愛と命と最後のキス

はじめアキラ

愛と命と最後のキス

 初恋は、角砂糖より甘い味がする。何処の誰だっただろう、そんなロマンチックなことを言っていたのは。


「ん……っ」


 チェリーはそっと舌を突き出し、彼のそれと絡めた。噛みつくように唇を貪り、唾液を交換するように甘い味を堪能する。

 頭から爪先まで、全部が心臓になってしまったかのように熱くてたまらなくなる。目の前が真っ白になって何も考えられなくなってしまうのは、チェリーという存在が相手に吸い上げられているせいなのか、それとも。


「ぷはっ……」


 息が苦しくなってきたところで、唇が離れた。頬が火照り、肩で息をしている私に対して、目の前の彼はぺろりと唇を舐めて余裕の表情である。


「最初の時よりキス、上手くなったじゃねえの」


 けらけらと笑う彼は、長い黒髪に青い瞳、黒い翼を持っている。まさに、チェリーが絵本で見た悪魔そのものの存在だ。

 そう、悪魔と分かっているはずの存在を、チェリーは毎晩夜、部屋に招きよせているのである。この、どこまでも濃厚で甘ったるいキスをするために。


「もうすぐ一カ月になるのよ。私だって、上手になるわ」


 私は息を整えながら、どうにか強がるように言った。まだお腹の底から胸の奥まで、ドキドキが収まらないのを誤魔化すように。




 ***




 余命二年。チェリーがそう宣告されたのは、約半年ほど前のことである。

 この国に昔からある風土病だった。昔からあまり体が丈夫でなくて、家で過ごすことが多かったチェリー。それでもどうにか十八歳まで生きることができたし、学校にも無事に通うことができるくらいには元気になったはずだった。それなのに、自分自身も気づかないうちに、脳の中で病気は進行していたということらしい。――チェリーは目の前が真っ暗になり、女手一つでチェリーを育ててくれた母はお医者様の前で泣き崩れたのだった。

 この病気で死ぬ子供は珍しくない。それでも、大人に近い年齢になってから病気が見つかるケースは非常に稀なのだとお医者様は言っていた。母からすれば、何でよりにもよってうちの娘なんだ、という気持ちでいっぱいだっただろう。

 チェリーも最初はそう思ったが、段々と思い直したのである。


――私が病気になった分、きっと他の子供の誰かが病気にならずに済んだんだわ。


 自分は体も丈夫ではないし、とりたてて美人でもない。勉強が特別できるわけでもなく、芸術に才能があるわけでもない。生きていても、大して世間の役に立てなかっただろう。ならば。


――その子の身代わりに、病気になったのよ、きっと。……そうよ、そう考えるのがいい。そうすれば、私は誰かの役に立って死んだってことになるんだから。


 誰かの役に立てない、迷惑をかけてばかりの自分にコンプレックスがあった。それゆえに、この病気にかかったことはある種チェリーに前向きな諦めを与えたのである。何も、チェリーが病気になろうがなかろうが、他の子の発症率が変わるわけではない。それでも、自分が誰かの身代わりになったのだと思えば、少しは救われたような気にもなったのだ。

 自分はこの家で、本ばかり読んでひっそりと死んでいく。それが最初から運命だったのだ、と。

 そう、そんなある夜。部屋の窓を開け放ち、チェリーの目の前に現れたのが彼であったのである。


『どうせ死ぬってならさ、俺にその命を分けてくれよ。ちょっとくらい、寿命縮まっても構わねーだろ?』


 黒髪に葵瞳、黒い翼の悪魔。彼は、生きている人から命を盗んで糧とする存在なのだと笑った。

 どうせ、ちょっと長く生きても意味はない。そう思っていたチェリーは、彼を受け入れたのである。キスによって、彼に命を与えるという、その行為を。




 ***




 悪魔というものを実際に見たのは、生まれて初めてのことだった。それまでは教科書の中や、絵本の中にそれらしいものが出てきたのを見ただけに過ぎない。しかも、そのどれもこれもがもっと恐ろしい姿をしていた。例えば。


「貴方は悪魔なのに、牛の頭じゃないのね」


 キスで彼に命を吸わせた後は、少しだけ雑談をすることにしている。悪魔が退屈凌ぎをしたいから話をしろと言ってきたせいだ。この一カ月、ずっとそんな調子だった。


「先生が以前言っていたのよ。人間そっくりの姿をしているモノは、神様が作った存在なんですって。悪魔が人ではなく動物の姿をしているのは、神様が作っていないかららしいわ」

「ああ、聖書にそういうのあったっけか。人間は神様そっくりに作られたから、神様と人間の姿はよく似てるって。なるほど、だからお前は不思議だと思うわけだ。俺が人間みてぇな姿をしてるから」

「ええ、そうよ。だから、貴方が最初悪魔だと言ってきた時少し疑ったの」


 チェリーの言葉に、そうかそうか!と彼は笑った。窓際に行儀悪く腰掛け、足をぶらぶらさせながら。

 外見は二十歳そこそこに見える彼だったが、そうしているともっと幼い子供のようでさえある。


「違うんだよなあ、これが。……お前らは勘違いしてるぜ。だって、本当は誰もカミサマなんか見たことないんだからよ」


 ひらひらと手を振って、悪魔は言う。


「でもって、自分達人間はカミサマに選ばれた特別な存在だと信じたかったわけだ。だから、絵の中のカミサマを、人間そっくりな姿にしたのさ。カミサマが人間を作ったんじゃない、人間がカミサマを作った。逆なんだよ」

「そんなこと言ったら、敬虔な信者の方々に怒られそうね」

「お生憎様、悪魔がそんなこと気にする必要があると思うか?……ていうか、悪魔である俺が人間そっくりであるのが、まさにその証拠だと思わね?悪魔は人間に取り入るために人間を真似るんだからよ」

「確かに、言われてみるとその通りかもしれないわね」


 彼の話は時々ぶっとんでいるが、教科書に書かれているような型どおりのものでない分チェリーには新鮮だった。そして、悪魔と言うわりに彼は妙に常識人めいたところがあるのである。まるで母と同じだ。昔は酷く“やんちゃ”していたらしい母は、自分も煙草を吸うくせに、チェリーには絶対煙草は駄目だというのである。この国では、十八歳から吸っていいことになっているというのに。


「煙草はやめとけよ、やったらやめられなくなる。金がかかるし、体がクサくなったらモテねーぞ」


 まったくおかしな人だ。チェリーは恐らくあと一年程度で死ぬはずなのに。


「お金がかかるのは困るけど、モテなくて結構よ。どうせ私はもうすぐ死ぬんだし」

「えー?俺はくせえ女は嫌なんだけどな。お前のシャンプーのいい匂いも消えちまうだろ」

「あら、褒めてくれてるの?……でも、そうね。貴方がそう言うならやめようかしら」

「おう、やめとけやめとけ」


 命を吸われているはずなのに、寿命が縮まっているはずなのに。それでもチェリーが毎晩、母に内緒で彼を招き入れる理由。

 それは、彼と話すのがどうしようもなく楽しいから。親にも言わない、秘密の友達を持つのがたまらなくドキドキするから。

 学校を休みがちのチェリーに、こんな風に話せる異性の友人ができたことなど一度もなかったのである。


「明日も来るでしょ」


 チェリーの言葉に、彼は笑う。


「おう、また明日な」




 ***




 女手一人でチェリーを育ててくれた母は、仕事で遅く帰ることも少なくない。それが、お医者さんが定期健診のために家に来てくれる日であることも時々あることだった。


「へえ、シチューの下ごしらえまで終わっているのか」


 体が弱くても家事はできる。チェリーが今日のメニューの話をすると、優しいお医者様は「さすがだね」と褒めてくれた。昔から世話になっている、まるでおじいちゃんのように慕っている人物でもある。


「チェリーは料理が得意なんだね。レストランを開いたらきっと盛況だろう」

「嫌だわ、ドクターったらお世辞が上手いんだから。そういえば、亡くなったお父様も料理が上手だったと聞いたことがあるわ。男性だけれどとても手先が器用で……子供の頃からレストランでアルバイトをしていて、それでお客だったお母さんと知り合ったって」

「ああ、聞いたことがあるね。なるほど、そう思うと血は争えないものなのかもしれない」


 その父は、チェリーが生まれてすぐに亡くなってしまっている。母はそれがショックだったようで、未だにチェリーが赤ちゃんの時に撮った写真をどこかにしまいこんだままにしてしまっているらしかった。父のことを思い出すのが辛いのだろう。


「ふむ……」


 もう一カ月、悪魔に命を吸われ続けている身である。体調に明確な変化はないが、きっと病気は悪化しているのだろうな、と思っていた。

 しかし、血液検査の結果と、それからチェリーの心音などをチェックしていたお医者様は首を傾げて言ったのである。


「最近具合が良いんじゃないのかい?数値が改善している。……ひょっとしたら、病気がもっと良くなるかもしれないぞ」

「え」


 チェリーは驚いて、眼を見開いたのだった。




 ***




「貴方、何か隠してるんじゃないの」


 その日の夜。チェリーに会いに来た悪魔に、チェリーは尋ねた。


「一カ月命を吸われたなら、もっと病気が悪化していてもいいはずなのに、何で良くなってるなんて言われるの?貴方、本当に私の命を吸ってる?」


 そもそも、彼は悪魔というわりに、自分がいろんな場所で聞いていた悪魔とは行動が異なるのである。悪魔とは、もっと人を悪い事に誘導すると聞いていたのだ。ところが、彼とするのは私が大好きな物語の話か、宗教のちょっとしたツッコミどころ、あるいは煙草やお酒はやめるようにとかそういう説教ばかり。口調はやや乱暴だが、話す内容は随分優しい。

 そして、何故か何度尋ねても名前を教えてくれない。


「そんなことどうでもいいだろーが」


 彼は困ったように笑って、私の頭に手を乗せた。


「ほら、顔向けろ。キスするぞ」


 今日のキスは、いつもみたいに甘くなかった。どこまでも、戸惑ったような味ばかりが残った。

 なんだか昨日より、彼の体温が冷たくなったような気がするのは気のせいなのだろうか。




 ***




 やがて、転機はあっけなく訪れることになる。

 母が仕事で遅くに家に帰ってきたある日。チェリーは、彼女に写真立てを見せて尋ねたのだ。


「お母さん、この人だれ……?」


 いつもと違う食器を出そうとして、食器棚の奥を探っていて見つけてしまったのである。

 それは、赤ちゃんを抱っこしたお母さんと、その隣に立つ青年の姿だった。今よりもかなり若いお母さんよりも、その青年の姿はかなり若い。まだ学生だと言われても通用しそうなほどに。


「隠してたつもりじゃないの。……ごめんなさいね」


 お母さんは泣きそうな顔で、そっと愛おしそうに写真を撫でたのだった。


「貴方の、お父さんよ。アルバートさん。……お母さん、姉さん女房ってよく言われてね……お母さんよりずっと年下だったの、彼。……酷い運命よね。貴方と同じ病気で、このあとすぐ亡くなってしまったんだから」


 何もかもが、繋がった瞬間だった。その人は銀髪だったが、それでも瞳の色は同じ。

 あの人と同じ、青い色。

 そもそも、こんなに綺麗な顔をした人を見間違えるはずがない。こんなにそっくりな人が、無関係なはずがない。

 チェリーはその晩、いつものように自称・悪魔を招き入れて言ったのだった。


「何で、悪魔だなんて嘘言ったの」


 彼に縋りついて、叫んだのである。


「貴方……アルバートっていうんでしょう!?私の、お父さんなんでしょう!?」

「…………」


 そう。

 お母さんがお父さんだと言った、写真の中のその人は。チェリーが毎晩出逢っている悪魔と、全く同じ顔をしていたのだ。


「貴方、騙してたのね。私の命を吸い取ってるなんて言いながら、本当は自分の命を私にくれていた、違う!?悪魔っていうのも嘘なんでしょ?何もかも嘘だったんでしょう!?なんで……なんで最初から本当のこと教えてくれなかったの。貴方がお父さんだって知ってたら私、私……」


 もう、とっくに気づいていた。

 いつも胸を高鳴らせて口づけをしていた、その瞬間を待っていた理由。それはただ、彼の助けになりたかったからだけじゃなくて。




「わかってたら……キスなんかしなかったのに!」




 なんて残酷なんだろう。生まれて初めて恋をした相手が、実のお父さんだったなんて。

 そして、その人とキスをしていたなんて。

 キスをして、その人の寿命を奪っていたなんて。


「……ごめんな」


 彼は胸倉に掴みかかったチェリーの腕をそっと掴んで、泣きだしそうな声で言った。


「悪魔だって言わなきゃチェリーは、俺とキスしてくれなかっただろ。俺に寿命を吸われてるってことにしなきゃ、傍にいることも許してくれなかっただろ。それじゃ困るんだよ。……堕天使になって、無理やり地上に降りてきた意味がなくなっちまう。そう言う意味じゃ、悪魔って言うのも嘘じゃねえんだよ」

「当たり前でしょ……!お父さん……死んで、生まれ変わってやっと天使になれたのに。何で、私なんかのために……!」

「地獄に落ちてでも、自分の子供を助けたいと思うのは当たり前だろうがよ。……ましてや、俺と同じ病気で死にそうだってなら尚更だ」


 初めて会った時より、彼の手は冷たくなっていた。良く見ると、月光に照らされたその顔は随分と青い。どうして、自分は気づかなかったのだろう。別れの時は、もう間近に迫っていたのに。


「生きろ。……お前は、人のために命を捧げられる優しさがある。そのための命、今度は母さんと、それからお前を世界で一番愛してくれる誰かのために捧げるんだ。心も優しくて料理が上手くて物語をたくさん知っている……お前には、お前が自覚してない良いところがたくさん、ある」


 何で、そんなことを言うのだろう。今になって、どうして。

 ずっと会いたかったお父さんの台詞なのに、いつもだったら褒められて嬉しいはずなのに。


――何で、お別れしなきゃいけないの。


 何で、二人一緒に生きていけなかったんだろう。

 どうして、自分と彼の“好き”は同じものになれなかったんだろう。


「これで、最期だ。……元気でな」

「――!」


 最後のキスは、涙の味がした。

 泣きながらキスをしたのは、これが最初で最後だった。そうであればいいと、願った。




 ***




「生まれて初めてですよ、この病気が完治したのは……!」

「ええ、奇跡みたいね、チェリー」

「……うん」


 数日後の検診で、お医者様とお母さんは笑顔で頷きあっていた。二人の前で、チェリーは頷く。そして、涙が滲まないように懸命に堪えていたのである。

 泣いてはいけない。もういないあの人は、きっと自分の笑顔を望んでくれていたはず。そしていつかあの人がまた地上に戻ってきたくなるくらい、笑って過ごしてやると決めたのだから。


「きっと神様が祝福してくれたのね」


 そう告げるお母さんに。チェリーは笑顔で、それは違うわ、と首を横に振ったのだった。


「私を助けてくれたのは……自称・悪魔の天使様だったのよ」


 まだ何が出来るかわからないけれど。それでも、もう少しだけ頑張っていきてみせると決めたのだ。

 いつか彼の娘として生まれたことに、胸を張れるようになるまで。

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