第8話 陸を這い回る者
陸地を遠巻きに眺めていると、かつて岩と砂ばかりだったその大地のあちこちに、小さな生命の影が生まれつつあるのを彼は感じ取った。もともと海中で進化を重ねてきた節足動物が、その外骨格や多足類としての身体構造を活かして、ついに陸上へと進出してきたのだ。湿った土の上をうごめき、緑の少ない地面を必死に這い回る姿は、最初こそ少しぎこちないように見えたが、それでも彼らは陸という新たな舞台を確かに開拓し始めていた。
見守っていると、長い胴体に何十本という小さな脚を持つ多足類の仲間が、地表に落ちた枯れ葉や朽ちた植物の残骸を糧にしながら、徐々に活動圏を広げていくのがわかる。呼吸のための気管系を少しずつ発達させ、乾燥に対応するための表皮も強化しているらしい。そうするうちに、それまで海底や潮間帯、あるいは半水棲の環境で暮らしてきた節足動物たちは、さまざまな亜種を生み出しながら陸地へと進出し、本格的に多様化していった。彼の目には、それがまるで軍勢が行軍してくるようにも映ったが、じつのところ彼らの営みは常に流動的で、一方向的な“征服”というよりも、“試行錯誤を繰り返すうちに各地で根づいていく”といったほうが近いイメージを与える。
いつの間にか節足動物はその外骨格を薄くしたり、翅の原型のような膜を背中に生やすものを生んだりするなど、さらなる変化を続けるようになった。そうして陸上生活にいっそう適応すると同時に、やがて昆虫類へとつながる進化の道筋が生まれる。まだ原始的な姿とはいえ、小型で軽快な身体を持つ者たちが土や葉の上を忙しなく動き回り、微生物や腐食した植物をこまめに食べては分解し、地中を掘ったり、枯れ木のすき間を探検したりしている。その動きは目にもとまらぬ速さというわけではないが、少なくとも最初の多足類がのそのそと這っていた頃に比べれば、だいぶ洗練されてきたように見えた。
「こんなちっぽけな生きものたちが、やがて大空に飛び立つ日も来るのだろうか」
彼はぼんやりと考えながら、足元のように見える大地の光景を眺めていた。とはいえ、“飛ぶ”という行為は今のところ想像に過ぎない。だが、こうして節足動物が翅らしき構造を開発し始めている以上、いつかどこかで海や地面から空へと進出する種が現れても不思議はない。自由自在な外骨格の改変や、軽量化された身体、効率よく酸素を取り込む気管――それらが複合していけば、新たな可能性はいくらでも開けていくだろう。
同じ頃、海辺の湿地に目を凝らしてみると、両生類の祖先らしき生きものが岸辺に顔をのぞかせている。体の構造としてはまだ魚に近く、尾びれの名残や鰓に似た器官もあるが、胸びれや腹びれにあたる部分は次第に四肢のように役割を分担し始め、少しずつ力強く地面を押すような動きが可能になってきていた。浅瀬から水際へ、そして陸へ――見るからに不器用そうに、前足と後ろ足をぬめりのある体で引きずり、わずかずつ歩を進める。腹は地面にべったりとついたままだが、それでも一瞬だけ首をもたげ、周囲の空気や光を確かめようとしているかのように見えた。
「両生類か。彼らがこうして水の外へ挑戦するのは、まさに大きな賭けだろう」
水の中でこそ安定して呼吸や活動を行えるはずなのに、わざわざ地上に出てくることで何を得ようとしているのか。もしかしたら、まだ未開拓の餌場がそこにあるのかもしれないし、産卵や子育てのための新たな環境を求めているのかもしれない。理由は定かではないが、海辺や河川の浅瀬から陸上へと一歩を踏み出すことは、以前に顎を得た魚が海を制したのに等しいほど画期的な変化に思えた。実際、彼らはまだ鰓呼吸が必要で、卵も柔らかい膜に包まれただけの不完全なものしか持たないため、完全に陸で生活するには制約が多すぎる。それでも、水と陸の間を行き来できる両生類は、ほかの海洋生物より一足先に未知の空間へと足を踏み出し、多様な生息域を開拓し始めるだろう。
その眺めを思わず微笑ましく感じるのは、彼らが一生懸命に前足で地面を押し、口をぱくぱくさせながら湿気を逃がさないように呼吸を工夫している様子が、どこか愛らしいからかもしれない。海の浅瀬と陸地を行き来する際には、まだぴょんぴょん跳ねることすらおぼつかず、体を左右にくねらせながらなんとか進む。その姿はあまり優雅とはいえないが、それでも確実に水圏と陸圏を結ぶ存在として大地に足跡を刻んでいる。
やがて両生類の中には体をさらに陸上向きに作り替える種が現れ、湿度の高い場所だけでなく、もう少し乾燥した環境でも一時的に活動できるようになっていく。とはいえ、卵を産むためにはまだ水辺が欠かせない。そういった繁殖の課題を乗り越えるために、新たな保護機構を獲得するには、あともうしばらく時間が必要だろう。しかし、彼がすでに目の前に描く未来には、こうした両生類の一部がさらに進化を重ね、さらに効率的な呼吸と水分保持の方法を身につけて完全に陸上を制するシーンがうっすらと浮かんでいた。
陸を行き交う多足類や昆虫の原型と、湿地を出たり入ったりする両生類たちの姿が混じり合うと、大地は次第ににぎわいを増していく。小石や落ち葉の陰からは長い脚を持つ捕食性の昆虫が這い出し、時には両生類の幼生に襲いかかる場面もある。逆に、ある程度成長した両生類は小さな節足動物を捕らえてむしゃむしゃと呑み込む。捕食と被食の関係が陸上でも確立され、生命たちは生き残るために必死で互いを観察し、戦略を練り、あるいは協力すべきときは協力する。彼の目には、その一連のやり取りが実に細やかなドラマとして映った。
「虫たちが増え、両生類が陸で息づき、やがて草原や森林が広がっていくのかな」
そんな言葉が意識の奥底を流れていく。まだ植物と呼べるようなものはコケの延長のようなものが陸地でちらほらと見られる程度で、背の高い樹木の姿はない。しかし、微生物的な藻やコケが大地を覆いはじめれば、土壌ができ上がっていくのも時間の問題だろう。さらに昆虫類が分解を担い、両生類が川や沼の環境を攪拌すれば、土壌中の養分や菌類との関わりが深まり、いよいよ本格的な“陸の生態系”が動き出すに違いない。それが何万年先、何千万年先になるかはわからないが、彼はそれを思うだけで妙に胸が温かくなる。
陸上で小さな節足動物たちが集合し、繁殖や獲物の分配をどのように行っているのかを観察していると、ときおり驚くほど巧妙な行動を見せることがある。限られた栄養を取り合わずに済むよう、時間帯をずらして行動する種がいれば、外敵を欺くために体色を枯葉に似せる種もいる。こうした小さな工夫の積み重ねが、将来の圧倒的な多様性へとつながっていくのだろう。地面を隅から隅まで蠢く姿に気づいた彼は、「なんと健気で愛おしいんだろう」と、思わずまなざしを和ませた。
それは決して優しい世界ばかりではない。乾燥や寒波、食料不足、天敵の襲撃……未開拓の大陸は危険が多く、生き延びるには厳しい試練が課せられる。しかし、そこにこそ発明があり、適応があり、彼の大好きなドラマが詰まっているのだと思う。どれだけ進化しようとも、環境は常に変化するからこそ、生命は挑戦をやめられない。彼は、その尽きない物語を見届ける立場として、この星が紡ぎ出す一つひとつの奇跡を目に焼き付けていた。
多足類がのそのそと岩陰を這い、昆虫の前身たちが翅のような器官を試作しながら歩き回り、湿った泥の上を両生類が手足をばたつかせながら移動していく。今はまだ荒涼として緑の乏しい大地だが、その姿は日を追うごとに少しずつ、けれど確実に生きものたちの活動で彩られていた。彼の目に映るその光景は、何度見ても微笑ましい――たとえ危機があろうとも、苦難があろうとも、生きようとする意志に満ちあふれているからだ。
「さあ、これからどんな世界に変わっていくんだろう……」
呟くようにそう思いながら、彼は空の遠くを見上げる。そこにはまだ飛ぶ生きものはいないが、いずれ必ず現れるはずだ。その日が来るのが、今から心底楽しみだった。地球は陸と海と空という舞台を揃え、いよいよ壮大なドラマのクライマックスに向かい始めているように思えた。彼は神にも似た力を持ちながら、ただその物語をわくわくしながら眺め続ける。それこそが、彼にとって何よりの喜びであり、生きがいのようなものなのだ。
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