすれば、それは地形や生態系を大きく変える大事業だが、人間ならやりかねないと思えるだけの意志を、すでに感じ始めていた。
実際、同じ哺乳類であるゾウやサイのような大型動物の倒し方を覚えた人間たちは、肉や骨を利用するだけでなく、皮や角さえ加工して道具や飾りにするようになりつつある。その延長で、もし植物にも深い興味を向け始めれば――たとえば、大きな実がなるイネ科の草や甘い液を含む草、あるいは丈夫な繊維が取れるもの――それらを積極的に管理するという発想が生まれてもおかしくない。その先には、集落がより定住型になり、人口が増え、さらなる分業が広がり……そうした未来図の断片が、彼の意識の中を横切った。
「なんとまあ、目が離せない」
彼は一瞬、火を囲む人間たちと、風に揺れるC4型の植物たちを同時に意識の中へ映し出した。どちらも今後の世界を大きく塗り替える存在でありながら、片や道具と知恵で環境を変え、片や進化の仕組みで自らを強化して環境を席巻しようとしている。これまで生命の歴史を長く観察してきたが、ここまで“環境そのものを人為的に作り替える”種は初めてだし、ここまで“光合成効率を突き詰めて圧倒的に強い植生を形成する”植物群も珍しい。しかも、これから両者が出会って絡み合えば、どんな化学反応が起きるのか、想像するだけで未知の可能性が広がる。
まだ人間たちは数も多くないし、生活圏も小規模だ。それでも「服を纏い、協力し、狩りを仕掛ける」といった一連の行動は、すでに決定的な一線を越えつつあるように見える。彼らは自分たちの体力だけでなく、言語と発想と道具を活かし、他の大型動物までも効率よく倒して食糧源に組み込むことに成功している。やがて同じ手法で植物の選別や栽培まで手を伸ばした場合には、世界全体の在り方がどう変わるのか、考えると胸がざわつくようだった。彼は何度も目にしてきた“進化の爆発”とは異なる、いわば“文化”や“文明”の爆発めいた展開を予感している。
森の夕闇が深まるころ、遠くで象の吠え声とも悲鳴ともつかない音が上がり、重厚な足音が地面を揺らした。彼はそちらへ意識を向けてみる。どうやら新手の狩りが始まったようで、人間たちの声とそれに応じる足音が交錯していた。石槍を構えた者、まだ火を手に持ち前線を照らす者、そして指示を大声で送る者が乱雑ながら秩序を生み出している。どこか原始的でありながら、確かなチームワークを感じさせる奇妙な風景。それがとても頼もしく、そしてどこか危うい。いずれ彼らはこの大陸全体を回り尽くし、荒野や寒地、山岳や湿地までも開拓しようとするのだろうか――そこまで大きく想像してしまうと、彼は少し背筋にかすかな震えさえ走った。
木々の枝先にはシルエットでしかわからないくらいの鳥が止まり、夕暮れの気配とともに森が静まりかけている。しかし人間たちの騒音だけは止むことがなかった。遠くに響く打ち石の音、火が爆ぜる音、獲物が倒れたときの叫び声。それらが次々と夜の帳へ溶け込み、やがて星が瞬き始めるころには、火の光がぽつりぽつりと集落や狩猟の拠点を照らし出すだろう。
そのどこまでも小さな光景を、神は変わらぬ眼差しで見つめ続けている。彼らの脳は確実に成長を続け、顎の力よりも知恵の深まりによって生存を左右する段階に入ったようだ。隣接する森では、C4型光合成で勢力を伸ばす植物がしんと闇の中で眠っている。両者はいずれ、否応なく出会うだろう。そしてそのとき、どんな未来が編まれていくのか――神といえど完全にはわからない。けれど確信めいた予感が一つある。これまで生命の歴史で多様な種が環境に適応してきた過程とは、また違った“大きなうねり”が始まりかけている。彼はまなざしを逸らすことができなかった。彼ら人間という存在と、植物界に進化した新たな光合成の力が交錯することで、地球の景色はまた一変していくに違いない。
彼はそっと夜空を仰ぎ見た。頭上には星々が広がり、昔と同じように煌めいている。けれど、地上から見上げる者たちの目に映る星は、今やただの光の点ではなくなりつつあるのかもしれない。“あれはいったいなんだろう”と好奇心を抱くような、特別なもの。火や石器を超える発想によって、いつかは彼らが空へと手を伸ばすかもしれない。それが現実になるかどうかはまだ先の話だが、もしそこまで辿り着くのなら、彼の目にはどんな光景が映ることになるのだろう。そして、この星そのものがどんな姿に変貌していくのか。気が遠くなるような未来を思い描いていると、心はまた得も言われぬ高揚感で満たされた。
彼は相変わらず大きな干渉はしない。ただ、これまでどの動物とも違う生き方を始めた人間たちに、常に視線を注ぎ続ける。彼らがいま体得しつつある知識や技術、協力と発話能力の行き着く先を、決して見逃したくはなかった。かつて星を覆いつくした恐竜や巨大哺乳類、そしてさらに昔に隆盛をきわめた海洋生物とも異なる、全く新たなフェーズにこの世界は差し掛かっていると感じるからだ。火の周りで語り合う人間の輪と、夜の黒い海のように森を飲み込む影の境目。その狭間で、石器と脳を武器に新しい歴史を紡ぐ彼らの姿が、夜陰の帳に溶け込むように遠く遠くへ広がっていく。彼はその明滅する光景を静かに抱きとめながら、次に訪れる変化の一瞬一瞬を見逃すまいと意識を研ぎ澄ませていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます