第2話:焼き肉店へ出発

「昇、待たせたわね」


 世利と妙子が、出発の準備を済ましてやってきた。


「父さん、母さん、財布とスマホは忘れてない?」


「もちろん、持ったさ」世利は言った。「計画した通り、この常陸牛を、一流のシェフの元へ連れて行こう」


「早速、出発しましょう」妙子は言った。「あの黒い子牛を引き連れてね」


「今日は、僕の思い出の日にしよう」昇は言った。「ここから、焼き肉店がある場所まで一体、どうやって行く予定なんだ?」


「子牛を調理してくれるところは、近所では見つからなかった」世利は言った。「だがしかし、車で片道三時間ほどの田舎に、常陸牛の調理を引き受けてくれる一軒の焼き肉店が見つかったんだ。今日は、一家総出の長旅になるから、昇も覚悟しとけよ」


「ところで、あの子牛になんて名前を付けたの?」


牛子ぎゅうこって付けたんだけど、どうだい母さん、分かり易い名前でいいだろ?」


「牛子か、それは、素敵な名前ね」妙子は応えた。「きっと、名付けてもらえて、彼女も喜んでいるわよ」


「彼女だなんて、大げさだな」昇は言った。「牛子は、人間じゃないんだから」


「昇、こちらへ、牛子を連れてきなさい」


 昇は、ベランダに歩み出た。空は白い雲に覆われている。真っ黒な子牛とのコントラストは、異様に目立っていた。昇は、フェンスに結び着けてある縄を解くと、手綱を引きながら、


「一緒に行こうな、牛子」と声を掛ける。


 ン~モォ~モ~ゥ。


 行く末の運命を知らずに、牛子は、嬉しそうに応えて鳴いた。



 井口家と牛子は、マンションの七階の玄関口から、歩いて出発した。


 幸い、エレベーターには、奥行きの広さがあったし、満員用のブザーも鳴らなかった。一階の自動ドアが開く。エレベーターホールで到着を待っていた近所の小さな女の子が、子牛を指差して言った。


「わー、お牛さんだー」


 彼女の両親は、マジマジと黒毛和牛を見詰めて、あんぐり口を開けている。


「こんにちは……、今日のお出かけは、どちらに?」


「これから、焼き肉店へ行こうと、思っております」


 と、妙子。


「そうですか、……どうぞ、行ってらっしゃい」


 笑顔が引きつった近所の夫妻が、子供を連れて、エレベーターの中へ乗り込み、ボタンを押して、上がっていった。井口一家は、駐車場に向かう途中でも、別の家族とも鉢合わせたが、顔なじみの住人たちが、怪訝そうに井口家のことを避けようとする。あまり関ろうとしない顔見知りの反応に、出発早々から昇は、苛立った気持ちになってしまった。


「何だよ、あのよそよそしい態度は」昇は言った。「普段は愛想よくしてくれる人たちなのに!」


「まあ、昇の特別な日だから、何事も良いと思おう」世利は言った。「とりあえず、近所から驚かれてしまったことに、落ち着こう」


「そうね、しっかり、気を取り直して、行きましょう」妙子は言った。「今日は、昇の素敵な誕生日にするんだからね」


 ン~モォ~ン~モォ~。


 明るく元気そうに鳴く牛子に、励まされる。


「もちろん、ちゃんと、分かっている」昇は言った。「今日は、僕の大事な思い出の誕生日にしようって、腹を決めたんだ!」



 井口一家は、マンションの駐車場へ、牛子を引き連れてやってきた。彼らの車種は、赤のミニバンである。車内後方のトランクの場所へ、子牛をしゃがんで座らせた。一列目の右席でハンドルを握る世利、左の助手席へ座る妙子、そして、二列目の右座席に昇が座る。全部のドアを閉め切ると、牧場の香りが、車内へ充満してきた。牛子は、出身の牧場を離れてから、まだ一日も経っていない。昇の右肩へ掛かる、ふんわりとした牛子の鼻息は、くすぐったかった。


「後ろの牛子が窮屈そうだな」昇は言った。「正直、この子が心配でたまらないんだ」


「確かに車内は、狭そうね」妙子は言った。「しばらく、彼女には、我慢してもらいましょう」


「皆、出発の用意はいいな?」世利は言った。「それでは、焼き肉店へ目指して、出発!」


 ン~モォ~モォ~モ~ゥ。


 牛子の鳴き声に合わせるように、井口家は、焼き肉店へ向けて、車を発進させた。

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