第7話 雨不足

 それから十日もの間、青年は仕事案内所の受付嬢から受け取った紙を元にして決めた日雇いの仕事をやった帰り道、ケルサの畑に顔を出しては散水の手伝いをしていた。そしてその日も、青年は仕事帰りに向かい、町中を走っていた。空は青く、辺りはまだ明るかったため軒先に明かりを灯すところは殆ど見られなかった。

 結局のところ、青年が手伝い始めても事態は好転しなかった。その間も雨は一向に降る気配が無く、土の栄養分が浸透しないせいで作物は中々育たずにいた。青年自身も力不足を感じていたが、それは仮に青年が力のある大人であっても何かが変わるとは思えなかった。本当は彼自身も分かっていたのだ。彼一人が加わったところで散水の効率が大幅に良くなる訳では無い。まして雨が降る見込みも無い。そんな状況下で彼に出来る事などたかが知れている。極端に言えば、彼が加わることに意味など無いのかもしれない、と。 

 それでも、彼は何かをしたいと思った。何かが出来ると思いたかった。高慢な態度であり続けるあの少女に恩が出来たのは、先日の山での一件に始まった事では無い。彼女には、自分を蘇らせてもらったというそれ以上無い恩がある。それが無かったら、今の彼は居ないのだ。言い換えれば、今の彼を突き動かしているのは彼女に対する感謝の気持ちに他ならない。それが彼女の意思では無いとしても、彼はそう感じていた。口には出さないものの、彼の中で日に日にその念は強くなっていた。

 同時に、彼はこう思っていた。あの少女を不幸にしてはならない、と。彼自身がそれを自覚したのは、やはり先日の広場での会話を聞いた事がきっかけだった。隣の国での黒魔術師の処刑。それは彼女の言う通り無縁な事なのかもしれない。しかし、実際に彼女と同じような力を持つ者が忌避されている。以前は彼女の話だけが判断材料だったため何処か遠い場所の話のように感じていたが、処刑の話でそれは変わった。ある意味において身近なものになってしまった。

 もしも彼女が黒魔術師だと町の人々に知れ渡ったら、彼らはどういった行動を起こすのだろう?自分はもちろん彼女はこの町に居られなくなるだろうか。この地の果ての果てまで追われて、やがて断罪されるだろうか。きっと彼女が無害だと主張しても、黒魔術師だという理由だけで非難されるのは目に見えている。それが容易に想像できた青年は、彼女の手を借りるのを躊躇ためらった。彼女に頼らずとも、自分の力でどうにかしようと改めて拳を握った。

 あれこれと考えている内に、青年は目的地の畑に到着した。そこには既に七人程の人影があった。その中に、土地の持ち主のケルサの姿があった。

「こんにちは、ケルサさん」

「おう、ルクス。お疲れさん。今日も悪いな」

 自分を労うケルサに青年は頭を深く下げてから作業に入った。少し離れた所にある井戸から水をバケツいっぱいに汲み、数人のリレー式でそれを運ぶと、その列の最後に立つ男が柄杓で水を撒く。これをひたすらに繰り返す。

 暫く作業を続けていると、いつの間にか空にはオレンジ色と黒色のグラデーションが広がり、辺りは薄暗くなっていた。町の方を見ると、軒先に蝋燭ろうそくの火を灯す所がちらほらと見えた。

「そっちはどうだ?」

 リレーに参加していたケルサが手を止める合図を出し、散水役の男に訊く。男は両手でバツ印を作る。

「ダメですね。土がすぐに乾いちまいますわ」

「そうか。……皆、今日はもうこれくらいで良い。お疲れさん」

 ケルサが手を叩くと、男達はその場に腰を下ろした。ルクスよりも早く作業に入っていた彼らは体力を使い果たしていた。

「ケルサさん、こんなのがあとどれだけ続きますか。もう限界ですよ」

 男の一人がそう言った。それに合わせるかのように、あちこちで息を吐く仕草が見られた。

「そう言われてもなあ。雨が降らねえ以上は俺達でやるしか無いだろうよ」

「水車を作るってのはどうですか?」

 別の男が提案すると、ケルサはすぐに首を横に振った。

「ダメだな。水車を作る職人と材料を手配するのに時間が掛かり過ぎる。何よりも、今の俺には経済的に苦しいのが正直なところだ」

 かく言うケルサも、皆が精一杯取り組んでくれている事は理解していた。しかし、それ以外に手立てが無かった。男達はその場で俯く。

「皆、済まねえな……」

 ケルサが謝るも、その場の空気は暗くなる一方だった。

「僕にも、出来る事があれば……」

 ルクスは歯噛みする。自分の内側に秘めていた悔しさが汗と共に滲み出てくるのが分かった。そんな時だった。




「全く、何を暗い顔をしているのかしら」

 聞き覚えのある声がして、青年は頭を上げそちらの方を向く。そこには、瀟洒な黒いドレスを身に纏った少女が腰に手を当てて立っていた。

「ベッラ……!どうして此処に!?」

 驚く青年に対し、少女はムスッとした表情を浮かべながら近づいて行く。

「それはこっちの台詞よ。ここ数日毎日帰りが妙に遅いと思ったらこんな所で油を売っていたなんてね。それで、一体どうしてここに居るのかしら?」

「それは……」

 青年は口をつぐんだ。そこに、目を丸くしたケルサが横から入って来た。

「まあ待てよ。ルクスはただ俺のとこの畑作業を手伝ってくれているだけなんだ。そんな怖い顔するなよ」

「……誰よ、この人?」

 少女は青年に問う。

「この人はケルサさん。ほら、前に話したじゃないか。フロースのお父さんだよ」

「ああこの人が。どうも、私はベッラと言うわ。どうぞよろしく」

 少女は自身のドレスの端を軽く持ち上げて挨拶をした。

「ほう、アンタがベッラか!」

 と、ケルサは何やら嬉しそうに声を大きくした。少女は思わずビクッと肩を震わせた。

「この間、ウチの娘が世話になったみたいじゃねえか。ありがとうな!」

 ケルサは少女の反応など気にせずに彼女の手を取って固い握手を交わした。

「そ、それはどうもご丁寧に……」

 対し、少女は苦笑していた。勢いのある人は苦手な様子で、ぎこちなさが現れている少女を見て青年はクスッと笑みを溢した。

「そ、そんな事より、畑仕事もしているのならどうして私に一言声を掛けなかったのかしら?」

 少女は思い出し、青年を睨みつけながら詰め寄る。

「……ちょっと言い出せなくて、さ」

 青年は申し訳ないと思いながらも、本当の理由は言い出せずにいた。

「……ふーん、そう」

 少女はそんな青年を一瞥すると、ケルサの太い手から逃れ、辺りを歩いた。付近にはバケツやたらいが大雑把に転がっていた。少女はそれらを見て、含みのある笑みを浮かべる。

「状況から察すると、どうやら畑の水不足に困っている様ね」

「そうなんだよ。ここのところずっと雨が降っていなかったからな」

 青年の複雑な心境など知る由もなく、ケルサは少女に目下の問題を伝えた。

「それなら、簡単な解決方法があるわ」

「何、どういう事だ?」

「雨を降らせればいいのよ」

 澄ました顔で言う少女に、ケルサは思わず噴き出した。

「ガハハハ、お嬢ちゃん、冗談は休み休み言いな。それが出来たら苦労しないってんだよ」

 豪快な笑い声が、夕暮れ時の静かな畑に響く。

「冗談かどうかは、その目で見てみる事ね」

 と、少女はそれに動じもせずに、右腕を空に向かって高く伸ばす。すると、手の先に幾何学模様の円が浮かび上がり、同時に彼女達の居る場所の遥か上空に、大きな同じような紋様が現れた。

「な、何だありゃあ!?」

「いいから見てなさい」

 驚きの声を上げるケルサ達を軽く制し、少女は力を込める。すると、天高く浮かぶ幾何学模様の円の中心から灰色の雲が生み出された。始めは小さなものだったが、段々とその大きさを増していき、やがて畑一帯の空を覆いつくす程になっていた。そこまで雲が成長すると、少女は掲げていた腕を降ろした。

「もう良いでしょうね」

 そう言うと、少女は地面に転がっていた盥を一つ手に取り、頭の上で逆さにして被った。その数分後、少女の頭上の盥に何かが当たり、タンと音を上げた。それは、雨粒だった。ポツポツと一定のリズムで落ちて来た後、やがて雨は本格的に降り始めた。

「雨だ……。雨だ!」

「信じられねえ、やったぞおおおおお!」

 男達は肩を組み、喜びを身体で表現していた。

「おいお嬢ちゃん、アンタ、魔術が使えたのか!?大したもんだ!」

 ケルサは再び少女と握手を試みるが、今度は軽く手を払われてしまった。

「ほら、こうした方が早かったでしょう?」

 と、少女は腰に手を当ててルクスの顔を覗き込む。

「どうして……」

「私を誰だと思っているの?これでも貴方の主でもある魔術師よ。こんなものは朝飯前だわ。いえ、今は夕飯前かしらね」

 少女は青年の返しを誘ったが、彼は言葉を発する事なく俯くだけだった。そこで少女は青年の更に傍に近寄った。

「もしかして、私が処刑されると思って怖くて言い出せなかったのかしら?」

 耳元で囁かれ、青年は身体を震わせる。

「な、何でそれを……!?」

「やっぱりね。如何にも貴方が考えそうな事だわ」

 少女はフッと一息吐くと再び不敵な笑みを溢した。

「隣の国で黒魔術師が処刑されたというのは、その魔術師が貴族を呪殺した大罪人だからよ。一介の黒魔術師のする事なんて、本来はそこまでされるに至らないの。私もそう。貴方を蘇らせたのは確かにこの世の禁忌に触れる行為よ。でも、それで誰かに迷惑を掛けている訳では無いでしょう。それなら、私が断罪される謂れは無いわよね」

「そ、それはそうだけど……」

「分かっているわ」

 青年が口を開こうとしたところ、少女は彼の唇に自身の人差し指を添えて制した。

「貴方の事だもの。きっと、悪い事をしていなくても黒魔術師だという理由だけで私が糾弾されてしまうんじゃないか、なんて思ったんでしょうけれど、お生憎様。この程度の事なんて黒魔術師じゃなくても出来る魔術師も居るのよ。だから、高々雨を降らせただけでは私が黒魔術師だと断定出来る材料にはならないわ。安心しなさい」

 そこまで言われ、青年は少し恥ずかしくなり再び俯いた。まるで心を直接覗かれているかのように、彼の考えは見透かされていたのだった。

「それでも、もしもその時が来たら……」

「全く、貴方は相変わらず心配性ね。一度死んでも変わらないとは思わなかったけれど」

 少女は自分の人差し指を今度は自身の唇の下部に当てて言った。

「その時は、貴方が私を守りなさい。これは命令よ」

「……分かったよ」

 青年はため息混じりに答えた。普段と変わらない少女の態度に、青年は安心感を抱いた。いや、彼女のその仕草はむしろ彼には魅力的に見えていた。

「おうおう、何だか良い雰囲気じゃねえかお二人さんよお」

 そこにケルサが横から入ってきた。彼は青年と少女と肩を組み、強引に男達の方へと二人を連れて行く。それまでと打って変わって、明らかに上機嫌だというのが青年には分かった。

「皆、感謝の気持ちが足りねえんじゃねえか!?二人に盛大な拍手を頼むぜ!」

 ケルサの言葉を皮切りに、男達が指笛を鳴らしたり大きな音を立てて拍手をしたりした。二人は気恥ずかしそうに下を向く。

「たまにはこういう賑やかなのも良いだろう?」

 青年が小声で言うと、少女は首をゆっくりと横に振りながら、

「いいえ、御免だわ」

 と、短く言った。その言葉とは裏腹に、少女は静かに口元を綻ばせていた。

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