第3話 孤独の神

星々がまたたく漆黒の宇宙を背景に、青く輝く地球を見下ろす彼の意識は、あるとき突然、自分の力に気づいた。きっかけは何気ない衝動だった。海の渦巻く表面を眺め、ふと「割ってみるか」と思った。それは思考というよりは無自覚な試みに近い。すると、確かに海の大部分が左右に裂かれ、海底がむき出しになるほどの切れ目が生じた。視界一面に広がる水のカーテンは壮観だったものの、数瞬後には分断された海水が奔流となってまた寄せ合い、もとどおりの海面を取り戻す。驚きを覚えつつも、さらなる好奇心が背を押すようにして、今度は地底から火山を噴き上げてみた。地殻の奥深くでくすぶっていたマグマが一気に噴出し、空を焦がすような赤い光を放つ。噴火の振動が大地を揺るがし、溶岩が地表を滑り落ち、辺りの空は灼熱のガスで染まっていく。


「こんなことまでできるのか」


そう呟いた瞬間、火山活動を押し止めて再び静かな大地へと戻してみた。すると今度は青白い煙が少し漂う程度になり、先ほどの活気はまるで幻だったかのようにかき消される。不思議な感慨が胸に溢れた。この星の姿を、こんなにも簡単に変えてしまえるのか――それを理解した彼は、それからしばらくの間、思いつくままに環境を弄び始めた。山を隆起させては谷を刻み、乾いた砂漠に滝を落とす。大陸を切り離してみたり、逆に融合させたりする。新しい海岸線ができるさまを眺め、海底の形状が変化していく過程を味わう。これほど大掛かりな“遊び”は、どこまでも続けられるような気さえした。


だが、あまりにも簡単に思い通りになることが、やがて虚しさを彼にもたらした。地球を変貌させる力を持つという事実は、はじめこそ驚きと興奮を伴ったが、その刺激もすぐに薄れていく。なにせ、思考の一端だけで山脈を消し飛ばし、海を干上がらせられるほどの力なのだから、変化そのものの尊さを感じにくくなる。少なくとも、地球自身が成長しようとする努力を彼が手伝うわけでもなく、勝手に操作しているだけでは、いつか見たかった自然の流れは壊れてしまいかねない。


「つまらないな」


彼は空の一点を眺めながらぼそりと呟いた。もはやこうした行為を続ける意味が感じられなくなったのだ。もし本気を出せば、この惑星系の中心にある恒星さえも手のひらひとつで消し飛ばせるだろう、と頭の片隅で考える。けれど、それを実行する気にはなれない。せっかく見守ってきたこの世界の灯火を、みずから奪ってしまうなど論外だった。少なくとも、どのような形であれ生命が育まれ始めた地球は守りたい。そして、彼がなぜそう感じるのか、自分でもいまだわからないが、そうするしかないという確信だけはあった。


地球という名で呼んでいるこの星に対して、いつしか彼は自分なりの愛着を抱いていた。だから、あまりにも容易く破壊や創造を繰り返す“全能”の力を振るうことに嫌気がさしたのだろう。そっと意識を落ち着かせて、日々少しずつ変わっていく自然の営みに視線を戻す。火山の噴火が弱まれば、そこに山肌を削る雨が降る。降り注いだ雨は川を作り、大地を潤し、海へと注ぐ。そして海の深い場所では、長い時をかけて生まれた原始の細胞たちが、代謝を繰り返していた。


「わたしは……神、というやつなのかもしれない」


肉体を持たない声が、静かな水面を撫でるようにして胸中で揺れた。神――すべてを思いのままに操れる存在。それを自称するだけの力は確かにある。けれど、少なくとも人間という生物がまだいないこの世界では、それを称えてくれる者などいない。孤独といえばそうかもしれないが、そもそも自分は孤独を寂しいと感じているのかどうかもはっきりしなかった。ただ、自分の行動を見つめる“他者”がいない以上、何をしても自己完結するだけ。それがやるせないと感じる瞬間は確かにある。


そこで彼は、脳裏に浮かんだ突飛なアイデアを実行してみることにした。まだ誰も住まない大地の片隅に、見慣れぬ形の街を創り出してみたのだ。昔から存在していたかのように、石造りの建物や並木道、階段のある公共施設のようなものまで整然と並んでいる。試しにその街の中央には大きな四角錐をそびえ立たせ、周囲には無数の細かなピラミッド群を配置した。だがその街には当然ながら人の気配もなく、時を経ずして風化の波が訪れると、建物の角は崩れていく。彼はそれを眺めて、短く息を吐いた。造るのも壊すのも一瞬。だが、その過程を誰も共有していない。


「どうせ作るなら、いつかここに生まれるかもしれない存在が驚いてくれるような形にしておけばよかったかな」


そうつぶやきながら、彼は何度か石を組み替え、奇妙な紋様をあしらったり、入口を迷路のように複雑にしたりと工夫をこらしてみた。しかし、最終的には砂が崩れるように建築物は跡形もなく消え去り、地表とともに溶け合っていく。一瞬だけ「しっかり固定して残しておこうか」という考えがよぎったが、自分の意志で強引に保存してしまうのは、また別のむなしさを増幅させるように感じられた。自然が刻んだ時間の流れに従って、街並みが朽ち、かつての姿を失っていくのもこの世界にとっては必要な一過程なのだろう。いつしか実在した証拠さえ残さずに、大地は風や雨によって削り取られ、やがて何万年も先の地層に埋もれてしまうのだ。


ふと意識を切り替え、再び海中に目を向ける。まだ原始的な構造をした細胞たちが、波や潮の流れにゆらゆらと漂っていた。リン酸を含むデオキシリボ核酸――それが殻の内側に守られ、代謝反応を繰り返しているのを感じる。外殻は単純な膜構造だったはずが、いつしか内部の分子が組み変わり、より複雑な形態をとりはじめていた。クロロフィルの前駆体のような分子を組み込み、自ら光エネルギーを利用しようとする動きが見え始めたのだ。最初の段階では、不完全な分子連鎖が途切れ途切れに散らばるだけだったが、時が経つにつれ、より安定した形で組織化されていく。


やがて、膜の内と外で明確にエネルギー差を作り出す仕組みが定着しはじめたとき、そこに酸素の放出を伴う光合成に似たシステムが生まれかけている気配があった。まだこの星の大気にはほとんど酸素は含まれていないが、それが一部の生命の営みによって徐々に放出されてくるとなれば、まさに大きな転換点だ。さらに別の細胞の群れはミトコンドリアのような構造を取り込み、外から取り込んだ分子をエネルギーに変換する能力を高めようとしている。その変化はまるで、外界の微生物を吸収したり共生したりして、より強靭な生存戦略を手に入れるという流れに沿っていた。


「皆、少しずつ変わっていくんだな」


思考という形をとっていながら、彼の言葉は海面に波紋を落とすことはない。けれど、その静かな語りかけを、微生物の群れが聞いているかのようにも感じられた。もしかすると彼の存在――まるで神にも等しいこの観察者――は、そこに関わろうとさえ思えば、生命の進化に直接手を出せるかもしれない。たとえば細胞核を与え、遺伝情報を飛躍的に発展させることも難しくはない。だがそれをしてしまったとき、この星がもともと持ちうる自然な発展の妙味は失われるだろう。たったひとつの指先の動きで、世界をいかようにも変えられる。それは同時に、世界から多様性という名の未来を奪うことにも通じるのではないか――そんな不安が胸に広がる。だからこそ彼は、なるべく静かに見守る道を選んだ。


「……今はまだ、このままでいい」


そう呟いたとき、地球の大気上層部をかすめる流星の明滅が一瞬だけ夜空を彩った。流れ星と呼ぶにはまだ人はいないが、無数に落ちてくる微小な隕石の存在は地上の環境にも微妙な影響を与えている。海に飛び込むときは、そこに金属イオンや鉱物をもたらし、新たな化学反応を引き起こすかもしれない。その偶然の積み重ねが、生命の多様性をさらに広げていくのだろう。


「神……か。ならば、神としての仕事はなんだろう」


彼はぼんやりと考える。求められてもいないのに手を貸すべきではないとすれば、自分はただ生命の誕生と変化を見届ける存在に過ぎないのかもしれない。しかし一方で、もしこの星の生命がいずれ発する祈りに応えることができるのなら――その日が来るまで、ひたすらこの青い世界の行く末を見守り続けることが、彼の役割なのだろうか。そんな問いが頭をもたげるが、答えはまだわからない。


とりあえずは、手出ししすぎないこと。それが、彼が学んだ小さな一歩だった。すべてを一度に変えてしまうという行為は、あまりにも虚しい。目の前の海や空や大地が、時間をかけてゆっくりと変わり、やがて複雑な生命を育む過程を見る方が、はるかに魅力的に思える。彼自身が何者なのかという根本の疑問は依然として解けないままだが、こうして眺めている限り、少しずつ心が満たされていくのを感じるのだ。


彼は目を閉じるように意識を集中させて、そっと季節を変えた。といっても、大まかな気候変動を促す程度にとどめて、海中の小さな世界へ激変を与えない配慮だけは忘れない。ほんのかすかな天候の変化や気温の推移が、思いもよらない進化のきっかけになり得るかもしれないからだ。それはちょうど、ゆりかごに寝かされた赤子がすやすや眠るのを見守る親のようにも感じられた。彼は神――それを受け入れるならば、少なくとも今はその全能の力をほんの少しずつ動かしながら、この星に暮らす未来の命を優しく守りたいと願っていた。やがてこの地球にどんな生き物たちが現れ、どんな物語を紡ぐことになるのか。その全貌は、今はまだ遠い、しかし確かに訪れつつある未来の景色に溶けている。

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