海に沈むジグラート 第72話【春と冬の狭間】

七海ポルカ

第1話 春と冬の狭間




 その日は朝から、温かい陽射しが射し込んでいた。


 数日寒かったのですっかり引きこもっていたが、ラファエルはブラーノ島領主、クトローネ・ジャンバルファスの屋敷の外にある見事な庭を、朝から歩く気になった。

 花が少し、芽吹いている。


(春の気配がするなぁ)


 ジィナイースと幼い頃に過ごしたローマの城での時間。

 ジィナイースは花が好きで、動物が好きだ。

 春は動物も繁殖の季節だから、子供連れの動物を見つけるとジィナイースは愛しがって、夢中で絵を描いていた。

 あのローマの城はもうないけれど……。

 ラファエルは自分の領地であるフォンテーヌブローの城を思い浮かべた。

 いつジィナイースが来てもいいように、美しく庭を整えた湖畔の城。

 春は格別に綺麗だ。


(君に見せてあげたい)


 その時のジィナイース・テラの目を輝かせる様子を想像し、目を閉じていたラファエルは小さく息をつく。



「春の気配がして来ましたね」



 ラファエル・イーシャは美しい青い瞳をゆっくりと開いた。

 振り返れば、そこに王妃が佇んでいたので、微笑んで優雅に会釈をする。

「おはようございます、妃殿下」

「おはよう。ラファエル」

「たった今私もこの暖かさにそれを思っていた所です。この数日は寒かったので、どうなることかと」

 セルピナ・ビューレイは笑った。

「これからはじきに暖かくなるでしょう。いつも春になる前に、一度雪が降りそうなほど冷える日があるのですよ。ヴェネトは寒い季節が短い。きっと冬が、自分の存在を忘れないようにと釘を刺しているのでしょうね」

「心配しないでも忘れたりしないのになあ……」

 ラファエルはため息をついた。

 庭の向こうから、何台か、馬車の到着する音が聞こえてきた。

 垣根の向こうだから、姿は見えない。

「ジャンバルファスが外遊から戻ったのでしょう」

「彼はどんな人物ですか。夜会で軽く挨拶したことはありますが、まだ親しくありません」


「ジャンバルファス家はブラーノ島の領主を歴任して来たと同時に、外務大臣を多く輩出してきました。クトローネも数年前まで外務大臣でしたし。

 今は彼の息子が引き継いでいます。

 面白い家系よ。

 子供の頃から家に外交官が多く出入りするものだから、子供達も自然と外の世界に憧れるようで。その外交への興味は、政治か、芸術かに分かれるの。外交官と芸術家の二分にね」


 歩き出した王妃に腕を差し出し、二人は暖かい庭を、ゆっくりと歩き出した。

「なるほど。芸術の感性に優れた子供は芸術家になり、芸術に興味がなければ、政治を」


「器用な家系なのですよ。芸術家といっても多方面に才能を発揮します。

 例えばこの庭も、庭師になった子供が手入れしているのだとか。

 屋敷も別荘を子供が建てたと言っていました。

 ジャンバルファス家の別荘はヴェネト各地にありますが、どれも個性のある、面白い形をしていますよ」


「そうなのですか。私もあの塔がなんの塔なのか不思議に思っていました」


 ジャンバルファス家の庭園も、屋敷も、少し確かに変わっている。

 屋敷は正面からは、ヴェネト貴族に多いアーチをくぐり、正面のガーデン、水場を抜け、屋敷があるという普通の流れに見えるが、裏庭に面した屋敷は増設を繰り返したように歪だ。

 広い裏庭には四つの四阿があるが、全部変わっている。

 フランス人も新しい流行をとかく追いたがるところはあったが、ラファエルから見てもなかなか奇抜な彫像や、建物も多かった。

 ここに到着してから寒かったので外に出る気がしなかったのだが、屋敷から見る庭に、変わった建造物などがあって、何だろうとは興味を引かれていたのだ。


「聖堂ですか?」

 庭の向こうにある、三角形の塔にラファエルが首を傾げる。

「いいえ。子供の遊び場所」

 王妃の答えにラファエルが吹き出した。

「ああみえてあの塔は古いのですよ。私も幼い頃、何度かここへ来ましたけど、その時にはもうありました。中は何にもなくて、雨の日に雨宿りが出来るくらいよ。

 子供達が勝手に本家に帰ってきては色々なものを作っていくと、クトローネの奥様が頭を抱えていましたわ」

「奥様は芸術を愛する方では?」


「ここだけの話、あまり芸術の才は無い方ね。凡庸ですわ。でも、家にこれだけ芸術家が溢れていると、あれくらい鷹揚でなければ気が狂うのかもしれませんわね。

 クトローネの奥様は大変信仰深い方ですのよ。お家柄にヴェネツィア聖教会の、大司教など、尊い方の血も混じっていて、筋金入り。

 奥様は夫に寛容ですけれど、ヴェネツィア聖教会の古典教義だけは固く守らせていますわ。彼女が信じるのは、確かな信仰、実践、時の流れに裏打ちされた、聖なる劣化を受けた聖堂だけです」


「大きなお世話でしょうが……よく、ジャンバルファス家に嫁されましたね」


 説明を聞いたラファエルが笑ってしまっている。

夫が留守なので、とここへ到着した時も公爵夫人が出迎えてくれたが、その時はもっと普通の女性に見えた。背景が分かって来ると、人間は益々面白く見えてくるものだ。

 公爵夫人の話を聞いて難しそうな家族だと眉を顰めず、青い瞳を輝かせたラファエルに、王妃セルピナは微笑まし気な笑みを向けた。

「お父さまとお母さまが是非にと望まれて決まったのだとか」

 ああ、と頷く。

「政略結婚ですわ。きっと神に与えられた運命ならば、死ぬまで貫くお覚悟なのね」

「意志の強い奥様のようだ」


 優しく返しながらも、ついにヴェネツィア聖教会、という名が出てきたなあとラファエルは思う。

 ラファエルはヴェネトの信仰は知らないが、大貴族の息子として、宗教にはまず敬意を持って接しろという厳しい教えを受けて育ってきた。

 自国の宗教でさえそうなのだから、他国など、更に慎重であるべきである。

 だからすぐにヴェネトの社交界で受け入れられたラファエルも「それでは教会にも」などとは気安く足を伸ばさなかった。


 今回ムラーノ島で行われた枢機卿任命式で、初めて多くの教会関係者と顔を合わせ、少し話も出来た。ラファエルは余計な話はせず、ただ王妃の側で祝辞を述べるに留めた為、ほとんどの人間が好意的に挨拶をしてくれた。

 ヴェネト王宮でも滅多に教会の人間は見ない。

 慣例の、月一の大礼拝で少し出入りは見るが、その際貴族なども交えて話すような場は作られない。

 ラファエルの印象から言って、ヴェネツィア聖教会はかなり厳格に、政治とも貴族とも一線を引いて付き合っているようだった。


(でもそれも彼らの一面に過ぎない)


 ネーリ・バルネチアの名前が書かれた死のリストには、教会関係者が多く載っている。

 それにラファエルは、ネーリから全てを聞いているから分かっているが、ヴェネツィアの歓楽街の女達が「教会も今や危うい」と発言していたという。


(聖なる教義に反して邪悪を働く)

 悪人はどの世界にもいる。

 嘆かわしいことではあるが、事実だ。


 ネーリが素顔を隠して、闇討ちをしていた理由がラファエルはよく分かる。

 聞いた時は心が痛んだが、嫌だと思ったのはネーリの手だけが悪人の血で染まっていたからだ。

 彼は本来警邏隊や、ヴェネトの守護職がやらなければならないことをやった。

 王都の警邏隊は大貴族に買収され、多くが彼らの私兵団のように動いていたから。

致し方なかったのだと思う。

 そう考えて、ラファエルはふと気付いた。


(街中で騒ぎを起こすような程度の警邏隊を使っているのは中流貴族あたりで、国務に関わるような大貴族は関わりないと思っていたが、【死のリスト】にシャルタナが関わっていると仮定すると、他の六大貴族だって、関わってないとは言い切れない。案外警邏隊の中にも、もっと格の高い貴族に雇われている人間はいるのかも)


 酔って娼婦を暴行するような連中ではなく、そういう人間を使う、その上に更にそういう兵をとりまとめるような人間がいて、それが有力貴族に雇われている可能性はある。

 末端の人間などを捕まえても、それならば自分を雇い動かしているのが本当は誰かなど、知らないはずだ。

 ゆっくりと池の側にやって来た。

 白い水鳥が羽を休めている。


(ジィナイースと同じ武器で、警邏隊を殺している人間がヴェネツィアにもう一人いる。

 あの人は、ユリウスの船に乗っていた人間が作っていた武器だから他に出回っているとは考えられないと言っていたから、その関係者である可能性はある)


 ただ、その武器を作った人間も、今は全く行方が知れないということだから、武器が流出したとも考えられる。

 そうなると使う者の正体は、別に関係者である可能性にかぎらない。

【有翼旅団】はユリウスの死後、解散させられた。

 しかしそれぞれが非常に優秀な兵士だったため、ユリウス王の影響を嫌い、私兵団を解体までさせたこの王妃が、ヴェネトに入港を禁じるだけで済ませるだろうかと思う。

 現に王妃は神聖ローマ帝国のフェルディナント・アークに【有翼旅団】という賊を捕縛し討伐せよと命令を下している。


 ……行方を捜しているのだ。


 彼らの中の何人かがすでに捕縛されていたりしたら、武器の流出もあり得る。

 彼らを捕まえても、王宮に連れてきて尋問するほど王妃は愚かではないだろう。

 別の場所のはずだ。


(側近のロシェル・グヴェンならその辺りの事情は知ってそうだな)


 軍人でもなく、貴族でもない。

 あの男がセルピナの側にいる理由が、今では何となく理解出来るようになった。

 つまりセルピナはヴェネトの軍人にも貴族にも、知られたくない秘密を抱えているからだ。

 ラファエルはまだセルピナから【有翼旅団】のことは聞いたことが無い。

 何となく、彼の勘が働いていた。セルピナが例え神聖ローマ帝国のフェルディナントに【有翼旅団】討伐を命じても、フランス艦隊率いるラファエルには、王妃はその話をしていない。今ヴェネト近海を広く護衛しているのはフランス艦隊なのにだ。


 つまり今は、フランスに対してその名は聞かせたくないのだろう。

 フェルディナントも他の二国にはその話をするなと釘を刺されたと聞く。

 これでラファエルが【有翼旅団】の名を出せば、王妃はフェルディナントとの関りを怪しむだろう。この件に関しては王妃自らラファエルに語るまで、決して触れない方がいいだろうと彼は見た。


【死のリスト】の実行は、三国がヴェネトに到着してからは止まっているという。

 恐らく王都を神聖ローマ帝国の竜騎兵団が徘徊し出したので、警戒し動きを自重しているのだろう。


(口封じか。それはあり得るな)


 有力貴族に雇われていた、ごく一部の警邏隊を、捜査が及ばないようにするために有力貴族が口封じで殺している可能性はある。

(だとしたらもう一人の【仮面の男】はヴェネトの有力貴族に雇われてる者か?)

 少しだけ咲いている花を見つけて微笑いながら、変わっているが非常に隅々まで手入れをされていて美しい池の周りを一周し、屋敷の方へとまた歩き出す。


 ラファエルは少年時代、ローマの城で見かけた彼らを思い出そうとした。

 あの中に、敢えてヴェネト貴族に雇われ殺しを生業にするような人間がいるとは思えなかったが……。分からない。人間は変わろうと思えばどのようにでも変わるものだ。

 有力貴族と繋がっている証拠と成り得る警邏隊を殺しているなら、その人間に殺された人間を調べれば何か分かることがあるはず。

 ネーリは聡明だから、そのことも分かっているだろう。

(確か武器で判断出来ると言ってたな……)

 相当な手練れだとも言っていた。

 ローマの城で見かけた彼らも、王の軍隊のように手練れが揃っていた。

 剣を覚えた今では、ラファエルもその判断が付くようになったのだ。


(本当にもう一人の仮面の男が【有翼旅団】の誰かであった場合は、ジィナイースの身も心配だ)


 ネーリが自分の武器との違いで、他にも同じ武器を使っている人間がいると気づけたように、敵にも同じことが出来るはずだ。

(俺が戻るまでは動かないでいてくれると言っていたけど)

 ラファエルは急に、ネーリが心配になった。


 彼は王族としては、驚くべき行動力を持っている人なのだ。

 何かやらねばならないことがある時は、人を動かさず、自分がまず動く。

 ……ユリウスもそういう王だった。


 唯一の安心材料はアデライードが彼の側にいてくれることだ。

 決してネーリを一人にはしないで欲しいと手紙にも重ねて書いてきたから、必ずそうしてくれるとは思う。

 もう一人の【仮面の男】についてはネーリも正体を知りたがっていた。


『不安なんだ。彼は、何故こんなことをするんだろう?』


 ネーリの闇討ちは、理由がある。

 相手も選んでいる。

 全ては治安が乱れている王都に平穏を取り戻すためだ。

(全く……あの人は正体を知りたがってたけど、今までそんな危険で野蛮な奴と夜の王都で鉢合わせたりしなくて良かったよ)

 考えて、ラファエルはふと思いついた。

(あれ? そういえばジィナイースはもう一人の【仮面の男】に会ってないのに、なんで相当な手練れだと分かったんだっけ?)

 記憶を丁寧に辿り、思い出す。


(そうだ。確かそいつはスペイン軍の駐屯地で三人殺したんだ。単なるチンピラで殺す価値も無い奴だってイアンが言ってたんだよな。あいつに気付かれないで、あいつの駐屯地に捕まっている警邏隊三人を殺すなんて、確かに相当な手練れじゃなきゃ出来ないだろうな)


 だがスペイン軍の駐屯地でヴェネトの警邏隊三人を殺すというのはかなりの意図を感じる。スペイン軍への、敵意だ。

 当時イアンはまだ王宮に呼ばれていなかったし、スペインの駐屯地で三人もヴェネトの人間が惨殺されたと噂になれば、ヴェネトの人間はスペイン艦隊に対して不信と警戒を抱くだろう。最悪の場合王妃に呼び出され、不祥事だと国に帰される可能性すらあった。

 神聖ローマ帝国のフェルディナントが昔のよしみの縁で救ってやったらしいが、かなりスペインにとっては危機的なことだった。


(とすると、スペイン艦隊を国に戻したいのか? それとも三国を邪魔に思ってまずスペインが狙われたか……でもその警邏隊三人がイアンに捕まったのは偶然だったはず)


 市民を暴行しているところを、見かねて止めに入ったネーリに手を上げようとして、イアンが逮捕したのだから。

 その時、ラファエルは何かを思いつきそうだったが、丁度向こうから屋敷の執事が姿を見せた。

「妃殿下、当主が戻りました。朝食の前にご挨拶が出来ればと申しておりますが……」

「許しましょう。ラファエル、貴方もおいでなさい」

「ありがとうございます」

 ラファエルは思索を一度打ち切った。

 王都ヴェネツィアに戻ってからネーリと一緒に話せば、また色々気付くことがあるかもしれない。


 平和を愛する、この世の光を描く、光の画家……。


 だが彼の本質は、絵を描く者としてだけには留まらない。

 ネーリは政治や戦術にも非常に長けた物の見方が出来る。

 彼に比べれば、自分など実戦の指揮官としては遙かに凡庸な方だとラファエルは思っている。ユリウスの腕に抱き上げられ、彼の側で、知らずのうちに帝王学を彼は学んでいたのだ。恐らくユリウスには、その意図があった。


「クトローネ殿は政治家ですか。それとも芸術家?」


 悪戯っぽくラファエルが小声で尋ねると、セルピナは笑った。

「実は意外でしょうが、彼は芸術家。早世した兄上から家督を継いだ時、彼は外国にいて、彫刻の勉強を。自分が家督を継ぐことになるとは露にも思って来なかったため青天の霹靂で、慌ててヴェネトに戻ったとか」

「留学されていたのですか。色々な土地を?」

「ええ。回ったと聞いていますよ」

「それはいい。楽しそうな方だ」

「貴方もフランスの大貴族。気軽に旅行など出来ないでしょうね」


「そうでもありません。諸外国はフラリと回ったことはありますよ。

 外国の街並みや芸術を見て回るのが好きなのです。

 楽しいものですよ。

 イタリア、スペイン、ベルギーやスイスにも行ったことがあります。

 外交ですが、イングランドにも一度。

 美しい場所もありましたが、あそこは無粋な国ですね。

 四六時中厳つい顔のイギリス兵が十人も二十人もついてきて監視するから、美味しくお茶もゆっくり飲めないし。

 まあ時々そういう場所もありますが、基本的には私は旅行は好きですよ。いつか、もっと遠くの国にも行ってみたい」


「そうですか。ヴェネトに来てもごく自然に楽しんでいらっしゃると思ったけれど、本当に海外がお好きだったのね」

「ええ。色々な国を見るのは楽しい。ちなみに神聖ローマ帝国は竜が普通に飛び回っていると聞いたので、私が『そんな物騒なところちっとも行きたくない』と初めて拒否した唯一の国ですよ」

 王妃が声を出して笑っている。

「そうなのね、私はヴェネトを一度も出たことが無くて……。これからもずっと、そうなのかしらね」

 最後の方は独り言のようにも聞こえた。

 言い表しがたい破壊衝動で、三つの国を滅ぼした女。

 他国への興味や愛情が少しでもあれば、そんなことは出来ないのではないかとラファエルは思う。


 ユリウスのことを、幼い頃はセルピナは慕っていたようだ。

 それが何か、どこかで歪み、愛情が憎悪に変わった。

 ラファエルは幼い無力な頃、家族とは心が疎遠だった。

 兄弟に見下され、両親からも無視され、詰られていたと思う。


 そういうことが性格も臆病にさせたが、ジィナイースに会い、自分が変われた。

 自分が変わると、芸術を愛するようになり、友人達が増えた。

 家族は誉めてくれなかったが、友人達がそのうちラファエルを好きだといい、いい人間だと言ってくれるようになった。彼らのおかげで、家族はラファエルを少しずつ認めるようになり、出来ることが増えれば、誉めてくれるようにもなった。


 ――見下した過去など、彼らは今、思い出しもしないだろう。


 ラファエルの感じた孤独や、痛み……。

 与えた彼らには、すでに無かったものだ。今ラファエルが幸せそうならば、どうでもいいだろうとさえ考えるはずだ。


(それでもいい)


 ラファエルは別に、家族に復讐しようなどとは思わない。

 子供の頃のように、彼らに愛して欲しいなどとは真摯に思わなくなったけれど、あの頃の自分が、彼らにとってなにも与えられない人間であったことは事実だ。

 それに彼らが失望したことは、責められない。

 今は苛められなくなったし、大切にして貰っている。

 それでつまり、ラファエルはもう十分だった。

 憎しみなど無いし、家族のそれぞれが幸せになって欲しいと願っている。

 その為に自分が出来ることがあるならばしてみようとは思うけど、もう少年時代のように無我夢中に家族を愛することは無い。


 自分と血が連なる者としての、庇護心。

 領民を大切にする気持ちと同じだと思う。

 彼が自分といて幸せな顔をしてくれれば、ラファエルはそれでいい。

 ラファエルは、かつて抱いていた怒りや不安が、今は深い無償の愛情に変わっている。


 自分はこの女とは逆なのだ、と思った。

 だから理解は出来る。

 変容の仕方は違うけれど、憎悪と愛情ほど、性質の違う感情に変化することはあり得るということ。それは分かる。

 ヴェネトは決して王妃セルピナ・ビューレイの元に一枚岩ではない。

 歴史を誇る有力貴族の中には、古代兵器で他国を脅すようなやり方を嫌うような人物もいるだろう。

 ただ相手は三国を一夜で消滅させるような兵器だ。

 王妃一人に反抗するのとは訳が違う。

 クトローネが外交に長く携わり、芸術を愛する男ならば、そういう可能性はあり得る。


 何のために、誰を殺すか、なのだ。


 悪行を重ねる有力貴族にとっての口封じとして使われた警邏隊を殺しているならば、単なる子飼いの暗殺者となる。

 彼自身の記憶に残る【有翼旅団】の者たちを思い浮かべる。


 ……彼らはユリウスも、ジィナイース・テラのことも愛していた。


 裏切り、ヴェネトに残ってまで有力貴族の利益を守る暗殺者になるとは、ラファエルどうしても思えなかった。勿論人間の変容の可能性は頭に留めておくけれど。

 残っている者がいるのだとしたら――多分、ヴェネトの為だ。

ネーリもつまりは、そうだったから。


(だとすると有力貴族の中に、密かに【有翼旅団】を支援し、匿い、ジィナイースと同じようにヴェネトの為に、治安を乱す者たちを殺してる奴がいるのか?)


 まだ真実は見えてこない。

 ユリウスのあの、どんな王も及ばないほどの覇気を纏う姿を思い出した。

 五十年もの間、軍隊を持たないヴェネトの海を守り続けた、守護者。

 その娘は三国を滅ぼした破壊者だ。


(あなたがヴェネトを託した相手が、まだこの国のどこかにいるのか?)


 ラファエルには見えてこない。

 だが、不思議と息吹を感じる。

 ジィナイース・テラと再会し、彼の真意を知ってから、余計はっきりと感じるようになった。

 十年間幼い姿で、たった一人で戦い続けていた彼を知ってから、ユリウスの存在感や、それに寄り添う【有翼旅団】の者たちの息吹を「死んでいないはず」という根拠の無い確信と共により強く感じる。


 ジィナイースが倒れていないのだから、

 彼らが倒れていなくなっているはずがないと、漠然とそんな風に思うからだろうか。



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