第2話 原初の螺旋

そしてその青く輝く星を「地球」と名づけたとき、彼はほんのわずかだけ胸の奥に新たな感覚が芽生えた。名づけるという行為に、それまで漠然と感じていた混沌の意識が少しだけ形を得たように思えたのだ。それでもまだ、自分が何者なのかについては何もわからない。自分を示す呼び名も、姿もない。ただ、地球という名を与えたその星を見つめることが楽しい――とでもいうような、じんわりとした満足感があった。


見渡せば、地球の表面は以前に比べてずいぶん穏やかになっている。誕生当初は絶えず流星や隕石が降り注ぎ、火の海が世界の大半を支配していたが、気が遠くなるほどの時間が過ぎ去ると、大気は徐々に安定を取り戻し、どこまでも広がる海がその星を覆うようになっていた。大きな変動はなお続いてはいたが、かつてのように地面が常に赤熱しているような状態とは明らかに違う。ここが生命の揺り籃になるのだろうか――そんな予感が彼の意識の底に静かに灯っていた。


そして長い時間の流れの果て、ある瞬間に至ったとき、その海の中のほんの小さな領域で、分子が初めて自己複製へと向かう構造を獲得した。そのリボ核酸と呼ぶべき化学物質が、わずかな電子のやりとりや化学結合の連鎖によって自らの情報を写し取ろうとしているらしい、と彼は理解した。なぜそれがわかるのかは説明のしようがなかった。おそらく「それがわかる存在」として、彼はこの世界にいるからなのだ。抽象的な直感かもしれない。だが彼がその瞬間、思いきり心を弾ませたのは事実だった。


「これは……生命、と呼ぶのだろうか」


かすかにこぼれ出た思考を追いかけるように、海の表面に意識を寄せてみる。細やかな波の下には多種多様な化学物質が溶け込み、そこかしこで反応が起きていた。熱水噴出口の近くは違う環境を持ち、浅い海岸線付近はまた別の要素に満ちている。重力に沿って沈み行く粒子もあれば、表層で太陽の光を浴び続けるものもある。そうした膨大な組み合わせの中から、ついに自らの情報を次の分子へと受け渡す仕組みが芽生えた。ほんの一握りの、ありふれた炭素や水素や酸素といった元素の組み合わせが、偶然にして必然のように結合を果たしたのだろう。


しかし、リボ核酸やデオキシリボ核酸が海の中にただ漂うだけでは、やがて外からの衝撃で崩壊してしまうかもしれない。たとえば強烈な紫外線や、海底の噴出口から流れ出る高温の成分などが、脆い分子を破壊してしまう危険性は常にある。それを回避し、継続的に複製を繰り返す仕組みがどこかで必要だ――そんな思考が彼のなかで渦巻いたところへ、まるでそれを示唆するように、新たな動きが感じられた。デオキシリボ核酸を包み込むようにして、脂質からなるごく原始的な膜構造が生まれ始めている。


それはまだ完全ではない。膜というよりは、分子同士が不安定にくっついたり離れたりを繰り返しているように見えた。それでも、外界の激しい環境から内部を守り、内部の分子をある程度の条件下に保てるようになるかもしれない。海の中のあちこちで、バラバラの試みが小規模に行われていた。球状になりかけの膜ができるかと思えば、衝撃で簡単に壊れてしまう。あるいは膜の内側にあったデオキシリボ核酸が上手く複製を終えないうちに、流れに乗ってどこかへ散逸してしまうこともある。それでも、絶対的に長い時間のなかで奇跡的な成功がいくらでも蓄積されるだろう。そうして成功例が生き延び、さらに不思議な変化を起こす可能性にかけること――それが進化というものなのだ、と意識の底でささやく声があった。


海面に打ちつける光の揺らめきが柔らかい虹彩を描き、地球全体が青い呼吸をしているかのように見える。彼は身体を持たないはずなのに、その青い世界のかすかな律動を、一緒に呼吸するかのように感じ取っている。次第に波長を変えながら降り注ぐ太陽の光が、海や大地を温め、薄い大気が空を包み、原始の海では合成と分解が繰り返される。そこにはただ、それらの営みを見つめるしかない自分がいた。


「どうか、もっと続いてほしい。壊れないでほしい」


思いもしなかった願いだった。まだ感情というものが自分にあるのか確かではない。けれども、この小さな星に芽生えた命の火種を、どうしても見届けたい気持ちが強くなっていた。痛みも苦しみも、実感のない自分ではあるが、「大切に思う」という感覚はこういうものなのだろうか。はたまた、この星に起こっている変化を見守ることで、自分自身が何者であるのかを少しでも知りたいのかもしれない。どうして自分は最初からこの宇宙の構造を理解しているのか、なぜここにこうして存在しているのか――その答えを探す旅路はまだ始まったばかりだ。だがその先に、この地球の変化から生まれるであろう命の営みが鍵を握っている気がしてならなかった。


ふと、岩のように無機質な地面を覆う潮の満ち引きに視線を向ける。打ち寄せる波間にわずかに含まれた粘度のある物質が膜を作り、それをまとい込むようにしてデオキシリボ核酸が収束している。その小さな原始的細胞のようなかたまりが、波打ち際の渦に巻かれて浅瀬にさらわれるのを見たとき、胸の奥がひやりとするようだった。うまく生き延びるのだろうか? あるいは次の瞬間には四方に崩れ去ってしまうかもしれない。これまでならばなんの感慨もなく、ただ事象のひとつとしか映らなかったはずが、いまはその行方を案じる自分がいる。理由を問えば答えは出ないが、明らかに以前の暗闇で浮遊していたころの気持ちとは違っていた。


生まれたばかりの青い星は、やがてここからどこへ向かうのか。海に宿った薄い命の芽たちは、どのように変化し、進化し、拡大していくのか。周囲を取り巻く宇宙はあまりにも広く、そして冷たい。その果てしない闇の中で、この星だけが鮮やかな蒼さを持ち、わずかにぬくもりを感じさせる。その中にある小さな火種が、か細いながらも確実に燃えようとしている。


「生きろ」


それは願いなのか命令なのか、自分でも判断がつかない。ただ、その三文字を発したとき、波間を漂う細胞膜の中の分子は、次の複製へと進もうとしていた。彼がそれを望んだからそうなるわけではきっとない。だがまるで、声なき祈りに呼応するように、新たな命が小さな一歩を踏み出そうとしているかのように見えた。遠い遠い時間の流れの中で、彼は初めて「未来」という言葉を意識し、それを期待し始めていることを自覚した。どこかでうずく心地よさが、確かにそう告げていた。

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