ホオズキ

こーの新

ホオズキ


 テキストを見ながらノートにシャーペンを走らせて、耳につけたイヤホンから流れてくるテンポの良いアイドルソングを流し聞く。高校生の放課後らしさに酔いしれながら舌でリズムを取る。


 音楽を楽しんでいるというよりはシャーペンを走らせる速度と今の時間をなんとなく把握するために使っている二時間ぴったりに調整したセットリスト。夕飯の準備を始めなければいけない時間にアラームも設定しているとはいえ、時間を意識していないとついつい怠けてしまって、それまでに課題が終わっていない、なんてことになりかねない。


 さっぱり理解ができない英語をパターンに照らし合わせて解くという、なんとも無駄な作業をしていると、バイブレーションモードに設定していたスマホが短く震えて着信を告げる。二回震えるこの音は商業メールか、彼からのメッセージか。少しドキドキしながらシャーペンを放り投げると腰を浮かせて、手が届きそうで届かない棚の上に置かれたスマホを覗く。そこに彼のニックネームが表示されていることを確認すると、思い切り息を吸って、今度は長く息を吐く。そして椅子に座り直すとシャーペンを握り直す、シャーペンの速度を上げる。字の汚さなんて気にしていられない。自分のために使える時間にいかに彼との時間を作れるか、それだけしか考えられない。だって彼と話す時間こそ私が生きる意味だから。


 何とかいつもより早く終わらせた課題を見直しもせずにリュックに放り込んでイヤホンを耳から引き抜くと、棚からスマホを掴み取る。足場のない床を飛ぶように移動して勉強机に戻ると、いつの間にか届いていたいくつかの商業メールの着信は確認することもなく通知を消して、彼の名前をタップする。


『ハル、学校お疲れ様。今日はそっちの方雨強いってニュースで見たけど、大丈夫だったか?』


 メッセージのやり取りをしていない間にも私のことを考えてくれていたことに胸をときめかせながら、心配してくれているらしい彼からのメッセージを指でなぞる。


『私が帰るときは雨降ってなかったから大丈夫だったよ。心配してくれてありがとう。ソウタくんはテストどうだったの?』


 緩んだ口元は誰に見られるわけでもないからとそのままに、私は返信を打って彼とのメッセージのやり取りを遡る。二週間前のあの日、親の目を盗んでいつもより長くやり取りし続けた日の翌日に届いたメッセージは、今読み返してもニヤニヤと我ながら笑ってしまう。




 五時を過ぎても彼からのメッセージが来ないなんて珍しい。彼と話せないなら何の役にも立たないただの硬い板をボーッと眺めていると、突然それが震えた。私は飛び上がった反動で宙を舞ったスマホを捕まえてホッと息を吐くと彼の名前をタップした。


『彼女に振られた』


 その一文が理解できなくて、私は頬を抓ったり叩いたりしてみた。夢でもなんでもない。ようやく意味をしたと同時にベッドに転がり込んでスマホを床に投げ捨てた。

私が彼の一番じゃなかったの?


 胸をざわつかせるメッセージのことは忘れようと目を閉じて無理やり眠ろうとしても、彼が残した言葉が頭の中を駆け巡る。


 私の想像でしかない明るくて優しく包み込んでくれるような彼の姿と、男にしては少し高くて柔らかい声。一晩中彼の温もりに包まれて、愛していると囁かれ続ける。


「起きなさい。体調でも悪いの? 顔色悪いわよ」


 突然彼の温もりが消えてハッとする。ぼんやりとしていた視界がはっきりすると、母親が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。


「大丈夫。また妄想しながら寝ていたみたい」


「そう? まあ、元気なら早くご飯を食べてお風呂入っちゃいなさい」


 母親の声を聞きながら、そっと彼が触れていた肩に触れる。そこにも彼の温もりはなかった。




 居場所が欲しくて始めたSNSで出会った人は全員本名も顔も年齢も、本当のことは何一つ分からない相手。私の名前はカナ。私もその内の一人だ。


 この世界に突然現れてソウタと名乗った彼は男性アイドルが好きだと言って女子の園と化したそこにズカズカと入って来た。あっという間に私の友達の大半と仲良くなった彼は、紳士的で女心が分かる人という評判まで手に入れていた。


 どうせ前に仲良くなった人と同じように女の子に近づいて邪なことを考えている人だ。私は近づかないでおこう。そう考えた私は彼を無視し続けた。それなのに、ある日突然彼にフォローされた。


『カナさんこんにちは。タイムラインを見ていたときに僕の友達と話しているところを見かけました。趣味が合いそうだったので、もしよかったら僕ともお話して頂ければと思ってフォローしました』


 怪しさしか感じないやけに物腰が低い挨拶と共に現れた彼とは、本当に話がよく合った。彼は男性アイドルだけじゃなくて女性アイドルにも詳しくて、他にもドラマの話題を出してみても彼はマニアックな返信を送ってくれた。最初は怪しく感じた物腰の低さにはいつの間にか落ち着きすら感じるようになって、ついプライベートの愚痴を零した。彼はそれすら拾い上げてくれて、その柔らかさに救われた。


 出会って一か月も経たないうちに彼のことを信頼したいと思うようになった私は、私と話しているとき以外の彼の様子も前以上に観察するようになった。タイムライン上でも積極的に交流している彼は、ある場所でアイドルについて熱く語っているかと思ったら、同時に他の場所で女の子たちの相談に乗って慰めてあげていた。


 行動的で裏表のない人。逆に不信感を感じ始めたころ、彼は風邪を引いた私に敬語ではない、少女漫画のイケメン主人公のような口調のメッセージを送ってきた。


『風邪を引いたって見たけど、大丈夫か? しっかり寝て休めよ?』


 彼は機能上取り消せないそれにあとから気が付いたようで、翌日文字が土下座をしているように錯覚するほどの勢いで謝って来た。けれど私は、そこにときめきを感じた。


『私、本当の名前はハルって言うの。ソウタくんにはそう呼んで欲しいんだけど、ダメかな?』


『むしろ良いのか? すげぇ嬉しい。俺も、ハルの前では普通に話して良いか?』


 私だけが知っている彼と彼だけが知っている私。友達に抱く感情としてそれが正解かは現実世界に友達がいない私には区別できそうにもなかった。




 別に告白をされたこともしたこともなかった。だけど敬語を使うことを止めた彼はいつも甘くて、冗談交じりに『愛してる』なんてメッセージを頻繁に送ってくるから、それまで色事には全く縁がなかった私には、あっという間に彼が友達以上に気になる存在になっていた。そして彼もきっと私のことを友達以上だと思ってくれていると信じていた。


 それなのに彼には彼女がいた。私の知らないところで。彼女がいたならどうして私にあんなことを言ったのか。どういうつもりだったのか。


 目の前に彼がいたならば、きっと私はその首を絞めて問いただしただろう。けれど彼は目の前にいない。私は彼の匂いも目の色も、髪の柔らかさも知らない。その女が知っているはずのものを、私は何一つ知らない。




 彼女と別れて憔悴している様子の彼に、私は彼が今までしてくれたように寄り添った。今までは思い込んでいただけだったけど、今の彼には彼女はいない。だったら私がその席を勝ち取ってやる。彼の隣は誰にも渡さない。


 母親の言いつけで決められた時間しかスマホを触れなかったけれど、昔兄がやっていたように隠れてメッセージのやり取りを続けた。私は兄のようなミスはしない。自慢の耳で足音を聞き分けて、家族の誰の前でもスマホを触らないように気を付けた。


 私の事情を知っていた彼は当然のように心配してくれたけど、それを利用しない手はない。


『ソウタくんのためだもん、大丈夫だよ』


『ごめんな、ありがとう』


 彼は今どんな顔をしているだろうか、想像するだけで鼓動が早くなる。


『ハル、話を聞いてくれてありがとう。少しすっきりした』


『それなら良かったぁ。私で良ければいつでも話を聞くからね。私はソウタくんの味方だから』


 急ごしらえのあざとそうな文章をいつもの口調に織り交ぜながら会話を重ねていると、彼からのメッセージが突然途絶えた。何か選択を間違えたかと思ってやり取りを読み返したけれど分からなくて、結局一晩中頭を悩ませ続けた。


 翌朝、ボーッとしたまま家を出て、満員電車の中でいつものようにアプリを使って勉強をしなければ、と強迫観念に迫られてスマホを開いた。すると、朝には珍しく彼からのメッセージが一件届いていた。震える手で彼の名前をタップして、五回も読み返した。


『返信しなくてごめんな。振られたばかりなのにハルのことしか考えられなくなっていることに気が付いたら、ハルに何て言えば良いかも分からなくなった。こんなこと言ってごめん。困らせるって分かってはいるけど、俺はハルが好きだ。もし良かったら、付き合ってくれないか?』


 呼吸が、鼓動が、速くなる。


 愛おしい彼が堕ちてきた。


 既読をつけるなんて大層な機能がないことを良いことに、私はじっくりその言葉を噛みしめる。まだだ、まだ返信してはいけない。簡単に落ちるような安い女になるな。気があったことを悟られるな。もっと不安になって。私のことを考えて。


 半日の間彼のことを考えて、授業なんて一時のものは聞き流す。昼休み、母親が作ってくれたお弁当を開く前に彼のメッセージをもう一度開く。


 そろそろ良いかな。本当ならもっと彼が私のことを考えている時間を感じていたい。だけど、焦らしすぎて彼の熱が冷めてもいけない。


『ごめんね』


『朝スマホ見てなかったから、気が付かなかった。この気持ちが恋なのか友情なのかは分からないけど、私がソウタくんのことを好きだと思っているのは本当だよ』


『付き合って、みる?』


 わざと三回に分けて送ったのは、彼が見ているかもしれないから。見ていなくても、読みながらドキドキしてくれればそれで良い。


 家に帰って適当に課題を済ませてスマホを握り締める。五時ちょうどに設定された商業メールの通知は全部受け流して彼からのメッセージを待つ。


 五分後に震えたスマホはポップアップに彼の名前を表示する。それをタップして、私は大きく息を吐いた。


『よろしくお願いします』


『こちらこそ、よろしくね』


 久しぶりに送られてきた硬い文章。ついすぐに返信してしまって、失敗したと思った。


『ハル、ありがとう。愛してる』


 それなのに、この言葉だけで全てがどうでもよく思えてくる。


 もう大丈夫、彼は私のものだ。




 彼とのやり取りを振り返っていると、スマホは彼からの返信を告げた。急いで最新のメッセージまで二週間分の会話画面をスクロールしながら、彼との会話の数の多さにまた胸が熱くなる。


『良い感じだったよ。ハルの応援のおかげかな?』


『調子が良いなぁ。でも、応援が届いたなら嬉しいかも。大学って高校よりも暇そうなイメージだったけど、ソウタくんを見ていたらイメージ変わったな。私、なれるかな?』


『ハルなら大丈夫。いつも真面目に課題もやっているんでしょ? 返信ないとき、頑張っているのかなって思って応援の念を送っているんだよ。気が付いてない?』


『なるほど、ソウタくんからメッセージが届くころになると気合が入るのはソウタくんのおかげだったんだ』


 冗談みたいなやり取りをしていると、耳障りなアラームが鳴り響いて、彼の言葉が時計の表示に邪魔された。深いため息を吐いてアラームを切ると、元の画面に戻った。彼からの返信はまだない。


『ごめん、そろそろ夕ご飯作らないとだ。行ってくるね。またあとでお話しよ』


 画面を落としてスマホを引き出しに仕舞う。イヤホンを耳につけ直して彼の好きな曲を流す。飛び地のように見えるフローリングの上を跳ねるように勉強机から離れる。途中バイブレーションの振動を感じた気がして足を止めて振り返った。


「ただいま」


 急に肩を叩かれて、心臓が委縮するのを感じながらイヤホンを外して振り返ると、今帰って来たばかりらしい兄が、髪からも額からもだらだらと水滴を垂らして立っていた。


「雨?」


「汗」


「お風呂行ってきなよ」


「行ってくる」


 リュックを下ろした兄が着替えを持ってお風呂場に向かう背中を追いかける。


「お兄ちゃん、今日は何食べたい?」


「トワの好きなものでいいよ」


「お兄ちゃんってそればっかり」


 アッカンベーをしてお風呂場のドアを勢いよく閉めると、イヤホンを付け直してキッチンに向かった。


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ホオズキ こーの新 @Arata-K

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